第16話  黄泉比良坂

文字数 38,144文字

      ♪恋の終わりは、いつもいつも〜、立ち去るものだけが、美しい〜
       残されて戸惑うものたちは〜、追いかけて、焦がれて、泣き狂う〜♪
            中島みゆき作詞作曲 「わかれうた」より




さて、そろそろ落ち着いてきた頃合いなのでアノ映画の完結編を見始めてる。当然な話として③やる為に。でも拒絶反応がきつくってさ〜それが出まくりで、も〜ぶつ切りにしながらじゃないと観れないんだ‥。年食った性でもあるんだけんどねー。シンジがヴンダーに乗り込むところまでやっと来た。そんであのジオラマの、セブンのパクリまできた。そんでミサトさんが死んでもたるのところまで…。(追記:とうとう全部観た)。「あかんわ…あれ…」。

そんでそこまで観て思ったことは「春が長すぎたんだ…」だった。もういろいろとかってのあれやこれやにおいての、その対象やテーマに向けてのおいての拘りやら関心/情熱ってのが、失われてしまったんだろな〜って思ったことだ。それらはもう既に完全に気化し、そして蒸発してしまってござるなんやろな〜…。先の表現は男女の関係を指してのものになる。密なる関係を築いたるはいいが、結婚たるゴールをあまりにも長く先延ばしにしてしまったが為に、その愛は変質を迎えてしまい、もうお互いに、その結末へとは向かえなくなってしまうことのたとえ。

だから、ある意味、彼は既にリングの外に出てしまってて、彼があの最終章でやったことと言えば、後始末、けじめのとり方でしてのものでしかなかったのではないのか?と個人的には思ってしまうんです。もう一つ個人的に思うのは「然もありなん…」でしかなかった。だってあれってメチャクチャな作品なんだから〜〜〜!。簡単に言えば、自分の好きなことやる為に自分の好きなもの”全部”ブッ込んでみましたー的な作品。そんなに深くには本心としては関係してない、あまり関心ない、もう分かんない領域においてでさえ、そこでの内容をイメージだけで、感覚だけで、捌いてみせましたーかな?。自覚はないんだろうけど完璧にソフィスト(詭弁家)にして自己欺瞞に堕ちてる…。←これはね〜嘘や誤魔化し手抜き悪手ってのは、あとあと、そうした事においての反動ってやつが、やがてには、自分にその本人に返ってきてしまうもんなんだ。やっぱ、なんてったって、自分ってやつだけはごまかせないからね〜。自分がそのことにやがてには耐えられなくってくるんだ。すると...その辛うじて神がお備へ下さっている絶対庇護守護領域からの

離脱たる現象が起こってき〜てっ…そして然るべくのその後の後には、とうとう遂に!真のアジャパーと呼ぶるにたるる〜

へと〜〜〜...(断)。

*この辺は経験者は語るってことで平にお許しを〜…。いえらい、いえらい、いえらい…。

そういうヒトが基本、原作脚本なんかやってはならないんだ。
彼の不幸は…いや、コレは言わないでおこう…。

   ここで差し込みをもって、一つの絶対前提たるを述べておく!。
   「ヒトが

のは、

触れたとき

なのだ」。

   それが思い遣りやであり、また勇気、そして愛からの行動それの発露なのだ!。

ただ嗅覚センスだけは驚くべきものがあり、どうしても秘教的なものへの接近が肉薄が避けられないようになってたようだ。ある意味あの永井豪と似てる。でも彼処までの憑依はなかった、起こらなかった。メカオタクとしての映像表現への拘りがブレーキになってくれてたんだろね?。いや…じっくり消化することなく、あくまでも表現としてのこだわりの方に走った。それも急ぎ慌ただしくも軽薄なるのそのマナーにて…。他に情熱傾けてやれること、やりたいことがなかったってのが問題。これはオタク全般に言えること…。自分も含めてだけどね♡!。ある種の社会化に向けてのプログラムが、真の人間/現実理解をもってしての教育ってやつが、今の時代においては決定的に”不在”なのだ…。要は「ほったらかし」でしかない…。

③はやはり「禁断の惑星」の延長線上において語りたいと思う。そうするとそこで割愛されてしまうのが「綾波レイ」だ。これもまた彼が

異常なるまでに表現において拘りをもっていたキャラクターになる。既に彼女のイメージにおいてやりたいことは全部やってしまったのであろうと自分には思われる。そうなると…あの綾波レイたるキャラが一体何であったのかがもう完全に失われてしまうこととなるではないか…。それは大変もったいないので自分があれが持つコードの情報整理をさせていただきたく思います。

ただし、あのシリーズ、あの作中設定においてのものではない。起源とそのイメージの変遷において語るをもって、どうしてあのキャラが結ばれてあったのかをお伝えできればな〜と思うばかりなのです。あの作者もまた間違いなく、幼い頃にその起源としてのイメージと、それを改めて変遷変奏されたものを感受して、つまりは読んだ、観たはずなのだ。


それは起源としてはこれ…



そして決定的な、これの変奏としての作品は、これなのです。



        つまりは…


      ワンダースリー



設定におけるこの三体は、実はダミーで、実際のこれら三人三つは、感情、肉体、アニマとして色濃くしての知性。つまりは

一人の女性!。設定では、その正体は異星人、もしくは、正しくは、天界から訪れたるの天使…。なんだけどー、本当は、既に天国に召されたるの、其処への入場が、生前におけるその清き生き方において適った一人の女性なんだ…。そこで天使化、天使的存在にもうなってる…。そして、彼女は、かっての地上におけるその人生において、一人の男性に、本当に、その心の奥底から、真心において、真実愛し、愛されてあったのだ…。


       その女性…

彼女は

を潜り抜けるをもって、その彼の元に、

帰ってくるのだ!。


この二作には連続性、関連がある。このことは、あくまで偶然であろう…。

そして、一応、ことのジレンマたるもの、解き難くしてあった起源におけるあの難問は、ワンダースリーにおいて、もう涙が止まらなくなるほどまでに感動的な解決を迎えることとなるのです。

それを、それを、それを…もう〜もう〜もう〜…改めて元へと、巻き戻してしまいやがって。

あの男は...

彼、自らが好む、そして選んだその顛末は、斜がかった極端に悪趣味にして悲劇的なるものだった。なんだろう…禍々しいものへの偏執偏好があるのかね?タレちゃんや美樹ちゃんのことが頭に張り付いてしまっててもうどうしようもなくそっちの方に引っ張られてしまうのだろうか?。

*これぞ正しくトラウマたるものによってのその呪縛ってことになる。

でも、永井と同じことしてどうすんのん?。

まっいい…。


本稿は、前述の二作において少し自分なりに整理して、改めて皆様にご紹介すべくしてのものになります。うまく行けは、綾波レイにおいてトラウマを負われた方々におかれましては、それを解消できるするべくしての処方箋になるやも知れません。


   敬 具。


だらだらだら男こと天村


実際のその内容はまだこれから…。




あの彼と自分は同いどし(S37)。同学年。育った環境、その場所はえらく違うんだけどね。
だから同じ時間流においてほぼ同じものを幼いときに観てる。読んできているはず。

自分はね〜真正面から健全なる解決救いに向けて〜しか認めないんだ。
だって、誰にしたっておいたって、悲しい結末は、現実においては避けたいよねーーー。

しかしだ、これぞ、これこそが、最も難しい話ではある。何故ならば〜、それは自力をもってしての到達、それにおいてでの達成がないことには、何も語り得ない作り得ない話しなのだから…。絶対に他所から、他人の言葉話しから持ってくることなどは出来ないんだーー!。

ことの核心はだ、あの禁断の惑星においてテーマとして定められてあった、あのらのアポリア(難問)を、実際の生活、その現場にて解けてなくちゃならないんだ。その現実としての状況は、各自それぞてにおいてまったく違っているだろう。だが、根本としての解決の鍵はまったく同じものになる。愛を胸においての勇気!。「皆を活かさんとして、この自らは捨てる、明け渡す」ってことなんだ。ことは、あのマリア様やイエスと、またヨハネなんかと同じことになるんだ。そして、そのことの結末は、神たるものにお任せにする。だが、不思議と、その彼は、そういった人間をがっかりさせるような、見捨てるような真似は、そんな展開には絶対にしないんだ…。


コラム:

ところで読者の皆さんは「おもこ」って知ってます?。これは思い込みのことなのです。
例えば、あの有名な野球漫画のアニメ、巨人の星ってのにおいては、そのOPの出だしは
「思い込んだら、試練の道をーーーー行くが〜男のー ど根性を〜」となっている。
これを、音だけ聞いてその意味を考えると変な解釈もありえてきてしまう。

つまりはこんなの…「重いコンダラ」だと。そしたらば、今度は、「コンダラって何?」ってなるわけだけど丁度画面上ではローラーを主人公が引いているので、きっと野球の世界ではローラーのことをコンダラって呼ぶんだ〜などと勝手に理解してしまうのだ。



こういった勝手に見当違いにて、

のことを「おもこ」もしくは「おもこしてる(しと)」って呼ぶんだ。その昔、糸井重里氏なる有名なコピーライタの方がいらっしゃって、宝島なる雑誌にてこれに関しての投稿欄を担当されていたんだ。この星飛雄馬回に関してはその投稿者は女の子だっと思う、もう伝説見たくなっているようで四十年近くを経た今でもネット上にてたくさん語られてしまっている。この画像も簡単に手に入った事に自分は驚いてしまってた。

でっ何を言いたいのかと云うと〜「おもこで何が悪いんや〜」「それのどこがいったいあかんのですか〜?」(ここは山ちゃんのパロディ)ってことにはなるんだ…。以降というか、コレまでのすべてというか〜基本自分の言っていることはつまるところ主観なんです。強というか絶対的にして超絶的なるまでの主観にして独善。(ただし自分としては疑い得ないものとしての主観)もうバリバリの超ウルトラ級の「おもこ」なんです〜…。それでずっとやらせてき〜てーもろ〜てますー(サ)。

今回の、その内容たるものは、あのジェニーの肖像とその作者に関してになる。ことは自分の中で再構成されたるのその物語であるし、勝手な思い込みとしての作者に関しての「読み」なのである。あの作品は数度は読んだとも思うのだが、既に自分の中では違った物語と変質してしまっていると思うんだ。そして、またその自分の勝手な解釈加工においてを元に、その作者たる方に関してもこうだああだを決めつけを行っているんだ。ええいッ、こんなところで時間つぶしている場合ではない!。つまりはだ、読者の皆さんとされましては原作をちゃんと読むか、Wikiにてしっかりと前知識、つまりは粗筋等を確認しといてくださいね〜ってことなんだ。じゃないと〜私めの勝手な妄想に染められてしまって、その原作とは違った、全く別の読み物に関しての話しを聞かされてしまうことになってしまう。これは、ここは、一つの忠告として聞いといてやって下さいね〜だ…。敬具


Re: 純愛。

副題として「ジェニーの肖像」ということになる...。

先程の「オモコ」に話しを戻すなら、自分の中の記憶におけるワンダースリーのその最終回と、実際のものとでは違いがあったのだ。わざわざデイリーモーション(あれってフランスにあるサーバのものだっけ?)にまで視聴に行って唖然としてしまっていたのだ。「違う...」って。

いや、ほぼ同じなんだ。だけど〜その演出においては違っているんだ…。自分の記憶の中のもののほうがはるかに優れてる。余韻が起こるべくしての演出が事細やかになってる!。ここが面白いところ。後にその記憶は再加工がなされてしまうこととなるのだ!。とにかく、観たり聞いたり読んだりしたことに関してのその記憶は、そのままの”フラット(Flat)”って訳にはいかないんだろね〜。当然にそのことが良い場合もあるし悪いケースとなってしまうこともあるだろう…。

これより語るその「ジェニーの肖像」なる作品、またその作者たる「ロバート・ネイサン」においてもことは同じくなってしまっているのは間違いのない話しであろう。自分としては今更裏を取りにあれこれ調べる気はないのだ。悪いがもう自分の頭の中ものけで行ってしまう!。だから〜「ご注意を!」っと。


さてっと、あの作品は何なのか?

あれは「純愛小説」たるものでしかない。

純粋な思いにて誰かを好きになってしまった。
愛してしまった。ことの芽生えは、その記録者が幼い頃に始まってた…。

もうなんだろ〜その最初は、出会いの始まりにておいては仄かなる自覚としてのものでしかなかったのであろうが、その彼には既に彼女は自分にとっての運命の人であることがその最初から分かってた。でもその彼女とは結局結ばれないんだ。何故って、その女性が若くして死んでしまうからなのだ。事故でね…。その事があってから初めて彼は気がつく。その女性がどれほどまでに自分にとって決定的なるまでに重要な存在であったことかを!。ことにおけるその喪失感は余りにも大きく、返ってもうその彼女のことが忘れられなくなってしまったのだ。そして、彼は、既に亡きその女性を求めて、呪法を、無自覚にも使いだしてしまうのだ!。それがあの小説たるものの成立においてのその秘密!。ことは、その創作は、死後の世界から黄泉の国から「その女性を呼び戻す」に限りなく等しい行為になる。


コラム:
キーワードは「幼馴染」。幼き頃、身近にいた誰かへの思慕慕情。純粋にしてなる好意。
これは男女を問わず然るべくして整ってしまっている

出会いなになる。
それを”初恋”って呼ぶ人もいるだろうが自分としての考えにおいてはそれにはならない。

先もってしての天国の味わいになる。それでしかないもの。
この世に生まれきたすべての人に備えられたるの贈与。
真に幸運にして祝福されてある出会い、または邂逅。

これは誰によって引き起こされたるのものになるのか?。神様によってだよ...。

何故かとてもしっくりくる。嬉しくって楽しくって、ただただもう大好きになっている。
いつのまにか、気づかぬその内に、彼は/彼女は、側にいた。
そして、一緒になって遊んでた。

でも、どうしたものか、いつのまにかその彼は彼女はいなくなってしまってた。

たぶん、引っ越しでもしてしまってたのだろう…。

それは自分にとって至極幼い頃のできごとなので、あまり詳しいことは覚えてはいない。
だが、いつになっても、いくつになっても、その人のことを忘れることはない。できやしない。
あの楽しいと幸せと思った経験が思いでが深みより立ち昇り現れてきてしまってる。

あの頃にはさしたる自覚はなかったのだが、自分は、その女の子を/その男の子を、
既に出会った直後からその最初からもう完璧なまでに愛してしまっていたのだ…。

この世に生きるにおいて生きてゆくにおいて、何を求め探すのかのヒントとなるように、
手がかりとすべきものとして、指標とされるべきものとして…。

それは十全なる信頼関係に基づいてある”愛”。

それは、この世の現実においては成立しがたきものではある。

あまりに清く健全また円満にして、また儚く脆い”色”とでしか成り立たないものなのだから…。

基本、現世においてはそれは成立し得ないものになる。

現実においては夢物語としでしかありえない。

だがそれは、そのひとときにおいては、確かに、間違いなく成立していたのだ。

これもまた確かなることではある。あれは絶対に夢物語なんかではなかった。

現実のリアルとしてのものだった。

そして、後には、その関係が失われてしまったからこそ、返って、深くに、いやもう
狂おしいまでに、その彼の/彼女の再帰を、願ってしまう、求めてしまうこととなる…。

かってあった黄金の日日。気づかぬ内に失われてしまってて、
すべてはときの彼方に埋没したままで、土台取り返すことなど不可能なのだ。

かってかくいう自分にもそういった存在が一人いた。女の子。名前は”むっちゃん”。大層愛らしい顔つきの娘であったと記憶する。名字も正確な名前も自分は知らない。覚えちゃいない。小2の頃の記憶でしかない。たぶん小学校入学時に同じクラスだったのだろう。小1小2はクラスは持ち上がりなのだから。でも小2のときことしか覚えていない。定例のくだりってのがあって、自分が彼女にちょっかい出す。からかう?。すると彼女が自分を追いかけてくる。その鬼ごっこが楽しくって楽しくって。自分は嬉しさゆえに大笑いしながら逃げてる…。だから、愚かにもその彼女の行くへ行く末にかんしては逃すことになってしまっていたのだろう…。何故か彼女の団地にまで自分はあがっている。彼女のおばあさんが「おはぎ」をごちそうしてくれてた。暗き部屋であったこと、そして、そのご高齢のご婦人が、とても親切で嫋やか思い遣りある態度で人に接してくれていたとの印象を自分は持ってた。その娘は、自分の生活圏の中からは、いつのまにか、消えてしまっていたのだ…。

いまもって自分の中に、その娘への思慕/慕情/側に居て欲しいといった飢えが存在する。ときの彼方の、幼き頃の思いであるがゆえに、かえってその娘の存在は確たるものとして残ってしまってる。同いどしで同級生あったことも大きい。そして、彼女以外に、自分は、歳近くとしての異性とは、親しくなるこれまでに全く一度もなかったのだから。これは主がそのようにされてる。間違いなく...。一つ何かあるならば、また何か一つが失われる。その道は独りで往かねばならない。だからそれでそうであったくれてよかった。

この辺の自分の思いをネイサンに投げかけて、
作者たる彼と、その作品を、解釈してみたく思います。


天界においてともなれば、最早そこでは其処に至ってからはもう誰も嫁ぐことも娶ることもないんだって。個としてたぶん雌雄同体。アンドロギュヌス状態ってことになるんだろうかね〜?。
アニマ+アニムスの調和体。いやもっと、ぞんざいに、ざっくばらんに語るなら、たぶん、一なるものの内にあって、もう同体みたいなもんになっちゃってるんだろうね。体を構成するその一細胞みたいなもんにさ…。



Re: ジェニー

これは最初に出会ったころのジェニー…。
同いどし。同じ学校、同じクラスだった。
とにかくなんでもとにかくよく喋る、このボクに向かってなんだが、女の子だった。
そしてまた、彼女はよく笑い、そしてよく怒ってた。
なぜなんだろう...僕ら二人はいつも一緒にいた。
学校で、クラスのないときには…。



どうしてそうなっていたのか僕にはわからない。もう思い出せない。
からかって、怒らせて、「待て〜待て〜」言わせて、
その娘から逃げるのが僕の楽しみだった。
そうしてる間、それが始まった途端、
僕も、こころの底から、笑い声を思いっきり上げてたものさ。
ありゃ〜喜んでたんだ…。その娘に追いかけられることに…。
それがあの娘との逢瀬だったんだ...



彼女とは学年のどこかで離れ離れになった。
お互いだんだん成長してゆくに伴って交わる機会は極端に減っていった。
でも未だ生活圏は同じなので偶に見かけることはあるにはあった。



彼女はとても魅力的な少女になってった。
…聡明で、利発で、愛くるしくって、品の良い。
噂でなんかでも、そうした評判は、
あまり関わりのないボクの耳にも聞こえてきたものさ…



偶にダウンタウンなんかでパタリと会うってこともあるにはあった。でもお互い家族と一緒だし、妙な照れもあったことから、ろくに話もできなった…。僕はどうしたものが、どんどんとシャイになってゆく。もうどうしても異性として意識してしまうからなのかもしれない…。

そしてある時を境に、彼女に接することはパタリとなくなってしまう。
なぜって、彼女が何処か遠くにある有名な女学院に入学してしまったからだ。
そう、それは15か16,とにかく18歳になるよりも前のことだ
それはもうビックリするぐらい頭が良くなくっちゃ入れないところ。
僕はこのことを大部たってから、後になって、人づてに聞く…。

ここに大きなときの空白地帯たるものが生まれる。
僕は僕でいろいろと、進学のこと、友達との付き合い等のことで、忙しくなっていってたので、彼女のことはもうかなり長くに、完璧に、忘れ去られていた。


ところが、そう僕が大学4年のときだ、彼女が亡くなったってことを知ったのは。
これもまた人づてにての訃報であったわけなのだが。
このことに僕のこころはえらくダメージを受けてしまってた。
もうそれはとんでもないほどに、信じられないぐらい…。
長くに渡って遠く隔たってたってのにー!。

あのジェニーが死んだ…。

もう二度と再び、あの娘とは会えないだって?。

そんなばかな!。



これらの写真は後日の彼女のご実家を訪問した折に無理言ってもらったものだ。ご両親は未だ同じ町に住まいされている。お悔やみをお伝えにいったときに彼女の生前の写真を見せてくださったのだ。「コピーで結構ですので」と申し出て、それらの幾枚かを焼き回したものになる。どうしても彼女の痕跡を手元に留めておきたかったのだ。

彼女の死因は事故だった。不慮の事故…。

これら手元にある写真を観ても彼女が死ぬことになるなどまったくありえないことのように思える。昔と変わらずして、まさにあの娘が美しく成人した形でそこにいた!。ここのどこに、そんな残酷な顛末を思うこと観ることができるであろうか....。

後に、それもかなりの月日がたってから、私は一遍の小説の作成をもって、彼女への真の告別とするべく、自分のこころの奥ぞこに、未だ狂おしくも悩ましいまこの思いを、乱れ渦巻いて幾度もなくたかまりをみせる、彼女へのその隠されたあった愛を表すことを決意する。これは自分の為に、思いとしての決着をつけるべく、そして、それと同時に、亡き彼女にむけての手向けとなることを願っての創作になるであろう…。

そう、タイトルは、【Portrait of Jennie】、これ以外にはもう絶対にありえない...。


Re: 解説

っと云うことで〜、作者はジェニーとの

過去に遡って、その最初からやり直すんだ。その彼の創作の小説世界において。つまりは空想の世界においてだ。だから、その最初の出会いでは彼女は幼い少女となってる。そんで、その謎の女性との逢瀬は、以降重ねられてゆくのだが、その度に彼女だけが異常な速さで成長を遂げてゆくことになる。

当然な話として、作中における作者である主人公にとって彼女は初見としてある。だが、なぜかどうしたものか、こころ揺り動かされ、どうしようもなく魅せられててしまう存在なのだ…。

この辺のプロットが斬新なるものとしてあった。歴史上にこの作品はSFだとか幻想小説だとか呼ばれてその名を残すことになった。ある意味、これはルール違反としての小説だ。だって作者たる彼の思考操作によってのみなしうる自己暗示の世界内の出来事なんだもん。この作業は、彼が彼自身のこころにおけるその特別なる喪失感を癒やす為の呪法/作法になる。ことの現実を何余すことなくキレイに治めるためには、こういった面倒くさい作業ってもんも必要にはなってくるんだ。たぶんネイサンはタイプ4だろうね...。

この作品が真に名作とならしめているのは、ネイサンが本当にジェニーを愛していたことにある。それも真に純粋な思いとして。また、結末のその悲劇としての現実を改変せず、真正面から最後受け止めていること。誠実にして、いたくオールドファッションドマンだ。非常に珍しい。ジャニーとの逢瀬において、一度だけ、お互いに愛においての交合を果たしうる機会はあるにはあった。だがネイサンはこれをアパートの大家の乱入によって阻んでしまう。なぜか?、二人の愛においては、肉体次元のセックスは余計だからだ。既に亡くなってしまっているからこそ余計そういった要素は取り除きたかった。なんて、なんて、繊細にしてナイーブなその感受性であることか!。その言語、その物語構成に至るまですべてにそのことが現れてる!!。

くどいが、ハッキリと、もう一度言っておきたい。ネイサンは正しい。真の勇気をもって、ことの結末を、その現実を、まったくのそのまま、真実において再現し、そしてそのままにて受け止めをいったのだから。彼にとって、救いはないが、彼女を愛する思いにおいては、どうしてもそれを改めて追体験、追確認しておきたかったのだろう。そうせずには、とにかくいられなかった…。

ことはあくまで記憶の思い出の反芻なのだ。丁寧に愛を惜別を込めて、最初から彼女との逢瀬をやりなおしたかった。場合によっては、願いとしての自分のかってな妄想としての内容であってさえ構わないではないか〜!。ネイサン自身の確信として、彼女は間違いなく自分の魂におけるパートナーとして、正確な表現としては”身内”として、登場してきていたのだ。おそらくは前世において既に、もう何度も何度も…。妻として、娘として、母として、姉として、妹として…。そういった特別な存在だった。

こういったことは失って初めて気づくことになるのかも知れない。そういった、間違いなくそういった形に帰結する、すべき出来事なのだ…。彼は以降も間違いなくジェニーの代替となる女性を探す。求める。だが、決して、それとの出会いは今生においてはもうないんだ。この飢えをもってこそヒトは赤の他人を他人として初めて愛せるようになるのかも知れない。また天国への憧憬渇望を掻き立てられるようなってしまうのかも知れない。



Re: 反魂の術 *二題ほどインターリュードとして…。

すべては男側の、男さんにおける、その未練によるもの。

切ないまでもこのこころに魂に焼き付きたるの記憶においてのその執着。

去りしものを力づくをもってしても取り戻さんとするその道を外れたるところの所業。

だが、その思いが強ければ、世界は、それなりに、取り敢えず、反映たるを返してくれる
こととはなる。

ことは

神としての、そのヒトたる存在が持つ与えられたるの能力に依りて。

ことはそれなりに、そのモノの出来上がりに相応しくして叶えられようぞ…。

だが、こころしておかれよ!

かの存在は、その器としての肉体は、遠に、既に、腐れ果ててしまっており、
耐え難きまでの悪臭放つ、汚らわしき虫、無数に湧いて出て、それらが臥所とする
極悪なる状態と成り変わって、成り果てておることだけは!。

魂魄

この世に復帰するは、断じて叶わじ、許されぬことなり。

ならばだ…何をまとって、なにをもってして、そちらへ、こちらへとは渡ろうか?。

死をまといての他に道は、術は、あるまい…。



    誰ぞ、眠っていた妾を起こすのは?…誰ぞ?誰ぞ?誰ぞ?…
             ヲヲ〜!我は、汝を、確かに知っている、憶えておるぞよ…。



Re:  黄泉比良坂(よもつひらさか)

そうして、この世にてはもうありえぬ、あってはならぬ者たちが往来してくることとなる。
それは呼ばれてこそのものなり…。

(わらわ)の名を呼ぶのは(たれ)ぞ?!」



「我が眠りを妨げしもの破りたるものとは誰ぞ?!」



「然程までに、かくなる程までに、求められ、恋われたなれば、行かずばなるまいて…」



「いざ参らん汝が元へと...。この身のままで、そのままにて…。」



   ここを潜りてあちらから現れ出たくるハ誰ぞや?



    女が一人、どこぞよりか滲み現れいでたる。



そしてその門を出る前に上着を、青の襦袢を一枚脱いで捨てた。



それはヒトなるか、それとも亡者なりけるや?!。



いずれにしてもこの世に留まること、決して叶わざりしものなり...。



それは死者。死の国そのもの。この生者の世界にはあってはならぬ存在。



生きたるのふりをしていたとて腐臭がひどい!
蛆の蠢ひておるのその騒がしき音が隠し難くして漏れ聞こえておるわい!。



在らば、それは自ら求めずして祟り神と化さん。
何故ならば、己が醜女たるを、公にて広く知られ、暴かれることとなるのだから。
其ハ、おなごにとって、耐え難くしての恥辱なり…。



祓い給え、清め給え、死者の国におきての、その汚れたるを、
天つ罪、国つ罪、すべてまとめて一切を、根絶しにして、清め給え、祓い給え…。

これに天使の、上位界に所属する者のコードたる羽根を与えることこそが、
アベコベ、逆さま、顛倒、倒錯、逆転としての事態なのだ!。
堕天使らはまた別。イザナミは人間の格にて死したるの単なる女性。

死者を人工的にて科学の力によって生きた状態に戻す。これが綾波レイ。これは未だ心情的には許せるのだが、土台、背理として無理としてのその存在としかならない。よって間違いなく何処かで崩れ去る。それも周りの誰それ、いや一切を巻き込んでだ。それが悲劇なのはその死者たる存在はどんな形であったって生者の世界、生きてるみんなと一緒にいたいからなのだ。本能的にも偽りの生であったとしてもそれにしがみついてしまう。このことが周りまでもがその崩壊に引き込まれてしまうことの原因なのだ...。

絶対に許せないのは、神をも人工的に創り出せる、制御できると夢想したるのこと。完璧に辻褄が合わなくなる。物語としての前提、その理が完璧に破綻してしまう...。これはもう必然なのだ。ヒトなんかにおいてはもう何もどうこうできる訳がないのだ。一部一厘たりとても…。精神薄弱児、害児によっての発想でしかないな。一言で言えば本末転倒としての物語の構築。もしかしたらサタニストなんかも知れない。お金と名誉によって狂わされた?。結果、逆鱗に触れてとんでもないことになるのが関の山。部たるものを、やはりなんぼ創作ったって〜、弁えないと…。単なる馬鹿の二文字で、誰かに片付けられることとなる。…いや、チョット待てよ〜アスカがその為の布石、待機要員だったのではないのか!?。きっとそうだ!。そうに違いない!!。イデオンと違ってあの作品の中に神はいない。まったく関与してないんだ。あの世界内にいるのは...関与してるのは、ルシ○ァーとアー○マンと○タンのみ。*追記:それもかなり程度のうっすいレベルでの関与。そう言うなれば、デビルマン以降に描かれたデビルマンレディーみないなものでしかない。たぶん、もう直接的には御大は離れ去ってしまってる…。派手派手しいCG等による演出はあっても、キレも洗練も生々しさも、真に創造的なるものはなにもなかった。*最初の出だしにおけるマリが操るところのEVA8号機による空中戦だけは第一級品の映像表現であったと言えるが。でもそれもあそこだけの話なのだ…。「これって詐欺じゃん」と自分には思えた訳さ。たぶんここの構成演出やった人は、もう本体においては一切関わっていなかったものと推測される。まっとにかくにも、本作の観客動員数に関しては、御三家はたいへん満足されてたと思うよ...。

人々のその熱狂ぶりに興奮に関心の高まりに、偶像崇拝、アイドル崇拝たるものの真実なるを、誰かは観る。観てたっと。私めは通報者としての役目、その役割もあるからねっ!。「大将!今の日本人って、老若男女取り混ぜて、も〜ことごとく全員、アホ丸出しで、むしろそれたるのを生き甲斐として生存してはりますよーーー!」ってね。これ冗談ね。「ゴースンサンダーたるものをちっとばかし数は多いかもしれしませんが、ピンポイントにて、打ち込んだっておくれやす〜!」ってな...。これもまた冗談よ!。


Re: コラム

イザナギとイザナミ、そして、エウリュディケとオルフェウス。
どうしたものか、神話においてこの手の話しは必定となっている。もう定番。
何故だ?
元々の話し、原初の昔、昔々の大昔は、つまりは神代ってことになるのだが、その神話の時代においては、夫婦の結びつきってやつは、それはそれは強力なものだったのだろう。これも何故そうなるのかというと〜…いや、これは皆さんが想像力を働かせて考えてみるのがいい…。環境がまるで違ってる。恐ろしいこと恐ろしいものがわんさとあった。出産においての母子揃っての自死ってのも〜あったりまえのようにしてありえてた…。たぶん氏が身近であったころから人と人身内にとしての結びつきは、そこに備わってあった情ってものは深きものであったのだろう…。

だから「死にました「亡くなりました」で「じゃあ次の新しいのを」ってことにには心情的にはならなかったのじゃないかな〜?。未練、愛惜、惜別、恋ひて飢える、あの体の温もりを、あの存在と共にあり得たことの喜び満足平安を…。

兎にも角にも男女の結びつきが”タイト”だった。相手への情が濃かった。
我が身と一体と思うまでの関係の深さだった。ときとその環境において、そうであり得た!。

でっ、一人残った伴侶は、これは男(夫)

との限定になってしまうだが、(女性はその移ろいに関してはまさに自然の如くあれる)、その死後の世界に旅たった相手を取り戻そうすんだ。もうどうしようもなくそれを恋い願って求めてしまうようなる。強情なんよ!。これは暴挙も暴挙、無理も無理なる、理を外れた行いになる。

でっ、なにするかと云うと…もう言わないでおきましょうか?。

墓を暴いてしまう。開けてしまうんだ。

すると、そこで対面するのはもうかってのあの美しく愛おしく思っていたそのヒトではないんだ。姿形はおぞましくも醜く悪臭放つその死者としての存在に変わってしまっている…。

ここにあるのが正しく【死】なんだ。【死】そのもの。我々生きるものにとって、この【死】たるものが定められして、もうまったく、完璧に、覆し難きものとして眼前には横たわっている。これはまったき厳正にして厳密なる事実。だが、生きている間に、これを直視するものは実は誰もいない...。恐ろしがあまり目を背けて意識からはそれを除外する。

それは生者等にとっては”彼岸”になる。未知なる世界。関わりのない世界…。

ここにある現実、ここにある矛盾軋轢を解消するべくマインドが、その特異なる機能を発揮することとなる。訳のわからん帳尻合わせとしての、あくまで観念によってしての方便、方術、術式、魔術理論たるものを作り出してしまうのさ。手前にとっていらぬ認め難き部分を削り落として、それらはご丁寧なるマナーにおいて封印抑圧して、自分に都合のいいようにだけ改竄してしまう。…場合によっては誰か他人を供犠として殺すってのをもって、その彼女のその王の蘇りにおいての帳尻合わせができるなんて、夢想して、そんで実際にそれを行ってしまう…。人類は基本、愚かにしてバカなんだ…。だが、その単純さの向こう側にある種、リアルな本質が潜んでいることも又事実ではある…。交換こそが、ことの核心って意味ではね...。

そちら側に渡ったものを連れかえすともなれば、それはヒトの身たれば部を弁えぬ行いになる。それは完全なる神においてのみ許さる行為。であるがゆえに禁忌も禁忌、道を違えたるの行いに等しくもなる。もしそれでも、それを為さんとすならば、この生者の世界に【死】たるものが侵入してくることとならん。未知なるを混沌としてあるものを制御できるはずがないのだ…。ことは間違いなく生きて生あるもの、そのすべてにとっての災厄、大災となるらん。ことはずばり天津罪としてのもの、それとして…果たされん…。

生者の世界にその死者が紛れ込むことによって、それを前例、触媒、きっかけとして、やがてには、死たるものが枷を切って、そこに厳格に据えてあった敷居を跨いで、一挙に大量に、もはや何人たりとて留めおくことができないほどに、それそのままに、なだれ込んでくることとなる。

この辺が、エヴァを念頭に置いて語っているのは云うまでもない…。

なにをやってくれとんのや〜、あの男は…。

行くなら、逝きたいのなら、独りで行けよー!って自分としては思うんだが…。

無自覚にも自身の周りを、それにお金出して見に来てくれている観客を、
道連れにしようとしてる。


そういった対象は今の時代にはいないって。ことは単なる観念。夢物語。男の思い込み。だが、その虚でしかないものにおいてでさえ、その思いが願いが行為によって練られたならば、その実状に相応しくして、そうであるが故になおさら、反応するなにかが、きっとあなたの力になってくれることなるであろう。そうであるあなたであるからこそ、身近に寄り添って包んで包んでくれることとなるであろう…。ゆくゆくには、地獄で、そのいるのかいないのか分からんその彼女たるものに間違いなく合わせてくれる

しれない…。


Re: 情報提供



冬祭り (1981年) - 秦 恒平

この辺のかって身内と呼ぶまでに親しくなった女性が死して後に再び自分の生活圏内に黄泉帰ってくる。それも自分との間に生まれた娘が先行的に登場する。そしてその彼女自身までもが…。この二人は非在としての存在になる。そして話の成り行きおいてやがてにはその二人と交合までもを、この主人公は果すのだ!。かって自分が付き合ったことのある女性は、この作者のことをずるい男と評していたな。これもまた自分の愛蔵の書の一つになる。

一度は読むに値する本。京都人の心性がいかなるものなのかが分かる。
また秦性にも何かを察することができるかもしない。
現在、中古で477円となってます。アマゾンで。



Re: [Heaven's Feel]」III  *おまけとして...



この〈桜〉の原案は間違いなく黄泉の国におけるイザナミになる。この語、「イザナミ」の意味は「女たるものは、男を

においては絶大なる力を生来的に備えている」になる。なるほど、なるほど。確かに、確かに。一度惚れたならもう放ってはおけなくなる。この作品のシナリオを書いた人物はあちら側の奏者であることは前に言った。まどかマギカ関連において。小賢しい限りなのよ、こい○は…。ことの

、かなり良く深く理解している。旧約も新約もだよ..。ならば天を志向するセンスも持ち合わせている訳なのだが…はずなのだが…。だが、社会に出て立場を得るにおいて、つまりその世に染まるの流れにおいて、あちら側に傾いての仕事の方が成功することを見抜いてしまったのだ。元々どうしたものなのか、彼自身もそっちの方がいたく魅力的に感じてしまってて、その傾斜はもう改めることの出来ない程までに創作においては習慣化されてしまってる…。他の作品観たって、斜がたってるのよ、ズバリ。その作品群を思えばそうなってしまう。完璧に永井チルドレン。まっ、これは本稿においてはどううでもいいこと…いい話し。

閑話休題。桜においてはことはやや程までなれど微妙で、彼女は完全には彼岸へは渡りきってはいないのだ。そがゆえに、ラストはあのチートをもって、あれは絶対にあり得ない展開になるのだが、普通の人間が暮らす生活圏内に無事舞い戻ることができる。それも美しいままのその姿で!。

これではあの物語の骨子、意味深き構造そのものが成り立たなくなる。
*最初から

として、確信犯的に構想してたんだろう。



この絵に込められているその意味が失われてしまう。

よって、最後、ことの歪のそのすべてが士郎にでてしまうことにはなるんだが…。桜のやったことへの断罪を彼におっ被せて、それでもって帳尻合わせをしてるんだ。観客においての、そのこころの調和を安定を納得を回復しようとする。そんで彼は後に、人形の体を与えられて現界しなおすだって〜?。こうゆうのを自分は詭弁だって、イカサマだって、インチキだって云うんだ。絶対に承認できるものではない...。違和感を覚えませんでした?。だから、結果、あまり健全なる創作物ではないな〜って思うんだ。それを観た観客に、あまりいい影響を与えない。残さない。良くって、なにも得るべきもののない、ただ興奮してただけの、無用にして無意味な、まったくもって無駄な時間が与えられていたってだけなんじゃないだろうか?。真実のところでは...。あの手の奏者による作品が多すぎるよ。今日日は。1973以降は…。





Re: やっとこさ、ワンダースリー。

ことは所詮は男さんにおいての未練のお話し。
イザナギ、オルフェにおいての苦悩のお話し。
如何ともし難い最愛の妻との断絶別離の話し。

ことの重要なるは、イエスの降臨以前のことなのだ...。

ここに天界への帰還、そして再誕再生をもって新たなる世界、
もしくは何処か知らない惑星で生きるという神話が生まれる。
新約聖書の記録を読む限り、この展開は信憑性が高い。
だが、我々一般人にとってそれは神話としかならないものなのもまた事実。

近代における思考、その前提、枠組み、世界観は、どうしたものかイエスが語られたこの神話が色濃く宿されてしまっている。ずばりあの天国の概念だ。そしてまた同時に地獄の概念も。そしてハルマゲドン。最終戦争。巨大な地球規模の災厄の到来。本来ならばアジアにおいてはこの神話がこれほど迄に日常に浸透するとは思えないのだが...。日本における神道において「神」という名称が元々あった。でもいざ事があったら南無八幡大菩薩に祈る、つまりは仏の加護にすがる祈るが常だった、普通だった訳なのだが...。前もどっかで言いかけたことなんだが、自分にはこのことが不思議にして奇妙に思えてきてしょうがないんだ...。なにかが間違っているのでは?と…。この神話がプログラムとしてマインドに絶対的なるものとして固着されてしまっているのでは?と…。*確かに、何らかの神話を、私達人間は生きる上において、必要とするのも又事実なのだが…。

何らかの世界観を支えるべくしてのその物語は必要とはなってくるのだが、各民族性に基づいての、多種多様なるものがあって然り、当然だと思うんだ。新約が語る終末に関してのそのシナリオは激しすぎる。全地球規模の厄災。なんと...海の中の生き物は全部死滅し、人類の三分の一がこの艱難において死ぬことになると。空の太陽の光さえも、夜空の星星のその明滅までもが失われてしまう…。*これも一つの例えとしての表現である可能性もある。だが、そう表現するに適う何かが現実には起こってしまうのだ…。それも必ず。「預」だからね。

結論的にはイエスが語ったことのそのすべてが、本当のこと、真実過ぎて、聖霊の働きにおいて、その

が世界規模で完全にに広がった。全地に述べ伝えられた。そして根を下ろすことに完全に勝利した。それを達成したってことになるんかね〜?。

これは…自分がクリスチャンだからこそそう思うまでのこと。自分においてはそれは極自然なこととはなってしまうんのだが…。分かるだろうか?、そのことはもう避けがたくして、この日本においても具体化、預言が履行されてしまうようになるってのが恐ろしいんだ...。
ある…この【 (しゅ) 】たるものに、誰もが彼もが皆が、支配されてしまうこととなる...。

閑話休題。ワンダースリーの物語の背景も、この新約の世界観を前提に発想され、また創作されている。あるとき天界から御使いが地上にやってくる。人類の調査をする為に。そして、その結果において、邪なるものとして判断されたならば、この地球の人類はすべて抹消抹殺する。天界における代表としてこの権限を与えられていたのだ...。



                  暗転

                  暗転




Re: ボッコ





それにしても、なぜに、れほどまでに〜、
      ボッコは…「キュート♡」なんだろうか〜〜〜?!。

キュート♡」は「可愛い」の根源的なるその意味につながる感嘆詞だ。

即時即応で覚えられてしまうものなので

感受性への入力のものなんかもね〜?!。w。

もうどうしようもなく魅せられて抱きしめたくなる。するとその時点でスイッチが入る。
そして、別の局面への突入となだれ込む、成り果てる。ことはそうなってしまう...。



手塚さんと永井豪、この二人の作り出すキャラが双璧だ。



特に、このボッコは兎であることからしてなのか、もう特上級の可愛らしさ!。

猫も可愛いが、ここまでとはならない。w。

なぜにあそこまでキュートなんだろうか…?、そう覚えてしまうんだろうか…?

それはですね〜、お二人が、そこに表されたるものを、備え持っているからなんです。

お二人の魂の中に、非常に洗練された高度のアニマが潜んでいるからなんです。

それが無意識の内に作画において投影されて、それを核として析出が起こってきているまで。

その思い入れとしての感度が強いと、このボッコのように、もうとんでもないほどまでに
キュートなキャラになってしまうのです。エロのギリギリ手前で、キレイに辛うじて保持
されてとどまっていいる〜。もう奇跡としてのキャラなんです!。

                       「このおっさん溜まっとるな…」(読者)

ロリたるものの核心その真実なるものも自分ならば語りうるのだが、それはやんない。皆さんがやるべきだ。しっかりと考察すべきだ。なぜにこれが現在世に溢れかえってしまっているのかを?。こでの意味するところは何なのかを…。しかしだ、これだけは言っておかなければなるまいな…。あのスタヴローギンの犯した最大級の罪がこれなのだ。ドストエフスキーがその内容となるべきものを考察した際にこれが選出されてしまっている。では、何をどうすることこそがその最大級の罪になるのか?当たるのか?。それは「天界から天下ってあるのがその真実の実際の、その純粋なる本質を魂を」を補語としなければならない。それはあくまで非在の幻としてのそれでしかないのだが、それを、獣性の側に身をおいて〜そっち側に堕ちて〜…。これはもうここまで。もうやんない。も〜語らない。w。見守りの天使らまでもがこの禁を犯してしまってる。*ここのポイントはめちゃくちゃ重要になるからねー!。最重罪に当たるんだって。そんでね〜〜〜…。断。









Re: 整理して一挙に結末へ





左の絵にはなにやら違和感がある。それを覚えませんか?!。なぜにかまったく感情移入ができない。なぜか?。これは嘘っぱちだからだ。いや、あながちそうとも言えないのだが…。

左は”天界”だ!。だから言語化も表象化も実際にはできない。この辺においての代替策、折衷案として採用されるが、科学的な言語をもってしての、つまりは普通の一般人においても理解可能な例え、表現の移し替えなのだ。天界は高度に発達した宇宙人達による連合評議会へと様変わりとされる。でもねっ、予予忘れないようにしていてもらいたいのだが、天界は霊においての魂にとっての本源であるってこと。つまりは一切の創造者たる神が住まいするところであるってこと。ヨウツベ観てても宇宙人による人類創造論が流行りだが、あれって霊性を物質性に引き下ろすためのあくまで工作だから。ことはヒトのマインドなんかによって理解しうるものなんかではない。よって、それによってああだこうだ語れるものでもないんだ。ただ霊知のみがことの理解を開くだ。たが、このことに拘っているとお話しが進まなくなるので、あくまで例えとしてこの言説においての表現も採用するしかなくなる。

言いたいことは左の絵はあくまで代替案としてのものでしかないんだ。だから、妙に白々しく感じてしまい不自然に感じてしまうのだ。ボッコとの開きなんかも〜目も当てられない。

さて右の絵になるとぐっと分かりやすくなる。なにせここ地球環境に合わせてメタモルフォーゼしたんだから。ここで、なぜ三体なのかを説明すると、まずはあの三脳のはなしがひとつ、そして、ボッコが表すところのそのヒトの魂は、本質は、魂は、アニマは、後にそれ単独にて地球にて再び肉体を得ていきることになるからだ。天使的存在となってのその体の構成のある程度を破棄しなければならなくなる。その後に分離される部分を表すのがブッコとノッコになる。そのことの表しは一切の過去の記憶を削除されてとの意味ともなっている。だが、彼女の魂は誰かの存在を決して忘れることはない。それはもう記憶などというものによらない確信としてのものなのだから…。彼女は、ラストにおいて、その言葉のままに、「身一つで」この世に再誕生することとなる。神界における父なる神の力によって!。その実際は宇宙評議会の決定において、そしてその超科学の力をもってしてとはなるのだが…。

これは正真正銘の蘇りだ!。イエスを前提とするならば、ここにはなんのチートもイカサマも
ないってことになる。

として通ってくる。(←これが私めにおいての拘り呪い…)繰り返す。ことは、あくまで、

真実、現実的なるものであったと、そう前提にするならば〜の話しなのだ!。無自覚にも作者は既にクリスチャン化してしまっている。

手塚先生はこの話の構想を持つにあたり、イサナミ側、イザナミとしての立場に立って、救済の為の策たるを探ったのだと思う。独り残されたイザナギにおいてはことはどうしようもなく、悲嘆に暮れるしかできないのだから。もう打つ手はないのが現実。だが、もし、あるべくしての厳正なる(ことわり)を彼自身が破るならば、それは罪としての反魂の術しかなくなる。それを行うことは天つ罪以外の何物でもない。この罪を犯させない為に、イザナミとして、彼の求めを適える道を、彼を救い得る道を、どうしても創作したくなったのであろう。

このお話しは、この奇跡の筋道を、全体としての調和を、厳正なる理として認めるべくしての前提を守ったままにして、達成してる。誉むべきは、あのボッコ。いや、ボッコ以前に、この地上に生きたであろうその女のひとだ。当然に、あの真一がまだ少年時代にある頃に、その時間跳躍たるものは設定されていた…。よって、お互いの前世を発想の前提とした、新たなる「ジャニーの肖像」といったものにもなりうるのだ..。




     ここにおいて真一を愛する思いからボッコは二度目の死を受け入れる。
     せっかく手に入れた天使存在としての、その不死としての生存を捨てて。
       再び人間となって地上に舞い戻る。あの真一の元へと帰る為に。
     たとえ限りある命となったしても、彼と共に生きたいとの願いをもって。


                                さよならボッコ隊長...
                                  おしあわせに...


    彼女は、まったく記憶ってやつを持ち合わせてはいないにも関わらず、



        どこへ向かうべきなのか、ちゃんと分かってた。



  そうして歩きだしながら、ただ静かに、「し・ん・い・ち…」って一言、
            たどたどしくも切なくして…つぶやくんだ…。
 






   〈終劇〉







ギャラリー、使用せずの絵たち。
















Re: ハウル。

注:これにおいては天村は原作を読んではいません。また映画も三回ほどしか見ていません。
それもかなり間を置いての視聴でした。(その第三回目は現在視聴しつつあるものになる。)
なので〜、なんらかの見解を述べるにおいては、徹底的に「オモコ」で行きます!。本稿は、その結果としての、映像のシーンやその断片において、自分がかってに妄想しまくりたるの思いや考えでしかないのです。その

、つまりは徹底的なる誤解や偏見においての陳述開陳それらの披露でしかないのです!。だから〜それはもうあの作品その原作とはまったく無関係のものとなるのです。このことを、このことだけは、しっかりとご了承ご理解しておいて頂きたく存じます。敬具。崇

あそこにある表象の殆ど九割方はダミーだ。単なる集客をその根本の目的としたサーヴィスっとしての演出に過ぎない。全く別のことがその背景には隠されている。大ぴらに語り難いことであるが故に、これは作者のナイーブさが原因になっているのだが、そうした表現とせざるならなかった。またどうしても、このことに関してを、描かざるを得ないってところに彼の業の深さを、頑固にして頑迷なる執着を、自分なんかはどうしても思ってしまうのだが…。多分、彼のすべての創作におけるその原動力となっているであろうこの世界が持つ誤りにおいての、その結果として帰結してしまっているとある事態の認識がある。それがやはりこの作品においても前提となっている…。

つまりは我々人類は堕天使としての群れ、狂った機械の集団でしかないなのだ…。自分もまた、彼と同じくして、持って回ったその偽装においての表現によって、それにおいて、言いたいことを云う、そういったことをするものなのでw、穿ったものの見方となってしまっているだけなのかもしれないが…。

これはまたなんと宮崎駿先生がワンダースリーと同じ目的にてストーリー構築にチャレンジしてるんだ。それもだ!ここにおいてのイザナギはダークサイドに完全に落ち込んでて既に悪魔に魂を売り渡してしまってるの始末なのだ。この作品は、その見掛けを遥かに超えて、深刻なる問題を背景に据えている。例えば、ハウルが、あの聡明なるハウルが、何故に悪魔にその心臓を売り渡すような真似をしてしまっているのか?!。現実からの、目の前にあるその現実においての某らかの認識があったれたばこそだ。繰り返しておく、彼はずば抜けて聡明なる子であったのだ。



   この彼(イザナギ)たるものを救うために、イザナミ(ソフィー)は、降臨する!。



考察にあたっては前世においての二人の関係、つまりイザナギとイザナミであったことを前提としなければなるまい。アダムとイヴでもいいんだけどね。いや、これこそが真実なんだろう...。誰もが皆、アダムかイヴかのどっちかなのだ。そんでこの世に独り生まれ落ちたなら、分かたれた自らの分身たるものを、その運命の相手たるものを、生涯をかけて探し求めることとなる…。





だ〜が〜、それが現実において叶うものは〜実は誰もいない…。ことは天界への憧れとしかならない、それへと

なのだから…。つまはだ、その相手は、見ん事、天国へと、ちゃんともう、完璧に、渡ってしまっているのだ。そうなる価値をもってかって生きたればこそ、逆に残されたものらは、その人のことを恋焦がれてしまうようなる…。

ただ、追うべくしてのその相手に関してのイメージは、その幼い頃にしかと与えられる。御心においてそうことは整うようなっている。リアルなその相手として。ヒトとして誠の現実の肉体を命を持った形にて。(断)





この手の娘は既に、いやもう最初から善き男たちにとっての、その頭の中の、理想としての、
妄想としてしか存在するものではなかったんだ。そこにおいてでしか存在しないものなんだ。
唯一の現実的なる救済処置/打開策は、女達が

を察して、

に近づくことに努力することなんだけど…そうするそうあるこにしか道はないんじゃ〜ないだろうか?。いや、あ〜りませんか?か…。むしろ根本的なる問題は、そうするに足りる男が不在であることにあるんかもしれないねー!。

もしいたとしても、これも、その当事者たるおなごさんたちがぼんくらである限りにおいては、やはり外に向いて関心が向かっているその限りにおいてはありえない...。つまりは外部たる社会における自らの成功や、社会文化コードにおける自らが優れたるの格式ありたるの上級市民としての証を必要とするまでは、自己の半身たる存在が何なのか誰なのかなんてもん、絶対に分かるわきゃ〜ないのだから...。彼女ら自身においても、その焦点を自らの内に、その心に当てて、それとの親交をちゃんと結んで、その上でいろいろと判断選択ができるようにならないとも〜だめ…も〜絶対に無理…不可能…。

要はその選ぶべきの相手の存在に”ピン”とくるか、これるのかどうかにかかってしまっている。なにがどうしたものか、自分の心が、あの彼を、あの人間を、志向してしまってるがいいな。それは良心本質においてであって、人格においてのそれの嗜好としての対象では間違いなく



追記:
ことここにおいても、間違っても獣ケダモノの扇情の、…つまりは求愛のチャームを、それとして誤解することがあってはならない。両性ともにケダモノとしての必殺の極意たるものを修めているものもいるのはいる。黒○さんたちなんかこれのエキスパートだからね!。ヒトとして未熟であればあるこそそれは怪しくして不気味なる、そして逆らい難くしての魅力と感じられてしまっているみたいだ。そうやって働いていしまってる…。これは実地に側で見てての感想なんだ。あれは云わばブードゥーの呪いみたいなもんさ…。下卑にして卑属なるが上位 たる貴種を奇跡にしてなる純粋を侵食する汚すの事態。ニューヨークで活躍する日本人女性アーティストらがそいつらに腹ボテにされてるの見るともう怒りを通り越して絶望してしまう。お隣さんのお菓子系、その虚妄も虚妄の芸能世界に取り込まれて、喜んでそれら世界と交合を果たさんとする日本の女子らにも同じような思いを覚える…。




これは思っきり手抜きでいくからねっ!。

今回のは既にすべて手抜きだったけどね〜!。

絵だけで思いっきり誤魔化すからねっ!。

いつか気が向いたらやるからねっ!

つまりはこの稿も未完で放置しゅる。


敬具


あまらむらのすくね〜。






続きは後ほど...いつか皆様が読みに来なくなってから!。




バイなら!







            【 校 了 】









この下にはもうなにもないからね!。



あってもそれはマボロシだからね!。



「はよ目医者行ってきないさい!」だかんねーーー!!。













さて、なにからやるか?…なにから語ろうか?…。
とにかく簡単にでいこう。じゃないとこちとらの身がもたない。

まず言うべきは〜、宮崎作品のその殆ど、主要なるキャラクターは宮崎駿本人なんだ…。
コナンも、ルパンも、マルコも、おんじも、もしかしたらハイジさえも!。
あの”ヒーン”(サリマン先生の使い犬)は、間違いなくご自身としての配役。
まっ作品のキャラに自らを投影するってのは当然な話しさ…。

さて、今のは前置きなるのだが、それもかなり重要な前置きになるのだが〜、
ここで久方ぶりに笠井潔による「バイバイ、エンジェル」から一文を抜粋してみよう...

              堕天使(ルシファー)……。硝子の天使さ。
     確かに天使だったけど、硝子のように硬く、冷たく、砕けやすかった。
          この世界では天使だからこそ地獄に堕ちることとなる。
               (彼には)何かが()いたんだ。




もっと適切なる箇所がどっかにあったような気もするのだが、もうこれでいこう。
もしかしたら「サマーアポカリプス」方だったかもしれない…。

*もう一箇所。これは重要にして貴重なる記述になるので...

「君(矢吹駆)のいう、人間によるものでない、つまりは悪魔によるが殺人がそれかね?」

そうです。観念という、現実においては、形としては決してなにも持ち得ないもの。存在の露骨な具体性から見ればバカバカしい程までに影の薄い、抽象的なるもの。それには目も口もない、手も足もなにもない、虚な宇宙に漂う亡霊にも似たるのもの……。これが時として人間に憑くのです。その時、その人間は真空状態で放電する火花のような状態になる。ぶよぶよとした細胞の塊が、なにかまるで別のものに…まるで生まれ変わったかのようになってしまうのです。これに憑かれれて行われる殺人は、人間を生きた道具に使っての、何か、人間以外の、別のものが犯す殺人なのです。つまりは、犯人は彼なんかではない。彼に憑き、彼を操っているものこそが真の犯人なんです。(改稿ちょっとセリw)

「それが悪魔かね?…」

ええ。昔の人たちは、そう名づけました。

*抜粋終!。

ここはレーニンやスターリン、フランス革命(あのベル薔薇)、ナチス、中国共産党、ポルポト、日本連合赤軍、オーム真理教らがやったことのその真実なる実相を説明しているまで。
絵空事なんかではまったくないんだ。先の世界大戦そのもが実際人智を越えたところで
起こってしまってた。それらに関わる理屈は、あくまで後付けのものでしかない...。

その魂が純粋で高潔であるがために、またその知性知能がその年令年代からすれば、高すぎる聡明に過ぎる敏すぎる、またその感性が鋭敏に過ぎるがあまりに、この世の現実を知るに及んでは、暗き絶望、深き苦悩を所持せざるを得なくなってしまう。そして心には、その若く誠実なるが故の/に、この世に対しての沸々と煮えたぎる怒り憎悪否定拒絶の念が高まりをもって現れてきてしまうこととなる。

ここに、若き日の笠井が嵌っていたであろう欺瞞的ロマンティシズムがうかがえる。
浅はかにして耽美的なる自己肯定としての神話、間違った思い込みとしての観念…。
革命戦士たらしむるにおける持つべくしての美意識。

ハウルにおいてはことは自覚的で、所詮はその現実たるものに翻弄されて切れているだけ。
もうどうしていいのか分からなくって、ソが故の怒りに任せて、現状否定にラジカルに傾いて
しまってるだけ。その存在が薄くって未熟で、…結局それは若さからくるド外れたプライド、
その傲慢さからくる起こる発想、現実からの逃避にしか過ぎないのだが…。

ここに自分としての思いを残すならな、この世の現実をあまり熟視してはならない。注視してはならない。ここは、この世界は、かのものが支配するその王国なのだから。あなたがもし聡ければ、直感をもって、このことに気づくことができるであろう。そして、もし賢ければ、それをどうこうする、しようとすることもなく、ただひたすらに、自分の身を、その心を、この社会、世間から、人の世たるものから、距離をもって、それを可能な限り圏外に置くことに注力することであろう…。

補記:でかい脱線になってしまうのだが...
  戦略としてはマタイ10-16が極点になる。

     わたしはあなたがたを遣わす。
     それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
     だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

ここでの詳細を語るならば、そこにある環境、そこに起こってある状況が、もう既に伝えとなっている。誰によっての?。まずは、それを理解承知しなければならない。ことは何を天は、あなたに求めているのか?。そのことに素直でいなさいだ。間違っても、文句つけたり怒ったり不満を持ったり、消沈して不能になったりしてはならない。そして、片や

の部分…、こと為すべきことがあるならば、果すべくしての絶対の目標たるものを持つならば、それにおいては、あらゆる手をもってしてあなたの我たるものを通せばいいのだ!。(より良きものとしての仕上がりとするべく)。そこに制限は一切ない。もし何かが必要とあるならば、権謀術数の限りをつくしてでも、それを手中におさめるのだ!。バカみたいに素直一本槍では駄目なんだ…。策略家にして実務家、実利的で実践的で功利的でもあれよだ。ことを為しうるにおける、そうするに足りる裁量たるものを、知恵を実行力たるものをも磨いて持ちなさいよ〜だ…。補記:ことのガイドとしては「もし非常に困った状況に立つ、それに巻き込まれてしまったならば」だけでいいのかもね。賢くしてその政治力たるものを存分に振るいなさいかな?。

…振る舞い倒してなさいだ!。


♪「 花は相馬に〜実は伊達にー…」♪ 民謡、”相馬二遍返し”より
https://www.youtube.com/watch?v=IijscJUL4jY

花も実も欲しかろが、そうは問屋が卸してくれない。
では、あなたはそのどちらを取るかのか?、またその相手には何をどちらを取らせるのか?...。   了。


ところがだ、若さゆえの早急さが故に、ラジカルにことを行おうとする魂もまた有る訳だ。
左翼系、若き日の笠井潔がそれ。またハウルもそれ。また宮崎駿氏の心中深くにおいては、
未だにそのハウルと同じ思いが息づいているのやも知れない…。

現代が、も〜目も当てられない程までにひどすぎるのだ。でも、その物語の舞台は、第一次第二次世界大戦の最中ってことにしとこうとされたのだろう。だが、実際は、このお話しは、今の、この現代の、現実においての物語なのだとせねばならない…。

先に結論から云うと〜…

ハウルは宮崎駿本人。カルシファーは彼の創作における原動力たる情熱。これは又別個、魂であるとか霊感であるとかも云えることだろう。とにかく

。天からこの地球にこぼれ落ちてきた、落されてしまった、なにか。貴重なるなにか。命、魂、ヒトの本質。








         そして最後ハウルの城は、スタジオジブリそのもの。
        あそこが稼働することによって、なんでもかんでもまるで
           魔法の如くしてアニメ作品が生まれてくる。



      ってことはだ...あのマルクルは、そこに働く宮崎氏をサポートしてくれている
            スタッフ連を代表しての誰かなのかもしれないね。




               彼ら兼やはり宮崎駿ご自身か...?




この作品内における魔法とはいったいなんなんであろうか?…。①

も〜それを言っちゃ〜身も蓋もない、それがなくなるのだが、それはヒトの持つイマジネーションの能力のことになる。先に言っておくと〜、このイマジナリー世界、その領域こそが、あのルシフェルがその居を構える場所になる。ヒトのもつ想像力/空想力、これは実際に魔法たるものの源泉になりうるのだが、これを操る操作する、そして何かを生み出す編みだすその者において、彼がその触手を伸ばしてくるのだ。それはもう間違いなく。彼自らがその人間に介入してくる。素晴らしい霊感を与えるべくして…。それは危険な誘導誘惑としての罠でしかないのだが。そこは場合によっては彼が然るべき優れた霊感の持ち主を見つけ、そして取り込むための、トラップ領域たるものになるのかも知れない…。










表象としては基本これと同じもんであるはずなんだが…。ただ黒のヘルメット頭が既に「硬くにしてのなにかによって覆われてしまっている」が違いか。こっちはより深刻にして、もう完全完璧に救いがたい人としての表し。


                    〈暗転〉



この作品内における魔法とはいったいなんなんであろうか?…。②

例え偽装ダミーをもって何かを語る。分かる人、伝え得るヒトのみが分かればいい。
分かってくれるヒトが一人でもいたならば、もう十分…。



御霊の効力。霊力。それら英霊となられた方々は死して尚も、
この国をこの国に生きる人々、その我ら日本人を守ってくださっている。

こういった思いは考えは観念は、信仰は、確かに有効であろうかと自分なんかには思われる。
これは経験からのことね。この世を去った父が、陰で残されて今を生きている子孫を助けて
くれてるみたいな話しをどっかでしたと思うのだが…。

*要はだ、観念として初めあったものが、その具体的なる検証結果において、
 紛うことなきリアルなることを、真実なることが理解される。
 そういった展開もあるにはあるんだ…。これは大変に珍しいこと!。

確かに、あの第二次世界大戦において亡くなられた方々には日本人としてずば抜けて優秀なる人々が多かった。これは海軍においてのみの話となるのだが…。中央閣僚本部はいつの時代、
いつの時、いつのころであっても、虚栄心だけのぼんくら揃いときてるのが関の山なんだけどね...。前線たるものをまったく経験してきてない人間ばっかりだったからね。今流行りのDXのコンサルなんかもみんなそう…。分かり得ようわけがないのだ…。肩書学歴だけで箔つけてやってる。もう碌なことにならない、碌でもない結果にしかならないだろうさ…。

閑話休題。彼らの多くは戦争に参加するこにおいて亡くなった。死を覚悟してゼロ戦や戦艦に乗っていた。それはお国の為であるとしながらも、家族や身内の為にと自分に言い聞かせてだったのだろう。そして、死したりとは言えども、その思いは生きて残っているのかも知れない。後腐れなく消えたいとは思っても、残された想い人らのことを考えると、そうもあっさり逝けるわけでもないのかもしれない...。

こういった死して後、尚も、未だこの世に残してきてしまっている身内のことを気遣っている彼ら死者の力が魔法として取り扱われているのだ。それが英霊であるがゆえの、そうであり得た魂であるからこその、その力…。あのサリマン先生が使っているのがこの手の力の支配/結束になる。だから彼女は巫女であると言ったほうがいいのかもしれない。もしくは靖国神社の神官なのかもね?。


      これなんか霊的防衛、そのモデルだってことになるのかもしれない。

     あの大戦においては本当にたくさんの人々が戦争において亡くなったんだ。
        それを肌身で感じておられたのが幼き日の宮崎駿先生。

            その様を流れ星に例えて見せてくれる。

  またその描写において、まるで線香花火のように、ヒトの命とは、儚くして壊れやすく、

     それはもう本当、簡単に、失われてしまうものなのだとのメッセージと伴に…。



Re:そこにおける、ある、具体的なる現実とは?!






       ソフィーが日常の普通の生活をおくる上での居城、その仕事場さえも....


  基本、ハウルが心底から恐れているものこそが、この「この世の現実」になる…。
 実際それは今でも起こりうる。かってそれは既にもう何度も何度も起こってるのだから...。


               これは2022.1.6の速報になる


Re: ここでちょっとティーブレイク!

稲垣足穂著「一千一秒物語」より一編を抜粋。

   流星と格闘した話

   ある晩オペラからの帰り途に 
   自分の自動車が街かどを廻るとたん 
   流星と衝突した
  「じゃまするな!」と自分は云った
  「ハンドルの切りかたが悪い!」と流星は云いかえした 
   流星と自分はとッくんで転がった 
   シルクハットがおしつぶされた 
   ガス燈がまがって 
   ポプラが折れた 
   自分は流星をおさえつけた 
   流星はハネ返って 自分の頭を歩道のかどへコツンと当てた
   自分は二時すぎにポリスに助け起されて家へ帰ったが 
   すぐにピストルの弾丸をしらべて屋根へ登った 
   煙突のかげにかくれて待っていた 
   しばらくたつとシューといって流星が頭の上を通りすぎた 
   ねらい定めてズドン! 
   流星は大弧をえがいて 月光に霞んでいる遠くのガラス屋根の上に落ちた
   自分は階段をかけ下りて 電燈を消して寝てしまった 」 了


これは創作におけるそのインプロビゼーションとしての物語なんだと思う。
奇想としてのその物語、その気まぐれとしての展開に、
それにおいて、自己暗示もって作家はその世界に入り込むのだ。
それは実は

になるのだが…。
創造性の高い、その暗示力の強い作家であればある程に!。
だから即刻即時、その世界からの脱出の為には、然るべくしての展開を、
その作者たる自分は、執筆において考え出さなければならない。
いざことに臨んだなら、寸秒、一瞬でさえも、無駄にできる時間はない…。




Re: カルシファー、その正体

 それは先に、もう言ったことなのだが、物事表象には、いくつもの意味が込められている。

    ひとが死ぬと…然るべく宇宙にあった星の一つが流星となって地へと落ちてくる。

  まるで、その死を悼むかのようにして、鮮やかなる一条の光を描きながら。伴いながら。
       そして、燃え尽きてその光はもう完全に見えなくなってしまう…。

       だから、たくさんの星が流れるその夜とは、たくさんのひとが、
 たくさんの兵隊さんたちが、戦場において、お亡くなりになったそのことを表している。

          その晩、ひときわ大きく明るく輝く星が、落ちてきた...。

    それは、まるで引き寄せられるかの様にして、幼き日のハウルの元へと落ちる。
     それがなんであるのか、何を求めているのか、すぐにハウルには分かった。

     「助けて...この生ある存在を失いたくない。あなたの中に住まわせて...。」

   なぜか、

だと思ったので、ハウルは気安くその願いを聞き入れる(*)。

     肉体組成に変化があって、それは、自分の心臓と伴に、口から現れてきた...。

カルシファーは誰か偉大と呼ぶに相応しくしての勇敢なる軍人さん。その魂。大地に落ちて
滅尽しつくすその前に、ハウルの元へ、ハウルに引かれて落ちてきた。これもまた神様の
お引き合わせであったに違いない。そして、その生存を、かろくも繋ぎ止めることとなる…。

もうそれは純粋なる霊魂ってことになる。それも特別に練磨されたるのもの。なので、あちらの世界においてならもう上位クラスに属するものであるのは確定!。そして、その存在自体が霊界に通じたるもの、媒介者になる。なので〜、そのあっちら側の領域から、力を導引してくることも可能なのだ。ハウルにとっては霊力の供給源ってことになる。心臓をそれに預けているから、カルスファーがその生存を繋ぎ止めるために、霊子力学的にはもう二人はコヒーレントな関係になっちゃってる。w。心臓がないことでハウルは不死なったてことなのかもね…。この辺の事態に、天国にその席を置くイザナギが、もう黙って見てられない〜っ、もう放っておくことはできないーってなって、この人界へと降ってくるんだ。人体を取る形にて再誕してくる。女もまたその相手の男との一体化をいつも待ってる願っている。



 とにかくハウルは宮崎駿は、そのカルシファーの命を人の生存を愛しいものだと思ってる。
         基本、このことの他は、所詮はどうでもいいことなんだ...。

(*)だからこそあの行為は、なんの躊躇い恐れもなくスムースな流れをもってなされてた。
     なによりも

、自分を選んで、この

のである以上は…。

     

           そうだね...身の回りに集いし方々のみでいいだ。
               ご縁のある方々

...。

直接には本当にいるのかいないのか分からないような、そんな彼方の人々のことはどうでも
いい。ほんと、どうだっていい。その心を配るのは、貴方がダイレクトに関わる、その人々、
その人達だけでいいんだ。それだけにおいて、それだけに絞っても、も〜、かなりの数に
なってるはずなんですけどね〜w。

*次はソフィーについてになるのだが、彼女は謎なんだ…。
*本作の結末において、何故にカルはハウルの心臓なしでもその存在が適ってる?。
*その答えは一つしかないのだが...。そうなると最後、二人はもう死んでるってことになる。
*あの飛行船は天国を表していることになる。それでいいのかな?
*命ってものは、それ程迄に重いものなのだ。人がどうこうできるものでは絶対にない。


Re: ソフィー *ここは重要になる。



映画のヒロインをこれでいくのは大変なリスクになる。興行的なその結果のことを思えば…。
そんなことは宮崎さんも分かっていたこと。それもでこれ行ったのは、いやそもそもこの原作を選んだのは、ヒロインが老人化して長くに渡りそのままでストーリーが進行することにあった。

結果から先にいうと...ハウルもソフィーも元は天に上った魂なのだ。だが、ハウルは転生するを余儀なくされてしまう。(この理由は推測になるのだが後で述べる。)一方、ソフィーの方は、いやイザナミと呼ぼう、彼女の場合はかってのその死をもって完全に天上界へ上がるようなってた。つまりは基本、この世への未練は一切持ち合わせてなどいないのだ。一点、イザナギがハウルとして転生したことにより、彼に対する執心だけは残ってしまう。これはなんらかの誤作動があった起こってしまったのだとするのもありなのかもしれない...。

そこで、天使/女神/天上人/観音となられたであろうイザナミは、神様にお願いをするんだ。
どうかあのイザナギを助けに私をもう一度地上へと降ろしてくださいと…。
そしてこの願いはある条件の元で叶えられることとなる。

多分、その地上における寿命は、極端に短いものとされていた。また、その存在は、地上界のものと天上界のものとの半々としてのものになってしまう。そして、当然な話しとして、以前の天上界におけるその記憶は一切持ってゆくことはできない。

だから、そのソフィーとしての魂は、もう既に恐ろしく長命だったのだ。何億回と転生を果たしてきて、とうとうこの世からの解脱を完全に果たしたるの命、その存在。このことを含みとしてもたせるにおいて、老人化してもまったくそれにへこたれない、むしろ周り観るものがおかしいと怪しむまでに、その状態に馴染んでしまってたのだ。だって、普通だったらもっと嘆き悲しんで然りではないだろうか?。おそろしく立ち直りが早く、次へのアクション(山に向かう)にも即剤に行動が起こされていた。なめらかにしてストレートに過ぎる。あそこにおける移行はおかし過ぎるのだ。単なる一少女からするならば…。


Re: かってのそのイザナギとイザナミのお話し。

前世において、やがてにソフィーとして再誕生するそのイザナミは、戦争において死んだ。
多分、その死に際は尊くまた潔い様だったのだろう。なんの怒り恨みもなく、この世に対してのなんの未練も執着もなく。きれいサッパリと天国へと旅立っていった。そんな魂だったのだ。

片や、やがてのハウルとして転生するそのイザナギは、大いにその不条理さに怒り狂っていたのであろう。愛しいと想うその愛する人を無残にして残酷に取り上げられた戦争そのものに。それ引き起こしてあったこの人の世たるものをも。あまりに深くしての悲しみのあまり、激しい憎悪に極点にまで染まってしまってた。そうあったが為に、その彼も戦禍において死を迎えてしまうのだが、その最後は気高く勇敢にして尊い魂であったにも関わらず、後に、この世への転生を余儀なくされてしまうこととなる。この世に対しての絶望と憎しみが刻印されたことによる。

*あともう一つ、これは原作における設定でそうなってしまってたんだろうが、宮崎氏はどうでもよかったんだろが、女性が本質的には何に惹かれてしまっているのか、これは「清く気高くして勇敢なる魂の持ち主であることが、上辺に隠すことが叶わず、もう滲み出してきてしまっている男」になるのだが、彼女らの反応に対してどのように対応すべきなのか、その理解が彼には未だ欠けたんだ…。ことは性的なモラルに関わることなのかもしれない。具体的には年上の女性との関係においてなんだろうね…。向こうからすれば手を出した男はもう「わたしんのだよ〜」になってしまうからね〜w。それを勉強させる為にもう一回転生させられてしまってたwww。


Re: アナザーティープレイク



あのヒロインが婆さんであること、その中の人が63歳の倍賞千恵子さんであったこと、
このマイナス要因を埋め合わせるべくしてキムタク・ハウルが登場、いや登板することに
なったしてまってた。偶然なんかじゃない。すごいよね〜もうピッタリすぎる…。
ピッタリといろんな符号がここに噛み合うこととなった。
*世の不思議を此処に観ることができる。

その彼ともなれば、あの

木村拓哉が、中の人をやるともなれば、その若くして精力的なる、そして同時に、禍々しくありてまた不吉なる、そして獰猛果敢にしてクールなるのイメージを、このキャラに持たせることが可能になる!。「するってとだ!」、それらが実際にはどんな出来あがりであるのかは知らないが、観ても分かるの分からないのかもー知らないがー、とにかく彼目当ての女達ってやつが、山程!、てんこ盛りに!、自動的にてで、もー必然として釣れてしまうこととなるではないかーー!!!興行収益を心配する必要は、もうその制作公開前にてで完全になくなる〜。「やったぜ!宮っち」「キャッホーーー!」(by 天村駿)



     彼のハウルにおいてともなれば、ボリス・ヴィアンによる『うたかたの日々』、
     その前書きのセリフがよく似合う。(ちょい改稿せり)


       ボクにとって大切なことは二つだけさ
       どんな流儀であれ、きれいな女の子とのおしゃべり、その相手との恋愛、
       そしてニューオ ーリンズの音楽、つまりデュ ーク・エリントンの音楽さ。
       他のものは消えてくれていい。なくたって全然構わない。
       なぜなら、それらはみんな、醜いものばかりなんだから…。


    そしてこの曲も...

      https://www.youtube.com/watch?v=eTMZomxQoho

      Carpentersによる「(They long to be)Close To You 」1970年リリース

      自分はこの曲において、女の子たちは、
      その彼に、イエスを投影しているんだろなって思うんだ...確信してる。
      意識下においてね、無意識の内にてだ。これが真実、実相...。

      ハウルの善き面は、イエスの転写としてのものだった。

      それは、つまりは、かの氏も、そうだということだ。

      ご本人は、そのことには、まったくもって、無自覚なれども...。



Re: ラストスパート。
  
   どうして日本のアニメの主人公たちはこどもなのか?。
   どうも外国人、欧米の人間たちからすれば、そういった思いになってしまうんだろう。
   何故か?。
   答えは良心に価値をおいているから、それにおいて願いを託してしるから。
   それは自然なるものにその根拠をおいている。
   片や欧米人の価値観からするとそれは理想的な人格者たるものになる。
   マインドにその根拠をおく。知識知性、人工物。
   両方がしかるべくして融合したものにおいて、
   真に成熟した理想像としての大人のイメージが備わる。やっとこさ成立する。

おもしろいのは、前者は幼くしてのまどろみ、小児性に留まりやすく、後者は頑迷なる理論家となりやすいことにある。後者はハッキリ言ってパリサイ人気質ってことになる。それへと収斂するのが関の山。そして理論理屈に縛られて肝心要のことまでそれで片付けてしまうようなる。課題は「存在の道」と「知識の道」ってことにはなるわな…。両方が調和的に深みとその対象範囲を拡大していくってのが真に理想的な人間としての発展になるのだが…。宮崎駿氏は実際にそれが適ってある貴重なるひとなのだ。だからこそ、未だ幼さの残る主人公たちにおいて、そのアバターを用いて、メッセージを発しているのだと思う。

否、単にアニメ映画を観に来るのなんか、もう幼稚な子供じみた人間でしかないと見切ってしまっているだけなのかもしれないね…。お客がそうならば、もうそれに合わせてやるしかないんだと...。

ハウルはひょんなことから強大なる魔力を使えるようになった。でも、そのハウルはこの現実世界のそのすべてに怯えてるんだとさ...。だから、その魔力をもって、自分を取り込もうとする人間、そのすべてから逃げている。そのどちらの、どの陣営にも付きたくない。自分は現実の一切から自由でいたい。一生涯自分の好きなように生きたい。ところが現実の方は、いかなる人間であろうとも、そのような存在を許すわけがないのだ。その者に力があればある程、やがてにはヒトの噂となりやすく、目にもとまりやすくなる。その所在は当然な結果として知り渡ってしまう。すると...体制は、もう全力をもって、力づくをもって、その彼を取り込もうとしてくるまで…。

強力な術者たり得たとしても、それは所詮は個人でしかない。国家として組織化された術者の群れの前では、やがてには捕らえられてしまう。そして、もし言うことを聞かないのであるならば殺されてしまうことになる…。これは確実なる話し。もう疑いようもない展開…。カルシファーとの出会いのあるなしには関係ない。力のある無しにも関係ない。国家制度とは、本来そうしたものであるのだから...。

その、ハウルが置かれた状況に、居ても立っても居られない思いにて、ソフィーは降臨する。
この彼女の登場をもって、ハウルの世界との戦いは激化する。戦うことにおいて、それは世界のすべてを敵とすることに等しいのだが、もう一切の躊躇いはなくなってしまうっている。愛しいと思う、そのヒト、ソフィーの為に戦うことは、もうなんの恐れも感じなくなってしまってた。フルスロットルでの魔力開放がここに適う。



    たぶんね、このとき、ハウルは、もう死んだも同然の状態だったんだろうさ…。
        でも、心臓がないので真には死にきれない状態になってた。
     この事はそのままに、天国にも移れない、昇れないってことも意味している。



         そこでソフィーがハウルに心臓を戻してあげるんだ。
         ちゃんと人間として立派に完全に死ねるようにって。



ラストの、このソフィーの黒リボンの意味はなんなんだろうか?。自分としてはソフィーもまた死んだことのあらわしなんだろうな〜って思うんだ。いやソフィーは、もうその登場の最初からして、限りなく死者に等しい存在としてあったのではないだろうか?。天界から便宜的に、一時的にを条件として、受肉してるって意味においてね。*ここにボッコとの類似性を自分は覚える訳なのだが…。もしくは、ハウルが死したることを(それもきれいサッパリこの世における未練囚われ業を脱した上で)含意しての、それを悼んでの喪中、その表しなのかもしれない...。




            やっと、然るべくしてのご帰還、ご到着ね...。
              ごめん、えらく待たせちゃった...
             (むか)えにきてくれてたんだね...ありがとう。







                    了




カルシファーは最後、あの世とこの世を行き来できる聖霊としての存在になったんだ。
(どうしてそれが叶うのかというと、ハウルとのリンクができてしまったから。
 ハウルが天界人に復帰したから、側にソフィがついてる形にて、魔力供給が…。w)

ってことはだ、...ソフィーは父なる神の、その女性形としての存在ってことなんのかね?。
どうも女神信仰が現代においては根付いて強まってきてしまってる...。

見よ、あの女性アイドルグループの乱立たるものの事態を!。もうこれは完全に誤ってる。
その清く尊き善良なる魂を、守る救うのは、男の、男神の、役目なのだから。
それを、そうあることを、そうであれることこそを、文化としては奨励すべきなんだ…。


  エヴァにおける最大の失敗は、シンジの父親、碇ゲンドウを、”どアホ”に設定してしまったことにある。単に未熟にして世間知らずの愚か者でもいいんだがね…。作者は変に、自身をそれに重ねて投影しすぎてた…。それは、たとえ嘘であったとしても自己の自身の理想の男性像としてあるべきものなのだ。父たるその存在は、間違いなく自己を捨てでも、皆を家族を、すべてを、すべての生きとし生けるものの生命を、活かそうする存在でなくてはならない。でっ、あるからこそ〜、鬼神の如くにして厳しいのだ…そうなららず得ないのだ!。罪の浄化たるものが人工的に強制的にできるってことからして大いなる間違い。インチキ、勘違い。徹底的なる不理解。個に分断されてしまっているが故の悲しみ苦しみ喜び楽しみ/悲惨さ残酷さ救いの無さ/集うにおいて複数の個らがまとまること、出会いにおいて打ち解けてやがてにおいて愛するにまでいたること、これらのすべてを、個として個人として経ることこそが贖罪としての道を開くことになっているのだ。その為にすべては仕組まれている。神の力もて、何を作者は夢想したのか?やら?。自身にて果たせていないその実状を現実を実際を、「父」たるものに投影してはならない。レベルの低い父親に対しては、更に、そのレベルの低い息子しか配し得ないことになってしまうのだから。要はバトンリレーであることもまた決定的なる前提にして条件なのだ…。

  最後に、仮想現実は、偽物であることがはっきりしたるのも〜の!。それをあたかも現実であると認識してしまうのは、その人間があくまでも「馬鹿」だから!。馬鹿であることに、もう頓着しないようになってしまったから。本当の馬鹿になってしまっているから!。馬鹿の語源ちゃんと分ってますよね?。味噌もクソも同じとしてしまうにすべては表されてしまっている。そんで最終的にこれも旨いじゃんとか言い出したとしたら、それはナニ?、白痴精神薄弱児痴呆以外のなにものでもなくなる。

 人工物であるかどうかが、その一線を見極める上においての試金石になる。それは、ヒトが造ったもで在るが以上、

になる。それが特徴となる。そうとででしかありえないんだから…。片や、リアルとしてのこの現実は、ヒトではない

が造ったものであることに間違いはあるまい!。ことは我々の存在さえもそれによるおける結果なのだから。

一つ簡単な例を:それは宇宙におけるエントロピーの増大としての分散と、物質どうしが出会う触れ合うことによって起こる化学反応になにを観るか?による。それで、すべてが分かる!。

が誕生しているしてくることになるのだ!。分解拡散衝突接触によって起こる化学反応は、ある種の呼吸であるとも見做しうる。何かがダメになって、藻屑の如くとなって分散して遍く広がり散ってゆく。(←これは一見するとなにか悲しいこともったいないできごとただただ絶望的なる事態と思えもするのだが…)すると、次点においては、ことの結果として、彼方にて、思わぬとこでで、また何かと何かが奇跡的な出会いが起こるんだ。出会うわけのない者同士が触れ合うことが起こる。すると、そこでまた、新たなるなにかが生まれてくることになるんだ。これの繰り返し。

  だが、より高度なるもの洗練されたるもの尊きものと見做しうる、進化したるものが進行してきている事態がこの地球史においても観察確認できることには何を観る?!。現実は、超越者の腕の中にあることは間違いのない事実にして真実なることであるかと思う…。それの表現を代えるなら、すべては全宇宙の展開にこそ、ことの原因は理由は目的たるものはある。

  ありえないことばかり、狭量なるその頭の中からひねり出したるをもって、それを前提として、世界観を創り出したとするならば、(最後にもう一つ決定的な例を:「神たる存在を、その力を、人間たるものが、どうこうできるわけがないのだー!)、ことはもう観るにおいては、ただただ時間の無駄以外のなにものでもな〜いー、ならないーってな作品しか生まれてくるわけしかない!。何故に多くの観客はあの作品を称賛していたのか?。
「あんたら〜本当の、”本当に”をもってしての、○ーー○ーーー?!」。アスカ談。


  ことの原因の最たるものは、あの地方の工業都市の映像にこそヒントがある。
  だが、これに関しては、本番の③にて語ることに致します。
  そこは、ほんと、なんにもないんだ…。彼には、なんにも備えられていなかった…。
  生活をその生存を根ざすに値する…。




あとがき:

ハウルにおいて、自分がおいたその内容に、連続性や整合感はないかもね。

でも背景には、それらの含みも絶対にあると思うんだ。

あまり人の心のダークサイドに触れない近寄らないってのも宮崎駿さんのポリシーであるのかと思われる。だが彼たれば、その理解は、遠くはるか、あまりに深くにまでにして及んでいる…。ただその深淵を描くにおいては、奥ゆかしくも芸術的なること、また品性と知性たるものを尊んでの上でなけりゃ〜やられはしないのだ。まちがっても、観客等においてトラウマとなるべくしての表現などはされはしないのだ。ただ、この世の現実たるものは、それなりに巧みもてして、しっかりと表現はされはするのだが...。
*あの「庭園の主」を念頭におきながら自分はここ語ってました。


長くのお付き合いに感謝致します。

どうもありがとうございました。

たぶん、また加筆もしくは削除しに参るかと思います。


敬 具



どっかで、ラピュタが、映画5本分の詰め込みであったことは主張したいんだけどね〜。
ヒットすることを、観客の動員数をとにかく増やすことだけを祈願して創った映画。
内容が過剰であるがゆえに、それはまたモーもったいないってことになってしまってた。

でもコナンが何から何までも〜パーフェクトだったし、ナウシカ(漫画の方)において、
その真の実力たるものは披露できたことだし、その地位は絶対に永遠に揺るがないものと
なっている…。もう尊敬の念しか湧かない…。


そして…巨匠たちはみな、去って逝ってしまったのであった...。

その後今に、権勢を吐いてあるは、人間としてはクズの極みばかり...ばっかし...。


天村崇




追記:

あのコナンが、実は人造人間であったことは、既にご了承、ご存知であろうか?。
あれは、一種の、鉄腕アトムなんだ……。超高精度の肉体と頭脳を内臓した人工人間。
一生あのまんまなんだ…。だから、ラナとの間にては、子供は、生まれない……。






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