第7話 白鷺と敦盛

文字数 21,739文字

天正十二年・春日山城

 平和が戻った春日山城の秋は早い。源次郎が越後に来てからあっという間に季節は廻り、雪が自国の防護柵にも侵攻を阻む壁にもなる季節を目前にして収穫を終えた越後では祭の季節が訪れていた。今年は宿敵である佐々に勝利した祝いもあって、城内の空気は明るいものがあった。戦後処理を終えたばかりの直江兼続も、戦などなかったかのように毎年の検地や作物の出来具合、領民の暮らしぶりを確認するべく奔走している。
「ほう、なかなか筋が良い」
 加賀から招かれていた奏者の指導のもと、城内の能舞台を借りて舞の手ほどきを受けていた源次郎のもとへ手を叩きながら現れたのは上杉景勝だった。源次郎は慌てて階段を下りて膝をつく。
 「これは……未熟なところをお見せしてしまいました」
 「いや、それだけ舞えれば上々。そなたは器量が良いゆえ、雅を身につければ公家連中をも魅了できるやもしれぬな」
 まさか自分の正体を見破られているのではないか。身を固くした源次郎を見た景勝は、ただ優雅に微笑むだけであった。自らを毘沙門天の生まれ変わりと称した景虎…謙信がもっとも自分に似ていると気に入って養子にした者もまた神仏の生まれ変わりなのだろうか。だとしたら天眼くらい持っていてもおかしくないと思えてしまうような、慈愛に満ちた笑みだった。
 「器量など……私は武力以外のもので世を渡るつもりはありませぬ」
 「ふふっ。私に召されるのではと思うたか?」
 「!!」
 思わず両手で肩を抱えた源次郎を、景勝は「冗談だ」と笑い飛ばした。
 「上杉は衆道の家、というのが世にまかり通っておるからな。実際は謙信公が戦と信仰を人生の最優先に置いている方だったゆえ世継ぎに無頓着だっただけなのだが……まこと、噂というのは下世話な尾ひればかりが悪目立ちするものだ」
 「はあ……いえ、そのようなことは…あ、謙信公は立派なお方だったということは存じ上げておりますが」
 「ははは。一般的な『たしなみ』以外は他の大名と変わらぬよ。が、私自身は衆道に興味はない。安心せよ」
 それはさておき、と景勝は話を戻した。
 「武力で勝ち負けを競うにも、戦という舞台へ上がる機会を与えられなければ叶うものではない。そして舞台へ上がるためには、相手の目を惑わす品格という術も必要ぞ。官位を授かるには公家の覚えがめでたくなければならない故、武士はみな茶の湯や能といった芸事にも精進している。が、それは決して悪いことではない。雅によって磨かれた品格はおのずと他者を圧倒し、一目置かせることができるからだ。私はからきしだったが、謙信公は琵琶の名手として名高かった。だからこそ将軍家との交流が生まれ、越後は今でも安堵していられるのだ」
 「金言、心に刻みましてございます」
 「うむ。……実は此度の勝利と今年の豊作を祝して、ささやかな宴を催そうと思うのだ。功労者の源次郎には皆の耳目が集まっておるゆえ、余興として舞のひとさしでも披露してはもらえぬだろうか」
 「ありがたきお言葉にござりまする。しかし私の技量ではお目汚しにしかならぬかと」
 「たしなみは見られてこそ上達するものだ。それに今の上達具合ならば誰が文句をつけるものぞ、怖れずにやってみるがよい……そうだな、禅竹の『賀茂』など所望しようか」
 『賀茂』とは、『白羽の矢』という言葉の由来になった猿楽(能)であり、物語は謎の女が語り部となって神官に聞かせるという形で進む。
美濃国賀茂に暮らしていた信心深い乙女のもとへ、ある日川の上流から白羽根の矢が流れついて手桶に止まった。何かの宣旨だと直感した女は白羽根を大事に飾っておいたところ、どういう訳か男児を懐妊し出産する。
その子は白羽根の矢の本尊である別雷(わけいかづち)の神が女の体を借りて誕生させた子であった。産後、女は別雷の神と対面し、神との間に授かった子とともに自らも神となり天界に昇華していったという幻想的かつ勇壮な作品である。
最後には語り部の女も『もしかしたら、わたくしもやんごとなき神かもしれませぬよ?』と神官に言い残して去っていくのだ。
 神に見出された証の白羽の矢に源次郎の武勇の才をなぞらえ、語り部となる女と白羽根を授けられた女それぞれの優美さと面妖さをもって源次郎の内面にある雅な一面を演じさせることで観衆を魅了させる。教養ある景勝ならではの所望であった。
 「かしこまりました。殿じきじきのご所望とあれば、そのお気持ちにお応えできるよう精進いたします」
 源次郎はその日から賀茂の稽古に励んだ。舞う一節だけでなく物語の全容を学び、心中を想像しながら舞うことを考える。

名ばかりは白真弓のやんごとなき神ぞかし

まず物語の解釈から入り、語り部の女は白鷺に変化した水の神、水波能売命(ミヅハヒメ。古事記に登場する神)かもしれないと解釈した源次郎は、水飛沫を上げて舞う鳥のように軽やかで柔らかな舞を目指した。
「源次郎さまが『賀茂』を舞われますと、まことの姫神様が降臨なさったようでございますわね。まことにお美しくて、おなごのわたくしでさえ見とれてしまいますわ」
 舞の練習のために屋敷の庭を貸りていた兼続の屋敷にて、兼続の妻・お船は練習を見ながらしきりに源次郎を褒めていた。後の世に伝統文化となった歌舞伎…この時代ではまだ出雲阿国という歩き巫女が原型となる舞を各地で披露していただけであるが…がそうであるように、男性が女性を演じる場合、より女性らしく演じることを意識して細部にまで気を配る。そのため本物の女性が舞うよりも女性らしく見えることが多いのだが、源次郎の場合は男性の仕草が身についてしまっているものの中味は正真正銘の女性、男性が意識する仕草への気遣いと女性らしい風貌を既に併せ持っているのだから手先の動き一つ取ってもより柔らかく優雅な仕上がりとなる。お船が魅了されるのも無理がない。
それでも源次郎は稽古に余念がなかった。衣装もお船に見立ててもらい、後は平常心で臨めば良いだけにはなっていたのだが、それでも大人数の前で歌舞を披露するのは初めてなので、出陣とは別の次元で緊張する。どうしても自信が持てない。
 いよいよ明日が宴という夜。自分の屋敷に戻り寝所に入った後もなお落ち着かない源次郎は、振りを確認しておこうと思い立って鹿皮を羽織ると一人で中屋敷を出て春日山の麓にある社の一つに上った。
明日は満月、ほぼ円に近い形で南を目指して上る月明かりが伴である。この時刻になると景勝も兼続も屋敷へ戻り、城に詰めている武士も、社より上層にある千貫門を守る者だけを残してみな引き揚げていた。
 それを知っている源次郎は、誰もいない社の庭を借りて舞の練習をしようと思ったのだ。
 だがその夜、社には先客がいた。

 人間五十年
 化天の内をくらぶれば
 夢幻のごとくなり
 一度生を享け
 滅せぬ者のあるべきか

 境内へと続く階段を上る途中で唄が聞こえた。よく通る声が唄っていたのは、猿楽『敦盛』の一節であった。かの織田信長は炎上する本能寺でこの曲を舞いながら炎の中に消えていったと聞いている。
 (この時間に誰だろう)
 自分と同じく、明日の宴で舞を披露する者だろうか。源次郎は階段から外れると横道に回り、遠慮がちに庭の外周から社の陰に回って庭の様子を伺った。
 蒼い月の下で敦盛を舞っていたのは、源次郎とさほど年齢が変わらないと思われる少年であった。春日山城に勤める武士でも、道場の者でもない見知らぬ顔である。
 少年は右眼を布で覆っていた。さほど戦を重ねているような年齢ではないから、戦でそうなった訳ではなさそうである。おそらく病であろう。
 だが、そんなことは彼の容貌を語る上で何の負にもならなかった。年頃の源次郎がその言葉を用いるのは少なからぬ抵抗があったが、正直に言って美男子である。
 そしてその舞も、まだ付け焼刃程度でしかない源次郎のものとは比べものにならない優雅さであった。
 『敦盛』は人間誰もが絶対に避けられない滅びを悟り、嘆くようにも恨むようにも、ある者は己の運命に開き直ってしまう際に自嘲をこめて引用したりもする曲なのであるが、少年の『敦盛』はそのどれもと違っていた。
 滅びの唄であるのに世を儚むようなものではなく、月の下で咲き誇る宵待ち草のように美しく力強くあった。逞しく堂々と、生きる力を見せつけるように舞っているのだ。
 いずれ滅する短い生とはいえ、自分はその時間を力の限りに生き抜いてやる。そういった気力に満ちた『敦盛』を舞っていたのだ。
唄ひとつでも、解釈や技量の違いでここまで別のものに見えてしまうものなのか。ついつい源次郎は感嘆のため息をついてしまった。
 そして、少年には月の光がこの上なく似合っていた。すべてを焼き尽くしてしまうような灼熱の太陽ではなく、静かに相手を射抜くような月である。優美に、鋭く。鎮守の森に囲まれた境内の真ん中だけに届く月の光が少年の紙や羽織を反射して、まるで幻影のように少年の輪郭を映し出していた。
 ……これが本当の素養なのだ。
 源次郎は一瞬で理解した。おそらく、少年は幼少の頃から雅に触れて育った家の者…根っからの国主か公家、それに準ずる者なのだろう。景勝の言うところの『品格』とはこのことかと、源次郎は自分が恥ずかしく思えてしまう。景勝やお船に褒められて舞い上がった気持ちが一気に色あせてしまった。
 このような品格ある者なら、きっと景勝の客人だ。そう思い込んだ源次郎は気が緩み、うっかり少年の視界へ入り込んでしまう。
 「誰だ?」
 優美な出で立ちが一瞬で凍りつき、厳しく誰何する声が夜の空気を割った。吟じている声よりも一段階低く、獣の威嚇のようである。
 「あ……」
 「なんだ、城の侍か」
 少年はまったく悪びれることなく……むしろ邪魔をされてむっとしたような顔をして扇子を懐におさめた。
 「こんな時間まで見回りとはお役目熱心だな」
 光のない右眼の分の輝きまで受け継いだような左眼が、鷹か隼のような鋭い光で信繁を睨んだ。夜が似合うのは、闇に吸い込まれないほど強い眼光を持っているからなのかと信繁は納得した。
 「見回りではない……近くまで来たら唄が聞こえたので……」
 「近く?こんな時間に散歩するような酔狂者がいるくらい越後は平和なのかよ。佐々に一泡吹かせて舞いあがっているか?」
 「平和の何がいけない。越後は豊かな土地、それを守る殿がいらっしゃるから武士も領民も国のために働くのだ」
 「ごもっとも。上杉ほどの人格者はめったにいないさ。だから夜中に散歩もできるんだろうな。まあ、悪いことじゃない」
 なあ、と少年はおどけて拝殿の階段に腰を下ろした。
 「まあいいさ。勝手に境内を借りたのはこっちの方だし、ちょっと休憩させてもらうとするか……俺が不審だっていうなら見張っていてもいいぞ?」
 正面から顔を合わせてみると、まことに少年はよく整った顔立ちをしていた。隻眼と異形がまったく別次元のものであることを彼自身が証明している。太い眉は瞳の頂点に向かってまっすぐ線を描き、そこから眼尻まではゆるやかな曲線を描いて意思の強さだけでない優雅さを兼ね備えていた。瞳は猛禽類、高い鼻の芯に太い筋が通り、薄い唇へと下りていた。背は源次郎より頭半分くらい高かったが、体格はいわゆる武将のようにがっしりしている訳ではなく、むしろ小柄で細身である。
雅と武勇、扇子と刀のどちらも似合っているが、どちらがより的確に彼を形容しているかといえばやはり武勇だろうと源次郎は思った。顔は笑っているが、佇まいにまったく隙がないのである。
 「なんだ?俺の顔に何かついてるか?」
 源次郎はずいぶんと長い間彼の顔を眺めていたらしい。怪訝さを隠そうともしない少年に睨まれ初めて我に返り、返す言葉をなくした。
 「そ、そうではない……えっと」
 舞の…そして少年の容貌の美しさに見とれていた、などとはとても言えなかった。これまで経験したことがない部類の恥ずかしさが源次郎から言葉を奪う。
そんな気持ちにはまるで気づいていないのか、少年は片目の眉尻をわずかに上げ、右手で自分の右眼を指さしてみせた。
 「じゃあ、俺の眼が珍しかったか」
 「そんなことはない。とても強くて良い眼だし、舞も素晴らしかったぞ」
 「なんだ、見てたのかよ」
 少年は肩をすくめた。
 「傳役が忙しいからこのところ運動不足だったし、かといって境内で刀など振り回すのも無粋だからと思って舞にしたんだが…。高名な猿楽師直伝の俺の舞を見るとは、高くつくぜ?」
 「拙者は金子など持ち合わせていないが」
 「ばか、冗談だ」
 若いのに融通がきかないな、と少年は軽く笑った。馬鹿にしたような笑みではなく、源次郎の反応を純粋に面白がっている様子である。それが伝わってきたから、源次郎も本気で怒ることができない。
 「おまえ、越後の人間じゃないな。どこかから人質に取られて来たか」
 「なぜ分かったのだ?」
 「喋り方が越後の人間と少し違う。俺の知ってる国とも違うな。上杉に人質を出さなければならない弱小国となると、武田の旧領か、それとも織田方だったか」
 「随分と失敬な!私の国元は弱小とはいえ、武家の魂は忘れておらぬ。そもそも人の故郷を勝手に弱小などと侮るそなたこそ器が知れるではないか」
 「そいつは器を測る物差しの大きさの問題かもしれないぞ?比べるものが少ないから、どうしても『知っているもの』と比べて大きいだの小さいだの言いたがる」
 源次郎の精一杯の罵倒にも、少年はまるで怯まなかった。何を言われても動じず、自分の知りたいことだけを聞き取る耳を持っているのだろう。かなりの大物ぶりである。
 「まあいいさ。あんた、名前は?」
 「さ、真田…源次郎信繁と申す」
 告げてから、しまったと思った。もし目の前の少年が上杉に敵対する国の者や密使だとしたらどうするのだ。
 この場で斬り合いになることを覚悟してさりげなく刀に手をかけた源次郎に対し、少年は「へえ」と可笑しな声を上げて珍しそうに源次郎を見つめただけだった。
 「女みたいな顔してるけど、名前は一丁前に男なんだな」
 「ぶ、無礼な!それがしはれっきとした……」
 れっきとした何だというのだ。しかし一人で足掻く源次郎の姿に少年はあまり関心がないようだった。
 「真田、ってことは信州上田の……あそこは……ふうん」
 少年は顎に手を当てて記憶を探り、一人で納得したようにふむふむと頷いている。
 「まあいいか。今のところ、あっちには興味がない。俺は……ここじゃ姓は名乗れないが、とりあえず藤次郎とだけ言っておく。またどこかで会うかもしれないが、この眼を見れば俺だとわかるだろ?」
 「待て。その言い方からすると、そなたはお館様の客人ではないのか」
 「そんな事、一言も言ってないと思ったけどな?」
 「ならば草の者か」
 「いや、ただの散歩。俺も酔狂…いや、『うつけ』と呼ばれて久しいんでね」
 「国をまたいで散歩する者がどこの世にいるものか。そなたが敵国の間者であれば捨て置く訳にはいかぬぞ。捕らえてお館様に引き渡さなければ」
 しかし、抜刀しようとした源次郎の手は束を握ったままぴたりと止まってしまった。いつの間にそうしたのか、座ったままの藤次郎が腕を伸ばして源次郎の刀の束先を手で押さえていたのだ。
 「それはまずいな。おまえの主にばれると色々厄介だ」
 武田でも上杉でも褒めそやされた手腕をいとも簡単に封じられ、のみならず飄々とした態度を崩さない藤次郎に源次郎の怒りは止まらない。力ずくで抜刀しようとしたのだが、力点を押さえてしまった藤次郎の手は源次郎の刀の束頭に吸い付いて離れなかった。
 「俺は戦がしたくて各地を回っている訳じゃない。ただ、いくらか世が落ち着いているうちに自分の目で日ノ本を見ておきたいだけだ。だから今は事を荒立てたくない」
 どうにか抜刀しようと体を振り回してもがく源次郎を平然と押さえながら目の前に顔を寄せ、藤次郎は空いていた左手の人差し指を口許で立てた。
眼と眼が合った二人の間を静けさが通り過ぎる。
だが源次郎の胸が大きく鳴る前に、通ってきたのと反対側の藪を掻きわける音が聞こえた。
 「ああ、連れが来たようだ。まだ死にたくないなら早く逃げた方がいいぞ。連れは自分で架けた橋だって叩きながら渡るような奴だから、見つかったらおまえは確実に井戸にでも放り込まれる」
 「私が井戸に落ちるような間抜けでないことは皆が知っている。だから私が井戸で死んでいたら城内は大騒ぎになるぞ。そなたの素性が知れれば、他国を勝手に侵したとして戦になるかもしれぬ」
 「戦を起こされて困るのはそっちだと思うけどな。上杉はまだ加賀の戦から日が経っていない。佐々の奴も徳川に門前払いを食らって越中に戻って来るというから、上杉を潰したい『どこかの国』と組んで意趣返しを挑んでくる事も充分あり得るだろうし」
 随分と高く出たものだ、と源次郎は内心恐ろしく思った。藤次郎の言葉はただの脅しや誇張ではないと感じたのだ。近くで見れば、着ている物も扇もみな景勝と同じかそれ以上の品をつけている。となれば彼はまさしく『どこかの国』の国主か嫡男に相当する者なのだろう。
どこの国か知らないが、弱小な真田家が立ち向かえる相手ではないのは確実。いや、捕まることなど念頭になく堂々と上杉領内に入り込んでいるところを見ると、もし捕まったとしても景勝の裁量で放免されてしまうような大物の可能性もある。
結局、こんな子供の喧嘩のような諍いすら最後は権力がものを言ってしまうのだ。
 源次郎は、せめてもの抵抗として精一杯の憤りを顔に表して少年を睨んだ。藤次郎が『腹を立てるだけの矜持はあるようだな』と余裕の笑みを返してくるのが憎らしい。
 「ここで俺と会ったことは内緒にしておいてもらえると助かる……ほら、行けよ」
 「そんなことを言って、追い討ちなどしないだろうな」
 「追い討ちなんてのは未熟者がする事だ。やり合うなら正面きって正々堂々と、そうだろ?」
 「くっ……!」
 ほれ、と藤次郎が源次郎の刀に当てていた右手を軽く前に押し出すと、源次郎は勢いで二、三歩よろめいた。まろびながら立ち去る、という恰好悪さを藤次郎は軽い笑みで見送り、のみならず『またな』と手を振って杜に消えた。
 (なんていう奴……!)
 軽くあしらわれた屈辱と怒り、恐怖がないまぜになった胸を抱えて山を下り、家人が心配する声を振り切って夜具に潜り込んだ後も、源次郎の心は乱れたままで鎮まることはなかった。
 あの少年がいずれ長じて、天下の覇権争いに加わってきたら。
 真田家は無事でいられるだろうかという大きな勢力図上での不安の他に、『負けたくない』という気持ちが源次郎の心を横切るのだ。
 (信玄公、今宵はどうしても『まいった』と言う気持ちになれません)
 源次郎にとって、藤次郎は同年代で初めて出会った格上の武士であった。身分の貴賤だけではない。彼が身に着けている、目に見えないもの…武士としての技量や器量、度胸、頭脳、すべてにおいて自分をあっさりと超えている者が居た事が衝撃であり悔しかったのだ。
 いつの間にか思い上がっていた自分の鼻柱を思い切りへし折った男。もしも将来彼と戦うことがあったら、その時は絶対に負けたくない。
 それを『嫉妬』と呼び、嫉妬した相手をねじ伏せたいと考えることが己の未熟さ…藤次郎はすでにそういった領域をも超えているのだが…であることも棚に上げて、源次郎は悶々とした心ごと夜具の中で一夜を明かした。
 腕っぷし、物腰、度量。いずれにおいても、いつか藤次郎と肩を並べるような武士になりたい。夢現の中、心のどこかがそう囁いたような気がした。


 翌日、源次郎は兼続に春日山の警護について改めて訊ねてみた。だが兼続は「この春日山だけでなく、城下にだって怪しい者は入ってこられぬよ。よそ者が居れば領民が通報してくれるからな」と胸を張ったのだ。
 兼続の面子を尊重して昨夜の出来事は胸の内に秘めておこうと決めたが、ならばあの藤次郎という少年は不審がられないよう……源次郎が第一印象で騙されたように、客人の振りをして堂々と越後の領地を闊歩してきたのだろうか。やりかねないが。
 (なんて肝の据わったことを)
 後になって考えれば考えるほど腹が立つ。同時に、警護に絶対の自信を持つ国の目ですらかいくぐる者が実際にいるのだ、それも忍びではなく国主のような立場で、いう事実に源次郎はうすら寒いものを覚えた。
 そのような者が、今の日の本にはごまんといるのだろうか。藤次郎が不世出の男なのかどうかは分からない。彼ひとりを打ちのめしても、すぐにまた違う誰かが出てくるかもしれない。
この先、自分はどうやってこの世を生きていけばよいのだろう。父のように権力の尾根を渡り歩くにしても、戦で正面きって戦うにしても。
(私はもっと高みへ上らなければ駄目だ。ここで留まっていては、これからの世を生き抜けない)
 たった一つの武功で浮かれていた自分の慢心と昨夜の寝床で悶々としていた思慮のない怒りを戒め、源次郎は自らにさらなる精進という目標を掲げた。文武だけでなく、人の度量というものは何なのかも考えていかなければならない。ただ物理的に負かすのではなく、人間としても藤次郎に負けたくないと本気で思うのなら、這い上がらなければ。
月に描かれた優雅な姿と強い力を秘めた左目は、絶対に忘れない。

 このとき出会った少年……藤次郎がふたたび源次郎の前に現れるのは、まだしばらく先の話である。源次郎が『真田源次郎信繁』から『真田幸村』と呼ばれるまで成長を重ねてゆくのと時を同じくするように、『月の男』藤次郎は時満ちて天へ上る日を静かに、だが耽々と待つことになるのだ。

【天正十三年・上田】

 「さて安房守。沼田の件であるが」
 家康の一言が、すべての引き金となる。

 浜松に呼ばれた時点でうすうす察しがついていたが、それでも昌幸は(ついに来た)と身構えた。
 小牧・長久手での戦で徳川勢が受けた痛手は修復されていたのだが、羽柴秀吉との講和に応じた不満は家康の心にまだ燻っているのだ。家臣達も家康の鬱憤晴らしのとばっちりで相当無茶な命令を出され困惑していると聞いている。
 「先の戦、思っていた以上に激戦であった。北条の援軍があったおかげでどうにか乗り切れたようなものなのだが……」
 あえて北条を持ち上げた後、家康は昌幸を見やった。
 「その見返りとして、棚上げになっていた沼田城明け渡しを早くしろとせっつかれた。約定は守らねばならぬし、借りを返さねばならぬのもまた筋。違うかな?」
 「……」
 「そなたが渋る気持ちも解るが、現在、徳川と北条は協調関係にある……わかるな?」
 真田があくまで渋る場合は徳川・北条が一緒に信濃を潰しにかかるぞ。語尾は念押しではなく脅迫の色がありありと透けていた。
 威圧する家康を前に、昌幸は苦渋の表情を浮かべて唸るように言葉を絞り出す。
 「……承知いたしました」
 「おお、そなたの口からその言葉が出るのを待っておったぞ」
 一気に顔を緩めた家康に向かい、昌幸は「ですが」と顔を上げた。
 「代わりに上田の城をわが真田に任せていただきたい。でないと信濃の国衆を説き伏せられませぬ」
 「上田の城はじき完成するのであったな。上杉を真田が抑えてくれるのならば、儂にとっても願ったりじゃ。約束しよう」
 「では、この場にて一筆お願いしたい」
 そうすれば沼田の件は速やかに取り計らおう。そう言って譲らぬ昌幸に、家康は嘲りが混じった溜息で応える。
 「余程信用しておらぬのだな。まあよい、木の香も新しい城は、きっと沼田の古城の事など忘れてしまうくらい快適ぞ……これ、数正」
 「はっ」
 家康は控えていた石川数正に命じて奉書紙を用意させると、上田の城のことは真田安房守昌幸に一任するとしたためて花押を記した。
 「小牧の戦、北条の援軍があれば勝てぬ戦ではないと踏んでおったのだが……この石川めが、儂の反対を押し切って織田信勝公と羽柴との間の同盟を取り持ってしまったのじゃ。おかげで儂も羽柴に傅く羽目になったわい。幼少から苦楽をともにした仲なのに分をわきまえず、己が儂と同じ裁量を持っていると思い違いしおって」
 黙々と書道具を片付ける石川を見れば、口の端が固く結ばれている。奥歯を噛みしめている口許であった。

 「ふう。狸親父の相手は疲れるわい」
 上田に戻った昌幸は、真田山城で待ち受けていた源三郎や国衆たちを前につい愚痴をこぼした。
 (狸同士の化かし合いだな)
 大叔父の矢沢をはじめとした国衆は苦笑いを隠そうともせずに昌幸を労う。昌幸自身もその笑いの意味を充分解っていたので、敢えてきょとんとした顔をして上座についた。
信濃国衆の結束があるからこその空気である。
 「……それで、殿は本当に沼田を明け渡すのでございますか?」
 「まさか」
 案の定、昌幸は即答した。
 「徳川は北条との共闘をちらつかせておったが、沼田と上田、どちらを獲るかと訊かれれば、北条は迷わず沼田を選ぶ。ゆえに北条は沼田に『釣られて』おいてもらおう。徳川だけを相手にするのなら、けっして苦しい戦とはならぬ」
 「さすがはわが甥よ。沼田は我ら矢沢家が守り抜くゆえ、安心して上田の守りに専念するがよかろう」
 「大叔父上、頼みまするぞ」
 「しかし徳川と手切れになれば、数千の軍を差し向けてくるでしょう。対抗するために、信濃でどのくらいの戦力が集められるか……」
 「うーむ」
 沼田を守る矢沢以外の国衆たちが、それぞれが動かせる兵の数を読み上げていく。総計は誰かが計算するまでもないものだった。
 「合わせて一千二百といったところか」
 「しかも殆どが農民兵だ。武士を生業としている者はほとんどおらぬ」
 はたして本当に勝てるのか。皆が腕組みをする中。
 「多ければ良いというものでもないさ」
 昌幸だけが楽観的だった。
 「この信濃の地の地理、地形、気候、民の気質、それらを誰よりもよく知っておるのは何者だ?」
 「それは無論我ら国衆だ」
 「そうであろう。力には知恵で迎え撃つ。寡兵がゆえの機動力を活かして戦に勝つのだ」
 そのために。昌幸は地図を広げた。
 「上田城本体はこれでもかという程頑強な造りで徳川に普請させておるが、城下町を設計したのはわしだ。家並みや寺の配置も一任されておる……ほれ、このような」
 ちょいちょい。閉じた扇の先端で地図上のいくつかの地点を指し示すと、国衆は一様に「おお」と声を上げた。軍議に加わっていた源三郎も「たしかに」と感心する。
 「これは、してやられましたな」
 「徳川は堅牢な城の普請を己の配下にさせた事で城内すべてを自分の庭のように思っておろうが、それは誤りだ。城は周りを固める町も含めて『城』なのだ」
 「人は石垣……信玄公の座右の銘でございましたな」
 「左様。無論、最終的には信濃の団結力がものをいう。これはあくまで机上の論法である事を忘れるな。だが我らは必ず勝つぞ!」
 「応!」
 負ける気がしない。『気運』という言葉があるように、周到な計画さえ立ててあれば往々にして士気は戦の流れすら変えてしまうものなのだ。


 昌幸が徳川に沼田の明け渡しをせっつかれていた頃から。
 源次郎は景勝の命によって上田により近い松代の海津城に駐留していた。すぐ隣に妻女山、南に千曲川と川中島。北東にそびえる地蔵峠の向こうはもう砥石城である。海津は祖父・真田幸隆の代まで遡る真田の遠縁がかつて治めていた城である。自らの発祥に近く、武田信玄の息吹を感じられる土地に滞在できることに……源次郎を信頼して城を預けてくれた景勝の配慮に源次郎はいたく感謝し、その地で伴の矢沢頼康とともに修身に励んでいた。
 が、それは来るべき戦を見据えた動きであったことを知る。

 「佐久に徳川軍が集結しているとの報が入った」
 小暑に入ったばかりのその日、上洛の途中で海津城に立ち寄った景勝は出迎えた源次郎にそう切り出した。

 「小牧での戦が終わった後、徳川が同盟相手となった真田に対して北条への沼田城の明け渡しを要求していたという話は聞いていたが……」
 「あの、上田の情報は何かございますか?」
「真田家は完成したばかりの上田城に兵を集めているが、一部の信濃国衆は沼田に兵を展開したそうだ。あくまで沼田は渡さぬようであるな」
 「それはきっと我が父でございます」
 頼康が今にも飛んで行きたそうに北東に目を向ける。庭で野菜の手入れをしていた楓も心配そうに作業の手を止めて会話に聞き入っていた。
 「そして」
 景勝から目配せされた兼続が言葉を引き継ぐ。
 「真田どのからわが国に対して、兵のかわりに『毘』の旗指物の使用を許可してくれぬかと打診があった」
 「旗、でございますか」
 「上杉との同盟関係をいよいよ公にすることで、徳川と手切れにするつもりなのだろう。私はその申し出を承諾し、既に旗を送っておる。足りなければ好きなだけ模して作れば良いとも伝えた」
 「殿はそれでよろしいのでしょうか?」
 「北条であれ徳川であれ、沼田を敵方に押さえられるのは上杉にとっても痛手だ。わが国を後ろ盾にして真田が守り抜いてくれるのなら、それは上杉にとっても利となること」
 「しかし、勝算のない戦を父が行うとは……」
 「敗けるつもりで戦を起こす者などおるまい」

 上田も沼田も我が城とする。

 源次郎が越後へ発つ前、たしかに昌幸はそう言っていた。たしかに、父も祖父も目的…信濃の土地を守るためなら手段を選ばぬ人物ではあるのだが。

 「私が探らせたところによれば徳川の兵は五千を超えそうだ」
 「五千!信濃にそのような兵力はありませぬ」
 せいぜい半分かそれ以下だろう。高梨と矢沢という二大主柱のうち矢沢が沼田に居るというのなら、さらに兵力が少なくなる。
 黙りこくってしまった源次郎の頭上から、景勝の柔らかい声が降る。
 「行くがよい」
 「よろしいのですか?」
 「そなたが信を裏切らぬ者である事は、この二年でよく見せてもらった。それに上杉と真田は同盟関係、真田の勝利に手を貸すことに何の障害があろうぞ」
 「ここからなら、今日のうちに上田に入れるであろう。殿のお気持ちを無駄にするな」
 兼続が言葉を添える。そこで初めて自分の海津城滞在が景勝の配慮だったことを知った源次郎は深々と頭を下げる。
 「……かたじけのうございます。必ずや良い報せを持って上杉さまの許へ戻ってまいります」
 「うむ。その言葉、実に頼もしく思う。武運を祈る」
 そわそわと決断を待っていた頼康を伴い、源次郎はすぐ出立の支度にとりかかった。


 「おお、源次郎」
 湯漬けをかきこんだ源次郎と頼康は海津城から地蔵峠を越え、砥石城の北を回り込むように流れる神川沿いを馬で駆ける。佐助達は山間を先回りし、先触れとして城に駆けつけている筈だった。
 砥石城へ続く寺の参道脇を過ぎたところで、源次郎は出浦盛清に呼び止められた。
 「出浦さま!織田方におられたのではないのですか?」
 「私の仕事は長可どのを落ち延びさせるところまで。役目が終わったゆえ、暇を貰って真田家に勤め変えをした」
 「それは……父もたいそう心強いことでしょう。して、上田はどうなっておりますか」
 「おう。安房守はやる気満々だぞ」
 せせらぎで馬に水を飲ませている間に上田の現状について語ってくれた出浦は、ニヤリと笑ってみせた。戦が差し迫っているとは思えないような…むしろ心待ちにしているような笑みなのが薄ら寒い。
 「私は安房守の命でこの地に配置されておる。戦までの間に『工事』をするつもりなのだが、なにぶん突貫工事なので人手が必要で困っていた。先触れの任が終わったら佐助達を借りてよいか」
 「私は構いませんが……砥石城の防御に砦でも作るおつもりですか」
 「そんな時間はない。が、短い時間で砦よりもっと凄いものを作ってみせる」
 「それはどのような」
 「私の口から申してはつまらぬであろう。上田城にて直接父から訊くがよい」
 出浦は、やはり戦を楽しみにしている。源次郎はそう確信した。
 父は一体どのような采配を振るうつもりなのだろうか。


 砥石城の南、信濃国の民は海士ヶ淵と呼んでいる土地に上田城はあった。普請工事が始まる前に越後へ赴いていたため、源次郎がその眼で見るのは初めてである。
 「本当に城が出来たのだな」
 「はい。見事でございます」
 遠目に真新しい城壁や櫓が見えてきた瞬間、頼康と二人して感嘆の声を上げてしまった。
海士ヶ淵はその名のとおり千曲川の蛇行によって山肌が削られてできた淀みである。城は淵が長い歳月をかけて削った岩盤の真上に築かれ、淵を天然の堀として利用している。城から東方向に短い間隔で左右に蛇行する崖と並行するように城下町が作られていて、その南北は千曲川と神川から引き込んだ水堀に守られていた。街並みも既に大方整えられ、家臣たちの屋敷や方位よけの寺社もあちこちに建立されていた。
 二年前とはまるで様相が変わってしまった上田の町並みを見ると、改めて真田は一国を構えたのだと実感させられた。そのあり方も、従属ではなく死守に変えていかなければならない。
 そのために今回の戦は大きな意味を持っているのだろう。絶対に潰される訳にはいかない。
 「源次郎さま!よくお戻りくださいました!」
 固く閉ざされた門の番をしていた兵は源次郎の顔を見ると歓喜し頭を下げ、すぐさま城内へ通す。城内にいた見覚えのある兵も、みな口々に「お待ちしておりました」と喜んでくれた。初めて入る城なのに、ここは自分の『家』なのだ。そう思うと不思議な感じであった。
 すべてがまだ新しい上田城内では、すでに戦の支度が進んでいた。本丸西の曲輪には馬が集められ、武器庫の前で鉄砲の手入れを入念に行う足軽隊の姿もある。東虎口の門からは兵糧や火薬など物資が続々と運び込まれていた。
 源次郎は到着するとすぐさま天守で指示を出していた昌幸のもとへ挨拶に出向いた。源次郎帰還の連絡を受けて母の山手もすぐ駆けつけ、緊張した空気の中で久々に親子の対面が叶う。真田の屋敷は本丸から東櫓口を出て外堀のすぐ側、三の丸の南に建てられていると聞いた。それでも連絡が行ってから到着まで一時とかからなかったのは、母が源次郎の帰還を今か今かと待ちかね支度していたからだろう。
 「繁や、よくぞ無事に戻ってくれました。越後での活躍は母の耳にも届いておりましたよ。慣れない土地での暮らしはさぞ辛かったでしょうに、本当に立派になって……ささ、召し上がりなさいな」
 山手はまず源次郎を抱きしめ、それから自ら用意した甘葛の湯を勧めて再会を喜んだ。昌幸も「よい面構えになったな」と目を細めている。
しかし、つもる話をしている間もなく敵の勢力を探りに出ていた昌幸の斥候が報告を持って上がって来たため一家団欒はすぐに軍議の場と化した。
 報告によれば、徳川を率いるのは鳥居元忠や大久保忠世といった家康の腹心として知られた錚々たる武将だという事であった。他にも昌幸がよく知っている武将が複数参戦している。
 「ほう、三枝に岡部、保科も参戦しているのか。まったく因果なものだ」
 源次郎も彼らの名前は聞いたことがあった。武田信玄のもとでともに戦っていた父の仲間である。武田滅亡の後、それぞれが故郷の領主として主に徳川に従軍していた。
 「いきなり鳥居が来るという事は、いずれ徳川きっての猛将と呼ばれる井伊直政も出て来るやもしれぬ。そうなると面倒だな」
 名だたる名将にひと捻りされることは全く念頭にないらしい。
 「大丈夫なのですか、父上」
 「友と戦うことが、か?かつての仲間であろうと我らを攻めるのであれば敵。このようなこと、戦国では珍しくない」
 しかし奴らに潰されたくはないな、と昌幸はいつしか伸ばした口鬚をしゃくった。
 「源次郎、ついて来い」
 本丸から曲がり廊下を経て庭に下り、敷地内に構えられていた蔵へと向かう。
 「徳川の勢力がいかほどか、すでに知っておろう」
 「五千、と聞いております」
 「もう七千に達したぞ。恐らくまだ援軍が来るであろうから、実際この真田が相手するのは一万を超えるやもしれぬな」
 「そんなに?しかし我が国の兵力はそれほどでは」
 「うむ。せいぜい二千…いや、千五百に届けば上出来か」
 「既に沼田や砥石城に兵力を分散させていると伺いましたが、それらを含めての数でございますか?」
 「沼田は別だ。あちらは矢沢の大叔父上に任せておいて大丈夫だろう。だが高梨が入った矢沢砦と源三郎が居る砥石城の兵は数のうちだ」
 沼田と聞いて頼康が小さく頭を下げた。
 「源次郎さま。私は……」
 「ああ。父君の力になってやってくれ」
 頼康はすぐさま沼田へ発った。
 「して、この城ではいかほどの兵力で徳川を迎え撃つおつもりなのですか?」
 「そうだなあ……数百といったところか」
 「かような寡兵で……今からでも兄上か高梨さまを城に呼び戻してはいかがでしょう」
 「必要ない」
 ついて参れ、と昌幸は源次郎を西櫓に案内した。千曲川の先に広がる平野が一面に見渡せる櫓の脇に、小さな蔵が設けられている。
 昌幸は蔵の閂を外した。
 「源次郎。開戦したらすぐおまえが囮の先陣となり、徳川の者どもを一兵でも多くこの上田城へ引っ張って来い。さすれば、後はこの城でわしが彼奴らに引導を渡してくれる」
 「城へ、ですか?」
 「一網打尽、という言葉があろう。敵を城へ引きつけて叩く」
 「では籠城戦を」
 「ただの籠城ではないぞ。真田の意地をかけた戦を、驕れる徳川に思い知らせてやるのだ」
 そう言って昌幸は部屋の扉を開けた。まるで封印が解かれるように、中にあった武具一式が日の目を見るように現れる。
 「赤の装束……こんなにたくさん」
 赤い陣羽織に赤い鎧、具足、兜や槍にいたるまで、すべて猩々緋と呼ばれる赤であった。陣羽織の背中には真田の旗印である六文銭の紋。数十もの真新しい装備がずらりと並んで源次郎を迎えた。
 「此度の作戦に、この赤は重要な目印となる。危険な作戦なればこそ、率いる将は真田の者でなければならない。わしが育てた赤備隊、おまえが使いこなしてみせよ」
 「赤備隊、それは武田のお館様の!」
 「名は拝借したが、これは真田の赤備隊だ。昇陽の朱にはまだ及ばぬから、敢えて少し『くすみ』を混ぜた。わし自身、お館様のように曇りなき戦をするような柄でもないからのう」
 源次郎の脳裏に、幼き日に見た躑躅ケ崎城の光景が浮かび上がった。すべてを朱で調えた騎馬隊が、やはり朱の槍を手に出陣していく様である。
 「二百程であるがすでに人選も終え、後は将を待つばかりになっている」
 それは源次郎が越後へ向かった後で昌幸が素養のある者を選び鍛えて作り上げた兵達で、国衆の一族もいれば農民もいる。身分の貴賤に関係なく能力と真田への忠誠の強さで選ばれた精鋭部隊だった。昌幸はそれをすべて源次郎に預けると明言した。
 「その将だが、まずわしは総大将としてこの城にてすべての戦局の采配を執らねばならぬから動けぬ。ゆえに当初は源三郎をと思うたのだが、上杉どのからおまえを一旦上田に帰すと内密の連絡を受けて心を決めた。越後での話を聞く限りでは指揮はおまえの方が上手であるようだ。出来るな」
 「……」
 甲斐の赤備隊の先頭にあったのは、信玄の大きな背中。今度はその場に自分が立つことになるとは思ってもみなかった。
 正直、自分が心から信玄に近づきたいと思っているかは自分自身でもまだよく分からなかった。ただ言えるのは、ここで戦って上田を守らなければならないという思いだけである。思いを現実のものとするため自分はここで緋色をまとって戦わなければならないのならば、もう迷う余地はない。
 「わかりました。この源次郎、必ずや父上の意にお応えしてみせましょう」
 その日は館に入り、かつて武田信玄から賜った秘蔵の朱槍を初めて手に取った。武士として成熟するまでは傷つけまいと父に預けていた槍、今こそ振るうべきだと確信したのだ。
 赤備隊の者達にもそれぞれに歩んできた人生があり、親も家族もいるだろう。
 兵を預かる将の重さというものを、これほど感じた時はなかった。作戦を成功させるだけでなく、彼らの命も守れるだろうか。源次郎の全身を武者震いが走り、寝つけない夜を過ごすことになるのであった。


 「真田安房守どの。この上田城は徳川家康さまが普請された徳川の城であるぞ。ただちに開門し、明け渡せば戦はせぬと殿は仰せでござる」
 事を構える前の最終協議…という名の意思確認に訪れた徳川方の使者、信州惣奉行の大久保忠世は仏頂面を隠さず昌幸と対面した。
 武田と徳川が争っていた時代には、この大久保も徳川方に参戦している。三方ヶ原の戦いでは大敗した家康の苦い経験を共有する旧臣であった。
 武田の滅亡後は武田旧領のほとんどを手に入れた家康によって信州惣奉行に任ぜられたのだが、元から大名家の近侍として取り立てられた彼は田舎侍が巾を利かせることは無論、物理的に支配をしても心意気までは徳川になびかぬ武田側の者も気に入らないのだ。
 大久保が最も気に入らない人物像をそっくり具現した真田昌幸は、そんな仏頂面をにこやかにあしらった。一枚上手の対応を見せつけることでさらに相手の感情を逆なでする腹積もりなのだから、昌幸も大概である。
 「私は家康どのより、かような書状をいただいておりますが?」
 そう言ってひらりと見せたのは、先に家康に書かせた書状であった。たしかに『上田の城は真田安房守に一任する』とある。
 「しかし、それは沼田城の明け渡しが条件であったはず」
 「この文面には沼田が云々といった条件などまったく記されておりませぬが?どこをどう見ても上田城のことしか書いてありませぬぞ」
 何の不備があろうかと昌幸はせせら笑った。大久保は顔を真っ赤にさせて帰っていく。
 「これで三、四日後には八重原あたりまで前進して来るであろう。さて、いよいよ戦になるぞ」


 大久保からの伝令と北条からの書状は、浜松に居る家康の許へほぼ同時に届けられた。
 昌幸の思惑どおり、北条は真田が沼田に兵を集めたと聞いてそちらへ飛びついた。徳川からの上田討伐要請に対しては「沼田を落とすことも立派な援軍であろう」として兵を出さず、武田旧領にして信濃と国境を接する佐久の土地を貸し与えたのみである。
 「沼田、沼田、沼田。北条め、この期に及んでまだ沼田に執着しおるか。まったく、誰も彼もが儂を小馬鹿にしおって」
 上田での昌幸の態度、そして北条の動きをほぼ同時に聞いた家康は、顔を真っ赤にさせて脇息を拳で叩いた。
 「北条氏政さまの書状によれば、北から真田を叩くこともまた援軍たり得ると」
 側に控える石川数正は、各所からの書状を丁寧に折り畳んで文箱にしまっている。
 「援軍の名を借りて勝手に戦をしておるくせに何を言うか。まったく役に立たぬ……羽柴との国境に居る井伊、大須賀らも出陣させるぞ」
 「鳥居さまが率いていらっしゃるのであれば、援軍には及ばないのではないのでしょうか。何より、殿が国内で大きく兵を動かされますれば羽柴に感づかれ、折角結んだ和議も崩れてしまいかねませぬ」
 「数正、そなたはどこまで儂の考えに口を挟むつもりじゃ」
 家康が投げた扇が石川数正の顔を直撃した。縁側にぽとりと落ちた扇を家康は「これ」と顎をしゃくって石川に拾わせる。
 「……申し訳ございませぬ。すぐ遠江と三河の将達に遣いを出します」
 扇を捧げた石川の顔が屈辱に歪んだが、激昂している家康にはまったく見えていなかった。


 徳川の上田城攻城に先駆けて、沼田城では北条兵相手に一足早く戦の火蓋が切って落とされた。
 厩橋から一気呵成に攻め込もうとした北条軍は、沼田城壁をぐるりと取り囲んだ『六文銭』と『毘』の旗に愕然となった。
 「真田が上杉と組んでおるだと?先の戦いでは手切れになっていたではないか」
 「このような話は聞いておらぬぞ」
 困惑する北条に向けて次々と矢が放たれる。北条も矢で応戦したが、野に展開する兵は明らかに不利である。
 「北条氏政は昔ながらの戦法にこだわる者ぞ。しかも『けち』だ。要所を攻めるとはいえ我ら寡兵相手に鉄砲など出さぬだろうと踏んでおったが……まこと読みやすい男だ」
 「鉄砲を持たぬはこちらも同じでございますよ」
 「こちらは鉄砲を調達できる金子がないのじゃ。足りないものは知恵と力で補うしかあるまい」
 ともあれ、弾切れを待つ時間が省けた。兵たちと一緒に弓狭間から矢を放つ矢沢翁は、北条隊が鉄砲を持たぬと知るとすぐさま突撃の支度を始める。老いを経験で補って余りある様は鮮やかの一言に尽きた。
 敵の指揮が乱れたところで沼田城が開聞され、矢沢父子が先頭になって突撃が敢行された。
 「我こそは矢沢但馬守頼綱なり!信玄公から賜りしこの朱槍に挑む者は在りや!」
 矢沢頼綱も、かつては真田一徳斉と馬首を並べて武田の連戦を戦い抜いた猛者である。古流の槍術は武田の戦を知る北条方の老将にとっては昔を思い起こさせたし、その突撃の勢いは若武者にはさながら明王のような迫力と映り、実際に彼が通った後はまるで竜巻のように兵がなぎ倒されていた。
 誰も矢沢翁に挑める者はいない。北条隊に隙が出来たところで矢沢兵たちは雲霞を追い払うように北条兵を退けにかかる。
 「さすが父上。まったく衰えておりませぬ」
 「ふん、武田仕込みの騎馬戦に昨今の若造が敵う訳なかろう」
 おまえに助けられるほど耄碌しておらぬわ、と矢沢翁が息子に向かって胸を張る。
 その時、馬の足元に転がっていた北条兵の死体が寝返りを打ち矢沢翁の馬脚に向かって刀を突き立てようとした。
 「父上!」
 頼康がすぐさま気づいて槍を放る。着地した槍に貫かれた死体は今度こそ事切れた。
 「ははは。油断したわ」
 「まったく。そのお齢で怪我をされたら名誉の負傷どころでは済まされませんよ?」
 「もっともだ……さて、仕上げにかかるぞ」
 「承知しました」
 後の世まで真田家を支える猛将親子は、ふたたび戦場を駆け回るのであった。


 前夜の激しい雷雨が嘘のように晴れた朝。上田の南に展開する徳川本体から密かに分かれて上州街道へ回り込んだ徳川別働隊は、まったく無防備のまま放棄された真田山の本城や砥石城のがらんとした様を嘲笑っていた。
 真田の本城は、武田の時代から真田家が守ってきた本拠である。その城すら放棄されて、徳川が堂々と旗を掲げて通過してもまるで反応がない。
 「奴ら、前線を放棄しおったか」
 「本城はもぬけの殻、砥石城も静まり返っておりますな。こちらに分散させるだけの兵がおらぬのでしょう」
 「上田に全ての兵力を注いで籠城するつもりか。あの城は我らが普請したゆえ、構造から何から筒抜けだというのに」
 本城から南、険しい崖の上にある砥石城も静かなものである。砥石城の物見台となる升形には幟もなければ兵の気配もない。城下の集落も閑散としている。
 昌幸の手の内を知る者はみな佐久に展開し、砥石城をよく知らぬ者が北方の指揮を執っているのも幸いであった。
 砥石城は、山の尾根づたいに四つの砦からなる城なのだ。街道からよく見える本城と升形城、そしてそれらの城に守られるように存在する砥石城と米山城。その事実を知るのは、この城を攻めた事がある者のみだ。
 「かつて信玄公が攻めあぐねた城すら放置しておるか。よっぽど余裕がないようだな」
 「兵らに占拠させておきますか?」
 「捨ておけ。数日中には上田の全土が徳川領となるのだ、無駄な人員を割いては殿(家康)のお怒りを買うであろう」

 「奴ら、砥石城を素通りしていくようですね」
 徳川兵が嘲笑った升形。せせり出た岩の上に伏せて様子を伺っていた源三郎についていた義兄、小山田茂誠が囁いた。
 「いかに砥石城が険しい城とはいえ、このような子供だましの策に嵌って捨て置くとは……我ら真田は相当なめられているな」
 「口惜しゅうございますな」
 「これもまた試練なのであろう。戦には耐えることも必要だ。そして耐え抜いた者が生き残れる……そう思う」
 「まだお若いのに達観しておられますな」
 「臆病なだけかもしれぬ。屍を敵に踏みしだかれたくない、その一心だ」
 「ふむ。……このような場で不謹慎ですが」
 茂誠は声を落とした。
 「若殿の性分は徳川家康どのに似ておられるのでしょうか」
 「徳川と?」
 「拙者は北条に居た頃から徳川の噂を聞いておりますが、あの者も長い人質生活の中では生き延びることを生きる理由としていたそうです」
 「生き延びる?」
 「ただ耐えていれば、いずれ機は巡って来るものだと……案の定といいますか、今川が滅び、織田の滅亡を潜り抜けた現在は羽柴と渡り合えるまで大きくなりましたからなあ」
 「死にたくないは敵も同じ、という事か」
 「若殿も、今を乗り越えていけば必ずや真田の家を後世に残る家にする事が出来ましょう。拙者も真田一族に加えていただいた御恩を生涯かけてお返しすると心を決めております」
 「ありがとう。そうだと良いな……いや、そうせねばならぬ」
 その時、沼田の方向から早馬が駆けてきた。二人は乗り出していた身を引っ込める。
 「伝令!沼田にて北条軍は敗退。上杉が援軍に参じた模様」
 升形にまで声が届くことはないが、伝令が追いついた途端に徳川兵に動揺が走った。
 そして、まるで見計らったように上田城から狼煙が上がる。
 「父上からの合図だ」
 「ずいぶんと速いですね。しかも機がぴったりだ。さすが殿」
 「よし、幟を上げろ」
 潜んでいた源三郎がかけ声をあげる。真田と上杉の旗が本城、升形城、砥石城の斜面に一斉に掲げられた。そして鬨が上がる。山々にこだまする鬨の声は、
 「砥石城に伏兵あり!幟が上がりましてございます」
 「何!?」
 徳川の将が見上げれば、斜面いっぱいに掲げられた六文銭と『毘』の旗。山頂から見てもはっきり分かる程、敵に動揺が走った。
 「上杉が真田方についたのは真であったか!」
 「この先も山間の街道が続く。あれだけの数で挟撃されては大軍の行き場がなくなるぞ。まず後方の兵を叩け」
 慌てて方向転換して砥石城への進軍を開始した徳川軍であったが、登れそうな山道を探している間に地面が揺らぐ。
 「何だ!」
 馬一頭、兵なら二名がやっと並んで通れるほどの狭い急坂の上から大岩が転がり落ちてきた。さらに斜面の至る所から大木が放り出され、兵たちをなぎ払っていく。
 山道に築かれた曲輪に潜んでいた真田の兵が、梃子を使って落としているのだ。指揮しているのは出浦である。
 深い森と急斜面に視界を阻まれ、兵は恐怖に足がすくむ。将も『武田信玄ですら陥とせなかった城』は伊達ではないと早々に攻城を諦めた。
 「ええい、攻城は取りやめだ。このまま逃げ切って上田城へ向かうぞ。敵には上杉の兵も居る。本隊と合流を急いで迎え撃つぞ」
 麓から撤退していく兵たちに追い打ちをかけるように、大量の投石が行われた。縄を編んで作った平たい紐に拳大の石を入れたものをあらかじめ大量に用意しておき、紐ごと回転させて飛ばす事によって遠くまで攻撃できるのだ。飛距離が長いほど威力を発揮する上、とにかく数を多く放てるので兵だけでなく馬にも当たってさらなる混乱を招く。
 「……」
 出浦の、完璧にして容赦のない働きぶりを升形から見ていた源三郎と茂誠はただ唖然とするばかりであった。
 「出浦さまのお働き、まこと鮮やかですな。この茂誠、肌が粟立ちましたぞ」
 「私もだ……いささか恐ろしくもあるが、参るぞ」
 米山城と南門櫓の間、麓から見ることができない馬の背状の山道に馬や兵、武器を潜ませてある。
 源三郎が下山して上州街道へ出ると、既に行く手では騒ぎが起こっていた。矢沢砦からの攻撃であることは想像にかたくない。
 「平地に下りたら我が隊は敵の西へ回り込め。先に内記どのと打ち合わせた通りだ。城へ向かって追い立てる振りをしながら、奴らを東の染谷台の方へと誘導するぞ」
 「はっ」
 上州街道から上田城まで続く道は、ゆるやかな…地理に詳しい者でないと気づかない程大きな曲線を描いている。ゆえに砥石城から一直線に追い立てれば、敵はおのずと城から東方へ離れていってしまうのだ。城下のはずれに出されるので、北から城を攻略するどころか自らの現在地まで見失ってしまう。この構造もまた昌幸の計算であった。たどり着くのでさえ一筋縄ではいかない。そういう城なのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み