第2話 真田源次郎誕生

文字数 28,966文字

永禄九年 甲府 

 酒で気が大きくなった、など言い訳にしかならない。
 武田信玄をして『片眼』と言わしめた真田一徳斎幸隆の三男・武藤喜兵衛…のちに『真田昌幸』と名乗る若者は、生まれたての赤子を見てがっくりと肩を落とし自らの行いに恥じ入った。

 「姫君にございまする」
 「何と!」
 甲斐の国、かの『猛虎』武田信玄が治める躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を南に臨む城下。武田に仕える家臣達の屋敷が立ち並ぶ一角にある真田家の館で産婆の手伝い娘から知らせを受けた真田昌幸は、御座所に敷かれた畳の上で脇息にもたれ頭を抱えた。安物の几帳が柳のようにゆらゆらと揺れる。
 昨夜の夕餉の後に産気づいた妻を案じて夜通し待ち続けた末、日の出とともにもたらされた報せであった。長丁場に船を漕いでいた小姓や女中達は一斉に顔を上げて「おめでとうござりまする」を大合唱したが、当の喜兵衛はただ放心していた。
 「女子か……おなご……」
 盛大なため息は、傍から見れば緊張から解き放たれた安堵のものと受け取られたであろう。しかし、喜兵衛の本心は違うところにある。
 (まずい、まずいぞ。お館様にどう申し開きしたものか)

 真田家は、もとは信州上田から上野国吾妻を経て東国の要所である沼田へと通じる街道の途上に郷を持つ、昔ながらの小豪族であった。三方が崖に囲まれた山の頂に小さな城を構えて郷を見下ろしてはいたが、それは土地の主としての象徴と周辺の物見を兼ねたようなもので、館はその麓、郷の民と同じ場所にあるので立ち位置としては豪族を名乗るのもおこがましい、地域で少々力が強い名主といったところである。雪が融ければ畑も耕したし、実りを迎えれば農民と入り混じって祭りを祝う土着生活を何代も続けてきた。
 平和な自給自足生活が維持できる世であれば、それで充分だった。しかし、まったく無縁である京の都における変化の波が信濃の山々を越えて及んで来たのが一徳斎の時代。
 力を持つ物同士が各地で争いを繰り広げ、土地を奪い合う。それはたちまち戦国時代と呼ばれるまでに全国へ波及した。力を持った豪族…武将が全国各地から台頭しては我先にと領地を奪い合う時代になったのである。
 彼らの目的地はただ一つ、天皇が住まう京都である。それぞれの武士が立ちはだかる敵を攻め、あるいは講和を結びながら勢力を拡げて上洛を目指す。既に三好某によって傀儡と化していた足利将軍家にとって代わり、帝から『征夷大将軍』の号を得るためだけに。
 そうなれば、真田の郷も高みの見物という訳にはいかなかった。すでに何万もの兵を従えて勢力を伸ばしていた武将たちは、本州のほぼ中央に大きく広がり上州・越後・関東のいずれにも接する信州を戦力拡大の要所としてぜひとも押さえておきたいと考えたのだ。そして彼らに抗う術は、真田にはない。
 そこで、真田郷の主・真田一徳斎幸隆は信濃国界隈の豪族『国衆』たちと手を組み、信濃を一種の惣国として守り抜くことを考えた。
 国衆は、境界を接する砥石城の主・村上義清と手を結び砥石城に入った。当時の信濃で最も有力な武士である。だが殆ど活躍の場を与えられないまま一徳斎は砥石城を追われる。
 何故そのような仕打ちを、などと嘆く前に、武田・村上・諏訪の連合軍が馬首を連ねて海野平に布陣した。この頃すでに今川・北条といった大侍と渡り合っていた武田の前に、信濃の国衆はあっけなく屈したのであった。
 辛くも信濃の北端へ脱出したものの、砥石城を吹き抜ける風が村上の高笑いに聴こえるような屈辱の中、一徳斎は考えた。
 このまま信濃の土地が戦場になるのも、一族が滅びるのも御免こうむりたい。守りたいのなら攻めろ。信州に隣接した地を治める武将に臣従するのだ。時代が本格的に荒ぶる前に。
 三十六計を待たずして、一徳斎は大きな賭けに打って出た。
 一徳斎は北の上杉憲政に降り、上杉の庇護下へ入った。憲政は、かの上杉謙信の養父である。上杉憲政本人は戦にひどく不向き…もとが臆病な人物であったが、それはどうでも良い。数年働いた後、海野平を攻めた武田信虎の息子晴信(のちの信玄)が父を追放して武田家当主の座におさまると上杉から出奔し、既に武田に仕えていた真田の本家筋にあたる海野氏を頼る形で武田に臣従した…下衆な言い方をすれば『どさくさに紛れて潜り込んだ』のである。武田の内部でお家騒動が起こっているという情報を早くから耳にしていた…常に上杉の側に居て些細な報告にも聞き耳を立てていた一徳斎の計算だった。
 もちろん信濃においては海野の一族をはじめ室賀、矢沢、高梨といった縁戚筋の人脈を残し、武田には妻子全員を人質に差し出すという入念な根回しも忘れていない。
 一徳斎は、まだ勤め先を変えようが誰も気にとめない身軽な一兵卒であった己の状況を逆手に取ったのである。
 文字どおり虎の威を借りる…といった揶揄など意に介していられない。甲斐の虎の兵力を借りた一徳斎は、信玄が攻めあぐねていた砥石城をあっさり陥落させた。武田と村上の激戦があった上田平から砥石城近辺に暮らす者たちの縁故を余すところなく活用して厩番や下働きの侍女を少しずつ送り込み、村上に近い物達がこっそり行っていた年貢の着服や務めの怠慢といった弱味を探らせた。それら情報を駆使しながら彼らに脅しをかけて内通させ、村上氏を内側から切り崩したのである。一徳斎の見事な功績であり意趣返しであった。
 砥石城での成功を弾みにして、一徳斎は鎌倉往還や鳥居峠といった主要な街道を押さえ、北は沼田や岩櫃といった要所を次々に押さえていく。
 彼の働きにより、武田は上杉や北条をさしおいて信州の要所を統治することに成功した。これら働きの褒賞として、一徳斎は信玄から甲斐武田領の一部としてではあるが真田郷周辺の知行を許されることとなった。
 武田に臣従してからわずか五年で、一徳斎は真田郷をその手に取り戻したのである。
 無謀きわまりない賭けに勝った一徳斎、そして武田家家臣として育った息子たちは武の武田家に智をもって仕え、徐々に頭角を現していった。

 武藤喜兵衛の名も立場も、一徳斎の成功があるからこそ成り立っているようなものである。
 上田の地に真田ありと世に認めさせた一徳斎は、つい最近になって病を得たため信玄から隠居の許しを得て真田郷へ戻っていた。家督は長男・信綱が継ぎ、次兄の昌輝とともに武田の家臣として甲斐に残っている。上に二人も兄がいるのだから、三男である昌幸に家督が回ってくる事態など本人を含めて誰も想像していなかった。それゆえ昌幸は物心ついた頃から武田家の一介の武士として主が命ずるままに動く、いわば勤め人であり主を支える軒下の柱のような身分で気楽に戦える身でもあった。それが結果として武功に繋がり、信玄に取り立てられることにもなったのだから運命というものは分からない。武田の縁戚で既に廃嫡となっていた『武藤』姓を信玄が復活させると、その当主として指名された昌幸が『武藤喜兵衛』を名乗ることとなった。

 弱冠二十歳にして己の可能性に見切りをつけ、生き延びる可能性の高い主に臣従しながら一生を要領よく振る舞うのは、自尊心との戦いでもあった。だが昌幸は、無謀となるより生き延びることを選んだ。
 矜持を保つために大義を付けるとしたら、信州の田舎侍であった父がその腕をもって世に名を知らしめるまでに育てた 真田の家を守るために。現実的には、猛将として名を全国に馳せる信玄を側で見ながら成長していくうちに、世には絶対的な天分というものが存在すると知ってしまったのだ。
実際に昌幸…喜兵衛は信玄を畏れ、敬愛し、尊敬し、師とも仰いでいた。信玄も昌幸を重用し、側近として信玄の『眼』とも呼ばれるほどの信用を得ていた。かの川中島の戦いにも、二人の兄とともに従軍している。喜兵衛も、重用されることで父が築いた真田家の礎を守るという手法を忘れていなかった。前年に誕生した長男の源三郎がもう少し成長したら武田家に人質として差し出す約束も出来ていた。
 しかし、喜兵衛はすでに父親ゆずりの先見性と思考ですでにその先を見ていた。
 継嗣の武田勝頼は、甲斐の虎と呼ばれた猛将である父を知る者から見ればどうしても心もとなさを感じてしまう。武田家の伝統と言っても過言ではない壮絶な家督争いの末に信玄の長子が廃嫡され、結果として庶子の勝頼のもとへ継嗣の座が転がり込んできたのだ。そのため本人もまだ自分が甲斐武田という大国を率いる立場にあることをあまり自覚していなかった。勝頼自身はたいへんな努力家であり不肖とまではいかないが、人としての器…人望も実力も信玄には遠く及ばない。あれは天下には上れないだろうと喜兵衛は読んでいた。だが、いちど人を従えた者の常として、勝頼も今更どこかへ臣従する気はなさそうである。降りる気はない、さりとて勝ち抜ける力もないのであれば、行く末はおのずと見えている。本人が気づいていないだけで。
 信玄もこの頃喀血する場面が幾度かあり、健康に陰りが見えている以上、いつ武田から手を引こうか考えるべき時期に来ていると喜兵衛は感じていた。信玄が亡くなったら、何とか理由をつけて源三郎もろとも真田郷に戻る腹積もりである。
 その後で必要になってくるのは、何よりも戦力であった。ともに戦場を駆け、あるいは天下を手中にする武将のもとで武藤喜兵衛の名を上げる力となる戦力が。
 無論、喜兵衛が武田を自らの手で潰すつもりはさらさらなかった。世の中では下剋上という耳触りの良い言葉のもとに成り上がるのが流行のようだが、天下を取る器でない者が派手な動きをして世間の耳目を集めるなど愚の骨頂であると喜兵衛は考えていた。そもそも、自分よりはるかに技量も度量も勝る武田信玄をもってしても困難を極める上洛は、たとえ自分がどのような幸運の持ち主であったとしても為しえるとは思えないし運などという見えないものに自らの命を懸けようとも思わない。無論、一家の当主となったからには大名になってみたい野心はなくもないが、一徳斎が大博打に出てまで守ろうとした信濃の地の安堵より優先されるべきではないと考えていた。
 そして、いずれは我が子たちにその役目を引き継がなければならないのだ。すでに嫡男は誕生していたが、彼を補佐するにはどうしてももう一人男子が欲しい。政略上必要であれば人質に出しておき、いざとなれば呼び戻せる男子が。嫡男にもしもの事があっても、男子ならば家督を継がせられる。
 武田のことは、忠義に殉ずることも厭わないと息巻く二人の兄に任せておけばよい。自分がするべきことは、感情に任せず真田を守り抜くための算段を寸分の狂いなく実行することである、そう信じていた。

 が、喜兵衛の一年近くにおよぶ熟考も、天命という壁にぶち当たったのだ。

 「山手や、体は大事ないか」
 「これはお館様。早速のお越し、嬉しゅうござりまする」
 昌幸の妻・山手は、一徳斎の同僚・宇多頼忠の娘である。幼い頃からたびたび顔を合わせていた二人は信玄の仲立ちで祝言を挙げ、長男の源三郎が生まれたのが十六歳の時。そして齢十八の立春直前に二児の母となった妻を、まず昌幸は見舞った。産褥でまだ床から起き上がれない山手は、枕の上で頭を下げた。隣に控えていた乳母と薬師が深々と頭を下げ、女中はすぐさま祝いの桜湯を用意しに厨に向かった。一徳斎はこれから躑躅ケ崎館へ出仕しなければならないため、酒を口にはできないのだ。
 「おかげさまで無事に誕生いたしました。お館様にはご心配をおかけいたしましたが、二人目でありますゆえ源三郎の時よりも安産であったと薬師が言ってくださいました」
 「それは重畳。山手も健やかそうで何よりだ」
 余談ではあるが、山手と歳が離れた妹『うた』は、長じてから近江の石田三成のもとへ嫁いでいた。縁戚が時の勢力を大きく左右する時代、この縁もまた後の真田一家の運命を大きく左右するのだが、喜兵衛も山手も今はまだ二十歳と十八歳の若夫婦、将来にさまざまな夢や願いを描いて語り合う年頃である。
 「おお、源三郎も子の誕生を喜んでおるようだな」
 乳母に連れられて来たよちよち歩きの源三郎が、母の隣に寝かされた赤子をもの珍しそうに覗き込んでいた。時折その指で赤子の頬をつつく仕草をする様を、山手殿や乳母は笑みとともに眺めていた。
 「やや児ながらお顔の整った、かわゆらしい姫様ですこと。ほれ、観音菩薩さまのような穏やかなお顔つきでお休みになってあられます」
 「うむ。山手に似ておるな」
 赤子を見ている時間だけは、さしもの知将もただの父親に戻ってしまって顔がほころぶ。罪のない寝顔は、この子が妻の胎内に宿ったと知った時からその運命をあれこれと算段していた喜兵衛が久しく忘れていた『恥』の感情を呼び戻してくれる。
 まっさらな絹のように穢れない赤子も、長ずれば戦場に駆り出されてその手を血に染める。武運が尽きれば、自刃しようと斬られようと首実験の台に並ぶ羽目になる。戦場で転がる幾多の躯の後ろには必ずこのような母の苦しみと赤子の時代があったことを考えると、喜兵衛は無常を感じずにはいられない。
 自らにできるのは、この子が波のように押し寄せる困難をすべて乗り越えて天寿を全うできるよう願い、それが叶うよう教育することくらいである。
 「ですが、産声は源三郎より大きかったのですよ。かの静御前のような白拍子か女武者にでもなるつもりでしょうか」
 「……」
 女武者、という喩えは、もちろん山手にすればほんの冗談のつもりであった。しかし喜兵衛はぎくりとする。喜兵衛の頭の中に、ひとつの考えが芽吹いた瞬間であった。
 「殿。お館様(信玄)も此度の慶事を心待ちになさっていたと伺っております。どうか、厚く御礼申し上げていただきとうござりまする」
 「うむ。いろいろと気にかけていただいたゆえ、御礼を兼ねて今日じゅうに報告に伺わなければならぬな」
 「では、その際にお名前を報告いたさなければならぬでしょう。いかになさいます?」
 「名、なあ……」
 すでに信玄から直々に賜っていた赤子の名を記した奉書紙。徳注の漆箱に大切に仕舞ってあるそれを思い出した喜兵衛は頭を掻きむしった。

 「武藤よ、春先には三番目の子が生まれると聞いたぞ」
 事は半年ほど前。山手の第三子懐妊が公となった直後に催された納涼の宴の場に遡る。
 日ノ本でも指折りの酷暑の地である甲斐国にもようやく秋風が吹き始め、誰もが安堵する季節。戦の疲れを癒し、その武勇とともに家臣が増え続ける武田旗下の交流を深め士気を高めるために信玄は季節の折に宴を催す。
 広大な躑躅ヶ崎館の大広間。酒が回るにつれ無礼講となり賑やかを極めた席の中でも、家臣は順番に上座の信玄に酌をしに上がる。喜兵衛の番が回って来たところで、信玄は喜兵衛に向かって子の話題を切り出した。
 「は。某のような端下者の家中での出来事にまでお気にかけていただき光栄にござりまする」
このとき数え二十一歳。ようやく面皰(にきび)跡が消えたばかりの若侍は、深々とひれ伏した。
 「一姫二太郎の喩えのごとく、そちには既に女子と男子の両方がおる。では此度は男子か女子か、どちらだと思うておるか?」
 「は、はあ……」
 生まれてくる子の性別など、阿弥陀如来しか存じ得ない事だ。だがこの場で求められているのはそのような無粋な答えではない事は喜兵衛にも理解できた。すなわち、主君が気に入る回答をするべきなのだと。
 「某の勘ですが、長男の源三郎に続き此度も男子ではないかと思うておりまする。わが真田家に男子が多く誕生するのも、お館様をお支え申し上げ、甲斐国を盛り立てて行かんとする役目を担うがための神仏の思し召しではないかと」
 「ははは、調子の良いことを言いおる。が、頼もしいことこの上ないのう」
 「恐れ入ります」
 足の踏み場もないほど転がった大量の徳利の中身は水であったのではと思う程しゃんとしている信玄は、上機嫌のまま小姓に奉書紙と筆を所望した。揃ったところで、空の徳利をかきわけて空いた床の上で紙一杯の大きな文字を記す。
 信玄は、それを喜兵衛に手渡した。
 「これを取っておけ。赤子の名ぞ」

 信繁
その名は、大きな喜びと重圧を同時にもたらした。

 「信繁……もしや、典厩信繁公のお名前でございますか?」
 「うむ。武田の片腕としての働きを期待すればこそじゃ。わが弟のように、武に優れ人徳も篤い武士になろうぞ」
典厩信繁こと武田信繁は、信玄の同母弟であった。信玄と肩を並べるほど勇猛果敢、かつ頭脳明晰で人当たりもよかったため人望があり、対外的な交渉にも長けた優秀な武将である。喜兵衛も、信玄と同じように信繁を尊敬し敬愛していた。
しかし、同じ家系に優秀な兄弟が揃ったところで手を取り合って戦うという事は実に難しいのがこの時代。信玄・信繁兄弟は周辺勢力による家督争いに巻き込まれ、長い間隔たれたまま和解できずにいた。しかし血縁を重んじる信玄は自らが家督を継いだ後もずっとこの弟のことを気にかけ、ともに武田を盛り立てていきたいと考えていたといわれる。川中島でようやく長年の軋轢を氷解させ馬頭を連ねて戦うことができた喜びもつかの間、信繁は討死してしまったのだが、その際に信玄は人目もはばからず信繁の亡骸を抱いて号泣したことは喜兵衛も兄たちから聞いていた。
それだけ思い入れのある弟の名を家臣の子に授けようとすることから、信玄の胸の内がおのずと知れるであろう。喜兵衛はさらに額を床に擦りつけ感謝の意を示した。
 「典厩さまにあやかった立派な御名を頂戴するなど、まこと身に余る幸せ。今後とも、親子ともども武田のお力となれるよう身を尽くし精進してまいりまする」
 「うむ。期待しておるぞ。さあ、武田の繁栄を願ってもう一献」
 「ははーっ」


 そして半年経った今、喜兵衛はまだ頭を掻きむしっている。
信玄の期待や願いに泥を塗る今の状況、しかも発端は自らのお為ごかし。
(失態だ……)
落胆と不覚で混乱した気持ちの只中で姫の名などもうどうでもよくなっていたが、さすがに主が心待ちにしていた程の誕生にぞんざいな名で応えるわけにもいかない。
(いや、殿が心待ちにされていたとなると……)
 真田家に新たな子が誕生するのを信玄が待ちわびていたのは、武田勝頼の嫡男となる信勝が誕生したことにも関わりがある。すでに人質としての出仕が決まっている真田源三郎が信勝のお付きとなることが内定していたが、信頼のおける者を一人でも多く側に置きたいと願う信玄や勝頼の意向により、真田家の第二子も同じように信勝の近習にしたいという打診は昌幸も折にふれ受けていた。
 男子であれば、それでもよい。いずれ武田を離れるとあっても、武田の家で当主と机を並べて最高の学問や武芸を仕込んでもらうのは当人たちにとって大きな財産となり真田家の力になるからである。
 しかし、生まれた子が女子だと素直に謝罪したら。
 真っ先に喜兵衛が考えたのは、子が信勝の許嫁としてそのまま行儀見習いに入ってしまうのではないかということであった。だとしたら、人質よりも大きな懸念が発生する。
 婚姻関係とは、つまり武田家と真田家が親族となることである。武田を離れることは許さぬと釘を刺されて繋ぎ止められることになるのだ。
 それが単なる杞憂ではなくなりそうなことは、喜兵衛がよく知っていた。今や信玄の側近となった真田の家に、将来の主と同じ年に生まれた姫君。子の誕生を心から待ちわびていた信玄であれば、そのくらいは実際に言い出すであろう。信玄がたとえ冗談のつもりで口走ったのだとしても、それが周囲の耳に信玄の意向と伝えられればあれよあれよと赤子同士で婚約の段取りが整ってしまいかねない。
 (冗談ではないぞ。そうなれば武田と運命をともにすることになる。武田がこのまま繁栄を続ければ良いが、北条・今川・上杉らの中で生き残っていける保証はどこにもない)
 そこまで先読みしてしまうと、もはや神仏が喜兵衛に女子を授けた理由など詮索する余裕はなかった。信玄を敬愛してはいたが、いまだ周辺勢力としのぎを削っている現状では縁戚関係という枷を真田家につける訳にはいかない。
 子の性別が変えられないのなら…いや、今ならばまだ。
 「信繁、だ」
 「え?」
 突如として告げられた男子の名前に、山手は眼を丸くした。
 「信繁?児は女子にありますれば」
 「いや、男子じゃ。この子は男子として育てると決めたのだ。諱を信繁とし、幼名は源次郎とする。誰かここに奉書紙と筆を持て」
 「……」
 呆気にとられる妻、茶を点てる手が止まる侍女、襁褓をとり落とす産婆。
 一瞬、その場の空気が困惑に包まれたのが喜兵衛にも伝わってきた。しかし喜兵衛は引き下がらない。
 「この子はのちに真田を継ぐやもしれぬ子である。一人前の武士として育て、乱世を生き抜かせるとわしは決めた。反論は認めぬ」
 まったく予想だにしなかった主の言葉に誰もが耳を疑ったし、主は気がおかしくなったのかとも思う者もいた。だが主の命令は絶対である。一同は困惑しながらもかしこまりましたとその場にひれ伏し、早速男子用の祝い着や膳の注文に取りかかったのであった。
 (そうだ、この子は男児、真田を守る男児なのだ……)
 喜兵衛は何度も自分に言い聞かせた。
 いずれ武田から手を引く事は決めていたが、その後の絵図はまだ見えていない。いつの世も渡世は綱渡りのようなもので、いつどこで思わぬところから風が吹いて足元をすくわれるか分かったものではない。戦国でそうなれば命の保証もないのだ。それならば、現時点において自分で決められるものは決めておこうというのも無理はなかった。
 それに、という計算も喜兵衛にはあった。真田家はすでに一家臣として立ちまわることを決めた家。主のもとで武功を上げることはあっても、天下に関わってくるほど名を挙げることなどあり得ない。たった一人の小さな偽りくらい、大局にさしたる影響を及ぼすはずもないだろうと。
 かくして、誕生した子は男児として信玄に報告され『真田源次郎信繁』と命名された。そうなれば、真実を知る少ない家臣たちは全員共犯である。主の決めたことに反対する者は誰ひとりとして出なかった。
 のちに日の本一の武将と讃えられる『真田幸村』の誕生であり、小さな偽りどころか彼にかかわる幾多の人間を多数巻き込んでの、歴史に対する大嘘の始まりである。


 母も乳母も、さすがに菩薩のような顔をした女児を『源次郎』と呼ぶのは躊躇われたので、父が名付けた元服後の予定名である『信繁』から一文字取って『繁』と呼んでいた。『しげる』ならば男女どちらであっても違和感はない。この子を男子として育てると決めたことに一抹の後ろめたさを感じている喜兵衛も同じように子を『繁』と呼び、それが自然と周囲に波及して、誰からも『繁』と呼ばれながら子は健やかに成長していった。

 『繁』という字には、『繁栄』に代表されるように大きく栄えるという謂れがある。
武田信玄自慢の『武田二十四将』に名を連ねる智将の次男にその通称があてがわれたのは、もしかしたらその生涯を暗示するための必然であったのかもしれない。
 『繁』という字には、『忙しい』『あらゆるものが入り組んだ複雑さ』という意味も併せ持っているのだ。

 「そちが源次郎信繁か。女子のような端正な顔をしておるのう」
 躑躅ケ崎城の大広間。喜兵衛の父・真田一徳斎や二人の兄をはじめとした武田二十四将が左右を固める中、上段の正面で裃姿の武藤喜兵衛と幼子が厳かに頭を下げた。
屏風を後ろに上段に腰かけているのは、そうしているだけで山のような威圧感を与える髭面の武将……武田信玄。繁こと源次郎信繁と信玄との、初めての謁見である。
甲斐の主は、遅い乳離れをしたばかりの繁を見て目を細めた。
 繁は、父の喜兵衛とともに信玄の正面でちょこんと頭を下げている。乳母が寝物語で語ってくれた鬼が実際にいるとしたら、目の前の武将のような大男に違いない。そういった興味から武将の顔を見てみたくて何度か顔を上げようとしたのだが、そのたびに喜兵衛から後ろ頭を押さえられ畳に額を擦り付けられていた。
 「近う」
 天狗の団扇のように大きな扇子がゆらりと動き、あしらわれていた組紐がばらばらと音をたてて舞った。焔のような赤い紐に見とれた繁がまばたきを二回ほどした時、信玄のほうからかすかな香の匂いが漂ってきた。
 「これ、繁」
 父に促され、繁は前に進み出た。数歩歩いたところで視界が暗くなる。信玄の影の中へ入ったのだ。
 膝をつくことを忘れて、繁は初めて信玄を見上げた。
 大柄で屈強な武将は、皺の奥の眼を見開いて繁を睨んだ。掛け軸の『達磨大師』が目の前に飛び出してきたかのような迫力である。
 怖い、というのが率直な感想であった。それも道理、その眼で信玄は数知れない戦を勝ち抜き、敵将を圧倒してきたのだから。
 しかし繁は信玄を睨み返した。なぜだか、負けてはならないという気持ちが繁の胸の奥に生まれたのだ。眼をそらすな。心が命じるままに、繁は瞼が痛くなるくらい精一杯の力をこめて信玄を見つめ返した。「頭を下げなさい」という父の声はただの音にしか聞こえなかった。
 周囲の誰もが息をのむ音をたてることすら憚る、緊迫した時間。
 殿様と幼子のにらめっこは、殿様の試合放棄で幕を下ろした。破顔した信玄は愉快そうに扇子で膝を打つ。
 「ははは。おぬしはこの信玄に睨み勝ちおったか。面白い」
 繁の後ろでひやひやしながら成り行きを見守っていた父や祖父が「恐れ入ります」とひれ伏した気配がした。我に返った繁も慌ててそれに倣う。
「よき童じゃ。線は細いが、なかなか強い眼をしておるな。勝頼や信勝ですら泣きわめいた、この信玄の睨みに逃げ出さなかった童は初めて見たぞ。それに器量が良い。将にならんと欲する時、人々を魅了する器量というものは、気迫で威圧するのと同等の力を発揮するものじゃ」
 喜兵衛には、信玄が繁のことを自らの宿敵と称えている上杉謙信に例えているのだとすぐに察しがついた。毘沙門天の生まれ変わりと自称する謙信の話は喜兵衛も父幸隆から聞かされていたし、川中島では姿を遠目に見かけていた。たしかに一国の将にしては小柄で細身の、美丈夫と言っても支障のないような武将であったと記憶している。しかし十年近く前の「川中島の戦い」においてその美丈夫は乱戦の中を単騎で武田の本陣にまで乗り込んだ挙句、本陣で采配を振るっていた信玄と斬り結んだのだ。見かけで人の技量を量るなかれ、真田家の開祖でもある一徳斎幸隆は喜兵衛たち兄弟に何度もそう語っていた。
 主の宿敵とはいえ自分よりはるかに格上の武将に自分の子を例えられ、喜兵衛は「恐れ入ります」と言ってさらに深々と頭を下げた。訳がわからないまま、繁も父の真似をする。甲斐の虎は獣のように豪快な声をあげて笑った。
 「喜兵衛よ」
 「はっ」
 「この童を、わしのもとへ預けてはくれぬか」
 「畏れながら、すでに信勝さまのもとへ人質として差し出すことを約束いたしておりますれば……」
 「いや。わしの小姓として、じゃ」
 「なんと!」
 広間にどよめきが広がった。喜兵衛はもちろん、繁にとっての祖父や二人の伯父も目を見開いている。もはや天下獲りは次の代に任せることを決め、甲斐や信濃の地固めに入った信玄ではあるが、それでも日ノ本にその名を轟かせた猛将の直々の申し出は異例中の異例である。その場で平常心を保っていたのは、まだ大人の上下関係を知らない繁だけであったかもしれない。
 「学問は信勝や源三郎とともに学問所で学べばよかろう。だが武芸はわしが仕込む。わしもそろそろ隠居に暇を感じておって、遊び相手が欲しいと思うていたのじゃ。この童、信勝や信幸より何倍も筋がよさそうゆえ、わしが持つすべての知識や技術を仕込んでみたい。わしが動けるうちに、な」
 「そのような事は仰いますな。殿には、これからも長く甲斐の国を導いていただかねば」
 「フフッ。わしは老いたが、己の眼がいま何を見ておるか分からぬほど耄碌してはおらぬぞ。何しろ、この眼は見えぬ未来まで見通す心眼ゆえ」
 「!」
 喜兵衛の背筋を冷たいものが走った。信玄の顔についている『眼』と真田家が武田に信を置かれて例えられている『眼』を引っかけていることに気付いたのだ。
父はもちろん二人の兄にも話していないのに、自分でも意識していないうちに武田を見限った胎の内が言動に出てしまったのかと喜兵衛は己を顧みた。が、次の代を念頭に置き始めてからは特に慎重に主に仕えて言動を慎んできたつもりであった。一体どこでぼろを出したか、一向に思い当たらない。
 ひょっとしたら、かまをかけられているのではないか。ここで迂闊なことを口走っては墓穴を掘ると考えた昌幸は、曖昧なため息で返事を濁して頭を下げた。信玄も、それ以上は言及せずに扇子を仰いで高笑いした。
 「ははは。わしの眼に叶った最後の武士が童とは愉快じゃ。決めたぞ、喜兵衛。袴着(数えの五歳で袴を身に着ける儀式)が済んだらすぐにでも寄越せ」
 周囲には、それは新たな人質としてこの童が取られたと思われたに違いない。事実、喜兵衛も将来に釘を刺されたような痛みを覚えた。
 「……はっ……」
 今はそれに従うしかない。少なくとも、信玄が生きている間は。
 胎をくくった喜兵衛は深々と頭を下げた。
 「幼子ながらかようなお褒めに預かるとは、親としてもまこと栄誉にござります。どうぞよろしくお頼み申しまする」
 「おたのもうしまする」
 舌足らずな言葉で父を真似た繁も頭を下げる。幼子の可愛らしい仕草に、その場にいた家臣たちみな顔が和むのであった。
 よもや、この童がのちに信玄にひけを取らない猛将になるとは誰も気づかないままに……いや、ひょっとしたら信玄は見抜いていたのかもしれない。
 自分が見ることのない次の世代において、この童が日の本一の兵と讃えられる日が訪れることを。

 信玄との約束どおり、それから半年もしないうちから繁は躑躅ケ崎館の道場に通うようになった。袴着を済ませたとはいえ、練習用の木刀、道着、手習い本の入った文箱に硯箱、朝食と昼食用の握り飯を一つの麻袋にまとめると、満年齢ではまだ三歳ちょっとの繁の体と同じくらいの大きさになってしまう。それを一人で担ぎ、城下の館から兄と一緒に毎朝歩いて城まで通うのだ。
 それは信玄の命令であった。足腰の鍛錬と、自分の身の回りの管理は自分でさせようという躾を兼ねている。
 道場に着いたらまず掃除から始まる。繁だけでなく、兄の源三郎や主君にあたる信勝も一緒に庭掃きから厠の掃除までをすべて行った。それも基礎体力の鍛錬であり、身分の壁を作らせないのも信玄の命令である。
 それが終わると、畑の手入れである。信玄は道場の裏に畑を作り、そこで子供らに作物を作らせた。収穫した野菜は昼餉を彩る。農民の苦労を知り、食の有難さを分からせるためであった。現代で言うところの『食育』だろうか。
 わずかな時間で朝食を済ませると、真田兄弟と同じように人質として甲斐に来ている他の若者が出仕して来る。そこから剣術の稽古であった。とはいえ入門したての者が稽古場に立てるのは最後で、三人は道場の隅でひたすら素振りを繰り返す。年長者たちが手合せする動きを横目で見ながら学ぶのだ。
 自分だったらあの場面ではこう立ち回る、優勢だった者でも一瞬の手違いのために負けてしまうのだ、というふうに。
 彼らが午前の稽古を終えて休憩に入ると、ようやく三人の稽古時間が訪れる。三人は、先に見ていた先輩たちの動きを真似て手合せを行い、派手な腕の振りだけでなく足さばきやかわし身のやり方を体で覚えていった。独学にありがちな個人の癖が出てしまうと、すかさず傳役が居残りさせて動きを修正させる。綿が水を沁みこんでいくように、子供らは自然と本物の武士の戦いを身に着けていった。
 昼食をかきこみ午後の稽古が終わると、日暮れまで手習所に移動して講義を受けた。朝からの稽古でへとへとになった童のこと、居眠りも珍しくはない。だがそうなるとすぐに講師から喝が入った。繁も小さな手で眼をこすりながら必死に講義について行ったが、帰宅して自らが記した手習い帳を見てみれば文字がぐずぐずに崩れていて何を記したのやら分からなくなっている日もしょっちゅうであった。
 ここでは、信玄は眠らないための体力を養うことに重きを置いていた。
 洋の東西・今昔を問わず、帝王や英雄と呼ばれる者は往々にして短眠傾向であると言われている。信玄が実践した兵法を編纂した孫子や名軍師・諸葛亮孔明もそうであったようだ。統治する者は、目まぐるしく変わる大局を常に睨みながら目の前の領地を治めなければならない。家臣が増えれば、下剋上や寝返りを目論む者も出てくる。おちおち眠ってもいられないというのが本音かもしれなかったが、実際に寝首を掻かれる危険を意識するくらいに出世した者ならば長時間の熟睡はなかなかできなくなる。戦となれば進軍の合間に馬上で家臣にすら悟られないほど短く眠るようなことも珍しくなかった。短い時間に集中して眠る習慣は、子供の頃から訓練しておくと後になって苦労はしないというのは信玄の経験からくる方針でもあった。
 とはいえ、そこはまだ童のこと。一日を終えてからまた道具を担いで館に戻ると、兄弟そろって庭先で崩れるように眠りこけてしまう毎日が続いた。しかし、真田家でも自ら目覚めるまで放っておくよう信玄から命じられている。夜の寒さで目を覚ましたら自力で部屋まで戻り、自分で湯浴みをしなければ夕餉と夜具での快適な眠りに辿りつけない。翌日もその次も同じことを繰り返すうちに、繁と源三郎は帰宅してもすべてを自分で行ってから眠る規則正しさを学習した。
 一年ほどそれを繰り返すうちに、まず真田兄弟と武田信勝の間に連帯感が生まれた。身分を超えた仲間である。
 そして、当初は疲れてたまらなかった体も気がつけば楽になっていた。体力がついてきた証であった。不思議なもので、あれほど辛かった訓練では物足りなくなった体は、階を上るようにさらなる高みを目指して厳しい訓練を己に課していくようになる。
 小さな侍の誕生である。そこからは、日々の修練が楽しくて仕方なくなっていった。
 だが、二年もすると、三人のそれぞれに微妙な力の差が生まれてきた。誰もが努力すれば遅かれ早かれ到達できる地点からその先は、個人の能力が如実に現れる世界である。伸びしろに違いが生じるのは仕方ない。
 そんな三人の中で最も力をつけたのは、最年少の繁であった。年長者二人よりも長く稽古を重ね、そして手合せでも決して自分から終わりにすることはない。
 繁は、武術が好きでたまらなかった。昨日できなかった事が今日できるようになる。確実に階を上がっているのが実感できたからである。すぐに剣術の基礎を覚えた繁は、三人の中でもっとも早く槍の訓練に進んだ。大人が使う槍を子供の背丈に合わせて短くした木槍に当初こそ繁は振り回されたが、ひと月のうちに制御する術を覚え、三月のちには自在に操れるまでに上達していた。どうやら剣よりも槍術の方が自分に向いているようだと自覚もしている。
 馬に乗れるようになってからは、立ち稽古のほかに馬上での手合せも覚えていった。こちらは武田が日の本に誇る騎馬隊が直々に指南をしたので、真田兄弟は子供ながらにして超一流の馬術を学んだことになる。
 道場に通う年長の者ですら目を見張る勢いでめきめきと成長していく繁の話題は城内でも将来有望な子供が現れたと期待をもって語られていたが、ちょくちょく様子を見に訪れる信玄だけは繁の異例なまでの成長ぶりに違和感を覚えていた。
 特に、自分が動けなくなるまで槍を振り回し続ける……猪突猛進がすぎて己の分を超えてしまうことが多々あるように見受けられるところなど。
 「そのひたむきさ……学ぶうちは良いが、自ら判断して動くようになると命取りになりかねぬな」
 突撃で一瞬にして散るつもりがないのであれば、無駄な体力の消耗を押さえ、退き際を教える必要がある。そう考えた信玄は、ある時道場でもっとも腕が立つ初陣間近の若武者と手合せさせてみた。繁の倍以上年上で力も強い者と戦わせ、繁の口から「まいった」の言葉を引き出そうと目論んだのである。
 しかし、繁はいとも簡単に彼を負かしてしまったのだ。これには信玄も本来の目的を忘れて驚嘆してしまった。
 戦に出られるだけの『技術』は、ある程度の経験を積めば誰でも身につけられる。部隊を率いるのも、兵法をきちんと学んだ上で戦場の地形や状況を把握し、各部隊の指示を聞きもらさずにいれば後は経験が教えてくれる。が、そこからさらに『将』となる者はみな通り一遍の経験以上に『戦いの勘』というものを持っていることを信玄は知っていた。相手の動きを見極め、どう立ち回るかがもっとも効果的であるかを考えるより先に体が反応する。声が命じる。そして追い詰められても動じずに活路を見出すことができる。計算する前に、数を見ただけで合計を弾き出してしまうようなものだ。日の本に数多いる武士の中から名を上げたほんの一握りの人間だけが持っているもので、誰にでもあるものではない。
 さらに言えば『技術』と『勘』を併せ持った上でさらに『運』を味方につけた者だけが天下獲りに名を連ねることを許されるのだが、とりあえずのところ繁はこの年齢にしては珍しく『勘』をよく身に着けていた。手合せを見ながら、信玄ならばこう捌くであろうと思う動きと同じことを繁はことごとくやってのけたのだ。まさに天賦の才能であり、信玄は自らの時代に繁がいたならば上洛を果たせたかもしれないと過ぎた夢を思い出したりもした。
とはいえ、今はまだ稽古の域を出ないので加減は教えなければならない。考えた末、信玄は繁を源三郎と信勝二人一緒に相手させてみた。繁一人に、年長者二人が別方向から同時に挑むのである。
道場に学ぶ少年武士たちが両脇に正座して見守る中、中央で手合せが始まった。検分役は信玄自らが行う。
 「始め!」
開始の号令がかかっても、兄たちは互いに顔を見合わせたり信玄の顔を見たりと動かない。本当に、年少者に二人同時に斬りかかってよいのか迷っているのだ。
 「これ信勝、源三郎。戦では三人も四人も同時に相手するなど珍しくもないことよ。本気で繁の首を獲りにかかれ」
 「は、はい」
 繁は、その間も木刀を中段に構えたまま前を見据えていた。どちらの相手の顔も見ていない。
業を煮やした信勝と源三郎は、ついに覚悟を決めて同時に床を蹴った。繁が中段に構えていたので源三郎は上段から、そして信勝は下段からと目配せしていた。
 「たあっ!」
 二振りの木刀が鼻先に迫ったところで、繁は身軽に後ろに跳んだ。上段、下段ともに空をきった木刀の勢いを制御できない童たちはよろめく。しかしそこは鍛えられた身体能力がものを言い、どうにか膝をつくことなく体勢を立て直した。そして後方に跳んだ際に足を滑らせた繁が脚にまとわりついた袴の裾を捌いている間に再度斬りかかる。木刀の余力が弧を描くまま、今度は上下段の役割を逆にして。
 そうできる木刀さばきも反射神経も、鍛錬を積まなければ簡単にはいかないものである。繁ばかりが注目を浴びる中、二人も繁に負けじと腕を磨いていたのだ。見守る者達からも声が沸き立った。
 素人目から見れば、多勢に無勢という言葉どおりの結果を予想したかもしれない。
 しかし、繁は劣勢に立たされてもなお冷静でいられる子供であった。袴の裾を踏んだまま、もう片方の足に重心を移して木刀を横に構え、二人の打ち込みを防いだ。それでも続けざまに打ち込まれたが、年少者とは思えぬ力で防戦しながら二人の歩調がわずかに異なることをいち早く読み取り、より早く斬りこんできた信幸の面にまず一撃をお見舞いした。兄が倒れるのを確かめもせず、すぐさま身を翻して木刀を頭上に振り上げていた信勝の胴を叩く。
 逆転勝利だと誰かが呟いたが、信玄にはそれが逆転ではなく力量の差であると見せつけられたように思えた。加減を教えるどころの話ではない。
 「ま、まいった」
 木刀を捨てて膝をつく兄二人を、繁は容赦なく打ちつけようとした。すかさず信玄が止める。
 「そこまでじゃ。繁、刀を下げよ」
 「なるほど、手合せを止める時は『まいった』と申すのですね」
 結果として、繁は劣勢に転じた時に『まいった』と言う作法を覚えた。すると、今度は兄と信勝を相手に毎日のように手合せを申込み、どこをどう攻撃したらより早く相手に『まいった』を言わせることができるかを試すようになった。
 どうやっても繁に勝てないので、当然のことながらすぐに兄らは繁との手合せを嫌がって逃げ回るようになった。次に彼らより手練れの若武者を相手に手合せを重ねたが、そこでも繁が『まいった』を言うことはなかった。どれだけ打ち倒されても、しつこいほどに何度も槍を取って立ち上がるのである。くたびれ果てた家臣が勘弁してくれの意味をこめて『まいった』と言うまで、半日でも一日でも戦い続けるのだ。
信勝や源三郎の泣き言は子供の喧嘩の延長のようにみていた信玄も、さすがに有望な若武者たちから泣きが入る有様を目の当たりにしては手を打たなければならないと考えるようになった。
 負けを厭う気性、気迫と根性は武士としての資質にあふれているが、それはまだ武田の城内でのこと。力だけがあれば良いというものではない。
 ただでさえ、戦場の異様な空気は人から正常な思考を奪うのだ。我を見失った数万の人間が凶器を振るって戦う戦場で猛進することは無謀以外の何物でもない。
 いや、もっと恐ろしいのは、何人をも凌駕する力と容赦を知らない心が同時に育ってしまった場合である。慢心であるうちはまだ良いが、それも過ぎれば残虐さに化けてしまうかもしれない。
 信玄は、繁の才能に織田信長を重ねて見ていた。
今は武田と同盟関係にある織田のように『天下布武』の号令のもとで圧倒的な力をもって強引に領土を広げる手法は、一見すると合理的ではあるがその内容たるや日の本を広大な田に見立てるとしたらそこに立つ人々を稲に見立てて、巨大な鎌で片っ端から刈っていくようなものだった。従順で武功のある者は身分に関係なく優遇するが、逆らう者には口にするだけで吐き気がするほどの残虐な見せしめを行っているとも聞いている。敗軍の将の頭蓋を酒の杯にしたという逸話まである信長の力が周囲に恐怖を生み、今は波紋のように恐怖が独り歩きし始めている状態だった。それでは恐怖心から従う者の数こそ増えるが、しょせん面従腹背なので遠からず寝首を掻かれてしまうだろう。そう信玄は考えていた。
 信玄が死んだ後の話になるが、実際に信長はその嗜虐性を嫌った明智光秀により本能寺で討たれているのである。
 信玄は繁を織田のようには育てまいと考えた。せっかくの天分が間違った方向に伸びないうちに鼻っ柱をへし折り、謙虚さを教えておくべきである。
 ある日、信玄は繁ひとりを道場に呼んで真向かった。
 「繁よ。今日はわしと手合せしようぞ」
 「お館様とですか?」
 師である信玄から直々に指導を受けていても、手合せは初めてであった。ついに力を認められたと思った繁は顔を輝かせる。
 「うむ、武器はこれを持て」
 「えっ?これは……」
 繁の顔は晴れから曇りへと一気に移ろいだ。いつもの木槍ではなく、漆が塗られた柄の先端には真新しい刃がぎらりと光っている。ほれ、と手渡されて受け取ったその槍は、殺気の分だけいつもよりずしりと重たく繁の両手に食い込んだ。
 「木槍ではなく、人を殺傷できる本物の槍だ。そして、わしが手にしている刀も刃引きしておらぬ。合戦と同じ、命をかけての手合せだ」
 「ですがそれではお館様に傷を負わせてしまいます。そうでなくとも、槍と刀の戦いでは間合いの長い槍の方が有利にございますれば」
 「フフフ、おぬしは自分が傷を負うことを考えておらぬのだな。が、それはどうかな。……さあ、本気で参れ」
 信玄が立ち上がると、繁がまっすぐ前を向いた状態では胸板から上が見えなくなる。さらに信玄は胸板や腕、脚にも筋肉ががっしりとついているので、実際に感じる威圧感は初対面の頃からさほど変わっていなかった。この威圧感をもって前線とは遠く離れた本陣に佇むだけで、真向かう敵を幾度となく震え上がらせてきたのだ。その信玄が、繁に刃を向けている。振り下ろされた瞬間、繁の身体は薪のように真っ二つになってしまいそうだった。
 だが繁は怯まない。いつもと同じようにやれば良いのだ。そう決心した繁は、思い切って槍を構えた。
 「やあっ!」
 「そりゃあっ!!」
 繁の渾身の一撃は、信玄の軽いひと振りで弾き飛ばされる。しかも反撃の方が自分の攻撃より十倍は重たい。繁は槍に持って行かれそうになる体をどうにか堪えて何度も槍を信玄に突き出すが、すべて軽くいなされた。しまいには槍先を上げただけで動きを読まれ、弾き飛ばされてしまう。ついに繁は槍を取り落としてしまった。
 「これが戦で命をかける兵(つわもの)の技よ」
 繁の頭上で信玄が高らかに告げる。実際の戦は、道場で若い武士を相手に『まいった』を言うまで何度でも挑んでいた手合せとは根本から違うのだと、そのとき繁は初めて知った。あれは稽古だから死ぬことはないと誰もが油断していただけのこと。それなのに勝ったつもりで一端の武士を気取って舞い上がっていた自分が恥ずかしくなり、繁は信玄の目を見ながら手探りで槍を握り直した。
 「まだ槍を持つ、その意気やよし。今度はわしから参るぞ」
 剣の周りに風をまとうような素早い振り。風だけで人を斬れるのではないかと思う鋭さと重さを自在に操り、甲斐の虎がひとりの童を真剣に討ち取ろうとしている。繁はどうにか動きを読み、身軽さを生かして右に左にと逃げまわるのが精一杯だった。
 逃げながら繁は信玄の動きに神経を集中させた。猛将とはいえ人が扱う剣ならば、必ず動きに法則性があるし隙も読める。そう考えたのだ。
 しかし信玄の動きはまさに縦横無尽で、逃げ回りながら隙を見つけることはできない。
 「わしの隙を狙うのは甘いぞ。合戦となれば気配など幾千幾万の騒音にかき消されるし、相手の動きも煙で見えぬ」
 考えまで見透かされていた繁は、さらに混乱した。どんな手合せでも面白いほどに相手の動きが読めたのが嘘のように、今は思考がまったく動かない。
 追い詰められた繁は、信玄が剣を突き出した瞬間ついに闇雲に槍を突き出してしまった。
 「ええいっ!」
 「甘い!」
 信玄は繁の一撃を左の前腕で払った。槍の長い柄がしなり、穂先が細かく揺らいでうなる。伝わってきた振動で腕が痺れた繁は、ふたたび槍を落として尻餅をついてしまった。
 「まだまだ!」
 負けたくないと立ち上がろうとした時、繁の首筋に信玄の刀があてがわれた。峯ではなく刃の方である。首の薄皮がピシッと音をたてて裂けた感覚は、繁が初めて味わうものであった。
 見上げれば、そこには顔も姿も仁王の形相で佇みこちらを見下ろす信玄の顔。
 殺される。
 繁の尻の下から生温かいものが床に広がり、その感触が繁の全身を走った。だがそれを恥じる余裕もないくらい、視界のすべてを占める信玄の姿は恐ろしかった。
 戦で死ぬとはどういうことか、繁はこのとき初めて知った。いや、大方の者はそれが人生最後に学ぶ感覚なのだろう。
 「ま、まいりました……」
 生まれて初めて、繁はこの言葉を口にした。この簡単な言葉にどれだけの屈辱が含まれているのかも知った。
 しかし、信玄は刀をおさめない。
 「実際の戦では、敗者はこのまま首を掻かれるのが決まり。『まいった』は許しを請うための免罪符ではない。己の首を掻いてよいと認めたことになるのじゃ」
 「そんな……」
 「さあ、おとなしく首を差し出すか?」
 「いやでございます。繁は主君と真田の家を守るよう父から言い渡されておりますゆえ、ここで死ぬわけにはまいりませぬ」
 「ならばどうする」
 さあさあ、と信玄の剣から力が伝わってきた。
 「!!」
 繁は尻もちをついたまずるずると後ずさり、信玄の刀が全身の急所から外れたところでそろそろと膝を立てた。それでも信玄が軽く一歩踏み込めば繁の身体は袈裟斬りにされるところである。繁は信玄の反応を伺うように視線をそらさず立ち上がる。
 信玄はそこで刀を下ろした。
 「正解じゃ、繁」
 「わたしは逃げようとしたのです。それが正解なのですか?」
 「では、首を掻かれることを正解としたか?」
 「それは……」
 そこで信玄はいったん話を打ち切り、まず繁に着替えと道場の掃除を命じた。自分で汚した箇所を綺麗にするだけでなく、広い道場全体に雑巾がけをさせた。その間、信玄は道場の縁側に胡坐をかいて茶を飲んでいる。
 繁は無心になって掃除をしながら、先の信玄との戦いを振り返っていた。本当に、逃げることが正解だったのだろうか。

 ……逃げる必要がないくらい強くなるべきなのか。
 ……首を掻かれる瞬間まで相手の隙を伺い、反撃に転じるべきだったのか。

 次から次へと思いつく自分の答えに、繁はどうしても納得できなかった。

 ……信玄の力は圧倒的で、それを上回る力を自分が身に着ける前に誰かに負けてしまうかもしれない。
 ……反撃に転じたくても、こちらが少しでも変な動きをすればすぐに首を掻かれていただろう。

 では、首を掻かれないためにどうすれば良かったのか。
 そのあたりは、物事の先を深く読んでしまう真田家の血統を強く受け継いでしまったのだろうか。繁は幼いなりに堂々巡りの思考を繰り返した。
 やがて日が西に傾き、道場の床から一切の塵がなくなったところで、信玄が声をかける。
 「繁よ、答えは出たか」
 「……」
 繁は雑巾を絞ると、手を拭いて信玄の隣に正座した。
 結局のところ、繁は信玄が言ったところの「正解」に納得するしかなかった。それもまた、繁にとっては信玄に対する『まいった』であった。だが、それ以外の答えにはどうしても行き着かなかったのだ。
 「死にそうになったら、『まいった』を言わずに逃げても良い」
 「よい答えじゃ、繁」
 不承不承ながら答えた繁を信玄は精一杯褒めた。
 「繁よ。負けることも逃げることも恥ではないぞ。戦でもっとも大切なのは、勝利よりも生き延びることじゃ。負けを悟ったらすぐさま逃げろ。どのようにみっともない姿を晒そうと、生きて次の機会を待つ。そのような簡単なことに気付かず、武士の誇りにしがみついて命を落とした者がこの世にはごまんとおる。そのような将のもとについた兵もまた命を落とす。戦場が広がればより多くの田畑が踏み荒らされ、農民にも犠牲が出る」
 そこで信玄は道場の壁に掲げられた掛け軸に目をやった。そこには武田の旗指物と同じ文言が同じ文体で刻まれている。
 「わが武田の旗指物に記された『風林火山』。意味は知っておろうな?」
 「疾きこと風の如く、徐かなること林の如し。侵略すること火の如く、動かざること山の如し……」
 学問所で意味を学び、数えられないくらい書写してきた文言である。武田の手習い所で学ぶ子らにとっては『いろは』の手習いと同じくらい頭にしっかりと焼きつけられた基本であった。
 「そうじゃ。孫子という大陸の軍師が大昔に記した兵法を引用しておる。だがその言葉には続きがあるのじゃ」

 『知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し
  郷を掠むるには衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて動く
  迂直の計を先知する者は勝つ
  此れ軍争の法なり』

 すべての意味が分かるか、と信玄に問われ、繁は考えた。
 知りがたきこと、と動くこと、という文面の意味はすぐに繁にも推察できた。そこから続きの部分を想像して答える。
 「領地を獲るのなら兵を分けて戦を仕掛け、獲った領地は守りに徹し、将は臨機応変に指揮を執って情勢を先読みし、常に敵の裏をかくよう心掛けていれば勝てる……ということでしょうか、お館様」
 「おぬしは、まっこと童にしておくのが惜しいのう。じゃが、考えは少々過激だぞ。……最後の『迂直の計』はいかに」
 「回り道を知ること……戦に出る時には、あらかじめ地形や敵の布陣をよく調べておくことと考えます」
 「うむ、惜しい」
 それも外れではないのだが、と前置きして信玄は繁の頭をぽんと撫でた。
 「『迂直の計』とは、正攻法で突っ込んで行くことだけが戦ではないという教えじゃ。回り道も…その戦がおかれる状況や相手の力をよく調べ、じっくりと策を練ることもまた戦に勝つために必要だと知れ。さらに、わしは退くことも回り道に含まれると考えておる。力量が及ばぬことを認めて退くことでより多くの兵を救えるのであれば、それもまた勇気じゃ」
 「勇気……」
 繁には、まだ勇気という概念がよく解らなかった。恐怖を我慢して立ち向かうこと、という解釈が正しいのだとしたら、その対象は目の前の敵になるのではないか。
 だが、信玄の言う勇気は繁の解釈とはまた違うもののように思える。敵を前に逃げる勇気とは、繁が信玄に『まいった』をした時と同じような気持ちなのだろうか。命を惜しんで心を折ってしまうような。
 「わしは、おまえより十も年上になる頃まで、ずっとこの言葉を『愚直の計』だと思っていたのじゃ。敵を前にじっくり考える暇などあったら、瞬時に叩きのめす方が早いのではないか。足踏みなどまさに『愚直』であると、な。愚直や迂直を使いこなせるようになって初めて将たらんと知った時には、もうすでに何百もの兵を死なせていた……名を知ることのなかった足軽も含めたら、何万という数じゃ。それは愚直ではなく、ただの愚だ」
 「何万の……人……」
 「そうじゃ。一万の兵ならば親は二万。妻子がおれば少なくても四万。それだけの者を悲しませたことになる。己が愚かであったためにな」
 「お館様は愚かではございませぬ。繁はお館様を尊敬申し上げております。お館様のお役に立つためならどのような厳しき戦にも赴きます。父上や祖父上、伯父上たち同じであります。真田の一族は、お館様のために戦って死ぬのなら本望。みな悲しんだりしませぬ」
 「ふふふ、幼子にそこまで忠節を誓われるとは」
 信玄の大きな手が、傘のように繁の頭上に置かれた。
 「……そう言ってくれる者の存在が、わしの財産なのであろうな。この人生で、何物にも代えがたく有難いものじゃ」
 信玄の手が、繁の頭を撫でた。何万もの人を死なせたと悔やむ猛将の手はあたたかく、繁は実の祖父に甘えるように目を閉じて笑った。

 「この戦国の世も、おまえ達の代には終わりを迎えるだろう。繁よ。おまえには真の兵(つわもの)になる素質があるとみた。わしらが築いてきた歴史の中から学び、たったひとつの命を懸けてもよいと思える道のために戦え。そして、自分のために命を懸けてもよいと思ってくれる味方をたくさん作れ。人は石垣。人を支えるのは、やはり人なのじゃ」
 「はい」

 それが、武田信玄の、真田源次郎信繁に対する遺言となった。
 繁が六歳になった元亀四年の晩春。武田信玄はこの世を去った。甲斐にとっては洛陽ともいうべき悲しみであり損失である。遺言で後継には孫の信勝が指名されていたが、彼が元服するまでの後見として継嗣の勝頼が後見を兼ねた国主に立ち、周辺国の脅威にも揺るがないよう足元を盤石に固めておく方向で家臣や勝頼の意見が一致した。
 さらに、信玄は自らの死を三年の間秘匿し、亡骸を誰にも見つからぬよう諏訪湖に沈めろまで命じている。諏訪湖に沈めることは家臣達の反対の声により守られなかったが、三年間の秘匿は実行されることとなった。その時まで葬儀は先延ばしとなり、甲斐の国は表向きでは何事もなかったかのような日々が戻ったのである。
 幼い繁や源三郎、信勝らが、道場の納屋で三人揃って忍び泣く声が漏れてくる以外は。


 甲斐の国内において、信玄死去の動揺がどうにか収まった頃。熱気が溜まる盆地特有の暑さがひと段落し、躑躅ケ崎周辺の木々も朱や黄の色に染まって領民の目を和ませていた。領内の畑は実りの時期を迎え、村人たちも活気を取り戻している。
 よく晴れたある日。真田家の館で、喜兵衛は庭先に腰をおろして細長い鉄の筒をいじっていた。
 「父上。それは何ですか?」
 講師の都合で午後の講義が休みとなり、繁は館の庭で槍の稽古をしていた。兄の源三郎はというと、日頃の疲れから部屋で大きないびきをかいている。
 一通りの型を復習したところで何やら鼻をつく臭いがしたので元を辿ってみたら、父の部屋に行き着いたのだ。そんな繁に、喜兵衛は悪びれもせずに訊ね返した。
 「何に見えるか?」
 「槍にしては短すぎますし、刀にしては重たそうです。でも畑を耕す道具にも見えません。火の匂いがしますから、火を起こす道具なのでしょうか」
 子供の眼に、それは大きな火打石に見えたのだろうか。喜兵衛はニッと笑ってみせた。
 「火は火でも、飯を炊く火に使うのではない。これは火縄だ」
 「ひなわ?」
 「遠くから敵を狙い撃つ武器だ。これからは、この火縄が戦の主流となろう」
 「ですが、ここの兵士は誰も火縄の練習をしておりませぬ。みな槍や刀や馬術の訓練をしております。飛び道具なら弓もあります」
 「そうだな。武田の騎馬軍は無敵だ。この火縄も一回目の発射から次までに時間がかかりすぎる欠点があり、その点では弓のほうが自在に操れるように思える。しかし……」
 「?」
 「……いや、繁はまだ知らなくてよい。刀も槍も馬も、戦の大切な基本であることに変わりはないものだ。しかと身につけておけ」
 「無論でございます、父上」
 「おまえが武芸の基礎を積み重ねるために、この甲斐の地ほど良いところはない。今のうちに、おまえはその技や知恵をすべて盗んでおけ」
 「父上。盗むことはよくありません。欲しいのであれば、頭を下げて乞わなければなりませぬ」
 まこと、この繁という子は生真面目かつ少々融通のきかない性格であるものだ。喜兵衛はいささかの不安を混ぜ込んで苦笑いするしかなかった。いざ武芸となれば容赦なく相手を打ち負かす強さと負けん気を見せるくせに、人道・道徳の基本、殺すなかれ、盗むなかれ、約束を守れという理念は徹底して通そうとしている。これから人格が形成されていく時、繁の中にある数多くの要素はどこでどういった折り合いを見せるのだろう。
 「ははは。そうだな、今はそれでよい」
 ちょうど八つ時の鐘が鳴り、女中が茶を運んできた。繁の分は兄と同じ部屋に用意されていると聞いた繁は女中に促されて席を立った。
 「繁よ。火縄のことは、源次郎にも勝頼様にも、むろん信勝様にも内緒だぞ。所望されても、まだわしも満足に扱えぬのだ。恥をかきとうない」
 「……はい」

 実は、武田の今後を決める軍議で喜兵衛は火縄の導入を進言したのだが、古参の家臣からの根強い反対で却下されたのだった。武田の騎馬軍団に勝るものなし、戦は名乗り合った上で斬り結ぶものであって、弓よりもはるか後方から敵を狙う火縄など臆病者が使うものだという意見が大勢を占めるのが今の武田の姿である。議論の余地がない場で喜兵衛は引き下がったが内心で失望し、いよいよもって武田を去る時期が近いと心を固めていた。
 喜兵衛が独自に調べたところによれば、周辺の国……特に頭ひとつ抜きん出ている織田などはいち早く火縄を導入し、その他の国も火縄をせっせとかき集めているのだ。鉄の精製技術を持つ国は自前で火縄の製造を行う技術を確立し、利益を手にしている。発射の間隔が開きすぎるという火縄の弱点を克服する勢力も、遠からず出てくるだろう。そういった時流に乗らないで、今後の乱世を生き抜ける筈はない。
 そこで気にかかるのが、武田の色に染まりつつある子供たちのことであった。
 信玄が率いる武田軍は、槍での戦を得意とした。中でも『朱槍』と呼ばれる身の丈の三倍近くある長槍は特に腕を認められた精鋭のみが持つことを許された品であり、それを信玄から賜ることは武田において最高の栄誉とされた。真田一徳斎も喜兵衛も、長年の武功を認められて賜っている。
 そんな朱槍を、源三郎と繁は病に伏せる信玄から特別に賜っていた。いわば形見分けのような形式ではあったが、二人はもっと成長したら必ずやこの槍を振るって武田のために戦うと信玄の枕元で誓っていた。
 特に繁は信玄から直々に手ほどきを受けたことで信玄を崇拝しきっており、三年後の葬儀では主を弔うために何かしらの役目を貰いたいと張り切っているのだ。
結果として、繁は役目を貰うどころか信玄の葬儀に出ることもなかったのだが。
 父として、純真な童にこれから生きるために必要な術…人殺しや裏切り、謀略など人として汚い部分を見せることに罪悪感を持たずにはいられない。しかも、自分の決断により生まれながらに偽りを背負わせている我が子である。かといって今の純真さを貫こうとすれば、子の天命もおのずと縮まるのだ。もう戻れないのだから、心を鬼にしなければ生きられない。
 狡猾さと図太さを鎧のようにまとい、威圧と諂い、表と裏の顔を巧みに使い分けて時流を乗りこなす。真田を継ぐ可能性のある者として望む姿と、親として我が子にこうあってほしいと願う姿。女児を男児として戦国に送り出す迷い。喜兵衛はそれら後ろめたさの全てを『真田の家のため』と自分に言い聞かせて振り払うしかないのであった。


 信玄とほぼ同じ時代を戦った安芸の国の武将、毛利元就は、死にあたって後世に残る『三本の矢』の逸話を残している。
一本一本は容易く折れてしまっても、三本まとまればそう簡単に折れることはない。それに倣い、兄弟間での結束を重視せよと諭したとされるものだ。
 さほど力のない子を持つ親の心というのは、勢力や敵味方を超えて共通する思いなのであろう。信玄は真田源三郎信幸・源次郎信繁の兄弟を天塩にかけて教育し、信勝とともに武田を支える三本の矢に仕立てたかったようであるが、結果として兄弟の父が我が子らにその生き方を許さなかった。喜兵衛は面従腹背の姿勢を通す道を選んだからである。真田の開祖以来の大恩ある家であっても、もとは真田の郷を守るために家臣となった身。本来の目的を見失ってまで運命をともにする覚悟はできなかったのだ。
 信玄が没した翌年には、病を得ていた喜兵衛の父・一徳斎幸隆が亡くなっている。一徳斎の四人の息子たちにとっては主の死に次ぐ悲報であったが、悲しみに暮れている暇はなかった。
 その翌年には、織田が武田との同盟を一方的に破棄した上で徳川と連合軍を組織して甲斐に侵攻を開始したのである。信玄の死はあと一年秘匿される予定だったが、戦の空気を読みながら生き延びてきた者たちの鼻は誤魔化せなかったのだ。
 そして、信玄を失った武田家の柱は杉の皮を剥ぐようにあっという間に細く、脆くなっていった。喜兵衛と同じことを、他の将たちも肚の中で考えていたのである。
武田の家臣であった奥平氏がまず徳川方の調略に乗って離反し、それを機に徳川家康は武田家が所有していた長篠城を奪還した。そこへすでに上洛を果たしていた織田信長が加わった。かつて信玄に挑み、敗北の上に領地まで奪われるという煮え湯を飲まされていた家康はことさら武田家への勝利に執着していたのだ。
長篠城を守る徳川を武田勝頼率いる武田の騎馬隊が包囲したのだが、徳川も織田も慌てることはなかった。
 これがふた昔前であれば、戦は武田の騎馬軍団の圧勝に思われた。だが時代は混沌を切り開くための自浄作用を見せつけるかのように新たな武器をもたらし、人はそれをどのように使えば良いか知恵を絞るものであった。
 喜兵衛が見抜いていた火縄の弱点を、織田は見事に超越してみせたのだ。
 織田は馬防柵ごしに足軽鉄砲隊を幾重もの列に整列させた。騎馬が接近すると、最前列の第一隊が一斉に掃射する。彼らは大急ぎで列の最後尾に回り、代わって先頭に立った第二隊が第一隊と同じように火縄を放った。撃った者は、次に自分の順番が来るまでの間に火薬や弾を充填して備えておくのだ。
これらの作業を延々と、しかし絶えることなく繰り返す。地を揺るがす蹄の音が消えるまで。
古来からの戦法に胡坐をかいていた武田軍は時代に淘汰されたのである。騎馬隊が壊滅した後は通常の合戦と同じ。いや、兵力を喪い、火縄の脅威に怖れおののいて士気を乱した分だけ武田の方が不利であった。
武田は壊滅し、時代に逆らって従来の戦い方を貫いた武田家古参の武将は…無敗の猛将と呼び讃えられた馬場信春をはじめ、喜兵衛や一徳斎の同僚であった者達のほとんどは敵に一太刀を浴びせることもなく散った。信玄の子勝頼も甲斐へと退却を余儀なくされた。喜兵衛が読んでいた通り、いやそれ以上の惨敗とも言うべき結果である。
この戦いは後に『長篠の戦い』と呼ばれ、戦国時代の兵法の常識が一挙に翻った戦として語り継がれている。
武田を叩き潰した織田信長は、その勢いのまま上洛し、長篠の戦いから半年たらずで天皇から『右近衛大将』の称号を賜った。形だけは細々と残っていた室町幕府には将軍・足利義昭が君臨していたが、事実上は信長の方が上役となったのである。まだ天下は完全に掌握していないが、信長はなみいる戦国武将の中でもっとも早く京の都に織田の旗印を立てたことで天下人としての座を世に知らしめることに成功したのであった。
 しかし、それは武田に…厳密には真田にとってはすでにどうでもよい。
真田家にとって、痛手となったのは主君の敗北だけではなかった。この戦いに参戦した喜兵衛の兄、真田信綱・昌輝兄弟も戦死したのだ。兄に遠慮して武藤家の養子に入っていた喜兵衛に、真田の家督が転がり込んで来たのである。

 かくして喜兵衛は真田に復姓し、『真田昌幸』と名を改めた。

 喜兵衛改め昌幸は、真田郷をはじめ小県の郷を治める国衆たちに当主となった旨を報告するという名目で、いったん上田の真田屋敷に戻ることにした。
 真田昌幸が忠義を尽くすに値すると見たのはあくまでも信玄その人である。真意を確かめ合う機会に恵まれなかった兄たちが亡き今が、滅亡の途を転がり落ち始めた武田家から引き揚げる潮時だとみていた。
 忠義や愛着といったものにいつまでも執着していれば、殉死か残党狩りの手にかかるか、または逆賊として孤立するか。いずれも避けたい選択肢しかなくなる。
 勝頼らの懇願を大義で振り切って上田の真田郷に戻った昌幸は、御座を温める間もなく時勢の分析と次への布石を考え始めていた。
 天下獲りを諦め臣従の途を選んだ者には、それなりの立ち回り方がある。
 昌幸は、どこかの武将が武田と組む事で武田が盛り返した場合を想定して長男の源三郎を昌幸の弟・信尹に任せて甲斐に残し、未熟な童は足手まといになるという理由で繁だけを上田へ戻した。昌幸は家督継承のためやむなく甲斐を離れるが、まだ忠義心は武田にあるという姿勢を見せるためである。自身も、軍議や法要などの折には参上し、まだ本意を表ざたにすることはしなかった。
武田の次期当主、信勝と友情を結んでいた若い源三郎はこのまま甲斐と運命をともにすることも厭わないと息巻いていたが、そこは昌幸のこと。信尹には、有事の際はくれぐれも源三郎が武田と運命を共にすることはしないよう、いざとなったら攫ってでも上田に戻れと言い含めてある。落日の軍に大事な嫡男の命をくれてやるつもりはなかった。

 日の本の勢力図が塗り替わりつつある。この機を逃してはならないのだ。茫洋としていてはこのまま滅びを待つだけである。

 上田へ帰した繁のことも、どの勢力へ人質に出すのが最も効果的であるかを見定めていた。北の上杉か、南の徳川か、あるいは織田や北条か。そして奥州では当主の伊達輝宗と最上氏が縁戚関係を結んだことでどう動くのか、さらに西方の織田や加賀の前田家の動きを見極めたいというのが昌幸の本音である。無論、それまでの間に繁が自らの素性を隠し通せるよう教育させる計算もあった。
 奥州は信州とは距離を隔てているため、本来ならばさほど気にする必要はないと思われた。にもかかわらず昌幸が奥州を見極めたいと思ったのは、現在の当主伊達輝宗の嫡男が稀にみる神童であるという噂を聞き及んでいたためである。信幸や繁が成長する頃に南下して関東へ進出してくることにでもなれば、信州も安穏としてはいられなくなる。
 現在進行形で進んでいる天下獲りの動きもまだ予断を許さないが、現段階で名を轟かせている武将はみな寿命とされる年齢に近づきつつあった。人間五十年、下天の夢とされた時代、死は戦場のみにある訳ではない。信玄が病に倒れたように、『死ぬ順番』という本人にはどうしようもない運命も含めての天下獲りなのだ。世代が変われば勢力図も塗り替わる。そろそろ次の世代の動きも頭に入れておかねばならない。順当にいけば源三郎がいずれ真田の家督を継ぐとして、その体制を盤石にさせるためには、あるいは昌幸のように末子相続となった場合でも周辺国から頭角を現してきそうな者を今のうちから見極めた上で繁を盟友として送り込み、真田の味方につけておくことも考えておく必要があった。そのためにはどういった手順を踏むべきか。
 同盟を結ぶ際に友情は大いに役立つし、戦となれば私情を捨てて戦うのは互いに承知の上。縁戚どころか実の血縁であろうと敵味方となって刃を交えることが珍しくない時代なのだから、より味方が増える可能性を求める方が賢明であろう。
 現状を見極め、一手先の未来まで見据えて自らの動きを定める。日の本という広大な盤上で壮大な詰将棋を討つにも似ていたが、それは全国各地でどの武将でも行っていることである。ほんのわずかに読みを違えた者から順番に脱落していく。
 ところで、繁とほぼ時を同じくして誕生していた伊達家の嫡男は、のちに真田家の…ことに繁の運命に大きく関わってくるのであるが、今の時点ではまだ盤上の脇に置かれた駒箱に入ったばかりの白木の駒である。名も書かれていない駒を裏返したら『金』とあるか『王』であるか、それとも盤上に登場することなく終わるのか。そこまではまだ昌幸でも読むことはできずにいた。
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