第20話 石田治部少輔三成

文字数 23,018文字

慶長四年

 石田三成は、いつもより早く出された夕餉に箸をつけようとしてその手を止めた。
 書物を読みふけっている間に、いつの間にか居室の前に膳が置かれていたのだ。気を遣った女中が黙って置いていったのかとも思ったが、もしやと思った石田は試しに青菜の一切れを箸でつまんで庭に放り投げてみる。閉じた障子の隙間から様子を伺っているうちに空から烏がやって来て青菜をついばんだが、食べ終えても飛び立つことなく翼をばさばさと鳴らし首を振り回してもがき苦しんだ挙句、ぱたりと倒れて動かなくなった。
 「やはり、か……」
 そこへ石田の妻・宇多が現れた。わずかに開いていた障子をそっと開いた瞬間障子のすぐ内側に座っていた石田と額がぶつかりそうになったが、宇多はそこで何をしていたのかを問い質すこともなく…夫がする事には全て理由があるのだと知っているのだ…わずかに正座の姿勢を崩しただけで用向きを告げた。
 「殿、大谷刑部さまがお見えです……まあ、もう夕餉が参っていたのですか?おかしいですわね」
 厨ではようやく竃に火を入れたばかりだというのに。宇多は夫の行動よりそちらに目を丸くする。石田は『何かの間違いだ、庭に埋めておけ』と命じて膳を下げさせ、宇多に茶の湯の支度と人払いの番を命じた。
 茶の支度が整った頃、居室に大谷が現れた。ほんの数週間会わなかっただけなのに、晒し布を巻いている箇所が増えたように見える。長い間小康状態を保っていた病がいよいよ加速したと見て間違いないのだろう。生前の秀吉も有能な大谷の身を案じて湯治に同行させたりしていたのだが、不治の病はどうやっても癒えることはない。
 業病を与えられるほどの『業』など、この男は犯していないというのに。ここにも理不尽があると石田は軽く唇を噛んだ。
 その大谷は、廊下をゆっくりと渡る際に厭でも見えてしまった烏の死骸が気になって仕方ないようである。
 「烏が人前で死ぬとは珍しいな。どうしたのだ」
 「夕餉の青菜を喰わせてみたらこうなった」
 「何と、そのような」
 「この城にまで徳川の内通者が潜んでいるということだ。城から私を追い払っただけでは気が済まぬと見える。忌々しいことよ」
 大方誰の差し金であるかは、二人とも察しがついていた。だがそこでその名を口にはしない。
 「私の家から身元の確かな雑色をここへ遣わせるか?」
「これから、膳はすべて宇多に支度させる……が、このままではいつ寝首を掻かれることか」
寡黙を絵に描いたような石田が人前で妻を褒めることなどないが、彼が妻に多大な信頼を寄せているのは大谷もよく分かっていた。
 秀吉の家臣として東に西に、さらに半島にと奔走する石田が家中を気にせず働けたのも彼女の支えあっての事だろう。しかし普段の生活は夫に従って質素なもので、長年知っている大谷ですら宇多が化粧をした顔を見たのは片手で数えられるくらいしかない。そういう点では石田と似た者夫婦というべきか、寡黙ながら有能な女性なのだというのが大谷の評価である。しかし、かといって四六時中夫の番などできる訳がない。
 「自宅なのに落ち着かぬというのは、そなたの健康にも良くないな。疑心暗鬼のまま眠れぬ夜が続けば、心も蝕まれる……家族のためを思うのであれば出家もひとつの方法だが」
 「それだけはならぬ。かの者の増長を止められるのは私しかおらぬであろう」
 大谷の提案を、石田は即座に断った。そして庭で夫の言いつけを守り番をしている妻を気にするように声をひそめる。
 「私は死ぬのは怖くない。が、このような形で謀殺されるのだけは我慢がならぬ。奴らの最終目標は秀頼さま、ひいては天下であることは分かっている。それは明らかな謀叛、止めずして如何にする」
 日頃の冷静な奉行とは別人のように熱を帯びた石田は、膝を立てて肩を前に突き出していた。
 「打って出るのも辞さないか」
 石田は大きく頷いた。
 「大坂はどうするのだ?秀頼さまを巻き込んでしまえば、負けた場合豊臣滅亡に結びつくぞ」
 「これは私個人の戦。豊臣家には関係のないことだ」
 きっぱり言い切る石田を前に、大谷の顔を覆う頭巾が息で揺らぐ。
 「……佐吉よ。本日私がここへ来た用向きであるが」
 大谷は話題を変えた。
 「私はかような有様ゆえ、もはや大坂での政務は思うに任せぬ。足手まといになる前に、後進に席を譲って奉行職を退くつもりだ」
 「!」
 「私が退くとなると、おまえの考えに賛同する奉行は果たしてどのくらい居るだろうかな」
 「それは……」
 大谷に言われずとも、石田は分かっていた。
 空いた席に誰が座るのか、それは大老たちが決めることである。とはいえそれも形だけのこと。ほぼ間違いなく家康の息がかかった者になるだろう。
 ただでさえ加藤清正や福島正則といった者が徳川になびいている今、またひとつの徳川勢が大坂に増えることになる。
 「己の置かれた立場を冷静に考えてみよ。おまえ自身は秀吉さまの時代から変わらぬが、周囲の情勢はどんどん変わっているのだぞ」
 「だからそれを正すために……」
 「大坂城にどれだけの武士が集っているか、分からぬおまえではなかろう。今はみな、秀頼さまに対する『義』ではなく己の国を守る『利』のために動いておる。その中でいくら正論を述べようと、人がついてこなければ叶わぬことを忘れたか」
 「だが!」
 「大儀をもって挑もうとも、現状では大勢には何ら影響なし。現に今も毒を盛られたであろう」
 「……」
 「魑魅魍魎が跋扈するような中央の権力において、権力者が濁を清と言えばそれに倣い、賂が慣例であってもそれを生活の足しにしている者のため目を瞑る術も必要なのが今の世だ。しかし、おまえはそれらを是としない。おまえの姿勢に己の嘘を射抜かれるような思いを抱き、息の詰まる思いでいる者は存外に多いのだ」
 「それは許しがたきこと」
 「が、大名の力をそこまで削いだのは太閤の理不尽であり、おまえは理不尽ゆえの困窮を突き放した」
 「……」
「戦となれば数が優劣を決めてしまうのだ。どれだけの将兵を集められるかは大将の人徳にかかっていると言っても過言ではない。が、今の時点で権力も人望もないおまえに、一体どのくらい数の者が集うか……正直、私にも見当がつかぬ」
 「……そうか……それも自業自得であるのだな」
 「一個人であるのなら、おまえの信念こそがまさに正道であり美徳であろう。だが多数の思惑が絡み合う政治の世界では正論は疎まれる。そして正道は大きな権力を前に必ずしも勝つとは限らない」
 織田信長を横死させた明智光秀、彼の主張もそうであったと大谷は持ち出した。力で日の本を平らげようとする織田の暴走を明智は止めようとしたのだが、結果としてそれは謀反となり秀吉に逆賊扱いされて討たれてしまった。後になって振り返れば明智の主張も間違いではなかったし、秀吉の信長に対する忠義もまた正義であるのだ。今の石田と徳川の立ち位置に重なるものである。
 ずばりと言われ、三成は黙りこんでしまった。
 「紀之助。そなたは私と共に戦ってはくれないのか?」
 「この体では何の役にも立てまい」
 「……」
 「おまえは客観的にものを見ることには長けているが、己の周囲には目を背けたがる。おまえのやり方を否定まではせぬが、私以外でおまえについて来る者がどれだけ居るか、おまえの敵はどのくらい居るのか、よく考えてみよ」
 大谷は三成が点てた茶を無言で一服すると、静かに帰って行った。一人残された三成は、ふらふらと文机に向かう。
 自分の味方。そして敵。
 自分を見限った者、いつまで味方でいるか分からない者。
 いかに算術が得意でも、数えられない…数えたくないものがあると初めて知った。
名を書き出そうと筆を取ったが、肘から下が小刻みに震えてしまう。筆を取り落とした三成は、思わず両の肩を掴んで身を縮めた。
秀吉という糸で環を描いていた数珠は、糸が切れた途端にばらばらと転がって行ってしまう。自分の手に留まるものはほとんどない。
(私はどこで間違えたのか……いや、間違えていない筈であったのに……なぜだ……)
糸を切ったのは家康、そして転がった珠をいち早く拾い集めたのも家康。しかし珠が転がるまま捨て置いたのは、紛れもなく自分自身。
 晩年の秀吉が歪めてしまった天下を正しい方向へ導くためなら悪人になると決めた思いは、いかに現実を伴っていないものだったのか。覚悟という言葉が、自分の中でこうも軽いものとなっていたのか。
 自分は間違っていないという思いと、失ったものの大きさの落差が三成を苦しめた。
 「旦那さま、どこかお加減でも」
 ただならぬ気配を感じ取ったのか、宇多が顔を覗かせた。
 「胃の腑が痛い。薬湯を頼む」
 「すぐお持ちいたします」
 宇多が去って本当に一人となった瞬間、今度は心の臓が破裂しそうな程に速く脈打った。首を絞められている訳でもないのに喉が詰まる。息が苦しくなり、肩で大きく息をしながら床を転げ回っても鼓動はどこまでも三成を追いかけてくる。
 恐怖。
 その感覚は、武士として腹を切るよりも、首を獲られるよりも恐ろしいものであった。

 はたして、秀吉はこれら現実と向き合う機会はあったのだろうか。知ったから、晩年は力での支配に舵を切ったのだろうか。


 「左衛門佐、おるか!」
 大坂城の勘定処。この三日ほど体調を崩して休んでいた石田三成に代わって検地台帳の検算をしていた源次郎の許に大野治長が駆け込んできた。
 「二の丸にある徳川さまのお屋敷が今夜襲撃されるという噂が流れている。城下は朝から大騒ぎだ」
 「徳川さまの?そのような大それた事をなさる方などいらっしゃる訳が……」
 「……治部少輔どのだ」
「まさか」
「淀さまもにわかには信じ難いと仰せだが…左衛門佐は、治部少輔から何か聞いておらぬかと思ってな」
「いいえ。もし事前に聞いておれば、全力で止めております」
「たしかに」 
すぐに佐助に探らせると、半刻後には噂が真実であるという報告が返ってきた。
 石田三成がひそかに討伐隊を組織し、今夜大坂城の二の丸にある徳川屋敷を襲撃するようだと騒ぎになっている。報告を受けて、家康は既に京や大坂に居る大名達に身辺警護のため参上するようにと文を送っているらしい。
「討伐隊といっても、治部さまお一人で起こせるような所業でもない。同志を求めている段階で、我らの耳にも何かしら聞こえて来たはずだ。 何より、治部さまは殿下が出された『惣無事令』を自ら破ることは出来ぬであろう」
大谷刑部であれば何か知っているかもしれない。源次郎は、ひとまず淀さまには大事なしとお伝えしてほしい旨と、大谷刑部を通じて治部少輔の真意を確かめるゆえ落ち着いてほしいと大野に伝えた。

 その夜、大坂城二の丸はどこもかしこも松明の明かりで煌々として、まるで昼のようであった。
 「とんだ『踏み絵』だな」
 徳川屋敷への道中、昌幸が呟く。同行していた源三郎が訝しんだ。
 「父上、それはどういう」
 「此度の襲撃の噂、意味は二つあるとわしは見ておる。一つは、石田治部が本当に徳川に楯突くつもりだとして一体誰が味方につくのか。そしてもう一つは徳川に与する者がどのくらいの数いるのか、具体的には誰なのかを見極める事になるだろう」
 「大坂の勢力図を明らかにする……」
 「そういう事だ」
 「では、父上はそれを承知で」
 「徳川に敵とみなされて得な事などあるまい」
 そうなると、徳川屋敷に向かっている昌幸は徳川に味方する意思があるという事になる。
 「父上が徳川さまにお味方していただけると知って、この源三郎も安堵いたしました。きっと徳川さまも心強く思われるでしょう」
 「……誰が家康に与すると言った?」
 「え……父上にはその意思がおありだからこそ徳川さまのお屋敷に向かわれるのでは?」
 「わしは、とりあえず敵意はないという意思を示すために行くのだ。もし襲撃があったとしても、先頭きって戦うつもりなど毛頭ないわ」
 「では……」
 「源三郎よ、目先の数に惑わされるな。今宵集った者すべてが徳川に肩入れしている訳ではない。ほとんどはわしと同じく様子見……敵でも味方でもない、という事だ」
 ……この父は、どこまで面従腹背なのだ。
 武田家臣時代から徳川とは浅からぬ因縁のある父が、そう簡単になびく訳がなかったか。
軽く肩を落とす源三郎を横目に、昌幸は薄笑いを浮かべながら城の天守を見上げる。風にそよぐ柳そのものだと源三郎は思った。

 「さて、源次郎は現れるかな」

 一方。大谷刑部の家を訪ねた源次郎は、居間に通されて目を丸くした。
 「婿どの、慌ただしくて済まないが、湯漬けを食べたらつきあえ」
 頭巾姿に陣羽織。刀まで用意していた義父は、障子が開くなりそう言って立ち上がった。
 「義父上……では石田さまのお屋敷へ」
 「いや。徳川の屋敷へ行く」
 「!!」
 瞬間、源次郎の全身から熱がひいた。
 「どうした?」
 「義父上は、てっきり石田さまとご一緒なさるかと……」
 「それが豊臣のためになると思うか?」
 「!」
 「今宵もし佐吉が徳川を襲うことがあれば、それは殿下が出された『総無事令』に反することになる。佐吉に与するは、つまり謀叛の片棒を担ぐということ」
 「それは…そうでございますが」
 「我らは殿下が定められた決まりを侵すことなく、天下と民の平静のために働くことが役目だ。謀叛とあらば、誰であろうと成敗せねばならぬ」
 正論をぶつけられ、源次郎は反論を封じられた。大谷は「さあ」と促して迷わず徳川屋敷へ向かう。

 「おお、これは大谷刑部どの。お待ちしておりましたぞ。おや、真田左衛門佐どのも」
 鳥居元忠、本多忠勝、井伊直政といった錚々たる面々が固める門をくぐった先。広間の入り口で出迎えた本多正信…徳川の軍師にして家康の腹心が、ひときわ大きな声で全員に彼らの来訪を宣伝する。
 広大な広間のあちこちで車座になり酒を酌み交わしていた大名たちが一瞬静まり返り、一様に意外そうな顔をして大谷と源次郎に注目した。
 大谷は彼らをちらりと眺めやった後、本多正信に負けぬ大きな声で宣伝する。
 「隠居の身とはいえ、穏やかならぬ噂は捨て置けませぬからなあ。何より大坂の平穏が第一、いざとなれば槍を取って賊と戦う所存。婿どのも私の考えに賛同してくれましたゆえ、ともに参上つかまつった」
 「それは重畳。左衛門佐どの、安房守どのと伊豆守どのも既にいらしておりますぞ」
 「いえ、私は舅どのにつき添っております。病をおしての参上、私のいる場で障りがあっては奥に申し訳が立ちませぬゆえ」
 「それはそれは。刑部どのは良い婿に恵まれましたなあ」
 ではこちらへ、と壁際に…大谷刑部が寄りかかりやすい位置に案内され、脇息まで用意される。
 広間を横切りながら、源次郎は集っていた面々を素早く見とめた。
 父や兄は勿論、伊達政宗、加藤清正、黒田長政、細川忠興らといった顔ぶれは想定のうち。
 そして、大谷刑部に見つからないよう部屋の隅で小さくなっていた小早川秀秋の姿も見逃さなかった。大陸出兵で太閤に恨みを抱いていた中納言は、太閤亡き今はその恨みの矛先を石田に向けているのか。

 「よう。奇遇だな」
 特に変わったこともないまま、酒宴の場となりつつあった広間の隅で。
 大谷が畿内の大名たちの輪に加わる様を見守りながら一人で杯に口をつける振りをしていた源次郎を呼び止めたのは伊達政宗だった。
 「伊達どのも徳川どのに肩入れなさっているのか」
 「徳川どのは娘婿の父君なんだ、当然だろう」
 「そういえば、姫君が家康公のご子息と」
 「ようやく襁褓が取れたかどうかっていう娘だ、正式な輿入れはまだ先なんだが……奥は婚礼支度のため国元に戻っている。この勢いだと、いずれ側室の腹の中の子まで縁組させる事になるかもな」
 息女の話を切り出したのは自分だが、政宗の奥や側室という言葉はやはり源次郎の心をざわつかせる。この喧噪の中でも表情の変化を政宗に気づかれてしまうくらい、らしい。
 「……聞きたくなさそうだな。ちょっと意外だ」
 「誤解するな。家中の事情を外で軽々に口走るなという意味だ」
 「ふうん」
 政宗は曖昧な声を出しながら酒を呷った。
 「どうだ、真田もうちと縁組しないか?」
 「当家には、そなたの家に出せる姫はおらぬ」
 「おや?物凄い跳ねっ返りの姫がいたように記憶しているのだが」
 「誰が跳ねっ返りだ!」
 「つれないなあ。あの姫、俺は結構気に入っているんだが」
 「……!」
 火が出そうな顔を上げてみれば、そこにはまっすぐこちらを見つめる左眼。
 寝首を掻くような姫はお断り、そう言ったのはどこの誰だ。
 「……酒の席での戯れとはいえ、軽々しくそのような事を申すではない」
 「酔ってなどないぞ。都でなんだかんだと宴をしたがる公家の相手で結構鍛えられてんだ」
 「ならば、馬鹿にするなと申しておこう」
 源次郎はそう言い返すのが精一杯であった。
彼の言葉を本気にしてはいけないのだ。本気にしたところで、どうにもならないのだから。
 耳まで真っ赤になっていてもなお眼を逸らしたら負けだと睨みつける源次郎と、余裕綽綽の政宗。しかし睨みあううちに政宗に他の大名から声がかかった。
 「にらめっこは終いだ。こんな感じで戦が決着すれば平和なんだけどなあ」
 政宗は源次郎の頬を軽くつねると、声をかけてきた方へ徳利と杯を手に去っていく。
頬に触れた指の感触、そして出会った時と同じ香り……政宗の香りが、源次郎の胸にいつまでも残った。


 結局のところ、その夜に石田三成の襲撃はなかった。夜更けに石田の屋敷の様子を探りに行った者からも「大きな動きはみられず」と報告があり、本来の主旨を忘れて飲み明かしていた者達は夜明けとともに三々五々引き揚げていく。

 「安房守どの、それに婿どのにも世話をかけたな」
 帰る間際に体の不調を訴え、真田昌幸と源次郎に付き添われて京屋敷に帰宅した大谷刑部が二人を労った。
 「いえ、このくらい何でもござらん」
 「さぞお疲れであろう。朝餉を用意させますゆえ、食べていってくだされ」
 「おお、これは有難い。酒ばかり呑んでいたので、ちょうど腹がすいたところでござった」
 昌幸は気軽に応じ、大谷刑部の部屋に通される。
 だが二人の間に朝餉を待つようなのんびりした空気はなかった。大谷は部屋の戸を閉めると、源次郎に周囲の気配に気を配るよう言いつける。
 「して、安房守」
 「心得ておる」
 昌幸は、大谷が拡げていた巻物に今日集っていた者の名をさらさらと綴っていった。
 「思っていたより数が多かったな。徳川はいつの間にあれだけの大名達を取り込んでいたのか」
 「奉行職にあった大大名や豊臣恩顧の者を抱き込めば、後は彼らが声をかけてくれるというものですぞ。『ここで顔だけでも見せておいて、徳川に逆らう意はないことを示しておけ』と」
 「ふむ。たしかに七本槍あたりは高名な上に妙なところで義理固い分、いちど抱き込んでしまえば彼らの人脈をも利用できそうだ」
 「加藤肥後守、前田利長、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明あたりはまあ予想通りだが、福島正則や小西行長、藤堂高虎は少々意外でござったな」
 「金吾中納言も居た。筑前の件で徳川が便宜を図ったのは、やはり取り込むだけの価値があると見たからか。細川も、前田家との縁組前に手を回されていたようであるな」
 大谷刑部が『出し抜かれた』と口惜しがる。
 「いや、中納言どのは誰にも顔を見られまいと小さくなっておられた。筑前の事があった以上来ない訳にはいかぬが、豊臣家にも反目したくないといったところでござろう。七本槍でも脇坂どのや平野どのの姿はなかった」
 「あやつらは殿下に可愛がられておったからなあ。日和見主義で何事にも大勢を見てからでないと動かぬ者たちゆえ、適当な理由をつけて後日談だけ聞き出そうという腹積もりであろう」
 明らかに偶然ではない会話に、源次郎はもしやと思い立った。
 「あの……まさかとは思いますが、今宵の事件は」
 「おう。わしらの流言よ」
 昌幸はあっさりと認めた。大谷も「いかにも」と頷く。
 「義父上まで、まさかそのようなお戯れを」
 「戯れではないぞ。あの面々、そして数を見たであろう。あれらはみな徳川に取り込まれているか、これから取り入ろうとしている者だ」
 「石田どのの味方にならぬ者、でもある」
 「何故そのような……天下に知れたら大変なことになりますよ」
 「現在の大坂城の勢力を明らかにし、佐吉に現実を見せる良い機会だと思ったからだ」
 「?」
 「徳川どのが大坂城の二の丸に屋敷という名の御殿を設けて以降、大坂城内の主導権は徳川に移りつつある。このままでは秀頼さまが徳川の傀儡になる……いや、秀頼さまと千姫さまの縁組を足掛かりとして天下を乗っ取るのが徳川の目論見であろう。そのあたりまでは佐吉も感づいている」
 「石田さまは、ご自分のお力で徳川さまを止めようとなさっているのですね?」
 「その通りだ」
 しかし、と大谷は置いた。
 「佐吉は己に人望がない事を自覚はしておるが、まだ確固たる現実を突きつけられていない。敵味方をきちんと色分けし、思っている以上に敵が多いことを自覚してもらわねば、いたずらに天下を揺るがせるだけだ」
 「そのための襲撃騒ぎであったと……」
 「いちど絶望させ、それでもなお一兵卒としてでも這い上がろうとするのなら覚悟は本物よ」
 「……お厳しいことを」
 「生ぬるい友情だけでは天下を動かせぬ。少なくとも私は竹中半兵衛どのからそう教わった」
 きっぱりと言い切る大谷もまた、豊臣家のために動いているのだと源次郎は感じ取った。同じ方向を見ている石田が徒に命を落とさぬよう、敢えて厳しい道を示しているのだ。
「しかし絶望だけでもない。思っていた以上に人が集まり徳川は浮かれておったが、大部屋のどこに誰が座っていたかでまた思惑も知れるというもの」
 「そのあたりも安房守どのに頼んであったのだが」
 「無論。この安房守がする仕事に抜かりはありませぬ」
 昌幸は庭に向かって出浦の名を呼んだ。庭の木々が風にざわめいたかと思うと、月明かりの下で出浦が膝をついている。
 「あの場に集っていた者達が交わしていた会話の中身を記録する。半分はおまえに任せておったが、それを聞かせてもらおう」
 「承知した」
 それからしばらくの間は、大谷・昌幸・出浦の三名で今宵の議事録らしきものを記していた。おおむね石田が来るか来ないか、来るなら誰を連れて来るかといった話題に終始していたようであるが、中にはあの場で石田の首を庭に晒したいなどと物騒な会話をしていた者も居る。
 「刑部どの。あの場で何もなかったのは、却ってまずかったやもしれませぬぞ」
 昌幸が顔をしかめた。
 「そうであるな。何もなかった事に不満を漏らしている者も少なくないようだ。暴れ足りないだけの者、そして」
 「これまでの石田に対する恨みを晴らす絶好の機会と息巻いていた者。奴らの思惑が徳川の意を離れて暴走でもしたら……」
 「十中八九、個別に佐吉を討ちに行くだろうな。むしろ徳川はそれを狙い、血気盛んな者をけしかけるやもしれぬ」
 物騒な話をさらりとしてのける父と義父の間で、源次郎はただ緊張したまま会話を見守るしかなかった。
 「とはいえ、ここで佐吉を討たせる訳にはいかぬ」
 「では、治部少輔の方にはこちらで手を回しておきましょうぞ」
 「頼む、安房守」
 「何の。こういう策略は得意ですからな」
 ……父の『策略』は大抵の場合物騒な結果をもたらすのだが。
 「父を信じよ、源次郎」
 源次郎の視線で言いたい事を察したのか、昌幸はこともなげに言い放つ。
 「戦をこの世から完全になくすなど、今はまだ無理なのだ。戦場の空気を懐かしむ者がまだまだ現役でいるうちは、な」
 ならばどうするのか。その答えは訊かずとも解る気がした。
 少しずつ溜まっていく鬱積を、爆発する前に少しずつ発散させてやるのだ。昌幸が息巻いているのがいささか不安であったが、大谷刑部が任せると言った以上従うしかない。
 「あの、大谷さま」
 父が帰って行った後、源次郎は大谷に訊ねた。
 「石田さまに対する大谷さまの行いは、たんなる友情を超えているように思えます。突き放しておきながら、陰で支えておられる……一体どのような経緯がおありだったのでしょうか」
 「友情、な……」
 大谷が顔を上げ、曙色の空を眺めた。
 「太閤が亡くなる前年に花見の宴があったであろう」
 「はい」
 「その際、殿下は奉行職を集めて茶会を催したのだ。私は既に病による瘡が顔にも現れ始めておった故、私の後に茶碗を回された者はみな茶碗に口をつける振りをして次の者へ茶碗を回しておった」
 日頃ともに働く仲間はみな悪人ではない。だがそういった場面で人の本心が現れるものでもある。大谷の居たたまれなさを思うと源次郎の胸も痛んだ。
 「この見てくれでは、私はそれも致し方なしと諦めていた」
 「お辛うございましたね」
 「最後に治部少輔のもとへ茶碗が回るまでは、な」
 「?」
 「茶碗を受け取った治部少輔は、まだ並々と残っていた茶を躊躇なく飲み干したのだ。そして何事もなかったように茶碗を茶頭へ返した」
 いかにも石田らしい行いではあるが、そう思うのは源次郎だからであろう。
 「今思えば、あれは殿下なりに『真に信用できる者とそうでない者』を見極めようとしておられたのかもしれない。そして殿下のお見立てに間違いはなかった」
 大谷は目を伏せた。
 「あの男の清廉さは、疾しき者には直視できまい。が、直視できる者にとっては道標となり得るものだ。あやつがあのままである限り、私は奴を支えると決めた」


 前田利家を欠いた大坂の中央政権もようやく落ち着き、穀雨から立夏へ季節が移り替わろうというある日。
 「母上、べたべたして気持ちが悪うございます。それに……わあっ!」
 泥の中、秀頼が足をふらつかせて尻餅をつく。びちゃりと跳ねた泥が秀頼の顔や服にかかり、蛙は驚いてはね跳んだ。
 「ああ、秀頼さま。今すぐお助け申しますわ」
 侍女が慌てて着物の裾をたくし上げたのを、畦道で見守っていた淀が手で止める。
 「なりませぬ。……秀頼、ちゃんと一人で立ちなさい」
 「ですが、母上」
 「いいから、やってごらんなさい。大丈夫、田で溺れる者はおりませぬよ」
 「……はい」
 秀頼はよろよろとした足取りで田の中ほどまで進む。途中の泥には、秀頼が転んだ穴が二つほど開いた。そこで、指導者役の農民から苗の入った籠を背負わされた。
 「籠の苗を、右の列にならって一つ一つ植えていくのです」
 拙い手が背をまさぐり、ようやく引っ張り出した苗を泥の中に植え付けた。見よう見まねの作業なので苗は何度か倒れそうになる。それを直しながら前かがみの姿勢で後ずさったが、十も数えないうちに顔をくしゃくしゃにして母親を見る。
 「辛いです、母上」
 「まあ、もう音を上げるのですか?お父上は、今のあなたくらいの年ごろにはこのように田植えをなさっていたのですよ。植えてお終いではありませぬ。これから実りの季節まで、この平地すべてにある稲を家族だけで世話していくのです」
 「父上が?だって父上は殿様だったのでしょう?」
 「それは結果の話。幼少より田の仕事で足腰を鍛え、暑さにも寒さにも負けない体を作り、空の雲行きを読む力を身に着けたからこそ、父上は戦で名を上げる事が出来たのですよ。ですが、それはまだ天下人たる父上の礎にしかなりませぬ」
 「礎?」
 「そう。こうして汗水を流し、いざ戦となれば鍬を槍に持ち替えて馳せ参じる民の働きこそが日の本を支える礎であることを父上はよくご存じだったのです。名も知らぬ民たちの苦労の末に得られる一束の稲が、あなたの一日の膳となり明日を生きる力となるのですよ。ゆめゆめ忘れてはなりませぬ」
 「……」
 おぼろげな記憶の中の父を敬愛し、母の言うことを絶対だと信じる幼子は、黙って作業を再開した。長い時間をかけて二往復したあたりで空が赤く染まり始め、気の早い河鹿の声が聞こえてきた。今日の作業はここまでだとして、ようやく秀頼は田から上がることを許される。
 「秀頼。あなたは織田や浅井の血を引く者。されど、天下はもはや血筋だけでは成り立ちませぬ……母は、あなたが民の暮らしにも目を向け、人の上に立つ者としての器を備え、日の本を正しく治めることができる子になって欲しいと願います」
 侍女から布を預かり、自ら手桶を取って秀頼の体を洗ってやりながら淀はこの作業の目的を言ってきかせた。淀の衣も泥で汚れたが、まるでお構いなしである。
 「畳の上に座ってお米をいただくだけの殿様には、人はついて来てくれませぬ。一握りの武士の反抗が何ですか。その足元を支える何万人もの民の存在を忘れずにいることが大事なのですよ」
 「……はい」
 きちんと真意が伝わったかどうかも怪しい返事であったが、淀はまだそれでいいと考えていた。
 「母も、子供の時分に越前で両親や妹たちと田植えをしたのです」
 「母上も?」
 「そう。今申し上げたことは、その際にわたくしの父から聞かされたこと。あなたの心の中に、今日の出来事がずっと残ればそれで良いと思います」
幼い頃の思い出の一つ一つに意味があったことを、成長した時に気付いてくれれば。そんな思いをこめて、淀は秀頼の小さな指先の泥を拭っていった。

 淀と秀頼がそうしている光景を、市女笠姿の京極竜子は離れた場所から見物していた。いつもは執務室で多忙を極めている淀に対して暇を持て余している竜子の嫉妬心が、淀の振る舞いを逐一観察して落ち度の一つでも見つけてやろうという行動に駆り立てたのだ。しかし嫉妬すらできなくなり……文字通り、自分とは正反対の人生を歩んでいる淀に竜子は妬き、一抹の寂しさも感じていた。

 「淀どのは、なかなか気骨がございますわね」
 珍しく連れだっていた北政所が感心したように呟く。
 「太閤亡き今、秀頼どのが豊臣家にとって唯一の希望であることをよく心得ておいでですわ。こう申しては何ですけど、わたくし、淀どのが聚楽第に来た頃はお市の方に瓜二つの彼女に妬いておりました」
 北政所は、まだ若く無名であった頃の秀吉と恋におちて結ばれたのだ。しかし子に恵まれず、また色を好む秀吉が権力と比例しつつ増長しながら次々と女に手をつけていく様を見ながらじっと耐えてきた。一夫多妻、世継ぎをなす事も大事な役割であるのが武士とはいえ、愛した男の心が別の女に移っていく様はどれだけ辛い事だっただろう。
 特に、淀の母・お市への執心ぶりと淀の聚楽第入りは北政所にとって堪えたに違いない。長年苦しめられたお市が死んで不謹慎ながらほっとしたのもつかの間、夫は彼女そっくりの娘を室に迎えたのだから。
 しかし北政所は聚楽第における側室たちの寵愛合戦について何かを語ることはなかったし、まして自ら加わることもなかった。秀吉が死んで、唯一の嫡男を産んだ淀が大坂での実権を握っても、愚痴や嫌味の一つも言うことなく秀頼の後見を引き受けながら静かに暮らしていたのだ。
 「わたくし、出家しようと思っておりますの」
 「殿下の菩提を弔うおつもりでございますか?」
 北政所は小さく頷いた。
 「淀どのの励みぶりを見せられたら……やはり神仏は然るべき方に天下の世継ぎを授けたもうたのだと思うより他にありませぬ。浪速のことも夢のまた夢、これからは第二の人生を歩むのも悪うございませんわね」
 こんな風に、と、苗をもう一束抱えて植えていく。
 秀吉の築いた基盤や栄華は淀と秀頼に明け渡し、北政所は身を引いて秀吉との想い出に生きるつもりだということは竜子にもすぐ解った。あまりの潔さに感服すると同時に、いつまでも淀を妬む自分がどう振る舞うべきなのか、淀がどうこうではなく自分にとって何が最も良い選択なのか、竜子も考えさせられた。
 そんな時、汗をぬぐった秀頼の視線が竜子と重なった。
 「母上……」
 傘で顔を隠しても遅かった。淀が腰布で手をぬぐいながら近づいてくる。
 「竜子どの。このような姿で失礼しますわ……少し泥が跳ねるかもしれませんけれど堪忍してくださいな」
 「いいえ、構いませんことよ」
 嫌味の一つでも言われるかと身構えていた淀は肩透かしを食らったように眼を丸くしたが、秀頼は屈託なく竜子に話しかける。下がる目じりに秀吉の面影が見えた。
 「京極さまも一緒に田植えをしませんか?最初は気持ち悪かったけど、すぐ楽しくなりますよ」
 「……え?」
 「秀頼。これはあなたの仕事でしょう。人に頼まず自分でおやりなさい」
 「でも、みんなでやるのも楽しゅうございます。後でおにぎりも来ますよ」
 「……」
 竜子は何も言わずに立ち去った。秀頼は「みんな仲良くできればいいのになあ」と呟く。子供心に、側室間の諍いや家臣達の権力争いを見知っているのだ。
 淀と北政所が複雑な顔で見つめ合った時。
 「これでよろしいかしら?」
 始めは、誰が来たのかと全員が眼を疑った。長い髪を手ぬぐいで覆った野良着姿の女性。近くの農家から借りてきたのだろう。
 「まさか竜子どの?」
 「殿下直々のお誘いとあらば、断る訳にはまいりませんわ。……さあ、要領を教えてくださいまし」
 竜子は秀頼から苗の束をいくつか貰うと、教えられた通りに植えようと前にかがむ。
 「きゃっ」
 だが、平静そのような姿勢などとらない深窓の姫君は、すぐに態勢を崩して田の中に尻もちをついてしまった。どうにか淀の手を借りて立ち上がったが、今度は脚をすべらせて前のめりに転ぶ。手を引かれた淀も巻き添えになり、二人は泥の中で悪戦苦闘する。
 「ほらほら、しゃんとしなさい」
 北政所が一人ずつ両手を掴んで立ち上がらせる。全身泥だらけの姿で向かい合った淀と竜子は、どちらからともなく吹きだした。それはすぐに大笑いに変わる。
 「竜子どのったら、全身真っ黒」
 「そういう淀どのも、白粉が黒粉に代わっていましてよ」
 素敵なお姿ですこと。二人は互いを指さしてまた笑う。
 腹を抱えて笑い転げる側室ふたりを前に、北政所は秀頼にそっと囁いた。
 「……秀頼や。あなたは若い頃のあの人にそっくり。人を仲良しにさせるのが得意なのは何よりの才能なのよ。そのまま、まっすぐお育ちなさい」

 北政所は秀吉の一周忌が終わるとすぐに出家し、京都でこれまでより一回り小さな屋敷に移り住んだ。出家にあたって、石田三成の娘・辰姫を正式に養女として迎えて側に置いている。辰姫の養育係として、大谷刑部の妹も一緒に京都へ赴いた。数えで七歳の幼い姫に寂しい思いをさせまいという配慮であった。
 辰姫と大谷の妹については石田と大谷が豊臣家によって事実上の人質に取られたのでは、という勘ぐりが城内に流れたが、実際はそうでないだろう。なぜなら、人質など取らずとも石田は豊臣以外に仕えるつもりはないのだ。彼の心に裏切りという気持ちはひとかけらもない。そして石田を唯一の友とする大谷は、石田に対して絶対に裏切りを働かないのだから。彼の人柄と性分をよく知る者…豊臣の一員なら、石田から人質を取るなど無意味であるとすぐに気付く筈である。
 ここは、徳川が次々と縁戚関係を結び始めたことへの牽制だと捉える方が自然であった。石田を豊臣家の縁戚にする事で、大坂での発言力を徳川と対等に近くするために。
 秀吉の存命中には政にほとんど介入しなかった北政所の、去り際の最後の意地であったのかもしれない。


 体調が回復した石田三成は、その日、伏見城に居た。
 これまで尽くしてくれた家臣や侍女たちに、太閤から貰った調度品や着物を形見分けしたいという高台院…北政所の意向により、品物を検めていたのだ。
 検めには常陸国の主・佐竹中将義宣と、彼の茶道の師である古田織部が同行していた。美術品の価値などまるで分からない…帳簿はあるが該当する品物の見当などつかない石田のかわりに品の価値を見定めるためである。
 まる三日におよぶ品定めの後、織部の立てた茶を一服したところで
 「此度は、佐竹どのと織部どののおかげで助かり申した。申し訳ないが、私はすぐ大坂へ戻らねばならぬ故これにて」
 腰を上げた三成を、佐竹は引きとめた。
 「今から大坂へ戻っても、城に入るのは夜分になるでござろう。城下に拙者の京屋敷がございますゆえ、今宵はそちらでお休みになられてはいかがかな」
 「いえ、そこまで世話になる訳には」
 「とんでもない。治水事業に長ける治部少輔どのとお話しする機会があり申したのも何かの縁、この田舎侍に開墾の知恵を授けていただきとうございます。常陸国の東半分は川の水に海水が混ざっておる土地が多く、せっかく民が汗水流して開墾した土地に米を根付かせるためにはどういった灌漑工事を行えば良いか悩む事も多うございましてな」
 「……」
 国を豊かにする事業は、たしかに三成の得意とするところである。そして佐竹は実直で知られる国主。長年にわたって徳川と伊達に挟まれながらどちらに付くこともなかったが、攻め込まれれば勇敢に戦って追い返す。だが戦で自らの領土を拡げる意思は微塵もなく、ただ天下人への忠義と常陸の地を守ることだけに専念していると聞いている。信頼に足る相手だった。
 「……わかり申した。ならば今宵は世話になりまする」
 「礼を申すのはこちらでござる。常陸の民のために勉強させていただきますぞ」

 実は、このとき佐竹はある者の依頼によって石田を京都に引き止めていたのである。

 「殿。潜ませていた者から報せが届きました。やはり今宵動くようでございます」
 同じ日、夕刻を迎えた大坂城内の上杉屋敷。顔を強張らせた直江兼続は主に報告した。
 「伏見の方はどうだ」
 書状から顔を上げた上杉が確認する。
 「佐竹さまが上手く引き止めてくださるでしょう」
 「上々だ……源次郎」
 「はっ」
 屏風の陰に隠れていた源次郎が顔を覗かせる。
 「あとは頼んだぞ」
 「かしこまりました」
 雑色に化けた源次郎は人目をはばかるようにして上杉屋敷を退出すると厨から天守に入り、食糧庫で着替えると何食わぬ顔をして勘定処に戻る。
そして
 「先刻、石田さまは今宵遅くに伏見から戻られると遣いがあった。だが今日は城に寄らずそのままお屋敷にお帰りになるそうだ」
 と同僚たちに吹聴した。
 その中の幾人かが顔色を変えた様が見て取れたが、敢えて無視して「お疲れでござろうから、ゆっくり休んでいただきたいものだ」と続ける。
 「徳川さまはお身体が優れないゆえお休みしていらっしゃると聞いておるし、毛利さまは京にて公家の方々との宴、宇喜多さまは領地の視察にお出かけになられているという。お偉方がご不在ならば、拙者も今日くらいは早めに退出して、完成したばかりの大坂屋敷にて奥とゆっくり酒でも呑もうかな」
と、伸びをしながら付け足すことも忘れない。

 夜が更け、いったん静まり返った大坂。
 始まりは三の丸のざわめきであった。十数名の兵を従えた将が一人、二人と増え、四半刻もする頃には数十名の徒党が出来上がっていた。
 「みな揃うたな。参るぞ」
 一人の声を合図に、松明が一斉に灯る。
 「この場に集うた我ら有志、これより大老を討たんと目論む逆賊・石田治部少輔の屋敷へ向かい、奴を成敗する」
 松明の橙色で描かれた輪郭は加藤清正。
 「おう」
 応えた者達はみな、徳川家康に縁を持つ者ばかりであった。
戦で鍛えられた行動力を、大坂城内で如何なく発揮する。彼らの顔が生き生きして見えるのは、溜まっていた鬱積を成敗という名の大義名分のもとに晴らす高揚があるからだろうか。
 だが、己の正義感が徳川によって微妙にゆがめられている事に気づかない彼らは、このとき大坂城を混乱に陥れている元凶…石田治部少輔を討つ使命感で頭がいっぱいになり周囲が見えていなかった。
 数十名の将兵が駆け抜ける具足の音と松明の明かりに紛れて、一軒の廃屋に火が放たれたのである。
 火を放った者は雑色の姿であった。そして石田討伐隊が去った後に大声で「火事だ!」と叫んで回る。
 時間を問わず将兵が行き交う様など珍しくないが、火事となれば別。休んでいた二の丸の住人が次々と起き出し、たちまち辺りは大騒ぎになっていった。

 闇に溶け込んでいた石田邸の門は、兵卒らの足音が屋敷の前で止まったにもかかわらず明かり一つ点かない静けさのままであった。
 「石田治部少輔三成。先に徳川家襲撃を目論んだ咎により、その方を捕らえに参った」
 「大老を討たんとした罪は看過できるものではない。申し開きすべき事があらば、おとなしく出頭せよ。抵抗すればこの場で討つ」
 将が声高に叫んだ後で扉が破られ、兵らが続々と屋敷になだれ込んだ。さほど広くない屋敷は、誰ひとりとして脱出を許さぬよう兵で埋め尽くされる。
 だが、屋敷の中にはたった一人を除いて誰の姿もなかった。妻も、家人も。
 「虎之助か。それに福島、藤堂、浅野、蜂須賀、黒田、小西、細川左近少将まで錚々たる面々が、かような夜更けに何の騒ぎでござるかな?」
 誰もいない石田屋敷の居間にて一人写経をしていたのは頭巾姿の大谷吉継である。
 「紀之助、なぜそなたがここに居る」
 筆を持つ手を止めた大谷は、ゆったりと頭巾をもたげて加藤清正を見やる。
 「それはこちらの台詞だ。そなたと佐吉は仲違いしたと聞いておる。仲直りでもしに来たか?」
 「佐吉は居るか」
 「本日は遅くまで伏見にて政務を行っていたゆえ、今宵は京都に泊まると聞いておるが?」
 「こちらへ戻ると聞いておる。隠し立てをすると為にならぬぞ」
 「私が佐吉の行方を誤魔化す謂れなどあるまい。不審に思うのであれば、屋敷を検めるがよかろう……秀頼さまの許可証は持っておるか?」
 「ぐっ……」
 「どうやら闇討ちに参ったようであるな。それにしてもまあ、派手な騒ぎを起こしおって」
 ほれ、と大谷が扇子で庭の外を指した。三の丸の方角から煙が上がっている。
 「闇討ちであれば、もっと忍んで参るべきだぞ。それとも佐吉を討ちさえすれば騒ぎが揉み消される約定でも取り付けておるのか?」
 「お、俺たちじゃない。なあ」
 蜂須賀が狼狽えている。浅野や細川も動揺を隠しきれない。
 ゆらぐ空気を一喝とともに打ち消したのは加藤清正であった。
 「ええい、正義は我らにあり。邪魔立てするのなら、いかな紀之助とて斬り捨てるぞ」
 「まあ、そう怒るな。将はいかなる時にも動じずしてなんぼであろう」
 扇子をかざした大谷刑部は屋敷の中をぐるりと示してみせた。
 「佐吉はおらぬが、佐吉の身柄あるいは佐吉が何かを企んでいる証拠が欲しいのであればこの屋敷を検めるが良かろう。蔵も何も、隅から隅まで」
 「肥後守どの、調べましょう」
 「治部少輔が殿下の財で懐を温めたがために我らの禄が減った裏付けも取れます。ぜひ」
 (やはり、かように思い込んでおったか)
 人は、金子が絡むとかくも浅はかになれるものなのか。
 頭巾の下の大谷の表情など誰ひとりとして気づくことなく、清正は先頭を切って屋敷内…厨や屋根裏、軒下にまで家探しに入った。
 しかし、屋敷内にあったのは生活に必要最低限の品ばかり。
 そんな中、小西行長は文机の後ろに置かれていた行李から大量の文箱を見つけ出し、細川と共にひたすら中を検めていた。
 「何だこれは?」
 文箱の中に納められていたのは、秀吉が生前にしたためた幾つかの書状と佐和山領内の財政をまとめた台帳。文は中国大返しにおける戦功を労うものから治部少輔への宣旨、後は国の事業について石田からの伺い立てについての返答が殆どであった。
 「ううむ、すべて心当たりがある事業ばかりだ」
 細川が唸る。裏工作の気配もまったく見えない。
 一方、小西は佐和山の帳簿を見て愕然としていた。
 凶作により年貢を取り立てた記録が残っていない年があるにもかかわらず、城には佐和山からの年貢として石高に応じた金子がきちんと納められている。のみならず、凶作の年には領内の治水工事やそれらに動員した者への賃金なども私財から支出されていた。
 それがどういう事なのか、小西にはすぐ理解できた。
 「まさか、石田どのは自らの財で民の暮らしを支えておられたのか……」
 「『自分の財は殿下の財、日ノ本の財である、ゆえに日ノ本や民のために使うのは当然だ』それが佐吉の口癖よ」
 その場にいた大名たちにとって耳が痛い言葉を、大谷はさらりと漏らす。その結果が、この質素な屋敷なのだ。
 「……」
 振り上げた拳は空振りどころか的外れもいいところであった。とはいえ、多勢で押しかけた手前このまま引き下がるのも恰好がつかない。
 気まずい空気が彼らの周囲を支配していく。皆が互いに顔を見合わせながら落としどころを探っている時、屋敷前がざわめいた。
 「これは何の騒ぎぞ。権中納言、検めに参上つかまつった」
 声高に現れたのは上杉景勝本人であった。大老直々の登場に、襲撃者たちは一様にひれ伏す。
 「三の丸で起こった火事を検分に向かわせたところ、数十の将兵が治部少輔の屋敷に向かったとの情報が寄せられた。しかし秀頼さまは追捕の裁可など出した覚えはないと仰せだ。これら経緯を何とする」
 「それは……治部少捕は徳川さまのお屋敷を襲撃しようといたしました咎で……」
 「治部少捕が徳川どののお屋敷を襲撃した事実はない。噂は耳に入っておったが、あれは単なる風聞であったと聞いておる。それとも、何らかの証拠でも掴んでおったのか」
 「いえ……」
 「では、そなたらが勝手に動いたと解釈して良いな?」
 「……」
 先ほどまでの勢いはどこへやら、八名の将はただうなだれるばかりである。
 「秀頼さまのご裁可なしに武装した兵を動かすは、亡き太閤殿下が発せられた『総無事令』に反する行いぞ。一同、覚悟あっての行動であろうな?」
 上杉は、もはや観念した顔をした全員の名を読み上げ、控えていた直江兼続に記録させた。
 「他の大老方が不在中にかような騒ぎが、しかも大坂城内で起こったとあれば私の面子にもかかわる大事である。申し開きは秀頼さまの御前で聞くゆえ、各々それまで自身の屋敷で謹慎しておれ」
 「ははーっ」

 かくして、石田屋敷の襲撃は完全な空振りに終わったのである。此度は『義』の勝利であった。

 襲撃に参加した者達が上杉の兵に監視されながらとぼとぼと屋敷へ帰っていった後。上杉は大谷刑部に声をかけた。
 「大谷刑部よ」
 「はっ」
 「今宵の件が決着したら、私はひとまず会津に戻る。治部少輔にもよろしく伝えておいてくれ」
 「権中納言さまのお計らい、この大谷吉継からも感謝いたします」
 「……これはまだ『始まり』にもならぬ。心してかかるよう」
 「かしこまりました」

 石田屋敷からの帰路、直江兼続は火災が起こった三の丸の検分現場に立ち寄った。
 「火元は空き家だったようですな。おそらく襲撃につき従った兵らが持っていた松明の火が軒下にでも燃え移ったのでしょう」
 城の警護にあたっていた兵が報告する。
 「そのようだな。死人は出ておらぬようであるし、故意でないのなら捨て置け」
 「はっ」
 後を家臣らに任せて主の許へ戻るさなか、直江兼続は火事の興奮さめやらぬ城下の者達に紛れていた雑色の一人に目配せをした。
 顔を煤だらけにした雑色も小さく頷く。佐助と彼の仲間であっ

「徳川は、自らになびきそうにない者を排除にかかっている。その筆頭が治部少輔と、この私だ。他の大老がみな不在の時を狙って総無事令に反する事件を起こさせ、治部少輔を葬った上で私に監督不行き届きの責を押し付けようとしたのであろうが……『義』で動く者は存外多いものだ」
 自らの屋敷に戻り、一息ついた後。上杉景勝は、直江兼続と顔を見合わせてこそりと笑う。
 「安房守からの情報もさることながら、よもや佐竹が私に密告して来ようとは思いもしなかったであろう」
 憤りに満ちた佐竹の書状を手に、景勝はまた笑う。
 「佐竹どのの『義』の心は、いかな徳川さまでも動かせなかったという事でございますね」
 「石田家襲撃にあたり、佐竹に声をかけた者にも人を見る眼がなかった……『利』で動くとこうなるという見本のようではないか」
 「ですが、徳川さまがこれで引き下がるでしょうか?」
 「それなのだが……大名たちをけしかけた手前、何かしらの手は打ってくるであろう。私は此度の件で表向きでは関与しておらぬゆえ、おそらく治部少輔の方に」
 それでは解決にならぬ、と景勝は扇を顎先に宛てがった。
 「……兼続よ。国主としてあるまじき行いと承知の上で無理をしてみとうなったのだが」
 前田利家の子・利長が徳川に懐柔させられた辺りから考えていたのだと、景勝は兼続を手招きした。そして小声で自らの決意を伝える。
 兼続は驚くこともなく、むしろそう切り出すことを予想していたかのように「左様でございますか」と頷いた。
 「殿、そのご決心に迷いはございませぬか?」
 「戯れで申すことではなかろう。いかな徳川といえど、これ以上の増長は許すまじ。大老が起こした混乱は同じ大老職にある者で解決せねば、日ノ本全土に示しがつかぬ」
 言い切った景勝に、兼続は嬉しそうな顔を見せる。幼い頃、初めて馬に乗れた、初めて弓がひけた、といった小さな喜びがある毎にそれらを共有していた頃を思い出させる懐かしい顔だった。
 「……この兼続、ご幼少のみぎりより殿とご一緒に育ってまいりました。ゆえに申し上げますが……殿は変わられましたな」
 「そうか?」
 「『義』を貫くお姿は謙信公の時代から受け継がれたもの、ですがその『義』の基準が少し変わってきたようにお見受けいたします。従来、上杉の戦は義理のある国から乞われての援軍が主でございましたが、此度は殿ご自身の信念で動かれる」
 「そういえば、そうであったな。川中島すら謙信公に対する義を果たすために戦っておった」
 「畏れながら申しあげれば、それらは越後で戦っていただけでは会うことのなかった多くの者の『義』に触れた結果ではないかと」
 「ふふっ、そうかもしれぬな……いや、そうなのであろう。謙信公から叩き込まれた毘沙門天と『義』の教えを、今ほどありがたく思ったこともない」
 「兼続も、殿のお変わりようが嬉しゅうございます。険しい道でありますが、殿ご自身の『義』でお決めになられた事。かくなる上は、この兼続も身命賭して殿と国をお守りできる策を立てるのみ」
 「そなたの言葉は何より頼もしい。頼んだぞ、兼続」


 上杉の密かな決意を煽るように、徳川家康はさらなる専横ぶりを発揮した。
 石田家を襲撃した者たちに対する申し開きの席において。
 「彼らも不確かな噂で血気に逸りすぎたとは思いますが、もとはといえば秀頼さまの後見たる大老を守らんとしての行い。この忠義を天晴と讃えることはござれど、不徳を責めることなどできますまい」
 八名の庇護を求める家康の…分かる者には分かりやすすぎる擁護に反論できる者など居なかった。
 裏も、裏返せば表になってしまう。正論を並べ立てる彼の言い分は、至極もっともであったからである。糸を引いていたのが家康だと分かりきっていてもなお反論できない歯がゆさは上杉や宇喜多を苛立たせた。
 「とはいえ、このまま城内がぎすぎすしてしまっては政務に支障が出ることは必至。ここは騒ぎの元凶となった治部少輔を城の役目から解き、蟄居してもらうことが最も穏便な解決策ではないかと」
 「徳川どの。治部少輔は太閤殿下の頃より大坂城の財政を一手に担っておられた。それをいきなり蟄居となれば、勘定処が大混乱に陥りますぞ」
 「上杉どのの仰るとおり。刑部少輔が病にて隠居なさったばかりでもある今、殿下が信頼しておられた者を秀頼さまの許から離すことは国にとって得策ではございませぬ」
 上杉と宇喜多が次々と反論したが、徳川は涼しい顔をして聞き流す。
 「何の、金勘定だけであれば有能な奉行を多数集めればどうにかなりましょうて。それに、信頼と申しますが、治部少輔が真に信を集める者であったのならば、それこそ此度のような諍いも起きなかったでしょうに。目に見えぬ言葉の何と危ういことでしょうな」
 「……」
 どの口が言っているのやら。
 のうのうと言ってのける家康に淀もまた不審の眼を向けていたが、家康はそれらの視線すらまるで意に介さない顔をして「まあ、ご沙汰は大老と奉行の間で意見を募って定めればよろしいでしょう」と平然としている。殆どの奉行に家康の息がかかっているからこその言い様であった。

 「片桐且元どのに文を届けてくれ」
 襲撃事件以降、沙汰が決まるまで謹慎を命じられていた石田三成は、屋敷に事の顛末を報告しに現れた源次郎に乞うた。
 「本日をもって、私は大坂城を辞する。片桐どのより秀頼さまに直接お渡しいただくように」
 「治部少輔さま?」
 「私自身のことで、これ以上大坂の政務を滞らせる訳にはいかぬ」
 石田は迷うことなく筆を走らせた。
 「どうか思い留まりくださいませ。ただいま、上杉さまや宇喜多さまが公平なご沙汰を案じていらっしゃいます」
 「こうしている間にも、大坂の仕事は溜まっていく一方であろう。さすれば一番お困りになるのは秀頼さまなのだ」
 さらさらと花押を記した文を源次郎に渡した後、三成はがらんとした屋敷を眺めて軽く息を吐いた。
 「……刑部少輔が片付けておいてくれたおかげで、引っ越しの手間も省けたというものだ。私は今日のうちに佐和山に発つ」
 島左近が付いているゆえ、道中で討たれる心配はない。しかし、太閤への忠義という一心でこれまで多くのものを犠牲にして生きてきた三成にしてはあまりに寂しすぎる去り際であった。
 (武田の時と似ている)
源次郎の脳裏を、やはり徳川に滅ぼされたかつての主家がよぎった。あの時感じた不条理、そしてまだ政治というものを知らない若武者であった頃本能的に感じた恐怖と同じ種類の寒気が生々しく思い出される。
時間をかけて積み上げてきたものとて、崩れる時はほんの一瞬なのだ。
「あの……石田さま」
「どうした?」
「『愚直の計』……」
 「?」
「幼少の頃、武田のお館様より教わった言葉にございます」
「ほう」
 信玄公か、と三成は感心した。
 「紆直の計ではなく愚直の計、か……そなたの主は、まこと深き言葉を遺したのだな」
 「お館さまが亡くなられてから二十五年以上経ちますが、私はそれが古い考えだと思ったことは一度もありません。『愚直の計を制する者は勝つ』と私は今も信じております」
 「なるほど、それが上田にて寡兵で徳川を破った真田の…そなたの原動力であったのか」
 「いかにも。どうか諦めないでくださいまし。大坂では此度の出来事を理不尽に思っている者も少なくありませぬ」
 「同情と人望は異なるが」
 「そうかもしれませぬ。ですが、少なくとも私は石田さまを尊敬申し上げております。大谷刑部さまも、そちらにおられる島どのも。城内にも、意を同じくする者は少なくないと存じます」
 「……そうか」
 三成が着物の袂をそっと頬に当てた。
 「沙汰は秀頼さまがお決めになること。が、去り際が失望だけでなくて良かった……左衛門佐、ひとつ頼まれてくれぬか」
 「何なりと」
 「殿下が眠っておられる場所へ、これからも参ってほしい」
 「……承知いたしました」

 三日後。治部少輔の職を解かれた石田三成は大坂の居館を半日で引き払い、わずかな家人とともに佐和山城へ旅立っていった。
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