第30話 したたかに

文字数 23,869文字

- 大坂城 -

 「ふう。だいぶ慣れたが、やはり長い時間この姿でいるのは堪えるものだ」
 公務を終えて私室に戻った豊臣秀頼は、ゆったりとした着物の腹から綿の塊を取り出し、口に含んでいた綿も取り出す。
 短期間で異様に恰幅が良くなったのは何かの病ではないかと噂されていた秀頼は、身体に隠していたものすべてを外した瞬間に以前のような細身で精悍な青年に戻った。
 「本日も、秀頼さまは何か重篤な病なのではないかと淀君さまが心配しておられましたが……」
 着替えを手伝っていた腹心の木下秀規は、慣れた手つきで綿を文箱に隠して体を拭く布を差し出す。侍女が運んできた白湯は廊下に置いておくよう襖ごしに命じた。
 「放っておけ。母上は思っている事がすぐ顔に出てしまうゆえ、ここは少々困っていただこう」
 家康が自分を心身ともに動けなくして、あわよくば早死に、あるいは豊臣も怠惰に成り下がったものよと吹聴して西の大名からの求心力を下げようと目論んでいる以上、こちらがそれを見破ったと悟られるのは得策ではない。秀頼は館から出る時や秀規以外の者に会う際は常に服の中に綿を仕込み、頬にも綿を含んでまんまと家康の策に嵌ったふりをしているのだった。
 皮肉な事ではあるが、庶子騒動以降は千とほとんど顔を合わせていない事も此度の策には幸の方向へ動いている。明らかに運動量が減り膳の量が増えたことは伝わっているようであったから、今では淀も千も秀頼が怠惰な生活でみるみるうちに肥え太ったと信じているのだ。おかげで千はますます秀頼に寄り付かなくなったが、徳川家康の眼を欺くために今は堪えなければならない。
 「日が暮れたら城下の道場へ行く。秀規、いつものように影となっておいてくれ」
 「御意」
 家康に反抗した時点で、秀頼はもしかしたら徳川と一戦交えるかもしれないことを意識し始めていた。何がきっかけになるかは分からないが、関ヶ原で石田三成を挙兵させるに至った家康がこのまま豊臣家を見逃すとは到底思えない。
 加えて。秀頼自身も、このまま徳川の専横を良しと思わない。家康はすでに高齢だが、二代目将軍の秀忠やその一族、関ヶ原にて西軍を裏切った諸大名らとはいずれ白黒つけなければならないだろう。
 総大将となる自分は、戦になった際には自らも馬を駆って斬り込む存在であらなければならない。守られ逃げ回るだけの大将には誰もついて来ないだろうから。
 主が部屋着に着替えたところで、秀規は淀から言い遣っていた伝言を秀頼に届けた。
 「秀頼さま。淀さまが方広寺の大仏開眼供養の件で明日伺いたいと仰っておりました」
 「おお、方広寺か」
 秀頼の顔が嬉しそうに綻ぶ。
 「いよいよここまで来たか……長い道のりであった」
 「太閤殿下の悲願が、いよいよ叶うのでございますね」
 「ああ。父上の時代はどういう訳か地揺れや噴火続きであったからな。松永久秀の不敬を払拭し、御仏の加護を今一度日の本へ行き渡らせる時がようやく訪れた……もっとも、これで母上のお小言が一つ減る事の方が私には有難いが」
 「そのような……淀君さまも、天下の泰平と秀頼さまのご威光を高めるために激務と並行なさりながら大仏建造に取り組んでいらしたのですよ」
 「わかっているよ。此度の大仏が、かの盧舎那仏のように民が篤く信仰してくれるものとなれば私としても何よりだ。御仏が信心にお応えくださり、天変地異が治まるのならば申し分ない」
 秀頼が言う盧舎那仏は、東大寺の本尊として聖武天皇が当時の技術を惜しみなく用いて築いた大仏の事である。開眼から四百年ほど経った頃に平家の動乱により、その後源氏によって再建されてからも四百年後に起こった永禄の変にて時の将軍・足利義輝を暗殺した松永久秀がその手についた血を拭う間もなく三好三人衆と騒乱を繰り広げた結果倒壊の憂き目に遭っていた。
 仏が見守るべき人によって二度の災難に遭わされた結果、日の本は戦国乱世とともに地揺れや火山の噴火といった災害にも悩まされた混乱の時代に陥ったのだ。
 戦乱を生き延びてようやく天下泰平を手にした秀吉も、自らが新しく普請した城が二度も地揺れで倒壊している。一生で二度も住まいが全壊する目に遭ったのだから、これは盧舎那仏の怒りに違いないと思うのも無理はない。怯える民を信仰にて落ち着けるためにも、秀吉は大陸出兵と並行して大仏の再建に取り組んだ。そのための資材には、全国の農民から刀狩りにて召し上げた鉄を使用した。そちらは石田三成の提案である。
 しかし、人の血を吸った刀で仏像の慈悲にすがるという矛盾か、鋳造の鉄が足りなくなっても調達よりも早期完成を焦るあまり表面を漆喰で細工した手抜き工事が仏の怒りを買ったのかどうかは知れないが、その悲願が秀吉の存命中に叶うことはなかった。鋳造中にふたたび地揺れが起こり大仏は倒壊、大仏工事はそこで頓挫してしまった。
 京や大坂に天災が続くのは仏の加護がないからだと考えた秀吉は甲斐善光寺の本尊を京都へ移座してまで畿内の加護を願ったのだが、秀吉はその直後に病に伏した。人々は口々に善光寺如来の祟りだと噂し、さすがの秀吉も怖れをなして如来像は結局信濃の善光寺に戻したのだが、結局秀吉はそのまま世を去った。
 縋った仏にことごとく足蹴にされるような末路により、人身掌握に長けた秀吉をもってしても仏の心を掴むことは出来なかったと人々に笑われ続けることは大坂城の威信に関わる。
 淀はそんな秀吉の汚点を払拭するべく、秀吉の死の翌年には秀頼の名のもとに大仏の鋳造を宣言した。太閤の悲願を受け継ぐことで後継ここにありと名乗りを上げると同時に、秀頼が元服する時期に合わせて仏像を完成させてみせることで秀頼は太閤を超える天下人の器であると世に対する宣伝効果を狙ったのだ。
 その大仏が、いよいよ完成にまでこぎつける。
 所在は秀吉の墓所がある豊国神社と同じ敷地にある。つまり神格を得た秀吉と仏は同列であるとの意図だ。人を神格化させ崇拝の対象にする考え方は、のちに徳川家康も『東照大権現』という名をもって採り入れている。
 そしてこの地は平安末期、後白川法皇が平清盛の出資をもとに築いた蓮華王院と清盛亡き直後に平家を破って鎌倉に幕府を構えた源頼朝の子・頼家が建立した建仁寺のちょうど中間、朝廷からは三者の建造物が肩を並べているように見える位置に陣取っている。大仏建立と張り合うように京都の御所よりも東、つまり日出処になるよう意識したのは秀吉の意向が強い。
 が、それらの城や大仏建造を淀に進言したのは、当時はまだ秀頼の後見人の一人であった徳川家康であったのだ。
 「豊臣家の威光」という名目で寺の建設や大仏鋳造を勧めたのだが、実際は秀吉が蓄えた莫大な財を浪費させることが狙いだったのは、豊臣の人間以外の誰もが疑わないところであった。
 が、淀とてそのくらいは重々承知である。関ヶ原の戦いが起こる前に、各国の大名たちから寄進をしっかりと集めて財源を確保していたのだ。こちらも石田三成の進言が基になっていた。


 ともあれ、工事は順調に進み。
 方広寺には、大仏の他に特注の梵鐘も設置されることになっていた。祈祷の念をこめて鐘には御仏の加護を願う銘文が刻まれる手筈となっている。
 その鐘銘は、臨済宗東福寺派大本山である京都東福寺の僧・清韓文英が撰することとなった。平安の頃より朝廷や幕府と密接な関係を築いてきた寺の長老(住職位)として修行を積んだ僧である。

 「清韓どの。鐘銘はお決まりですかな」
 東福寺の経堂。山積みにされた古書に埋もれるようにして紙と向き合い、さらさらと草稿をしたためては筆を止めてを繰り返す清韓のもとへ、珍しい来客があった。
 同じ臨済宗の僧、以心崇伝である。
 普段は徳川家の講釈役として二条城に住まう崇伝は野心家で、家康が出陣した戦のほとんどにも記録役や調略、使い役として常に側に仕えていた。そのため戦流れにも精通し、今では家康および二代目将軍秀忠の参謀としての権勢まで得つつあるという。
 「崇伝どのでござるか。いやはや、この齢になって回ってきた大役、なかなか難儀しておりますれば」
 「ほう。何でしたら、拙僧も文献のひとつなり指南して差し上げましょうか」
 「それはご辞退いたしまする」
 崇伝が書面を垣間見ようとしたのを察して、清韓はさりげなく半紙を伏せた。
 清韓は崇伝が苦手であった。仏に仕える身なれば如何なる者にも嫌悪の情を抱くことは禁忌と心得てはいたが、それでも菩薩でなく人である以上虫が好かないものは仕方ない。嫌われている事を知っていてもなお平然と来訪する崇伝の図太さに対する嫌悪によるところも大きかった。
 その態度が伝わったのか、崇伝は扇を広げて坊主頭を仰ぎ、そして庭へと視線を移した。
 「時に、清韓どのがかつて仕えていた肥後の加藤さまのお家も、清正公亡き後いささか不安定になっておるようで。当主となられた忠広どのはまだ御年十三歳。外様である加藤家は幕府の信も篤いとはいえず……まこと不憫でございますなあ」
 「拙僧が清正公に従っていたのは関ヶ原の前まで。大陸での戦の凄惨さに嫌気が差し、死んだ武士たちの菩提を弔うために私は刀を置いて仏門へ入ったのでございます。加藤家のことを始め、俗世がどうであろうと私には関係のない事」
 「おやおや。清正公に憧れて仕官し、大陸にまで渡った武士ならではの悟りでございますかな」
 崇伝が言うとおり、清韓は加藤清正に仕えた武士であった。何者をも怖れず先頭に立って斬り込んでいく主君は若かりし頃の清韓にとっては憧れであり武士の鑑、勇者であったのだ。
 「……昔の話でございます。拙僧は中央での権力争いとは距離を置きたく存じますゆえ」
 「清正公も徳川家と豊臣家との間を渡り歩いた御仁でしたからなあ。家康公の義に従ったかと思えば豊臣家に舞い戻る、そのお振る舞いにはついて行けずとも致し方ありますまい」
 「今は亡き御方に無礼な事を申すとは、御仏に仕える者として感心いたしませぬな。すべてが誤解ゆえであった事、そして清正公も己の信ずるところを貫いたことは御仏もきちんと見届けておられましょう。我らがどうこう申し上げる筋合いはないのでは?」
 「なるほど。清韓どのが豊臣家からのご依頼をお受けになったのは、豊臣家における清正公の信頼を少しでも回復させたいとの願いもおありのようですな」
 「それは関係のないこと。鐘銘の件は清正公が豊臣家の者であった縁とはいえ、拙僧個人が豊臣家からご依頼をいただいた由にございます。戦乱の世で命を落とした者、道を見失った者、あるいは政争によって抹殺された者、彼らに共通していた『天下泰平』の願いを銘として後世に遺すのは拙僧にとってまさに仏の導き、己の生涯をかけた仕事と確信しておりますれば」
 「……やれやれ、心意気は今も武士でございますなあ」
 かつての主の名を出しても清韓は揺さぶれないと判断したのか、崇伝は曖昧に笑ってその話をおしまいにすると話を切り替えた。
 「実は、清韓どのが清正公に忠義を抱いておられるように、拙僧は大御所さまの面目を案じておるのですよ。此度の寺社建設には大御所さまも多額の出資をしておりますゆえ、大御所さまも大仏開眼供養と鐘銘については並々ならぬ思い入れがあり申す。拙僧も天下泰平のための支出や労力を惜しまない大御所さまの信心を存じ上げておればこそ、鐘銘は大御所さまが望むような文言であってほしいと願う次第」
 「つまり、崇伝どのはご自分で梵鐘の鐘銘を撰したいと?」
 「撰者はあくまで清韓どのですよ。ただ、大御所さまのご意向をほんの少しだけ汲んでいただければそれで良いのです。……ああ、申し上げるまでもありませんが、豊臣家にはご内密に。めでたい場に無用な摩擦はあってはなりませぬからな」
 そういう事か、と清韓は得心した。世紀の事業ともなりえる仏像建立、そして寺社設立。豊臣家が主体の事業とはいえ徳川も金子の援助をしている以上、何かしらの形で意見を通さなければ気が済まないのであろう。おそらく、この先に待ち受ける開眼供養においても口出ししてくるに違いない。
 かといって、ここで事を荒立てるのは清韓とて望まなかった。
 「一部でしたら承知いたしましょう。これは拙僧が依頼された仕事なれば、成し遂げるのは己自身の修行でもあると心得ております」
 「おお、それで結構。清韓どのが撰した文言の一部に、この『くだり』を入れてくださればよいのです」
 希望する回答を引き出せた崇伝は、すでに墨が乾いて何日も経った半紙を懐から出した。その周到さ、回りくどさこそ清韓が崇伝を快く思わない所以なのだが、ぐっと堪えて「拝見いたします」と受け取る。
 「……わかりました。これら文言を織り込んで撰しましょう。それでよろしゅうございますな?」
 強く推してきたにもかかわらず、文言そのものはごくありふれたものであった。このような文を織り込むことで崇伝が黙るのならば仕方ない。
 意を通した崇伝が忍ぶように裏口から出て行くと清韓は半紙を草稿の山に押し込め、ありふれた文言よりももっと大事な本文の部分を練り込むべくふたたび書物の読解と思索の世界へ心を埋めていった。

- 江戸 -

 「福。大坂の姉上は健勝であらせられるかのう」
 慶長十九年。
 十歳を過ぎ、この頃ようやく落ち着いて上の間に座っていられるようになった秀忠の嫡男・竹千代は、春日局こと福にぽつりと訊ねた。
 「時折、御台所さまの許へお文が届くそうでございます。あちらのお家にも良くしていただき、すこぶるご健勝であらせられると伺っておりますわ」
 「そうか……」
 福は竹千代の反応を伺うよう真正面に正座して応えた。竹千代は文机に肘をつき、福の視線を感じてすぐ居住まいを正す。
 幼少時こそ江が先行きを案じるような不安定な童であった竹千代は、全国から集められた高名な講師陣や養育係の全力を挙げた教育の甲斐あって、十歳を迎える頃にはまだ多少物事にこだわりが見られるものの学問は及第点、一見すると他の子供らと変わりない振る舞いを身に着けていた。
 不足している所は福が言葉巧みに覆い隠し、家老たちから上がってくる懸案事項に対しては『善きに計らえ』と答える術を教えている。
 不得手な判断を迫られた場面でその言葉を将軍の嫡子が発すれば、忠義に篤い家臣はそれを『丸投げされた』ではなく『自らに一任された』と解釈して意欲を燃やし誠実に役目を果たすのだ。家臣にとって、上から裁量を与えられる事が何よりも喜びや励みになり忠義に結びつくことを知っている福ならではの判断であった。
 同時に、福は大奥の女中達を使って竹千代の健やかな成長ぶりを宣伝することも忘れない。竹千代が才知に長け、信心深く、思いやりのある、非の打ちどころのない若者だと家老や女中らの国元の諸大名家、江戸の民にまでまんべんなく宣伝し崇拝させたのだ。
 「竹千代様は、まこと徳川家のご嫡男に相応しい健やかなお方でございます」との一言を添えて。
 そうすれば三代目将軍をめぐる城内の流れ、人望は自然と竹千代に傾いていく。
 さらに福は、竹千代の発育にまつわる現実から逃れて弟の国千代を溺愛している江に対しても将軍の母たる心構えの講釈を受けるよう勧めた。各地から高名な尼僧を呼び寄せ、仏の世界観に始まり人の欲の在り様、それらをどう受け止め対応していくか、そして最も大切な『母性』についての講義を催す。
 なかば洗脳じみた講釈の結果、子を一人前の大人に育てるのは母の愛、将を育てるのは教育、武士を育てるのは鍛錬であるという結論に至った江は城下に手習い所を設けさせ、江戸に詰めている大名の子息…将来竹千代を支える者となる候補生を集めて学問や武芸、政など多方面にわたる教育を受けさせた。この制度はのちに『藩校』として全国に広まるのだが、国力に関係なく高度な教育の機会を得た彼らの中で江の株は大きく上がり、城内における江の信頼を確かなものとすることとなった。母子揃っての地盤固めである。
 そうした熱心な教育が功を奏したのか、竹千代は拙いながらも自らの頭で政治を考えることを覚え始めていた。江はまだ竹千代と会うことを怖がっていたが、だからこそ全てが福の思い描いたとおりに進んだのだ。福にとっては、今後の自分の立場を盤石にするための正念場である。
 竹千代が疑問を口にしたのは、十年にわたる福の情熱が実を結ぼうとしていた矢先であった。
 「なあ福、余がこのまま将軍になっても良いのだろうか」
 「いかにして、そのように思われるのです?」
 「国を均したのは豊臣家じゃ。祖父上も父上も豊臣家が嫌いなようだが、余は姉上によくしてくれる家と仲良うできないものかと考えているのだ」
 「……」
 福は竹千代の前で顔色を変えないよう、口許に力をこめた。竹千代はまだ日の本の権力関係や徳川と豊臣の力関係を事細かに把握していない。
 「それは、家老のどなたかのお言葉でしょうか?」
 「忠輝じゃ」
 「何と、忠輝どのが」
 忠輝こと松平忠輝は秀忠の異母弟であり、妻は伊達政宗の娘・五郎八姫である。
 生母の身分が低かったため五千石の外様大名に預けられ、七歳で三河国松平氏の家督を継ぐまで家康への謁見すら叶わない身であった。
 江戸の体制が固まったことでようやく徳川家の親藩として日の目を見たのだが、元服してからは陸奥国伊達家との縁戚をはじめ武蔵国深谷や下総国佐倉、信濃国川中島へと短期間で転々とさせられた挙句、現在は上杉景勝が去った越後国頸城に建造された福島城の主である。手駒といえばまだ聞こえが良いが、実際はどこまでも徳川家に疎まれていたのだ。
 それは将軍の座をめぐる争いと無縁ではないだろう。兄二人が権力闘争の狭間に沈んだため秀忠に嫡男の座が転がり込んできたものの、関ヶ原への遅参を始め、活躍ぶりや徳川への貢献という点で秀忠は今ひとつ決め手に欠けていた。比べて忠輝は外様大名に養育されていた頃から文武の才を見せていたのだ。やや気性の荒い部分はあったが知恵は回り人望も篤い。
 ゆえに家康本人よりも、むしろ二代目将軍をめぐる競争相手であった秀忠の方が必死になって彼の悪評を広め遠ざけていた節もある。
 その忠輝とて、まだ将軍への道が閉ざされた訳ではないのだ。今もしも秀忠の身に何かが起これば、竹千代が元服するまでの間の後見役をめぐって徳川家の男子たちが争いを繰り広げるだろう。その中でも、伊達政宗という後ろ盾がある忠輝は優位に立てる。
 あるいは、家康すら用心してかかっている伊達が忠輝を介して秀忠の失脚でも目論んでいようものなら。
 「……」
 福は背後に控えて両手を突いていた年若い女中達を視線で退がらせ、人払いをした。その上で膝を一歩進める。
 「竹千代様。胸につかえている事がおありなのでしたら、どうぞこの福にお話しくださいませ」
 「このような文が届けられたのじゃ」
 「……何と」
 竹千代がばさりと文を投げた瞬間、そしてその文面をさらりと読んだ時。福の奥歯が二度きりりと鳴った。
 大奥へ届く文は、すべて自分が検閲している。その目を盗んで竹千代に直接文が届けられたという事は、おそらく忠輝の義父・伊達政宗が家老の誰かに賄賂を掴ませて届けさせたのだろう。だが証拠がない。
 文には、たしかに忠輝の花押。そしてその内容は、忠輝の暮らす越後にも豊臣秀頼の人柄が伝わって来ており、その評価は徳川家の者である自分も一目置かざるを得ないものであること、そして秀頼は今後の徳川家と豊臣家との関係が良いものであることを望んでいることなどが綴られていた。
 「忠輝が言うには、豊臣秀頼公は余と良き友になれそうなのじゃ。祖父上も二条城と大坂城を行き来しておるし、大坂城には姉上もいる。機嫌伺いがてら会談してみてはどうかと申すのじゃ。余も友垣というものには興味がある。いちど会うてみたくなった」
 (忠輝め、余計な真似を)
 豊臣秀頼の評判については、竹千代以上に福の方がよく聞き及んでいた。
 『民百姓の心を慮る事こそ国主の務めであり、民を敬い愛する者は民からも敬い愛される』そういった己の哲学を記した書物を敢えて城下向けに刊行したが、これがあっという間に人々の共感を呼び、大坂の民は『秀頼公こそ天下をまとめるに相応しい方だ』と絶賛しているという。のみならず、評判を聞きつけた西の大名達はこぞってこの書を国主の心構えとして愛読、藩士への教材としているという。さすがに美濃から東の国は徳川家の目を憚っているようだが、京に近い越後には伝わったのだろう。
 武をもって国を統べる家康に対し、信心をもって人々に溶け込もうとする秀頼。長い戦の歴史に疲れていた民や大名の心がどちらに傾くかは明白である。
 家康はすでに秀頼に対して危機感を抱き、取り潰すための策を講じているらしい。しかし、ここで竹千代と秀頼が意気投合でもしようものならその目論見は崩れ去る。ましてその提案が忠輝の発案であったとなれば竹千代の信頼が忠輝に傾くのは必至、さすれば竹千代の三代目将軍就任も危うくなってくるだろう。
 竹千代の心がまだ定まらぬうちに釘を差しておかなければ。
 「なりませぬ。これは忠輝さまからの竹千代さまに対する意地悪でございますわ」
 「意地悪?」
 「ええ。将軍は日の本にたった一人です。その将軍になられるお方を、上洛ならまだしも今では臣下となった豊臣の元へ向かわせるなど侮られたもの、まったくもって馬鹿にしたお話でございますわ」
 「馬鹿?余は馬鹿ではないぞ!」
 竹千代が気にしている言葉を敢えて使い反発させるのも、福の計算である。
 「よろしいですか。古今より用向きがある際は目上の者が目下の者を呼びつけるのが筋というもの。謁見なさりたいと申されるのでしたら、竹千代さまが大坂へ向かうのではなくあちらを竹千代さまの御許へ呼びつけるべきです」
 「うん」
 「ですが、豊臣秀頼どのもかの秀吉公と同じく人を呼びつけるのがお好きな人柄であると福は聞いております。かの後陽明天皇は物見遊山気分で秀吉公の屋敷に行幸なさった結果、御簾から出て農民出身の秀吉公の元に自ら出向いた天皇として大きな恥をさらしているのですよ。かの帝の歴史を繰り返すように大坂へ出向けなどという忠輝の言葉は鬼の所業でございます」
 「そう、なのか?」
 「ええ」
 福が大きく頷くことで、竹千代は自分自身を納得させるように小さく頷いた。
 「福が言うのならそうなのだろうな……。そうか、忠輝は鬼か」
 「そうでございますとも。この福が、竹千代さまにつらい仕打ちをなさる鬼を成敗いたしましょう。ですからご安心なさいまし。……そうですわ、大御所さまと千姫さまにお手紙でも書いてさしあげてはいかがでしょう。竹千代さまの筆の上達ぶりを見ていただくのです。きっとお喜びになりますわ」
 「叔父上のことも書いてよいのか?」
 「それはなりませぬ。言葉は人の心を映す鏡のようなもの、あだやおろそかに他人の悪口を挙げ連ねた文を見て良い気分になる方がどこにおりましょう。そのようなお文を送れば、大御所さまも千姫さまもさぞご心配なさるでしょう。お文には良いことだけを書き、厭なお気持ちはこの福にだけお話くださいまし」
 「……福がそう言うのなら」
 過去から現在まで、文を証拠に取られて身を滅ぼした武士は数を挙げればきりがない。まだ正式に将軍の座が定まっていない以上、迂闊な証拠を残して対抗勢力、ましてや豊臣家に喰らいつかれては元も子もないのだ。
 「さあ、もっと良いことをたくさんお文にしたためましょう。福がみてさしあげますれば」
 「そうであるな……そうだ、江戸では躑躅が綺麗に咲いておるゆえ、その様子を絵に描いてみようぞ」

 汚名を着た主君に愚かともいえるくらいの誠実さで仕え続けた結果、日陰者として一生を送る羽目になった父や夫に足りなかったもの。それは智慧だと福は考えていた。武芸の稽古や手習いで得る知識ではなく、世の流れを読み取って上手に立ち回り、足を引きそうな者は早いうちに蹴落とす智慧である。
 福は、自らの分とは相反する己の上昇志向の強さや自尊心の高さ、欲深さをよく解っていた。そしてそれらを改めようとも思っていない。過ぎた謙虚は人の可能性を封じるからである。
 自分が欲しいのは贅沢な暮らしではない、確固たる地位と後世にまで残るくらいの名声なのだ。
 父や夫の不甲斐なさゆえに落ちぶれた暮らしを余儀なくされた屈辱こそが福の原動力であった。大坂の淀と似ていると言われれば『一緒にするな』と激昂するくらいの激しい気性とともに。
 (この城は魍魎の住処なれば……わたくしは薙ぎ払ってでも上り詰めてみせますわ)
 徳川の…竹千代の敵は豊臣だけでない。竹千代の弟の国千代を推す者もまだ完全に消えた訳ではなく、身内にも油断ならない者はまだごまんと居る。力で敵わぬ者とどういった形で渡り合おうか。
 何としても竹千代を将軍の座へ押し上げ、自らの発言力を確固たるものにするのだ。福の前途は多難であったが、山が険しければ険しいほど意気が高揚するのもまた福の心根であった。


 『秀頼さまにおかれましては、大御所さまより御身お大事にとのご指示が下っておられることと存じます。差し出がましくも、何卒、秀頼さまの息災を願う大御所さまのお気持ちをお察しくださいませ』
 大坂城の千姫宛てに届いた竹千代からの文に添えられていた、江から淀への文。そこには春日局こと斉藤福の挨拶状も加えられていた。
 「お半下からのお文は不要ですわね」
 淀は福の書状だけ読まずに火鉢にくべる。
 仮名使いの筆さばき、本名ではなく『春日』という呼称を敢えて使う振る舞いはさながら公家の姫気取りで、己の分をわきまえない出しゃばりな性分はこの上なく腹立たしい。奥女中という立場もわきまえず江や竹千代と同じ文箱に文を忍ばせる行いは自分の影響力の強さを大坂にまで知らしめることで自己顕示欲を満足させているとしか思えなかった。
 まして相手は豊臣家を実質的に取り仕切る淀。
 この文は、淀に自らの存在を知ってもらえれば良いと…読まれる訳などないと承知で差し出したのだろう。
 あからさまな挑発に、淀は腹の底がむかむかとしてならなかった。が、それを表に出すことはしない。
 会ったこともない女、明らかに格下の者をここまで嫌悪するのは何故か。検証するまでもなく淀は感じ取っていた。
 春日局は、かつての淀なのだ。
 出自に恵まれていた淀は秀吉の後継を自ら産むことで大坂の実権を握ったが、負の場所から這い上がった福は自ら矢面に立つことをせず、物心もつかない赤子を手懐け、将軍の座に据えることで幕府の深層に喰らいつこうとしている。目的は同じだがやり方はやはり時代の変化を感じずにはいられなかった。表層から直接的にずばずばと斬りこんでいく手段から、時間をかけながら寄生してじわじわと内側から食いつぶしていく手管へと。
 太閤の死後、じわじわと外堀を埋めて天下を奪い取った家康のやり口を踏襲したいやらしい手法には虫唾が走った。しかし自分に思い当たる節がまったくない訳ではない。
 (わたくしのような女が、これほど早く現れようとは)
 たとえば徳川家康と真田昌幸のように、似た思考を持つ者同士は往々にして反発しあう。ふと思いついて、淀は手鏡に自分の顔を映して眺めた。
 鏡の中には、疲れ果てた初老の女がいた。かつての戦国一の美女に瓜二つと言われた美姫はもはや影も形もない。
 瞼が下がった目許や頬がたるんだ口許には乾いた皺が刻まれ、眼の下の隈やくすんだ肌が白粉の下に透けて見える。艶やかさが自慢で毎日念入りに櫛を入れていた髪は白みの強い灰色となり、麻糸のように縒れて髪油すら馴染まなくなっていた。
 秀頼のため、豊臣のため必死に大坂を守ってきた末の姿なのだと思えば悔いはないが、それも最近になって綻びが出始めている。淀の眼から見れば怠惰としか思えない秀頼の変貌。上洛しても徳川家康に遠慮して大坂に立ち寄らず、従うことを忘れて独自の統治を始める西日本の国々。
 (太閤殿下が何を怖れていたのか、今になって初めて分かった気がしますわ)
 老いると枯れるは同義だと淀は思っていた。枯れ衰えて、いつか朽ちる。どれだけ精力的に葉を茂らせ咲き誇っても、その理だけは避けて通れないのだ。
 そして枯れようとしている自分の足元では若い芽がぐんぐんと枝を伸ばしているのだ。朽ちゆく自分はいつか若木に追い抜かれ、抵抗する力もないまま踏みしだかれ。忘れ去られてゆく。
 目を見張るような徳川家の台頭と繁栄。その一方で豊臣古参の家臣は齢を重ね、世は太閤秀吉を忘れつつある。
 しかしそれは家康とて同じこと。あちらも焦っているのだと淀は考えを前に向けて鏡を伏せた。
 小谷城で城と運命を共にした父、火の手が上がる北ノ庄城で自分たち姉妹を抱きしめながら別れを告げた母、それぞれの無念。それらを経験してもなお……経験したからこそ聚楽第に入ると決めた時の自分の心を思い出し、奮い立たなければならない。
 家康が存命で、秀頼の足元がまだ盤石でない今はまだ退く訳にはいかない。淀は秀頼のためならなりふり構っていられないのだ。
 「後の世に、わたくしは稀代の鬼母であり強欲な女であったと語られるのでしょうね……」
 生涯をかけて取り組んできても、得られる評価に輝かしいものはない。しかし、それもまた自らが選んだ道の行く末なのだ。今更悔やんで人生を否定するつもりにはならなかった。なってはならぬ、そう自分に言い聞かせてここまで生きてきたのだから。


 「どうにもこうにも、婿どのは竹千代君から嫌われたようだ」
 生まれたばかりの大八の顔を見に行った九度山からの帰り道、上洛ついでの機嫌伺いとして越後福島城の松平忠輝夫妻のもとに立ち寄った政宗は、その地に待たせていた近習や護衛らを従えたことで旅の浪人から大名に戻った。帰路、中山道を馬で進みながら重長に零す。
 「おおかた、大御所のじいさんやぼんくら将軍が城内で散々悪口を言いふらしているんだろうな。それに忠輝の堅物ぶりが加わって……子供にありがちな『食わず嫌い』ってところだが、それをあしらえない忠輝も今ひとつ気概がない」
 「殿ほどのお方をそのような……」
 「竹千代君と秀頼公が友にでもなれば次の代で徳川と豊臣の関係も修復できるだろうと俺が入れ知恵して忠輝の文を竹千代君に届けさせたのだが、忠輝があの様では残念な結果になりそうだな」
 「豊臣に対して悪意を抱いていない忠輝さまを竹千代さまの傳役に据えて、幕府を内部から牽制させるためでございますね」
 「それ以外に何がある」
 政宗はしれっと言ってのけた。
 「秀頼公は度胸といい器量といい、太閤の上を行っている。あれは大御所も焦るだろうな」
 「京都での一件でございますか?」
 「ああ。あの大御所に恥をかかせるとは何とも胸のすく話じゃないか。若い頃の俺が太閤にそうしたように、なかなか肝が据わっている。それに比べて」
 家康周辺は必死に『京都で』秀頼と会見したと言いふらしていたが、地方の外様ならともかく政宗をはじめとした大大名たちが真相を知らない筈はない。政宗は江戸の方角をちらりと見やった。
 「竹千代君は戦を知らない。生まれながらの将軍になる運命だ。ちやほや育てられた我儘坊主だから世間も狭く、すぐ人の言いなりになる」
 「?」
 「まだ子供の次期将軍の側に、ものの考え方を『刷り込んで』裏から御する奴がいると俺は睨んでいるのだ。でなければ、子供の好き嫌いの情なんて簡単に移ろいゆくからな。絶対的な信頼を得て将軍を操り、天下を牛耳る。俺が将軍の側仕えでもそうするだろうな」
 「そのような者が江戸に居ると」
 「江戸は人だけは多いからなあ。邪な思惑で近づく者とて少なくなかろう。大御所が太閤に取り入った時、そして豊臣恩顧をごっそり連れ去った時のように、な」
 「では、殿が松平さまに新しい城を普請するとお約束なさったのはまずいのでは?」
 「知るか。あんな隙間風が吹く城に息子を置いておく大御所が悪い。あれじゃ身内から滅ぼされても文句は言えんぞ……いや、冷遇に不満を漏らしたところを謀反の疑いありとでもして切腹に追い込む腹づもりなのかもしれないが、徳川家中のごたごたに五郎八が巻き込まれる事だけは勘弁だ。忠輝も、そうなる前に自分から行動を起こせぬものだろうか」
 馬を曳く小姓も、前後を守る近習も、二人の会話に驚くこともなくさらりと聞き流している。主を敵に売るような者は奥州にいない。主がどれだけ物騒な会話をしていても、それは彼らにとってただの世間話でしかないのだ。彼らがそれだけ政宗を信奉している証である。
 政宗は、高崎から宇都宮を目指さずそのまま中山道を江戸に進むよう命じた。仙台で滞っている書類は江戸へ持ってくるよう伝令を走らせて。
 「忠輝の尻をひっぱたくためにも、ここはひとつ俺自らが敵の懐に飛び込んでみるか。比興者は勘弁だが、ただの捻くれ者ならば存外扱いやすいものだ」
 あわよくば自分が竹千代も忠輝も御して天下を牛耳ってやろうか。
 政宗が言うと洒落にならない軽口を、伊達の家臣たちは「それも良うございますな」と愉快そうに笑うのだった。


 「陸奥守どの、ご登城にござりまする」
 江戸城に上がり、まずはご機嫌伺いとして秀忠と謁見した政宗は世間話の流れを巧みに誘導して竹千代との謁見許可を取り付けた。竹千代の才覚を見ておきたいと考えていた政宗は、あえて謁見の間や庭園といった『お決まり』の目通り場ではなく城内にある手習処での謁見となるようさりげなく希望し、竹千代の養育については大奥に任せきりの秀忠もそれを許可した。
 が、手習処を見た途端多少の驚きと落胆を禁じ得なかった。
 文机の上には、書きかけの経よりも思いつくまま書きなぐった絵のような文字のようなもので汚れた半紙の方が多く散乱していた。屏風や畳だけでなく、政宗の背後で閉められた襖にまで墨が跳ねた跡や落書きとおぼしきものを拭き取った形跡が残っている。文字も年齢の割には拙く、教本の内容も竹千代くらいの年齢ならばすでに修了しているべきものであった。学問の遅れは、国元に暮らす自らの嫡子たちの生育を見ている政宗の眼には明らかだった。
 (齢の割には落ち着きのない童だな。元服を前にして既に林羅山(徳川家に仕える儒学者)から講釈を乞い、学問も武芸もそつなくこなす賢さよと聞いていたのだが)
 それらは情報操作であった事を政宗はすぐに見破った。次期将軍たる竹千代の求心力を高めておきたい者が、躍起になって良い噂を発信しているのだろう。噂は川の流れのようなもの。元は小さくとも、江戸城から各国へ流れていく間にどんどん話が大きくなり、ついに大河となる。まして将軍家の話題となれば、大名も商人もみなが口々に褒めちぎって好印象を世に広めていくものだ。
 (世継ぎ争いの熾烈さなど、古今東西変わらないが……随分と必死なことだ)
 現在将軍候補として有力視されているのは、竹千代とその弟・国松君の二名。大御所および現将軍の意向は竹千代が将軍に就く方向でほぼ固まっているようだが、家老や親藩の中にはいまだ国松を推す声も根強いと聞いている。同母兄弟、正室の子ならばなぜ長子である竹千代で意見の一致をみないのか、その理由はこの部屋を見れば察するに余りあるが、大名としての政宗にとって大事なのはどの勢力がどちらを推しているのかである。それによって伊達家の立ち回り方も変わってくる。
 「そちが松平陸奥守か」
 ドタドタという駆け足が手習処の前で止まり、平伏した政宗の頭上で甲高い声が政宗の名を呼んだ。
 「お初にお目にかかります。奥州仙台藩が当主、松平こと伊達陸奥守政宗にございまする。本日は将軍さまのお許しを賜り、ご嫡男であらせられる竹千代君へお目通り出来ますこと、まこと畏れ多く光栄にございます」
 「ふうん。……えっと」
 竹千代が言葉に詰まると、すぐに『面を上げよ、でございます』と女の声が竹千代に囁き、竹千代はその通りの言葉を棒読みした。さて、どのような殿様だろうか。政宗はうやうやしく面を上げる。
 が、目が行ったのは竹千代の凡庸さではなく、お付きの奥女中の方であった。 
 竹千代の手を引いていたのは、母親である江姫ではなく乳母とおぼしき女。地方大名の奥方よりもずっと派手な打掛を羽織り、ひれ伏した政宗を上から見下ろしている。
 ああ、と政宗は直感した。この女が大御所のお気に入りで『お手つき』である事も公然の秘密となっている春日局であると。
 (不如帰だ)
 それが政宗の第一印象である。
 大御所が啼くまで待っていたそれではなく、鶯の巣に自らの卵を産み付けて寄生させる方の不如帰。
 次期将軍の手を引くことで将軍家の信頼が揺るがないことを、そして豪華な召し物と高圧的な態度で、自分は城内において別格の存在なのだと主張しているのだ。ゆえに逆らわぬようにとの無言の牽制もある。
 淀君のように聚楽第の住人からのし上がった姫もいるが、それは自らの腹を痛めた世継ぎを産んでいればこその事。しかしこの女は他人が産んだ子を手懐けて権勢を誇っているのだ。没落しかかった大坂城で息子の代わりに執務を取り仕切っているという淀君の方が、まだ健気に見えてしまう。
 政宗が情勢を読み取るわずかな時間、竹千代はただ黙って政宗の顔を眺めていた。すでに徳川家中の『人形』となりかけているのだろうか。
 ならばこの童が自分や忠輝を嫌うよう仕向けたのは彼らの取り巻きである。これでは権力へのおもねりが苦手な忠輝も間違いなく日陰に追いやられるだろう。さて、そうなる前に人質同然の縁組で徳川家に嫁がされた愛娘をどうやって面倒事から遠ざけようか。
 「そち、何か面白い話をせよ」
 ふいに竹千代が命じた。あまりに広義すぎる命令に、政宗は却って困惑する。
 「面白い話と申されますと?」
 「余が面白いと思える話じゃ」
 「……」
 ふむ、と政宗が左目でちらりと見れば、春日局は黙ったまま政宗の出方を伺っている。見え透いたおべっかで不興を買っても、はたまた迂闊な事を口走っても、今日のうちに悪い噂となって将軍の耳に入ることだろう。
 とはいえ、この場で竹千代君を喜ばせられなければ能無しという噂をばら撒かれかねない。しかし、そういった「縛り」がついた方がむしろ話題の方向性を定めやすいというもの。
 「そうでございますな……竹千代さまのお顔を拝見しておりますと、私が大御所さまに初めて拝謁した小田原の役を思い出しますぞ」
 「小田原とは、祖父上が参戦した戦じゃの」
 「恥ずかしながら私は遅参いたしましたが、それは大御所さまが北条を説得し開城へと導いたため思っていたより早く戦が終わってしまったが故にございます」
 「説得、とな」
 「左様にございます。大御所さまの類稀なる機智と多大な人脈、何より頑なであった北条の心を揺るがす程のお人柄が為せた武功でありますれば」
 「説得は武功にならぬであろう。余は力をもって国を統べた祖父上を尊敬しているのじゃ」
 「いえいえ。耳を傾けるに値するだけの大器でなければ、説得などそもそも成り立たぬもの。大御所さまがそれまで育んでこられたお人柄があればこそ成功したのです……無論、大御所さまは武勇におかれましても数多の活躍をなさっておいでです。剣豪と呼ばれるにまで高められた剣術、関ヶ原にて天下を定めた見事なご采配、この政宗も手習い時代から今に至るまで武士の鑑と学んで育ってまいりましたぞ」
 「おお。その話、よう聞かせてくれぬか」
 戦と聞いた竹千代が目を輝かせた。

 この謁見で、春日局はことのほか政宗を憎々しく思うようになった。侮りがたし、などという生易しいものではない。
 しかし、海千山千の域に達している政宗の方が一枚上手であった。膝に乗ったり肩車をせがむ竹千代の望み…おそらく秀忠がそれをする事はないだろう…を叶えてやり、眼帯に興味を持っていじる様にも厭な顔ひとつせずに、所望された戦の話を語って聞かせる。

 「祖父上や父上に、かような武勇伝があったとは」
 話が終わる頃には竹千代の心はすっかり政宗の虜となり、気づけばきちんと正座をして渡来の硝子玉のように両の眼を輝かせながら政宗の話に耳を傾けていた。
 「竹千代君は、戦にご興味をお持ちなのでございますか?」
 「無論じゃ。余は生まれながらの将軍ぞ。いつか戦で采配を振るって、百万の騎馬や足軽を自在に動かすのじゃ」
 「それは勇ましきこと。まこと頼もしき将軍のご誕生でございまするな。……しかしながら、大御所さまや上様の願いは竹千代君が戦に出る事ではございませぬぞ?」
 「何じゃと?」
 「大御所さまや上様が命を賭して幾度もの大戦をなさって来られたのは、ひとえに天下泰平のためでござりまする。将軍という天下に君臨なさっておられるのも、各国の諸大名や民が徳川将軍家を敬うことで心を一つにして日の本の安寧を維持せんがため。大御所さまが道を拓き、上様が地均しをなさった天下泰平という大きな事業を仕上げるのは竹千代君にございまする。さすれば、竹千代君はその御身にて日の本の尊敬を一身に集めることになりましょう」
 「戦ってはならぬのか」
 「刀を振り回すばかりが戦ではございませぬ。先達の願いを叶えて差し上げるのが、竹千代君の戦いにございましょう。この政宗はそう拝察いたしまする」
 「そうか……」
 竹千代がつまらなさそうに足をばたつかせると、政宗は優しい眼で自ら居住まいを正してみせた。つられるように竹千代の背筋も伸びる。
 「戦などないに越したことはございませぬぞ。幾多もの戦で数知れない兵の骨を斬り進んだ結果、私の愛刀も一回り小さくなってしまいました。傷を得ては研ぎ、刃こぼれしては研ぎ、斬った者の数が増えればまた然り……拵えを直すたびに、どれほどの御霊をこの手で彼岸に送り込んでしまったのかと思いを馳せずにはいられませぬ」
 「御霊、とな」
 「左様にございます。名もなき一兵卒であろうと、私と同じように母親の腹から誕生し、思慮を身につけ、人を慕い、精一杯に生きてきた命に変わりのうございますれば」
 「ふうん……が、斬れぬ刀を持っていては自分が死ぬとは思わなんだか」
 「もちろん新しく拵えさせた刀も多数所持してございますが、不思議なものでいざ戦に出るとなればやはりともに窮地を乗り越えてきた刀を選んでしまうのでございます」
 「何故じゃ。新しいものは気持ちが良かろう」
 「これが衣や草履であればそうなのですが……刀だけは、どうしても新しい品は手に馴染まないのでございます。奥州は良い鉄が採れ、優れた鍛冶職人もたくさん居るのですが」
 「ほう……陸奥守とやら、その刀を見せてくれぬか」
 「どうぞ伊達とお呼びくださいませ。あいにく、今は太刀持ちに預けておりますれば」
 見れぬのか、と残念そうな顔をした後、竹千代は胸を反らせた。
 「では伊達よ、次からは余の前での帯刀を許す。余は刀が好きじゃ。愛刀だけでなく、面白う刀をいろいろ持って参れ。そしてこれからも戦の話をたくさん所望するぞ」
 春日局が「竹千代さま、殿中での帯刀は禁忌でござりまする」と止めに入ったが、竹千代は「余が許すのじゃ」と譲らない。ついには春日局を通じて父将軍に政宗の殿中における帯刀を許可させるよう働きかける約束まで取り付けてしまったのだ。
 「そこまでご所望とあらば、帯刀せぬは却って失礼にあたりまするな。……そうですな、まこと僭越ではございますが、竹千代君が元服なさる折には奥州一の刀鍛冶が最高級の鉄を鍛えて拵えた刀を献上いたしとうございます」
 「おお、それは楽しみじゃ。鍔は漆に金箔で葵紋を入れさせるか、それとも螺鈿が良いか。拵えは…何色が良いかのう」
 「仏教における最高官位の紫、公卿の朱など多数ございますが、ここはやはり大御所さまが馬印に用いておられる金扇にちなんで金色などがよろしいかと」
 「おお、それは見事な拵えが出来そうじゃのう。早う元服したいものじゃ」
 余だけの刀、と小躍りしてはしゃぐ竹千代を春日局が『お行儀が悪うございますよ』とたしなめる。その時政宗に与えた一瞥は凍りつくほどの強さであったが、政宗は何も気づかぬ素振りと微笑みで受け流す。

 この女が竹千代君を操る人形師だ。政宗は確信した。


 「ソテロを国に帰す」
 江戸城とは堀を挟んですぐ隣。竹千代との謁見後、伊達家の江戸屋敷に逗留しつつ仙台藩から届いた書類の決裁を進めていた政宗が、控えていた支倉六右衛門常長に向かって呟いた。
 「ソテロ殿、でございますか」
 「かねてより帰国を希望していたのだ。勿体ない話だが、あの者もお役目で日ノ本へ来ているのゆえ引き留めることもできまいて」
 ソテロとは、政宗が九度山で繁に話していたキリスト教の宣教師、ルイス・ソテロである。江戸から追い払われた後、船出した沖で船が難破して仙台に流れ着いたのだ。
 信長や秀吉のように目新しい物が好きだった政宗は同年代のソテロを手厚く保護し、紀州の水軍や九州の交易船とつなぎをつけて南の海運拠点であるルソン島へ、そこからソテロの母国との交易路を確立させた。そして奥州の豊富な金と引き換えに鉄砲、馬具装備、戦装束といった武具およびそれらの製造技術から日常の調度品に至るまでを得ていたのだ。かわりに陸奥国内のみでの布教活動を許可する。そうして交流を続けた結果、今や政宗とソテロは国や言葉の壁を超えた『盟友』とも呼べる間柄ともなっていた。
 「殿にとっては国を超えてのご友人であらせられました故、お寂しくなりますな」
 「うむ……」
 政宗は掌中で扇をもてあそんだ後で、意を決して宣言した。
 「決めた。西班牙(イスパニア)に使者を遣わす」
 「使者でございますか?」
 「ソテロの従者の中に技術を持った者が居る。彼らが乗ってきたような異国式の帆船を造れ」
 大至急だ、と政宗が念を押した。
 「まさか太閤殿下のように大陸へ進出などとは……」
 「莫迦を申すな。ソテロを橋渡しにして、仙台藩独自に彼の国と本格的な交易を行うのだ」
 「交易ならば既に」
 「竹千代君への拝謁がてら江戸の動向をいろいろ聞いて回った中の一つに、気になる話があった……大御所は伴天連追放令を出すつもりだ」
 政宗の言葉に、支倉は「何と」と眼を見開いた。
 「太閤時代の禁教令は二十六人殺しただけで有耶無耶になってしまったが、触書そのものはまだ生きている。幕府は太閤の名を借りて異国の者や教えを締め出す気なのだろう」
 各国からの反発が必至の触書を、あえて太閤の名で再発行するあたり抜け目がない。政宗の左瞼がかすかにひくついた。
 「異国との交易はわが国における戦の手法を変え、民の暮らしの中にもいくつかの利益をもたらした。……が、往々にして利益と害は抱き合わせとなるものだ。表向きは日ノ本に神仏以外の信仰が広まることは良くないと仰せだが、実際は各々の藩が独自に利益を得て蓄財に励むのが面白くないのだろうて」
 土を掘り起こしてでも危険な芽は摘んでおきたい家康のこと、地方の領主が独自に交易を行って富を蓄えれば、そこから武力増強・幕府転覆を企てる者が出る可能性まで危惧しているのだ。
 「それでは殿が幕府の意向に背くことになりませぬか?」
 「だから急ぐのだ。まだ正式に触れが出た訳ではない」
 まず本丸を築き…既成事実を作ってから外堀を攻める。徳川がよく使う手を政宗も使うつもりであった。
 「彼の国にはまだまだ学ぶところも得るものも多すぎる。せっかくソテロを介して出来上がった繋がりをあっさり手放すのも勿体なかろう。交易に際しては、彼の国の王と余との間で正式な書状を取り交わす。王のお墨付きとなれば幕府とて反故にはできぬであろう」
 「はあ……」
 つまり、殿はイスパニアの王を後ろ盾になさりたいのか。喉まで出かかった言葉を支倉は飲み込んだ。どこで誰が聞き耳を立てているか分からない。
 「船の建造中に、イスパニア王宛ての書状をしたためておく。おまえは使者団を組織しろ。おまえと共に異国を見て来る若い者だ。学問所で討論を行わせ、話術や交渉力に長けた者、勉学に熱心な者、兵法学に長けた者を選抜して連れて行け」
 「わ、私でございますか?」
 「橋渡し役としてソテロを遣わすゆえ心配するな。王との謁見となれば、こちらが舐められぬようそれ相応の立場を持った者が必要だ。なおかつ長い旅路に耐えうる体力のある者となれば、おまえを置いて他にはおらぬ」
 「勿体ないお言葉でございます」
 「良いか。此度の渡航には伊達の将来がかかっておる。交易路の確保だけでなく、新たな知識を出来るだけ多く収集して参るのだ。さすれば仙台藩は末永く繁栄し、渡航はそなたの名とともに後世に語り継がれるであろう」
 主にここまで力説されては、もはや辞退する理由はない。支倉自身も、己が歴史に名を残す好機とばかりに決心した。
 「殿のご命令とあらば……この支倉六右衛門常長、必ずやご期待に沿って御覧に入れましょう」

 「殿の方便は、さながら囲碁のようでございますな」
 支倉が退出した後、すべて聞いていた重長が口を挟んだ。
 「ははは。おまえの眼力は景綱並みになってきたな」
 「殿のご性分は、幼き頃よりわが父から聞かされておりますゆえ」
 「イスパニアの海軍は世界最強を誇るそうだ。その勢いで明国周囲の小国を植民地化していると聞いている。明国ですら太刀打ちできるかどうか分からぬ大国を敵に回すことが何を意味するか……大御所はそこまで考えが及んでおらぬようだ」
 「伴天連を追放すれば日ノ本が安泰となるわけではない、殿はそうお考えですか」
 「頭の周りを飛び回る蜂を振り払うのと同じだ。巣ごと取り去らねば、いつまでも煩わされる。……が、巣から蜜を取る術を覚えれば鬱陶しい蜂とも共存できるというもの。利害を一致させて盟約を結んでおく方がよほど得策だ」
 「ふふっ。それも方便なのは存じております」
 重長の風貌がこの頃とみに景綱と似てきたと思っていたが、どうやら似てきたのは外見だけではないらしい。政宗も胡坐を崩して含み笑いを浮かべた。
 「幕府がここまで体制を盤石にしつつある今、それをひっくり返される懸念材料は二つ。ひとつは大坂の秀頼公。そしてもうひとつが……」
 伴天連。
 「日ノ本が植民地となったら、我らは一体どうなるのでしょう」
 「そうならぬよう、仙台藩は先手を打ってイスパニアと仲良くしておこうという算段だ。何となれば日ノ本すべての安堵と引き換えに仙台藩を彼らに差し出しても構わぬ」
 「……」
 幕府の安堵、と言わないところに政宗の真意をみた重長は、「左様でございますな」と相槌を打つにとどめた。
 まだ政宗は徳川に従順であるべきか迷っている。豊臣の息の根はまだ完全に断たれた訳ではないし、九度山に居る妻の事もある。何より、国内の争いで消耗している間に異国に日ノ本を奪われたらどうなるか。
 時も機会も残されているのなら、すべてを上手く収める方策あらばなりふり構わず手を打っておこう。そう考えているのは手に取るように解った。
 『上手く収める』という定義の中には、自らが日ノ本を掌握してしまおうという選択も含まれている。
 幕府が知ればただではすまない危険思想だが、重長個人はそういった政宗の精神が嫌いではなかった。むしろ、この主ならばいつか本当に叶えてくれるのではないかと期待すら抱いている。
 その時、近習が廊下を渡ってくる足音が近づいてきた。
 「殿、大久保長安様がお越しでございます」
 大久保長安とは娘婿の腹心である。報告を受けた政宗は、「わかった」と短く答えて立ち上がった。

 このとき政宗が支倉に指示した渡航はのちに『慶長使節団』と呼ばれ、出航からその後八年にわたってイスパニアやローマにて「伊達政宗はいずれ日ノ本の王になるべき御仁であることを公式に認め、懇意にしていただきたい」ことを訴えて庇護を求め歩くことになる。
 仮にイスパニアが日ノ本を植民地化しにかかった際には仙台藩を差し出し、かわりに伊達家が残りの日ノ本領土を貰い受けられるよう伏線を張っておいたのだ。

 この判断があと数年早ければ、もしかしたら功を奏したのかもしれなかったのだが。


 「本多。大御所さまはまことに竹千代さまを次期将軍にとお考えなのでしょうか?」
 本多正信を呼びつけた春日局は、御簾ごしに愚痴を零した。
 「そういったご事情は……某よりもお局様の方がご存じでしょう」
 「上様は竹千代さまを廃嫡し、国千代君を次の将軍になさりたいと考えておられるようじゃ」
 実のところ、本多は次期将軍をめぐって大御所と将軍の間に意見の相違が生じている事を知っていた。秀忠を将軍職に就けてはいるが、それはあくまで形だけのこと。自由に動ける身と『大御所』の肩書を得た家康は老体とは思えぬ身軽さで京・大坂・駿府に江戸を自在に動き回っては政に口を挟んでいる。将軍が年寄衆と詮議を重ねて出した結論が、大御所の鶴の一声でひっくり返る事など日常であった。
 隠居した筈の大御所に振り回されて、現将軍秀忠はいささか辟易している。国を思うように動かせないのならば、せめて次期将軍くらいは自らの意志で決めたいと考えるのも無理からぬ話だろう。
 その秀忠は、粗暴な竹千代は将軍の器でないと見切りをつけた節があり、その分次男の国千代を溺愛するようになっていた。側でつぶさに見ている春日局には、その格差がどんどん広がっていくように見える。
 どちらも秀忠の正室・江の子であるゆえ、幕府や徳川家としては将軍職を指名するにあたり何ら問題はない。が、春日にとっては大問題なのだ。
 竹千代の乳母という地位があるからこその春日の立場。竹千代が将軍になれば自分の地位は安泰だが、そうでなければ江戸城からお払い箱になる。おそらく竹千代とともに徳川親藩のいずこかへ向かう事になるだろう。
 春日局の出しゃばりな性分からして、現在自分が居る地位に他の女が立つことが許せない。そういう事だと本多は見た。武士社会ですら思うに任せぬ事態など珍しくないというのにまったく鼻持ちならないが、家康の寵愛を受けている以上は無碍にもできない。
 「お言葉ですが、竹千代さまは伊達どのをたいへん気に入っておられるとか。さすればご心配に及びますまい。公家とも懇意で、城内においても家老に準ずる影響力を持つ伊達どのを後見に迎えなされば、廃嫡とてそう簡単には行かぬでしょう」
 「その伊達が心配なのじゃ」
 「?」
 きょとんとした老臣の顔を見やりながら春日は閉じた扇を手のひらに何度も打ち付けた。
 「竹千代さまは伊達の言いつけならば何でも聞く。以前より行儀も良うなり、学問にも武芸にも力を入れるようになられた……が、竹千代さまがあまりに伊達を重用しすぎるあまり」
 「……いずれ将軍となられた日には、竹千代君が伊達の傀儡となられることを懸念なさっておられるのでございますか?」
 「それもある。が、伊達の背後には忠輝どのもおられる。竹千代さまが伊達の言うことを聞かなくなったとしたら、今度は忠輝どのを担ぎ上げて廃嫡を企てようとするであろう。上様の肩を持って国千代さま派に転ずることもあり得る。いずれにしても竹千代さまの御身が危ういと思うと夜も眠れぬのじゃ」
 「なるほど、でございますな」
 考え過ぎだ、と喉まで出かかった言葉を本多は飲み込む。いずれにしても竹千代が政宗との信頼関係を築けていれば良いだけの話だ。家臣との関係が容易く壊れるようであればそれは竹千代の器量の問題であり、そうなる者は所詮将軍の器にはない。
 表向きは竹千代を案じているが、この女は結局のところ自分の身を案じている。
 江の名を借りた保身。それゆえの懸念。女の猜疑心というものは、いちど焔がつくと油紙よりも早く燃え広がってしまうものだ。
 だが、弱冠二十三歳の頃から豊臣秀吉と、その後は徳川家康と対等に渡り合って来た伊達政宗ならば子供一人丸め込んで陰から政に口出しする事はあり得ない話ではない。大御所はもうじき喜寿、そう遠くない『その日』が訪れた時に何が起こるか、春日局とはまた異なる視点ではあるが危機感は理解できた。
 「……お局様のご心配はよく解り申した。では忠輝さまと伊達に釘を差しておけばよろしいのですね」
 「できますか?」
 「お任せあれ……代わりといっては何ですが、わが倅の事、何卒よろしゅうお頼み申しまする」
 「何と欲のない。正純ならば黙っていても重用されましょうが、さらなる厚誼を望むのであればよきに計らいましょう」
 加増であるか?と訊ねた春日局に、正信は「いえ」とかぶりを振った。
 「石高などという目に見える報奨は、すでに我が一族の身に余るほどいただいております。ただこの先、どのような小さなお役目であろうとも、我が本多一族を末永く上様のお傍近くに仕えさせていただければそれで結構……いわば『誉』を賜りたく」
 目に見えるものに価値を見出す女は訝しんだが、それを正信はにこりと返した。
 「某の生涯が大御所さまのために在ったのと同じでございます。息子は凡庸ゆえ、実直さをもって上様と竹千代君のために生涯を捧げよと育てておりますれば、その実直さに報いていただけますれば幸いと……ははは、親莫迦でしたな」

 のちに本多正信が息を引き取る際、息子には「たとえ上様の思し召しとあれど、三万石以上の加増はお受けしてはならぬ。身の丈に合わぬご恩は、必ず己の足を引くぞ」と言い遺した。
 だが正信の子・正純は正信が没した後に十五万石の加増という数字に目が眩み、親の遺言を反故にしてしまったのだ。
 結果、正純は妬みの対象となり失脚への道を辿るのだが、こればかりは本人の力量不足であり、春日局もそこまで面倒を見きれるものではない。
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