第10話 茶々

文字数 9,430文字

天正十四年 

 話は大坂での源次郎に戻る。
その日、源次郎は秀吉の使いとして安土城へ赴くよう命じられていた。織田信長が建造した安土城には信長の姪にあたる姉妹が暮らしているので、彼女たちに秀吉からの贈り物として菓子や着物地を届けるのだ。
積荷を載せた車を曳く人工を率い、大坂から京都へ出て一泊、織田信長が焼き払った比叡山の南を東方向に進む。そして琵琶湖の南岸沿いを北上して平家終焉の地でもある野洲を過ぎれば目的の安土山が見えて来る。木曽から入った時とは逆の道。源次郎がかつて姉を救出するため入った際に燃え上っていた浄土の上の天守は既に跡形もなく、かろうじて残った二の丸に信長の孫にあたる織田秀信…清州会議にて秀吉が強く推した三法師である…が暮らしていた。
そして、そこに浅井三姉妹も身を寄せている。
茶々、初、江。かつて戦国一と謳われた美女である『お市の方』と浅井長政との間に誕生した娘たちで、長女の茶々は源次郎より二つほど年下である。浅井が信長に滅ぼされた後、お市が柴田勝家と再婚したのを受けて越前北ノ庄城に暮らしていたのだが、織田信長の後継者争いをめぐって秀吉との関係が悪化した勝家が賤ヶ岳にて秀吉に滅ぼされ、勝家とお市は揃って自害したため、親を亡くした三姉妹は安土城に…事実上は秀吉に保護されたのだった。
 賤ヶ岳の戦いが起こったのは源次郎が上杉に赴く前年のこと。まだ自分が実家で気ままに暮らしていた頃、自分より年少の少女は二度の落城と両親の自害という波乱を経験している。その事実が源次郎の心を複雑にさせた。武田家が滅亡した際に感じた理不尽さと怒り、それが最愛の親であるならどれだけ増幅してしまうのだろう。姫君のことだから心を閉ざしてはいないだろうか。姿は違えど同じ女として、何か自分で力になれることはないか。話だけでも聞いて心を慰めることはできないだろうか。それともごく普通に淡々と接するのが正解なのだろうか。
 かといってあまり親しくなっては周囲に要らぬ誤解を招きかねない。それに、過ぎたる同情は憐れみと表裏一体、相手の自尊心を逆なでしてしまいかねないものだ。源次郎は宿を借りた京の寺で夜通し考えを巡らせた。
 「おや、枕が合いませんでしたか?」
 寅の刻(午前四時)にはすでに起床して務めに入る、寺の早い朝。結局ほとんど眠れないまま出立前に朝の読経に加わり、その後座禅を組んでいた源次郎はつい居眠りをしてしまい、直堂を務めていた住職に警覚策励で背中をしたたか打たれてしまった。
 「どうやら、お侍さまには禅を組んでも断ちきれないお心の迷いがおありのようですね」
 幼少からの厳しい修行のおかげで体力には自信があったのだが、大坂へ来てから緊張の日々が続いたことと昨夜の考え事のために随分と心が乱れてしまったことを住職は見抜いていたのだ。仏の使いとして俗世から離れたところで物事を俯瞰している僧職に嘘はつけない。源次郎は合掌して一礼すると、もう一度床に手をついて正直に打ち明けた。
 「面目ございませぬ。実は、これからお目通りする姫君の心を開かせるにはどのような方法を用いれば良いか思案しておりました」
 「姫君の……ほほほ、さすが若いお侍さまですな」
 住職はぽかんと目を丸くした後、愉しそうに笑って源次郎の前に正座する。優雅さや豪壮さとはかけ離れた静かな動きなのに凛とした振る舞いは、かの上杉景勝にどこか似ていた。自らを律するという意味で、信仰とは人の品格を育て支えるものなのかと源次郎は思う。
 「い、いえ、決して邪なものではござりませぬ。私はただ、戦で親御や家を失った姫君のご心痛はいかばかりかとお察しし、お力になってさしあげたく……ですが、いかんせん初めておめもじする姫君ゆえ、どのようにしたら拙者が味方であると伝えられるか思い悩んでいたのです」
 「ほう、幾多の武将と見えてきたお侍のお言葉とも思えませぬな」
 「お恥ずかしゅうございます」
 率直に詫びる源次郎に好感を持ったのか、住職は静かな口調で教えを説いた。
 「思慕と慈悲は、根底は異質なものではありますがよく似ております。相手の心を開かせたいとお思いなら、まずはご自身のお気持ちを素直に開いてごらんなさい。日輪の日差しとて、一冬のうちに固く凍った根雪を一日にして融かすことはできません。何日もかけてゆっくり融かしていくのと同じように、いちど拒絶されても二度、三度と誠意を表せば、いつか心を開いてくださるやもしれませぬ」
 「時間をかけて、でござりますか……」
 「さよう。ただし、報いが得られなかったとしても相手を呪うてはなりませぬぞ。この世のすべてが誠意で解決すれば戦の世になどならなかったのはお分かりでしょう。人の世には様々な『個』が存在するもの、それら『個』がぶつかり合って争いや葛藤を生むのです。そういったぶつかり合いも含め、現世に生きることは修行であると御仏は教えておられます。不本意な結果も己が試練と受け止め、精進なさりますよう」
 「わかり申した。感謝いたします」
 雪解けは一日にしてならず。その教えを胸に源次郎は安土への道を急ぐことにした。

 しかし、源次郎が眠れぬ思いをしてまで描いていた儚げで幸薄い少女の姿は、しょせん乙女の想像でしかないと思い知らされるのである。


 「では殿下の親書とお品物一式、確かにお渡しいたしました」
 「ご苦労様でございます、真田どの。ただ今、お茶々さまに殿下へのお文を書いていただきますゆえ、しばしお寛ぎくださいませ」
 縮緬の介取(打掛状の羽織)に紋の刺繍をほどこした袷をまとった乳母…大蔵卿局と名乗った女性が衣擦れの音も高らかに目録を載せた盆を持って下がる。相手が姫君とはいえこちらは関白の遣いなのでまったく目通りが叶わないことはない筈、しばらく待った後で茶々から呼びつけられて御簾ごしにでも文を渡されることになるだろう。
 茶々が受領書がわりの文をしたためる間、一人残された源次郎は客間から縁側に出て屋敷の造りや庭園を飽きることなく眺めていた。
かつて圧倒された漆黒の天守閣こそ焼失し、城下もじきに廃城になるという噂を裏付けるかのように空き家が目立ち市場の人通りも寂しいものであったが、二の丸にある織田の屋敷は従来のままきちんと手入れされ使われていた。渡来物を珍重し部屋や調度品のすべてに豪奢さを求めた信長らしく、欄間や襖の取っ手という細部にまで気のきいた細工が施されている。もともと建造からさほど年数も経っていない城のこと、瀟洒で垢抜けた印象はまだ充分残されていた。
茶々も織田の姫君らしく質素よりも品位を重んじるのか、周囲に置いている女中の着物もそれなりに良いものだったし、香炉から出る煙も香り高い。織田の底力に加えて秀吉からの援助もあるためか、暮らし向きに困窮の色は見られなかった。
 穏やかな空と、琵琶湖から吹く涼やかな風。静かだが寂しくはない空間。少なくても、源次郎が抱いていた『落ち延びた悲運の姫君』の暮らし像とはかなり離れている。だがそういった物質的な豊かさがお茶々はじめ三姉妹のせめてもの心の慰めになっているのならそれも良い。物であっても心であっても、何かしらが満たされた状態の生活に身を置くことで、時間をかけて心の空虚を埋めることができるのならば。
 しみじみとした思いを胸に馳せている間、源次郎の心はつかのま現実から離れていたらしい。目に映る景色は変わらず、音もない世界で目は開いていても意識だけが眠っていた源次郎が我を取り戻した時、目の前にひとりの女性が佇んでいた。
 「!!」
 場をわきまえず呆けた顔を見られた源次郎は恥ずかしさに恐縮しながらひれ伏して頭を下げた。
 「も、申し訳ありませぬ」
 「何を謝るのかしら。殿下がどうかは存じませぬが、こちらでは転寝くらいで切腹など申しつけませんわ」
 「は……」
 「何でもかんでもとりあえず頭を下げるのは良くない習慣です。改めなさい」
 女中にしては随分と高いところからの物言いをする女性だった。女武者のごとく、さぞ気の強い女性なのだろう。
 源次郎が答えに詰まって恐縮していると、彼女がいる縁側を走る足音が近づいて来た。そして部屋の前で止まる。先ほどの乳母であった。
 「お茶々さま。いきなりお出ましになられるとは、はしたなのうございます」
 「構わなくてよ。ここには伯父上も殿下もおられないもの」
 お茶々の君。目の前の女性が。
 予想だにしなかった…このような形で目通りするとは思わなかった展開に、真っ白な絹の足袋の前で源次郎はさらに姿勢を低くする。茶々の服に焚きしめられた菊花香が外の風に乗ってふわりと香った。茶々の幼名『菊子』にちなんだ香りを好んでいるのだろうか。
 「そなたが真田源次郎信繁どのですのね。上田では徳川に一泡吹かせた勇猛な将というお噂は、この安土にも届いておりますわよ」
 頭上で、ぱさりと扇を開く音がした。茶々は優雅な裾さばきで上座に就く。
 「恐れ入ります……」
 「同年代の侍が徳川の大軍相手に奮戦したと聞いて、わたくしは感心していたのです。どうか、これからも関白殿下のよきお力となりますよう」
 はい、と茶々が盆に文を載せた。乳母がその盆を源次郎の前まで運ぶ。
 「たしかに承りました」
 畳に額を押し付けてばかりの源次郎を見て、茶々はクスッと笑った。
 「源次郎、面を上げなさい。ちゃんとお顔を知っておかなければ、これからも殿下へのお使いをお願いする時に困りますもの」
 「真田どの、面をお上げくださいまし」
 茶々の後ろに控えた乳母に促され、源次郎はそろそろと顔を上げた。瞬間、息をのむ。
 儚くなどない、むしろ生きる力に溢れた人だ。
 茶々の母親であるお市の方は戦国一の美女としてその名を広く知られていたという。真田家の者がお市の方に目通りしたことはなかったが、長女の茶々がお市の方に生き写しの美姫であるという噂だけは上田にも届いていた。まさに噂にたがわぬ美女である。小さな卵型を描いた顔の輪郭の上にすらりとした鼻、天上を巡る三日月のように整えられた眉。
 しかし茶々の美しさは、そういった見目だけから発せられているものではない。
 強い意志がみなぎる迫力がこめられた大きな瞳。そして細身でありながら源次郎よりも空に近い背丈。
 源次郎の母や越後で知り合った直江兼続の妻・お船の方が夫の三歩後ろを控えめに歩くような気質だとするのなら、茶々は男衆の先頭を切って歩くような気の強さが感じられた。日の本にもかつて女性の帝が存在したというが、茶々がもし日の本の頂点に立ったとしたら何か大きな事業でも成し遂げてしまいそうな聡明さと、いくばくかの気の強さも見て取れる。内に秘めた力が強すぎて、隠そうとしてもその細い身体に余った生命力が周囲に溢れているのだ。
 正直、ひとりの『将』としていくつかの戦いを渡り歩いて来た源次郎でさえ茶々の生気には圧倒されてしまいそうである。弁も立ちそうだったので、議論でもした日には間違いなく論破されてしまうだろう。
 自分も姫として育っていたらこのように美しくなれるだろうか。花鳥風月を織り込んだ鮮やかな着物の色や高価な帯の錦に負けていない、むしろ華やかさを自らの彩として取り込んでしまうような華やかな、しかし気位の高さと強い意志が芯となってその姿を支えている姫に、源次郎はつかのま見とれてしまった。
 茶々は茶々で、源次郎をしげしげと眺めてふふ、と笑う。
 「まあ。勇敢な侍と聞いておりましたから、どのような猛者かと思うていたのですが……かような細い身体で戦場を駆けておられたとは感心いたしますわ」
 「恐れ入ります。鍛えの足りない未熟者ゆえ、関白殿下のお役に立つためにはさらなる鍛錬をしなければと肝に銘じているところでございます」
 「ほほほ。どうぞ無理をなさらずにね。身体を壊しては何にもなりませぬ……そうそう、伯母上からいただいた南蛮菓子がございますの。お使いのお礼に一服さしあげましょう。これ、真田どのを茶室に案内なさい」
 「お茶々さま、私のような端下者にそこまでしていただくのは勿体のうございます」
 さすがにそれは分不相応だと源次郎は固辞し、乳母も目で止めようとした。しかし茶々はお構いなしである。
 「構いませぬ。真田どのは越後の上杉どのや武田信玄公にも教えを受けて来られた稀有な方だとか。武勇伝など拝聴してみたくなりました……それに」
 茶々は乳母をはじめとした周囲の女中や家来衆に聞こえるよう、あたりを見回して宣言した。
 「関白殿下に、内密で伝えていただきたい事がありますの。その言伝役をお願いしたいのですわ」
 秀吉の名を出されては、周囲も源次郎も茶々の言葉に従うしかなかった。


 「さて、真田どの」
 「は」
 いったん縁側に下りて、小世界を模した庭園を歩いた先にある離れの茶室。茶の支度を終えた侍女を下がらせ、あたりに人の気配がないことを確かめてからふいに茶々が切り出した。秀吉への伝言と聞いていた源次郎は居住まいを正す。
 しかし、茶々はまったく違う目的をその胸に秘めていた。
 「ここからは、互いに手の内を明らかにしてまいりましょう」
 「?」
 「真田どの……いえ、もう源次郎でよいですわね。はっきり言いますが、あなた女子なのでしょう?」
 「!?」
 「お城に入られる際、馬上のあなたを女中部屋から垣間見ておりましたの。馬から降りる時に胸元や裾、髪をことさら気にしている仕草ですぐに気づきましたわ。そして先ほどの転寝姿を見かけて確信しました」
 「……」
 否定か肯定かを迷う以前に、突拍子もない茶々の行動に困惑したというのが率直なところだった。来訪者の風貌や振る舞いを事前に探るのは、特に新参者を迎える大名ならば珍しくないことだが、深窓の姫君がそれを実行していたというのか。その行動力に源次郎はまず舌を巻く思いだった。
 しかし茶々は肚を据えているのか、源次郎の困惑にも動じない。
 「いくつもの袷(かさね)や肩衣に身を固めていても、女性の香りというものは隠せないものです。戦場に流れる血や煙の臭いで鼻が麻痺してしまった男たちはどうか知りませんが、わたくしの眼は誤魔化せませんよ?」
 「あの……」
 「わたくしの権限で今すぐ人を呼んで身調べをすることもできますが、いかになさいます?」
 「そ、それは困ります!」
 「ふふっ。やっと認めたわね」
 「!!」
 やられた。初対面にして初めてやり込められた。
 女でありながら名だたる武将と渡り合って来たと自負していた源次郎は、目の前の茶々に鼻柱をへし折られた思いだった。このような女性がこの世に存在しているとは。人の上手を行く技量に性別も年齢も、まして腕力も関係ないのだ。
 「恐れ入りましてございます……」
 いささかの悔しさを無理やり追いやって、源次郎は頭を下げた。出生から十九年にわたって守り抜いてきた秘密をいとも簡単に見破られてしまった動揺は隠しきれない。秀吉にも近しい姫君に、どう申し開きをするのが最善なのか。
 「恐れながら、これには事情がございまして……」
 しかし、そんな源次郎の申し開きは茶々にとっては不要なものであった。
 「言い訳は結構よ。べつにあなたをどうこうしようと言う訳じゃないし、真田家の事情を察すればあなたがそのような振る舞いを続ける理由も想像がつきます」
 「……」
 「勝手に詮索してしまったわたくしにも非がありますゆえ、勿論このことを不用意に口外するつもりもありませんわ。……実は、わたくしはかねてより腹を割って接することのできる味方が欲しいと思い、京や大坂からお城を訪れる者を事前に調べ、ひそかに人となりを見定めていたのです。そこへあなたが現れた。実直さで殿下に気に入られた武士であり、それでもおなごの身で殿下を欺いているあなたが。これを好都合と言わずして何と言いましょう」
 「都合、でございますか」
 口外されない代わりに何やら大変なことに巻き込まれそうな予感が走ったが、もう遅い。源次郎はすっかり茶々の勢いに巻かれてしまっていた。
 しかし茶々はただ相手を巻き込むだけでなく、あくまで相手に納得してもらった上で協力を仰ぐ…どこまでも公平でありたいと考える性分のようで、声をひそめて正直に打ち明けた。
 「腹を割った以上、もうあなたはわたくしの味方ですわ。だから言いますわね。……わたくしには野望がありますの。わたくしなりのやり方で、この世の頂に立つのですわ」
 「この世の……では上洛を?」
 「まさか」
 ばかばかしい、遠慮なく茶々は言い切って笑った。
 「わたくしは、伯父・信長や関白の思惑のもとで切り捨てられた両親の弔い合戦をしたいだけ。でもただ単に戦をして仇を討っただけでは彼らと同じ。もっと違う形で戦うのです」
 「それはまさか」
 「ええ。おなごにしかできぬ方法がありましょう?」
 「……お子をなす……」
 茶々は黙って頷いた。
 時の権力者に嫁して子をなし、子を世に君臨させることで自ら権力を得た女としては『尼将軍』として知られる北条政子が有名である。源頼朝の正室として二人の子を相次いで将軍の座に就かせ、二人がそれぞれ謀殺されてもなお摂関家である藤原氏から迎えた幼子を将軍に据え、自分はその後見として生涯にわたって権限を握り続けた女丈夫である。幕府と朝廷との対立が激化していた時代に両者を巧みに取り込むことで、夫が開いた幕府を盛り立てながら、それでも事実上は北条家が取り仕切る幕府として権力をすり替えていった手腕は鮮やかの一言であった。
 その先例に倣うなら、まずはその時代にもっとも影響力のある者の子を自ら産みおとし、世代の移り変わりの機を逃さず権力者の座へ押し上げるのが最も有効かつ確実である。その間には、もちろん夫の寵愛をめぐる嫉妬や嫡子争いの思惑が絡んだ女同士の権力闘争や家臣達の派閥争いにも勝ち続けなければならない。
 将来の青写真を描いた時、考えられる限りで茶々の願いにもっとも近いのは。
 今ここで具体的な名を挙げることは躊躇われたが、果たして茶々には源次郎が想像しただけのことを為す覚悟があるのだろうか。源次郎の視線で言いたいことを悟った茶々は、初めて不安と覚悟が織り混ざった顔を見せて軽く息を吐いた。
 「既に殿下からのお文でそれとなく打診をいただいています。わたくしは、遠からず居を移すことになりましょう。大坂か京か、どちらにせよ今よりもっと多様な人の思惑やさまざまな感情が入り乱れた世界へ。その中で生きながら野望を達成するために、まずは誰が味方で誰が敵か、そして味方を一人でも多く作っておきたいのです。泥の河のような混沌の世に身を置いたことがわたくしの定めであるならば、わたくしは何としてもその河を渡りきってみせますわ。生きて生きて、生き抜くのです」
 それは自らに言い聞かせるようにも聞こえた。運命を大きく変えることができないのなら、その中で最も自分が納得のいく方法を探すために足掻こう。利用されるだけの人生を嘆く前に、選択肢をできるだけ広げて形勢をひっくり返せる可能性を探そうと。
 「それで、ですわね」
 源次郎が茶々の心中を慮っているうちに、茶々は表情を切り替えた。すでに覚悟を決めている分、さばさばとしたものである。
 「この話を聞いた時点で、あなたはもう、わたくしの仲間ですわよ。逃げることは許しません」
 「えっ?」
 「申したでしょう、侍として振る舞うおなごが現れた事はわたくしにとって好都合だと」
 「はあ……」
 考える時間を与えられる前に仲間だと宣言され、源次郎はもはや逃げ場を失ったと確信した。何しろ、重大な秘密を握られてしまったのだから。
 それでも何とか予防線は張っておこうと源次郎は言葉を返した。
 「私はまだ大坂では何の権限も持たぬ新参者の身。どれだけお役に立てますやら」
 「それなら心配は無用よ。殿下がわたくしを気にかけてくださっているのを逆手に取って、細やかな使いなどはあなたに頼むよう計らいます」
 「しかし、あまりにも身の程を超えてそれがしがお茶々さまと近しくなれば、無用の噂も立ちましょう。何より殿下のお心を利用するのは武士として気が咎めます」
 「平気よ。わたくしもそろそろ関白殿下一筋だと主張してまいる時期ですし、それに」
 茶々はまだ打つ手を持っているようだった。
 「実は、わたくしにはもう一人、親友がおりますの」
 「ご親友、ですか」
「幼い頃から病弱で屋敷にこもりがちの姫ですが、彼女もまたわたくしの大切な味方なのです。いずれお引き合わせいたしますわね。彼女と三人で力を合わせれば、きっと計画が実行できますわ」
「計画……」
「普段はか弱きおなごの身と捨て置き、都合の良い時にのみ駒のようにわたくしどもを動かす男たちに抗うのです。源次郎、頼みますわよ」
 『力を合わせる』ではなく『抗う』としたところに、茶々の恨み節が見えた気がした。しかし茶々ならば恨みを針のように鋭い力に変えて、分厚い時代の壁に風穴を開けることができるのではと思えてしまう。
 茶々が戦う相手は今の世代を造った『男たち』ではなく彼らをも自在に動かす『時代』であることを茶々はすでに見据えているのだ。本当に、茶々が男子として生まれていたのなら、信長の後継として秀吉を脅かす存在となっていたかもしれない。
 そうならなくて良かった、彼女と戦うことにならず良かったと、源次郎は思った。
 とはいえ、戦わないなら戦わないで茶々の野望は大問題である。表向きは穏便に事を運びながら、裏でどれだけ熾烈な争いが起こるのだろう。戦も起こるやもしれない。聞かなかった事にしたいが、それはもはや出来ない。茶々は自分を信じて打ち明けてくれたのだから。
 「信じていただけた、か……」
 『信』には『義』で応えるべき、と源次郎は教わった。そして『友』には『情』を持つべきだとも。信義はこれまでの経験で身に着けたつもりだったが、友情というものは学ぶ機会がなかったと振り返る。武田信勝は明らかに主君だったし、直江兼続は大先輩で上役、矢沢三十郎か猿飛佐助が友人に最も近いがあちら側が「自分はあくまで家来だ」と言い張り、それぞれけじめをつけて接して来た。当たり障りのない範囲で本音を言い合うことはあったが、肚を割って話し合った者は皆無だった。
 そう考えると、茶々は初めて自分の素性を知った上で腹を割って接してくれた初めての存在となる。友と呼ぶのはおこがましいが、源次郎は困惑しながらもわずかな安らぎを感じたことは否定できない。
 自分の身の振りもまだ霧の中、まして茶々の遠大な計画を思うと気が遠くなりそうだが、それでも茶々の人生をかけた挑戦が実を結んでほしい、応援したいという思いもまた心の隅に芽生えている。
 初対面の相手にいとも容易く友情を覚えてしまうなど、父に聞かれたら脇が甘いと一喝されそうだけれども。
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