第31話 仏の眼

文字数 25,396文字

慶長十九年・大坂
 
 「京の方広寺で大仏開眼供養か」
 年が明け、雪融けを待つ九度山。真田紐の売り上げとともに才三が京都と大坂から持ち帰った情報に、源次郎はふむ、と思いを馳せた。
 「私が近習していた頃から、太閤の悲願は石田治部殿や義父上に聞かされていたものだ……天災に妨害された長い事業であったが、これで秀頼さまも淀さまも肩の荷がひとつ下りたというもの」
 あの頃から何年経ったのだろう。淀は今でも寿芳院の名義で食糧や反物を差しいれてくれるが、その頻度は以前ほどではなくなっている。前将軍という肩書をもとに京や大坂を我が物顔で行き来しながら各所にちょっかいを出している徳川家康に、政務も疎かに公家との遊びや趣味に現を抜かしているという噂ばかりが聞こえてくる秀頼。割ける時間が少なくなっているであろう淀の心労はいかばかりのものだろうか。
 「これにて豊臣家の威信が回復し、徳川との関係も安泰となればよろしいのですが」
 「……ならぬだろうな」
 さちの願望を源次郎は断ち切った。 
 「徳川は『きっかけ』を待っている。淀さまもそれはご承知の筈ゆえおとなしくしていらっしゃるが……『きっかけ』がなければ作ってしまうのが徳川なのだ」
 関ヶ原の戦い、そのきっかけとなった会津征伐もそうであった。
 不如帰が啼くまで待てる時間は、家康にはもうない。とはいえあからさまに啼かせては太閤のやり方を踏襲するだけである。それでは太閤の治世に不満を抱いていた民から不満の声が上がるというもの。まず間違いなく、遠くから手を回して啼くよう仕向けるだろう。あるいは相手のわずかな息遣いですら『啼いた』事にしてしまうか。
 大仏再建の事業はあくまで秀頼の名で行われたが、音頭を取ったのは家康であるという。残された時間は長くないであろう面従腹背の者が、仕込みの一つもせず豊臣の名声を高めるような真似をするとは考えづらい。
 「才三。戻ったばかりで済まぬが、紀見峠と風吹峠の『人通り』がどのくらいあるか調べてくれ」
 「承知しました」
 命じた後、源次郎は大助を伴って蓮乗寺へ行くとさちに伝えた。
 「子供達に藁を打っておくよう伝えてくれ。草履と蓑を作る。梅と阿久理は大きな機を覚えた筈だから、真田紐ではなく布を織ってほしい」
 「承知しました。ではわたくしはその布で袴を仕立ててよろしいのですか?」
 「頼む」
 皆まで言わずとも源次郎の考えを理解し、何も言わずに動いてくれる。さちに感謝の眼差しを向けると、源次郎は大助に支度を命じた。
 「そろそろ鍛錬も終いのようだ。これまでの成果を発揮する時は遠からず訪れよう。だが蓮乗寺の者たちには悟られぬようにな」
 「承知いたしました、父上」
 有事の構えに周到すぎる事はない。九度山の時間の流れが急に速まったように思え、大坂がこれまでになく近くに感じられるようであった。


 その方広寺。
 戦国の三代梟雄の一人に名を連ねる松永弾正久秀によって焼き討ちにあった東大寺のそれよりも大きく建立された大仏は、まさに豊臣の威信をかけて建造されたものに相応しかった。
 金箔を施した大仏、そして十六尺の梵鐘。すべて太閤の好みを踏襲し生前の意向を最優先して造られたものである。
 「相変わらず、豊臣は見た目を重視いたしますなあ」
 崇伝と並んで鐘楼前に立っていた本多佐渡守正信は、曲りかけた腰に手をやって大仏殿と、吉日を選んで鐘が取り付けられる予定の鐘楼を交互に眺めた。
 唐渡りの朱をふんだんに用いた大仏殿も完成し、盆が明けたら開眼供養が行われる予定となっていた。聖武天皇が東大寺に毘盧舎那仏を建立されて以来の大掛かりな開眼供養という事で、豊臣家の武士たちが一点の手抜かりもないよう慌ただしく走り回っては作業にあたる者たちに指示を飛ばしている。
 大仏殿の軒の一部は観音開きとなっていて、開けば大仏の顔が現れる仕様であった。仏の顔が京全体を見守るという趣向らしいが、つまりは民たちが大仏を拝む時には必然的に秀吉の墓所に向かって手を合わせることになる。必死さが垣間見える技巧に本多は苦笑いを禁じ得なかった。
 「太閤殿下がご存命なら、これらすべてを黄金で設えよと仰ったやもしれませぬが……白と朱で統一し、金は破風の装飾だけにとどめて金色の大仏を引き立てたあたりは淀君さまのご趣味の良さの現れでしょう」
 「本多殿、検分ですかな」
 きらびやかな大仏殿を引き立てるため敢えて従来の寺社と同じ木造と漆喰で設えた鐘楼のたもとを、紫の法衣をまとった老僧が音もなく通りがかる。
 「おお、南光坊どの」
 「崇伝どの、お役目ご苦労さまでした」
 齢八十、あるいは九十を超えているのではと噂される南光坊天海は、崇伝と同じく家康の参謀である。崇伝にとっては先輩であり同僚という関係だったが、その素性についてはよく知らされていない。ただ大陸伝来の風水術や陰陽術を用いて江戸に寺をいくつも建立し、鬼門や裏鬼門を封じることに重きを置いている南光坊は崇伝の眼にはいささか胡散臭く見えていた。
 所詮、世の中は政における交渉術や立ち回り、利害関係と根回しによって成り立っているのだ。でなければ、完璧な陰陽術を用いて築いたといわれる太古の都が滅んだ理由の説明がつかない。よすがを得た安心感にて治世が安定するだけだ、少なくとも崇伝はそう考えていた。ゆえに、何らかの利害関係がなければ古来の陰陽を重んじる天海が要領の良い立ち回りを得意とする家康と相容れる訳がない。南光坊は信心という言葉に全てを覆い隠しているのだと崇伝は睨んでいた。
 が、それは崇伝とて同じ。此度の梵鐘とて、信心という名の戦なのだから。崇伝はそういった思考を心の奥にしまい込んだ曖昧な顔で合掌した。
 「いやはや、此度の開眼供養は亡き太閤殿下と大御所さまが共に描いた悲願。天下人の信心が御仏に届くのであれば、老体に鞭打って京や大坂と江戸を行き来した甲斐があるというもの」
 「民の心にも、でございますな」
 「そうなると良いのですが」
 崇伝は無難な受け答えでやり過ごす。
 「して、鐘銘は如何に?」
 南光坊の口許と眼がまったく異なる表情を醸し出した。意を汲んだ崇伝は、顔に自然を装う。
 「清韓どのは実に見事な文言を撰してくださいましたよ。一字一句に徳川家による天下泰平の政が永久に続き、戦で疲弊しきったこの国が豊かになる願いが感じられます。『ご利益』が現れるのも、そう遠くはないでしょう」
 「それは重畳」
 崇伝と南光坊、そして会話の意図を察した本多がそれぞれの思うところを含んだ笑いをかわす。
 「徳川家が何も煩うことなく国を導いていくための鐘銘ですか……崇伝どのも励まれましたな」
 「いえ、私は何もしておりませぬぞ?」
 「これはご謙遜を」
 とぼけてみせる崇伝に、南光坊は意味ありげな笑みを向けた。
 「ともあれ、目出度き開眼供養が滞りなく行われることこそ日ノ本の安寧に繋がる道でございます。……拙僧は江戸の街づくりについて大御所さまとの打ち合わせがございますゆえ、これにて。開眼供養の日を楽しみにしておりますぞ」
 南光坊は合掌して玉砂利を踏みしだいた。
 「古来より、権力をめぐるあれこれと仏の道は比翼のように進展して参ったと聞きまするが……崇伝禅師はよくご存じで」
 日頃は崇伝と南光坊の関係があまり良好ではないと知っている…知らぬ筈などない本多がにやりと笑った。
 「信仰も布教も、時の権力者の庇護なくしては行えぬものと先達は見抜いておられたのでございます。拙僧は、何の不自由もなく仏の道を究めたいだけですよ」
 「自らを痛めつけてこそ悟りを開くと言われた修行とは相反しますなあ」
 「求道の手法など、時代とともに移りゆくもの。ですが、いかなる理想も志も『環境』が与えられなければ成し遂げられませぬ。違いますかな」
 「ほほほ、確かに」
 有力な大名家が代々存続していけるのも、子息に国主としての教育を施せるだけの充分すぎる環境があるからこそである。物心つく前から浴びるように教育を受けさせていれば、凡庸な子どもであっても学ぶ習慣がつき地力は底上げされる。大大名家では学問も武芸も、日ノ本において最高級の師が何年もつきっきりで指南するのだ。底力の差に環境が備わって、文武両道の国主が誕生していく。
 僧侶とてそれは同じ。権力と庇護を盾にして決定権を持つ立場に成り上がらなければ、自分が思うままの活動すらできないのだ。
 日ノ本における僧侶の世界は武士以上に階級社会である。ただし力関係は『徳』によって定まるのだ。長年修行を積んだ僧侶の数が増えて徳の概念があやふやになっていくと、徳は目に見えて分かりやすい大きな寺や数多くの門徒を擁していることに換算され……より多くの弟子や寄進を集める事こそが自らの徳だとする風潮が広まったため、本来の功徳よりも自らの権勢を誇る事に執心する者も増えた。
 それを僧侶の欲だと決めつけるのは気の毒な話でもある。人々が粗末な寺や古い本尊よりも唐風の塔や金色の堂を持つ寺の方に魅かれるようになった時代、世捨て人としてひっそりと修験に生きるのならばともかく、世俗に身を置いて己の法話に耳を傾けてもらいたいのならば、まず見た目で人々を惹きつけ門をくぐらせなければならない。
 しかし寺の建立ひとつにも金がかかる。そのためにはまず地位と金のある大名の庇護下に入り、彼らの信心を得ることで寺の建立資金を出してもらった上で大名の名と自分の名を一緒くたにして世に知らしめるのが最も早い。立派な寺の存在がひとたび世に名が知れ渡れば、後は濡れ手で粟を探るように次々と信者が集まり名誉も金も手に入る。そうして得た金で高価な経典を購入すれば自らの徳も智慧も高まり、また信仰を集める。
 崇伝も南光坊も、徳川の信心を得ることで現在の地位を手に入れたのだ。結果として仏の教えを世に広め、信仰のもとに民が一つにまとまるのだから、一概に何が悪いとは言い切れない。
 功名と功徳、武功と殺生、相反するが積み重ねなければ望むものが得らない。理想だけがすべての行動基準とできた時代は、日ノ本はおろか遠い異国のどこにも、もはや存在しなかった。


- 方広寺 -

 「おお、見事な鐘でございますなあ」
 慶長十六年、卯月。
 大仏の開眼供養を前に、寺の落成を祝う読経会が行われる方広寺にて、本多正信と片桐且元はそれぞれの主の名代として参列していた。
 本堂にて安泰を願う読経が行われた後、鐘楼にて豊臣家肝いりの鐘が披露される。
 「亡き太閤殿下も、御霊のお隣に大仏をお迎えできてさぞお喜びのことでしょう」
 本多は満面の笑みで本堂の威容を眺めやったが目が笑っていない。
 徳川が豊臣に良い感情を持っていない事など、お互いとっくに判っている。
 底が見え過ぎて気味の悪い会話であったが、ここで下手な対応をして言いがかりをつけられてもつまらないと片桐はぐっと堪えて本多の顔真似をしてみせた。
 「十五年の歳月をかけて殿下の悲願が叶うのも、内府さまのお力添えあっての事と感謝いたしております。大仏さまが開眼なされば、きっと地揺れや飢饉も絶えましょう」
 「して、本日、秀頼さまはお見えになるのですかな?」
 お見えになるでしたらご挨拶を、と切り出した本多佐渡守に片桐且元は顔を曇らせる。
 「いえ。近頃は大坂から出るのにも身体がつらいと仰って、本日はお屋敷にて大仏の胎内に収めるための写経をなさると仰せでございます」
 「かようにお悪いのですか」
 「お身体はご健勝であらせられますが、こちらの方が」
 片桐は胴回りのあたりで手を広げてみせた。
 「天守の階を上るだけで息を切らし、心の臓が止まりそうだと仰るのです。廊下を歩いて移動なさるのもやっとのご様子。開眼供養には牛車を仕立ててお出ましになるとの事でございますが」
 「ほう、それはご心配でしょう」
 家康の策が功を奏している。本多は内心ほくそ笑んだ。

 実際のところ、その頃秀頼は大坂城の居館にて綿で重たい衣を部屋の隅に追いやった上で刀の鍛錬に汗を流していたのだが、それは片桐どころか淀も千も知らぬ姿である。


 鐘が披露されてから十日ほど後。
 「まこと、見事な鐘でございますな」
 大仏開眼供養の支度のために日々方広寺に通っている本多正信は、暇さえあれば鐘に刻まれた鐘銘の周りを巡って文言を眺めている崇伝を呼び止めた。
 「これだけの文言を撰した清韓どのも、すべてを出し切ったと自信たっぷりのご様子。まことに重畳なり」
 目を細める佐渡守に向かい、崇伝はふと顔を曇らせて隣に居た林羅山と目配せした。
 「どうかいたしましたか?」
 「たしかに鐘銘は見事な文言ではございますが、こちらの道春(羅山)と拙僧どちらの眼から見ても、どうも気になる文言がありまして」
 ほれ、と崇伝が指し示した先にある文字を、本多が目を細めて眺めやる。

 国家安康
 君臣豊楽

 「ほう、あれら二つの語が気になると」
 いかにも、と崇伝は説いた。
 「漢文では語句の読み順が日ノ本と異なる場合が多々ありますが、その方式で読んでいった場合、畏れ多くも『国家安康』とは内府さまの諱を二つに別つこととも読み取れます……つまり」
 崇伝は自らの手刀を首のあたりにあてがう。
 「大御所さまはご健勝であらせられるのに、まこと不届き千万」
 道春も同調する。
 諱は、その持ち主が故人となってから称されるのが常である。存命中は『徳川内府』『真田安房守』のように官位、家臣の場合は相手によって『源次郎』あるいは『左衛門佐』のように使い分けて呼ばれるのだ。
 秀頼の事情は少し特殊で、本来は彼も『右大臣』と呼ばれるべきなのだが、いまだ父と同じ関白位が手中に戻っていないため淀が敢えて周囲に諱で呼ばせているだけなのだ。官位どころか諱すら無かった身から這い上がった父の苦労を忘れぬようにと。
 ともあれ、戒名と同じような意味を持つ諱を家康の存命中に用いてしまったのだとすれば大問題である。
 「そして『君臣豊楽』。こちらは豊臣の姓を逆さにしたのみ。さらに『君』を加えることで天下に君臨するは豊臣と暗に訴えているようにも見えます。これら二つの語を併せますと、徳川家を追い落として豊臣が天下を握るという陰の題が込められた呪詛との疑いも……いや、拙僧の考えすぎであればよろしいのですが」
 「なるほど」
 本多は抑揚のない返事で文言を見やった。視線を流す時ちらりと崇伝を見た眼は、かすかにではあるが崇伝に目配せしているようにも見える。
 「熱心に祈れば祈るほど、御仏の意思は豊臣にとって有利な方へと流れてしまうと。崇伝どのは、なかなか慧眼でございますなあ。よく見破れたもので」
 「いやはや。他者が起こした文言を吟味し学ぶのは僧の修行でございますゆえ……しかし、これは大事でございますぞ」
 「それはすぐにも詮議せねばなりませぬな。早速、大御所さまに奏上いたしましょう」

- 大坂城 -

 崇伝と本多の思惑どおり、幕府と大坂の緊張が高まるまでに時間はかからなかった。
 大坂城では幕府から届いた書状を巡って大騒ぎである。
 「鐘銘の文言に不穏な点がある故、開眼供養は延期せよ、いや既に寺の僧侶たちには延期を申し渡したと……あまりにも一方的すぎではないか。どういう事だ、片桐」
 書状を読んだ大野治長の問い糾しに、片桐且元もただ首をひねるばかりであった。
 「某にもまったく分かりませぬ。内府さまは、先日までは見事な鐘をご覧になってお喜びであると聞き及んでいたのですが」
 片桐は急ぎ二条城に入り、本多正信から事情を聞いた上で大坂城へとって返した。
 が、その説明とて大坂城の者を納得させるものではない。
 「鐘に刻まれた二つの文言が徳川への呪詛ではないのかと?まったくの言いがかりではありませぬか」
 淀の後ろに控えていた大蔵卿局は激怒した。打掛の裾を蹴飛ばして地団駄を踏む彼女を息子の治長がなだめる。
 「徳ある僧が自信を持って撰した文言にけちをつけるとは狭量にも程がありますね……どうします、秀頼」
 誰よりも落ち着き払った秀頼は書状を終わりまできちんと目を通し、その上でまず感想を述べた。
 「私に二条城へと赴いて申し開きせよと……かつての意趣返しのつもりか」
 「何と大人気ない。秀頼、応じる必要はありませんよ」
 淀はすぐさま反対した。言われるままに秀頼が出向けば、それだけで豊臣が徳川に従属したと捉えられかねない。かつて再三の招聘を拒んでまで大坂城での会談へ持ち込んだ意味がなくなってしまう。
 「京へは参らぬ。豊臣の事業に異を唱えるのであれば、内府の方から直訴に参れと伝えよ。清韓にも文言の真意を確かめて参れ」
 そう言えば引き下がる。本当に大坂城まで来たら真意を伝え、場合によっては清韓に謝罪させて誤解を解こう。位の高い僧を処断するなど、さしもの家康でも行うまい。
 秀頼はそう決断したのだが、家康も引き下がらなかった。いや、引き下がるつもりなど毛頭ないのだ。
 使者として二条城に入った片桐が豊臣家の意向を伝えたところ、家康は「では公儀にて詮議いたす」と告げてそのまま江戸へ発ってしまった。
 江戸の…徳川についている数多の大名たちの前で鐘銘の文言を晒し、豊臣がした事と吹聴するのは目に見えている。そして、一度大御所が「そうに違いない」と決めてしまえば、それが彼らにとっての『正』となってしまうのだ。
 (このままでは戦になる)
 困り果てた片桐は、せめて城代として京に残っている本多佐渡守に取りなしを願うべく清韓を訪ねて鐘銘の文言について豊臣と徳川との間で問題が起こっている旨を伝えて真意を問いただした。
 しかし、清韓は清韓で文言にそのような意図はないと言い張るばかりだった。
 「『国家安康』も『君臣豊楽』も国の弥栄を祈願するための文言であります。文字ひとつひとつの意味を鑑みればお解りになりましょうて。此度みなさまがご懸念されておられるような意味で受け取られるとは、撰者として甚だ遺憾」
 清韓はそう言い張って片桐を突っぱねたが、震えを隠すので精一杯であった。
 実のところ、問題となっている文言こそ、文言を撰していた清韓に崇伝が「この文言を入れるように」と指図してきたものであったのだ。
今になって思えば、崇伝は最初から鐘銘に言いがかりをつけるつもりであの文言を仕込ませたのは間違いない。
 しかし清韓が真実を口にする事は出来なかった。
 (崇伝の入れ知恵などと申しても、崇伝はしらを切るであろう。幕府にて公儀にかけるとなった以上、拙僧の証言とて偽証と糾弾されかねない。それに、国の威信がかかる事業に他者からの知恵を採り入れたとなれば拙僧の徳にもかかわる。崇伝の策に乗った愚か者とも誹られる。そうなったら弟子達はどうなる……穏便に済ませるには、真実は涅槃まで持って行くべきなのだ)
 清韓が口を割れない事も折り込み済みで文言を入れさせた崇伝にしてやられた。清韓は怒りと憤り、後悔と恐怖に苛まれながら書棚を漁り、鐘銘を撰じた際に生じた大量の下書きの中から崇伝の書いた書をようやく見つけ出した。そしてそれを火鉢の中へと葬り去ったのだった。

 「本多佐渡守どのを通して江戸に申し開きの書を送りましたが、あまりにも見苦しき言い訳に過ぎぬとの返答が参りました」
 大坂城の公儀の場。秀頼を最上段に、淀、織田有楽斎に信雄といった織田の血族、大蔵卿局、大野修理太夫治長にその弟の主馬治房の一家が集う間にて、まさに孤軍奮闘といった風にくたびれた片桐は報告した。
 「言い訳ではなく言いがかりであろう」
 大野一族、ことに大蔵卿局は怒り心頭である。ただし怒りの矛先は主家ではなく片桐一人に向けられていた。
 「どうすれば徳川は得心するというのですか」
 「では、せめて問題となった文言だけでも削るというのは如何かと」
 片桐は片桐なりに打開策を考えては佐渡守と接触していた。無論、大蔵卿局の提案も既に打診済みである。
 「内府さまのお名前を削るなど言語道断であると、佐渡守どのがお怒りでございます。削るのであれば君臣豊楽の文言のみにせよと」
 しかしその意見には淀が猛反発した。
 「諱を別っていることが問題なのでしたら、豊臣の名だけを削れというのは矛盾しておりましょう。どちらも残すか削るかの選択、それが最大の譲歩です」
 「朝廷に取りなしを願うのは如何ですかな?」
 大野治長の提案にも片桐は首を横に振った。
 「大名間での諍いは当事者同士で解決してくれと……」
 「何と、殿に相談せず勝手にそのような打診を」
 織田信雄が身を乗り出した。有楽斎も眉をひそめる。
 「そなたが朝廷に訴え出たところで相手にされる訳などなかろう。なぜ殿のご裁可をいただき、正式な使者を立てなかった!」
 「申し訳ございませぬ。殿をはじめ皆様方のお手もお心も煩わせまいと先回りをしてしまいました」
 「ええい。殿の使者であれば決定権を持つ公家に根回しも出来ようものを、余計に話が絡まったではないか。これら段取りの悪さが朝廷から徳川の耳に入るのも時間の問題ぞ。さすれば朝廷からも取りなしを得るどころか侮られてしまう」
 「……叔父上、どうかお鎮まりくだされ。大叔父上も」
 一触即発となりかけた場を制したのは秀頼であった。
 「片桐。苦労をかけるが、今一度江戸へ行ってもらいたい。開眼供養の日は迫っておるが、我々の混乱を僧達……ひいては列席する大名たちを通じて全国に悟られるのは得策ではない。開眼供養は正式に延期いたすゆえ、引き続いて互いに譲歩できる道を探ってくれ」
 「殿」
 「頼む」

 「大蔵卿局どの、少しよろしいか」
 片桐が出立のため公儀を辞したところで、大蔵卿局に声をかける者がいた。信長の子…淀の叔父にあたる織田信雄である。
 「秀頼さまも随分と辟易しておられましたな。我々は豊臣を守ることを何より優先するべきなのに、片桐どのは双方の顔を立てようと無駄な奔走をしておられる様子。あれでは、いつまで経っても徳川の譲歩を引き出す事などできないでしょう。ここは、あなたが淀さまの名代として江戸に行かれてはいかがですか?」
 「わたくしが?」
 「男が交渉に当たるとどうも事務的な話となり、それぞれの利を守るために頑なになってしまうもの。ですが女性であれば内府どのの警戒も緩みましょう。そしてそれが出来るのは、淀さまの乳母であられる大蔵卿局さまをおいて他にはおりませぬ」
 内府に目通りできる立場、柔和な物腰、内府相手に意見を交換できる力、すべてを兼ね備えているとまで言われて大蔵卿局は舞い上がりそうになったが、そんな心中も悟られまいとする自尊心の高さゆえ頬を引きつらせて素っ気なく答えた。
 「……そこまで仰るのでしたら、わたくしが淀さまのために江戸へ赴いてもよろしいですわね」

 一月後。
 「今から鋳造し直せば怒りを解くこともあり得る、と内府さまは仰せでございましたよ?」
 駿府にて粘ったにもかかわらず内府への面会かなわず、失意のまま大坂に戻った片桐に向かって大蔵卿局は涼しい顔をして告げた。このところの奔走で髷を結う髪もすっかり白くなった片桐は驚愕する。
 「内府さまとお会いになったのですか?」
 「ええ。それはそれは手厚いもてなしを受けましたわよ。あなたの方のご成果は如何に?」
 「……」
 「そのご様子でしたら、内府さまのお目にかかれたのはわたくしだけのようですね。江戸においても殿のご威光はまだご健在、此度の交渉が上手く進まないのは手際の悪さ故ということが露呈いたしましたこと」
 「そのような……拙者は駿府に留まりながら、大御所さまへ謁見を訴え続けて参りました。駿府は大御所さまのお住まい、必ずやお立ち寄りになると……」
 「でも声ひとつかからなかった。箸にも棒にもかからぬ者と見なされたのですね」
 「母上、口が過ぎますぞ」
 たしなめる治長の態度すら、大蔵卿局にとっては勝利を裏付ける材料にしかならない。大蔵卿局はつんとした顔でそっぽを向いた。
 しかし、
 「鋳造し直しはなりませぬ」
 淀が大蔵卿局の進言に反発する。
 「あの鐘だけで一体どのくらいの財が使われたか分からぬ大御所ではないでしょう。こちらの不手際を晒してもう一つ鐘を造らせる事で豊臣の財をさらに浪費させ、普請に協力してくれた大名たちの落胆を誘い、大坂から心を離してしまおうという魂胆が見え見えです」
 「財ならば、湧いて出るほどおありでしょう」
 「それらは民の財であり、民のために使われるべきもの」
 「淀さま?」
 「殿下亡き後、治部少輔がまとめた検地台帳を見た事があります。各国から集められる年貢に相当する米を作るために民はどれほど苦労したか、けれどそれら民の汗を殿下は…わたくし達も浪費していた。此度の大仏建立は殿下存命中からの悲願であったゆえ、費用だけは治部少輔がどうにか確保しておいてくれたのです。秀頼の代になっても続く事業のために、秀頼や亡き殿下のご威光に傷がつくことのないようにと……そのために治部少輔は盟友をことごとく敵に回してしまったと聞いております。まことに恥ずかしい限り」
 「……」
 皆は無言で広間を見やった。襖はもう何年も張り替えておらず、天井画の蒼もすっかり色あせている。
 秀頼だけは品位を保つために立派な錦をまとっていたが、淀の着物は太閤から買い与えられたものを何年も着回ししているらしく、綻びた金糸銀糸がところどころで飛び出していた。これが大坂の現実なのだと。
 しんみりした空気を払うように…皆でため息をついても先へは進めないと、淀は片桐に促した。
 「して片桐、あなたの成果を聞かせてもらいましょう」
 「……」
 「どうしました?」
 「内府さまにはお目通り叶いませんでしたが……こちらが、本多佐渡守さまより預かって参りました内府さまの書状にございます」
 書状に目を通した秀頼は「なんと」と小さく呟く。
 「いかがなさいましたか?」
 「和解の条件。それは……私が大坂城を明け渡して他国へ移封すること、そして……」
 秀頼は淀をちらりと見た。
 「母上を人質として江戸に住まわせること……」
 「それは事実上の臣従ではありませぬか!」
 「なんとまあ不敵な」
 大野一家が一様に猛反発の姿勢を示し、織田一門は目を丸くした。しかし秀頼は動じていない。
 「……臣従か。それで此度の事態が丸く収まるのなら、私は喜んでそうしよう」
 「殿、なりませぬ!」
 「どうかお考え直しくださいませ。あなた様の肩には、幾万の武士やその家族達の暮らしがかかっているのですぞ」
 「内府にも離した事があるのだ。私は父上の原点に立ち返ることに何の不安もない。天下は徳川に任せ、我らは皆で田畑を開墾すれば良いではないか。不満がある者は去っても追わぬ」
 「……殿は、本当にそれで事が収まるとお考えですかな?」
 治長が自重を促した。
 「どういう事だ?」
 「徳川がここまで言いがかりをつけて来る以上、将来にわたって禍根となり得るものはすべて潰す算段でございましょう。大坂の民や西国の大名はいまだ殿を慕っております。殿が野に降ろうと、殿を慕う者が居る限り…徳川に不安の種が残っている限り、その手が緩むことはございますまい」
 「では出家して高野山に入るのはどうだ」
 「千姫さまのお立場を慮ると難しいでしょう。女人禁制の山に出家となれば千姫さまにとっては事実上の離縁申し渡し、内府が顔に泥を塗られたと激怒する様が容易に想像できます」
 「では、やはり鐘を鋳造し直せばよろしいではありませんか。内府さまも、そうすればお怒りを解いてくださると仰せなのですから。大名に対しては、鐘か鐘楼に不具合が見つかったとでも何とでも理由はつけられましょう。金子で体面が買えるのでしたらそのように」
 「鋳造し直せば良いというものではないのがお分かりになりませぬか!」
 大蔵卿局に声を荒らげたのは片桐であった。
 「我々がどれほど誠実に対処しようと、徳川はこれからもさらなる言いがかりをつけて参りましょう。言われるがままであってはならぬのです。互いに譲歩し合うお立場でなければ、豊臣家の威厳は保てませぬ」
 「ふん、内府さまにお目通りすら出来なかった者に何が分かるものですか。わたくしは、たしかに内府さまの口からお約束いただいたのです」
 「建前と本音を使い分けるのは比興というもの、武士の世では珍しい事ではございませぬ。内府さまほどのお方ならば、そのくらいは息を吐くようになさるでしょう」
 「んまあ!自分の無駄足を棚に上げて、よく言えたものですわね」
 「片桐どのも母上も、殿の御前であることをわきまえられよ!」
 見かねた…秀頼が困惑している様を見抜いた治長がついに割って入る。が、大蔵卿局は引き下がらない。
 「わたくしに不満があるのでしたら、まずは成果の一つも出してご覧なさい。あなたは結局何も為し得ていないでしょう」
 「お局さま、それはあまりに乱暴な物言いで……万が一にも戦の火種を作るまいと苦心している拙者の心内もお分かりくだされ」
 「その優柔不断さが舐められているのではないのですか?」
 「もうよい」
 秀頼は、ため息とともに座を立った。
 「……身内同士の会議でこれなのだ。今はどうやっても妙案など浮かぶまい。各々、少し頭を冷やそうではないか」

 「主馬どの、少しよろしいかな」
 秀頼が去った事でいったん休憩となった席。厠に立った大野治房を織田有楽斎が呼び止めた。
 「そなたのご母堂もなかなかの物言いでございますが、実際片桐どのにはどうも苛々いたしますなあ。すべての方向に良い顔をなさろうとしておられる」
 厠に二人並んで用を足しながら、有楽斎は呆れ顔をする。
 「秀頼さまの傳役たる者が、徳川に対してあれほど下手に出ていて良いものでしょうか」
 「何を申されたいのですか?母をふたたび江戸へでも遣れと?」
 「いえいえ、私の懸念は別のところにございます……ひょっとしたら、でございますが」
 「?」
 「片桐どのは伝令役を務めていらっしゃるのではないかと気にかかりましてなあ」
 「伝令?豊臣と徳川の間で交渉役をしているのならばその通りであろう」
 「いえいえ、そちらは建前」
 有楽斎は水瓶の水で洗った手を拭いながら続ける。
 「大坂城内、我らの公儀の様子を江戸に漏らしているのでは、と危惧しているのです。効を焦るあまり秘密裏に行われるべき公儀の内容を本多佐渡守あたりにぺらぺらと口外し、徳川はその中から有利な情報をふるいにかける。そして、もしこちらに迂闊な発言をする者あらばすぐさま豊臣に謀叛の疑いありと豊臣討伐の布令を取り付ける算段ではないかと……いや、考え過ぎならば良いのですが」
 治房は、ふむと唸った。
 「……あり得ない話ではございませぬな」
 「何しろ、福島太夫どのや平野遠江守どのの盟友であらせられますからなあ」
 豊臣を裏切って…見限って徳川についた、かつての七本槍。彼らと内通していないとは言い切れない。
 「太閤殿下は、疑念あらばお身内であろうと迷わず処罰なされた。その厳しさがあったかこそ豊臣の名を世に高めることが出来たのです。ここで殿下のご苦労を無にしてしまっては家臣の名折れというもの。懸念は殿がご存じないところで払ってしまうのも一計かとは思いますが、まあ今はまだ憶測にすぎませぬからなあ。殿や淀さまに申し上げる事もできず、いやはや難しい」
 有楽斎が言いたいことは治房にも理解できた。城内をまとめようと躍起になっている兄・治長には出来ない仕事を自分がやれと。
 「……なるほど。有楽斎さまのご懸念、心に留めておきましょう」

 それから数日後。片桐且元は、突如として子息もろとも大坂を出奔した。
 大坂城の二の丸で何者かにいきなり斬りつけられて身の危険を感じたために京へ逃れたというが、秀頼が治房に城内を調査させても片桐の言葉を裏付ける事実は出て来ずじまい。
 「身内ばかりのこの城で、果たして襲撃などあったのでしょうかねえ。たしかに公儀は殺伐としておりましたが、それを気に病みすぎて風の音にも敏感になっていたのではないでしょうか」
 秀頼の着座を待つ時間。織田有楽斎は扇で口元を隠しながら治長をちらりと見やったが、治長はあさっての方に視線を逸らしたままである。
 「つまり見限られたという事か……あの扱いでは仕方あるまい、か」
 大野治長は秀頼の居ないところで肩を落とした。
 どこまでも誠実に、関ヶ原の戦いでは他の仲間と敵対してまで豊臣家に尽くし、鐘銘事件ではどうにか穏便に事を収めようと奔走していた苦労は同じ城仕えとして理解していたつもりだった。それほど尽くした者の去り際としては此度の件はあまりに理不尽であり、治長自身も憤りや無情さを感じずにはいられなかったのだ。
 理不尽の元凶の一つとなった大蔵卿局も、事ここに及んでさすがに内心では己の言動を顧みているらしかった。だが気位の高い母のこと、他者の前では決して己の不徳を認めない。
 「まあ、もとより役に立たない片桐が居なくなってくれた方が却って事がすんなりと運ぶやもしれませぬ。もとより徳川に寝返る腹づもりであったのならば、早々に去ってくれた方が大坂城のためには宜しかったのでは?」
 「母上、憶測でものを仰るのはおやめください」
 息子にぴしゃりと言われて口をつぐんだが、彼女とて豊臣家最優先で動いた結果の事。その眼は「自分は悪くない」と言ってもらいたいように訴えていた。

 「……試してみたい事がある」
 片桐の席が空いたままの公儀の席で、秀頼の口から提案があった。
 「あえて内府の言い分に乗ってみようと思うのだ。その返答次第で内府の肚の内が見えてくるというもの」
 「まさか臣従を?」
 「いや、まずは大蔵卿が持ち帰ったとおりに鐘の鋳造し直しだけを提示してみる」
 大蔵卿局は「やはり自分が正しかった」と言いたげに治長を眺めたが、治長は秀頼の顔しか見ていない。
 「では、書状の遣いは叔父上お願いしてよろしいですか」
 秀頼は「今から鐘を鋳造し、それまでは大仏の開眼供養も延期するゆえ、どうか和解いたしたい」という書状を送って徳川の出方を伺ってみたのだが、遣いで江戸へ遣った織田信雄が大坂に戻ってくることはなかった。
 「片桐且元の身柄を保護している」との信雄からの伝言とともに京屋敷から来た遣いが持って来た書状には、徳川家康の花押とともに
 「もはや遅し」
 と記されていたのみである。
 「大事なお役目を途中で投げ出して勝手に振る舞うとは、我が甥にも困ったものですな」
 面目なしと顔をしかめた有楽斎をはじめ淀や大蔵卿局がはらはらしながら見守る中で短い書状を見た秀頼は、「やはり」と息を吐いた。
 「これで、徳川ははなから豊臣家を潰すつもりであった事がはっきりした。鐘の文言など、やはり単なる言いがかりであろう。これ以上の交渉は何の成果も生み出すまい」
 「殿?」
 「こちらも肚を括るしかあるまい」
 「では」
 「すぐに兵と兵糧の手配にかかれ。そして……もし片桐が心変わりしていないのであれば、呼び戻して謝りたいのだが」
 「それでは殿からお文をお出しになるのがよろしいでしょう」
 「わかった。片桐の忠義に報いるにはそれが最も良かろう」
 大蔵卿局は止めたそうな顔をしていたが、秀頼に躊躇はない。
 「母上。鐘を鋳造し直すための財は、民の平和のために使わせていただきたい。よろしいですか」
 「秀頼……」
 「石田治部が友を敵に回してまで守ろうとした豊臣の名と誇り、ここで屈する訳にはいかぬのです」
 淀は、秀頼のふっくらとした肩に触れた。瞬間あっと眼を見開き、周囲に気づかれぬよう手を離す。
 「……わかりました。豊臣家当主として決めたのでしたらやり遂げなさい。母も心を決めましょう」

 京都、織田信雄の屋敷。
 「秀頼さま直々のお文とは……畏れ多いことでございます」
 縁の寺を転々としているうちに江戸からの帰りだという信雄と再会、彼の屋敷で世話になる事になった片桐は、秀頼が直々にしたためた帰参を呼びかける文に感涙していた。鐘銘の件では誰もが神経を尖らせてしまったがために片桐一人の大変な心労を与えてしまった。しかし自分の心は徳川との戦に向けて定まったゆえ、もはや鐘銘についての問答は必要なし。ついては片桐も大坂に戻って自分を支えてほしい。
 「織田さま。これほどまでに心のこもった書状を主より頂いておいて加勢しない武士などおりましょうか。すべてが誤解であったと知れた今、拙者は一刻も早く大坂に戻りとうございます」
 「待たれよ、片桐どの。殿がいかに思われようと、城内にて片桐どのが襲われたことは事実でありましょう。下手人も知れぬまま戻れば、今度こそお命が危のうございますぞ」
 「そのような事は承知の上。拙者はすぐに支度をいたします。織田さまには世話になり申した、このご恩はいつか必ずやお返しいたしますゆえ」
 「……なりませぬぞ、片桐どの」
 信雄は身支度を急ぐ片桐の前に立ちはだかった。
 「何故でございます、織田どの?」
 「この織田信雄、片桐どのを二条城にお連れする任を負ってござる」
 「それはどういう……まさか」
 今にも脇差を抜きかねない信雄の眼差しを見た片桐の表情が凍りついた。
 「大坂城に戻られれば、確実に命がなくなりますぞ。観念なされよ」
 「……」
 片桐がへなへなと座り込むのを見て、織田は席を外した。
 すべてが仕組まれたものだったというのか。自らの不甲斐なさ、先見の明のなさには絶望しか感じられない。
 いっそこの場で腹を切ろうとも考えたが、それでは太閤時代の関白秀次と同じ結果しか招かない。秀頼の求心力低下を世に知らしめるだけだ。
 (拙者に出来ることは何だ……秀頼さまのために……)
 一人思案の果てに、片桐は懐にしまっておいた半紙に携帯用の筆で文をしたためると庭に控えていた息子の片桐孝利を呼んだ。
 「次郎助(孝利)。今すぐこの屋敷を出よ。そして……」


 片桐が大坂へ戻るに戻れなくなっていた頃。
 駿府城で身体を休めていた家康に、豊臣秀頼から書状が届けられた。
 「鐘銘の件ならばもう遅い。秀頼が大坂を去らぬ限り、儂の気は変わらぬぞ。」
 渋々ながら広げた書状であったが、分厚い巻き紙を読み進めるにつれて家康の表情は険しくなっていく。
 書状の中身は、概ねこのようなものであった。

 「此度の鐘銘の件、天下の悲願が叶うめでたき場に水を差された豊臣はたいへん困惑しております。内府さまにおかれましても少なからずの金子をご用立ていただきましたのに、かような行き違いは遺憾の一言に尽きる思いであろうと案じております。
 ですが、既に幾度も申し開きをいたしました通り、文言は禅にて徳を積み重ねた僧が厳選して撰じたものであり、天下の安寧を強く願っておられた父太閤の遺志を継いだ私としても邪心などは天地神明に誓ってございませぬ。それら心のこもった言の端を、よもや天下人ともあろう御方から挙げつらねて難癖をつけられるとは心外ともいえる心持ちでおります。
 これらのやり取りが童の言葉遊びであればどれだけ良かったことでしょう。
 天変地異にて頓挫した過去の建立工事と同じ道を此度も辿る運びとなれば、内府どのの影響力は一体いつから天地の神に並ぶものとなったのか、若輩者にはまったく理解できぬものであります。
 内府どのにおかれましては、かつての我が父がそうであったように、お齢を召された事でお気持ちが先走っておられるのではと懸念いたしております。ここはお望みどおり開眼供養をいつまででも延期いたしますゆえ今一度落ち着いてから鐘銘の文言を一字一句、広い視点から吟味なさいませ。
 もっとも、数多の逆賊をその叡智にて処断なさって来られた内府どのには、御身大切にと育てられた世間知らずな若造の諌言などご無用でありましょうけれど」

 「な、何だこれは!!」
 家康が放り投げた文を眺めた本多佐渡守は「これはまた」と苦笑いするしかなかった。言い回しこそ丁寧であるが、内容は言いたい放題、まさに挑発である。
 「十五年前の直江状を敢えてなぞらえて来ましたか。これはやる気満々とみてよろしいでしょうな」
 本多佐渡守の分析を聞くまでもない。関ヶ原の戦いの前に上杉景勝の腹心・直江兼続から送りつけられた書状以来の挑発的な文言を、家康はびりびりと破り棄てた。紙片をあたりに投げつけ、鼻息も荒く立ち上がる。
 「すぐに江戸へ参るぞ。秀忠に命じ、ただちに諸大名を江戸へ参勤させよ」
 「……やれやれ。既にやる気であった大御所さまを焚きつけるとは、秀頼どのもやりますなあ」
 しかし強がりもどこまで続くやら。本多はゆるゆると立って主に従う。
 「江戸から駿府、そして江戸、おそらく来月には京都。老体には堪えるわい」


 「大坂城にて豊臣秀頼を討伐する」
 江戸城における公儀の場にて将軍秀忠から宣旨が下された時、その場に居並んだ東国の大名たちはみな表情を引き締めた。驚きはない。むしろ、来るべくて来たという空気が支配していた。
 それは長く続いた戦国乱世の総仕上げ、徳川家康が積み上げてきた江戸幕府という大きな石垣に、いよいよ天端石(石垣最上部に置く石)を据えるようなものであった。


 「齢をとれば人間丸くなるというが、大御所はまったく変わらないなあ。因果応報も神も仏もない、太閤のように死んだら己を神格化して閻魔大王と渡り合うつもりだな、あれは」
 仙台に帰参した政宗は、小姓に着替えを手伝ってもらいながら片倉小十郎重綱に向かってこぼした。
 「大坂の秀頼公の手足をもいでから戦とは、毒を盛るよりえげつないな」
 「大御所さまは、秀頼公のお身体を案じておいでだと聞き及んでおりますが?」
 「戦する気まんまんだった相手を心から気遣うなんて精神があったら、あの親父は天下人になんてなっていないさ……まあ、それに引っかかる秀頼公も迂闊というか何というか、だが」
 徳川家康は東の国や公家らと縁戚を結んで外堀を固め、秀頼から関白の位を奪い、会見の後になって「御身御大事に」を合言葉のように大坂城の家臣や女中らを誘導して秀頼の自由を奪った。そのおかげで今や秀頼は形ばかりの執務をこなすだけの籠の鳥となり、その容貌も戦どころか屋敷からもろくに出られない程肥え太ったのは今や誰もが知るところだった。
 家康に羽をもがれたと政宗は見ていたが、武士にとって己の管理が出来ない者は堕落とみなされるのが常。かつての豊臣恩顧の大名も、流石に総大将がその体たらくではもはや戦う前から勝敗は決まっているとして早々に徳川方への参陣を表明している。
 それとは別に、関ヶ原の戦いのきっかけを作った上杉景勝や、石田方について戦った立花宗茂も徳川方への参陣の起請文を提出している。
 上杉は越後を没収され会津のみの知行となった…大名位が首の皮一枚で繋がった状態で家臣や領民の食い扶持を維持するのがやっとの赤貧暮らしは、名門上杉家を継いだ景勝としてはこの上ない屈辱であった。質素倹約をよく心得ている直江兼続夫妻が先頭をきって畑作に励み日常生活の中に工夫を取り入れた…たとえば屋敷の垣根を食用となる五加木(うこぎ)で仕立てるなどしたことで倹約もまた楽しといった雰囲気を作ってくれたおかげで家臣らの不満は膨らまなかったが、それでもひとたび凶作となれば一揆も起こりかねない不安定な治世に神経をすり減らす日々が長く続いた。
 そうやって充分すぎるほど辛酸を舐めた後、家康の赦しという名目でようやく江戸に屋敷付きで迎えられた…江戸での役目を与えられた事で、会津はようやく国と民の暮らしを持ち直させるまでに回復したのだ。
 関ヶ原の後で領地を召し上げられた立花宗茂は、一族郎党で牢人暮らしを経験した後、本多忠勝に見いだされた事で陸奥国棚倉の領主として徳川方に仕官を許された事になっている。が、それも家康が裏で本多に指示を出しての登用だともっぱらの噂であった。
 いったん釣瓶が音を立てるところまで落としてから慈悲をもって掬い上げるという恩の押し付けが見え見えであろうと、数多くの家臣や領民を養う身であればそれら徳川家の気まぐれを生涯の恩として受け取らなければならないのだ。
 薄皮をゆっくり剥ぐように時間をかけて秀頼の取り巻きを引き離し、本人たちも気づいていない間に力を削いでいく。本懐を遂げるためならばどのような遠回りも厭わない、いかにも徳川らしいやり方であった。
 が、豊臣方の戦力が赤子同然となったとは思っていない。
 しかし西の武将たちの中には依然として徳川に与しない者も少なくなかった。態度を決めかねている長州藩の毛利秀就、その父でいまだ国内の発言権を握っている輝元、薩摩の島津義弘といった大大名の動向によっては勢力図が大きく変わる。
 さらに関ヶ原での敗軍の将となった者の一族が家の再興を目指して豊臣に肩入れすれば。
 自分なら野に下った牢人を集めるだろう。政宗はそう考えたが口にはしない。
 さらに、あちらには真田左衛門佐幸村が…政宗の妻が付くのだ。徳川家康にとって唯一ともいえる天敵・真田安房守の志を受け継ぐ、まさに『生きた村正』のごとき存在が。
 城が焼け落ちようと、源次郎が家康の首を獲れば戦は豊臣方の勝利となる。そうなったら。
 秀頼は関白に復職し、大野治長が執権職に、源次郎らも要職に就く。淀は院政よろしく御簾の奥から意思決定を行うことになるだろう。
 が、要となる秀頼の力量がまるで聞こえてこない以上、それで天下がまとまるのかという疑問も残った。その時、徳川秀忠をはじめとした勢力はどう動く。
 (もしこの機に、俺が関東を制圧したらどうなるだろうな)
 政宗の脳裏を、そんな考えがよぎった。
 仙台という場所柄、大坂方につくつもりは毛頭ない。しかし、例えば石田方であった上杉や佐竹と組んで東北の意向を一つにまとめ、家康が大坂攻略をしている間に伊達家の片倉、上杉家の直江らが江戸を獲る。奥州制圧以来の大仕事で東日本を平らげたとしたらどうなる。
 (無理だろうか、それとも『目』はあるか)
 物事が起こる裏には、必ずそれなりの理由や必要性があるものだ。神仏を畏れず増長しすぎた信長が討たれたのも、武田信玄や上杉謙信がこの世に早く生まれ過ぎたのも、そして自分や源次郎が家康より一世代遅く生まれてしまったのも。
 徳川家康が将軍の座に上り詰めたのは、生まれた時期や勢力が変遷する波との巡りあわせに恵まれただけでない。世が必要とした彼を選んだのだ。
 事実、江戸幕府の体勢は目を見張る速さで整いつつある。強引すぎる取り決めが次々と成立し施行されていくのに、誰一人異論を唱える者はいない。唱えられない程がんじがらめな訳ではなく、ただ不満を抱く理由がないだけなのだ。
 得にも損にもならぬのなら、権力に巻かれておいた方が良い。戦国の世で親や一族が惨憺たる末路を辿ったことを知っている武士ほど、波乱よりも平穏を望むようになっていた。
 野心がないのは時代の流れである。
 そんな流れの中、すでに長老の域にさしかかった政宗が事を荒立ててもつき従ってくれる者は多くないだろう。
 江戸を獲り、家康が討ち取られ、あわよくば秀忠も大坂方に討ち取られれば、流れはどうなる。
 自らは娘婿の忠輝や竹千代君を足掛かりに江戸幕府を傀儡化させ、ゆるゆると大坂勢力を取り込みつつ新たな体勢を築き上げる。家康が豊臣家に対して行った事を、そっくりそのまま徳川家に行うのだ。
 現状、人徳のなさでは徳川家康も晩年の秀吉と似たり寄ったり。家康が大名への締め付けを強めているのがその証拠だった。
 まだ盤石とは言い難い江戸幕府体制下で徳川家が権力の座から転がり落ちれば各国の統制は乱れ、家康自身が太閤と同じような顛末を辿る可能性は充分にある。
 前提条件が多すぎるが、それらを乗り越えた先にある天下は決して手が届かないものではない。周りに期待するのではなく自ら動く。政宗の心の中に、かつて死装束で小田原に入った頃、そして奇天烈な出で立ちで上洛した頃の悪戯心に満ちた若き日の自分が蘇った。
 永遠の夢追い人であり反骨者、それが政宗なのである。

 しかし、大坂の戦いに乗じて描いた夢は、越前から届いた一通の書状によって、いとも容易く頓挫した。


 「淀君さまは……大坂城は、申し開きする必要などないと徳川への弁明を拒んだそうにございます」
 片倉小十郎重綱の報告を、政宗は仙台城で聞いていた。手許には、江戸への参勤を命じる徳川からの書状。
 「予想通りの展開だ。淀君が徳川の言うことを聞く訳がない。水を一杯くれと言われても断るだろな」
 「これにて大坂での戦は避けられなくなりましたな」
 「ああ。以前から大名達に戦支度を命じていた徳川が、ついに出陣を促す触書を出してきた。早ければ……いや、大御所は早ければ早いほど良いと考えておるだろうから、今年の暮れには合戦となるだろう」
 徳川秀忠の花押が記された書状には、伊達が用意すべき兵と武器の数が記されていた。
 「秀宗さまにもご出陣の要請でございますか……戦の経験がない秀宗さまには、いささか負担が大きゅうございますな」
 「それは徳川方の大将のほとんどが同じだ。関ヶ原の頃には元服もしていなかった者達が此度は主力として戦わざるを得ない。秀宗も然りだが……あいつも今は微妙な立場だから、武功の一つも立てさせて家中を黙らせたいものだ」
 重綱の懸念は、伊達家中における秀宗の立場であった。
 太閤の時代には伊達家の嫡男として大坂へ人質に取られていたが、秀宗は正室よりもだいぶ身分の低い側室の子である。関ヶ原の戦いの後になって正室の愛姫が男子…忠宗を産んだことで、長男でありながらも秀宗の足元はだいぶ危うくなっていた。政宗は苦労をかけた秀宗にこのまま伊達家を継がせたいと願っていたが、娘を人質として松平家に嫁がせていた愛姫自身が良い顔をしない。苦労をしているのは秀宗だけではない、ならば伝統に則って正室の子が嫡男となるのが道理であろうと。
 秀宗は井伊直政の娘を正室に迎えて徳川との繋がりを強めていたが、それに対抗するように愛姫は実家である田村氏一族の後見のもとで忠宗の正室に家康の孫姫を迎え入れている。
 政宗の心が九度山の繁に大きく傾いている間に、伊達家中はもはや室をめぐる甲斐性だの何だのと格好をつけていられない状態に陥っていたのだ。さすがの政宗も若気の至りを反省するだけではいられなかった。
 そんな後継争い…このままでは自分と弟のような諍いが起こりかねないと思っていた矢先の出陣要請である。政宗は徳川からの要請どおり秀宗に一軍を預けて参陣させると言い切った。
 「井伊の一族として赤揃えに編入させられるよりはましだろう。大将の井伊直孝は徳川四天王の子として武功を焦っているが、戦の経験はない。一番駆け、一番槍を争ってこそなんぼと親の代から刷り込まれている奴に従わせたら、どのような無茶をさせられるか知ったものではない」
 秀宗が井伊の甲冑に袖を通そうと、連れて行く兵は陸奥国の者なのだ。初陣となる総大将の下、戦の混乱の中で『名誉の討死』という結果を招く可能性も大いにあり得る。
 そのくらいなら自分の眼が届く場所に置いておいた方がずっと良い。
 「……殿」
 重綱は敢えて進言した。
 「江戸に戦の気運が高まっていることは承知しておりますが、殿ほどの御方であれば、幕府と豊臣家の和睦を取り持つ仲介役に立って戦を回避させることも出来るのでは」
 「無理だな」
 政宗の眼帯がわずかにひくついた。
 「そんな。殿は徳川家の縁戚でもあられるのですから、お立場として何の不足もございますまい」
 「……大久保長安が死んだ」
 娘婿の松平忠輝から政宗に宛てられた書状を見せられた重綱は、それでも此度の出来事とその書状を結びつけることができずに首を傾げる。
 「大久保どのと申されますと、越前のご家老さま」
 「忠輝の側近であり、大御所から差し向けられたお目付でもある……ついでに俺の悪友でもあるが」
 間が悪すぎる、と政宗は顔をしかめた。
 「忠輝さまのご家老が亡くなられたことが、殿のお立場にさしたる影響など及ぼすとは思えませぬが」
 「なければ良かったんだがな……大久保の力なくして、越前に新しい城の普請など出来なかった。新しい家老が入ると、いろいろと幕府の耳に入れて欲しくない事がばれてしまうな」
 いや、と政宗は思い当たった。
 「大久保は、つい最近幕府の代官職を解かれたばかり、それが急死となると……既に勘づかれたか」
 そうなると、幕府にとっての本丸は忠輝ではなく伊達家だな。政宗は顎に手をやって「佐渡守あたりか」とうそぶいた。
 「まさか、殿」
 突拍子のない言動には動じるまいと父から教えられてはいたが、それでも重綱は腰を浮かせた勢いで前に手をついてしまう。九度山に通っていた事とて厳密に言えば危ない橋なのだが、その合間に、さらなる危険の種を撒いていたのか。
 「越前にて危ない橋を渡っておいでだったのですか?」
 「城のひとつも普請してやれば、忠輝も肚をくくるだろうと思うてな。普請の費用は伊達家が持つという事になっているが、仙台とて城の普請に街の整備といった大仕事がまだ進行中だ。そのあたりを大久保に配慮させていたのだが……あいつもお役目を笠に着て忠輝の目の届かぬところで派手にやっていたようだから、そのあたりを揺さぶって、な」
 「何という……」
 「病死にせよ始末されたにせよ、ここで大久保が死ぬのはまったく想定外だ。最悪、俺も切腹ものだな」
 さてどうするか。政宗はまるで他人事のように脇息にもたれて考えを巡らせる。
これには控えていた重綱の方が全身に震えを感じた。今すぐにでも屋敷に戻り、どうしたら良いのか父に相談したい気持ちである。
 政宗はいとも簡単に切腹と口にしたが、幕府が大大名を切腹に追い込む程の振る舞いとなれば大事件である。
 父小十郎の代にもあわや切腹の場面は何度かあったというが、人生でそう何度も切腹の危機を切り抜けられるものなのだろうか。いや、そもそも切腹の危機など人生に一度でもあればそこで命が切れているのが常ではなかったか。
 大坂での戦など霞んでしまいそうな大事小事入り混じった主の苦境に、年若い重綱はその場に座っているのがやっとであった。

- 九度山 -

 「源次郎様、片桐且元様の使者と名乗る者がおいでです」
 畑仕事に汗を流していた小助からの報告に、子供達と紐を編んでいた源次郎は「来たか」と短く答えて口許を引き締めた。
 その場をさちに任せ、既に江戸や大坂の事情を知っている事を隠すよう気を引き締めつつ客間に入れば、知っている顔に良く似た若侍が拳を床について頭を下げてきた。
 「お初にお目にかかりまする。片桐且元が嫡男・次郎助孝利にございます」
 「真田左衛門佐幸村です。片桐さまには大坂城時代にたいへん世話になりました。片桐様は息災でありますか?」
 「父は今、京都の織田信雄さまのお屋敷にてお世話になっております」
 「京都?秀頼公の御用か何かでご逗留を?」
 「いえ」
 孝利は頭を振った。
 「我ら親子は、先日大坂城を出奔いたしました」
 「出奔?」
 かつての『賤ヶ岳の七本槍』時代から現在まで豊臣に変わらぬ忠義を尽くし、秀頼の傳役を務めたほどの男がなぜ。
 「それは解せませぬ……いや理不尽ですね」
 「父は大坂城にて大野主馬治房さまの手の者から命を狙われたところを織田さまにお救いいただきました。そのまま逃げるように織田信雄さまの京屋敷にてお世話になっている次第」
 大野主馬といえば、淀…当時の茶々に恋心を抱いていたとまで噂された大野治長の弟。淀のために徳川暗殺未遂事件まで起こす程の男が、そして彼らの母…淀の乳母が家族を御せぬなど考えにくいのだが。
 明らかに大坂の家来衆の間で内紛が起こっている。戦を前にして内部から崩れ始めているのだとしたら、実に危うい。
 「片桐どの程の御仁が大坂を出奔なされた経緯を聞かせていただけますか」
 「はい」
 孝利は着物の袖で目元をこすった。思い出すだけで口惜しいといった心持ちのようである。

 「ひどい話だ……」
 鐘銘事件から片桐の出奔までを聞かされた源次郎は、片桐の無念に顔をしかめた。
 「織田さまは、鐘銘事件で徳川さまの誤解を解くことが出来なかった我が父の処遇をめぐって大坂の公儀や有楽斎さまのご対応に不満を持っておられたと聞き及んでおります……その最中に父が出奔し、織田さまは徳川へ書状を届けるお役目の中で父を伴っての内応を打診されたとも」
 「なるほど。それで今は織田さまの京屋敷に幽閉されていらっしゃるのですな」
 十五年前の石田三成屋敷の襲撃事件、それを収めた徳川家康という構図が脳裏をよぎる。徳川は自ら放ったつけた火を消し止めさせ、狙い撃つ形で大名に恩を売る男だった。
 「して、片桐さまの今後は?」
 「二条城に入った後は、おそらく徳川方に助力せざるを得なくなるのではないかと……もはやそうする以外に道はありませぬ。腹を切ってしまえばそれは秀頼さまの徳のなさ故だと吹聴されてしまいかねないため、父は自重しております」
 「お命を大事になさったのは正解だと存じます。どうかこれからも軽々な真似はなさらぬようにお伝えください」
 言いながら源次郎は確信した。秀頼の腹心を味方に引き入れ、大坂の動揺を誘う。そして揺らいだ者を強引にでも自軍に引き入れてしまう。
 徳川のやり方は変わっていない。そして、そのやり口が通用してしまう権力構造も。
 しかしそれらの事情をつぶさに見てきた訳ではないので、今目の前で混乱している若者に自らの推察を話すことはしなかった。
 「片桐さまも、さぞ無念であったことでしょう。どうかお心を強く持てるよう、あなたが支えて差し上げてください」
 「ありがとうございます。私はこれから諸国を回ります……その一環でこちらに立ち寄らせていただいたのですが」
 孝利は書状を差し出した。
 「大坂征伐となれば、豊臣家の戦力は圧倒的に不足になると父は申しておりました。大野さまが西の大名に呼びかけるでしょうけれど、思うより兵は集まらないであろうとも。そこで……」
 源次郎は書状の封を解いた。なつかしい字で綴られた回状には、想像していたとおりの文面が綴られている。
 「成程。各地に散らばった牢人衆に参じてほしいと」
 「袂を別つこととは相成りましたが、父は豊臣家からの恩顧を忘れた訳ではございませぬ。これはわが片桐家が豊臣家に出来る最後のご奉公にございます。どうかお聞き届けくださいませ」
 「板挟みとは苦労も多いな。が、たしかに受け取り申した。どうするかの返事は我らの行動で示せばよろしいか」
 「左様にございます。この文を父の遺言だと思って何卒」
 追われてもなお豊臣の行く末を案じて兵を募る。その実直さにつけ入られた片桐が哀れでならなかった。優しい心根と人の良さは、当人の中においても混然一体となってしまうものなのだ。
 しかし、魑魅魍魎の世界において『人がよい』というのは褒め言葉ではない。
 (愚直であれども愚者になるなかれ、ということか……)
 笑い顔で寄ってくる悪人、厳しい言葉で接する相手を選ぶ善人。そして表裏比興の者。それらの立ち回り方を見てきた源次郎の心中は複雑であった。

 見送りに出た小助が戻り、さちが白湯を持ってきたところで源次郎はふうと息をつく。
 「賤ヶ岳からの忠臣すら追放するとは……もはや大坂は淀さまお一人では抑えきれなくなっているようだ」
 「淀さまや秀頼さまが片桐さまのお命を狙うとは思えませぬが……」
 「秀頼さまや淀さまは関知していないだろう。おそらくは周囲の者がそうするよう唆したのだ」
 「それでは、公儀のどなたかが此度の件に関わっておられると」
 「鐘銘事件から片桐様追放までの手際が良すぎる。そして出奔した片桐さまをお救いした上でともに二条城に入るとなると」
 「?」
 「信雄さまは、最初から徳川に寝返るつもりだったのだ。片桐さまの一件や書状の遣いなど理由づけに過ぎない」
 「そんな。淀さまにとっては大切な縁戚であられる方々が」
 「一族で秀頼公を盛り立てていく過程で不和が生じたか、それとも最初から折をみて豊臣から天下を奪い返すつもりであったか……どちらにせよ、大坂城にとっては大きな痛手だ」
 信長の血をひく者を天下人に据えるのが悲願であるのなら、もはや淀である必要はない。徳川将軍家では淀の妹、江が次期将軍見込の嫡男を産んでいる。
 どちらも選択できるのなら、自らが生き残る可能性のある方が良いのは誰しも同じ。主の乗り換えなど、昌幸も橋を渡るように行ってきた。
 そう、よくある事だ。動じてはならない。
 源次郎は何度か肩で大きく息をした後、顔を上げた。
 「さち、装束の支度は?」
 「いつでもご用意できます」

 それから七日ほど、源次郎は父の位牌の前で自問自答を続けた。昌幸と練り上げた戦略の数々を一から読み直し、勝つための流れを頭の中にしかと描く。
 いざ大坂に入れば時勢の流れや戦力といったものによって練り直しを迫られる事も少なくないだろう。新たに得た情報から想定される事項を掘り起こし、現時点における最善の策を出しておく。
 昌幸最期の知略をもって、真田が徳川を制するために。
 『義』はけっして『利』に屈しないことを、後世に示すために。
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