第35話 大坂冬の陣・真田丸

文字数 39,461文字

 「源次郎さま、紀州から火縄と弾薬が届きました」
 源次郎が京都から真田丸に戻った夕刻、海路で紀州に出していた佐助と甚八が堺の港から真田丸に戻って来た。数台の板車を農民から借りた牛に曳かせている。
 「こんなにたくさん……甚八、ご苦労だった」
 「お安い御用ですよ。俺の家は信濃で千曲川の水運を任されていました。越後の海にも出ていましたから、船の扱いならお手の物です」
 信濃国衆の子で、作兵衛と一緒に大坂入りした祢津甚八はようやく役に立てた誇らしさに胸を張る。
 品を検めるために藁を除けてみると、火薬を紙で包んだ『早合』という簡易型の銃弾が詰められた箱の中にひとひらの紅葉が混じっていた。
 「紅葉?」
 木箱に詰める際に紛れ込んだらしいその葉は、よく見られる手のひら状のものよりも葉先が細かく枝垂れている山紅葉の一種で、屋敷の裏山に自生していた木を昌幸が『撫子もみじ』と命名して愛でていたのを覚えている。
 「ああ、それは九度山村からの荷ですね」
 銃の検めを行っていた十蔵が応える。
 「九度山から?」
 「師匠が話していました。左衛門佐さま方が九度山を発ってから間もなく、九度山村の長から師匠へ「村人総出で弾薬作りを手伝いたい」との申し出があったそうです。おかげで予定よりも多くの早合が調達できました」
 「そんな……それでは」
 「九度山の村人も左衛門佐さまを応援しているという事です」
 「……」
 源次郎は九度山の方向に向かって手を合わせた。あの日の酒宴の意味を、みな分かっていたのだ。そして今も心は繋がっている。
 「内記、兵の仕上がりは?」
 「上々ですぞ。鉄砲隊に回した兵たちも十蔵どのの指南によってめきめきと腕を上げておりますし、豊臣の牢人衆の中にも鉄砲術を会得したいと志願する者がたくさん来ております。彼らに負けじと足軽隊も騎馬隊もいつ戦が始まっても動けるように鍛錬を欠かさず……これだけ士気が高まっているのは上田の合戦以来。この老体も、年甲斐もなくわくわくしております」
 赤揃えの力ですな、と内記は豪快に笑い、源次郎の湿った声を吹き払う。入道頭に巻いた猩々緋に六文銭の鉢金を大層気に入っているらしい。
 「上田で大殿が設けた赤揃えは、精鋭中の精鋭として異彩を放っておりましたからなあ。当時を知る者にとっては憧れの対象で、昔語りで聞くだけの若い兵にとっても徳川を退けた勇猛の象徴なのですよ」
 戦に先駆けて、源次郎は父が上田合戦にあたって編成した赤揃えを自らの軍に再現させた。鎧も兜もみな真田の旗と同じ緋一色である。
 上田にて徳川の大軍を撃退した赤は、武田信玄が三方ヶ原にて徳川を同じ目に遭わせた時の色でもある。若い兵達には伝説と化しているそれらの戦で用いられた赤を採用した意図は的中しているようであった。
 「赤一色の軍、そして六文銭の幟に囲まれた城。大殿がご覧になっていたら、さぞお喜びでしょうな」
 緋色の鎧、緋色の紅葉。
 過去と現在、真田家を取り巻いたすべての出来事が寄木細工のように集った末、源次郎はいま真田丸に立っている。


- 越前 -

 「成果を出せと言われども、父上は私に活躍の場すら与えてくださらぬ」
 豪奢な越前高田城の一間で、松平忠輝は腐っていた。
 床の間には新品の刀と具足一式。庭では馬印が出番を待っている。
 「戦支度を命じておきながら京都に置いてきぼりとは、まったく馬鹿にしている」
 「豊臣の十万に対して徳川軍は二十万もの兵が集ったのですから、指揮は上様だけで充分という事でございましょう。大御所さまがご出陣されるのは士気高揚のためだけでございますし、京都にて二条城を任されることも相当な大任だと存じますが」
 初陣の忠輝を京都まで護衛する役目を負って越前に立ち寄った伊達政宗は、むくれるばかりの娘婿に辟易しつつもなだめている。
 大坂での戦ということで、徳川の家中は軒並み出陣の支度を命じられていた。越前という地に置かれ…江戸の公儀にもほとんど呼ばれる事なく蚊帳の外の者としての居心地の悪さを常日頃から感じていた忠輝もまた、此度の戦で華やかな戦功を上げて世に一目置かれる存在になりたいと意気込んでいたのだが。
 「結局、私は徳川家の体裁のためだけに呼ばれたのだ。出陣していく一族を京都から見送るなどという屈辱、何故味わわなければならぬのだ」
 「それは違いますぞ。かの関ヶ原では京都を空ける大御所さまは最も信頼しておられた鳥居元忠どのを二条城に残して会津へ赴かれたのです。そして大御所さまのご懸念どおり、石田三成の軍は大御所さまご不在の二条城を攻めたのですぞ」
 「しかし此度は結城の忠直(松平忠直。忠輝の甥)まで大坂入りするのだぞ。いったん養子に出た家の若造まで呼び寄せているというのに、私は福島太夫や黒田長政らと同列扱いなのだ……ああもう、病とでも何とでも申して出陣を取りやめたい」
 「彼らの上に立つ者として、また彼らが不穏な動きを見せぬよう眼を光らせるためにも、徳川家の者はどうしても必要であります。戦況によっては公家への根回しも必要となりましょう。戦に対する意気込みゆえの口惜しさはお察しいたしますが、遅参だけはなりませぬぞ」
 政宗は敢えて強い口調でたしなめた。
 「この陸奥守にも覚えがございますが、戦に遅参となれば日ノ本じゅうの大名から嘲笑され、まさしく針の筵になるのでございます。ひとたびついた汚名はそう簡単に返上できるものではありませぬもの、ここは今すぐにでもご出陣なさり、誰よりも早く京都入りなさった方が大御所さまの覚えもめでたくなることでしょう」
 「しかし活躍できる訳ではない」
 「戦が長期化すれば忠輝さまにもお声がかかりましょう。その時にすぐ大坂に馳せ参じるよう万端の準備を整えておく心意気を見せる事が肝要なのです。やる気がないと見なされた者には出馬のお声もかかりませぬぞ。それどころか、天下の将軍家の血をひくのに臆病者よと大名達に陰で嗤われるのが目に見えております」
 「……」
 「たとえ意に染まぬお役目であろうと、揚々と引き受けておれば大名達からの信頼が得られます。地位は与えられたものであっても、人徳は一日で成るものではありませぬ。今は『徳』を重ねる時と思って堪えなさいませ。この陸奥守は如何なる時でも忠輝さまのお味方、苦しい思いは陸奥守がすべてお聞きいたしますゆえ、ゆめゆめ他人にご不満を漏らすことなど無きように」
 「やはり行かねばならぬか……」
 政宗は忠輝の盛大なため息に後を委ね、御前から退出した。
 忠輝が渋々ながら出陣を決心したのは、政宗と会談した翌日である。

 「やれやれ、俺なんかは留守居役など一も二もなく志願したいくらいなんだが……戦場を知らない者が格好つけたがるのも傍迷惑だぞ」
 すっかり辟易した政宗は、どっと力が抜けたように脇息にもたれた。小姓に肩をもませながら小十郎相手に愚痴をこぼす。
 「婿どのが言っていた留守居の面々の件、あながち外れてはおらぬ。が、それは婿どのも同じ。大久保長安の件でかけられた不信はまだ拭えていないのだ。最前線に立たせて『討死してもらう』のも手だが、大御所は黒田や福島同様むしろ豊臣から調略される方を怖れたのだろう。俺も、婿どのの名誉挽回に付き合わされて無駄に兵を死なせるくらいなら京都でおとなしくしておいてもらいたい」
 「江戸は、忠輝さまが関ヶ原での小早川どののように立ち回るとお考えなのですか?」
 「立場も扱いも、御しやすい性分も似ているからな。それにしたって、留守居を命じられたくらいで腐っているようでは器が知れる。そこからどう立ち回るかという方に眼を向けなければ永遠に日の目を見る事はないと解ってもらいたいのだが……無理かもしれぬな」
 「立ち回り、でございますか」
 「そう。例えば大御所や将軍の目がない間に他の留守居役と懇意になっておく、など」
 「それはしたたかな……最も物騒なのは、実は殿やもしれませぬぞ?」
 「彼らは石田治部が憎くて関ヶ原では徳川方についただけのこと。豊臣への忠義は変わっていないと表明した仲間が何人も死んでいるんだから、大御所から信用されていない事くらい本人たちも解っているさ。そういった背景を知った上で、戦流れがどう転んでも良いよう手を尽くしておかねば……何しろ、あちらには真田がいる」
 「必ずしも徳川が大勝するという訳ではないという事ですね」
 肩をもむ小姓を「もうよい」と下がらせ、政宗は畳から下りた。
 「……で、小十郎。大坂での陣立ての見当はついたか?」
 「はっ。こちらに」
 重綱が広げた図を眺めやり、政宗は左眼と口許でにやりと笑った。
 「ほう。伊達の軍はそこそこ期待されているか」
 「東西どちらにも動け、なおかつ敵方を牽制する立ち位置ですな。悪くありませぬ」
 政宗と秀宗が率いる伊達軍の陣は、家康が本陣を構える茶臼山のすぐ麓、大坂城の南西寄り正面に設定されていた。すぐ隣には真田安房守をして猪武者と言わしめた猛将・藤堂高虎。
 「だが厄介な場所でもある。大御所の盾となる位置では、下手な動きはすぐ察知されるな」
 「大久保某の件で不信を拭い切れていないのは我々も同じ。大御所さま直々に我らを見張り、忠義を試しているのでしょう……が、おかげで噂の真田丸からは遠くなりました」
 「いきなりあいつと真正面から戦うよりはましだと思うべきか。あの出城には迂闊に手を出したくない」
 大坂城平野口を塞ぐ小高い出城の正面にはもう一つの本陣。秀忠である。秀忠を背後に真田丸の真正面に立つのは前田利常…加賀の前田利家の子にして、現前田家当主である利長の弟である…や彦根の井伊直孝といった勇猛果敢で知られ兵の動員数も多い軍。
 「精強で出城周囲を固めるとは、真田を最大限に警戒した布陣だな。賢明か、それとも無駄か」
 可哀相に、と政宗は呟いた。それが源次郎を指している訳でない事を小十郎は知っていた。


 「あれが源次郎の城か。ほう、既に六文銭の幟が立っておる」
 家康が本陣を据える予定となっている茶臼山。いち早く大坂入りした上杉景勝は家康が到着する前に陣を整える役目を担って茶臼山に入り、直江兼続と共に大坂城と真田丸を見やっていた。
 「明らかな劣勢の中、源次郎の意気や如何にと思うておったが……なかなかどうして、本気で徳川を討つつもりだとは思わぬか」
 思っていた以上に巨大な要害を眺めながら、景勝はただひたすら感心していた。
 「意気消沈しているのであれば上杉に降るよう……上杉で保護できるよう真田の縁者を経由して接触する手筈を整えておりましたが、どうやら必要なさそうですね」
 「徳川から差し向けられた実の叔父からの打診も断ったと聞いておる。源次郎は本気なのであろう……服従を強いられる世に抗い、どこまでも険しき道を往く者。その生き様は潔く、また羨ましいものだ」
 かつて徳川家康を挑発し、関ヶ原の戦いのきっかけを作っておきながら結局は徳川に服従するしかなかった自らの苦渋とは対局の生き方。国主とはかくあるものだと耐えて生き抜いてきたが、一介の武士としての眼で見れば源次郎の意思は痛快であり、自分が選べなかった生き方を躊躇なく歩む様には今ここで拍手喝采を送りたいくらいであった。
 「運命はあの者をふたたび表舞台へと引きずり出した…いえ、運命が歴史に埋もれることを拒んだのかもしれぬ。武勇の神、まさに帝釈天のような生き方をする者であるな」
 毘沙門天をも超えるか、と景勝は顔を綻ばせた。「そのお顔、徳川に見られたら討たれますよ」と兼続が冗談交じりにたしなめる。
 遠景から見ると、真田丸はおおよそであるが五角形をしているように見えた。
 「陰陽五行というのは風水の基本ですが、それは五角という形が外から受ける力を最も効率的にいなす形ゆえだと言われております。成程、あの出城は攻守ともに無駄がない」
 「うむ。随分と挑戦的な造りになっているとは思わぬか?」
 「仰るとおりですな」
 五角形の角には陰陽の考えに基づいてそれぞれ「木(東)」「火(南)」「土(中央)」「金(西)」「水(北)」という名称がつけられている。
 真田丸の構造にもその概念は生かされており、しかも「火」の方が向く先は茶臼山。徳川家康の本陣である。
 陰陽だけでない。
 「兼続。そなたなら、あの真田丸なる出城をどう攻める?」
 「それが、どう読んでも手詰まりになってしまうのでございます。一見すると隙だらけなのに、油断して攻め入れば手痛いしっぺ返しをくらう」
 「幅広い堀に高い土塁。しかし天守は持たない要塞の構造。そして周辺の整備にも余念がありませぬ」
 門を二か所にしか設けないことで守りを固め、先端部から攻撃を仕掛けることで敵の戦力を分散していくつもりなのだ。籠城しながら抗戦する、大坂城に据えられた五芒星であり船の舳先でもある。
 さらに、真田丸の周りを囲む複雑な道とその先にある惣構。高台から俯瞰して見れば堀の存在も見て取れるが、上り下りの大きな道を進軍していく兵からはどこからが堀なのか分かりづらいだろう。そもそも堀に至るための道は巧みに曲がりくねっている上に、所々に存在している山林や寺社が邪魔をして全容が掴めない。
 「あれだけの構えですから徳川の兵にとって格好の標的にはなりましょうが、落とすことに固執すれば難しい戦いとなりますな」
 「うむ。あの城を設計したのは、おそらく真田安房守であろう」
 「なぜそのように思われるのですか?」
 「上田城にも天守がなかった。武田信玄公の躑躅ヶ崎館も同じく」
 景勝は遠い昔を思い出していた。
 「わが養父(謙信)が語ってくれたことを思い出した。それは兵法もまだ修めておらぬ幼き日の私には想像がつかぬものであったが、真田丸を目の当たりにした今になってようやく理解したところだ。今でこそ、城は天守ありき…その大きさや趣向にて己の権力を誇示し、兵や民の心を掴むためのものとなってしまっているが、信玄公や真田安房守にはそういった『目に見えるもの』は必要なかったのだよ」
 「もしや『人は城、人は石垣』の事でございますか?」
 「うむ。人望という石垣があれば戦える。安房守は、戦乱の世の締めくくりとなろう戦で、敢えて武士としての原点に立ち返ったのだ。平地に城を築いた武田の趣向を現代に復元した建造……先へ先へと進もうとする我ら武士に、敢えて懐古をもって挑むとはまこと大胆なり」
 「殿……」
 「われわれ武士は、領土を争う…少しでも豊かな土地と領民の食い扶持を求める土豪から発展した者達だ。いつからか争いの本質を見失い、勝つか負けるかのみに己の価値を見いだすようになってからは、巨大な城にて権勢を誇ることに躍起となりすぎたのだと思い知らされる……わずか六十年前、信玄公の時代にはたしかに息づいていた『もののふ』の魂を見せつけてくれるとは天晴としか言いようがない」
 私もかく在りたかったものだ。景勝は声に出して源次郎を讃えた。
 「さて、我々は北東の鴨野あたりに陣取りだ。源次郎のお手並みを拝見しようではないか」

[newpage]

【大坂冬の陣】

 後世に残る大戦。前哨戦の火蓋を切ったのは、ひとりの侍女であった。

 「お侍さま、お役目ご苦労様でございます」
 大坂城の台所で川魚の塩焼きと湯漬けにありついていた薄田隼人と塙団右衛門に、ひとりの侍女が酌を持って現れた。
 「緊張が続いてお疲れでございましょう。どうぞ」
 「いや、拙者達はこれを食べたらすぐ持ち場へ向かわねば……お気持ちだけ頂戴しておく」
 固辞したのは団右衛門。しかし薄田は「勿体ない事を」と杯を取る。ちょっと一杯くらいなら、という気軽さだった。
 「そなたは、この城には長いのか?」
 「はい。有楽斎さまのお屋敷にて下働きなどを」
 妙齢の侍女は、艶やかな仕草で薄田に酌をする。
 「お侍さまはどちらを守ってくださっているのですか?」
 「拙者は三の丸にかかる橋の一つだが、薄田どのは流石に要衝を任され申したなあ」
 「荷が重いなどと言ってはならぬが、それだけ拙者を高く買って貰えたのは嬉しいことだ」
 団右衛門の言葉と酒に気をよくした薄田は上機嫌で酒のおかわりを所望する。
 「拙者は博労淵を任されておる。名誉なことだ」
 「博労淵……」
 「城の西惣構の先にある島だ。木津川の河口付近はいち早く徳川に押さえられてしまった。博労淵まで落とされると大坂城が包囲されてしまうからな。我らでしかと守り抜かなければ」
 「まあまあ、それは重要な場所でございますね。薄田さまは評定衆の皆様からのご信頼が篤いのですね」
 「薄田どのは武者修行の旅で諸国を回り、行く先々で盗賊や巨大な熊といった農民の敵を成敗していたのです。その噂が高じて妖怪退治の逸話まで派生しておりますからな。此度もその腕が買われて将に任じられたのだ」
 「そんなに持ち上げんでくれ。世間ではあまりに尾ひれがつきすぎている話に俺自身が一番戸惑っておる」
 「ご謙遜めされるな。なかなか出来る事ではあり申さぬ……では某は急ぎますゆえ失礼つかまつる」
 食べ終えた団右衛門がそそくさと去って行くと、女は薄田にしなだれかかるような仕草で酌を勧めた。
 「薄田さまはお強いのですね。まことに頼もしいこと……ささ、もう一杯」

 結局のところ。いつの間にか寝入ってしまった薄田が台所で大いびきをかいている間に徳川の水軍が木津川から北上し、その夜のうちに木津川口から博労淵に上陸してあっさりと砦を陥落させてしまった。
 女に惑わされて大失態を演じた薄田には『見かけ倒しの橙武者』という不名誉な仇名が生涯つきまとう羽目になる。


 「木津川砦に続いて博労淵が占拠された事で、大坂城は完全に包囲され申した」
 軍議の席。大野治長の報告に、一同の顔が引き締まった。
 開戦の時が、また近くなった。
 「ああ、これで何処にも逃げ場がなくなったのですね」
 そんな中、大蔵卿局だけは絶望的な悲鳴を上げておろおろしている。
 「どうなるのですか?ねえ、一体どうなるのです?」
 籠城戦を選んだのだから、この成り行きも当然だろう。牢人衆は一様にそういった眼で大蔵卿局を睨んだが、有楽斎は「この難局をどうにかするのがそなた達であろう」と彼らの神経を逆なでただけである。
 「海側の守りを固めておきましょう。いざとなれば海路に逃れることもできます」
 苛立ちが頂点に達した牢人衆の中、こういった声が出ることも予想していたように源次郎は提案する。牢人衆からもどよめきが起こった。
 「しかし西惣構の外も既に包囲されているぞ」
 相変わらず恰幅の良さを装ったままの秀頼が問う。
 「左様。ですから木津川を氾濫させ、城の西を水没させるのです」
 源次郎は城の北に位置する京橋口と、南西の安堂寺口を指した。
 「この二カ所に堰を設けます。ここは大和川と天満川が合流する地域ゆえ川幅も広く、敵の攻撃も手薄になります。その上で二つの川の水を利用してこの地を氾濫させれば敵の混乱を誘えましょう」
 「しかし、それでは城の堀も水没してしまうが」
 「いかにも」
 「水没ですって?」
 またもや大蔵卿局が小さな悲鳴を上げたが、源次郎はその声を押さえ込むように続けた。
 「太閤殿下は、かつて備中高松城を水攻めなされた。そして石田治部さまは小田原攻めの際に忍城に同様の戦術を用いておられます。此度、豊臣軍は籠城策と決まったのですから、敢えて過去を逆手に取り大坂城を水没させて敵の攻撃を封じてしまうのがよろしいかと」
 「それは奇策であるな」
 「西惣構から堀を挟んだ博労淵は既に徳川の兵…鍋島、池田、蜂須賀、松平といった主力に準ずる将が陣取っております。ですが、あの地は堀と天然の川に囲まれた低い土地。ゆえに」
 「……堰を切れば一気に水没する、か」
 「西が水没すれば、そちらは天然の防壁となり申す。水にて敵を一掃し、なおかついざという時の退路も確保できます」
 「上田合戦の尼ヶ淵を再現させるか。そりゃあ徳川も泡を食うだろうな」
 又兵衛が「面白そうだ」と話に乗る。だが城主である秀頼は慎重だった。
 「水没とならば、逃げ場をなくした敵が突破を試みようと城内になだれ込んで来るのではないか?」
 「ご心配には及びませぬ。高低差からして守る我らの方が有利でございます。西惣構に接する橋の守りを固めておけば問題ないでしょう」
 「なるほど。皆は如何に思う」
 秀頼は全員に異論がないか訊ねた上で、異議も代案も出ないことから堰を設ける役目を大野修理兄弟に命じた。
 「かしこまりました。すぐに着手いたします」
 謹んで役目を引き受けた大野がひれ伏した顔を上げた時、視線が流れて源次郎とぶつかった。その眼は決して穏やかなものではない。
 秀頼と淀からの信頼が篤い源次郎。そして秀頼と淀にひたすらつき従い、その身を守ることを最優先としている大野。
 左衛門佐の策は見事としか言いようがなかったが、何か裏がありはしないか。
 徳川との内通を噂された男の真意がどこにあるのか、本当に信じて良いのか。見定める方向を探しあぐねている顔であった。

 「みなの者。少しよろしいか」
 真田屋敷に集って酒を汲み交わしていた五人衆に、源次郎が切り出した。
 「京橋に堰を造る話は、実は徳川に聞かせるつもりで提案したものなのです」
 「何だと?それじゃあ殿を騙したのか」
 「不敬は承知ですが、今は殿をお守りすることが最優先。敵を欺くにはまず味方から、ですよ」
 「……有楽斎か」
 源次郎は無言で頷く。薄田の失態も有楽斎の差し金である事は本人の証言から掴んでいたが、証拠がなかったため秀頼に訴え出る事が出来ずにいたのだ。
 「やっちまうか?」と又兵衛と勝永が身を乗り出しかけたが、源次郎が「証拠を掴むまでは無理です」と止める。
 「今日の決定を受けて、おそらく徳川軍は西を水没させまいと何らかの動きをみせるでしょう。いちど城を包囲した徳川がそう簡単に陣を手放すとは思えませぬ」
 「なるほど。俺だったら……」
 毛利が整った顔で思案をめぐらせる。
 「水攻めを阻むように南西の堰を奪うかな」
 「いかにも。ならばその地を囮とし、他の地にて騒ぎを起こせば徳川の兵は浮き足立ちます」
 「あちらは初陣の奴が多いからな。たしかに想定外の場所で騒ぎが起これば狼狽えそうだ」
 よし、と又兵衛が膝を打った。
 「ならば先制攻撃しちまうか。西に眼を向けさせておきながら正反対の北東で戦の端緒を切り、『豊臣方は何処から攻めて来るか分からない』と混乱させる。勿論、本格的な戦にならない程度に挑発したらすぐ帰る。これでどうだ」
 もとより戦をするために集った者達は籠城という消極策に多かれ少なかれ不満を抱いていたのだ。全員が心の隅に抱いていた『先制攻撃』を又兵衛が切り出したことで一同から「おおっ」と拍手が上がった。
 「それなら京橋の堰の話が有耶無耶になっても異論は出ますまい。もし北東を攻めるのなら、鴨野や今福の砦あたりがよいでしょう。山や崖地に隠れて移動できますし、地形が入り組んでいるので土地勘のある我らが有利に動けます」
 長曾我部が提案する。
 「それは良い考えだ。じゃあ、おいらは上杉に近い今福から攻める。木村の重成坊ちゃんも連れて行くかな」
 「殿の側近を巻き込むことで、俺達に非難が集中しないように、か?」
 「それもあるが……あの兄さんも将を命じられてはいるが、此度の戦が初陣だ。下につく牢人衆の方がよっぽど戦慣れしている。舐められて士気が下がらないよう少しでも戦の空気に慣らしておいた方がいいだろう」
 妬みの怖さを知っている又兵衛の提案に全員「意義なし」と唱和する。毛利勝永も負けじと続いた。
 「ならば鴨野は俺が行く。長曾我部どの、援護を頼めるか」
 「承知した。夜陰に紛れて平野川を船で移動すれば危険も少ないだろう」
 かつては強力な水軍を持っていた長曾我部の当主は船の手配を買って出た。
 「明石どのには堰の周辺を守っていただきたい。小競り合いが起こっても無理はさせぬように。南西の堰が奪われるのは想定の内ですから」
 「承知」
 「そうやって包囲網の随所で混乱が起これば、戦慣れしていない将は混乱して本陣の方へ……城の南へ集中する。そして乱戦となれば、眼についた分かりやすいものを攻撃したがる」
 「それが真田丸か」
 「いかにも。敵に攻撃させるための城、それが真田丸です」
 自信を持って言い切った源次郎を又兵衛が気遣う。
 「侍としては一番美味しいところを持っていくなあと言いたいが、寡兵で二十万…実際に迎え撃つのはその半分くらいだろうが大丈夫か?真田丸が持ちこたえられなかったら終わりだぞ」
 「あの城には、寡兵での戦が常であった我が真田家がこれまで築いてきた知恵と経験、そして新たな試みが集約されています。そう簡単には落とせませんよ」
 「……無理していないか?」
 「少しも」
 「ふうん……戦上手の真田が言うなら信じずしてどうする、ってか。分かった」
 それぞれの役割が決まったところで、五人は改めて杯を掲げる。
 「だが水攻めも捨てがたいなあ。実現したら、三度も真田の水計に嵌まった徳川の面子は丸つぶれ、大打撃をかませるんだが」
 第二次上田合戦での真田安房守の采配を知っている勝永が悔しがる。
 「……まだ諦めていませんよ」
 源次郎はぽつりと漏らした。
 「はあ?おまえ、まだ秘策があるっていうのかよ。どこまで表裏比興なんだ」
 「ははは。九度山で暇を持て余していた十年あまりの間に、『もしも戦が起こったら』と想定しては様々な策を講じる空想癖がついてしまったのですよ。今は状況に応じてそれらの案を引っ張り出しているに過ぎません」
 「想定って……そもそも大坂で戦が起こると読んでいたのか。それも十年前から」
 「勿論。真田は徳川の執念深さを知り尽くしていると自負しております」


 豊臣が堰を築き始めてから三日のうちに徳川は動いた。
 博労淵に陣を構えていた松平忠明の軍が、南西に建設途中の堰を攻撃したのである。
 「やはり来たか……策を策と思わせぬための小競り合いだ、無理はするな」
 明石は形ばかりの抵抗をさせた後で兵を城内に退かせる。
 「何だ、豊臣の兵は腰抜けか」
 外孫とはいえ家康の孫としての矜持は強い忠明は、他の将よりも早く、そして大きな手柄を挙げるべく堰の両隣にある橋を奪い、そして門を破る。
 「堰だけでなく三の丸の一角を奪い、包囲網を狭めてやろうぞ。周囲の将たちにも後に続けと伝令を出せ」
 しかし、その先へとなだれ込んだ兵達はすぐに先が詰まった。
 門の先には、四角形の強固な柵が二重に設けられていたのである。しかも柵の先には花久留子の旗印を掲げた鉄砲隊。
 「義は我らにあり、ゆえにデウス様のご加護は我らの許に……放て!」
 明石の号令とともに銃声が轟き、先陣をきった徳川兵は倒れていく。
 「待ち伏せか!ええい場が悪い、一時退却だ!」
 忠明は慌てて陣へと戻って行ったが、部下の働きによって堰だけはどうにか破ることに成功したのである。

 一方で内陸では。
 「殿、南の鴨野にて上杉さまの陣が夜襲を受けたとの報告が」
 梟も啼かぬ夜陰に突如として舞い込んだ報告。既に徳川方が奪っていた今福砦に陣を構えていた佐竹義宣は「そう来たか」と地図を見つめながら唸った。
 「数は」
 「軍師の直江さま曰く、湖に小石を投げ込んだようなものだったそうです。既に第一波は撤退していったそうですが、念のため次に備えて警戒を強めているとのこと」
 「ふむ。昨夜は博労淵で結城氏の忠明どのが大坂城南西の堰を奪ったと聞いておる。前哨戦はもう始まっているという事か……この期に鴨野ということは」
 佐竹は采配で地図上の一点を指し、出陣の支度を命じた。
 「何名か、儂について参れ。ちょっと夜回りをして参ろうぞ」
 「上杉さまの援軍に回るのではございませぬか?」
 「まだ大坂城の『気』に動きはない。功を焦った牢人衆の先走りでなければ、これは陽動であろう。上杉どの程の大軍に敢えて陽動を仕掛けて目を引きつけておき、別の場所を奪う。このあたりで豊臣が奪いたい要所といえば、この今福砦がそうである可能性が最も高い。ならば陽動に乗った振りをして追い払うまで」
 上杉ならば小競り合いくらい自力でどうにでも出来る、と佐竹はあくまで動かぬ姿勢である。
 「気が動く、でございますか……」
 「城攻めが始まる時は、戦場の気が変わるのじゃ。攻める側、そして守る側。生死をかけた幾万の兵たちの緊張が気となって戦場の空気をざわつかせる」
 まだそれがない。上杉同様にいくつもの戦を見てきた佐竹は、己の勘を信じてわずかな伴を連れて出陣した。
 そして、佐竹の勘は的中する。

 「又兵衛さん、佐竹の旗だ」
 物見から戻った仲間が報告する。
 「やっぱりこっちへ来たか。流石は歴戦の佐竹だ、いい読みをしている」
 数は。又兵衛がざっと見積もった。
 「足軽五十、騎馬二十か。陣を固めたまま出て来たあたり、鴨野の騒ぎが陽動だと気づいている。……全員持ち場についたか」
 「抜かりはありませんぜ」
 「あ、あの後藤どの。正式な開戦となっていないうちに事を荒立てるのは……しかも殿に無断でこのような……」
 又兵衛の後ろで、おどおどした態度の木村重成が又兵衛をどうにか引き留めようと着物の袖を引く。
 「だーかーらー、これは陽動だって言ってんだろ。あんたも来ちまったんだから肚をくくれ」
 「城下の夜回りだと仰るからついて来たのに……」
 「本当の事を言ったら殿に報告するだろうが。お、ちょうどいい間合いだ……よし。おまえ達、蓮乗寺で鍛えた成果を『半分くらい』見せてやれ」
 「全力じゃなくていいんですかい?」
 「この数で本気出したって勝てる訳ないだろうが。今回は砦の奪還など目的じゃない、豊臣方がどこから攻めて来るか分からないと相手に思わせるための小競り合いだ…もっとも、佐竹ほどの大侍ならばこっちの出方くらい見抜いていそうだが」
 又兵衛はそう言って佐竹軍の背後に飛び出した。

 「佐竹さまが北の今福村にて交戦の様子」
 佐竹の陣のすぐ隣。風に乗った怒号が届いて間もなく、六文銭の陣幕に伝令が飛び込んできた。
 総大将を任せられていた源三郎の長男・信吉は床机から腰を上げる。
 「叔父上か!ついに戦が始まったのか?」
 「いえ。小競り合いの模様ですが、夜陰に紛れての戦いゆえ地の利のない徳川方が不利となります。ここは数十の兵なりとも率いて助太刀に馳せ参じるべきかと」
 「うむ……」
 「兄上、ここは私が参りましょう。上様に我らの働きをお認めいただく好機かと」
 兄につられて立ち上がった信政が肩を覆う籠手を直しながら申し出た。
 「頼む、政……三十郎、政の補佐を頼む」
 「承知しました」
 すぐさま「出陣」の声が陣に響きわたり、三十郎は足軽達を集めて回る。
 兵らが次々と支度を調えていく中、小山田茂誠は整列した兵達の背に六文銭の旗指物を立てて回っていた。
 「六文銭の旗?相手は叔父上やもしれぬのに?」
 「源次郎さまかもしれぬから、です。もとより手加減はならぬ戦、六文銭同士が全力で戦えば、上様のご不審も拭えるでありましょう」
 戸惑う信政に、小山田と三十郎は「それが戦でございます」と当たり前のように答えたのだった。

 「おりゃあっ!」
 「それっ!!」
 屈強な佐竹軍の足軽を、棍棒を使ってまるで笹藪に分け入るかのように軽々となぎ倒す入道二人。かと思うと、突き出される槍を片手で掴んで使い手ごとそのまま軽々と振り払う。
 「お、鬼だ!こいつら鬼だ!」
 腰がひけた足軽は、そのまま尻で後ずさって崖に落ちていった。
 「清海兄者、実戦は楽しゅうございますなあ」
 「油断するな、伊三」
 二人は蓮乗寺で修行を積んでいた又兵衛の仲間である。もとは織田信長と十年にわたって戦い続けた本願寺の僧に育てられた僧兵だったが、長ずる頃には本願寺がなくなっていたため腕の振るいどころもなく托鉢生活を送りながら畿内を転々としていたところで又兵衛と出会ったのだ。
 本願寺の跡地でもある大坂城を、二人にとっては聖地のような場所を踏みにじった豊臣家を守る事になるとは何とも皮肉な巡り合わせだったが、二人は長年にわたって振るうことのなかった腕を存分に見せつける好機に高揚する気持ちの方が大きかった。
 「ほう、初めての実戦でもなかなか戦えるなあ」
 得意の槍で足軽の攻撃をいなしながら、又兵衛が軽口を叩く。
 「又兵衛さんから基本を仕込んでもらったおかげですよ」
 「仏は正しい方に味方する、とか言わないのかい?」
 「信心など、この世では気休めにしかなりませんからね。所詮人の世は苦界なんですよ。苦しめば極楽浄土が待っているとでも思わなければ生きていけないから信ずるだけのこと」
 「まこと諸行無常なり。刷り込まれるように信心していた本願寺も、今や大坂城の石垣の下ですからね。いくら高野山に立派な供養塔を建てたからといって、それで権力者たちが犯した業が帳消しになる訳でもない。ならば我らはやりたいように生きるまで」
 「はっ、とんだ破戒僧だぜ」
 悟ったというより、これまでの不遇で溜まっていた鬱憤を晴らしている、と言った方が良いかもしれない。だが彼らの辛酸を知っているので又兵衛は止めない。
 「重成さんは自分の身をしっかり守っとけ。本当の戦ってのは、この何万倍も厳しいんだ。ちゃんと見ておくんだぞ」
 佐竹までもう少し。二人がそう思った時、後方から蹄と甲冑の音が近づいて来る。
 「佐竹どの、援軍つかまつる」
 「む、援軍?」
 「あの旗印は……」
 六文銭の旗印。
 「清海、伊三、引っ込め」
 又兵衛はすぐに道ばたの茂みに逃げ込み、二人の頭を押さえつけた。
 「源次郎さんの兄貴んとこの軍か」
 六文銭の旗印と馬の脚がすぐ目の前を流れていく。
 「伊豆守の子は、真田に加えて本多忠勝の血までひいてるんだよな」
 「本多って、戦国を連戦して回っても傷ひとつ負わなかったという蜻蛉切の使い手か?」
 仲間達が「すげえ」と眼を見開いた時。
 「ん?」
 大将…真田信政がおもむろに馬を止め、藪に向かって槍を突き出した。
 「うおっ?」
 柄に六文銭の紋があしらわれた槍の穂先が又兵衛のすぐ脇をかすめる。信政は叫んだ。
 「伏兵だ、討ち取れ!」
 「又兵衛さん!」
 仲間が咄嗟に得物の鎖鎌を分銅のように振り回して突き出された槍を絡め取り、思い切り引っ張る。いきなり槍を強く引かれた真田信政は体制を崩して落馬したが、転げ落ちながら脇差しを抜いて槍に向かって投げつけた。
 「信政さま」
 すぐさま三十郎が率いる兵達が信政の周囲を取り囲んで警護したため、信政が首を掻かれることはなかった。「大事ない」とすぐ馬にまたがる。
 その間に足軽が鎖の絡まった槍を拾って届けて来た。三十郎が手早く鎖を解く。
 「伏兵でございますか……鎖鎌とはまた面妖な」
 「……もう逃げたようだ。さらなる伏兵の可能性もある、深追いするな」
 行くぞ、と何事もなかったかのように槍を受け取った信政は馬を進めた。

 山中に逃れたところで。
 「すまん鎌之助、助かった」
 「いや、又兵衛さんが無事で良かった」
 こちらも清海と伊三の仲間だった。出羽国から一旗挙げようと関ヶ原に来たはいいものの、石田方の将に従ったがためにあえなく敗走からそのまま隠遁生活を送る羽目になってしまった男である。傾奇者の形、そして実戦向きではない鎖鎌を武器として使いこなすあたりからして、元来目立つことが好きなのだ。
 「あの動き、さすが本多忠勝の孫だが……その前に重成さん」
 「はい?」
 「俺が迂闊だった」
 敵から離れた山中で、又兵衛は木村重成にこぼした。反省の弁と捉えた木村は、すぐに秀頼側近の顔に戻る。
 「わ、わかっていただければ……ですが殿には後藤どのからきちんと申し開きをしていただきたく」
 「そっちじゃない」
 ぺちん。又兵衛が重成の兜をひっぱたく。
 「あんた、何だって香なんて焚きしめてんだよ。武士ってのは匂いに敏感だ。風向きひとつで気づかれちまったら伏兵の意味がまるでない」
 「だから、ここへ来るつもりなどまったくなかったんですって」
 「ああ、たしかに俺が悪かった。……が、『本番』では香なんか焚きしめて出陣するなよ?香を焚かれるのは死んでからで充分だ」
 「武士たるもの、いつ首を掻かれても血なまぐさい臭いなど漂わせぬよう、香だけは常に良いものを焚きしめるのが私の拘りなのですが」
 「阿呆が。首を掻かれることを前提に行動してんじゃねえ。首は掻いてやるものだ」
 「……」
 納得いかないように頬を膨らませる重成に一瞥だけをやり、又兵衛は「引き揚げるぞ」と身を潜めながら藪の中に姿を消したのだった。


 「『あっち』の真田の倅、なかなか良い動きをしていたぞ」
 夜が明けてからの軍議。夜襲で東の兵を攪乱し、意気揚々と引き揚げてきた又兵衛達は源次郎の顔を見た途端に口を開いた。
 「我が一族の軍と戦ったのですか?」
 「佐竹の援軍に来ていた。なかなかどうして肝の据わった若造だったぞ」
 俺もあやうく首を獲られるところだった、と又兵衛は喉輪のあたりをさする。
 「こちらも真田、されどあちらも真田ですから。戦の心構えや手腕は血筋でしょう」
 頼もしい、と源次郎はつい口にしてしまう。
 「ま、一族が血で血を洗うなんてのは後味の悪さしか残らないけどな」
 「確かに。ですから兄上は初陣の甥二人をこの大戦に寄越したのです。歴戦の上杉や佐竹の大軍の補佐に回れるように」
 「賑やかしか。徳川方はそんなのばっかりだな」
 「ええ、ですからこちらにも勝算は充分ありますよ」

 「南東の堰が奪われたか」
 始まった軍議で、まず報告を受けた秀頼は綿でふっくらさせた頬に手をやって思案を巡らせた。
 「これで水攻めが使えなくなったが、東は夜襲によって守りが崩れそうだな」
 「東方は初陣の将が多いゆえ、主力となる上杉、佐竹の軍が夜襲に遭った事によって他の軍にも動揺が生じているとの報告があります。腰が引けた軍では、開戦しても当分の間は様子見に回らざるを得ないでしょう」
 「……勝手な真似を」
 城の重臣や旗本衆、ことに織田有楽斎は妬み混じりの苦い顔をしたが、彼らの厭味よりも先に真相を知る源次郎たち五人衆が「大手柄ではないか、なあ?」と牢人衆の方を向いて喝采を誘う。
 「正々堂々が通じぬ相手ならば、こちらも奇策にて応じるまで」
 牢人衆も「おうよ」と気勢を上げる。
 木村重成だけは大野修理・主馬兄弟に「夜警に駆り出されたつもりであったのですが、申し訳ありませぬ」と小声で謝罪をしていた。修理は「起きてしまった事は仕方ない」と諦め、主馬は「美味いところを攫いやがって」と正反対の意見で咎める。しかし「次は俺にも声をかけろ」と言うあたりは主馬の性格である。
 当初より幾らか距離が縮まった彼らのやり取りを、秀頼は軽く微笑みながら眺めた。士気が少しずつ上がって来ているのを感じているのだ。
 「徳川の動きは」
 「内府は茶臼山に、将軍は平野口の正面に、それぞれ本陣を構えました」
 「そうか……鉄は熱いうちに打てと申すが、皆はどうだ?」
 「お待ちくだされ。もしや牢人たちがしたように先制攻撃を?」
 有楽斎が止めようと身を乗り出す。だが秀頼の決意は変わらなかった。
 「牢人衆が糸口を作ってくれたのだ。少しでも有利に事を運ぶのならばそうするのが最善と考える」
 「それでは籠城策をとった意味がなくなるのでは……」
 「意味や前例に拘っていては勝てぬ。なりふり構わず参るぞ……牢人衆、首尾はどうだ」
 「いつ戦が始まっても万全でございます」
 源次郎を始めとした五人衆が声を揃える。その後ろに控える将兵たちも「おう」と唱和した。
 「わかった。では開戦だ」
 秀頼はついに決断した。そして自ら陣図に扇を当てて指示を出す。
 「まず大野主馬、そなたが指揮を執って博労淵を北から攻撃せよ。大野の援護は毛利勝永」
 「はっ」
 「承知」
 「主馬から追われた兵がなだれ込むであろう木津川口は大野修理と豊臣旗本衆が中心となって守備。正面に徳川家康の本陣、そして伊達政宗の陣がある要所ゆえ、無用な挑発などはせず守備に徹するよう。籠城は消耗戦でもある、被害を最小限に抑えつつ少しずつ相手の戦力を削ることに努めよ。南にある各櫓の守備は重成、明石掃部、長曾我部がそれぞれ指揮せよ。そなた達は戦況に応じて遊撃に回れ」
 「承知しました」
 「そして真田」
 「はっ」
 「そなたが進言したとおり、徳川の本陣方から城へ繋がる橋は平野口を除いて全て落とした。正面の徳川本隊だけでなく博労淵の兵も真田丸に集中する形となるが、本当に良いか?」
 「是も非もありますまい。そのための出城でございます。真田の名において、徳川軍の一兵たりとも平野口をくぐらせは致しませぬ」
 「わかった」
 「で、では私は旗本衆を率いて真田丸に援軍を」
 「有楽斎さま、そのお気持ちだけ頂いておきます。真田丸には後藤どのが入ってくださいますゆえ、有楽斎さまはどうぞ殿の近衛に集中してくださいませ」
 秀頼が下すてきぱきとした指示に置いて行かれそうになった有楽斎が食い下がったが、源次郎はあっさりとそれを固辞する。
 「では私は真田丸に入ります。必ずや大坂の城と殿をお守りしてご覧に入れましょう」
 「頼んだぞ。左衛門佐」
 「はっ」

 「真田よ」
 大坂城を辞去して真田丸へ向かう源次郎を、大野修理が呼び止めた。
 「信用して良いのだな?」
 どうやら、城内ではまだ真田と徳川の内通の疑いが完全には拭えていないらしい。その上に北東での夜襲。責任感が強い大野修理のこと、左衛門佐がもしも内通していたら秀頼が左衛門佐に全幅の信頼を寄せていることは危険であるから、戦の前に左衛門佐の真意を見定めておきたいと考えるのも無理はない。
 源次郎は、『無論』という武士言葉を敢えて返さなかった。
 「太閤殿下は、ご不信を抱く相手ほど強い激励で送り出したと聞いております。その例に倣うとしたら、修理どのは私を信じてくださっていると思ってよろしいのですね?」
 「……」
 たしかにそうであった。信じている、期待していると手を握りながら訴えることで相手の叛意を封じてしまうのが人たらしの術であった。
 太閤の例を持ち出されては、大野修理も「その通りだな」と引き下がるしかない。

 「左衛門佐さま、大砲はどちらに配備しましょう」
 戦支度が着々と進む真田丸の中心に構えられた陣。図面を手に、真田の家臣たちが走り回っていた。大砲を運ぶ際に雑賀衆から大砲の扱いを学んできた縁でそのまま大砲を任された甚八は張り切って走り回っている。
 「一台は東廓に、もう一台は西櫓の側に」
 「かしこまりました。鉄砲隊は如何に」
 「鉄砲隊のうち一の隊と三の隊は寺町に通ずる南正面と西に重点的に配置、北の曲輪に補充用の銃を用意しておけ。戦が始まったら全域の鉄砲隊の指揮は十蔵に任せる。戦況による射撃の機や狙いどころの判断はそなたの方が速いだろう。甚八は大砲隊全員で大砲の扱いと役割分担を最終確認しておけ」
 「わかりました」
 十蔵と甚八がすぐさま駆けていく。源次郎は次に控えていた作兵衛と五人の忍衆に次の指示を出す。
 「作兵衛の足軽隊と鉄砲隊二の隊は腰曲輪(本丸と柵列の間に設けられた曲輪)に待機。腰曲輪は東の柵列を破りに来る兵を撃退する要所だ、又兵衛隊との顔合せと配置の確認が済んだら今のうちに交代で食事を摂り休んでおけ」
 「承知しました」
 「忍衆は夜になったら行動開始だ。先に打ち合わせたとおりの手筈で頼む。主戦場が真田丸周辺に移ったらすぐに隠し通路より戻り、以降は遊撃に回れ。戦況の確認と報告を怠るな」
 「はっ」
 それまで出浦の指示で動いてきた五人の忍衆は、初めて自分達が中心となって動く戦に緊張を隠せない。
 「大丈夫だ、そなた達はもう充分に戦の主力を担える。出浦さまに恥ずかしくない働きを期待しているぞ」
 「ありがたきお言葉。我ら、源次郎さまのおかげで信濃の山奥からこのような晴れ舞台にまで来られたご恩をお返しすべく存分に働く次第」
 「頼んだぞ……だが」
 源次郎は念を押す。
 「死ぬ気で働こうなどと思うな。武勇も手柄も、そして名声も、生きてこそのものだと忘れるな」

 昌幸が遺した設計図どおりに組み上がった大砲が、敵より先に味方を威圧するように佇んでいる。初めて披露目となった時、「これが国崩しか」と仰天した兵達に向かって十蔵が「国崩しはもっと小さいぞ」と笑ったくらいの存在感で。
 台座は二重の台座に車輪がついた可動かつ回転式となっており、四方に設けられた把手…神輿の担ぎ棒のようなそれを動かすことであらゆる角度に照準を合わせられる仕様となっていた。それが二台。
 「祖父上は、かように大きなものをあの屋敷で構想なさっておられたのですか」
 真田丸の陣処中央に設けられた物見櫓。戦が始まったら軍監として高梨内記ら経験豊富な老将が立つ予定の場に、源次郎は大助とともに立って戦場の全容を見やっていた。初陣の大助は、此度は真田丸の中で物見と伝令役に徹することになっている。
 「そうだ。あの小さな屋敷の小さな茶室で、これだけの大戦を読んでおった。それがそなたの祖父、真田安房守だ」
 「私の知っている祖父上は、とても優しいお方でした。戦のことなど一言も口になさらず……ゆえに、大坂城で祖父上の武勇伝を聞かされるたびに意外の一言しかありませんでした」
 「戦を忘れた振りをしていただけだ。そうして生き延び……この場に立つ心づもりであった」
 「祖父上……」
 赤揃えをまとった大助の肩当てがわずかに音をたてている。「怖いか?」と源次郎が訊ねると、大助は小さく頷いた。
 「私は戦を知りません。ゆえに不安で仕方ありませぬ……あちらには『あの方』も」
 聞き耳を怖れて名を伏せた相手が居る方角を大助は見やる。遠くからでも所在が分かってしまうくらいの兵数を誇る濃紺に金丸の旗印集団。
 源次郎…繁が思う以上に、我が子は両親が争うことを怖れていた。最悪の事態ばかりが頭をよぎって仕方ないといったところだろう。
 自分達の選んだ生き方が、子らに複雑な思いと過酷な覚悟を強いている。源次郎は親として申し訳ない気持ちになったが、戦となればわずかな躊躇や情が命取りになるのだ。
 源次郎は大助の頭を抱き寄せて諭した。
 「私が大坂に入ると心を決めたとき、あの人は止めずに送り出してくれた。それは何故だと思う?」
 「……わかりませぬ」
 「どちらも必ず生き延びるから、だ」
 「戦はどちらかが敗れるまで続くのではないのですか?」
 「そのような事はない。あの人は、おそらく今も戦の落としどころを探っている筈だ。無論その中には我らの命も含まれている。だから、我らはあの方を信じながら自らの本懐を成し遂げるべく戦うまで」
 「信じているから無茶ができると……」
 「……そう言われると身も蓋もないが、その通りだ。私の選択を尊重してくれたあの方のためにも、私は必ず生き延びる。そして徳川を討ち取り、父上の無念を晴らす」
 世の物差しでは測れないが、と源次郎は軽く笑って大助の頭を撫でた。
 「いつか、あの方にもそなたの甲冑姿を見せてやりたいな。……さあ、参るぞ」

 九度山にて歳月をかけて練った構想は、すべて整った。
 「父上、あなたの夢はここに実現いたしました。いざ参ります」

- 真田丸の戦い -

 「結局、あちらは秀頼が総大将に立ったか」
 二条城を発って夕刻に茶臼山の本陣に入った家康は、報告を受けながら滋養強壮の薬湯をすすった。
 「名目ばかりでございます。まあ、馬にも乗れぬ巨体で戦場に出ては牢人衆の士気も落ちるというもの。おそらく城の最奥に籠もったきりでございましょう」
 秀頼の体たらくを伝え聞いていた秀忠は楽観的である。
 「実質的には真田左衛門佐をはじめとした五名が総大将ですな」
 真田左衛門佐幸村、後藤又兵衛基次、明石掃部全登、長曾我部盛親、毛利勝永。
 家康とともに老体に鞭うって茶臼山に入った本多佐渡守は、「知らぬ名もおりますなあ」と読み上げた。
 「真田、か」
 もっとも厄介な相手の名を家康は口の奥で噛み殺す。
 「あのような巨大な出城まで造りおって……隠岐守の首尾はどうなった?」
 「返答を保留されたとのこと。しかし城内での内通の噂と左衛門佐に対する不信感は完全には拭えていない様子。本人もまだ調略を完全に否定しておらぬようですので、戦流れによっては或いは」
 佐渡守の言葉など、家康にとってはたんなる気休めにしかならなかった。
 「注意してかかれ。相手はあの真田じゃ」
 「ご安心めされよ父上。既に主立った兵が大坂城を包囲し、遠方からの軍勢も続々と到着しておりまする。包囲の威圧だけで白旗を掲げるやもしれませぬ」
 「早う整えよ。儂は安心して眠りたい」
 「は?父上、何を仰るのですか!」
 家康の言葉に秀忠は椅子を蹴飛ばして立ち上がってしまった。
 「父上には、まだまだ長生きしていただきとうございます」
 「秀忠よ……そなた、何を思い違えておるか」
 「?」
 「勝手に永眠させるな。儂は日々きちんと眠りたいだけじゃ」
 齢七十三、心が命ずるままに動いてくれなくなった身体、威厳を伝えることも出来なくなった張りのない声。それでも生きる気力だけは人一倍強い。
 「……申し訳ございませぬ」
 征夷大将軍をもひれ伏させる唯一の存在は、ふんと鼻を鳴らした。拍子に鼻から水が吹いたのを、脇を向きながら懐紙でそっと拭った後で。
 「安房守が死んだのは確かなようじゃが、敵対する真田を完全に葬り去らねば儂が願った真の安寧の世が訪れることがないのじゃ。心してかかれ」
 「はっ」
 秀忠が自陣へ引き揚げた後、家康は佐渡守を呼び寄せる。
 「あれの手配は」
 「あと十日のうちには」
 「急がせよ」


 大坂城包囲網がみるみるうちに拡大し、ほぼ完成をみた師走初めの日。
 本格的な戦の端緒は、博労淵の最北端から切って落とされた。
 大野主馬治房率いる豊臣恩顧の将兵が、鍋島勝茂や蜂須賀至鎮といったかつての豊臣家臣に向かって攻撃を開始したのだ。
 「恥知らずの裏切り者どもめ、よくものうのうと大坂に戻って来られたな!」
 太閤の死後、自領の安堵や地位と引き換えにあっさりと徳川に降った者達に対する豊臣恩顧衆の恨みは根深い。彼らを率いているのが秀頼の側近中の側近にして武闘派の大野主馬なのだから尚更である。
 これまでの鬱積を晴らすかのように豊臣軍は兵らを蹴散らしていく。
 「おまえ達を再び大坂城に入れてやっても良いぞ……首一つとなって、な!」
 大野主馬はそう豪語しながら敵を斬り捨てていく。蜂須賀も鍋島もその気迫に圧され、馬印はどんどんと南下していった。
 主馬を援護する毛利勝永は、博労淵の最北端にかつての主の旗印を見つけた。
 「貴様は勝永!この恩知らずが!」
 第二次上田合戦時代に川中島藩主として海津城を治めていた森忠政は、勝永の姿を見て仁王の如く顔を真っ赤にさせる。
 「恩返しと言ってくれよな。あんたの処に居たら一生飼い殺しで終わっていた俺が、今じゃ一軍を率いる将なんだ」
 出世しただろ、と不敵な笑みでかつての主を見下ろした勝永は、秀頼から拝領した陣羽織をひけらかす。挑発敵な態度にすっかり我を失った森忠政は勝永を討ち取るよう命じたが、勝家に挑んだ勇敢な兵はことごとく地に伏した。
 「さて。蜂須賀も鍋島も逃げにかかってるようだが、あんたはどうする?」
 馬でじりじりと迫る勝家の迫力に、忠政が手にしていた刀が震える。
 「ひ、退け!!」
 川を横に見ながら南へ退却していく兵たち。勝永は「出奔は正解だったな」とうそぶいて城内へ引き揚げた。
 その頃には、大野主馬が攻撃を仕掛けていた蜂須賀・鍋島の軍も総崩れとなって友軍の徳川譜代組を巻き込んでの混乱を引き起こしていた。
 助太刀しようとした徳川譜代組の陣周囲には大坂城の櫓から大砲が容赦なく撃ち込まれ、混乱に拍車をかける。こちらは主馬の兄、治長の指揮だった。

 「川向こうで戦が始まったか」
 徳川方として大坂城の北方包囲に加わっていた立花宗茂が戦の喧噪に気づいて具足を鳴らした。
 「天満川を渡り、博労淵へ援軍に向かう。すぐに船の用意をしろ。ここの守りは隣の本多美濃守どのにお任せすると伝令を出せ」
 「はっ」
 宗茂にとって大恩ある本多忠勝の子の陣に伝令を出したが、立花が陣羽織を羽織るよりも先に伝令が舞い戻って来る。
 「殿、天満川の船がすべて流されております」
 「何?」
 「船着き場に繋いであった船の綱がすべて切られておりました。船はみな川に流されてしまい、取り戻すことも出来ませぬ」
 「……ううむ、豊臣め」
 陸路で駆けつけようとも、河口近い天満川は人馬が渡れる深さではなく、直接博労淵に渡れる橋もない。
 「あちらには真田左衛門佐が居ると聞いておるが……よもや、これもあの者の策であるのか」
 (流石、島津さまが認めた者なり。配流された後もなお、その魂は色あせぬか)
 敵ながら天晴なり、と喉まで出かかった言葉を立花は飲み込み、兵らに出陣の取りやめと持ち場の死守を命じた。
 鎮西一と呼ばれた猛将も、そして牢人生活を送っていた彼を取り立てた亡き本多忠勝の子も、此度は指をくわえて大坂城の石垣を睨むしかなかったのだ。

 博労淵で混乱した徳川兵は豊臣に押され、淵の南にかかる橋に殺到する。
 淵の最南端を守っていた浅野長晟が木津川口に架けた仮設の橋は殺到した兵で今にも落ちそうな混乱ぶりであった。浅野の隊が必死に彼らを誘導し混乱を収拾しようとするが意味を為さず、あぶれた兵らは浸水直前の船で、また足軽たちは甲冑を脱ぎ捨てて泳ぎ、ほうぼうの体で城の南へと逃れていった。
 「まったく、ざまあ無いな」
 自陣の物見櫓に立った伊達政宗は、国に帰したソテロから餞別として貰った遠眼鏡で博労淵の惨状を見やりながら呆れる。この頃は、おそらく政宗の他には家康しか持っていないであろう貴重品である。
 「まあ、あちらは譜代組が軒並み初陣の連中ばかりだから、太閤からの寝返り組が突かれていたところで援護も何も……どう立ち回れば良いかすら分かっていない」
 仕方ないな、と政宗は自軍の一部に木津川を渡る兵の支援を命じた。自身は馬番に支度を命じ、成実に伴をさせる。
 「ちょっと出てくる。重長はここで指揮を執っておれ」
 「いかがなさるのですか?」
 「あいつらも、ただ追われて逃げてきただけじゃ面目が立たないだろう。武功を立てさせるために一喝してくる」

 木津川を渡り終えた将兵らは未だ統率が取れていない。とりあえず自軍の旗印を目指して集ったもののこの先どうしたら良いか狼狽える兵らの前に、三日月の前立てがきらめいた。
 「だ、伊達陸奥守さま?」
 親藩・譜代組の年若い大将が、ぼろぼろに着崩れた甲冑のまま膝を折る。政宗はその頭上に「たわけ!」と怒声を浴びせた。
 「大坂城を落とすために出陣してきた者が、友軍の危機を前に援護も何も出来ずに逃走してきたとは何たる様ぞ」
 「まことに面目次第もございませぬ」
 身をすくめた若造達に、今度は声の調子を落として諭す。
 「そなた達、このまま逃走しては上様や大御所さまに合わせる顔がなかろう。……ほれ、東の平野口の方で友軍が戦っておる」
 はるか遠くに見える巨大な出城を采配で示し、最後に腹の底から声を張り上げた。
 「さっさと行かぬか!腰抜けとして末代まで笑われたいか」
 「はっ、仰せのままに!……みな、参るぞ」
 「ははーっ!」
 徳川の一族に名を連ねている者であろうと伊達政宗の威厳には勝てない。初陣で何が何だか分からぬままの彼らは、政宗の迫力に圧されるまま東へと進軍を開始した。
 その様を見やり、政宗はふう、と息をつく。

 「俺がこうするのも、きっとあいつは読んでいるだろうな。さて、お手並み拝見だ」


 まだ博労淵での開戦は徳川方には伝わっていない、大坂城南東。
 「北からの援軍を阻止したことで博労淵の徳川兵は大混乱だ。脱出した敵が真田丸へ向かっている」
 城内を駆け抜けて真田丸に入った毛利勝永からの報せを受けて、源次郎はうむと頷いた。
 「狙いどおりだ。ではまず正面の敵から崩していくか。大助、頼んだぞ」
 「はい」
 大助は与えられた数十の兵に合図を送り、幟を一斉に大坂城の方へ翻させた。
 やや時をおいて、真田丸の真正面を睨んでいた前田利常の隊から起こったどよめきが真田丸にも聞こえて来る。
 どよめきは大坂城からもわき上がり、真田丸は一時空の震えに挟まれた。
 「真田が大坂城を向いたぞ」
 「まさか内応か?」
 報せを受けた大野修理がすぐに天守の物見櫓に上がって確かめ、「まさか」と青ざめる。
 敵も味方もざわつきながら赤の幟の動きに注視している中、今度は突如として真田丸の内部から爆音と煙が上がった。爆発音の残響がまだ空気を揺るがしている中、続いて盛大な鬨と斬り結ぶ音が真田丸から上がる。
 その頃には有楽斎に付き添われた秀頼も物見櫓に上がって来ていた。
 「修理、あれは左衛門佐の策か?それとも仲間割れか」
 「いえ、聞いておりませぬ」
 修理はすぐに馬廻衆に命じた。
 「黄母衣衆はただちに豊臣旗本衆を平野口に集めろ。有楽斎さまは殿とお上さまを頼みます。旗本衆が集まり次第、私が指揮を執って真田丸へ参りますゆえ」
 「承知」
 左衛門佐が寝返ったのならば、すぐさま封じなければならない。大野の手が怒りと失望、そして悲しみに震えた。
 「もし裏切りであるのならば、それはもはや表裏比興ではなくただの『卑怯』だぞ、左衛門佐」

 一方、前田隊の後方、岡という名の山に構えられた徳川秀忠本陣では真田丸から上がる煙を見た秀忠が「よし」と膝を叩いて歓喜していた。
 「やはり倅は安房守とは違ったか。戦わずして屈するとは何とも御しやすい。まこと賢明よ」
 前日に父親から忠告を受けた事など忘れ去っていた秀忠は、すぐに伝令を呼ぶ。
 「前田隊に総攻撃を仕掛けさせろ。真田は我らが味方。奴を陣頭に立たせて大坂城を一気に攻め落とせ」
 秀忠の歓喜がぬか喜びだと知らされるのは、それから二刻も経たないうちであった。

 「本来ならば、わしもあの城に幟を掲げておったのだが……」
 大坂城下の街並みを挟んだ先にそびえ立つ真田丸に掲げられた緋色の幟を苦々しい思いで睨んでいたのは弱冠二十一歳の若き将・前田利常。
 豊臣五大老の一人であった父・前田利家が亡くなった時、利常はまだ数えで五つ。酔った利家が侍女と戯れた結果生まれた子であったため父への目通りはたった一度きり、その後は人質生活を送っていたため父親の記憶はほとんどない。
 本来ならば捨て置かれるべき立場であった利常が加賀前田という大大名家の当主に立ったのは、ほとんど成り行きであった。異母兄にして利家亡き後に前田家を継いでいた嫡男・前田利長には世継ぎが生まれず、仕方なく利長は歳の離れた弟を自らの養子とする形で引き取ったのだ。
 その利長は利常が元服すると同時に家督を譲って隠居、そして前年に亡くなっている。
 思いもよらぬ形で家督を継ぐことになった利常は、当初豊臣秀頼への目通りを熱望していた。石田治部とは対立したものの豊臣への忠義は貫いた加藤肥後守のように気骨ある武士に憧れ、また年齢の近い秀頼を支えることで養父を大坂からいびり出した徳川に一泡吹かせてやりたいと目論んでいたのだ。血の気の多さは利家ゆずりであろう。
 しかし現実はそう上手くいかなかった。
 まず、利長の養子になった時点で徳川秀忠の娘との婚姻関係を結ばされた。相手の珠姫はこの時まだ襁褓も取れていない赤子である。
 次に、それまで前田家からの人質として江戸に入っていた利長の母にして利家の正室・芳春院に代わって前田家の侍女であった利常の母が江戸に入った。
 これは利長が自らの失態によって母親を人質にしてしまった過去を償うために敢えて家督を利常に譲り、母を解放させたと利常は解釈している。その時、利長は芳春院に呼びつけられて散々叱られたというのは有名な話だったからだ。江戸暮らしとなった利常が加賀で肩身の狭い思いをしていた母親を傍に置くことは前向きに考えれば非常に合理的かつ安心でもあるが、同時に幕府に対する軽率な言動を封じられることになる。
 家康は家康で若い大名が秀頼に接近するのを怖れてか、利常に目通りするたびに移封をちらつかせる言動に出た。
 伊予や土佐といった、江戸から遠い土地の名がたびたび会話に登場する。聡い利常は、すぐにそれが自分に対する牽制だと見抜いた。疑り深い家康が、日ノ本屈指の大大名家に好き勝手させておく筈がない。
 さらに国元では利長と折り合いが悪かった異母兄やその子らの処遇を巡って家臣たちが真っ向から対立しており、その醜聞は抜け目なくも公儀の耳を汚す。
 幕府がこれら諍いをお家騒動と認定してしまえば、当然のことながら前田は取り潰しの憂き目に遭い、幾万もの家臣たちが路頭に迷うことになる。
 それら現実を前にした利常は豊臣方への復帰を断念し、徳川への臣従を貫くことを決めた。此度の戦では誰よりも忠義があることを示すため、徳川方の中でも最大規模となる二万の軍を率いて最前線に立っている。
 個人としての希望は何一つ叶わずとも、戦の中で前田軍が一丸となってくれればそれで良い。己の情よりも国の将来を選ばざるを得なかったのは伊達政宗と同じである。それが国主の宿命なのだ。

 もしも、あの城から徳川勢を見やる立場になっていたら。視線の先にそびえる出城に立つ幟が加賀梅鉢であったなら。
 真田軍が一斉に旗を翻したのは、利常が詮無き空想に利常が心をざわつかせていた中だった。

 「真田め、豊臣を裏切ると申すか!」
 ほんの僅かでも羨ましいと思った…ともに戦いたいとすら願っていた真田の行いは、若き前田の当主を激昂させた。
 「武士であれば最後まで主への忠義を通すが筋。卑怯にもほどがある」
 「上様の本陣より伝令! 前田・松倉・井伊隊は大坂城の出城を攻撃せよとの事」
 「真田丸の内部では、どうやら仲間割れが起こっている様子にございます。大坂城からも真田丸に向けて討伐隊が出た模様」
 母衣を背負った伝令や物見の兵が次々と陣幕の中に駆け込んでくる。利常は一も二もなく応と立ち上がり、全軍に突撃を命じた。
 「真田左衛門佐でも抑えきれぬ諍い……左衛門佐本人がどちら側なのかは関係ない。我らはただあの出城を突破し、大坂城本丸への血路を拓くのみ!」
 「おう!」
 前田の陣で鬨が上がり、法螺の音が鳴り響く。鼓舞されるまま、兵たちは進軍を開始した。
 「こっちだ!」
 真田丸内部の様子を伝えた伝令役は、そのまま総攻撃の大軍の前列に紛れ込んで真田丸に続く道を駆け始める。誘導されるように二万の軍が城下町を縦列になって駆け抜けた。
 「ここらは寺町だ。墓地を踏み荒らさぬよう気をつけろ」
 曲がりくねった狭い道がもどかしくもあったが、鐘楼がいくつも並ぶ街並みを踏みしだくような罰当たりは出来ない。当初は横に大きく広がっていた隊列は袋の口が絞られるように徐々に細くなり、後方は先を争う兵たちが詰まっていく。
 俯瞰すれば蟻の行列のように見えるそれが、真田丸に通ずるいくつもの道を埋め尽くしていた。
 それら道の先には、真田丸に通ずる橋と南櫓門が見える。
 しかし、その手前はすべからく上り坂になっており。
 「ま、待て!」
 一番駆けを狙って坂を上りきった兵の脚が止まった。
 真田丸まで一直線に続いていたと思われる道はぷつんと途切れ、その先には切り立った崖と深い堀。
 「止まれ!堀がある!!」
 しかし勢いはすぐには止まらない。後ろから続々と突進してくる味方に押し出される形で、前田兵は続々と空堀に転落していった。
 「どういう事だ。この地に堀など聞いておらぬぞ」
 「殿から預かった図面の写しでは、堀の手前には通路が設けられていた筈」
 「では罠か。真田は味方ではなかったのだ。ただちに殿に伝令を送れ!それから進軍を止めさせろ」
 崖ぎりぎりで堪えた将達がすぐさま後方の隊に停止を命じるが、それら命令も殿に伝わる頃には何故か「突撃続行」に変わっている。人馬が絶えることなく転落してきて、堀はすぐさま前田の兵で埋め尽くされた。
 「ええい、こうなったら空堀を突破して出城に這い上がるまで」
 退路がないのなら進むまで。堀へ落ちてしまった将たちは堀の底に巡らされた二重の柵の突破に目標を変更し、自らも馬を降りて柵への体当たりを指揮する。
 一部の柵が倒れ、勇敢な兵はさらに二段目の柵を取り壊しにかかっていた。
 その時、柵の向こうに見える真田丸の櫓から足軽兵たちが続々と堀へと降り立った。堀を制すれば真田丸への途は確保できるという事だ。
 赤揃えの槍兵たちの中には後藤又兵衛隊の旗指物も見える。
 「あの下がり藤紋は後藤又兵衛だ!みな、槍の又左と呼ばれた利家公から伝わる槍技を見せてやれ!」
 敵の耳目が自分に向いたことに気づいた又兵衛は、意気揚々と槍廻しを披露する。
 「おうよ!我こそが後藤又兵衛基次。大陸にて名槍・日本号を振るった黒田武士の槍さばきを見せてやろうぞ。いざ参れ!!」

 「左衛門佐、これはどういう事だ!」
 真田丸の南で前田兵が苦戦していた頃、大坂城平野口から大野修理の隊が真田丸に向かって詰問していた。しかし大坂城に向けたままの幟とは反対に徳川方へ攻撃を仕掛けている赤揃えを目の当たりにして唖然となる。
 「修理どの。加勢でしたら早くお入りください」
 内記と伊達家から来た和久宗是が立つ物見台からの戦況や各櫓の隊長を通じて陣所に次々と入ってくる報告を受け、内記と同じく九度山から来た昌幸恩顧の三井豊前や青柳清庵、義弟の大谷吉治らとせわしなく対応を協議しては指示を与えていた源次郎は、大野隊を招き入れるとすぐに北門を閉じるよう命じる。
 「一体どうなっておる。殿もお上様も困惑なさっておられるぞ」
 開かれた櫓から曲輪に出迎えられた修理に対して、源次郎は「ご覧のとおりですよ」と澄ましたものである。
 「我らが内応したと思わせれば、徳川軍は我らが血路を拓くと見てこちらに集まります。そこを一気に」
 説明されるまま陣所の奥を見れば台所方や将兵の治療をする侍女たちが中心となって六文銭の幟を大坂に向けて振っており、大坂城の堀と接する曲輪では年若い兵らが火薬玉を爆発させている。徳川方から見れば大坂城に攻撃を仕掛けているかのように見える仕掛けであったのかと修理は得心した。
 ようやく存分に暴れる機会を与えられた後藤又兵衛は、見せ場とばかりに堀の中で奮戦している。長槍を大きく振り回す様は豪快そのものであった。
 「何ともまあ大胆な策を……では、そなたが徳川と内通しているのではという噂は」
 「接触があったのは事実ですが、この時のため敢えてそのままにしておいたのです。私が殿やお上様を裏切るなど断じてありませぬ」
 「そなたという奴は……」
 食えない奴だ、と言いかけた修理の声に源次郎の笑いが被さる。
 「仲間には、最近父に似てきたと言われますよ。それより修理どのの軍はこれで全てですか?」
 「左様だが」
 「では、これ以上の援軍を真田丸に寄越させないよう城に伝令をお願いします。……そろそろ頃合いだ。平野川に合図を送れ」
 「はい!」
 源次郎の側に控えていた大助が北の狼煙台から狼煙を上げる。
 「ちぇっ、もう終わりかよ」
 狼煙を見た又兵衛は、空堀の柵ごしに前田兵を迎撃していた足軽隊に待避を命じた。空堀の随所に設けられた細い上がり口から真田の兵が待避していく。
 殿を務めて追撃する前田兵をなぎ倒した又兵衛が堀から上がって間もなく、東から轟々という音が聞こえてきた。そして、それまで空だった真田丸の堀がたちまち水に埋まっていく。
 「水だ!」
 「何と!!」
 空堀を突破しようと足掻いていた前田の兵たちは、なすすべもなく水に埋もれ流されていく。
 「水攻めまで用意していたのか?」
 大野は眼を疑った。そのような策は聞かされていなかったからだ。
 「後藤どの達が上杉や佐竹の陣を攻めたことで相手が迂闊に陣を城へ近付けられなくなったのを利用して、猫間川に堰を設けておいたのです。堰を切ればこの堀が水で満たされる……上田城の尼ヶ淵のように」
 「徳川の大軍を翻弄したという安房守の策か。しかし、かような堀も堰も設計図にはなかったぞ」
 「ですから、敵を欺くにはまず味方からですよ」
 「まさか有楽斎さまにお渡しした図面は!」
 「あれだけの城内ですから、間者の一人や二人忍び込んでいてもおかしくないでしょう」
 念には念を。定石どおりではあるが、やられた側にとっては何とも腹立たしい策。が、なぜか修理は腹の底からこみあげて来る笑いを抑えられなかった。
 それはきっと、絶望に支配されかけていた大坂城に真田が希望をもたらしてくれたからであろう。
 自分ではまず実行できなかった…思いつきもしなかった事を易々とやってのけて劣勢を打破する、それが真田なのだと修理は兜を脱がざるを得なかった。
 「……つくづく羨ましいな」
 「何か仰いましたか?」
 「いや。殿には大事なしとお伝えしておこう。もっとも、この戦果をご覧になれば報告など無用だろうが」


 一方。博労淵付近で伊達政宗に一喝された兵達も、このままでは引き下がれないと真田丸の西へ向かって城下を駆けていた。
 「貴様らは西の博労淵を守備していたのではなかったのか」
 彼らに合流したのは藤堂高虎・脇坂安元隊である。
 「あちらは豊臣の奇襲により壊滅いたした。我らは城の南、あるいは東の出城を攻略して大阪城突入の足がかりとすべく参じているところ」
 しかし大坂城の南にかかる橋はすべて落とされているため、必然的に出城へ向かっていたのだ。
 「徳川はそれほどまでに押されているのか?本陣に大事ないか」
 「大御所さまの陣は伊達陸奥守さまが守りを固めておられるとのこと。我らも陸奥守さまからこちらへ向かうよう言われて参った次第」
 「承知した。では儂について参れ。大坂城に入るにはあの出城以外に道はないが、出城を攻め落とす手筈だった前田隊もどうやら苦戦しておる様子。まだ井伊隊が控えているとはいえ、このままでは上様の本陣が危うくなるやもしれぬ。我らは貴奴らの脇を突いて西から出城を攻撃し、力攻めで西櫓を破る。速さで畳みかけるぞ、ついて参れ」
 「はっ!」
 「脇坂。我ら旧豊臣家臣の徳川さまへの忠義、しかとご照覧いただこうぞ」
 「かしこまりました」
 脇坂の父は、関ヶ原での小早川秀秋の内応に乗じて徳川方へ寝返った一人である。結果だけ見れば徳川勝利の功労者なのだが、武士道という観点からはいまだ父への風当たりは強い。ここで戦功を挙げて将軍や大御所の覚えを目出度くしておかねば家の未来は危うい。脇坂は功を焦っていた。
 「藤堂どの、まず某の隊が先行いたします。援護をよしなに」
 「本来、先駆けは儂の得意なのだが……まあよい、ここは若い者に任せよう」
 数で上回る藤堂の隊が真田丸に続く柵を次々となぎ倒していく。自軍が一気に真田丸へ迫れるだけの道が出来たところで、脇坂は突撃を命じた。
 「西曲輪を包囲し、一斉に突撃せよ。鉄砲隊は城壁の狭間を狙って相手鉄砲隊を牽制」
 小大名ゆえ結束も強い脇坂の軍はその機動力をもって真田丸に迫る。水で満たされていた堀には前田の旗印が漂っていたが、怯むことは許されない。
 ただひたすらに、国と家のために先へと進む。
 「脇坂、気をつけろ」
 躊躇せず前進する…そうさせるままの真田方に何かを感じた藤堂が叫んだが、その声が届くことはなかった。

 「火縄点火。釣瓶撃ち、開始」

 西櫓まであとひと駆けといった距離まで迫ったところで真田丸に号令が響き渡った。そして脇坂隊の足元に無数の穴が開く。
 真田丸からは十蔵の指揮のもと、釣瓶を落とすように滑らかな曲線を描いた連射が繰り返された。一分の隙も作らぬよう上下二段に構えた兵が交替で間髪入れずに銃撃を繰り返す技法である。
 「怯むな!次弾の装填、あるいは後列との交代の間に前進せよ」
 三段撃ちを学んでいる脇坂は後退を許さず、自ら采配を振るって馬を進める。
 しかし、よく知る三段撃ちよりも早く…間髪を入れずに次弾が足元に着弾した。
 「な、何だこの撃ち方は?」
 それこそが織田に一歩も譲らなかった雑賀の鉄砲術であった。いちど発射した銃はすぐ脇に投げ捨てられ、撃ち手は援護の兵から弾込めの済んだ銃を受け取るとすぐさま火縄に点火し発砲する。撃ち手と弾込めの者を完全に分業させ、釣瓶撃ちと相まって交代から構えまでの時間に隙を作らないのだ。
 「い、一時後退!」
 銃の射程から離れたところで体制を立て直そうとしたが、そこへ今度は大砲が撃ち込まれた。地揺れよりも己の身に迫る轟音と土煙に脇坂の馬が恐怖にいななき、脇坂は落馬した。そのまま音とは遠い方へと夢中で駆ける。
 「脇坂、こちらだ」
 騎馬の藤堂が脇坂を拾い上げ、兵らに後退を命じる。大砲は広い範囲で三カ所ほどに着弾させた後、いったん静まる。
 「奴ら、大砲まで用意していたのか」
 「射程外から近づけ」
 藤堂は着弾した地を避けて西曲輪の北側に回り込んだ。小回りが利かない大砲の性能からしてそちらには打ち込めまいと読んだのだが、藤堂隊が集まった地には再度大砲が着弾する。
 「何と。あの大砲は自在に操れるのか」
 大砲を車輪のついた台に載せて機動力を持たせるという源次郎の…九度山で昌幸とともに考え出した策が功を奏したのだが、もちろん藤堂達は知る由もない。
 「かように自在な火器まで装備しているとは。それに堀には前田隊の兵が……これが真田左衛門佐と安房守の策なのか……」
 「安房守の亡霊だとしたら、何と恐ろしい執念ぞ」
 足元に転がる部下の骸。それらを見やる余裕もなく、脇坂はただ呆然と出城の巨大な石垣を眺めるのみであった。
 そして、藤堂高虎はかつて自分が秀忠率いる信濃攻めから外れて美濃攻めに加わったのは幸運であったと感じずにはいられなかった。
 当時こそもし自分が上田城攻略に参加していれば大敗を喫することもなかっただろうと息巻いていたが、あの頃の自分が真田の軍略に嵌まっていたら、現在まで猪突猛進を旨とする武闘派でいられたかどうか怪しいものである。
 己を侮る者には知恵をもって恐怖を与える。それが真田の戦の本領なのだ。
 (このままでは、我が軍は危ういやもしれぬな……)


 真田丸の東、大坂城平野口に最も近い真田丸の柵列付近では、ふたつの赤揃えが干戈を交えていた。
 彦根の国主になったばかりの井伊直孝の隊である。
 世継ぎが戦死して不在となった事で井伊家がお家断絶の危機に陥った際には祖母…厳密には父の養母にあたる次郎法師直虎が女性の身でありながら当主となって今川や徳川、織田と渡り合うことでどうにか乗り切り、父の直政の代で家康からの信頼を確固たるものにした徳川四天王の家。
 赤揃えは、武田家が滅亡した際に武田家臣であった山県某の隊が使っていた色をそのまま譲り受けた頃から採用している。
 武田の流れを踏襲しているという点で、真田と井伊の赤揃えの源流は同じなのだ。
 戦場での赤は大きく目を引き、敢えて敵の攻撃を一手に引き受けることになる。あるいは先陣を切って味方を鼓舞することにも。
 赤をまとって危険な立場に身を置くことでおのずと手腕が磨かれ、井伊の名は赤揃えとともに上がる。父はそうやって井伊を日ノ本屈指の精強へと育て上げた。
 その井伊は前田とともに正面突破、混戦に持ち込んだ上であわよくば真田左衛門佐の首を狙ったのだが、先行した前田隊が翻弄される様を目の当たりにしてすぐさま策を変更した。
 「出城の全てを奪おうと思うな。大坂城に通ずる曲輪を奪えれば城内へ突入できる。我らが目指すはあくまでも大坂城の本丸だという事を忘れるな」
 石垣と同じである。一部を切り崩せば、後はほろほろと崩れ落ちる。
 東の柵列前には赤揃えの足軽隊が待機していた。六文銭の旗指物。左衛門佐と後藤又兵衛以外は名もなき将ばかりの出城だと聞いている中、その場を率いる将とおぼしき屈強そうな男が槍を片手に仁王立っている。
 「我こそは真田左衛門佐が義兄にして槍隊長、信濃の堀田作兵衛なり!お相手つかまつる」
 誇らしげに名乗りを上げた作兵衛の背後から銃が放たれ、その弾数だけ井伊軍の先鋒が倒れる。盾の向こうで、赤揃えの足軽達がこれ見よがしに拳を天に突き上げ歓喜した。
 年若い井伊はそれを挑発と受け止めて逆上する。
 「三下が!騎馬で柵を崩せ」
 精強を自負する井伊隊が地を揺らして突撃を開始する。しかし無欲ほど強い者はないもので、作兵衛の隊は銃撃と槍攻撃を巧みに使い分けて井伊隊を倒していく。天下の名城を守る大任に、作兵衛の郎党たちも一世一代の晴れ舞台とばかりに奮闘していた。
 だが数には勝てないのか、次第に柵の内側へと押されていく。井伊軍は建ち並ぶ柵を倒しながら大坂城の東堀が見える位置まで進軍していった。
 井伊軍優勢。直孝はそう確信していたのだが。
 「作兵衛さま、準備は整いました」
 乱戦の中、足軽に扮した才蔵が作兵衛に耳打ちしていたのだ。
 「わかった」
 戦いの折をみて作兵衛が仲間に小声で指示を出する。
 「足軽隊を少しずつ退かせろ」
 「了解」
 作兵衛の隊はあくまで抵抗を続けながら、じわじわと後退した。戦う素振りを見せながらも、少数ずつ真田丸へと引き揚げていく。
 そして最後の柵まで迫られたところで、ついに殿の作兵衛も真田丸へと退却した。その先に見えるのは大坂城本丸に続く橋。
 「ふん、やはり端者よ、臆病風に吹かれおったか。よし。このまま一気に大坂城への道を確保するぞ!」
 「ははーっ!」
 騎馬も足軽も。井伊の兵たちは城への一番駆けを目指して橋に殺到する。
 橋が兵で埋め尽くされ、大坂城の櫓門を破りにかかった時。
 「よし、橋を落とせ」
 二発の空砲を合図に、橋のたもとに潜んでいた才蔵と小助が橋に仕掛けた火薬に点火した。橋は跡形もなく崩れ落ち、井伊の兵たちは水が満たされた堀へと落ちていく。
 「左衛門佐。あの橋は?」
 あのような場所に橋や櫓などなかったという大野修理が首をかしげた。
 「真田丸を普請する際、城の塀にちょっと細工をさせていただきました。橋は木で造った簡単なもの、櫓は塀の一部を覆うようにこしらえた『張り子』ですよ。たとえ門を破っても、中は塀のままです」
 太閤の一夜城伝説から思いつきました。左衛門佐はそう補足した。
 「先ほどの堰といい、あの短い期間でよくまあ」
 「いえ。あの程度で徳川四天王を退却に追い込めるとは思っていません」
 「まだ策があるのか」
 「井伊家は戦の経験も多く、戦況の変化に応じた定石もよく知っているでしょうから」

 源次郎の読み通り、井伊は冷静に状況を分析していた。堰を切られ、水で満たされた真田丸の堀。一方、堰の源流となった川周辺の地形。
 井伊直孝はいったん山中に逃れ、地図を広げながら攻撃するべき地を見定める。
 「やはり、南からでは出城の攻撃を封じねば大坂城へは入れぬか。少々北上するぞ」
 「北上でございますか?」
 「橋ごと落とされた兵達を見ていて気づいた。堰を切ったために今の猫間川は浅くなっておるのだ、堀の中を伝って東側より大坂城平野口を狙う。奴らも、さすがに大坂城に向けて大筒を放つ訳にはいかぬだろう」
 「御意に」
 井伊自慢の騎馬隊は先を争うように浅瀬から堀へと入り込んだ。だが川に入った馬は重たそうに足を止める。
 「何が起こった?」
 「どうやら川底に仕掛けが施されていて、馬が脚を取られている様子」
 「仕掛け?」
 「水が淀んでいるため、まったく見えないのですが…馬の脚が上がらなくなっております。無理に前進させようとして落馬した者も多数」
 「まずいな。すぐに後退させろ」
 しかし時すでに遅く、馬を返すこともままならぬ状態であった。

 対岸の鉄砲狭間から井伊隊の様子を窺っていた木村重成が、采配を手に控える長曾我部盛親に振り返った。
 「長曾我部様、敵が川に嵌まりました」
 「よし。鉄砲方、撃て!」
 堀にて悪戦苦闘している井伊軍に向けて、大坂城から銃弾が浴びせられる。徳川屈指の精強を誇る赤揃えはばたばたと倒れ、残された兵たちも藪に身を隠すように退却していく。
 「長曾我部様。やりましたね」
 興奮を隠せない重成に対し、盛親はひたすら感心の唸り声を上げていた。
 「うむ。堀の中にびっしりと瓶を沈めておいて馬の脚を取らせる。雑賀の者直伝の戦法と聞いたが、まさかこれ程ぴったりと嵌まるとは……」
 「真田丸には手を出せないと見た時点で敵が一点突破に切り替えることを読んでおられたのでしょうか」
 「左衛門佐どのは、安房守どのから真田家が過去に戦った戦の子細を記した書を受け継いだと聞いておる。ことに徳川とは武田信玄公の時代から幾度も戦っておるから記録も多く残っているのだろう。しかし、それら数多の戦すべてを左衛門佐が頭に叩き込んで此度の策を練っていたのだとしたら恐るべき記憶力……いや、執念というべきか」
 今の左衛門佐を動かしているものが何なのか。きっと自分と似ているものなのだろうと長曾我部は感じ取った。現実の策として実行に移せるか否かというところで自分とは決定的に異なるのだが。
 「我が父・元親も雑賀衆とは懇意にしていたと聞いておる。儂は最期まで後継と認められなかったが、このような形で再び共闘する姿を父上に見てもらえたら、或いは……いや、今からでも遅くはないのやもしれぬな」


 揚げ法螺が轟き、多大な損害を得た徳川方……前田と井伊の隊が混乱の中で退却していく。
 「おのれ真田め……」
 口惜しそうに出城を睨む井伊と前田の若き主の前で真田丸の櫓門が開き、数十の騎馬と鉄砲隊を率いた六文銭の陣羽織が現れた。
 槍を掲げた陣羽織は高らかに名乗りを上げる。
 「我こそが真田左衛門佐幸村なり。そなたらが大将に伝えよ。この真田左衛門佐の心を金子や石高で量ろうとした行い、まこと愚かで意味のなきもの。我を動かすのはただ一つ、徳川への怨嗟の念であると!」
 「あれが真田か」
 戦の終局において大将が出馬し名乗りを上げるのは、このままおとなしく退却せよという意味である。もはや雌雄は決した、まだ立ち向かうのであれば掃討すると。
 しかし、その名乗りは、眼前の前田と井伊のみに向けたものではなかった。
 左衛門佐が名乗ると同時に、真田丸から大砲が発射されたのだ。
 その弾は井伊たちの頭上を超えて、はるか南へ着弾する。
 「あれは上様の陣の方向!おのれ!」
 逆上した前田の鉄砲隊が源次郎に銃口を向けるが、それらは源次郎の背後に控えた鉄砲隊によって牽制された。
 鉄砲隊の旗指物を見た井伊がすぐさま前田を止める。
 「やめろ。あちらの鉄砲隊を率いているのは八咫烏だ、我らがどうやっても敵う相手ではない。……真田め、雑賀衆まで味方に加えておったか」
 ここで抗えば損害が広がるどころか自分達の命まで危ういと判断した井伊は、前田を促す。
 「退却だ、犬千代(利常)」
 「しかし弁之介(直孝)、これでは手柄どころか損害しか残らぬ」
 「勝ち目がないのなら、その損害を最小限に抑えるのも将の判断だ。それに上様の陣も気にかかる」
 「……くっ!」
 口惜しさや怒りの中で前田利常は退却を命じる。けれど複雑な横顔の中にあったのは怒りだけではない。嫉妬も羨望も、すべての感情がないまぜになっていた。
 それは井伊直孝も同じである。
 (嫡男ではない生まれを逆手に取り、思いのままに戦うか……どうにも憎らしいぞ、真田左衛門佐)


 真田丸における戦にて徳川方が苦戦中との報は、政宗にもいち早く届けられていた。
 「井伊が五百、前田の損害はいまだ把握しきれず。他の隊や雑兵を含めれば損害は一万に届くか……思っていた以上だな」
 「殿、お顔が」
 お言葉と一致しておりませぬよ。小十郎が耳打ちする。
 「上田攻めとは桁が違う劣勢の中でどこまで戦えるかと思っていたが上々だ。しかも将軍の陣近くに大砲を撃ち込むことで徳川方を尻込みさせるなど、度胸は相変わらずじゃないか」
 「またそのような悠長な事を」
 徳川の息がかかった者に聞かれれば首がとぶ。小十郎ははらはらしながら辺りを確かめたが、政宗はまるで悪びれる素振りもない。
 どうせなら命中させてくれれば手間が省けたんだが、などとうそぶく有様である。
 「上様より援軍の要請が来ておりますが、いかがいたしますか?」
 「援軍の余裕はない。我らは木津川の制水権と茶臼山を守り抜く。大御所を守るための大義名分だ」
 実際、制水権争いといっても政宗の陣周辺で行き交う船を火矢で狙い撃ちさせるだけである。あとは竹雀の旗を翻しておくだけで充分豊臣方への牽制になる。
 「この戦、徳川は力攻めどころか和睦がやっとであろう。ならば無駄な損害は出さぬ。此度はゆるゆる戦っておくべきだ」

 政宗の言うとおり。
 真田丸の戦いにて味方が大敗との報せを受けた徳川家康は、全身の毛が逆立つ思いであった。
 「父上、このままでは我が陣に攻め込まれます」
 本陣の目前に大砲を撃ち込まれた秀忠は自陣を放棄し、顔面蒼白で茶臼山に駆け込んで来る有様である。
 前田・井伊の大敗から数日。立て直す時を稼ぐために自軍の隊に昼夜構わず鬨の声を上げさせたり空砲を空に放ったりして大坂城内の恐怖を煽っていたが、血の気の多い牢人衆にはまるで堪えていないらしい。空砲を放てば、お返しとばかりに真田丸から本物の実弾が着弾するのだ。
 「まさか真田があれだけの火器まで用意していたとは」
 「武田の戦を踏襲する奴のこと。平地での戦に持ち込むと踏んでおったのだが、侮っておったわい」
 「東の将兵はまだ温存されております。一斉攻撃をさせますか?」
 「無駄だ。これだけ術中に嵌まっておいて、更に危険を冒すつもりか」
 まだ何かあると考えるべきであろう。家康は帯同させていた阿茶局に薬湯を命じながら床机の前で思案した。
 「これは、和睦も念頭に置いておかねばならぬな」
 「一気に攻め落とすのではなかったのですか?」
 「無論そのつもりじゃ。だが、いつの世でも焦って事を為そうとして成功した試しなど数少ない。いったん仕切り直すことも選択肢に入れておかねばという事じゃ」
 「そのような弱気を申されては、徳川の面目に関わります」
 陣を放棄しておいて何を言うか。家康は不甲斐ない息子を皺の奥から睨んだが、戦で勝利した経験がない秀忠に多くを望むのは無理だと思い直した。
 「我らの脅しに一歩も退かない真田は何を狙っておると思う?」
 「それは……ただの虚勢ではないのですか?」
 「真田は我らが動くのを待っておるのだ。本陣が動いたと見るや、儂らの首を獲りに駆けてくるつもりじゃ」
 「そんな!父上はそれを承知で何を待っておるのですか」
 やられる前にやるべきだと総攻撃を主張する秀忠を、家康は扇で座らせた。
 「もう暫し待て。こちらも手は打っておる」
 翌日の夕刻、茶臼山の南に位置する今宮から家康の陣に大砲が届けられた。
 「大御所さま、お手配の品が到着いたしました」
 「おう、来たか。待ちわびたぞ」
 「父上、これは?」
 「英吉利(イギリス)製の国崩しを手配しておいたのよ。彼の国の戦は海戦が中心だ。たった一発で軍艦をも沈没させるという品は、真田が持つ大砲にも劣らぬ」
 沸狼機砲と呼ばれる国崩しの大砲を、茶臼山の兵らはどよめきをもって迎えた。
 「すぐに配備し、砲撃にかかれ」
 「ですが…木津川までともに運んで来た英吉利人は慣れぬ道中に難儀しておりまして、後れて到着する予定です」
 「構わぬ。関ヶ原で国崩しを撃ったことのある兵に使わせろ」
 これで形勢逆転だ。家康は童のようにわくわくと物見台に向かった。


 「左衛門佐さま、徳川軍の随所で爆発が起こっているようですが」
 徳川方からこれまでの空砲とは違う爆発音が聞こえてきたことで、真田丸では警戒を強めていた。物見に出ていた海野が報告に来る。
 「茶臼山から放たれた大砲が徳川方の随所に着弾しているようにも見て取れます」
 「仲間割れか?」
 「いえ、そのようには……着弾した箇所の兵たちは混乱しておりますが」
 源次郎が直接確かめると、たしかに大砲が発射されては大坂城の南を固めている諸大名の陣に着弾してはその箇所の兵らがざわめいている。どうやら大坂城を狙って放っているらしかったが、着弾する場所はまちまちで迷走感は否めない。
 「成程、あちらも今になって相当な火器を調達したようだな。しかし何とも不慣れな様子だ」
 「慢心しがちですが、威力のある火器だからこそ闇雲に撃って当たるものではありません。異国の大砲は特に難しく、その威力と加減を完全に理解していなければ本来使いこなせる物ではないのです」
 十蔵が説明する。真田軍が巨大な大砲を使いこなせたのは、昌幸と朝が異国の大砲に日ノ本の戦場における扱いやすさを加味して設計したからだとも。
 「徳川方に焦りが見えるな……試し撃ちをしているうちに、もう少し突いてみるか」
 「いかがなさるのですか?」
 「頼みの綱が使い物にならぬとなれば、後は和睦を狙って一時退却するしかない。家康が茶臼山から出たところを狙う」
 「混乱を突いて奇襲をかけるのですか。しかし敵中突破となると、失敗したら退路を絶たれますぞ」
 「家康を討ち取れば豊臣の勝利だ。彼らの意気も消沈するだろう」

 撃てども撃てども当たらぬ自軍の砲。それに対して確実に茶臼山を狙って来る真田丸からの大砲。
 「父上、自軍を混乱させてどうするのです?」
 食ってかかる秀忠の態度に、家康の苛立ちも限界に達する。
 「ええい、解っておる。撃ち方一時中止だ。にわか仕立ての撃ち手ではやはり無理があった。異国人にやらせろ」
 しかし、そこへ何とも間の悪い報告が舞い込んだ。
 「大御所さま。異国人を案内していた部隊が、彼の国の者もろとも全滅してございます」
 「は?」
 「先ほど我らが放った砲撃にて」
 「……」
 どうなさるのです。
 口に出せば父を怒らせると解っている秀忠が眼で訴える。
 年老いた家康の思考が止まったほんの数刻の間に、さらなる悪い報告が陣幕を揺るがせる。
 「申し上げます!真田丸から六文銭の幟を掲げた数百の騎馬が出撃したとのこと」
 「真田め、こちらの内情を見破ったか」
 「大御所さま、ここはいったん本陣を下げましょう。周囲を堀に囲まれている茶臼山での逃げ道は限られております。包囲されてしまってからでは逃げようがありませぬし、勢いに圧されて寝返る者が出ないとも限りませぬ。体制を立て直しながら講和の道を探るのも肝要かと」
 「何を申すか佐渡守。我らは豊臣を討ちに来たのだぞ。しかも馬印を動かしては真田の思うつぼだと父上も申していたではないか。何より我が方の士気にかかわるぞ」
 「今以上に混乱させようもありますまい。……上様。戦を始めるは容易いですが、終わらせる機を誤ると勝機まで逃げて行ってしまいます。敗けと見せかけて勝ちを拾う…安全な場所にて有利に交渉を進めるのもまた戦ですぞ。さあ大御所さま、ご決断を」
 父と同年代の本多佐渡守にそう言われてしまっては、秀忠も黙るしかない。
 かつて幾度もの戦をともに戦い、彼の意見に助けられてきた家康も同じだった。
 「……全軍を一度後退させる。大砲隊に援護を続けさせろ」
 遠い昔、三方ヶ原の戦いで絵に描かせた自らのしかめ面が頭をよぎったが、今はとにかく真田が襲撃してくる前に逃げ切るしかない。肚を括った家康はすぐさま伝令を命じ、籠を用意させた。

 なかなか上手くいかない異国の大砲の扱いに四苦八苦していた鉄砲隊の者達とて、ただ闇雲に試射をしていた訳ではない。
 どうにか大坂城の敷地に、真田の出城に着弾させようと苦心していたのだが、いかんせん沸狼機砲の風体が大きすぎたのだ。発射のたびに大きな衝撃が起こり、反動で砲身がずれる。結果、思い描いているのとはまったく違う弾道を描いてしまうのだ。
 低く翔んでも、高く打ち上げても、大坂城手前の平野に落ちてしまう。
 届かないのは装薬の量が足りていないのかとも考えたのだが、この大きな砲身に自分達が知る国崩しよりをはるかに上回る火薬を詰めて大丈夫なのだろうか。
 頼みの綱となる異国人は現れず、さりとて家康から発射中止の命令もない。結局、少しでも大坂城への牽制になっていることを信じて自分達で試行錯誤するしかなかった。
 そこへ家康から援護の伝令である。全弾撃ち尽くしたら大砲を曳いて速やかに撤退せよと。
 「全部使い切れ、か」
 撃ち手衆は沸狼機砲を囲んで腕組みした。
 「それにしても、結構な火薬が残っているぞ。今の調子で撃っていたら俺らも逃げ遅れる」
 「速やか、って訳にはいかないよなあ」
 砲弾は残り少なくなっていたが、異国の商人が砲身と一緒に売りつけた大量の火薬はまだ残っている。その加減の違いを改めて見直し、彼らは「やはり火薬が適量でなかったのか」と思い至った。
 「……なあ、残りの砲弾の数で火薬を振り分けて撃ってみようか」
 「それでも相当な量だぞ?いくら頑丈な砲身だからって大丈夫なのかな?」
 「海で船を沈めるくらいの射程があるという話なのに城の天守にまったく届かないのは、やはり火薬を遠慮しすぎたからではないか。どうせ使い切らねばならぬなら、やるだけやってみようではないか」
 未知の挑戦に腰が引ける者も居るには居たが、勇気ある者が数人で砲身にざくざくと火薬を装填していく。
 「大御所さまの援護だ。まあ、やれるだけやってみよう」
 「仕方ないか。退却までの時間稼ぎが出来れば良いのだろう。数撃ちゃ当たる、やってみようか」
 「どうせなら火薬をどれだけ詰めれば城まで届くかも試してみようぜ……皆、耳はしっかり守っておけ」
 開き直った決断と、ありったけの火薬を詰めてもなお暴発しない国崩しの性能。それが此度の戦局を大きく動かすことになる。


 家康の馬印と幟が茶臼山を囲む堀から平野に出たのを真田丸の物見台から確認した大助は、既に真田丸の南柵列にて待機している父親に向けて伝令を走らせた。
 「茶臼山から徳川の馬印が動きました」
 「よし。皆、家康を討ちに参るぞ」
 源次郎が号令をかけ、真田丸から数百の騎馬隊が「応」と茶臼山に向けて出撃しようとした瞬間。
 これまで聞いた大砲の音とは比べものにならない破裂音とともに、空が裂けるのではないかと思うほどの轟音が茶臼山から大坂城へ向かって来た。
 徳川本陣から放たれた沸狼機砲である。
 それまで同士討ちを繰り広げていた砲とは思えない威力を持った弾が源次郎たちの頭上を飛んでいった。そして雷が落ちるように城の本丸居館付近に着弾する。
 建物が砕ける音と煙が本丸から上がり、源次郎はたまらずに叫んでいた。

 「お上さま!!」
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