第22話 上杉討伐

文字数 22,752文字

上杉討伐 

 京都からいったん徳川本体と分かれて上田へ入った昌幸と源次郎は上田にて兵を整え、真田郷の鎮守や真田家の菩提寺に出陣の報告と戦勝祈願をしつつ北上して吾妻渓谷沿いを東へ進み沼田城で信幸の隊と合流、兵の編成と兵糧を確認してからまず下野国宇都宮を目指した。すでに江戸からは徳川秀忠率いる先鋒隊が会津へ向けて出陣し、家康も駿府や鎌倉にて戦勝祈願を行いつつ現地の兵を集めた後に江戸に入ったという。真田軍は、文月の中旬には会津手前の宇都宮で秀忠軍と合流できる筈である。沼田にて信幸が集めた兵が三千、上田から昌幸と信繁が連れて来た兵が千。参戦の義理を果たすには充分すぎる数であった。
 「義父上さま、殿、源次郎さま、お三方揃って凱旋なさる日を心待ちにしております」
袴に胴巻き、襷に白鉢巻と戦装束に身を固めた小松は、子供たちとともに家族を見送った。昌幸も、今日ばかりは孫達の頭を交互に撫でながら別れを惜しんでいる。
 秀吉が秀頼を溺愛し、最期は天下よりその身の行く末を案じて死んでいった心情が、源次郎にもようやく分かるような気がした。秀頼を守ろうと孤軍奮闘している淀を突き動かす力も、おそらく根っこの部分では同じだろう。
 そうして沼田から赤城山の麓を南回りに東進した真田軍は、かつて源義朝が東国信仰の中心として崇めたという日光山(後年、徳川家康もこの地を自らの墓所と定め『日光東照宮』という墓所を建立させている)と江戸を結ぶ街道を北へ進み、宇都宮の南、小山のすぐ手前にある唐沢山城に宿営して徳川秀忠軍からの指示を待つことにした。
 その日の午後。
 「殿、西の動きについて報告が」
気が逸っている源次郎が一足先に宇都宮へ赴いた頃合いを見計らうかのように、出浦が現れた。源次郎は二人の会話が聞こえない場所へさりげなく離れる。昌幸は出浦からの報告を珍しく何度も確かめるように聞いた後、源次郎を手招きした。
 「情勢が動いた。おまえも聞いておけ」
 昌幸は珍しく早口だった。
 「いかがなさいましたか?」
 「石田三成が挙兵し、伏見城を襲った」
 「!?」
 「既に勝敗は決しておる。伏見の留守居役を任された鳥居元忠は十三日間にわたり籠城したが、最期は宇喜多秀家の軍に討ち取られたそうじゃ。伏見城攻めに加わっていた筑後の立花宗茂は、そのまま大津城攻めに向かった」
 「なんと……」
 「石田側が徳川の旧臣を討ち取った意味は大きいな。西の結束を東に見せつけるための宣伝にもなる」
 昌幸は感心半分、困惑半分といった顔をしていた。
 「石田どのが挙兵したとなれば、我らはどのように」
 「……これを見よ、源次郎」
 昌幸は袂から書状を取り出した。
 「出浦が来る数刻前に上田より届いた。まだ源三郎にも見せておらぬ」
徳川に対する弾劾状だ、と昌幸は文を広げて見せた。大坂を発つ前にも大谷刑部より徳川の行いを連ねた文が届いていたが、此度の文面は『ゆえに大義をもって裁断せねばならぬ』と結ばれていた。石田三成が大谷に話していた最後通牒、まさにその本文である。
 「各地の大名達に決断を迫っておいでですね」
 書簡は長塚正家、増田長盛、前田玄以の連名で花押が記されていた。すでに奉行ではない石田三成の名が出せないあたり、彼をよく知る源次郎も胸が痛む。
 「家康は秀吉公の恩義に反し、秀頼どのを見捨てて独裁体制を敷いている、か……豊臣への忠義を全面に押し出す文面には裏表がまるでない」
 彼らこそ真の忠臣なのであろうな、と昌幸が笑った。上杉に次いで…いや、呼応するように石田が徳川に対して兵を挙げる。策士同士、表裏のように存在している昌幸にとっては胸がすく思いであるのは想像にかたくない。
 「しかし厄介なことになった。このまま徳川に従うか、それとも弾劾状という大義を持つ石田に寝返るか。どちらが有利であるかを見極める時間も情報もなくなった」
 治部少輔がもう半月待ってくれればよかったものを、と悔やんでも遅い。
 出浦と佐助たちを情報収集に出しながら考え込むこと半日。
 「父上。秀忠公から『ただちに江戸へ参るように』との密書が届きましたぞ」
 こちらは徳川からの書簡を振り回して、源三郎が大騒ぎしながら引き返して来た。


 「徳川と上杉が衝突した後、我々は頃合いを見計らい上杉に寝返って挟み撃ちにするつもりであったのだがな」
夜。唐沢山の麓にある小さな薬師堂に籠り、人払いをした場にて昌幸は物騒な本音を打ち明けた。
 「そのような事をしても勝算はありませぬぞ」
 「大坂に居た頃から手を打っておったのだ。たとえば、会津の北にある大国が我らに呼応したらどうなる」
 「伊達どのが?」
 「体勢は一気にひっくり返るぞ。さすれば豊臣への義に篤い常陸の佐竹も挙兵するだろう。北関東、いや東日本から徳川を追い払うことも出来る」
 「そのような約定があったのですか」
 「わしの頭の中で、な」
 また危ない橋を渡ろうとしていたのか。源次郎と源三郎は顔を見合わせる。
 「が、討伐軍が予定どおり会津に進軍する可能性はほとんどなくなった……この意味が解るか、源次郎」
 「内府さまの敵は、上杉ではなく治部少輔さまに代わった」
 「いかにも。家康は江戸から西にとって返すだろうが、宇都宮に進んでおる秀忠は」
 「中山道を進むでしょう……」
 この戦が初陣となる秀忠は戦功を焦っていると聞いている。家康と石田の決戦はおそらく京や互いの領地を避けて近江か美濃のあたりになるであろうから、時間的には家康よりも秀忠の方が早く到着するだろう。
 日程に余裕があるのならば、その前に何かしらの手土産をと考えてもおかしくない。
 「秀忠公は、我らに『江戸へ参れ』と申されたのでしたね?」
 「家康公の指揮下に入るようにと仰せられた」
 「ふむ……がら空きとなった上田城は、初陣の若造には格好の的であるな。父親が大軍を投じて敗れた城を息子が奪ったとなれば『ぼんくら』の汚名も返上できよう」
 「では秀忠公のご命令は策であると」
 「あちらには家康の知恵袋、老獪で有名な本多佐渡守正信がついているそうだ。入れ知恵くらいされてもおかしくない」
 当初は上杉との戦で疲弊した後の決戦を予想していたのだが、これでは秀忠の軍が無傷のまま上田に向かってくる。
 「父上の懸念が最悪の形で的中してしまいましたね。すぐに上田城にとって返しましょう」
 腰を浮かせた源次郎の肩を源三郎が押さえて座らせる。
 「ここで徳川から離脱すれば、もし徳川さまが石田治部に勝った場合は真田が取り潰しになる。一戦交えたとなれば、我ら全員打ち首だぞ」
 「石田さまが敗けなければ良いのでしょう」
 「勝てる保証もあるまい」
 「二人とも静まれ!」
 言い争いになりかけた二人を昌幸が止めた。
 「わしは元より徳川が上田にちょっかいを出すのなら返り討ちにするつもりだったのだが……徳川と上杉が戦わぬ以上、上杉の援軍も伊達の内応も望めない。真田は孤立無援での戦となる」
 「ならば徳川さまの与力としてやり過ごしましょう。徳川さまに従っている以上、秀忠公に城を奪われても返してもらうことはできる」
 「源三郎、それは気に入らない」
 「父上!」
 「徳川家康は、信玄公の時代からの敵。秀頼公の下で善政を敷くのなら許せもしたが、太閤亡き後の振る舞いは腹に据えかねる」
 「では石田さまに助太刀いたしましょう。父上は石田さまに肩入れなさっていた。そこで徳川軍を破り、上田の城を取り戻すのです」
 「源次郎、それも気に入らない」
 「!?」
 「上田は、わしの親父どのが武田のお館さまから安堵を勝ち取った地。お館様に認められるまでの親父どのの苦労、真田家の信頼を盤石にするために命を散らした兄らの姿を見てきたわしは、我らの郷が徳川の手に渡るなどどうしても我慢がならぬ」
 ならばどうするつもりだ。兄弟は声を揃えた。このままでは真田の郷とともに心中するようなものである。
 大暑の時候、狭い薬師堂の中はただでさえ蒸し暑く、膝を突き合わせた三人とも汗だくである。だが見た目ほど暑さは感じていなかった。張り詰めた緊張感が、思考以外の感覚すべてを遮断しているようである。
大振りの瓢箪に水をたっぷり汲んだ『ささえ(現代でいう水筒)』をそれぞれ脇に置いていたが、水を口に含む気分にもなれなかった。
 が、そのような大事な場面で無粋にも外からひたひたという足音が近づいて来た。そして扉の先、石段の下から声がする。
 「皆様、堂にお籠りになられてから随分経ちますが、大事はございませぬか?お食事をお持ちいたしまするか?」
 「うるさい!誰も近づくなと申した筈だ。さっさと去ね!」
 昌幸はすっと立ちあがると堂の扉をわずかに開き、縁台の下に置いてあった下駄を掴むと声のした方に向かって思い切り投げつけた。鈍い音が手応えとなって返って来たが、昌幸は構わずまた扉を閉めた。
常に冷静で知略を巡らせる昌幸らしからぬ荒々しい振る舞いに二人の子は目を丸くしたが、父はまるで悪びれることなく元の位置に胡坐をかく。
 「あらぬところに怒りをぶつけてしまった。案じてくれた者にはすまぬ事をしたが、このくらいしておかねばまた誰かが様子を見に来るであろう。我ら家族の会話は我らだけの秘密だ、家臣といえど他人に聞かれるなど無粋であろう?」
 だが、おかげで頭が冷えた。昌幸は小さく咳払いをして源三郎の顔を見た。
 「源三郎、おまえは明日にでも秀忠公の許へ向かい、『仰せのとおりに』と伝えて来い」
 「はい」
縁戚関係と一家の繋がりの間で心が揺らいでいた源三郎は、父から身の振りを指示された事で却ってほっとしたようである。だがすぐに源次郎が気づく。
 「兄上『は』と仰いますと」
 「源次郎は上方(石田軍)だ。石田とは戦えまい」
 「……はい」
 なるほど、と兄弟は納得した。どちらが勝っても真田家が残るよう手を打つつもりか。
 一族もろとも一蓮托生が常の世において、父の判断を冷静に受け止められる事自体が他国の者には信じがたいかもしれない。だがそれも真田家にとっての最優先が何かを分かっていればこそ。
 勝者についた方が、何としてでも上田の地と真田家を守る。兄弟が敵対する勢力の中枢近くにまで入り込んでいたのは、この瞬間のために導かれていたのかもしれないとすら思ってしまうくらい自然に受け入れられる判断であった。
 「父上はいかがなさるのです?」
 「私は上方だ」
 昌幸は珍しく言い切った。それには源三郎が慌てる。
 「父上は上方が勝利するとお考えなのですか?」
 「まさか。まだ石田が挙兵したという報しか持たぬのに、そこまでは読めぬわ」
 「では、戦局を有利に運ぶためにも揃って殿(家康)に従軍いたしましょうぞ」
 「戦局を有利に運びたいのなら、なおさら我らが上田に籠るしかない。西へ向かう秀忠を上田にて足止めする。そして、足止めするからには勝つ」
 秀忠の軍は、西へ向かうであろう徳川家康にとっても大きな戦力として期待するべき数であった。それを足止めして石田との決戦に参戦させない…戦力を不足させる意義は大きい。
 「あとは石田治部の戦いに賭けるしかないが……万が一の際は、源三郎」
 「私に二人の助命をしろと仰せならば、何としても」
 「いや、上田の地と真田の家を守ることを最優先としろ。わしらを切り捨てる事で上田が守られるのなら、そうするが良い。石田治部が勝った場合は、わしらが上田での恩を売ることでおまえの助命はできる」
 「誤解がまかり通っておりますが、石田さまは非情なお方ではございません。太閤殿下がそうなさったように、有能な者は豊臣への臣従さえ誓えば重用なさいます」
 「どのみち私の命は助かる……ですが、それでよろしいのですか?」
 「源三郎」
 昌幸がたしなめる。
 「おまえが徳川に忠誠を誓うに至った理由を挙げてみよ」
 「それは……」
 武田を滅ぼされた時点では徳川を憎んでいた筈の源三郎は、昌幸に指摘されてはたと気づき黙ってしまった。どうして自分の心が変わったのか。己の心を整理するように、源三郎は俯いて気持ちを辿る。
 「殿は、十五年前に人質として差し出された私を敵方だからと冷遇することなく、武士として将として充分すぎるほどの教育を受けさせてくださいました。沼田に戻ってからも稲という私には勿体ないおなごを娶らせてくださり、今では義理とはいえ父子の間柄。私には、もはや殿を裏切ることはできませぬ」
 「十五年。すなわち、私どもの子として育った時間と徳川の下で過ごした時間がほぼ同じ長さとなったのであるな?」
 「……左様でございます」
 「ならば遠慮する事はない。真田の子とはいえ、おまえはもはや徳川の一員でもある。おまえと、おまえの家族が運命を託してもよいと思える方を選べ」
 「……」
 源三郎に結論を委ねたところで、昌幸は源次郎にも訊ねた。
 「源次郎。おまえはどうする?奥は大谷の血筋であるが、子がないのであれば暇を出した上で徳川に就くこともできるが?」
 しかし源次郎の意思は明確であった。
 「いえ、私は舅どのと石田さまのお力になります。何より秀頼さまをお護りしたいのです。」
 「わかった、それも良かろう。一族で敵味方となって戦う選択は、いかにも真田昌幸らしいと嗤う大名どもの顔が浮かぶようだ。どのような誹りを受けようが、それぞれが自らの意思で最良と思われる道を選ぶのだ。あとは堂々とあるのみ」
 そこで昌幸は初めて瓢箪を取り、堂の祭壇に置かれていた三段重ねの杯を拝借するとそこに水を注いだ。父の行動の意図を察した二人の子は、黙ってそれを受け取る。
「各々の身の振り方は定まった。……では、今宵はこのまま思い出話でもしようではないか」

 翌朝。一睡もせず薬師堂から出て来た三人を出迎えた家臣らをその場に待たせ、昌幸は薬師堂から街道に繋がる道に架かる小さな橋のたもとに向かった。源次郎と源三郎も黙って後に続く。
 主の出でましと聞いて居並んだ家臣らの顔を源次郎がちらりと見ると、源三郎旗下の武将・河原綱家の鼻下が紫色に腫れていた。昨夜昌幸が投げた下駄の行方が一目で分かる有様である。前歯が欠けてしまったらしく、力の入らない口許が不恰好に歪んで見えた。
 橋のたもとで昌幸はくるりと振り返り、子に…その後ろに控える家臣や兵達に宣言するように大きく息を吸う。
 「真田安房守、および左衛門佐の兵はこれより西へ向かう。ついて参れ。伊豆守の兵はそちらに従うように」
父子の声が家臣らの耳に届いた途端、どよめきが上がった。真田家が一家分断の道を選んだことを公に宣言した瞬間である。おそらくは、そこらの山中で耳をそばだてていた各地の間者も一斉に駆けだしている事だろう。
 「では父上、ここでお別れでございます」
 源三郎はどよめく兵らに集合の指示を出した後、改めて昌幸に向かって頭を下げた。
 「うむ。源三郎、しかと励め」
 昌幸も頷いて別れを告げる。その声はまるで冷静そのものであったが、さすがにまだ父の域に達していない源次郎はいざ別れとなった途端言葉に詰まる。それは源三郎も同じのように見えた。
 「兄上……」
 「武田の道場で技を磨いた頃から、結局おまえには一度も勝てなかったな。武田のお館様のような日の本一の兵になれるとしたら、それは私ではなくおまえなのであろう。だが、そうさせぬのが今から私の務め。次に会う時には、武士として容赦はせぬぞ」
 「わかっております」
 「よい返事だ。一時とはいえ敵となる者に贈る言葉としては不適切だが……源次郎、武運を祈る」
 「兄上も」
 源三郎は再度頭を下げてから二人に背を向け去って行った。そのまま、先に支度が整った安房守・左衛門佐隊が唐沢山を下りるまで、ついに源三郎が顔を見せる事はなかった。

 それぞれ別の方向へと去る一家の別れを見た者は真田一家の立場を自らの境遇に置き換え、これは後世に残る悲劇だと言って涙したという。
 彼らが淡々と別れていた姿は武士の覚悟の現れだが、その心中やいかに、と。

 「沼田へ寄って行く」
 一刻ほど行軍した時、昌幸がふと呟いた。
 大坂を出る直前に脱出を言い渡しておいた稲と孫らが、そろそろ沼田へ到着している頃だろう。孫に一目会っておきたい気持ちがよく見て取れた。
 (もしかしたら、父上は覚悟を決めておられるのかもしれない)
 源三郎とは敢えてあっさりと別れたが、昌幸は此度の戦を存外大きく見ているのかもしれない。
 源次郎の全身を久方ぶりに武者震いが走る。それを悟られないよう、源次郎は『わかりました』と応えるのが精一杯であった。

 しかし、昌幸のささやかな願いは、沼田城の門前に立った瞬間に薙刀によって振り払われてしまった。


 「稲は、まこと良くできた嫁であるな」
 沼田城を臨む宿坊にて。日も落ちて何も見えない庭をぼんやりとした目に映しながら、脇息にもたれかかった昌幸は何度も零した。
 数刻前、固く閉ざされた沼田城の堅牢な門を前に、真田昌幸と源次郎父子は開門をめぐって門番相手に押し問答を繰り返していたのだ。
 「先触れは出した筈である。開門せよ」
 「奥方様は、真田家のお二方様はけっして城内に入れるなとお命じでござります。どうぞお引き取りを」
 少し前には勢ぞろいで武運を祈願しつつ送り出したばかりの国主を無碍に追い返すこともできず、門番も困惑しきりであった。
 そして平静ならば不用意に家臣を困らせるような真似はしない昌幸が、今ばかりは国主の矜持を忘れて食い下がっている。
 「しかし、この城はわが息子の領地であるのだぞ。領主の親が城に入れないとはいかに」
 「仰せのとおり現在の領主は真田伊豆守さまであられます。我らは主の命令に従わねばなりませぬ」
 「では稲をここに連れて参れ。直接話をする」
 「拙者どもが奥方さまを外へ呼びつけるなどという不遜な真似はいたしかねまする」
 「……父上、ここは一旦引き取りましょう」
 あまりに必死な父の姿を見かねた源次郎が、改めて使者を立ててから出直すよう提案しようとした時。
 「真田安房守、左衛門佐両者に告ぐ!」
 門の脇にある通用口が内側から開かれ、戦装束の稲が薙刀片手に現れた。
 「義姉上!」
 その出で立ち、険しい表情は、どう見ても義一家を歓待する様ではない。
 さらに稲は、薙刀の先をあろうことか昌幸の鼻先に向けたのだ。
 「先触れからの報告は聞いております。わが夫・伊豆守と袂を別たれた以上、お二人はもはや我らの敵でござりまする。敵を城内に引き入れるなど、留守を預かる者として絶対にあってはならぬこと。どうしてもここを退かぬと仰るのでしたら、力ずくでお引き取りを願うまで」
 さあ、と稲が薙刀を一振りする。気迫に押されて一歩後ずさった昌幸の目の前で、翻った薙刀がもう一度風を切る。
稲の父・本多忠勝がそうしているように、彼女も長い数珠を胴巻きの上から袈裟がけにしていた。薙刀を振るうたびに じゃらりと鳴る音は、まさしく使者を弔う僧が奏でる音そのもので。
 我に返った昌幸は、ふうと息をついて退却を命じた。
 「……まこと、源三郎が留守を安心して任せられると話していただけの事はある」
 逃げるように城を離れ、仕方なく城下の正覚寺に今宵の宿を借りて落ち着いたのだが、通された部屋に落ち着いた途端に昌幸は腑抜けたように座りこんでしまい現在に至っている。
 「恨んでおいでなのですか?」
 「いや。あれが武家の奥として本来あるべき姿なのだ。それに比べて、わしの何と甘いことであったか……孫への情で目を曇らせてしまったという点では、わしも太閤のことを言えないな」
 いつも強気で敵との駆け引きを愉しんでいるようにも見えた父が肩を落として溜息ばかりを繰り返す様を見たのは初めてだった。ずっと大きかった背中が、今ばかりは小さく寂しげである。
 「本来ならば、このような場所に未練がましく留まるのも恥ずべきなのだが……」
 「いえ、今日はもう遅うございます。夜間の行軍は沼田の民にも無用な心配をかけてしまいますゆえ、名胡桃城に移るのは明日にいたしましょう」
 落ち着いて秀忠の動向以外の情勢を分析する時間も必要だった。西での戦がいつ始まるのか、戦場がどのあたりになるのか、そして各地の武将はどのように動くだろうか。昌幸はすでに大まかな勢力図を頭に描いていたが、その読みを裏付け、あるいは修正を加えてより確かな戦局予想を図るためには確かな情報が一つでも多く必要なのだ。上田にて秀忠を足止めすると決めた以上、先に放った出浦や佐助達が持ち帰った情報をもとに布陣を定めて策を練る必要がある。石田の戦いより早くても遅くてもいけない。
 「父上。食事が喉を通らないのは分かりますが、ここで倒れられては上田の存亡にも関わります。お気を落とさず、どうか疲れを癒し英気を養ってください。兵糧番に粥でも作ってもらいますゆえ」
 何とか父を元気づけようと腰を上げた源次郎は、宿坊の階を下りたところで寺の住職と鉢合わせた。
 「住職どの?」
 「夜分遅く失礼いたします。殿、お客様がお見えでございますぞ」
 「?」
 「どうぞ本堂に」
 偵察が戻ったにしては早すぎるし、今の沼田で昌幸を訪ねて来る者に心当たりもない。顔を見合わせた父子を導くように、住職は黙って本堂へ二人を案内した。祭壇に蝋燭の火が煌々と灯る本堂に二人を通すと、自らは入らず一礼して襖を閉める。
 広い本堂の中央、蝋燭が煌々と灯る祭壇前で、麻の着物を身に着けた母子連れが観音菩薩像に手を合わせていた。着衣こそ粗末であったが、その姿を見間違えることはない。 
 「稲?」
 「義父上さま、昼間はご無礼をいたしました」
指をついて深々と頭を下げる稲の両脇にいたのは、彼女の長男の吉丸、次男の政助。二人は昌幸の顔を見るなり『じじさま!』と歓声を上げて飛びついて来た。
 「これは一体どういう事だ?」
 「徳川の大殿は真田家を疑っておられたと聞いておりまする。大殿に忠節を誓うと決めた真田伊豆守の妻として、徳川から来た家臣も混じっている門前ではああするしかございませんでした」
 「では……」
 「誤解なさらないでくださいまし。こちらのお寺には、わが殿の戦勝を祈願するための参詣に参ったのでございます。そうしたら、たまたま義父上がお泊りであっただけのこと。まことに『偶然』でございますわ」
稲の大きな目が現状を偶然であると義父に向かって説き伏せる。昌幸もその表情につられて小さなため息とともに苦笑いをもらした。
 「そうか……偶然か」
 「偶然ついでで申し訳ございませぬが」
 稲は子供たちを立たせ、小さな肩を抱きかかえた。
 「この子たちは、義父上さまのことが本当に好きなのです。吉丸も政助も、大坂を出たそばからじじ様に会いたいと駄々をこねて乳母を困らせておりました……ここでお会いできたのも御仏のお導き、どうぞ抱いてあげてくださいませ」
 「この子らは、わしをまだ『じじ』と呼んでくれるか」
 「じじさま!」
 「……おう」
 昌幸は駆け寄った孫二人を抱き止め、桃のように柔らかい肌に頬ずりをした。もう何度もそうされた感触を憶えているのか、子供たちはころころと笑い声を立てて楓のような手を昌幸の頬に押し当て、膝の上に頭を乗せて甘える。
 「この子らが元服する時、もうわしの顔など憶えておらぬかもしれないが……二人とも健やかに育て、そして幸せであれ……ああ駄目じゃ、仏の前だというのに欲が止まらぬわい」
 床の上に涙の染みをいくつも作りながら、昌幸は肩を震わせる。
 「じじさま、泣いてるの?どこか痛いの?」
 人生のほとんどを謀略に費やすことに終始しているうち、いつの間にか皺だらけになっていた老兵の頬を、孫の小さな手が代わる代わる撫でていた。昌幸は『どこも痛くない、大丈夫だよ』と繰り返しながらさらに涙を流す。
 「……まこと、稲はよく出来た嫁であるな」
 夜が更けて帰っていく稲や孫達の背を見送る昌幸が何度も何度も呟く言葉に、穏やかな顔の観音菩薩はいつまでも優しく耳を傾けていたのだった。


 翌日、早朝に沼田を出てすぐ隣にある自領の名胡桃城に移った昌幸は、そこで軽い不調を訴えて床についていた。長旅からの疲労だから数日静養すれば良くなるであろうとの医師の診立てに安心した源次郎は、伴となるわずかな者以外の兵を先に上田へ返す手配をした後で徒歩にて領地を見て回ることにした。
 まだ佐助も出浦も戻っていない。今後の戦を何よりも気にする昌幸の傍に源次郎がついていると、昌幸は床から出て戦略や各国の情勢分析の話し合いを始めようとするのだ。源次郎の姿がない方がゆっくり休めるだろう。近くに里がある者には一泊の里帰りを許した。
 他国の間者の目を少しでも欺くため地侍と同じような粗末な着物と編笠で身を偽り、この地から近隣の里へ戻る兵に紛れてまず徒歩で城下を離れる。そして兵の一人の家から馬を借りたところで一気に走り、文字通り人里離れた山間の平地に出る。
 そこは真田の隠し田であった。この地をよく知る者でなければ途中で迷ってしまうような場所であり、もちろん検地台帳にも載っていない。どこの大名も、此度のように急な戦に備えてこのような田を領地にいくつか所有しているものだ。
 豊臣秀吉による小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城も北条氏滅亡の後で廃城となってはや十年。天下泰平の総仕上げとなる筈であった戦からわずか十年で、世はまた戦火の時代に戻ろうとしているのだ。
 「結局、武士が存在する限り戦は起こるものなのか……」
 田は、立秋前にもかかわらずそろそろ収穫時期を迎えていた。金色の稲穂が大きくしなって豊かな実りを教えてくれる。世がどれだけ荒れようとも、この景色だけは変わることがない。何とも言えぬ安心感をもたらす金色のうねりに心を優しく撫でられるような気持ちで田を眺めていた時。
 「へえ。この辺じゃ、もう稲刈りできるのか」
源次郎の隣に、突如として人影が立った。顔を見ずとも声だけで分かってしまう……そのたびに源次郎の胸を高鳴らせる男。
 「……徳川公と一緒ではなかったのか」
 「上杉攻めには加わらなくて良いから北の固めをしっかりしておけと徳川に命令されて奥州に戻るところだ。帰りがてら、沼田に居る秀宗を引き取りに来た」
 「ご子息が沼田に?」
 「おまえの親父殿が、気を利かせて大坂から脱出させてくれた」
 昌幸が伊達の呼応に自信を持っていたのはこういう経緯があったからか。源次郎はようやく得心した。
 その嫡男はというと、伊達家中に厳重に警護されて既に国への帰路についたという。政宗は先に沼田城へ到着していた稲から昌幸と源次郎が沼田に向かっている事を聞かされ、昌幸に礼を言うために待たせてもらっていたと打ち明けた。
 「安房守どのには、上杉討伐が始まったら真田が上杉に寝返から呼応してくれと打診を受けてはいたんだが……石田治部も大概せっかちな男だったな。戦場が西に移れば俺は手を出せない」
 会津で徳川を叩いておけば俺にも天下獲りの機会が訪れたのに。政宗は口惜しがった。
 「……結局、徳川方についたままか」
 「戦そのものが流れるんだからどうしようもない。上杉が会津を出ない限りはまともにやり合うつもりもないぞ。つまり今回は上杉に睨みを利かせながら様子見って事だ。娘も江戸に居るしな」
 「娘御……たしか、まだ六歳くらいだったな」
 「事実上の人質だ。縁戚を結んでまで俺を抑えておきたいと徳川から思われているのなら光栄なんだが、何せ相手があの狸親父の息子だろう?俺の自慢の娘の夫があの親父そっくりに育った日には目も当てられないぞ」
 笑うに笑えない軽口を叩いた後、政宗は改めて田を眺めやった。
 「……いい田じゃないか」
 「ここは他の田より日当たりが良いので、田植えの時期をいつもよりひと月早めている。幸い今年は春先から気候が良かったゆえ、無事に米が育ってくれた」
 「兵糧も確保できるしな……が、いささか心もとなくないか?」
 「真田は兵糧に困るほどの長期戦は行わぬ」
 きっぱりと言い切る源次郎には、さすがの政宗も目を丸くした。
 「たいした自信だ。まあ、実際あの親父の突飛な采配にはどんな軍師も敵わないし、上田城や砥石城は水攻めも兵糧攻めも、力攻めだって効かない良く出来た城だ。国衆の結束が強いから調略で落とすこともできないし、ほんとに敵にはしたくないもんだなあ」
 「まるで見て来たような言い方だな」
 「ああ。道すがら、この左目でしかと見て来たぜ。だから逆らわず大人しくしている」
 「……まったく、抜け目がないのはそなたも同じだ」
 呆れて肩をすくめた源次郎を、政宗はいつもの自信に満ちた笑いで受け流した。
 「何だ、上田城に立ち寄れば茶でも出してもらえたか?」
 「城を守る忍衆の苦無を潜り抜けられたら、な」
 「ああ、そういえば真田には武田信玄公の時代から暗躍している伝説級の忍も居るんだったな。いくら払えばそんな凄腕の忍を召し抱えられるのか、ご教授願いたいくらいだ」
 「うちの忍衆は金子ではなく信頼で働いてもらっているから、どのような大金を積んでも引き抜きは無理だ。それより、そなたこそそれだけ日の本を神出鬼没に飛び回ってよく平気なものだな」
 「伊達は基本的に徳川方だから、奴の家臣や与力の土地ならどこを旅していても案外平気なんだよ。まずいと思ったら領主に『通行料』を払えばお咎めなしだし。面が割れているってのも、案外役に立つものだ」
 「謀略に嵌れば命の危機もあるというのに、そなたはどこまで無謀なのだ」
 「無謀じゃなくて、これも戦いなんだよ。たったひとつの命をかけるんだ、あらゆる手を尽くしておくべきだろう?勝ち負けは時の運とはいえ、運を引き寄せるために自ら動くのは当たり前だ」
 「自ら動く、か……」
 なかば運命的に西軍への参戦を定められてしまった源次郎にとって、政宗の言葉は心に沁みた。定められた道であっても、自ら動けば結果は変わるのだろうか。
 農民ばかりの地で明らかに武士と分かる佇まいの者がいつまでも立ち話をしていれば、どこで密使の目に留まり会話を盗み聞かれるか分からない。源次郎は場所を真田家ゆかりの古い屋敷に移した。昌幸の来訪を聞いたのか、屋敷は屋内だけでなく庭や天井の梁まで掃除が行き届いている。
 源次郎は屋敷を管理する老夫婦……高齢で隠居した元家臣と侍女に客人の来訪を伝え、離れた場所で警護に立っている片倉小十郎の分もろとも少しの酒と簡単な食事の用意を頼む。そうしたところで、改めて二人は差し向かいで腰を下ろした。
 「まあ、とりあえず直接戦うことにならなさそうで何よりだ」
 「お互いに、な」
 運ばれてきた酒を酌み交わし、杯を軽く掲げて乾杯する。思えば、このように政宗と二人きりで向かい合うのも初めてだった。
 政宗はいつもこうやって室の誰かと膳をともにするのだろうか。政宗の事を考える時いつも湧き上がる複雑な気持ちを悟られないよう、源次郎は盃を傾ける。
 「真田安房守と戦えなんて無茶を言われないのは有難い限りだ。俺も大概頭脳派だと思っているが、あの親父さんとだけは渡り合える気がしない」
 「戦となれば、さぞ長期化しそうだな」
 「俺の後ろには奥州の民がいる。前にも言ったと思うが、国主は彼らの命を預かって戦う身だということをよく考えないといけない」
 「民の……命」
 「おまえのところと同じだよ。徳川と石田のどちらが勝っても信濃国が生き残るために、真田家は一家で東西に分裂したんだろ?」
 「どうしてそれを……というのは愚問でござったな。流石情報が速いと言うべきか」
 真田がそうしているように、伊達もまた各地に密使を放っているのだ。
 そんな源次郎の心中などまるで察していないようで、政宗は酒と肴で人心地ついてから話の続きに入る。
 「安房守を表裏比興の者と謗る奴もいるようだが、俺はそうは思わないぞ。東西に挟まれた信濃という国で、おまえの親父が民を守るために下した、それも一つの決断だ」
 「そう…見て良いのだろうか」
 「おまえが納得していない顔をするのも当然か。一族で敵味方に分かれて血肉を分けた争いをするかもしれないんだから……皮肉なものだ」
 「否定はしない。どれだけ周囲から嘲笑されようと、真田家はその名と上田の地を守り抜かなければならないのだ。そのために兄を討つことになっても、兄に討たれることになろうとも」
 「では、いざとなったら本気でやり合うんだな」
 「すでに水杯も交わした。もう戻れない」
 「奥はどうした?」
 「上田が攻められる事態を想定して、母上とともに実家の大谷家に保護を頼んでおいた。もっとも、上方の人質とされても一向に構わぬ」
 「石田を裏切るつもりなど毛頭なかったからか」
 「いかにも」
 「……本当に本気なんだな。おまえも親父さんも」
 「私は本気だ。どちらが勝っても家は残るのだから、父上も自らの思うままに戦う仰っていた」
 「そうか……あの親父さんも、やっぱり武士なんだな」
 ひょっとしたらと思ってはいたが、政宗は根っこの部分で昌幸と似ているのかもしれない。優先するべきものを見定め、そのためには手段を選ばずしたたかに立ち回る。ただ、その手法が異なるだけで。
 「政宗どのは、武士がいる限り戦の世は終わらぬと考える事はないか?」
 「そんなの考えるまでもないだろう。少なくとも、俺らが生まれる少し前の時代に生きた連中が現役でいる世は天下泰平じゃなくて天下布武のままなんだよ」
 もっとも、と政宗は畳に寝転がって天井を眺めた。粗末な板張りの前に自分の右手をかざして。
 「肉親に手をかけるってのは、大義だ何だと美辞麗句で取り繕ったところで所詮は罪だ……俺も父親と弟をこの手で殺し、非情者よと後ろ指を差される身だ。俺はその咎を甘んじて受けながら一生背負って生きていかなきゃならない」
 手に目をやったまま、政宗はぽつりと打ち明けた。
 「同じ境遇だからか、少しばかり愚痴につきあってもらいたくなった。いいか?」
 「私でよければ」
 以前小田原でちらりと聞いた噂が源次郎の脳裏によみがえる。
事実なのだとしたら、あまりに過酷だと感じた話であった。

 「突然隠居すると宣言した父親から、俺が当主の座を継いだばかりの頃の出来事だ。家中がみな隻眼の大将などと侮るのを振り切るようにちょっかいを出した隣国で、俺は非道を働いた。
  結果、俺に…伊達家に恨みを募らせた奴は、服従すると見せかけて俺の父親を油断させ人質として攫った挙句、俺に従属してくるよう脅しをかけた。無論、従う訳にはいかない。会津と陸奥の国境に追い詰めたところで、俺は父親を盾にしたそいつに銃口を向け……」
 この手で引鉄(ひきがね)を引いた、と政宗は右手を握りしめた。

 銃は刀や槍と違って直接人を斬る感触はないが、距離がある分相手が絶命するまでの恐怖に満ちた顔や苦悶の末に白目をむくまでの過程がつぶさに見えてしまうのだ。その記憶は、斬り捨てるのとは比べものにならない呵責を心と体にもたらすのだろう。簡単に殺傷できてしまう代償として、心が大きな後悔を背負うのだ。
 「盾にされた親父が、そうするよう俺に諭した。それでも、やはり後味の良いものではなかったな」
 「しかし、そなたにはそうする以外なかったのだろう?」
 源次郎の問いかけに、政宗の香りがふわりとゆれた。
 「そいつの要求をのんで父親を助ければ、伊達の新たな当主は脅しに容易く屈する者よと諸国に知れ渡る。伊達家の誇りってものを貶めないために…二度と馬鹿な真似をする奴を出さないために、俺は親父を撃つしかなかった……親父は、この俺に国主としての心構えと戒めを命がけで教えてくれたんだ。俺がひとつ賢くなった代償は、あまりに大きすぎた」
 それだけじゃない、と政宗は続ける。それまで心に設けていた記憶の堰が切れたように。
 「奥州を平定してすぐ、太閤から小田原への参陣を求められたんだが、出陣の前夜に俺の膳に毒が盛られた。小田原には死に装束で参上したが、少しだけ運が悪ければ俺は小田原には行けずあの装束で米沢に葬られていたかもしれない」
 政宗が秀吉に遅参の弁明しなかった理由は、源次郎にも察しがついた。国内の揉め事を他国に知られることは、『我が国は脆くなっておりますゆえ、攻め込むなら今ですぞ』と言いふらすようなもの。
 正直さは、時としてほつれた糸のように身を滅ぼすものである。
 「一命を取り留めた俺はすぐさま毒を持った奴を討ったが、そいつは……俺の弟だった」
 「弟?」
 「小次郎…弟は、母親に言われるまま俺を暗殺しようとしていたんだ。小次郎が斬られたと知るや否や、母親は実家に逃げ帰ったよ」
 「母上って……そんな事があっていいのか」
 「あったから、こういう結果になってるんだよ。……俺は、物心ついた頃から母親に嫌われていたからな。母が伊達家と領土争いが絶えない最上の出身だったからか、俺が生まれてすぐにこんな眼になったせいか。理由は訊いたことがない。とりあえず分かるのは、俺の代わりに小次郎を国主に据えたがっていた事だけだ」
 訊けるわけなどないだろう。源次郎は政宗の心中を察した。
 「母の心がどこにあったのかは、いまだによく分からない。政略結婚で嫁いで来た割に父上との仲は悪くなかったし、弟の小次郎のことは溺愛していた。俺にもたまに気が向けば茶など点ててくれたり、書写を見てくれたりもした。一体俺は嫌われているのか好かれているのか、俺が一方的に好かれていると思いたかったのか、今も謎のままだ」
 「……愛そうとして苦しんでいたのではないか?そなたも、そなたのご母堂も、お互いに」
 「?」
 「父上に対する私がそうなんだ。私も、父上の事が好きか嫌いかと言われたら嫌いだと答えてしまうような場面がいくつもあった。女として生まれた筈の私がこうして男として生きていることに始まり、戦では戦況の有利な方につくための裏切りを繰り返し、大恩のある武田家の危機に救いの手を差し伸べようとせず、結果として武田家を見殺しにしたこと。けれど憎んでいる徳川に兄を人質として差し出し、今では兄上と敵対しようとしている。父上にとっての私はただの駒なのかと悩む時がある」
 「まあ、おまえのところも結構壮絶な事情だもんなあ」
 「でも、今は結局こうして上田に戻り、父上とともに徳川と戦おうとしている。私だけが治部さまの許へ馳せ参じることも出来るのだが」
 「完全に切り離すことは出来なかった、か」
 「ああ。自分の手で上田を守りたいという気持ちも無論あるし、父に嫌われたくない…自分が帰る場所を失いたくなかったのも本心だ。完全に理解することも完全に憎むこともできず、けれど父上がそうする事で真田は生き延びて来られたのだから父上は正しいのだと無理矢理納得しながらついて来たが……その結果、今の真田は一家を分断して争うことになっている。真田は此度も生き残るだろうが、果たして私自身の選択は正しかったのか……どこかで父上を諌めるべきであったのか、反抗するべきだったのか、答えは見つからない」
 「それは、おまえが父親を好きだからだろう?」
 「随分と簡単に結論づけてくれるなあ」
 「他人事だから客観的に見ることが出来るんだよ。……ああ、そうか。俺と母親の関係と同じか」
 「うむ。背景は違えど、政宗どののご母堂も私と似たような気持ちであったのかもしれぬ」
 「そっか。俺はあの人が好きだったんだな……で、あの人が愛していた弟を容赦なく叩っ斬ってしまった」
 ふう、と政宗が胸板を上下させた。
 「俺は弟のことも嫌いじゃなかった。が、この時代じゃ情に流されたら殺される。弟を斬った時、俺の頭の中には『生きたい』という気持ちしかなかった。伊達家のためだの何だの後付けの理由は幾らでもあるが、何てことない、こいつが生きていればいずれ俺は殺される、死ぬのが怖いと思っただけだ」
 「けれど起こってしまった事は覆らない、か……兄弟で真向かうのは私だけだと思っていたが、そうではないのだな」
 「同病相憐れむ……語弊はあるかもしれぬが、そういったところか」
 「そうだな。己の気持ちというのは、戦の采配よりも扱いが難しい」
 胡坐にも疲れた源次郎は、政宗を真似てころりと横になった。同じ天井を眺めると、少しだけ政宗の今の心情に近づけるように思える。
 「けれど、卑怯でも何でも生き残るのは立派な勝ち戦だ。徳川のじいさんだって、子供の頃から長い人質生活を送った割に武田には『一、二、三』で完膚なきまでに叩きのめされ、上田じゃ明らかに格下だった筈の真田安房守に煮え湯を飲まされ、小牧・長久手では豊臣に勝てないと悟ってさっさと降ったのに、今では豊臣を踏み台にして天下を狙っているんだぜ?」
 若かりし頃の徳川家康は織田信長から一千もの兵を借りていたにもかかわらず、武田信玄の西進を止められなかったのである。その際、徳川軍は武田軍に対してわずか三月たらずの間に三度の敗北を喫していた。
 一言坂、二俣城、そして三方ヶ原。政宗が言う徳川の『一、二、三』である。
 特に武藤喜兵衛こと真田昌幸が軍師として采配を振るった三方ヶ原の戦いでは半日と戦えず、忠臣を二人も身代わりにしてもなお討死寸前まで追い詰められた。挙句、浜松城まで逃げ帰る際には恐怖のあまり馬上で粗相をした事まで日ノ本全土に知れ渡っているのだ。
 その男が、今では豊臣秀吉の定めをことごとく無視して幅を利かせている。
人生とは、つまるところ矜持や見栄を捨てて生き延びた者勝ちなのだと政宗は自分なりの解釈を加えた。
 「徳川は生きることで機を伺っていたのだな」
 「そういう事だ。生きていれば巻き返しの機会もある。なりふり構わず、考え動き続ける限り」
 だから、と政宗は体ごと横を向いて源次郎を見た。つられて源次郎も政宗の方へ体を向ける。
 「俺はこれが言いたくておまえに会いに来た。いいか、真田。絶対に死ぬなよ。どれだけ恥を晒そうと、無念で消えてしまいたくなっても、とにかく生きろ」
 「政宗どの?」
 「おまえに死なれると……俺の楽しみが一つ減る」
 「楽しみとは、私がそなたに小田原での意趣返しをする事か?」
 「その気があるなら受けて立つが……今は違うだろう」
 「……後は何かあっただろうか」
 政宗は「はあ?」と頭をかきむしった。
 「俺にそれを言わせるか?おまえ、この非常時に国主である俺が家臣らを先に帰してまでおまえを待っていた理由を察しようとはしないのか」
 「あ……」
 そこまで言われて気づいた源次郎の顔がみるみる真っ赤になる。
 「まったく、こんな鈍い女にわざわざ逢いに来た俺の面子って一体何なんだよ」
 「……すまぬ。が、政宗どのが来てくれた事は嬉しいと思っている」
 「本当か?」
 「もちろん」
 源次郎は、精一杯の勇気を出して政宗の手を握った。剣を振るう者ならではの、指先の皮が厚くなった大きな手である。しかし、その手は温かかった。
「政宗どの……あなたもどうか死なないで」
その瞬間政宗の瞼がひくりと動き、唇からかすかな吐息がもれた。指先から伝わる熱が温度を上げたかと思うと、政宗が源次郎の手を握り返してくる。
 「そういう事をこんな状態で言うもんじゃないぞ?男は、情が先走るともう歯止めが利かなくなる」
 「政宗どの?」
 「……春日山で会った時には、俺の好敵手になりそうな奴が日ノ本に居ると知って胸が躍った。小田原でそいつが女だと知れて、今度は興味を持った。どんな生き方をしてきたのか、どうして男と偽る苦労をしてまで大坂城に仕えているのか……知れば知る程、その存在が頭から離れなくなって……こういう感情こそ最も扱いが難しいものなんだと気づいたから、今俺はここに居る」
 握った手を強く引かれ、源次郎の顔が政宗の胸に押し当てられた。
 「言っておくが、これは小田原の時のような狼藉じゃない。俺は本気だ。男同士で寝るのを世間じゃ衆道っていうんだけど……さて、この場合は何て呼ぶんだろうな」
 「呼び方などどうでも良い」
 政宗に抱きしめられた源次郎は、政宗が自分と同じ気持ちでいてくれた事に涙がこぼれそうになった。この手を離してほしくないと思い、政宗にすがりつく。
 「……いいのか?」
 「……」
 答えのかわりに源次郎がおそるおそる腕を伸ばすと、政宗はさらに体を強く源次郎に押し付けた。背中に回った腕に力をこめて、源次郎は自らの心を覆っていた鎧を外す。
 「私はそなたを慕っている……小田原のすぐ後、奥に指摘されて初めて自覚してからずっと、叶わぬ想いだと否定し続けてきたが……やはり無理だ」
 「そうか……俺と『おんなじ』だったか。ははは」
 「『おんなじ』?」
 「俺もおまえが好きだ。徳川の屋敷で言ったような冷やかしじゃなく、本気で自分のものにしたい」
 戦場では互いに武士として渡り合う間柄であっても、鎧の中身はやはり政宗の方が良い体格をしていた。それなりに鍛えている筈の源次郎の肩も、まるで子供のように政宗の両腕におさまってしまう。政宗は源次郎を強く抱きしめ、頬ずりし、そして左目で源次郎を見つめた。
 「ひとつ訊いておきたい。俺の眼を見ても、まだ心は変わらないか?」
 政宗が眼帯の紐を解く。着物と同じ上質の布でこしらえた眼帯が、するりと音をたてて床に落ちた。眼帯の下、痘瘡のため大きく膨らんだ瞼の間から三日月のような白目が覗く様があらわになる。三日月の眼は幾らかの怯えをはらんでいた。
けれど源次郎は一瞬たりとも眼をそらさなかった。異形ではあるが怖くなかったのだ。
一体どのくらいの長さかも分からぬ見つめ合いの末、政宗が嬉しそうに口許を緩めた。
 「……この眼を見て顔色を変えなかった女は初めてだ」
 「強い眼だ。この右眼があるからこそ、残る左眼でそなたは常人には見られないものを見て来たのであろう?」
 「そこまで大層な事は考えてもなかったが、これを見た相手からは嫌悪か戸惑いの反応しか見たことがない」
 「奥方も?」
 先ほどの話から、おそらくそうなのだろう。政宗は自嘲するように軽く息を吐いて笑った。
 「母親や弟は言うまでもなく、奥の誰もが文字通り腫物に触るような態度で眼のことはできるだけ話題にするまい、己の視界に入れまいとしているのがよく解った。だから閨でも…伽の間も眼帯を外すことはない。そうしたって、眼帯がうっかり肌に当たろうものなら逃れようとするんだ。伝染るものじゃないと知っていてもなお、だ」
 「政宗どのの室にいる方々は、好いた相手のすべてを好きでいたい、見ておきたいとは思わないのか」
 「感情の上での好き嫌いと見てくれの好悪は別、と思いたい。そもそも、あいつらが俺を好いているかどうかも分からないからな。正室をはじめ妻の半分は政略結婚だし、行きずりで情けをかけた結果子ができたから室に迎えた者も、好きなのは俺じゃなく『国主の室』という肩書きと安定した暮らし、俺が戦うことで得られる身の安全なのかもしれない」
 「でも情けをかけた者はみな面倒をみるのであろう?」
 「それは俺の一方的な考えだ。俺が戦で大負けして落ち武者になった時、果たして何人ついて来るやら」
 「敗れる気のない者が何を言ったところで絵空事にしかならないが……そんなに卑下するな。みな、好きでなければとうに逃げているだろう」
 こちらまで哀しくなる、と源次郎は政宗の右眼を指でなぞった。触れられる瞬間、そうされることに慣れていない政宗の顔が強張ったが、源次郎が何度も瞼をなぞるうちにどんどん表情が和らいでいく。母親に撫でられて安心する赤子のように、どこか淫蕩とした顔はやはり美しいと源次郎は思った。
「その眼を差し出すことで、そなたはこうして生き延びているのだ。ならば生かされるだけの役目…天命があるはず。それを遂げるまで、そなたにはその眼で堂々と生きてほしいと私は思うぞ」
 「では、俺の天命が戦場でおまえを討つことだったとしたらどうする?互いに守るものを背負って、それでも戦わなきゃならなくなったらどうする」
 「その時は……正々堂々と一騎打ちに応じよう」
 「情を捨てられるか?」
 「わからない。けれどこの乱世で、人は同時にいくつもの欲求を叶えることはできない。私は、己の中で最優先するべきことを見失ってはならないのだ」
 「面白い。さすが男として育っただけのことはあるな」
 「そう、かもしれないな。もう女には戻れない気がする」
 「そうか?」
 政宗の手が源次郎の肩から胸のあたりをなぞった。そうして触れられることすら初めての源次郎が肩を震わせる。怯えるようにも見える仕草の中、耳元に政宗は軽く唇を当てた。
 「今、俺の眼の前にいるのは、どこから見ても女だ」
 源次郎の唇を政宗の唇が塞いだ。小田原で受けた屈辱的なものとはまるで違う、温かい接吻だった。男女とはこのような甘美な触れ合いをするものなのか。恥じらいよりもそれに応えたい大きな衝動が源次郎の思考を奪ったが、どう応えればいいのか分からず戸惑っているうちに政宗は源次郎の唇を丹念に吸っていく。戸惑う女を導くように。
 「こんなに追い詰められるまで答えを出さなかった自分に嫌気が差す。もしも時間を遡れたのなら、おまえを奥州へ連れて行く機会もあったかもしれないのに」
 ほんのわずか、息継ぎをする合間に政宗が囁いた。
 「奥州へ?」
 「家臣や人質として、じゃないぞ。ちゃんとした……室に、だな……」
 「……そうだな。どこかでそういう未来を選べたかもしれなかったな」
 二人は再度、長い長い口づけをかわした。
 山の向こうに陽が落ちて、空を赤く染めた光の余韻がゆっくりと夜を呼んでくる。民が農作業の片付けを行い、家路につき、夕餉を済ませるだけの時間を与える晩夏の長い黄昏時なのだが、今の二人にとってはまるで足りない長さである。
 窓ごしの空が茜色から群青色、そして藍色に変わっても、二人はまだ離れられなかった。
 闇で相手の顔が見られなくなる不安から逃れるように、どちらからともなく体を寄せ合う腕の力が強くなっていく。腕から肩、そして胸へ。胸が触れ合うと、どちらからともなく服の紐を探ってその下にある素肌を求め合う。
 政宗の手に肌を探り当てられ、源次郎の眼が熱くなった。好いた相手と心が繋がるのはこれほどまでに幸せなものなのだと。たとえそれがこの一時だけのものだとしても。
 合わさった唇の間に涙が入り込み、涙の味を二人で分かち合う。
 もはや互いに感情を止めることができず、政宗と源次郎は初めて縁を結んだのである。


 「簪(かんざし)を持って来ればよかった」
 互いの熱がまだ肌に感覚として残っている夜更け。袷を素肌に掛けたままの源次郎を左手で腕枕し、髷を解いた髪を右手で梳きながら政宗は言った。
 正式な婚姻となる前、求婚の意思表示として男が女に簪を贈る習慣は古くからある。政宗はそのことを言っていたのだ。
 「気持ちは嬉しいが、貰っても今の私には宝の持ち腐れだ」
 「腐っても腐らなくても、贈られることに意味があるんだろうが」
 「そういうものなのか?」
 「おまえは祝言の時、奥に贈らなかったのか?」
 「婚礼の支度金と一緒に大谷家へ贈った長熨斗や昆布などの中に入っていた記憶がある。ずいぶんと高い値だと思ったが、相場も分からないから母上が大坂の商人と相談するに任せてしまったし……縁起物として亀の甲がどうとか言われたような気がするが、自分で使った事がない物の価値などまるで分からなかった」
 「昆布と同格って……そうだった、たしかにおまえはそういう奴だよな」
政宗が苦笑いした。眼帯を外したままの右眼がかすかに引きつる。
 「べっ甲でも螺鈿でも簪は高価だから、よほどの道楽でもない限りそう何本も収集するものじゃない。そういった『特別な』物を男から贈られるってのが女冥利に尽きる瞬間で……って、こういう事を男に解説させるな」
 「知らなかった……政宗どのは詳しいな」
 「室の連中からねだられる事があるんだよ。だからって誤解するなよ。楽器や絵巻物などは余程の贅沢品でない限り割と何でも買ってやっているが…そうしておけば室の人間関係が穏便になるからだが、簪だけはそうほいほいとばら撒く趣味は俺にはない。室には輿入れの際に一本だけ贈り、あとは自分で買えと言ってある」
 「という事は、室の数だけ簪を買ったということか」
 「そう言われると、なんだか女癖が悪いと責められている気分になるぞ」
 「いや、武家とはそういうものだと納得していたのだ。政宗どのが考える甲斐性の話は前にも聞いていたし」
 「甲斐性……あ、あれは一種の張ったりというか、おまえを怖がらせるための脅しというか……ああもう、あまり詮索するな」
 頭をかきむしった政宗は、ふいと源次郎の両肩を掴んで鼻先を突き合わせるように顔を近づけた。
 「わかった。簪はおまえと他の室を同じに扱うようなもの、やはりおまえにはもっと違った『特別』を贈るべきなのかもしれないな。とはいえ今すぐ贈れるものは持ち合わせていない……ならば名を贈るというのはどうだ」
 「名……」
 「武士なのだから、呼び名が複数あったっていいだろう。『幸村』という名はどうだ?」
 「ゆきむら?」
 「ああ。『国』の礎は、辿って行けば『村』という小さな存在に行き着くもの、侍が守るべきは何なのかを忘れぬように……俺が肝に銘じている事を、おまえにも知っておいて欲しいと考えていた」
 「侍が守るべきもの……」
 「それと…おまえは『ありえない』と怒るかもしれないが、おまえはいつかどこかの村に……できればうちの領地のどこかで身を落ち着けて静かに、幸せに暮らせるようになって欲しいと俺は願っている。村で幸せに、だから幸村だ」
 「一人の女として、か……落ち着くどころか、東西合戦の行方によっては来年の今頃には墓前で般若心経でも読まれているかもしれないのだが」
 「そうならないよう、幸村を名乗っておけ。名というのは一種の呪文だ、何度も何度も名を名乗り、周りから呼ばれるうちに、名に込められた言霊が持ち主の運命を動かしていく」
 俺はそう教えられたと主張する政宗がいかに源次郎の行く末を案じてくれていたか。源次郎は彼の気持ちの深さを知って『ありがとう』と自然に笑っていた。
 「まさか、ずっと考えてくれていたのか?」
 「悪いか?さすがに名だけはどの室にも贈ってないぞ。子の名だって天下人からの下賜やら家の伝統やら陰陽やらで決められてしまう。秀宗の『秀』だって、あの太閤からの下賜だぞ。俺がちゃんと名を考えたのはおまえだけだ」
 それ以上の反論を許すまいと、政宗は源次郎を両腕で抱きしめた。源次郎も政宗の素肌に顔を寄せて応える。
 「悪くなどあるものか。幸村…よい名だ、遠慮なく頂戴しておこう。たった今からそう名乗らせてもらう」
 だから、と源次郎は政宗に願った。
 「すまぬが、いちばん最初にそなたの口から私をそう呼んでくれ。名付け親として、私の新しい名を」
 「もちろん」
 政宗は恋人の願いを喜んで聞き入れた。
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