第36話 千成瓢箪から駒

文字数 24,663文字

 言うなれば、千成瓢箪から駒、であった。

【大坂冬の陣・和睦交渉】

 「大砲隊に褒美をとらせよ」
 留守居役を務めていた松平忠輝の出迎えをあしらって居間に入った家康は、阿茶局が点てた茶を口に含んだところでようやく肩の力を抜いた。
 誰をもひれ伏させる威圧感までを脱ぎ捨てた家康は、途端にどこにでも居る小柄な老人と変貌する。緊張と脱力の使い分けこそ、七十を超えてもなお戦場に立てる秘訣なのかもしれない。
 「首の皮一枚とはいえ生き延びたことは事実じゃ。儂の命運はまだ尽きてはおらぬ」
 「では直ちに兵を立て直しましょう。あの沸狼機砲で天守を破壊し、文字どおり粉砕してやれば……」
 こちらはまだ籠手を装着したままの秀忠である。
 「焦るな、秀忠」
 大坂では真田の大砲に怯えて逃げ回っていた秀忠は、豊臣からの追撃を怖れていた。
 「国ひとつ攻め滅ぼす戦には大儀が欠かせぬ。まずは和睦じゃ。そして時を待つ」
 「そんな悠長な。このままでは追討の軍が…あの真田が明日にでも京都へ来るかもしれませぬぞ」
 「それはない」
 焦る秀忠を前に、家康はあえて悠長に扇で顔を煽いだ。
 「秀頼ですら御しきれぬ軍を、真田の若造一人が動かせる訳がなかろう。既に和睦に向けて手は打っておる。今はいったん引き下がり、穏便に解決したと見せかけて、こちらに有利な状況を作り出す……なに、関ヶ原までの辛酸をなめた年月に比べれば、このくらいの時間など瞬きにもならぬ」


 焦っているのは徳川方だけではなかった。
 「早急に追い討ちをかけるべきかと」
 真田丸での戦によって徳川方の統制は崩れ、いつまでも京に多数の兵を置いておけない大名は相次いで国元に帰ってしまっている。家康はまだ二条城に留まっているというが、警護が薄くなっているのは明らかだった。
 勝利に沸く軍議の場で源次郎が発した意見は、その場の空気を二分させた。
 「その通りだ。さっさと家康と秀忠の首を獲っちまえばこちらの勝利、迷うことはないさね」
 後藤又兵衛と毛利勝永、大野主馬ら武闘派は源次郎の意見に賛成する。
 「敗走した者を追って首を獲るのは、落ち武者狩りのようで気が進まぬな」
 一方で主馬の兄・大野修理や長曾我部盛親、明石掃部といった穏健派は慎重だった。
 「本丸に砲弾が撃ち込まれた事で城内には動揺が走っておる。さらなる戦を仕掛ければ、またあの恐ろしい弾が飛んでくるのではないかと怯えている者も多い」
 「そうさせぬための追い討ちです。『勢い』は往々にして戦の勝敗を分けるもの。豊臣家を守るためにも、こちらに勢いがあるうちに畳みかけてしまうべきと存じます」
 「尤もな意見だが……大坂には、父が築いた権威というものもある。それに逆らう戦というのは如何なるものか」
 徳川方の砲撃は淀の居館近くに着弾し、淀の側仕えの侍女の中にも死者が出ている。おそらく淀本人ではなく大蔵卿局あたりからやや大袈裟に恐怖を吹聴されたのであろうが、秀頼は慎重であった。
 「殿の仰る通りですぞ、左衛門佐どの。豊臣の戦は正々堂々としていなければならぬ。太閤殿下が『大義』にこだわっておられた伝統を手折ってしまうのは宜しくありませんな」
 大義を得るためには手段を選ばなかったのが太閤だ。苛つく将達の視線をよそに、有楽斎はぬけぬけと追い討ちを否定した。
 「戦の世で『卑怯』と『比興』は紙一重でございます。いかなる手を使ってでも大坂を滅ぼしたい徳川に、まっとうな戦は通用しますまい。ならば」
 「左衛門佐どのの言うとおりだ。関ヶ原でも内応を仕向けたのは徳川の方、もはや遠慮など無用」
 「そうだそうだ」
 過去の歴史を紐解いた牢人衆は源次郎の意見を支持した。
 だが有楽斎は敢えて申し訳なさそうな顔で扇を口元にあてがいながら機運の腰を折る。
 「ですがなあ……既に日取りの調整も行っておる次第」
 「日取り?」
 「和睦交渉の、でございます」
 「いつの間に?」
 牢人衆だけでなく秀頼も唖然とする中、有楽斎は既に決まった事のように続けた。
 「いや、いざ二十万の軍勢を目の当たりにすれば到底勝ち目はないと思うのは人情ではござらぬか。それに加えてあの勝鬨攻勢。女子供がひどく怯えてしまいましたゆえ、私もせっつかれるまま主上(天皇)にお取りなしを願い出た次第」
 「今上とな?」
 天皇まで巻き込む有楽斎の周到さ、いや強引さであろうか。
 「有楽斎よ、私は聞いておらぬぞ」
 詰め寄らんとする秀頼を前に、有楽斎の眼があらぬ方を向いている。
 「城内の動揺をお伝えして殿にご心配をおかけしてはならぬと……まあ、良かれと思ってした事なのですが」
 「お断りくださいませ、有楽斎さま。豊臣家の行く末を左右する一大事を独断で決められてはなりませぬ」
 「ですが、既に主上は徳川に『和睦すべし』との玉言を発せられたとのことで、あちら側の承諾も届いてしまっております。和睦の意思を示した相手を討ち取ってしまっては陛下の玉顔に泥を塗ることになり、世に豊臣が悪と知らしめるようなもの。ここは拙者の顔を立てると思って、一度なりとも交渉の席を設けてはくださらぬか」
 何てことだ。牢人衆は一様に落胆の声を上げた。自分達が命がけで掴んだ勝機を、城内でぬくぬくと過ごしていた者に潰されるとは。
 (砲弾がこの男の頭上に落ちれば良かったのに)
 そのような言葉が喉元まで出かかる牢人衆を見て、源次郎はどうにかこの場を収めなければと知恵を絞った。
 そして、咄嗟に浮かんだ考えを提案する。
 「では、このようにいたしましょう。和睦の名のとおり穏便に事を進めたいという意思表示として、帯刀せぬ女性を互いの使者に立てて話し合うのです。それならば議論が過熱しても刃状沙汰にまではならぬでしょう」
 「女性を?」
 「勿論、有楽斎さまにもご遠慮いただきます。なに、条件の内容は互いに軍議で決めるのですから、使者どのには場を和ませつつ互いの主張を穏便に調整する役を担っていただければ宜しいかと」
 思いもかけぬ出方に有楽斎はたじろいだ。余計な事をと左衛門佐を睨むのは、もう幾度目になるだろうか。勿論、左衛門佐は視線くらいでは動じない。
 「しかし、お上さまが交渉の場に直接お出ましになるのは如何なものかと……道中、身柄を押さえられてしまいかねませぬし」
 「徳川は正々堂々を旨となさるのでしたら、そのような心配はありませんでしょう?」
 「……」
 沈黙が走る中、秀頼はふと思い当たって提案した。
 「大叔父上、それに左衛門佐。女性を使者に立てるのであれば、豊臣の使者に相応しい身分で、徳川とも縁のある方に心当たりがある。私の叔母、常高院どのではどうだ」
 常高院。俗名は初姫。
 大坂の淀の妹であり、江戸に居る江姫の姉。
 思いがけない名ではあったが、姉と妹、豊臣と徳川、両者の中間に立つ者としては申し分ない存在であった。大野修理は「なるほど」と膝を打つ。
 「叔母上からは、徳川との間に緊張が生じた頃から自分が豊臣と徳川の間を取り持つゆえ戦は回避できないかと何度か文を頂いた事がある。戦と決まってからも何事かあらば外交に動くのも辞さぬと仰ってくださるし、平和を望む心と正義感の強さは我が祖父長政ゆずりだと母上からも聞いておる……まさに適任であろう」
 たしか現在は京都の寺に居る筈だと秀頼は記憶を手繰った。大坂城に徳川の手の者を入れたくない以上、交渉の場はおそらく京都になるだろうから、呼び寄せるのも難しくない。
 「で、では叔父である私が初どのを迎えに参りましょう。その上で護衛を」
 食い下がる有楽斎を源次郎はぴしゃりと封じた。
 「それなら心配ご無用でございます。こちらには、かつて若狭を治めておられた大谷刑部さまのご子息や、初姫さまが養育なさった旧浅井家の家臣の方が参戦していると聞いております。旧知の彼らであれば初姫さまもご安心いただけるでしょう。有楽斎さま自らお出ましいただくには及びませぬ」
 有楽斎が言葉を継ぐ前に、牢人衆…源次郎と懇意の五人衆らが「承知」と大声で賛同する。
 「しかし牢人衆ばかりでは……」
 「では、私からの使者として木村重成を遣わそう。評定衆と牢人衆が協調して事に当たるように」
 これでよいか、と秀頼が源次郎に目配せする。源次郎は感謝をこめて軽く頭を下げた。
 和睦という耳触りの良い言葉に惑わされてはならない。戦は必ずまた起こる。
 それをよく分かっているのは、他ならぬ牢人衆たちなのだ。


 「結局、また有楽斎はのらりくらりと自分の思惑通りに事を運びやがったか。とんだ食わせ物だぜ」
 源次郎の屋敷に集った面々は、酒を汲み交わしながら不満を漏らす。
 「まあ、あそこで有楽斎の思惑どおりに話が進んでいたら牢人衆の士気はとんでもなく下がっていたし、交渉でどんな不利な条件を持ち帰るか分かったもんじゃないさね。あいつの詰めを阻んだっていう点だけでも今は上々としなけりゃならないさ」
 「あいつが一番の危険人物、獅子身中の虫かもしれないのにな。追い出すにも証拠がないし、何より殿の次に偉い立場だと来ている」
 「殿もお上さまも流石に無碍には出来ないご様子ですし、厄介ですなあ」
 勝永や長曾我部も又兵衛に同調する。
 「好意的に考えればの話ですが、結局のところ誰もが変化を怖れているのかもしれませぬな。此度の戦で徳川方に参戦した将の多くが初陣であったことに象徴されるように、関ヶ原を知らぬ世代は確実に増えている。戦の世を知るのは、おそらく我らで最後になるでしょう。そのような状況で、戦の向こうにある世を思い描くことが出来ずに……見えない世界に飛び込むよりも、今置かれている場所を守りたいと思う心持ちは理解できなくもありませぬ」
 「切支丹さんよ、怖気づいたか」
 「いえ。デウス様も『今』を良しとする人の世を…人が欲のままに生きていた世を変えたい一心で教えを広め続けた結果、そのお力を怖れた者達によって磔にされてしまいました。しかしその御心は後の世の戦を生きた異国の兵達の心の支えとなり、今もなお遠く海を渡って我らの心をも動かし続けています。私もそのような存在になりたい。たとえ今すぐに動かずとも、動くべき時に動かせるような世の礎となれればと……そのように考えます」
 「目の前の変化ではなく、長期的な変化か……」
 源次郎は自分なりに想いを馳せた。徳川を討ち取った後、自分はどうしたいのだろう。
 女の姿に戻って政宗と暮らすか。
 秀頼や国松の支えとなり、武士として大坂で生きるか。
 (どちらも想像がつかないな)
 春先までは九度山で真田紐を編んでいたのだ。想像できなくても致し方ないのだが、それが自分と家康の違いなのかもしれないと源次郎は考えた。
 家康が天下を手にできたのは、自分が世をどうしたいのかを見定めた上で耐えるべき時を忍んでいたからなのだろう。
 昌幸も然りである。真田の家と信濃の地を守り抜くという目標があったからこそ強かに立ち回り、今もなお多くの教えを遺せたのだ。
 この戦は家康を倒して終わりではない。それは秀頼も仲間達も、そして自分も同じなのだと思い直した。
 「殿に、此度の戦の先に広がるご自分の世をどのようになさりたいかを形にするよう進言してみよう。総大将が先を見据えていれば難局も乗り切りやすくなるというもの。とはいえ、目の前の事態が切羽詰まっている事もまた事実。我らが楔となって切り崩すべきは徳川の世という事に変わりはない」
 「戦の先、か……そういえば、おいら達は戦に勝った後の事をあまり考えていないなあ。おいらは今更堅苦しい大名になる気もないが、盛親さんは、やっぱりお家再興か?」
 「いかにも。拙者は土佐国長曾我部家を再興したい一心で大坂に馳せ参じた。この戦で我が名を上げ、各地に散り散りになった家臣達に戻って来てもらいたいのだ」
 勝永どのは?と返された酌を受けた勝永は小さく唸りながら酒を呷る。
 「俺は……どうかなあ。出奔した頃は「いつか出世して、元の主を顎で使ってやる」くらいに考えてたが、今となっちゃそれも小さなもんだと思ってる。かといって、自分が大名として何かをしている姿も想像がつかないな」
 「自由気ままな牢人暮らしが続くとそうなるさね。自由がいいってんなら長曾我部水軍の長という手もあるぞ?」
 「ああ、それもいいな又兵衛さん。船で自由に外国を見て回るのは楽しそうだ。盛親さんのような殿様だったらむしろ仕えたいくらいだし」
 「何と嬉しいことを。これは拙者も励まなくては」
 「おう、期待しているぜ」
 盛親と勝永は杯を軽く掲げて飲み干した。明石は静かに自分の心を打ち明ける。
 「私は、九州の一隅に切支丹が静かに暮らせる土地をいただきたいです。このような器で大名を名乗るのもおこがましいですが、同志が安心して信仰を深められるのでしたらこの身を捧げる所存」
 「いや。明石さんだったら、きっと良い殿様になれるだろうさ。武功を挙げて良い土地を貰うといい……で、源次郎さんはやっぱり信濃国か?」
 「そちらは兄上が上手く治めてくださっていますから、私の出る幕ではないですよ……さて、どうしましょうか」
 ふむ、と考え、源次郎は唐突に切り出した。
 「江戸城とは、どのような城でござるかな?」
 「江戸だって?」
 勝永が顔を強ばらせた。
 「まさか源次郎さん、今になって……」
 「内応などあり得ませんよ。でも、あの家康が都から遠く離れて築いた城の本物を見てみたいとは思いませぬか?」
 「何と、江戸まで遠征するつもりか」
 「将軍は江戸から来ているのです、逆も不可能ではないでしょう」
 「しかし、畿内より東はほぼ徳川のもの。進軍など不可能ですぞ」
 「江戸は最終的に到達する地ですよ。家康と将軍を討つのは……」
 源次郎が手持ちの地図に扇で指し示したのは、京都と岡崎だった。
 「これまでの戦の世は京都に旗を立てた者が勝者と呼ばれました。ですが徳川は敢えて京都から遠い江戸に幕府を開いた。駿府や尾張でなく江戸に、です。公家と密接な関係を築いてきた足利将軍家や太閤殿下のやり方を踏襲せず、距離を置くことで己のやりたいように施政を行った。つまりは江戸の地を新たな日ノ本の中心にするつもりなのです」
 「京都や大坂を旧きものとして、大名や民の心ごと上方から離れさせるつもりか」
 「公家からも離れて自由な政をするという点では、鎌倉幕府にも似ていますな」
 「すぐ北条に乗っ取られたけれどな。武家への締め付けを強くしているのは、過去の轍を踏まないためか」
 「勿論、これは家康一代で築けるものではありませぬ。徳川がなかば永劫に天下を掌中に収めたいのであれば後継の安定と家中の統制も必要でしょう。それだけ家康は徳川家による天下に執着している……ならば我らはその野心の芽を早いうちに摘んでしまうべきです。大御所が江戸を日ノ本の都と定めるのであれば、我らはその都を平定すべく進むのみ。いわば『逆上洛』です」
 勿論、その後に天下人となるのは秀頼さまです、と念を押す。
 実のところ、政宗が望むような合議制の世で秀頼が国の頂点に立てるかどうかは未知数であり、源次郎の話は完全な「張ったり」である。
 しかし効果はあったようで、酔いも吹き飛ぶような話に全員が一斉に喝采を飛ばした。
 「大御所と将軍の首を掲げて江戸まで行軍するか。いやはや痛快な話じゃないか」
 「たしかに、徳川が豊臣を潰したがっているのと同じ理屈だ。こいつを当面の目標としてもいいかもな」
 「おう。やり甲斐がありそうだ。牢人衆の士気も上がる」
 逆上洛の話は、すぐに十万の牢人衆にも広まるだろう。今はそういった共通の目標が必要なのだ。
 大坂の上層部が危うい難局を生き抜くために、まず牢人衆が一丸でなくてはならない。



 「これからの天下人は、世襲ではなく合議にて決められるべきではと考えます」
 京都の伊達屋敷。人払いをした客間にて、伊達政宗は上杉景勝に持論を打ち明けた。

 「合議とは、また突拍子もない考えであるな」
 「かつて国元に逗留していた異国人から『異国には民が王を選ぶ国が存在する』と聞いたことがあるのです。政治を動かすのは民の代表…いわば『将軍』であり、その下にて『家老』や『奉行』にあたる者達、さらに各国の主が議論を戦わせていると」
 それら家老や奉行を民が選び、将軍はそれらの職にある者らの話し合いによって選出されるのだと政宗は解いた。
 「選ぶための合議は数年ごとに行われ、民の信が篤ければ何年でも統治を継続できる反面、統治を任せるに値せずと判断すれば罷免される。戦ではなく治世の実績によって選ばれる緊張感は、現存する大名家に危機感を与えて善政に邁進させるというもの。何とも合理的な仕組みだとは思いませぬか」
 政宗の思想は、欧州における『共和制』を基にしたものである。
 欧州で本格的な共和制が発展するには政宗らの時代から更に百年以上の時を待たねばならなかったが、ローマ帝国の統治下において力をつけた都市国家は早くから『共和国』を称し、民による君主選びが行われていた。政宗にその概念を授けたソテロが話していたのは、それら小国の事であろう。
 もっとも、小国とはいえ規模でいえば日ノ本よりも大きく歴史もある。日ノ本で採り入れられない事はないと政宗は考えていたのだ。
 鎌倉幕府の頃から脈々と続いて来た国の根本をひっくり返す提案に、上杉は「また大胆な」と呟く。伊達の言動が世の中の度肝を抜くのは今に始まったことではないが、それら全てが計算の上だという事も知っているので冷静そのものだ。
 「統治する者を民が選ぶとして、天皇はどうするのだ?日ノ本の歴史に王は欠かせぬぞ」
 「そこは異国とは異なる流れを築いてしまうのですよ。現在、ほとんどの政に天皇は関与していない。表だって行われているのは官位を授けるくらいでしょう。それは南北朝時代の混乱に乗じた武士が天皇の政治的役割を奪ってしまったからです。しかし天皇家の世襲制までは否定していないのですから、誰が天皇になるかは公家の合議に任せておけばよろしい。さすれば天皇が『王』として存在しつつ政治は将軍が行うことも可能だと考えます」
 「選ばれる、となると」
 「無論、上杉公だけでなく豊臣にも権利が生ずるという事です。徳川は断固として拒否するでしょうけれど」
 徳川将軍家が天皇を政治に関わらせるつもりはないのは、幕府を江戸に開いたことからして明らかである。ならば日ノ本の歴史としての中枢はそのまま利用し、政に携わる面だけを構築し直すことは、けっして不可能ではない。
 「……すべて、源次郎が大坂で奮戦した故に見えてきた光というものか」
 「いかにも」
 「そなたの思想にまで源次郎の影響が及ぶとは、まこと妙なるものよ」
 上杉はため息を酒で飲み込んだ。
 「十五年前の儂が願っても出来なかったことをあの幼かった源次郎がやり遂げてくれる様は見ていて喜ばしく、頼もしきものだ」
 「私も同じ心持ちですよ。あのように何者をも怖れず戦えたなら、と何度羨ましく思うたことか……しかし、我々は『失う』ことを許されない」
 「領民、家臣、兵……かけがえのないものを枷と思うのは罪ではあると解っていてもなお、であるな」
 「はい」
 「……承知した」
 上杉は「このこと、今はまだ他の者に打ち明けるべきではないぞ」と釘を差した上で
 「そなたの国力は加賀の前田、薩摩の島津に次いで日ノ本で三番目だ。前田の当主は若く、島津は天下に興味がない。力関係でいえば最も天下人に近いのはそなたであるが、そなたは考え方が突飛なだけに敵も多い。大名達の現状を鑑みれば、合議制に至るまでには各地で大規模な反発が予想されよう。仮にそれらを平定できたとしても、新たな体制下では今とは異なる思惑や立ち回りが生じるゆえ、流れ次第では如何にそなたとて将軍には立てぬやもしれないぞ。そなたはそれで良いのか?」
 「無論、私も将軍という位に憧れた時期がありました。が、どうも私はその器ではないようです。私にとっては天下を獲るという過程そのものが生きる目的であり、獲った天下は上杉どののように謙信公の時代から揺るがない理想を掲げて戦って来られた方が治めるべき。この齢になって、ようやく己の分というものに気づき申した……ただ」
 政宗は声をひそめた。
 「すべて徳川を排除しなければ始まらない話ではありますけどね」
 上杉は軽く笑って酌を受け、この場で聞いた話を酒で流し込むようにして胸にしまった。
 どのように排除するか、までは訊くまでもない。自分に打ち明けた時点で、目の前の仙台藩主には既に目算がついているのだろう。

- 京都 -

 「和睦交渉にあたって、初の身辺を世話させる侍女を大坂から出します」
 淀の一声で、本丸御殿に勤める侍女達の中から選抜された数名が初姫に付き添う事になった。

 「そうですわねえ……まずは皆さんでお茶でもいただきましょうか」
 徳川方の使者に立った阿茶局は、おっとりとした口調で既に用意されていた茶道具を手に取り自ら茶を点てた。茶席でいうなら亭主の役割に立つことで、この場の主導権はこちらにあるとでも訴えたいつもりなのだろう。
 京都、京極忠高の屋敷に設けられた和睦交渉の席。
 忠高は初の亡夫、かつては蛍大名と揶揄された京極高次と側室との間に生まれた子である。高次と初の間に子は授からなかったため京極家の当主に立ったのだが、初は愛する夫の忘れ形見を我が子のように可愛がり、出家した後も親交を深めていたのだ。
 京極家は徳川方であったが、高次と初、そして淀は浅井家における従兄弟同士である。この屋敷は、あくまで公正かつ安全に交渉が行われるための場として両者合意のもとに選定されたのだった。
 もっとも家主の京極は中立を保つため交渉の場への列席を許されていない。国を二分する話し合いの場、蜘蛛の糸の上を渡るような危ういお役目など、蛍の身であればたとえ乞われたとしても御免被るであろう。本人は大坂に参戦した兵を労うという名目でさっさと若狭の領地に向かってしまっている。
 持参した茶葉を、大御所の事実上の正室と呼ばれる立場に恥じない見事な手前で点てた阿茶局は、茶筅を上向きに立てると茶碗を初に勧めた。
 「駿府のお茶ですわ。毒など入っておりませんからご安心なさってくださいな」
 「姫さま、お毒味はこのわたくしが」
 大坂城から、どうしても自分がつき従うと譲らなかった大蔵卿局が茶を一口すする。彼女なりに豊臣の役に立ちたい一心からの行いなのだろうが、余計な事をせずただおとなしくして欲しいと源次郎が願っている者である。
 「宜しいようですわね。どうぞ」
 大蔵卿局は茶碗を懐紙で拭って初に差し出した。初は茶を口に含んだ後、「結構なお点前です」と微笑む。
 「江戸では『とてもお濃い』が流行りなのですか。随分とたっぷりとお抹茶を混ぜていらっしゃいますこと。まるで練り茶のようですわね」
 「駿府はお茶処なのです。所望すればいつでも幾らでも手に入りますから、けちけちする必要などないのです」
 「倹約こそ武士の美徳なりというお触れが出ていたように思いますが?」
 「黄金の茶室で点てている訳でもございませぬし、産地であればこのくらい贅沢には入りませぬわ。そう、たとえば蕎麦茶のような感覚でいただいておりますの」
 「茶が贅沢でないとは、随分と豊かなお暮らしぶりですこと。いっそお茶の葉をそのまま召し上がってはいかがです?」
 「それは考えつきませんでしたわ。今度駿府の料理人に作らせてみましょう。もしも完成したら、どうぞ最初に食べにいらしてくださいな。御台さま(江)とご一緒に歓迎いたしましてよ」
 蕎麦茶のくだりは、初が暮らしている若狭がそばの産地であることに引っかけた皮肉である。真田家が治める信濃国もそうであったが、日ノ本は山だらけである。厳しい自然や複雑な地形ゆえに米が思うように採れない地域では、採れた米もほぼ年貢に回ってしまう。ゆえに開墾に汗を流すのだが、耕した地で米が採れるようになるまでは土地を選ばすよく育つ蕎麦が民の命を繋いでいることが多いのだ。一方、茶は民がそうそう口にできない贅沢品である。
 初姫が徳川の贅沢な暮らしぶりを皮肉れば、阿茶局は初をいまだ開墾中の土地から来た田舎者と揶揄して返す。ついでに、あまり好いとはいえなかった秀吉の趣向にまでちくりと針を刺す。
 女特有の緊張の中、二人は互いに懐紙で口元を隠しながら意味のない高笑いを交わした。
 老いが女に与えるのは心の強さとしたたかさなのだろうか。権力の近くで生きてきた年長者ならではの対応を心得ている分、肚の内の探り合いひとつとっても一筋縄ではいかない。
 茶で和んだように見えて、実際は穏便とはほど遠い始まり方。どちらも緊張で気が立っているのだ。
 「……では、秀頼さまからの条件を提示いたします」
 気を取り直した初は、大坂城の秀頼自らが提案した和睦の条件を記した書簡を開いた途端に絶句した。
 「これは……?」
 「初さま、いかがなさいました?殿からの書状には何と?」
 「……姫さま」
 内容を知らされていない大蔵卿局が文書をひったくる前に、初姫の脇を支えた侍女が小声で初に耳打ちする。
 (姫さま、こちらが殿とお上さまのご意思でございます。どうかそのままお読み上げくださいまし)
 それは侍女に扮した繁…源次郎であった。「私はお上さまのお気持ちを預かってこちらに参りました」と言葉を足して。
 姉の気持ちという言葉に支えられた初は震える声で一文を読み上げる。

 一.豊臣秀頼が母、淀は江戸に住まいを遷す……



 繁が侍女として交渉の席に加わることは、淀たっての願いだった。もっとも、繁…源次郎ならば淀がそう言わずとも自ら志願したであろうが。
 「わたくし、髪を下ろして江戸へ参ろうと思いますの」
 朝方の霜が融けて落ち葉を濡らす庭園を眺めやりながら、淀は繁に初の伴を命じた後でそう打ち明けた。
 「淀さま、それは一体……」
 左衛門佐の姿で御殿の奥に出入りしてはあらぬ誤解を招き、それは牢人衆の士気に関わってくる。淀に呼ばれる時は、国松の養育係を務めるさちを通じて繁の姿で出入りしていた。
 「秀頼は承知してくれました。命がけでこの城を守ってくれたあなた方に報いるため、この身と引き換えに家康から加増を勝ち取ります」
 「それでは、殿は家康に臣従すると仰せなのですか?」
 「臣従はいたしませぬ。このままの力関係を保ちつつ、家康の天命を待つのですよ」
 色あせた襖、袖口や裾がすり切れた打掛。しかしそれらと相応に年老いた筈の淀の眼差しはまだ色を失っていなかった。
 「此度の和睦、けっして長くは続かないと気づいているでしょう?戦は避けて通れないけれど、『その時』を先に送ることは出来る……時を待つのです」
 「しかし、加増とはどういった意味で」
 「幾年かを待つこととなれば、牢人衆の扶持が必要となります。そのための加増ですわ」
 「!」
 「これが、今のわたくしに出来る全てです。どうか秀頼を…大坂を守ってください」
 繁はすぐに気づいた。
 それが淀と秀頼なりの牢人衆に対する礼であり、報いなのだ。
 太閤が遺した財で、いつまでも十万の牢人を食わせていける状態でない。一度の戦で勝敗が決しなかった以上、加増という条件で彼らに応える。それもまた豊臣家を守る手段の一つなのだと。
 「……承知いたしました。ですが、条件をつけて宜しいでしょうか」
 「何かしら?」
 「淀さまが江戸へ発つのは、完全に和睦が成立して徳川から加増を得てからにしてくださいまし。それまで、決して動いてはなりませぬ」
 「それで徳川が納得するでしょうか。秀頼を糾弾する理由にはなりませぬか?」
 「どう動こうと言いがかりをつけるのは徳川の常套手段。しかし此度の戦での事実上の勝者はこちらでございます。あちらが先に約定を守らねば筋が通りませぬ」
 「なるほど……すんなりと応じるか否かで戦の時期を見極めるのですね」
 「残された時が少ないことは、誰よりも大御所自身が分かっている筈。ゆえに焦っております。おそらくは自分の眼が黒いうちに決着をつけたがるでしょう。その時に淀さまが江戸にいらしては殿のご決断も鈍りましょう」
 「……その時になったら自害しますわ。我が母も、そうやってわたくし達を守ってくださったのです。弔い合戦という名目で戦ってくれればいいわ」
 「真の意味での弔い合戦で勝利した軍など、存外少ないものなのですよ……大抵は死んだ主の地盤を狙う従者が誂えた大義であり、聞こえの良い遺領争いなのです」
 父・信玄が築いた武田家を守ろうとした武田勝頼が前者、誰よりも早く明智光秀を討ち取って天下を攫ってしまおうと画策した秀吉が後者。
 天下分け目の関ヶ原とて、突き詰めれば秀吉の威光を守り通そうとした石田三成と、秀吉が築いた体制をまるごと奪おうと目論んだ家康との戦いなのだ。
 どちらも、純然たる気持ちで挑んだ方が敗れている。それら失敗を秀頼に繰り返させる訳にはいかない。
 「間違っても、ご自身のお命で殿を震い立たせようなどと考えないでくださいまし。もとより危うい戦、殿には一片の曇りも欠けもない状態で挑んでいただかなければ勝てる筈がございませぬ」
 それに。繁は淀の凍えた手をとった。かすかな震えを和らげるように温めて。
 「殿と淀さまが我らを思ってくださる限り、我らは命がけで戦います。どうか我らの働きを信じ、見届けてください」


 繁の短い回想は、大蔵卿局の甲高い悲鳴によってかき消された。
 「お上さまが人質などと言語道断。わたくしは聞いておりませぬわ」
 「お局さま、どうか落ち着いてくださいまし」
 書簡をひったくろうと初に詰め寄った大蔵卿局の打掛けを引っ張りながら、繁は初に目くばせをする。
 その意味を理解した聡明な初はすぐに次の文言を読み上げた。

 一.人質を出すことと引き換えに、大坂城の家臣を養うための加増を畿内に認めること

 「はあ?」
 「はい?」
 大蔵卿局と阿茶局が同時に訊き返す。読み上げるうちに落ち着きを取り戻した初は肚を決めて姉の真意を繰り返す。
 「ですから加増でございます。豊臣はそちらにとって得と損の両方を提示いたしましたわ」
 「家臣を養うため……まあ、随分とお困りでしたのね」
 「わたくし達は奉行ではございませぬから、ここで財政を詮索する必要はございませんわ。此度の戦とて、豊臣は降りかかってきた火の粉を振り払っただけ。それでも損害は生じておりますし、我が姉も戦を収めるためならば江戸に入ると申しております。これだけ誠意を見せているのですから、火を熾した側は何かしらの形で応じるのが筋と心得ますが?」
 「あらあら……」
 「では、そちらの条件をどうぞ」
 言葉は強く、しかし物腰は柔らかに。やはり淀の妹だと実感させられる振舞で初は促す。阿茶局は(生意気な)と言わんばかりに眉間に皺を寄せ、徳川の書状を開いた。

 一.大坂城の外堀を埋めること
 一.大坂城に集っている牢人衆を、一人残らず城内および大坂から追放すること

 「これら条件を飲んでくだされば、後はそちらの仰せのままにと上様はお考えですわ。どちらも造作ないではありませんか」
 阿茶局は澄まして続けた。
 「牢人衆などという物騒な集団、排除してしまった方がすっきりいたしましょう。豊臣のお家が狼藉者の寄せ集めなどと口さがない噂が立つこともございますまい」
 「あらあら、江戸ではそのように無礼な噂が立っておりましたのですか。されど、わたくし達はもう二度と彼らが戦うことがないよう、ここで和睦交渉をしているのではございませぬか。それをお忘れになられては困りますわ」
 「まあ、これはご無礼を。わたくし、生まれついて綺麗好きなものですから埃っぽい所に暮らすなど想像しただけで辛抱なりませんの。大蔵卿さまもそう思われません?」
 初と阿茶局のやり取りに置いてけぼりだった大蔵卿局は、突然に話を振られた嬉しさに舞い上がる。
 「ええ、ええ。よく分かりますわ、阿茶局さま。彼らときたら、それはもう汚らしいことで。草履など履いていないも同然の汚れた足で天守の廊下に足跡など残された日にはもう、背筋がざわついてなりませぬ」
 ここに又兵衛達が居たら大立ち回りになりかねない言い草である。しかし戦の顛末を俯瞰する形で聞いていた初はコホンと咳払いひとつで大蔵卿局をたしなめた。
 「牢人衆についての処遇は殿がお決めになること。お堀のことと併せて、いったん大坂に持ち帰りましょう」
 「その必要はないでしょう、初姫さま」
 大蔵卿局であった。
 「殿が出された条件は『城の家臣』を養うための加増。それが保証された和睦が成立すれば戦は終わり、牢人衆も用済み。いつまでも堀の内に住まわせる理由はありますまい。阿茶局さま、わたくし大蔵卿局が殿をご説得いたしますわ」
 「勝手なことを申されないでください、大蔵卿。あなたに何の権限があるといいますの?」
 「初姫さま。お上さまの妹君であらせられるとはいえ、それは失礼なお言葉ではございませんか?わたくしは、お上さまが聚楽第にいらした頃から苦楽をともにして来た身でございます。お市の方さまには適わずとも、少しでも母親に近い存在であろうと身命賭してお上さまをお支えしてきた自負がございます。お上さまが娘であれば殿は孫も同然。それがわたくしの誇りなのです。人生を捧げた月日を頭から否定されては堪忍なりませぬ」
 「私的な感情と政は切り離しなさい。わたくし達は殿の代理人とはいえ、交渉を任された以上は城の武士と同じように振る舞わねばなりませぬ。殿のご意向を確かめるべき物事を勝手に決めてしまう事などもっての外。分をわきまえなさい」
 「まあまあ、内輪もめとは見苦しいこと。大人気ありませんわよ」
 「……」
 鋭く刺さった阿茶局の横槍を受けて初と大蔵卿局は黙る。まだ言い足りない顔をして居住まいを正した二人の様子を交互に見やりながら、阿茶局は続けた。
 「大蔵卿局さまも、秀頼公の代理人としてこの場にいらっしゃるのですよね?」
 「勿論でございます」
 「……武士に二言はないとの名言もございますわ。それぞれ殿の代理人としてこの場に居る者同士、ならば先ほど大蔵卿局さまが仰ったことも武士の発言と受け止めましょう。では牢人衆の追放は認めたということで」
 「!」
 やられた。初は淀によく似た目元にかすかな皺を寄せる。繁も絶句しかない。
 「これはわたくしからの提案ですがお聞きください。わたくしも大御所さまの参勤に付き従って大坂城の二の丸に暮らしていた事がございますが、その時の記憶から察するに十万もの牢人衆を住まわせるのは大坂城の最も外側、三の丸になっておいででしょう。もしそうでしたら、大坂城の外堀を埋めてしまえば三の丸は堀の外、城下同然になります。さすれば牢人衆が三の丸に居座ろうとも『お城から追い出す』という条件は整いましてよ。とても合理的なお話だとは存じますが」
 「お待ちください。それでは三の丸の櫓も破却して、大坂城は二の丸と本丸のみと定義せよと仰るのですか?」
 「それは条文にございませんから、ご判断はご自由に」
 「初姫さま、ここは条件を受け入れてしまってよろしいのではないですか?」
 自分の失言を認めたくない…交渉での決定としてしまいたい大蔵卿局が切り出した。
 「大坂城にはまだ二の丸、本丸と広大な敷地や内堀がございます。それぞれを隔てる石垣は高うございますし、外堀ひとつなくとも頑強なお城に変わりないではありませぬか」
 「そのような事が問題なのではありません。殿下が築かれたお城は、三の丸や外堀まですべてが豊臣の財産なのです。姉…お上さまが十数年にわたり懸命に守ってきたものを、わたくし達の一存で勝手に削るなどなりませぬ」
 ぴしゃりと言い放ち、初は改めて阿茶局と向かい合った。
 「お堀のことは持ち帰り、評定にかけていただきます。その上で和睦の条件を如何にすり合せていくかは、殿のご回答を待って次の機会に。それで宜しいですか?」
 「わたくしは構いません。お堀さえ埋めてくだされば、それがそちらのご回答と解釈いたしましてよ」

 かくして牢人衆の件の分だけ徳川方が主導権を握った状態で第一回の交渉はお開きとなった。初姫は寺へ戻り、徳川が出した条件は木村重成が一足先に大坂城へ持ち帰った上で早速評定にかける手筈となっている。
 「繁さま、お呼びですか」
 帰り支度で慌ただしい中、一人の荷運び役が繁に近づいた。佐助である。
 「先に戻り、ただちに真田丸を取り壊すよう内記に伝えてくれ。跡形もなく、だ。武器の類はとりあえず私と又兵衛どのの屋敷へ運んでおけ」
 市女笠で口許を隠しながら、繁は命じた。
 「よろしいのですか?」
 「この成り行きでは、いずれ徳川によって壊される。そうなる前に自ら壊す」
 「承知しました」
 堀を埋めるか否かは秀頼が決めることだが、堀の外にある真田丸は大坂城の範疇に入らない。堀の件がどのような決着をみようとも関係なく、徳川は何とでも名目をつけて真田丸を徹底的に破壊する様を見せつける事で此度の大敗の意趣返しとするだろう。
 そのような事を昌幸が望む筈もないし、源次郎もそれだけは許し難い。
 ならば先に壊してしまおう。
 いちど手にしたものに執着しすぎると身を滅ぼすことは北条家の一件で学んでいる。昌幸も周囲の状況に合わせて沼田城を明け渡した時期もあったし、古くは祖父・一徳斎も一時的に真田の郷を差し出すことで結果として郷を守ったのだ。
 今もっとも優先して守るべきが何なのかを分かっている真田の兵ならば、真田丸を壊したところで士気に影響はない。
 城は、機が訪れさえすれば再建できるのだ。


 三日後。
 初姫を送り届ける一行から抜け出して一足先に大坂に戻った繁は、左衛門佐として徳川から出された条件をめぐって紛糾している評定の席に居た。
 阿茶局の私案とともに届けられた案件は既に牢人衆にも伝わっている。怒りの矛先を向けられて然るべき大蔵卿局は、交渉の疲れで伏したという理由でその場を息子に投げて屋敷に籠もっていた。
 代わりに白い目で見られているのは大野修理。弟の主馬はそういった空気などまるで意に介さない男なので尚更である。
 そのような状況下での評定の場。先の勝利の喜びは消え失せ、かわりに迂闊な発言があればそのまま牢人衆による暴動へと繋がりかねない緊張が場を支配していた。
 「殿、お堀の埋め立てだけは思いとどまり下さい。お堀ひとつとて太閤殿下が遺された財産にございます」
 有楽斎が進言すれば、牢人衆から「結局は城という入れ物を守りたいだけかよ」「命を賭けて戦った俺達を何だと思っている」といった声が上がる。牢人衆の追放を約束してしまった大蔵卿局がかねてから牢人衆をあからさまに嫌っていた事もあって、「牢人衆を追い出すのなら大蔵卿の婆さんも追い出せ」という声も当然のように起こった。
 「徳川が牢人衆を追放せよと申したのは、此度の戦で牢人衆が徳川を脅かした証拠にございます。ここで我らを追放してしまえば、徳川は今度こそ力攻めで城を落としにかかるでしょう。牢人衆を追放してはなりませぬ」
 分裂は何としてでも避けたい源次郎の意見は牢人衆からの喝采を浴びたが、反対に有楽斎が鬱陶しそうに彼らを睨む。
 「牢人衆の追放を受け入れ、お堀の埋め立ては拒否する。お上さまは江戸へは出さない。これにて双方とも提示した条件のうち一つのみを妥協した形となり『あいこ』となります。いかがでしょう」
 「……」
 「金子があれば、新たに武士を登用することもできます。もとより和睦が成立すれば無用となる者達なのですから、加増分で九州あたりから有能な者を引き抜けば宜しいかと」
 「有楽斎!てめえ!」
 いけしゃあしゃあと語る有楽斎に、何名かの牢人衆が腰を上げた。
 「やめるのだ。殿の御前であるぞ」
 殿様を前に刃状沙汰を起こしては追放の口実を与えるようなもの。止めようとした源次郎にも「おまえは殿とお上さまのお気に入りだから良いよな」「自分だけ家臣に取り立てられる算段でもついているのか」と辛辣な声が浴びせられる。
 一触即発。このままでは大坂城が内部から崩れてしまう。どう収拾するべきか。
 源次郎が迷ったその時。
 「双方とも、そこまでだ」
 秀頼であった。全員が居住まいを正したところで秀頼は続ける。
 「……城の外堀を埋め立てよ」
 「では、牢人衆の追放と併せて徳川が出した条件を全て受け入れるのでございますか?」
 有楽斎が問いただした瞬間、牢人衆側から不安と憤りのどよめきが上がった。それらを押し切るように秀頼が言葉を繋ぐ。
 「ここには、もはや牢人など居らぬ」
 「?」
 「今現在城に居る牢人衆全員をたった今から豊臣家家臣として取り立て、それぞれが率いる者達を藩士の身分とする。ゆえに牢人など一兵たりともこの大坂には居らぬ」
 「殿!」
 「居ない者を追放せよと言うのだから、条件を受け入れても構わぬであろう。これでこちらは徳川の条件をすべて呑んだことになる。母上の件は、徳川がこちらの加増を実行するか否かによって判断する」
 きっぱりと言い切り、そして大野修理に役職の再編成を命じる。
 「先の戦においての皆の働き、豊臣の武士として登用するに充分値するものであった。堀を埋め立てることで徳川から加増を勝ち取り、その働きに応えてやれるのであれば何の不都合があろうか」
 徳川が納得するかどうかなど関係ない。
 秀頼は、きっぱりと言い切った。
 「それでは徳川が納得しますまい。牢人衆とともに心中なさるおつもりか」
 「この城の人事を決めるのは私であり徳川ではない。もしも徳川が不服を示そうとも一枚の岩となっていくのが評定の場だ。これからは同じ家臣として皆で意見を出し合い、この先訪れるやもしれぬ局面を乗り切ってほしい」
 一人一人の眼を見ながらそう訴えた秀頼に、まず源次郎が大きな声で「ははーっ」とひれ伏した。つられるように他の牢人衆もひれ伏す。これをもって承服の意を示したという事だ。
 その様を苦々しく見やりながら、有楽斎も小さく頭を垂れたのだった。

 秀頼の英断により、翌日から牢人衆達の手によって三の丸の埋め立て作業が始まった。
 しかし。
 「おう、持ち場の作業が終わったから手を貸すぞ」
 「そうか。助かる」
 「何言ってんだ。困った時はお互い様だろ、同胞よ」
 一見すれば頼もしい光景、当事者にとっても美談にしか見えない出来事の中に、実は罠があった。
 「こっちが終わったら、あちらの堀がまだ手つかずのようだから俺達で埋めておいてやろうや」
 「そうだな」
 城が遠くに霞む広大な三の丸を囲む、広すぎる堀。城の地理に詳しくない牢人たちは、同胞に言われるがままに堀を埋め立てていく。

 その『名も知らぬ同胞』が徳川の手の者であった事など知る由もなく。

【慶長二十年・大坂】

 正月を目出度いと喜ぶ余裕もなかったが、それでもまさか呆気にとられるような事態を誰が想像しただろう。
 「何ということを」
 年明け早々、秀頼は唖然となっていた。
 「埋めるべきは外堀だけという約定であったろう」
 秀頼と左衛門佐が居るのは大坂城の天守。巡縁から見下ろしているのは、三の丸どころか二の丸、本丸の堀まですべて埋め立てられた景色。
 天下人の住まいと市井との境界を水によって美しく段階付けしつつ線引きしていた堀は、ことごとく埃立つ無粋な盛土の線と化していた。土で遊ぶ子供が造る山の方がまだ整って見えるくらいだ。
 「作業に当たった牢人衆…いちいち『元』をつけるのも面倒なので敢えてそう呼ばせていただきますが…彼らは広大な城の全貌など存じませぬゆえ目の前に堀があれば埋めてしまい、作業に没頭するうちに方向を見失ってしまったとしか考えられませぬ。そこへ」
 源次郎は声を落とした。
 「わずか十四日で……徳川の者が紛れ込んで手引きしたのは間違いありませぬ」
 抜け目のないことを。秀頼だけでなく源次郎も忸怩たる思いに唇を噛んでいた。
 みすみす城の堀が埋められてしまったことにも、誰が手引きしたかもほぼ見えているのに、あまりに迅速すぎる動きを止めることが出来なかった。
 「水攻めを得意とされた殿下が建造なされた堀は、見た目の豪壮さだけでなく防御の上でも完璧でありました。しかし徳川にとって水は障害でしかない」
 「そうしてまで大坂城を裸城にする理由など一つしかない。……そうであるな、左衛門佐」
 「仰せのとおりでございます」
 「どうするのが最善と思うか?約定にないとして本丸と二の丸だけでも堀り直させるべきか?」
 「それは、こちらが武装を進めていることを戦の理由としたがっている徳川に大義を与えてしまうだけにございます。ですが時間はまだあります。徳川が頼みとしている各国の大名も、冬の間は雪に阻まれて思うように兵を動かせまい。その間に我々は次なる戦に向けての策を練るのです」
 源次郎の進言に、秀頼は「今年こそ決着の年となるのだな」と頷いた。
 「……わかった。此度の和睦も形だけのものとするつもりであったのならば遠慮は必要あるまい。こちらも覚悟を決めよう」

 「殿は困惑し、落胆しておられた」
 夜。いつものように真田屋敷に集まった五人衆は源次郎の報告に「そうだよな」と頷く。
 「こういった駆け引きは、どうしても年かさの徳川の方が有利でしょう。もはや学問所で習う武士道など有名無実となった時代、お若い殿であれば落胆は大きいものとお察し申す」
 「しかしやり方が姑息すぎる。戦の世での『比興』は褒め言葉だが、『卑怯』は『外道』と同義にござる」
 明石は自分が信じる神の教えにもとる出来事だと静かに憤慨し、穏健派の長曾我部も憤りを隠せない。勝永も酒を一気に流し込んでいた。
 「……が、もう次の策は考えたんだろ?源次郎さんよ」
 又兵衛が勝永の考えを代弁するように源次郎に訊ねる。
 「なぜそのように思われるのです?」
 「裸城となった大坂城を見て城の連中……殿も俺達も怒り心頭だったというのに、あんたの顔は諦めてなかった。ならば打開策の見当もついているんだろうさ」
 「又兵衛どのには叶いませんなあ……その通り」
 ははは、と頭をかいて、源次郎は自らの腹案を打ち明けた。
 「今回登用された元牢人衆達、その家来衆の住まいを三の丸の外に構えさせるのです」
 「外?追い出すのか」
 「いえ。堀を埋めたとはいえ、大坂城の敷地内だけでは牢人衆だった者全員の住居をまかないきれない。いつまでも窮屈な場に大勢が居れば、いずれ内輪もめが起こるでしょう。ゆえに家来衆達の住居は城下、民が暮らす城下町の外に長屋という形で構えさせたいのです」
 「出来るのか、そんな事」
 「本来の意味は異なりますが、私は信玄公より『人は石垣』と教えられました。築くのは住居という名の廓ですよ。茶臼山から東へ続く高台一帯をそういった住居で埋め尽くし、大坂城の包囲網を少しでも遠ざける。これで評定衆も少しは安心できましょう。不満が出ないよう私が率先して茶臼山に住まいを移します」
 「成程。先の戦で家康が本陣を構えた地と熊野街道を押さえれば大坂城との連絡も取りやすくなるし、徳川からすれば不利な地形を強行突破か高台を大回りするかの選択を迫られる。その間に我らも策を立てやすいな」
 「いかにも。その上で徳川の動きを読み、打って出る時間も稼げましょう」
 「……次は野戦になるな」
 又兵衛の言葉に、全員が顔を見合わせて頷く。それしかないと分かっているのだ。
 「面白い。じゃあ、おいらは郎党全員で岡山一帯に移るかな」
 「ならば俺は茶臼山と岡山の間だ。最前線に居ればこそ一番駆けも一番槍も狙いやすくなるからな」
 又兵衛と勝永が源次郎の話に乗り、明石と長曾我部は城周辺の動きを監視するため三の丸と博労淵に留まることになった。
 「先の戦、和睦とはいえ事実上は我らが勝っていた。此度はその経験を活かして攻めに転ずる意見も少なくなかろう。実際、その方が牢人衆の士気も上がる」
 「もとより血の気の多い奴らだからな。だが外での戦となれば消耗は免れない。兵の士気を上げるのならば殿の出陣が必須になるだろう。お上さまは殿のご判断に委ねるだろうが、大蔵卿のばあさんや有楽斎がそう簡単に諾とするかねえ」
 「しないでしょうね。むしろ阻止する方向で動くのでは」
 有楽斎の反対を踏んだ上での攻勢案。又兵衛達はすぐに源次郎の意図に気づいた。
 「……やるのか?」
 「はい」
 「また、あっさりと認めたもんだな」
 「命までは取りませんよ。時期をみて追い出すのです」
 「時期?」
 「これまで引っかき回してくれた報いと言えば物騒ですが、我らの士気を高め結束を強めるための役割を、有楽斎どのに担っていただきましょう」


- 江戸 -

 「豊臣右大臣の英断ときたら、なかなかどうして」
 江戸の伊達屋敷で年を越した政宗は、夕餉の相伴をしていた片倉小十郎重綱に酌をされながら思い出し笑いを堪えきれずにいた。
 「大御所の策に嵌められて堀を全部埋め立てたと聞いた時には愚の骨頂よと思うたが、牢人の追放については『大坂城に居るのはみな家臣であり、牢人はどこにも居ない』と突っぱねるとは……大御所が顔を真っ赤にして怒る様が目に浮かぶようだ」
 「ですがまだ分は徳川にあります。いかな大坂城といえども、裸城であれば力攻めで容易く落とせましょう。大御所さまはあの城で暮らした事もおありですから、内部までまるごと暴かれているようなものです」
 「そうと分かっていてまだ籠城を選ぶようなら大坂は終わりだ。おそらく次は野戦になる」
 「成程。野戦となれば先はまったく読めませんな」
 「豊臣の当主は取り巻き連中の意のままに動く坊々かと思っていたら、父親に似て随分としたたかな人たらしのようだ。『あいつ』も父から色々教わっているだろうからやり易かろうて」
 真田安房守といえば籠城戦を得意とするのが年若い者の常識であるが、武田信玄の家臣時代には三方ヶ原や川中島、長篠といった激戦を経験しているのだ。子である左衛門佐がそれらの経験を聞いていない筈がない。
 「徳川と豊臣。一年後に新年の杯を呷っているのは果たしてどちらになるのやら……『お隣さん』も大坂の槍と三途の川からの迎え舟、どちらが先かという話が洒落にならなくなってきたしな」
 屋敷とは堀を挟んだ隣…江戸城の方をちらりと見やりながら杯を呷る政宗を、小十郎がぼそりと諫めた。
 「殿、それは同義でありますぞ」
 「ははは、ばれたか」
 「『隣』に聞こえたら切腹ものでございます。……ときに殿、国元から品が届いてございます」
 話を逸らすように、小十郎は小姓に包みを持って来させた。
 金箔を混ぜた漆で塗られた細長い桐の箱。留める紐は、あらぬ誤解を生まぬように流行りの真田紐ではなく従来の組紐を用いる周到さ。
 封を解かずに、政宗はその品を受け取った。
 「おう、待っておったぞ。よし、『お隣さん』に新年の機嫌伺いに行ってくる」
 近所に出かけるような気軽さで、政宗は揚々と屋敷を出て江戸城に向かった。

 「伊達の親父どの、会いたかったぞ!」
 江戸城の本丸御殿。
 廊下にて政宗の顔を見るなり、竹千代が飛びついてきた。
 「お久しゅうございます、竹千代さま。しばらくお目通りせぬ間に、また大きゅうなられましたな」
 「おう、衣も袴もすべて造り直したのだぞ」
 「お健やかにお育ちのご様子、まこと重畳にございます。本日は、先の戦にて大坂、京都と大御所さまにご同行している際に竹千代さまの元服の儀が来年執り行われることになられたと聞き及びまして、とり急ぎの祝いを献上に参りました」
 謁見の間に場を移し、改めて政宗は手にしていた包みをうやうやしく差し出した。控えていた家老がそれを竹千代の前に運ぶ。
 包みを解いた竹千代は、それを見た瞬間歓声を上げた。
 「おお!」
 「奥州で採れた鉄を名工に幾度も鍛えさせた刀にございます。拵(こしらえ)はかねてよりご所望のとおり、大御所さまが好まれる白地に金糸を編み込んだ紐にて。鞘の漆にも金粉を混ぜ、内側から輝く仕上げになっております。元服の日には、もうひと振りの刀を揃いの脇差しとともに誂えさせますゆえ」
 「素晴らしい刀じゃ。早く振ってみたいぞ。次の戦には余も参る」
 今にも刀を抜きそうな竹千代を政宗が制した。
 「お戯れを申されますな、竹千代さま」
 「なぜじゃ。良い武器があれば試してみたくなるのが当然であろう」
 「竹千代さまの体躯ではまだこの刀を自在に操ることは無理にございます。それまでは鍛錬を欠かさず、ご成長あそばされた後に万が一にもご自身の手で身を守らねばならぬ時が訪れた場合にのみ抜くものでございます」
 「それでは実践する機会など訪れぬやもしれぬぞ。武士なのに刀の切れ味も分からぬとは恥ずかしいではないか」
 「刀で人を斬らずに済む生き様であれば、それはそれで希有かつ見事な生き方にございます。刀は人を斬る道具だけにありませぬぞ。名刀を帯びることは持ち主の品格を上げる、まさしく武士の魂なのでございます。ですが古くから『妖刀』の言い伝えがありますように、人の血を吸いすぎた刀は怨念により穢れてまいります。今現在、大御所さまや上様が戦っておられるのは、竹千代さまがお手に取る刀が怨念など帯びることのなきよう……平和な世を願っての事であることをお忘れになりませぬように」
 「しかし、せっかくの刀が飾りで終わってしまうのは勿体ない」
 「実はそれこそが肝要なのでございます。未来の将軍たる竹千代さまがこの刀に血を吸わせることのないまま御代を遂げられれば、それは竹千代さまが世を見事に導いた証。民は竹千代さまを尊敬し、竹千代さまは後世にわたって名君と呼ばれる事でしょう」
 「武士の名声はいかに大きな、そして多くの首級を挙げてこそではないのか?」
 「それは各国の武士が天下を争っていた時代の話にございます。ですが今はもうそれら戦の世からの転換期、大名たちの価値観も、百年にわたる戦で疲弊しきった民に安息をもたらす事こそが名君の証であるという方向へ変わりつつございます。大御所さまが幕府を開いてから十五年、いまだ抵抗する者はそれら時代の移り変わりに気づかない、あるいは認めたくない者達なのです。お若い竹千代さまには、どうか新しきお考えのもとに治世を行っていただきたく存じます。刀は武士の魂として竹千代さまの御姿に品格を添えるためだけに存在すればそれに越したことはございませぬ」
 「……わかった、ような気がする」
 竹千代は武器と玩具を混同し、蝿を殺すかのように人を斬りかねない物騒な思考を心の隅に抱いている。生まれつき他人を慮る思考がやや欠けている者の心から時折ひょいと飛び出す目釘は、我慢強く打ち直していくしかない。織田信長のような暴君に育てて自滅へ導く道もあるが、それで再び戦乱の世に向かってしまっては政宗が抱きつつある『民にも治世に参加させる世』から遠ざかってしまうのだ。
 (もっとも、徳川に三代将軍があればの話だけれどな)
 もとより本心が竹千代に格を与える方には向いていない政宗は、心の中で呟く。
 自分の建前と本音の乖離ぶりときたら、表裏比興などという生やさしいものではない。ただの悪党である。
 次期将軍だの何だのと教えを説いておきながら、その将軍位を廃する…竹千代の祖父や父を倒す機を虎視眈々と狙っているのだから。

 「しらじらしい」
 竹千代の姿が手習い処へと消えたのを見計らって、春日局がちくりと呟いた。
 「元服のお式を来年になさることを上様に進言したのは、陸奥守どのご自身だと伺いましたが?」
 「今は戦の直後、しかも和睦交渉中とあらばまだ予断は許しませぬ。せっかくの目出度い席なれば、戦が終わり泰平の世が訪れた暁に日ノ本じゅうの耳目を集めながら盛大に行われるべきでございましょう。さすれば日ノ本すべてが幕府の安泰を信じて疑わなくなるというもの」
 「戦場でのお守りは越前高田の松平さまだけで充分とでもお考えなのかしら?」
 春日局の厭味の意味は、政宗にもよく解っていた。
 力で圧倒する筈であった大坂での戦が和睦という名の戦力立て直しとなった今、春日局は竹千代の元服を急いで次なる戦に間に合わせ、初陣に立たせることで天下に次期将軍の座は竹千代であると見せつけたかったのだ。
 徳川に最後まで刃向かった豊臣を…秀頼を討つ功績を竹千代が残せば、その地位は揺るがないものとなる。脚色など戦の後にいくらでも出来るのだから、この場合は事実などどうでも良い。最奥であろうと幾重もの人垣に囲まれていようと、竹千代が戦場に居さえすれば『初陣で天下を平らげた将軍』などと天下に吹聴して後の世に語り継ぐこともできよう。
 竹千代の名声は、すなわち彼をそう育て上げた者…母の江は勿論、春日局の名をも上げることになる。
 ゆえに、それら思惑をあっさり打ち砕いた政宗の進言は、春日局にとってはもとより疎ましく思っている陸奥守への嫌悪を上塗りしたようなものである。
 しかし政宗はそれら思惑も折り込み済みである事などおくびにも出さずに涼しい顔であった。
 「春日局どのともあろう御方が、聞き捨てならない事を申されますな。わが婿、忠輝どのは次なる戦こそ戦線に立って武功を挙げようと今も越前高田にて励んでおられますぞ……それに」
 「?」
 「既に大御所さまは竹千代さまを次なる将軍と定めておいでではありませぬか。我ら大名一同、誰も大御所さまのご決定に異を唱える者などおりませぬ。とうに流れが定まっている中でかような幼子を戦場に出すのは却って危険にございます。陣幕の中に居ても、急襲や流れ弾で呆気なく落命するのが戦場でございますゆえ」
 「ですから、そなたが守れば宜しいでしょう」
 「そうしたいのはやまやまなのですが、大坂方は思った以上に手強い相手でありますからな。和睦交渉の場では、大坂暮らしのご経験がある阿茶局さまをもってしても使者を言いくるめられなかったとのこと。数で勝る徳川方を和睦に持ち込ませたのは勢いだけでなく知略もあっての事と私は察しております。そのような伏魔殿を次期将軍の初陣となさるのは如何なものかと。どうしてもと押し切るのであれば、城の留守を預かる御台所(江)さまに従軍していただく訳には参りませぬゆえ、かわりに竹千代さまの養育係であられる春日のお局さまが陣まで同行せざるを得ませんでしょうし」
 「……わ、分かっておりますわ、そのくらい」
 大坂の本陣から逗留先の京都にまで行動をともにしているだけでなく和睦交渉の使者まで命じられた阿茶局に対して、遠く離れた江戸から噂でしか戦況を伝え聞くしか出来ない春日局。彼女は竹千代の養育係という大役で納得する謙虚さを持ち合わせていなかった。
 そのような、現実を知らないくせに情報だけは自分が一番に知っていないと気が済まない女を御するのは、政宗にとってそう難しい事ではない。使命感と劣等感の両方を適度に刺激して、最後には適度な恐怖を…この場合は竹千代に万が一もあり得る可能性を提示しておけば良いのだ。いまだ最上領に居る実母に接するのと同じである。
 「もう結構です。戦が終われば竹千代さまはご元服、その姿をあなたも拝めるとよろしいですわね」
 「勿論でございます。お約束した刀をお贈りするその日まで長生きいたしますよ」

 後の話になるが。
 竹千代の元服式は、このとき決められていたとおりに行われることはなかった。家康が死んだためである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み