第40話 道明寺・赤い鳥と黒い鳥

文字数 12,425文字

 道明寺へと、源次郎は駆ける。

 出陣して間もなくから豊臣方の敗走兵と数多くすれ違っていたが、藤井寺に近づくにつれてそれらの兵を見かけなくなった。
 戦場近くに居たのは、すでに事切れた兵ばかりである。
 「向かい風だ……」
 真田隊の者は絶句していた。これが現在の豊臣と徳川の差なのだと思い知らされている。
 「左衛門佐どの!」
 明石掃部だった。汗と埃、そして返り血にまみれている。
 慈愛を旨とする切支丹が人を殺める。その矛盾を悔いる時間すら与えられない程の激戦であった事を物語っていた。
 「先程伝令が参った。薄田どのが討死されたそうだ」
 「薄田どのまで……」
 「後藤どのに隊を任された期待に応えるべく奮戦しておられたのだが、やはり伊達は強い。一時はこちらが攻勢であったのだが、後藤どのが討死した後から猛攻に転じてきた。鉄砲隊もそうだが、歩兵の数も粒も揃っている。残念だが……」
 又兵衛の死が布石とならず心苦しいが、全滅を避けるためにも道明寺は放棄しなければならぬ。明石はそう進言したが、源次郎が馬首を返すことはなかった。
 「けれど今は鉄砲の音も止んでいる。弾薬の補給が終わる前に、少しでも数を減らしておかなければ」
 「参られるのですか」
 「ええ。明石どのは今のうちに岸和田の首尾を頼みます」
 「……承知した」
 秀頼と淀を落ち延びさせる手筈。万に一つの可能性が、今は八割方にまで膨らんでいる。そう思わざるを得ない状況なのは明らかだった。
 「真田隊、一気に参るぞ」
 源次郎自ら先頭に立って馬を駆る。ほどなくして、戦場で冷え首を狩っている集団に遭遇した。だが、聞いている通りの人物ならば問題ない。
 「松平忠輝の隊です。いかがいたしますか?」
 「どうもしない。このまま推し通る」
 源次郎は馬にひと鞭打ち、松平隊に迫った。案の定、彼らは猩々緋の旗印を見ただけで散り散りになっていく。
 「葵紋を掲げる者がこの有様とは」
 大谷吉治が呆れる。自分の父親は、かように脆弱な一族に敗れたというのか。いや、脆弱だからこそ生き延びられたと言うべきなのだろうか。
 「強かさもまた生きる術よ。しかし、我々の世代は愚直に生きてこその武士であったと思いたいものだ」
 源次郎は彼らに一瞥もくれず道明寺へと駆けた。
 そうして駆けていれば、必ず戦うべき相手は現れるだろうから。

 数に任せただけの冷え首を後生大事に持ち帰った忠輝は、真田左衛門佐襲来に怯えきって陣幕の中をうろうろと歩き回っている。
 「舅どの。余に何かあればそなたの責任でもあるぞ。どうにかせよ」
 この戦況を作り出した張本人が、どの口で言うか。苛ついた政宗の左眼が忠輝を睨んだが、追い詰められた鼠ほどの矜持も持ち合わせていない忠輝にはまるで響いていない。
 「もう宜しゅうございます。松平家の方々は、どうぞ伊達隊の背後にお下がりくだされ」
 政宗は軍師に命じて忠輝をはじめとした松平家門衆を後方に追いやると、改めて兜の緒を結び直した。
 「殿、弾薬の補給までまだ時がかかります。ここは私の隊が時間稼ぎを」
 「要らぬ」
 むしろ補給を遅らせろ、と政宗は小声で重綱に指示する。
 「あいつと刃を交えるのは俺の役目だ。横槍を入れさせるな」
 「……ご武運を」
 調略や交渉で迎える戦の幕引きが主流となっている今、敢えて大将が先陣を切る草創期の戦に回帰する。
 時代というものは、どのように複雑に絡まろうとも結局は一つの円を描くように始点と終点が結びついて終わるのか。
 いつもと変わらない姿で出陣していく政宗の内にある悲壮な決意に思いを馳せながら、小十郎重綱は伊達隊に指示を飛ばして回った。


 そのときの道明寺を俯瞰できたのなら、きっと赤い鳥と黒い鳥が互いに翼を拡げて向かい合っている様が見られたであろう。
 それぞれの鳥の嘴の先には、ぽつんと佇む総大将。

 「最悪の再会だな」
 黒の鎧に身を固めた伊達の総大将が、自嘲気味に呟く。
 「申し訳ないが、ここでそなた達の相手をしている時間はない。早々に決着をつけさせてもらう」
 馬上で槍を構える赤鎧の真田総大将は、敢えて挑発でそれに応えた。
 「……成程、それがおまえの出した答えか」
 「意に添えず申し訳ございませぬ」
 「互いに軍を背負っている状況で謝られても、止める訳にはいかないだろ?」
 「いかにも」
 政宗は、肩ごしに源次郎を守る大助にも聞こえるように続けた。
 「俺もおまえも、どこまでも侍なんだよな……生涯、戦から離れることができない」
 「死に際の父が、同じことを申していた。戦国の世に生まれた者は、みな後の世の礎になる定めであると」
 「礎……そうだな、俺の父親もそうだった」
 そして政宗は緊張に顔をこわばらせる大助を眺めた。精強を誇る大軍相手に一歩も退かず目も背けない大助に、かつての自分の面影を見た政宗の左目がふと緩む。
 「真田大助、いや今は幸昌と申したか。立派になったなあ……親父に似て肝が据わっている」
 「戦の世に生まれた定めなれば、私は真田大助幸昌という一人の武士として、立ちはだかる者を押しのける覚悟。わが父上がそうやって自らの道を切り開きながら今ここに立っておられるように、私はなりとうございます」
 互いを意識しての会話である。二人が口にする『父親』とは、言うまでもなく政宗自身の事だった。
 「ふむ。母親の教えが立派であったのだろう、よき若武者に育った。……少々考えが固いのは、母親に似たか」
 政宗がふと笑ったところで、源次郎が馬を一歩前へ進ませた。政宗もその動きに応えるように抜刀し、大助に向かって声を張り上げる。
 「ここは総大将同士の一騎打ちの場だ。三下は退がっておれ」
 「え?」
 「真田左衛門佐。それで良いな?」
 源次郎は小さく頷く。
 「望むところ。……大助、手出しは無用だ」
 「しかし」
 「これから起こることを、よく見ておけ」
 父親と母親。示し合わさずとも、心から繋がっている二人の考えは同調し合うものなのだと大助に伝わっただろうか。

 「刮目せよ。これが将たる者の戦だ!」

 互いの隊から法螺の音が響き、鬨が上がる。地響きのような声を上げて足軽隊が駆ける。
 後の世にまで語り継がれる六文銭と竹雀の戦の始まりであった。
 対峙していた緋と黒の翼がゆらめき、互いを飲み込んでいく。
 源次郎も、政宗も。そして大助や小十郎も。あとは戦の波に呑まれまいと得物を振るうのみ。

 「たあっ!!」
 がむしゃらに槍を振って敵を退けながら、大助は可能なかぎり両親の側に近づこうとしていた。しかし野戦は初めてである大助の技量で戦場をそう簡単に移動できるものではない。
 「大助さま、一人で出すぎますな」
 鐙から足が滑って落馬したところを伊達の大柄な足軽に馬乗りされ、脇差しを突きつけられた窮地を背後から槍で救った作兵衛は大助の体勢を立て直させる。
 「すまない」
 落馬の際に肩を強打したらしい。顔をゆがめた大助の異変に、作兵衛はすぐさま退却を提案した。
 「このあたりの兵は粗方退いています。さあ、馬に。陣にて手当させましょう」
 「退いている?」
 「どうやら兵力を温存しておきたいのはあちらも同じようですね。深追いをして来ない」
 これが最後の戦いではないという事だ。
 混戦の中で時折見える重綱の隊はといえば、向かって来る敵を追い払ってはいるものの討ち取ることもせず、積極的には参戦していない様子だった。武功を逸る味方の兵が政宗と源次郎の勝負に割って入ろうとすると、巧みに割って入り進路を妨害する。
 作兵衛の分析にも一理ある。が、それ以上に。
 成り行き上の衝突ではあったが、始まってしまった以上はあの二人の戦を邪魔してはいけないのだと大助は気づいた。
 (父上、母上……)
 両親が自分に見せたいものは、この上なく醜いものだった。
 情を通わせた…家族ですら敵味方となり戦うほどの残酷さが戦の本質なのだと。
 そして気づいた。
 自分の役目は、親の志を継いで戦うことではない。
 両親が戦を終わらせた後、世がふたたび戦に乱れぬよう心を砕くことなのだ。
 かように醜い戦を、両親の代で終わりにするために。
 「陣へ退がる。父上の戦を見届けたい」
 「はっ」

 衝突した両軍の中、源次郎と政宗は一騎打ちを繰り広げていた。
 「随分と『戻して』来たな。流石だ」
 「覚悟に伴う力がなくば、将として示しがつきませぬゆえ」
 「ははは。愚直なまでに完璧を目指すところは昔のままだ」
 軽口を言い合いながら政宗が刀を振るう。源次郎は左手の村正でそれを弾き、右手の槍を政宗に突きつけた。政宗の脇差しがそれを弾こうとするが、槍の勢いを止めきれずに馬上でふらつく。
 槍と刀が交わった勢いを利用して馬を跳躍させた源次郎は、腰の村正を抜くと政宗の頭上から斬りかかった。
 「何と!」
 政宗の刀が間に合わず、三日月の前立てが源次郎の村正を受け止める。村正特有の黒い刃分が三日月の弧に沿って鋭い音を立て、黒い兜ごしに脳天が真っ二つに割られるかと思ったほどの衝撃をもたらす。
 しかし政宗も刀の切っ先を咄嗟に翻し、がら空きになった源次郎の胴を払った。
 「くっ!!」
 源次郎は体勢を崩しかけたが、馬の首にしがみつきながら村正の柄で政宗の手首を打つ。
 今度は政宗が体勢を崩した。その隙を逃さずに源次郎の槍が政宗を襲う。政宗は咄嗟に籠手で弾いたが、勢いで弧を描いた源次郎の槍の穂先が政宗の太股、草摺と脛当ての間に食い込んだ。
 「……やられた」
 戦袴が、そして馬の腹を覆う障泥(あおり)が赤黒く染まっていく。
 源次郎は政宗の鼻先に村正を突きつけたところで「勝負あり」と宣言した。
 辺りの兵が水を打ったように静まりかえる中、源次郎は政宗だけに判るよう「ありがとう」と唇を動かした。
 「ははは……俺の敗けだ」
 「殿!」
 重綱の隊がすぐさま駆けつける。その間に源次郎は退がり、仲間にも後退を指示した。
 「殿、すぐに止血いたします。お気をたしかに」
 馬から降りた重綱が手早く布を政宗の脚に巻いていく。
 「大事ない」
 政宗は、額の三日月に入った罅を指でなぞった。
 「……村正を受けて死ななかった俺は、大御所より強運の持ち主なのだろうな」
 家臣達の手前、薄く笑って見せたが、それはどう見ても遣りきれなさを湛えたものでしかなかった。
 見える傷より見えない傷の方が大きい。ただ一人、主の真意をくみ取った重綱は全員に聞こえるように話の…戦の矛先を変える。
 「殿、北の奈良街道を行く本隊が苦戦との伝令が」
 「苦戦?あちらは精鋭だぞ」
 「先陣の藤堂・井伊の両隊が退却に追い込まれたと。後続の隊も茶臼山から岡山にかけての高地より鉄砲や矢の襲撃を受け、近寄れないとの事にございます。さらに、大野主馬率いる援軍がこちらに向かっているとの由」
 「……よい潮だ」
 政宗が左眼を向けると、重綱はすぐさま声を張り上げる。
 「戦は引き分けじゃ。揚げ法螺を」

 「舅どのが負傷だと?」
 竹に雀の幟が後退してくる様と伝令からの報告に、後方の松平忠輝は顔色を変えた。
 「真田め、調略だけの者と侮っていたわ」
 地団駄を踏んで悔しがっても、陣から飛び出して真田左衛門佐に挑むだけの勇気はない。
 そんな忠輝の様が見えていたかのように、去り際の真田左衛門佐はふと振り返ると槍を構え、高らかに叫んだ。

 「これで終いか。徳川に漢は一人も居らぬのか!!」

 「何だと?」
 松平家門衆、特に忠輝は色めき立つ。政宗は声を張り上げてそれを宥めた。
 「深追いはならぬ。武器弾薬の補給と兵の治療を最優先させろ。戦はまだ終わらぬ」
 (やはり行くのか、左衛門佐……)
 高々と構えた朱槍は東を…この後源次郎が向かう先を政宗に暗示しているように見えた。読み取った意図は、きっと外れてはいないだろう。
 治療のため本陣にて横たわりながら、政宗は脱いだ兜を見やった。
 三日月をまっ二つに分断する一本の太刀筋。
 迷いのないその痕を政宗は何度も指でなぞり、この先自分がどう動くべきかを考えるのだった。


 同じ頃。
 岸和田城に入った明石の許へ思いがけない来訪者があった。
 「お久しゅうございます、ジョアン(明石の洗礼名)殿。秀頼公にお目通り願いたいのですが」
 使者は、そう言って久留子を掲げた。


 道明寺の長い一日が終わった。
 「今宵のうちに城を出て『梵天』の許へ落ち延びてもらう」
 木村重成、そして後藤又兵衛の討死という重い空気を引きずりながら城に戻った源次郎は、軍議の後で二の丸の真田屋敷に戻ると一族郎党全員を呼んでそう宣言した。
 梵天の名を聞いた子供達は、神妙な中でどこか安堵の表情をたたえながら頷く。
 そんな中、既に秀頼の馬廻衆の役目を命じられている大助の他に、さちは淀の、桐は千姫の支えになりたいとして大坂に留まると主張した。
 「お上さまも気丈に振る舞ってはおられますが、本当は心弱くなっていらっしゃいます。ここまで一緒に居たのに、娘時分からの友を放ってなどおけませぬ」
 「千姫さまも同じです。桐は千姫さまに可愛がっていただきましたから、少しでもお側で恩返しをしたいのです」
 予断を許さぬ戦況で家臣達の眉間の皺が深く刻まれていくのと同調するかのように、城の侍女たちの数が日に日に…もっとあからさまに、時間を追うごとに減っている。淀や千の身辺に居た者も然りであったので、今では人質達まで炊事に駆り出され、端下仕事を嫌う大蔵卿局も自ら淀や千姫の膳の上げ下げを行っている有様だった。
 内側からも綻び始めた城の最奥に座す貴人二人の心中を知る源次郎は、いざとなったら主を連れて落ち延びるよう言い含めた上でさちと桐の申し出を認める。むしろ二人が居た方が淀達を落ち延びさせ易くなるかもしれない。
 「内記たち、それに和久どのはどうする。この先、老体での戦は厳しくなるが」
 「我々は残りますぞ。老兵には老兵なりの戦い方がありますゆえ」
 「いかにも。城に徳川兵が迫った時のために、源次郎さまがあっと驚くような策も用意しておるのです」
 「大殿が亡くなられた時に追い腹を切れなかった我々ですが、この時のために生き永らえて来たのだと思えば腕も鳴りますぞ」
 口々に意気込む彼らも止めることはできなかった。
 「では内記達はそのまま城内の警護を。忍衆には引き続き戦況の把握と徳川の動向、そして城内の『掃除』を頼みたい。子供達と、茶臼山の屋敷に居る長曾我部どののご息女は……朝どの、頼まれてくれぬか?」
 「戦はいいのかい?」
 「梵天に書状も届けてもらいたいゆえ、顔が利く者に頼みたい」
 その一言で源次郎の意を汲んだ朝は、快く受け入れた。
 「お安い御用だ。昌幸さんが大切にしていた孫君たちの身は俺が責任持って送り届けてやる」

 その夜の月は、真田の赤備えのような緋色であった。
 「父上さま、母上さま……」
 支度が済んだ阿梅達が源次郎とさちの許へ挨拶に来た。
 源次郎は、一足先に支度を済ませていた末子、大八を抱き上げて縁側から月を眺めている。
 「しばしの辛抱だ。そなた達の無事な姿が、先方にとって何よりの土産となろう。よろしく伝えておいてくれ」
 年少の子供達は「はい」と素直な返事で源次郎の顔を綻ばせる。源次郎は子供たちの頭を一人ずつ撫で、強く抱きしめて息災を願った。
 最後に
 「阿梅」
 源次郎は阿梅に大八を託すと、阿梅の手をとった。
 「そなたが皆を守るのだ。大きな責任を負わせてしまうが、どうか」
 「いえ。この阿梅にお任せください」
 大坂に来てから習い始めた薙刀では甲斐さまからお墨付きを頂いたのですよ、と微笑みながらも瞳の奥に不安の影がちらつく阿梅を、源次郎は母の顔で抱きしめた。そして囁く。
 「彼の者は、きっとそなたを待っている。素直に、心のあるままに生きて……幸せになりまさい」
 「……ははうえ……」
 阿梅の顔が、その名のとおり紅梅色に染まる。
 「気づいていらしたのですか?」
 「これでも『親』だから」
 「……」
 自らの心の内を見透かされていた阿梅は少し返答に困った後、若い頃の源次郎…繁に似てきた顔立ちを複雑に歪めた。
 「心のままに生きてしまったら、それは我儘とならないか心配です」
 「大丈夫。思うよう振る舞っても我儘にならぬ節度をおまえはもう持っている。だから自信を持って……」
 まっすぐに自分を見つめる源次郎の瞳に背中を押され、阿梅は小さく頷いた。
 「ありがとうございます、母上さま。わたし、母上さまと父上さまのようになりとうございます」
 目を丸くする源次郎に向かい、阿梅は一礼して去っていく。残された源次郎はぽかんとなり、さちは黙って微笑んだ。
 「素直な子だと思っていたが……妙なところで捻くれるのは両親に似たか」
 「捻くれてなどおりませぬ。年頃の娘が自分の思慕の情を親に知られるのは、存外恥ずかしいものなのですよ」
 「そうなのか?」
 「ええ」
 「その時々によって母にも父にもなる私は、子の育て方の正解がついぞ分からずじまいだった。いきなり母親らしい事を言って驚かせてしまったかな」
 「あら」
 何だか恥ずかしいと頭をかく源次郎に、さちはクスクスと笑った。
 「ただ可愛い可愛いと頭を撫でるだけが親の愛ではありませぬ。時には叱り、男として、おなごとして、人としてどう生きるかを示して見せるのもまた親の愛だとわたくしは思います。子は親の姿を見て生き方を学ぶもの。子供達を大切に思っていらした繁さまの愛情は、言葉や態度にせずとも充分に伝わっておりますよ」
 「生き方を示す、か。……私のようになりたいとは、まさか阿梅は私のように波乱の人生を送りたいのだろうか」
 「そうではございませぬ」
 「?」
 「九度山の暮らしは厳しいものでしたが、そんな中でも源次郎さまがお幸せであったからこそ…どのような暮らしの中でも幸せを見いだし、村の人々に慕われるようになった姿を子供達もしかと見ていたのですよ。親の幸せにあやかりたいだなんて、最高の褒め言葉ではありませぬか」
 「私の幸せ……だが、それは私一人では為し得なかったものだ。さち、父上、子供達、九度山の皆、それに梵天……皆に支えられてこそのものだった」
 「愚直の計」
 さちは懐かしい言葉を口にした。
 「それら支えを引き寄せたのは、間違いなく源次郎さまのお力ですよ。愚直であったからこそ、源次郎さまの周りには自然と人が集ったのです。子の褒め言葉は有り難くいただいておきましょう。それにしても……」
 さちはもう一度軽く笑う。
 「先ほどの源次郎さまったら、まるで阿梅が明日にでも嫁いでいく親のようでありました」
 わたくしの両親を思い出しました、とさちは昔を懐かしんだ。
 「源次郎さま。一緒に阿梅の花嫁姿を見とうございますね。他の子らの花嫁姿も、大助の祝言も、大八の元服も。それから先は孫たちの顔も」
 決戦を前にしてもなお武運をと言わないところがさちであった。
 さちは、本当はもう近しい者が戦へ赴く様を見たくないのだ。けれども自分の意を通すことが出来ないと解っているから、ただ無事を願うのみ。
 希望を手放すな、何があってもとにかく生き延びろ。
 遠くは武田信玄に、そして政宗にも同じ意味の言葉を言われた。
 彼岸から伸びる無数の手が自分の手を、裾を、足を引こうとしていると感じられてならない今。
 父から受け継いだ村正で最初に断ち切るべきは、それらの手…己の心持ちなのかもしれない。
 気持ちひとつで彼岸の誘いを断ち切れるのならば、父も武田勝頼も、石田三成も大谷吉継もみな死んでなどいないと解っていても。


 朝に連れられた阿梅、かね、菖蒲、あぐり、大八の五名に長曾我部の妻子を加えた一行がこっそりと城を抜け出したのは、それから二刻後の事であった。
 一行は大和路を進み、片倉小十郎重綱の陣を目指した。戦を前に、陣には煌々と松明が焚かれている。
 「私が参ります」
 まずは阿梅が一人で陣へ進み出た。
 「お侍さま。どうかお助けくださいまし」
 夜分に突如として現れた乙女に警護の兵がざわついたが、まったく怯まない。
 「何者!」
 「大坂から逃れてまいりました。お助けくださいまし!」
 「我らもこれから戦に臨むのだ。他をあたれ」
 「お願いいたします!城下は夜盗が跋扈しておりますゆえ、どうか、どうかお慈悲を!!」
 阿梅は大声を張り上げる。狙いどおりその声は陣幕の奥に届いたらしく、「何事か」という聞き慣れた声の後すぐに重綱が顔を出す。
 案の定、重綱は阿梅の顔を見て眼を見開いた。
 (阿梅?)
 (重長さま!)
 二人が眼と眼で会話を通わせた頃合いで、朝が一行を連れて進み出る。朝の顔を見た瞬間、重綱はおよその事情を察した。
 「おらは山で猪を追っていたのでございますが、この女子供たちが道に迷っていたところに出くわしまして……放っておく訳にもいかず困っておりました」
 「そうか、それは難儀であるな」
 朝と重綱の、茶番でしかないやり取り。重綱は周囲の兵に見せつけるよう腕組みをしてみせた後、心を決めたように頷く。
 「猟師よ。我々も先を急ぐ身ゆえ、出来ることといったら粥と寝場所を供するくらいだ。とはいえ、武士としてか弱き女性と幼子らをこのまま捨て置く訳にも参らぬ。京都にある我が家ゆかりの寺に紹介状をしたためるゆえ、女子供たちはそれを持って京都へ参れ。必ずや良きに計らってもらえるであろう。駕籠と護衛はこちらで手配する」
 「おお、そうしていただけますと助かります」
 「恩義に感じてもらえるのなら、そなたは我が陣にてこの先の道中事情を聞かせてもらえぬか。大和の行軍は初めてゆえ、進軍の難所や豊臣方が陣を構えている土地の情報が欲しい」
 「そのような事でよろしければ」
 聞くまでもない理由をつけ、重綱は子供達を自らの陣屋で休ませた。面識のある小十郎の許という安心感も手伝って、子供達の顔に不安は薄い。そして阿梅は久方ぶりの再会となった重綱と小声で語り合いながら心を温めた。

 翌未明。阿梅一行を見送った重綱は、その足で朝を伴って政宗の陣屋に参上した。
 「そなたの名をまだ訊いておらなんだな」
 小姓に甲冑を着付けてもらっていた政宗が、庭先に膝をつく朝に声をかける。
 「はっ。紀州の鈴木重朝と申しまする」
 「紀州の鈴木……関ヶ原の直後、同じ名を持つ者が大御所のご子息に召し抱えられたと記憶しているが?たしか駿府に居ったと」
 「さすがに伊達さまはご存じでしたか。紀州の鈴木という名はそれだけで一つの国を示すようなものでありまする。同郷に暮らし心得ある者であれば、その名を使いどこかの国に仕官する事そのものには聊かの問題もございませぬ。その名に見合うだけの働きをせねば、偽物として淘汰されていくのみでございますゆえ」
 「同じ名で凌ぎを削り、力でのし上がるという訳か……さて、おまえも鈴木の名という箔を利用しているのか否か」
 「鈴木の名跡『孫一』を名乗ることを許されている、と申し上げましょう」
 「ほう」
 政宗が、幸村とは異なる意味で朝に抱いていた不審はたちまちのうちに解けた。流石は真田昌幸の眼に適っただけの男だ。
 鈴木家もまた平然と徳川家を虚仮にしている。徳川に『紀州の鈴木』の名のみ…鈴木家の事情は明らかにせぬまま法外な金子で鈴木の名を持っている『だけ』の者を抱え込ませて満足させるあたり、実に愉快な話である。
 「気に入った。近う」
 小姓達の手前、平静を装いながら扇で招き入れると、朝は「ご無礼つかまつります」と縁側に上がった。重綱が人払いを命じる。
 「実は……『繁』さまより書状を預かっております」
 「繁から、か」
 重綱を介して渡された文の封を解いた政宗の左眼が短い文面をなぞった瞬間明らかに震えた。

 「何と……」

 政宗の手から力が抜けそうになる。重綱がすぐ傍に駆け寄って政宗を支えた。
 「殿?」
 「……いや」
 しばし言葉を失っていた政宗は、気をとり直した後で朝に顔を向けた。
 「返書をしたためるゆえ、持って行ってくれるか」
 「心得ました」
 外が白み始める中、政宗は出立の刻限ぎりぎりまで机に向かい文をしたためた。



 源次郎が子らを落ち延びさせていた頃。
 いよいよ目前に迫った決戦を前に心を鎮めていた秀頼の許へ、明石掃部が大野修理を通じて目通りを願い出て来た。
 「加藤肥後守清正さまがご嫡男、忠広さまからの使者にございます」
 明石が紹介すると、裃姿の男は深々と一礼した。
 「権中将(秀頼)さまには初めてお目にかかります。肥前日野江藩・前藩主の有馬晴信が嫡男、直純にございます。加藤肥後守忠広さまからの密命により参上つかまつりました」
 大野兄弟がすぐさま触れ回ったため、淀や大蔵卿局もその場に集まっている。
 「肥後の虎之助どのでしたら、ようく憶えておりますわ。何においても強いものが大好きで…勝ってこその戦と考えていた無骨者でしたから」
 気が立っている大蔵卿局の厭味に恐縮した有馬に対し、秀頼が助け船を出す。
 「して、肥後守どのの子息は私に何と?」
 「こちらを」
 有馬は大野修理を介して肥後守からの書状を秀頼に渡した。目を通した秀頼は眼を見開く。
 「私に城を捨てて落ち延びよと申すか」
 「えっ?」
 「殿、それは……」
 皆が絶句する。しかし有馬は冷静に「肥後守さまの思し召しにございます」と続けた。
 「そのような必要がどこにあるのです?ほら、今だってこのように静かな夜ではありませぬか」
 耳をつんざく高い声でわめくのは大蔵卿局である。
 「それは……」
 有馬を城に案内した明石は黙ってしまう。その表情で秀頼は大方を察したが、大蔵卿局は得心どころか自分で自分の感情に油を注いでいる。
 「虎之助どのが豊臣家にした仕打ち、忘れたとは言わせませぬ。甘い言葉で城から出したところで、殿を徳川に売るつもりなのでしょう?ええ、そうですとも。そうに違いありませぬ。殿、どうか甘言に乗りませぬように」
 「お黙りなさい、大蔵卿」
 珍しくぴしゃりと遮ったのは淀だった。
 「大蔵卿、秀頼に考える暇を与えておあげなさい。すべてを決めるのは当主、秀頼なのです」
 有馬はさらに深くひれ伏す。
 「たしかに先代の肥後守清正公は徳川方に与しました。ですがそれは石田治部少補個人に対する感情ゆえのこと。肥後守さまの豊臣家に対するご忠義は、亡くなるまで変わることなどございませんでした」
 家康が敷いた禁教令の下、有馬の子である自分が肥後に匿われて生きて来たことが証拠だ。有馬はそう訴えた。秀頼も四年前を思い出して頷く。
 「私が初めて徳川家康と面会した際も、肥後守は私をしかと守ってくれた。その礼を言えぬまま死んでしまった事は残念であった」
 「恐れ入ります。実は、清正公は熊本の城を普請する際、極秘裏のうちに殿をお迎えするための館を建造しておりました。徳川が増長し殿の御身に危険が迫った際には江戸の手が届きにくい九州へ殿を匿い、西国の大名をまとめて力を盛り返す機を覗えるようにと……現藩主の忠広さまは、大坂が窮地である今こそ清正公の遺志を遂げたいとお考えになり、私が遣わされた次第」
 それら館の工事に有馬領の武士や農民も駆り出されたのだが、与えられた禄によって凶作の年でも飢饉を免れた恩義があるのだと有馬は打ち明けた。いかにも清正らしい…袂を別ったとはいえやはり石田治部少補の盟友であった男がやりそうな事だと感じたのは秀頼と大野修理である。
 「掃部よ。この話は左衛門佐も知っておるのか」
 「……はい。加藤どののお申し出は想定外でありましたが、それよりも先に左衛門佐どのに頼まれ、私も岸和田から外海へ逃れられる道筋を独自に手配しておりました」
 明石はうなだれるように顔を伏せる。
 「そうか……」
 つまりは。
 「この戦、始まる前から勝敗はほぼ決しておったという事で相違ないな」
 うすうす感じていたものが形となって迫ってくるような恐怖。秀頼は敢えてそれを引き寄せるように明石に訊ねた。
 「これらが杞憂となりますよう、左衛門佐どのも毛利どのも知恵を絞っております。ですが戦はどう転ぶかまったく読めませぬ。万全を期しておくためにも、せめて殿には今宵のうちに岸和田城へお移りいただく事が肝要かと存じます」
 左衛門佐が気を回しているという事は、懸念は事実なのだろう。秀頼は深く長いため息をついた後、扇を何度か手のひらで打ち鳴らして決意を固めていった。
 そして
 「母上、そして大蔵卿。お二人は落ち延びられよ」
 「秀頼?」
 「私はこの城の主であり、此度の戦における総大将だ。いざ決戦という時に総大将が逃れてしまっては、今日まで戦ってくれた者たちの忠義に合わせる顔がない」
 「しかし豊臣家が残ってこそ徳川に抗し得るのです。冬の戦で徳川がそうしたように、いったん退いた後での仕切り直しもまた戦略と左衛門佐どのは申しておりました」
 「それでは徳川と…それに、認めたくはないが父上とも同じになってしまう。旧来のやり方を踏襲していては、たとえ徳川を倒せたとしても豊臣に恨みを持つ者が現れるであろう。そのような有様では、いつまで経っても戦の世は終わらぬ。ならば…私は最期まで兵や民とともにありたい。たとえ敗れたとしても、ともに浪速の夢をみてくれた者達に誇れる主でありたいのだ」
 「殿……」
 大野兄弟は感服に頭を下げ、大蔵卿局は口をつぐんだ。
 そんな中、淀は秀頼の成長を心から喜ぶように微笑む。
 「あなたの覚悟、殿下がお聞きになれば天晴見事なりと申されるでしょう。あなたの大伯父・織田信長も、そして祖父・浅井長政も……ですが千はどうするのです?」
 「かねてよりこの城に残ると申しております。千が居る限り、徳川は大坂城の天守に手出しが出来ませぬゆえ」
 姻戚関係の本分は人質である。非道な、とは誰も言えなかった。淀はさらに頷く。
 「わかりました。では大蔵卿、わたくし達はおいとましましょう」
 「お上さま?」
 「ここに居ても足手まといになるだけです。わたくし達が居ては、残ってくれている侍女達も逃げられませぬ。早いうちに姿を隠す方がよろしいでしょう」
 「はあ……」
 「ですが女の支度は何かと時間がかかります。侍女達全員に暇を出し、支度金も渡さなければなりませぬゆえ、明日まで待ってもらえますか?」
 「承知いたしました。すぐに手配を」
 「大蔵卿。連日の緊張続きで侍女達には無理をさせていますゆえ急がせないように……有馬どのは岸和田でお待ちください。掃部は有馬どのの護衛を。わたくし達は、明日、修理に送ってもらいます」
 「はっ」
 それでは、と淀は退出していく。
 その真意に秀頼が気づいたのは、翌日になってからの事である。
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