第34話 正軸

文字数 25,532文字

 「まあ桐ちゃん、今日もお母様と一緒にお城に来たのね」
 大坂城本丸の台所。薬味野菜が植えられている庭が見える休憩部屋で本を読んでいた桐は、交代でお八つを食べに訪れる城の侍女たちに大人気だった。
 さちが国松の養育係となった事で、桐にも国松用の教材を運んでさちに付き従うという仕事が与えられた。姉たちは屋敷で楓を中心とした侍女たちから食事作りや洗濯など奥の仕事を教わり、作兵衛達を加えて大所帯となった屋敷の台所を回している。
 毎朝本丸に出勤した後、さちが国松の相手をしている間、桐は下働きの女中たちと一緒に台所仕事の手伝いや料理に使う香味野菜の世話をして過ごしていた。愛くるしい顔と小さな身体でよく働く姿は皆を和ませていた。
 そして手が空くと本を広げているのだ。
 「何のご本を読んでいるのかしら?」
 「母上様の本を借りてきました」
 絵巻だろうかと侍女が何気なく覗けば、そこには漢文の書。桐は、まるで絵本でも読むかのようにその本を読みふけっている。
 「あらまあ、また難しいご本を」
 齢七つかそこらの子供が大人ぶって難しい書を読む姿も侍女には微笑ましく思えてしまったのだが、桐は

 「子曰父母唯其疾之憂。父上と母上に心配をかけるは病気の時だけにしなさい」

 と、すらすら唱えてしまう。これには学もたしなみもある城仕えの侍女も呆気にとられるしかなかった。
 「凄いわねえ……」
 「でも、父上は私達に心配をかけていいのかしらと思います。いつも兄上を相手に危ない槍や刀を振り回してばかり……母上にお話ししても笑っていらっしゃるだけなのですが、大きなお怪我をされないかと心配です」
 「まあ」
 年かさの侍女は目を丸くする。桐にとっての左衛門佐は、武士である以前に良き父親なのだろう。
 「おませさんね。本当にしっかりして、今すぐにでもお城勤めの侍女になれそうなくらい。でも桐ちゃんだったら侍女というより行儀見習いかしらねえ」
 「行儀見習い、ですか?いつも母上さまからお行儀を教えていただいていますが、わたしにどこか至らぬところがありますか?」
 難しい言葉を知っていても、こういったところはまだ子供である。くだんの侍女はにっこり笑って説明した。
 「とんでもない。いつかきっとお父様のような素敵な旦那さまに出逢えるという事ですよ」

 そんなある日。
 畑で野菜の世話をしていた桐は、庭の隅に立派な羽織姿の子供が迷い込んでいるのを見つけた。
 このような場所に自分以外の子供が居る。桐はまずそのことに驚き、そしてその子供がいたく心もとない顔をしているのが気になって声をかけていた。
 「どうしたのですか?」
 「迷ってしまった。御殿に帰れぬ」
 やんちゃな顔つきの子供は、叱られるのを待つ子供のようにしゅんとなりながら呟いた。
 「御殿?」
 さちが通っている場所だ。立派な身なりといい、桐はすぐに子供の正体に思い当たる。
 「もしかして、あなたが国松さまですか?」
 「私を知っているのか?」
 「母上さまがお仕えしています。御殿への行き方ならば分かりますから、一緒に参りましょう」
 「母上って、まさか真田左衛門佐の……」
 「さあ早く。迷ってしまったのでしたら、すぐに帰らなければ皆さんが心配します」
 桐は国松の手をとって廊下を進む。いきなり女子に手を握られた国松が戸惑っていたが、弟達の世話で慣れている桐は気にしていない。
 「母上さま!」
 御殿に渡る廊下で人を探すように早足でうろうとしていた母の姿を見かけた桐が声を張り上げる。母はすぐに気づいてくれた。
 「まあまあ国松さま、こちらにおいででしたか。桐が連れて来てくれたのかしら」
 「台所においででした。迷子になったと聞いたから……お言いつけを守らず、勝手にお城の中を歩いてごめんなさい」
 「何でおまえが謝るのじゃ。迷った私が悪いのに」
 ぺこりと頭を下げた桐の行動を国松は理解しかねる。
 「お言いつけを守らなかったのですから当然です」
 「そうなのか?」
 少し考えた後、国松は自分もさちに向かってぺこりと頭を下げた。
 「安岐、勝手に居なくなってごめんなさい」
 国松が何かを学んだと気づいたさちは、敢えて優しい口調で諭す。
 「国松さま。従者もつけずに、ましてお勉強の合間に御殿を抜け出してはなりませぬよ」
 「腹が減ったのじゃ。人を呼ぼうと思っても近くには誰も居なかったので、何か貰えぬかと歩いていくうちに帰れなくなってしまった」
 「まあ、それは申し訳ございませんでした。ですがお八つはお勉強が終わってからという決まりです」
 「……」
 めっ、という顔で咎めるさちの前で、国松の腹が大きく鳴る。
 「仕方ありませんね。集中を欠いた状態で何を申し上げても身につくものではありませぬ。少し早いですが休憩にいたしましょう。桐、こちらで国松さまと一緒に待っていなさい」
 「はい」
 二人は御殿の一室に通され、中庭の紅葉がかさかさと落ちていく様を並んで眺めていた。
 「おまえ、桐というのか?」
 「真田左衛門佐の子です」
 「ふうん……毎日台所に居るのか?」
 「母上さまが国松さまのお勉強を見てさしあげている間、台所で待っています」
 「ふうん……じゃあ俺…じゃなくて私と同じか」
 城に来てまだ日が浅いところ、と国松が補足した。国松なりに何か考えるところがある素振りである。
 「私はついこの間まで商人になるつもりで学んでいたのに、なぜかこの城に連れて来られてしまった。この城は退屈じゃ。大人ばかりで遊ぶ友もおらぬ」
 「そうなのですか?」
 「安岐も甲斐も、父上も養母上もみな優しいが、友達じゃない」
 「立派な御殿に住んで、ご飯をたくさん食べていても物足りないのですか?」
 「腹は一杯になるけれど、何だかつまらない」
 「……」
 今度は桐が首をひねった。九度山での質素な暮らししか知らない桐から見れば、目がくらむばかりの豪華な御殿での贅沢な暮らしは絵巻のような夢の世界なのだが。
 互いにどう声をかけて良いのかも分からない奇妙な沈黙は、二人にとって幸いなことにすぐに破られた。さちが戻って来たのだ。
 「さあ国松さま、台所から小豆餅をいただいてきましたよ。これを召し上がったらお勉強に戻りましょうね。桐も一緒におあがりなさい」
 「うん」
 「はい、母上さま」

 国松は、どうやら桐が気に入ったらしい。
 その日以降、国松は講義が終わるとさちやもう一人の養育係である甲斐に付いてたびたび台所に現れるようになった。大抵は台所の縁側で桐と話をしたり、二人で庭に出て野菜の世話をしている。雨で外に出られない日は、桐が読んでいる書物の中身についての講義を受けていた。
 本来ならば台所に足を踏み入れるなどとんでもないと言われる立場なのだが、国松に必要なのは学問だけでないことを分かっているからこそ、秀頼をはじめとした大人たちは国松のやりたいようにさせていたのだ。
 が、小さな子供同士の飯事は、ほどなくして淀の耳に入る。
 「暮らし向きが大きく変わった中で、国松も不安なのでしょう。近くに同じ年頃の子が居た方が安心するというもの、桐を御殿にお上げなさいな」
 鶴の一声で、桐は御殿の侍女として登用されてしまったのだ。

 「その結果が今の二人よ。可愛らしいと思わない?」
 御殿の廊下。軍議帰りに呼びつけた源次郎とともに文机を並べて一緒に学ぶ二人を眺めやりながら、淀は微笑んだ。
 「一体いつの間に仲良くなったのでしょうね」
 桐が御殿に上がると聞かされて仰天した源次郎は、二人の様子を見て微笑ましいと思う以前に畏れ多い事をと唖然となる。
 「国松を城に引き取った時、母親は既に流行病で死んでおりました。あの子は幼い身一つで大人だけの世界に入ったものですから、その不安や窮屈さは計り知れないものであったのでしょう。ですが桐と出逢ったことで国松の顔もみるみるうちに明るくなりました。礼を言います」
 「そのような……まこと勿体ないお言葉ございます」
 「友というのは、意識してそうなるものではございませんわ。そう、あなたとわたくしのように」
 「淀さまと私が友などと、そのような畏れ多い」
 「あら。ともに過ごした時間は短うございましたが、わたくしはあなたを友だと思っておりましてよ」
 淀が齢を重ねた目元に皺を寄せて笑う。きっと自分の顔も同じであろう。
 「私にとりましては……淀さまにおかれましては身に余るほどの多大な薫陶を賜り、亡き太閤どのと等しく忠義を捧げるお方なれば」
 「体面などどうでもいいわ。戦という不安な情勢の中、こうしてあなたが来てくれた。それがどれ程嬉しかったか」
 「恐れ入ります……もし許されるのでしたら……私も、淀さまを友だと思うております」
 「うふふ。心強いわ」
 学問がひと段落したのだろう。二人は庭に下りて草花を愛でながらの散策を始めた。小さな手を自然とつないで歩く姿を見た淀は「まるで昔の秀頼と千みたい」と口許を緩める。
 「源次郎。大坂が此度の危機を乗り越えた後、桐を国松にいただけませぬか」
 「それは私が国松さまの後見として立つためのお話でございますか?」
 いずれ秀頼と千の間に男子が生まれれば、身分からしてその子が豊臣の次期当主となる。そうすると国松の処遇が問題になってくるが、真田というしっかりとした後見があれば所領を与えて大坂城の家老職に立てられる。その上で秀頼が関白職に復帰した日には秀頼が現在持つ右大臣の官位を移譲することも可能となるだろう。
 桐との縁談は、国松をかつての秀次のような目には遭わせまいとする淀の深慮であると源次郎は受け取った。それならば一も二もなく受ける話なのだが。
 「勿論、そういった計算がないと申せば嘘になります。けれどそれ以上に……秀頼と千のように、筒井筒の仲というのは周囲のあらゆる打算などお構いなしに強い絆で結ばれるもののようです。わたくしは、ただあの子たちの小さな想いを叶えてあげたいだけ」
 「国松さまと桐がそのような……仲はよろしいようですが、まさか」
 ぽかんとした源次郎を見て、淀は「気づかなかったかしら?」と明るく笑う。
 「好いた相手と一緒になれるのは何よりも幸せであるけれど、心を通わせ続けることは何より難しい。あなたにも解るでしょう?」
 「……お察しでしたか」
 「勿論。わたくしはあなたの友ですもの。あなたのお相手がどなたかは存じませんし、詮索もいたしません。けれど、あれだけたくさんの子をなしたのですから幸せでない筈がないでしょう」
 「恐れ入ります」
 子らの父親とこれから干戈を交える事など打ち明けられない。源次郎はただ目を伏せるしかなかった。
 「わたくしにはそういった経験がないからでしょうか。この十五年、一日も早く豊臣の世継ぎをと気が急いたばかりに秀頼にも千にも随分と辛い思いをさせてしまいました。けれどあの二人は乗り越えてくれた。ならば、もう同じ過ちは繰り返さない事が二人への謝罪だと考えます」
 自らは異性に思慕の情を抱いたことのない…織田の名を守ることに心を捧げた淀であったが、母親としての慈愛の情は秀頼に育ててもらった。そう打ち明けた淀の顔に日頃の気丈さはない。
 あるのは子らを慈しむ観音菩薩の顔であった。


 「まずは講和を申し入れるのが定石でしょう」
 軍議が本格化して以降、将に選ばれた者達は朝から夜まで議論を戦わせていた。
 徳川の兵数を聞いて講和を提案したのは後藤又兵衛である。
 「徳川は全国から二十万の兵を大坂に進めているとの事。正面から戦って勝つのは非常に難しい数であります。多少の不利を承知で講和を結び、殿のお命と大坂の城を守ることを優先するべきかと」
 「こちらにも十万の兵が居るではないか」
 織田有楽斎が口を挟む。
 「同じ倍でも千と二千が戦うのとは全く異なります。単純に十万の兵力差があれば力攻めで城を落とすことも容易いのですぞ」
 蓮乗寺の頃とは打って変わってしゃんとした着物に袖を通し、髷もきちんと整えた又兵衛は飄々さを封じて冷静に弁を振るう。将の中には「さすが黒田官兵衛の直弟子」という声も漏れ聞こえた。
 そんな感嘆に水を差すように「だから牢人は」と吐き捨てたのは大蔵卿局であり、その意を代弁したのが織田有楽斎だった。
 「此度、なぜ豊臣家が徳川と事を構える運びとなったかをご存じないか」
 「……いえ」
 「方広寺の鐘銘事件にて示された条件が全てである。殿が大坂城を出て一大名の座に降ること、そしてお上さまが江戸へ人質に入ること。講和を申し出れば、それら屈辱を拒んで手切れと致した意味がまるでなくなるであろう」
 「そこを交渉して譲歩を引き出すのが外交役の腕の見せ所ではないかと存じますが、殿はいかがお考えでございますか」
 外交役…ここでは有楽斎を又兵衛がちらりと見た瞬間、有楽斎はあからさまに顔をしかめた。秀頼はそれら機微も全て見届けてから自らの考えを述べる。
 「後藤よ。そなたの進言にも一理ある。……だが鐘銘事件で明らかになった通り、徳川はこちらがどう出ても難癖をつけて豊臣を滅ぼすつもりなのだ。今を凌げても、必ずやまた何らかの理由をつけて大坂へ攻め入るであろう。我々はいずれ戦わねばならぬのだ。先延ばしには出来ぬ」
 「時を稼ぎ、内府に残された『時間』を待つという手もあるのでは?」
 誰もが胸に抱いていた物騒な考えを口にしたのは毛利勝永である。
 「それは難しいと考えます。既に将軍職は代替わりしており、大名への締め付けも段々と厳しくなりつつある。『その時』を待ったとして、今の状況に内府の弔い合戦という名目が加われば敵が勢いづくのは必定」
 反論したのは長曾我部盛親であった。父親の死後、自棄になった勢いのまま戦に臨んで自滅していった自家の郎党達の姿が頭に残っているのだろう。
 講和は難しいという空気がその場を支配し、かといって妙案もない重苦しい沈黙の中。
 「では城を出て戦いましょう。打って出るのです」
 源次郎の提案だった。誰もが頭の隅に描いていた講和の案と異なり、その場は一気にざわめく。
 「十万もの兵力差があるというのに正気か?」
 「時を逃さなければ、地の利はこちらにあります」
 源次郎は秀頼と将達の間に広げられた畿内の地図へ進み出ると、扇でまず大坂城を指した。
 「石田治部さまが何故関ヶ原を戦場に選んだのか、ここに居られる皆様ならばよくお分かりかと思います」
 西に琵琶湖、南北には険しい山脈が連なる合間に現れた平地。地図の上では平らに見えるが、実際は大軍とて縦列にならなければ進軍できない土地である。
 「徳川の軍勢を京や大坂に進ませまいと、あえてこの道に蓋をしたんだったな。あとは自軍の退却路を確保するために……それで逃げおおせた兵もたくさん居た」
 後藤又兵衛が解説する。
 「南北朝の時代より、この地は東西を隔てる要衝なのです。信長公が岐阜の山頂に城を築いたのもこの地に目を光らせるため。大坂を守るのでしたら、この地より先に徳川を踏み入れさせない事が肝要でしょう」
 「なるほど。こちらは層を厚くして待機できるが、あちらはどうやっても縦列に進軍するしかない。数を絞ったところを少しずつ潰していく算段か」
 「しかし、石田治部の頃には佐和山城があったが、今では佐和山の隣の彦根に井伊の城が築かれている。関ヶ原まで進軍したいのなら彦根城を奪うことが不可欠だが、徳川四天王とまで呼ばれた井伊はそう簡単には落ちぬぞ」
 「井伊の軍勢一つを撃破できぬようでは、大坂に攻め入られても勝てますまい」
 弱腰の大野治長に、源次郎はぴしゃりと言い放った。血の気が多い牢人衆と、今もって危機感に薄い城方との温度差を埋めるように。
 「我が故郷の上田で徳川が二度も敗れた理由、それは慢心にございます。そして此度も石田治部さまを破った地という慢心が徳川方には少なからずありましょう。そこを突くのです」
 「治部少輔が敗れた地で、今度は内府が……」
 「隙あらば討ち取りにかかりましょう。戦の終結にはそれが最も早い」
 「お待ちください」
 大蔵卿局だった。
 「皆が大坂を空けている間に、海路から徳川が攻めて来る事はないのですか?あるいは西国の大名が……」
 「そうするだけの時間を与えない事が肝要なのです。それに、戦の全権を握る総大将が大坂に到着しなければ背後を突く兵も勝手に動けぬというもの」
 実際、戦が長引いたらどうするかという不安がないといえば嘘になる。だが戦は数ではなく勢いというものも戦局を大きく左右する。
 形勢不利だった上田合戦の頃、悠然と構えているように見えた父も実はこのような心持ちだったのだろうかと思いながら、源次郎は攻めの戦がしたくてやって来た彼らの気運を高めるべく強気で自案を通そうと考えた。
 「……関ヶ原での井伊は、たしかに強かった。だが直政が死んで代替わりし、現当主の井伊直勝は凡庸すぎて猛者揃いの井伊軍の中では今ひとつ人望がないという話だったな」
 源次郎を援護するかのように又兵衛が呟く。
 「次男の直孝は父親ゆずりの剛の者で知られていますが、今は伏見城番を命じられているはず」
 「足並みが揃っていないのならば、彦根は調略にて奪えましょう。兵が整わなければ、いかな猛将とて戦えますまい」
 「よし。それなら左衛門佐が彦根を調略している間に俺達が伏見城を包囲し、彦根の落城とともに井伊を降伏させる。それならどうだ」
 「ならばもう一つの要衝、二条城は我ら豊臣麾下が押さえましょう……いかがですかな、殿」
 又兵衛と勝永が伏見城攻略を買って出た事で、木村重成も立ち上がった。他の将たちも同じで「意義なし」と気運が盛り上がる。手柄を取りにかかるとなれば士気も上がるというものだ。
 秀頼も、満足そうに頷いた。
 「善い策だ」

 しかし、それから数日後。
 「井伊直孝が彦根藩主に着任し、伏見から入城した由にございます」
 この報告によって、彦根城奪取ありきで進んでいた積極策はあえなく頓挫する。


 「籠城策しかないようですな」
 有楽斎は、あらかじめそう決まっていた物事を追認するかのように提案した。
 積極策で上がっていた意気がその一言で潮が引くように静まり、しらけた空気が場を支配する。
 せめてこの場にいる者だけでも納得させなければ人心が離れていく。源次郎は膝を前に進めた。
 「なぜ、今この時期に井伊の当主が代わったのでしょう。大戦を控えているのであれば、よほどの事がない限り大将を交代させるのは愚策とも言えますが」
 「さあ?」
 「徳川内府の命令でもあったのでしょうか」
 「今はそのような事を詮索している場合ではあるまい。そなたらは籠城に備えて陣を整えるが良かろう」
 「ええ。そなた達は殿とお上さまをお守りするために来ているのです。ならばその身をもって盾となり、お役目をしっかり果たしなさい」
 淀に伝達するためという名目でちゃっかり軍議に加わっていた大蔵卿局も有楽斎に同調する。
 「その通り。そなたらの役目は盾であり駒なのだ。それを忘れるな」
 「大叔父上に大蔵卿。来てくれた彼らにその言い方はあまりにも……」
 「何が違うのです?」
 諫めようとした秀頼の声すら封じてしまう剣幕。織田有楽斎は牢人の言うことに従うのが、そして大蔵卿局は胡散臭い牢人が城に上がる事そのものが気に入らないのだろう。
 「殿はこの場にどっしりと構えていらっしゃれば良いのです。ほら、早く散った散った」
 秀頼の発言すら奪い、しっしっ、と犬でも追い払うような仕草で織田有楽斎が扇を振る。激昂した勝永がその首根に掴みかかろうと腰を上げたが、長曾我部と明石に両腕を押さえられた。
 これでは士気が下がるばかりだと源次郎は大野治長に助け船を求める視線を送ったが、大野ですらどうしたものかという顔をして目を背ける有様である。

 「何だ、この腐りきった城は……官兵衛が心血を注いで守ろうとした豊臣は、たかだか十五年で堕落したのかよ」
 逗留している旧黒田屋敷にて酒を呑みながら、又兵衛は地団駄を踏んだ。源次郎、勝永、明石、長曾我部も一緒である。
 「片桐さまをいびり倒して出奔させたくらいだからな……殿の腹心であるはずの大野修理すら有楽斎に発言権を奪われている。有楽斎は殿やお上さまにとっても大叔父にあたる方だから、誰も何も反論できない」
 「いちいちしゃしゃり出て来る大蔵卿局は、ただの身の程知らずか……片桐が出て行ったのも納得のいく話だ」
 「まったく。いざ戦となったら安全な櫓の上から戦況を物見するだけの連中が何を言うか」
 「あれでは兵の心も離れて行ってしまいますぞ。デウス様の教えにもありますが、まず自らが人を信じなければ人も自分を信じてくれない……人の上に立つ方ほどそうあるべきなのに」
 「だよな。華々しく散ってこその武士だとは思うが、はなから使い捨て扱いするような連中と心中してやる気にはなれないなあ。いっそ今のうちに見限っちまうか……源次郎さんよ、あんたも来るか?」
 「そういえば徳川方には源次郎さんの兄上が居たのだな。面倒をみてくれるのなら真田軍に付いても構わないが?」
 勝永と長曾我部は寝返る方に心が移りかけている。明石は幕府の禁教令に反発しているので寝返りの意思はないと言い切った。
 「又兵衛さんはどうなんだよ?」
 「ここも大概だが、おいらを追い出した黒田長政があっちには居るからなあ。ここで寝返ってあいつに顎で使われるくらいなら、俺は牢人暮らしに戻る」
 けれど蓮乗寺の連中はそうも行かないだろうと又兵衛は読んでいた。皆、念願だった武士としての登用を目指して来ているのだ。
 「ならば連中は俺達が引き受けてやってもいいぜ。源次郎さん、つなぎをつけられるか?」
 「……納得がいかない」
 皆の話を聞きながら物思いにふけっていた源次郎は切り出す。
 「お、乗り気か?」
 「彦根の件、どうも腑に落ちないのだ」
 「そりゃあ、有楽斎や大蔵卿局にあんな使いをされて納得いく奴なんていないさ」
 「いや……まあ、それも含めて」
 源次郎は身体を前に乗り出した。車座になっていた仲間達もつられて同じ姿勢となる。
 「井伊家中の内紛に乗じて調略を仕掛けようとした矢先に当主の交代……頃合いが良すぎる」
 「こちらの策を徳川に伝える内通者が居るというのか……もしかしなくても織田有楽斎か?」
 最も怪しいのはあの者だろうと又兵衛が源次郎の心中を代弁した。
 「確証は持てない。ゆえに軽率には動けぬ」
 思いがけない方向からの源次郎の推理に、皆は色めき立つ。
 「成程。わかりやすく牢人を厄介者扱いしたのも、離反を誘って数を減らし、ついでに士気を下げるつもりだったか」
 「畜生、牢人に戻る前に締め上げて城から追い出してやる」
 「闇討ちという手もあるぞ」
 「おう、それも悪くないな」
 物騒な事を真顔で議論する又兵衛と勝永、はらはらしながら成り行きを見守る明石と長曾我部。彼らに挟まれた源次郎は又兵衛を止める。
 「有楽斎どのは我ら牢人衆を試しているのだ。戦の前に離反して徳川に就く者はまだ良い。内通に協力しそうな、あるいは戦の際に寝返りそうな者の目星をつけ、獅子身中の虫として今のうちから懐柔させられる方が厄介だ。やすやすと挑発に乗ってはいかぬ」
 「しかし今のままじゃとても戦なんて出来ないぞ。上があれじゃ、豊臣に見切りをつけて徳川に寝返る兵も出て来るだろう。内応者が続出すれば、戦の前に総崩れだろうさ」
 「内応、か……」
 源次郎はさらに自分の考えをまとめる。
 「まるで諸葛亮が敵に放たせた矢を奪って自軍の劣勢を跳ね返した故事のようだ……ならば寝返る前に」
 「?」
 「又兵衛どの、それから勝永どの。試してみたい事があるのだ。寝返るのは、その結果を見てからにしてもらえないだろうか」
 「あいつらに灸を据えるのか?」
 「そんなところだ。まずは灸の据えどころを見定めたい」

 それから間もなくして。後藤又兵衛、毛利勝永の両名が豊臣の危機感のなさに不満を持っているとの噂が大坂城評定衆の耳に入るところとなった。
 秀頼は自らの力不足かと心を痛めたが、大蔵卿局は「厭なら出て行けば良いのです。戦の足並みを乱されるくらいなら、むしろその方が好都合」と素っ気ないものである。
 そして、織田有楽斎は。

 「竹中半兵衛どのの忘れ形見が彦根に居るようですな」
 又兵衛の元に織田有楽斎が訪ねて来たのは唐突であった。
 「そんなこと、とうの昔に知っているさね。関ヶ原で井伊に調略されたんだろ」
 初っ端から京のもてなしの真似事をして湯漬けを出し、又兵衛は斜め向きに胡座をかく。
 「黒田家を追われた其の方だが、竹中家には恩義があるだろうに」
 「長政の奴と一緒に講釈を受けた事もあるなあ。あんたがそれを言うって事はつまりあれか、おいらに彦根へ降れって事か?」
 お払い箱か?と睨む又兵衛を、有楽斎は両手を前に出して制する。
 「いや。実は私も此度の豊臣家は泥船だと思うておるゆえ、今のうちに縋る糸を手繰っておくのも悪くないのではと考えるのだ」
 「あんたなら織田一門でも公家でも繋がりがいくらでもあるだろう。おいらなんかあてにしなくても、さっさと降ればいいだろうに」
 「そうしたいのは山々なのだが、我ら一門の栄華など既に遠い昔のもの。徳川内府ほどの慎重者に信頼されるには、やはり何らかの土産が必要なのだよ」
 有楽斎が、つい、と又兵衛に歩み寄り肩に手を伸ばす。
 「はっ、そういう事かよ」
 又兵衛は一歩後ずさって有楽斎の手を躱した。
 「竹中を介しておいらを手土産にしようってか。煮ても焼いても食えないおいらを、さ」
 「黒田官兵衛に一目置かれた程のそなただからこそ価値があるというものだ。井伊の軍は精強揃い。戦となればおそらく最前線に立つだろう。黒田ではなく井伊で武功を挙げれば、憎き黒田長政を出し抜くことも夢ではあるまいて」
 「その前に、あんたに出し抜かれそうだ。しかし長政の奴に一泡吹かせるってのは面白い……郎党たちの手前もあるし、しばらく考えさせてくれや」

 「源次郎さんよ、あんたの言ったとおりだったぜ」
 有楽斎が来た翌日。又兵衛は早速源次郎に事の子細を伝えた。
 「彦根の井伊麾下に居る竹中重門…半兵衛の忘れ形見に降らないかと誘われた」
 「又兵衛さん、あんたもか」
 勝永が指を差す。
 「俺は二条城の織田信雄に口をきいてやると持ちかけられた。まず何度か有楽斎の私的な文の遣いをして顔を覚えてもらえと」
 「織田信雄どの……大坂城を出た片桐さまを保護した方ですな。そして竹中さまにまで……」
 「わかりやすい御仁ですなあ。あるいは…言いづらい事ですが」
 「んな事判ってるよ、明石。あいつはおいら達を舐めきっているのさ」
 「それで、二人は何と返事を?」
 「源次郎さんの言うとおり、勿体つけて適当に濁しておいた」
 勝永と又兵衛は声を揃える。
 「かたじけない。では後は私が」


 「殿。ご無礼を承知で申し上げたき事が」
 淀を通して秀頼に目通りを願い出た源次郎は、御殿の謁見の間から中庭で国松と桐、そして彼らとすっかり仲良くなった千が鞠遊びに興じている様を見やりながら切り出した。
 「牢人衆は、評定の流れに不満を持っております」
 「……で、あろうな。私の力不足で彼らには辛い思いをさせている」
 秀頼は口から綿を取り出して盆に載せ、一息ついた。
 「有楽斎と大蔵卿局は私の手に負えぬ。都合の良い時には殿だ豊臣だと持ち上げておいて、ものを決めようとすると強引に自分の意見を押し通す。母上は国母という立場を築いて対等に渡り合ってきたが、若輩の私に彼らは容赦ない。大野兄弟も母親の大蔵卿局の言いなりであるし、どうしたものやら」
 「お上さまは何か仰いましたか?」
 「いや……戦が決まって以降、政には口出ししてこない。一体何を考えておいでなのか判らぬ」
 「……それは、お上さまが殿を一人前だとお認めになったからでありましょう」
 意外な答えに秀頼は首をかしげる。源次郎は「失礼します」と秀頼の真正面に膝を進めた。
 「そうだろうか」
 「亡き太閤殿下が築かれたものをお上さまが守ってこられたご苦労、徳川や各国の大名との渡り合いは私などには想像も及ばぬほどのものであった筈。ですがお上さまはあっさりと殿に譲り渡した。それは殿が十二分にご成長あそばされ、大坂という巨大な組織を任せても大丈夫だとのご判断としか思えませぬ。ゆえに困難もご自身で乗り越えよと見守っておいでなのでしょう」
 「母上には随分と反抗的な口をきいたり、距離を取った日もあったのだが……」
 「子は童から大人へと育つ過程で己というものを確立いたしますが、その際にまず身近な存在…親との距離を計りながら独り立ちしていくものでございます。私自身がそうであったように」
 「そうだったのか?」
 「父・安房守は殿下から『表裏比興の者』というお言葉を賜った程の策士でしたから、身内からすればその在りようには戸惑いも反発も覚えました。ですが私も未熟な身であった頃のこと、父の意に背いて挫折を味わったものでございます。何事においても絶対に失敗しない保証などこの世にはあり得ませぬが、己の意思で事を為しても失敗する事が減る…失敗を防ぐためにはどのような策を講じれば良いのかまでを考えられるようになって初めて独り立ち出来たのだと実感いたしました」
 「……ふむ」
 秀頼は扇を顎先に当てながらしばし考えた。
 「では、内側から崩れそうな現状を立て直し、将兵達の士気をまとめるのも私の役目であるか……」
 「戦は総大将のみが行うものではありませぬ。総大将は戦の全責任を負う者であり、実際に武器を取るのは総大将を守る兵卒の役目。ゆえに総大将は彼らに守られるに値する者であるべき、この左衛門佐は信玄公の戦よりそのように学びました」
 「守られる者としての価値、か……よく承知した」
 そして秀頼は源次郎をまじまじと見つめる。あまり見られると女の身であることがばれそうで身をすくめたが、そうではない様子だった。
 「……左衛門佐は不思議だ。徳川を二度も打ち負かした猛将と聞いているのに、そなたが発する言葉はまるで母上に言われているかのように心に響いて参る」
 「そんな。お上さまと私のような者が同じなどと怖れ多い」
 「ふふっ、謙遜せずともよい。頼りにしておる」
 「ありがたき光栄に存じます。殿のご信頼にお応えできるよう励んでまいります」
 「頼んだぞ。……ところで先ほどの牢人たちの件だが、思いついたことがある。左衛門佐にも力を貸してほしい」

 勝永が、汗と泥にまみれた顔を上げた。
 「おう、木の根っこは全部取れたと思うぞ」
 「ありがとうよ勝永。大変だったろうから休んでいてくれや。あとはおいらが耕す。そしたら菜っ葉の種を蒔くぞ」
 「又兵衛どの、水を汲んで来ましたぞ」
 「かたじけない。…が、まだ足りそうにねえな。長曾我部どのに明石どの、悪いが水瓶もう一杯頼む」
 「承知した」
 三の丸。蓮乗寺から来た郎党達は集った兵らの宿舎建造に駆り出されている中、又兵衛達は黒田家の大坂屋敷の庭を畑に改良するべく畑仕事にいそしんでいた。軍議の合間の息抜きであり、足腰の鍛錬にもなる。
 「又兵衛どの、うちから手伝いを連れて来ましたぞ」
 そこへ源次郎が野良着と菅笠姿の若者を連れて戻って来た。
 「おう、助かるぜ。早速だが、勝永が根っこを抜いた跡を耕してもらえるか」
 「はい」
 若者は源次郎と一緒に鍬を取り、手早く畑を耕し始めた。九度山で畑作を行っていた源次郎にも劣らぬ手つきの良さに又兵衛は目を見張る。
 「若いの、なかなか筋がいいな」
 「田畑での仕事には慣れています」
 「上田城で徳川を迎え撃つ際、我が父も城内で畑作をさせていたのです。上田も籠城戦でしたから兵糧攻め対策にもなりましたし、城へ避難してきた民に仕事を与えて不安を解消させる事も出来ました」
 ともに鍬を取っていた源次郎が説明する。又兵衛は「なるほど」と感心した。
 「寡兵での籠城など無謀なことをと思いましたが、人は追い詰められて初めて持っているもの以上の力が出せると学びましたよ」
 「ほう。ここ大坂でも同じ事が出来ると思うか?」
 「俺は思わないなあ。何せ上の連中が俺達の声をまったく聞いてくれねえんだから、力を出せったってその気になれるものじゃねえ」
 「うむ。我らを使い捨ての駒だの盾だのと言い切ったのはいただけませんな。人は人に敬意を持つことで人から尊重されるようになると聞きますが、尊重してもらえない相手に敬意など払いようがありませぬ」
 「まったくその通りだ」
 彼らが口々に不満を漏らしている中、源次郎は自分も鍬を振るいながら話を引き継いだ。
 「無論、上田の民が我が父を信じていたからこそ為し得たのです。父も民の思いに応えるために万全の策を練り上げた。そうでなければ、上田はとうに滅ぼされていたでしょう。そして人の心をまとめるのは……」
 「……私という事であるな、左衛門佐」
 源次郎が促した視線の先にいた若者が、傘と頭巾を取った。途端に又兵衛らの顔色が変わる。
 「と、殿?」
 見違えたのは粗末な野良着のせいだけでない。城内で見る姿とはまるで別人のような体格ではあるが、そこに居るのは間違いなく秀頼本人だった。
 「牢人衆の働きを見たくて、左衛門佐に無理を申しておったところだ。額に汗して働くのは久々であるが、とても気分が良いものだ。幼き頃、母が田畑の仕事に連れて行ってくれた頃を思い出したぞ」
 「いえ、そんな事より…今の話を」
 「皆の声を直に聞くのが、今の私に出来る事だ。そなた達の懸念、私も気にしていた故に重く受け止めたい」
 「殿も、牢人衆と評定衆の対立をどうにかしたいとお考えだったそうだ。黙っていた方が率直な意見も聞けると判断し、私がお連れした」
 「源次郎さん……まったく人が悪い」
 「すまぬ。だが、こうでもしなければ溝は埋まらぬと思ってな」
 「その通りだ」
 秀頼は顔の汗を軽く拭うと、皆を縁側に誘った。地面に腰を下ろそうとした又兵衛を手で制して、敢えて同じ場所に並んで腰かける。
 「そなた達牢人衆に感謝しなければならぬ立場であるのに、大叔父上や乳母を抑えることもできぬ己の不甲斐なさ……まったくもって恥じ入るばかりだ」
 「……」
 「籠城となれば大坂城下が戦場となる。だがそうする他にないと決まってしまった以上は民の被害が最小限で済むよう、此度の戦はできるだけ短期間で終わらせたい。そのためには強い将の力を借りねばならぬ。父が築いた泰平の世を守るためにも、私はそなたらの誰一人とて欠けてもらいたくないのだ。私は評定衆にもっと強くものを言えるよう励むゆえ、どうか力を貸してほしい」
 頼む、と頭を下げられ、牢人たちは困惑した。しかし悪い気はしない様子である。
 「ま、まあ、殿様にそこまで言われて逃げ出すのも武士の恥ってものさね」
 「おう。俺達は誰でもいいから認めてもらいたくて来ているようなもの、武士としてちゃんと扱ってもらえるのなら文句はないさ」
 「そうか……肝に銘じておく」
 秀頼は源次郎に命じて紬地の風呂敷包みを解いた。
 「私はそなた達の心意気に応えられるよう励まなければならない。だが今できることは……物で敬意を表せるかと訊ねられればそれは受け取る者の心持ち次第だとしか言えぬが、形あるものをもって我らの繋がりの証としたい」
 包みの中から、秀頼はまず切支丹が持ち歩くという母子の肖像画を明石に手渡す。受け取った瞬間、明石は「おお」と感嘆し胸の前で十字を切った。
 同じようにして勝永には地模様が浮き出る織りの黒地に金糸で蔦模様の縁取りが施された趣味の良い陣羽織、長曾我部には刀、又兵衛には槍をそれぞれ授けた。
 「どれも父上の形見だ。城の蔵で眠っているより、豊臣の名を背負って戦ってくれるそなた達に使ってもらってこそ価値あるものになると考えた」
 「太閤殿下の……」
 つまりすべてが最高級品である。渡来の高価な絵も、秀吉がその美しさと珍しさに惹かれて買ったは良いが、それが切支丹にまつわる画だという事までは知らないまま保管されていたらしい。他の品も収集はしたものの本人は使う機会がないまま仕舞われていたという。
 一介の武士では目にする機会などない品に明石はついつい胸の久留子を握って絵を拝み、他の者達も拝領品の見事さと銘にため息をつくばかりであった。
 秀頼の心尽くし、そして世間を欺く仮の姿を解いた行動は、牢人たちの心にも届いたらしい。
 「もう大丈夫でございますよ」
 源次郎の言葉に安堵したのは、他ならぬ秀頼自身であった。
 「我が儘を聞いてくれて礼を言う。真田、そなたには何を与えれば良いだろう」
 刀か槍か、何でも申してみよ。秀頼の言葉に、源次郎はまず「有り難き幸せ」とひれ伏してから答えた。
 「ではお言葉に甘えて……左衛門佐は城を一つ普請いたしとうございます」
 「戦の後に?」
 「いえ。戦の前に、でございます」


 「真田左衛門佐に出城を普請させる」
 大勢の前に出る時の出で立ちで軍議の場に現れた秀頼は、開口一番そう宣言した。
 「殿、それは一体どういう事で」
 「殿自らのご決断にございますぞ、有楽斎さま」
 あらかじめ秀頼の意思を聞かされていた大野修理が耳打ちする。有楽斎は大蔵卿局と顔を見合わせたが、彼女も首を傾げるばかりだった。
 「聞いておりませぬぞ。あまりに急なお話、しかも城となれば慎重な協議が必要なのでは」
 「開戦までもう二月とないでしょう。あまりにも性急ではありませぬか。牢人に城を与えて、もし内応されたらどうなさるのです」
 「城と申しても、大坂城の弱点を補うための砦のようなものだ。左衛門佐は牢人衆の力があれば出来ると申しておる。今は戦に勝つためには手段を選んでいられぬ時、私は左衛門佐の…牢人衆の言葉を信じる」
 「何と!」
 「私の心は彼らと共にある。私達のために戦ってくれる者を信じずしてどうするものぞ」
 「しかし城となると金子が……」
 「石田治部が残しておいてくれた豊臣の財の使い途は秀頼に委ねました。わたくしは秀頼の意思を尊重します」
 広間の廊下から現れたのは淀であった。淀は優雅に廊下を進むと、秀頼の側に座って牢人衆に微笑む。
 「わたくしも秀頼と同じ思いですよ。まずは集ってくれた牢人衆全員に礼を申します。亡き殿下は身分の貴賤なく能力のある者を登用したからこそ天下を獲ることができたのです。大坂を守り抜くという同じ目標を持った者同士、皆の知恵と力を合わせて最善を尽くすことを願っています」
 「ははーっ!」
 大げさに感動して見せたのは又兵衛である。有楽斎の目論みなど、殿の威光の前では塵同然だと見せつけるかのように。
 有楽斎の歯ぎしりが聞こえてきそうであったが、牢人五名は彼には一瞥もくれずに「我ら、殿のご信任に応えましょうぞ」と秀頼に平伏した。

 「城とはまた大きく出たな。もしかしなくとも、こうなる事を見越していたな?」
 軍議を終えたその足で集った本丸の台所。昼は侍女たちが息抜きをする休憩部屋で酒を汲み交わしながら、又兵衛が源次郎を冷やかす。
 「九度山にていくつか練っていた策の一つにしか過ぎませんよ。講和や美濃での迎撃策で解決するのならそれが最善だったとは思いますが、却下された場合も想定して備えておいたものです」
 源次郎は涼しい顔で酒を呷る。
 「有楽斎や大蔵卿局を出し抜くため、主に直談判か。俺達の気分もすっきりしたが、今から城を築く時間などないぞ」
 「何の。既に設計図は完成しておりますし、場所の選定も済んでおります。太閤殿下の立身出世伝になぞらえ、一夜城と参りましょうぞ」
 「一夜は無理だろう」
 「勿論無理です。そのくらいの心意気で、という事ですよ」
 さらりとした口調でとんでもない事を言ってのける奴だ。又兵衛達は目を丸くしたが、源次郎ならば本当にやってしまいかねない。だから痛快なのだと皆が思っていた。
 「しかし牢人が城持ちになるとは胸のすく話だ。俺達にも一枚噛ませろや」
 「勿論。頼りにしています」
 「おう。楽しい戦になりそうだ、なあ、みんな」
 「ああ。わくわくするぜ」
 さあ呑め、と皆で徳利を傾け合う。後に『大坂五人衆』と呼ばれる彼らの心は、こうして一つにまとまったのである。


 源次郎が所望した出城は、大坂城の南東に築かれることになった。大坂城最大の通用門、平野口に通ずる道の上である。
 北を大坂城の堀に、道から東は猫間川、西は広大な平野という中にぽっかりと存在する高台。源次郎はその土地を城の位置に指定した。
 「大坂城にも惣構があるのに、さらに空堀を設けるつもりか」
 普請工事を視察に訪れた大野修理は呆気にとられる。
 幅約二十五間(現代に換算して約四十五メートル)という長い堀が出城を囲む。しかしその先には太閤が築いた大坂城の広い惣構が存在しているのだ。ただでさえ時間がない中、二度手間としか思えないのだが。
 「この方が、敵はより大坂城に近寄り難くなるでしょう」
 真田が掘削していた堀と大坂城の惣構との間の畦道は馬が二列で併走出来るかどうか。
 「たしかに、平野口を目指すにはこの畦を進むしかない。だがそうすれば出城から狙い撃ってくれと言うようなものだな」
 「出城の鉄砲狭間から放つ弾が効果を現すぎりぎりの距離です。こちらの射程から外れても、大坂城の鉄砲狭間からの弾が届きます」
 計算ずくであったか。大野が舌を巻く思いを顔に出して源次郎を見やる。
 「しかし出城とはまた考えたな。大坂城は殿下が天下人になられてから普請された城、戦向きに造られてはおらぬ。その弱点を見抜いていたとは」
 「十年以上にわたって殿下にお仕えして居りましたから……様々な仕事をさせてくださった石田治部さまのおかげで、城の内外や地形についての土地勘があったことが幸いしました」
 「石田治部少輔……その影響力が、このような形でも現れるとはな」
 偉大なお方だったのだな、と大野は思い出をかみしめた。
 「工事はどうであるか?人が足りぬなら寄越させるが」
 「ありがとうございます。ですが真田の兵と後藤どの・毛利どのの兵を借りておりますゆえ、人手は充分にございます」
 「両名が……」
 「はい。私達は殿の盾であり……」
 「意地悪を言わないでくれ。あれは流石に酷いと私も思っておるのだ。だが諌言できぬ立場も分かって欲しい」
 大野が牢人衆に申し訳ないと顔をしかめる。源次郎は「わかっていますよ」と笑って頷いた。
 「殿の矛でもあります。誰から如何様に言われようとも、我らの誇りは揺るぎませぬ」
 「いや、参った。まことに敬意を示したい」
 大野は軽く頭を下げた後、地盤が整えられた高台から大坂城を眺めやった。
 「左衛門佐よ。少し聞いてもらって良いか?」
 「はい」
 「石田治部と徳川が対立していく最中、私は大坂を出て徳川に降ったことになっている……関ヶ原の戦にも東軍として参陣していた」
 「存じ上げております」
 駿府・賎機山で大野が起こした家康暗殺未遂事件だ。
 「徳川暗殺は叶わなかったが、徳川への報告にあたってはそなたの兄が随分と骨を折ってくれたと聞いている」
 大野に利用価値を見いだした徳川方…おそらく本多佐渡守あたりの入れ知恵もあったのだろう…取り調べを行った源三郎が『大野による徳川への直訴であり暗殺未遂ではない』という旨の報告を世に発表した事で決着をみたのである。しかしその真意をめぐっては昌幸も様々な憶測を巡らせていたものだ。
 「おかげで命は助けられたが、その時私は条件を出された。……徳川方として戦に加われと」
 「徳川の常套手段ですな。一家が分かれて戦った上田の戦では、我が兄も先鋒を任せられましたから」
 大野は「そうであったか」と得心していた。豊臣恩顧の者で徳川方に付いた者の多くは、関ヶ原では最前線に置かれてかつての同胞と戦っている。
 「当初の目論みが外れた時点で、私は目的を切り替えた。あからさまに徳川に降った者は捨て置くしかないとして、豊臣の獅子身中の虫となる事を選んだ者……殿下に良くない感情を抱きながら石田についた者を関ヶ原にて討つことにした」
 内部に潜む敵のあぶり出し。昌幸の推測は当たっていた事になる。しかし大野自身は後悔の念を抱いているようにも見えた。
 「上方軍で息をひそめて豊臣家に仇なそうとしていた者を討つことで武功を挙げて命を繋ぎ、戦後になって有楽斎さまのお伴という形で大坂に戻った。そのまま何事もなかったかのように秀頼さまのお側に仕えることも許されたが、一度は豊臣を出奔した身という立場で恥をさらしながら座る針の筵は覚悟していた以上に鋭く居心地の悪いものであった。しかし、お上さまから戴いたご信頼を思えば二度目の出奔など出来る訳もない。肥後守どののように闇に葬られても文句は言えなかった私を江戸から連れ出し、お上さまに取りなしてくださった有楽斎さまに強く意見する事もできず、ときに殿を蔑ろにする言動は聞かぬ振りをしてやり過ごすことでどうにか今まで過ごして来たのだ。そんな己の無能さを歯がゆく思わない日はない……お上さまが私以外の者に信頼を寄せるのも当然だと分かっていても、此度の牢人衆の活躍ぶりには自尊心が痛んでならぬ」
 「お上さまのご信頼、ですか?」
 「……お上さまは高い志を抱いて聚楽第に入られた方だ。私の懸想など迷惑でしかない故に、せめてこの身でお役に立ちたかったのだが」
 「左様でございましたか……」
 大野修理が淀に懸想しているのではという話は、侍女たちの噂話の中で耳にした事があった。太閤の知るところとなれば大野はとうに腹を切らされていただろうが、誰もが「大野修理に限ってあり得ない話だ」とまともに取り合わなかった事で救われたのだろう。
 修理の胸の内は、源次郎にも理解できるように思えた。けっして通じ合うことのない気持ちは、どれだけ苦しいことだろう。
 しかし、まだ挽回の機が絶たれた訳ではない。
 「お上さまは修理どのを信頼しておられるからこそ、殿のお側仕えをお命じになられたのです。修理どのがお二方に強い忠義を持ち続ければ、きっと殿とお上さまを守りきれましょう。この先、修理どののお力が必要となる時は必ず訪れます。どうかそれまでは自棄を起こさないよう」
 背中を押すことも、止めることもできないもどかしさを抑えて源次郎はそう答えるのが精一杯であった。
 「気休めでも縋りたい言葉だな……すまない、ただの戯言だと忘れてくれ」
 ときに左衛門佐、と大野は話題を変えた。
 「有楽斎さまが普請の現場を見たいとご所望なのだ。どうにかならぬか」
 「申し訳ありませんが、ご案内している時間も惜しいので……私の代わりに全てを案内できる者も居りませぬし」
 「では図面で全容なりとも見せてもらえぬか。なにぶん好奇心の強い御方ゆえ、断りきれぬのだ」
 「それでしたら喜んで」
 困りきっている大野の立場を理解した源次郎は、才蔵を呼ぶと出城の設計図を渡すよう命じた。
 「どうぞお持ちくだされ」
 「かたじけない……っと、これは!」
 図面を受け取った大野は目を丸くした。源次郎は当然のように答える。
 「出城の名でございます」
 出城の中央、本丸にあたる部分には

 『真田丸』

 という名が堂々と刻まれていたのだ。


- 岡崎 -

 「真田丸、とな」
 二条城に入る支度を急がせていた徳川家康は、その名を聞いた瞬間、脇息に乗せていた肘を滑らせ危うく畳から転がり落ちそうになった。
 「殿!」
 すぐに阿茶局が駆け寄って身体を支える。
 「き、気付薬を頼む」
 「はい、今すぐ」
 ぱたぱたと阿茶局が駆けていく足音を背に、家康は何度か大きく深呼吸を繰り返した。
 「我々との戦を意識して『真田』の名で兵らを鼓舞する狙いか」
 「初陣の秀頼公では頼りないゆえ豊臣方の総大将にと目されていた織田信雄どのが去ったことで、大坂に集った牢人衆の中では最も名が知れている真田を総大将に立てるつもりやもしれませぬな」
 有楽斎は面倒事には関わりたくない性分、後藤又兵衛や長曾我部、事務方の大野修理では総大将としての説得力に些か欠ける。
 しかし真田ならばそれらの問題は解消されるどころか兵らの士気も大きく上がるだろう。家康の脳裏を濃墨のような記憶が走る。
 総大将不在の戦、烏合の衆が相手よと侮っていた家康の目論みは戦の前から崩れたのだ。ならばすぐに次の手を打たなければ。
 考えながら、家康は近習に命じていた。
 「伊豆守を呼べ」
 「伊豆守さまでしたら、既に戦支度のために上田へ戻っておりますが?」
 真田の名を聞いた動揺だけでない、高齢に加えて将兵が多すぎてその動向を把握しきれなくなった家康の綻びが垣間見える。困惑した近習を前に、本多正信はさりげなく主の間違いを正した。
 「隠岐守、と大御所さまは仰せだ。そなたの聞き間違いであろう。早うせい」


- 大坂 -

 「旦那さま、お客様がお見えです」
 数日ぶりに三の丸の屋敷に戻って子らの学問をみていた源次郎に、さちが来客を告げた。
 「客人?」
 「お庭でお待ちですわ」
 誰だろうかと台所から直接中庭に抜けると、晩年の父によく似た声がする。
 「そなたが大助か。面持ちといい剣の筋といい、兄上の若い頃によう似ておるな」
 そう言って大助の稽古を見ていたのは、実に意外かつ懐かしい顔だった。
 「おお源次郎。息災で何よりだ」
 最後に会ってから二十年は経つだろうか。白いものが増えた髷に、皺だらけの顔。
 「叔父上?なぜこちらに」
 徳川家に仕えている筈の真田信尹…昌幸の弟は、さらりと「密命だ」と言ってのけた。

 信尹が、誰の手引きで、どうやって大坂城内に入り込めたのか。それは聞いてはならない。
 聞けば秀頼に報告せざるを得なくなるからだ。

 「真田丸という出城の噂は既にこちらにも届いておる。思っていたより大きくて驚いたが、あの出城は……」
 「父が亡くなる前に図面を遺してくれました」
 「なるほど、兄上らしい大胆な造りだと思った。さぞや趣向も凝らしてあるのだろうな」
 「私が生まれて初めて持つ城ですから、そちらは私が考えました」
 「そうか……子細は聞かぬ方が良いな」
 「申し訳ありません」
 会話がぎこちなくなってしまうのは、年月の流れのせいではない。思い出話ひとつするにも、どの位まで話して良いのかどうか。どこまで家康に伝わってしまうのだろうか。
 身内で腹の探り合いをする心地悪さに、源次郎の口数も少なくならざるを得ない。
 そんな源次郎の葛藤を察した信尹は、来た時と同じようにあっさりと来訪の目的を口にした。
 「……大御所さまは、おまえに信濃国のうち三万石を与えると仰せだ」
 「それはどういう事で?」
 「大御所さまがおまえの力を買っている、という事だ……いや、怖れていると言った方が正しいのやもしれぬ」
 信尹の言葉には、間に立つ者ならではの苦笑いが含まれていた。
 「徳川にとって真田の名は鬼門だ。真田の者が大坂城に入ったとの報せを受けた時も、大御所さまは大層怯えていらした。兄上に植え付けられた恐怖を大御所さまが克服する手段は二つしかない。一つは、おまえを仲間に取り込んでしまうこと」
 信濃三万石を選ばなかった場合、残る一つの選択肢が何なのかは容易に察しがついた。しかし
 「否、とお伝えください」
 源次郎は即答する。
 「よいのか?」
 「その三万は、兄上の領地を削っての安堵なのでしょう。そのような意味のない条件を呑んでしまったら、無念のまま九度山で亡くなった父に合わせる顔がありません」
 「あれから十五年も経ったのだぞ。今の徳川の兵数を知らぬ訳ではなかろう。十万と二十万では勝敗の行方も見えているというもの。出城一つに固執せず、戦が始まる前に降るのも方法だぞ」
 源三郎も心配している、と信尹は強調した。信尹が翻意を促すのも心から源次郎を案じてくれているが故なのはよく解る。
 しかし源次郎の決意は翻らなかった。
 「家の存続が私一人の肩にかかっていたのならば……天正壬午の乱の頃の父上のような立場でしたら、真田家と上田の地が生き残れる方へと乗り換えていく手段も取ったでしょう。ですが今は兄上がそれら全てを守ってくれています。負うものがないのならば、私は『義』に生きとうございます」
 それに、と源次郎は父の位牌が安置された祭壇を仰ぐ。
 「父上は、九度山にて出城の設計を生き甲斐としていたくらい……最期まで己の再起と徳川家康への雪辱を望んでいたのです。その想いを私が引き継がずしてどうなりましょうか」
 「真田の地を守ることもまた兄上の悲願であったぞ。兄弟で力を合わせて守るという訳にはいかぬか?」
 「知行は二人も要りませぬ。真田の郷を安堵されたとして、私が彼の地を平穏無事に治められるとは限りませんし」
 関ヶ原で石田三成と敵対した豊臣恩顧衆。加藤肥後守や浅野長政といった大大名達との末路が自らの行く末を暗示している。源次郎はそう考えていた。
 所詮、徳川は、豊臣恩顧の者を利用はするが信用はしていないのだ。
 「では、あくまで降る意思はないと申すか」
 「はい」
 ふう、と信尹は大きく息をついて肩を落とした。落胆したように丸めた背中とは裏腹に、その顔は薄く笑っている。
 「……まあ、こうなるだろうとは思っていた。おまえに大御所さまの意思を伝えることが私の役目だった故に来ただけのこと。真田家の者としてはその心意気を嬉しく思うが、おまえが戦の前に暗殺されては意味がない。ゆえに大御所さまには返事を保留したと伝えておく。此度は私も大御所さまの陣につくゆえ、戦の最中に気が変わったらいつでも来い」
 「そうならないよう、死力を尽くして戦います」
 「ふふっ、それで良い」
 見送りを辞退した帰りしな、信尹は源次郎に耳打ちした。
 「源次郎、身辺に気をつけておけ。私がここまで入り込めた意味を忘れるな……戦以外で死ぬではないぞ」

 実際、それから幾度か源次郎は危うい目に遭った。信尹の忠告を忍衆に伝えて身辺を護らせておいたので全て未遂に終わり、十日もすると源次郎や彼の一家をつけ狙う不穏の影はほとんど消え去った。
 だが、信尹の言葉は物理的なものだけを指している訳ではなかった。

 「源次郎さんよ」
 出城の普請に軍議、兵の鍛錬と慌ただしく過ぎていく日々の中で唯一といって良い息抜きの時間。城の台所の隅で軍議の詳細を打ち合わせながら酒を酌み交わしていた五人衆の中から、後藤又兵衛が冗談めかした口調で切りだした。
 「徳川から内通の打診があったという噂が駆け回っているが、はっきり否定しないのかい?」
 勿論俺達は信じてなどいないが、と一笑に付す仲間達に源次郎は内心感謝すら覚えた。彼らに真実を打ち明けられたら、どれだけ楽だろう。
 しかし柱の陰で様子をうかがう気配に気づいていた源次郎は、あえて冗談めかして応える。
 「さあ。そのような事実はあったかもしれませぬし、無かったかもしれませぬ」
 「……ふうん。そいつは真田伝統の『表裏比興』って奴かい」
 「私は父ほど器用な者ではありませぬ。意外と本気かもしれませぬぞ?」
 「まさか。城まで普請してもらって今更、なあ」
 「ああ、大概な表裏比興だ」
 すっかり出来上がった勝永が上機嫌で源次郎の杯に酒を注ぐ。
 「俺だったら…たとえば三十万石くらいくれるなら考えなくもないけどなあ」
 「三十万とはまた法外だな」
 「私も三十万なら考えなくもないですね」
 源次郎も会話に乗る。そして「でもあの徳川がそんなに弾むわけないでしょう」と落として笑いを誘った。
 「だがまあ、『あっち』に行く時はおいら達にも声をかけろよ?おいらはあんたとは戦いたくない」
 「ははは。承知しています」
 杯を呷りながら視線を流すと、柱陰の気配はそっとその場から離れていく。
 酒を勧めながら又兵衛と視線が合った時、又兵衛もまた意味ありげな目くばせをしてくれたのだった。

- 京都 -

 真田丸の普請工事が急がれるある日。秀頼から一日だけ時間をもらった源次郎は、こっそり大坂を抜け出して京都のとある寺の裏山に居た。
 大坂城に勤める者も、今ではほとんどが豊国神社の廟に太閤が眠っていると信じている。本当に太閤が眠る場所を知るのは、もはや片手で数える程になってしまった。
 二十三回忌法要もまだ済ませていないのに、太閤の存在は既に風化しかかっている。土が盛り上がった上に小さな墓石が構えられただけの墓はうっすらと苔生していた。
 ここに眠る者がかつて金色の茶室や豪奢な城をいくつも築いたことなど、まさしく夢のまた夢である。慎ましい墓所に酒を手向け、源次郎は祈りを捧げた。
 「あら、あなたは」
 こそりと足音がしたかと思うと、懐かしい声が源次郎を呼び止めた。尼姿になってはいたが、よく見知った人なつこい顔。
 「北政所さま?」
 「大坂に入ったと聞いていたのでもしかしたらと思ったら、やっぱり源次郎なのね。関ヶ原の後は随分と苦労をしたようだけれど、元気そうで何より」
 「お久しぶりです」
 水を汲んだ手桶と野の花を手にした北政所は、太閤の墓前に手向けられた酒枡を見て嬉しそうに頭巾の奥の眼を細めた。
 「あの人にお参りしてくれたのね……嬉しいこと」
 「殿下には多大な薫陶を頂戴いたしました。当然のことでございます」
 「ありがとう。豊臣家に忠義を誓っていても、ここまで来てくれる人はそうそう居ないものよ。佐吉と紀之助が生きていた頃は二人でよく来てくれたのだけれど……」
 諸行無常とはよく言ったものですわ、と北政所がこぼす。
 「このようになる事を怖れるから、人は権力や金子で人の心を繋いでおこうとするのかしらね」
 「北政所さま?」
 「……あら厭だ、私としたことが。今の話は内緒にしておいてね」
 北政所は手桶の水を墓石にかけて清めると、源次郎が手向けた酒の隣に花を手向けて念仏を唱えた。
 「源次郎……もうじき戦になるのでしょう?」
 「仲間が講和を進言いたしましたが、評定で罷りませんでした」
 「そう……戦の世は佐吉の戦で終わりになると思っていたのですけれどね……」
 「申し訳ありません」
 「あなたの一言で動くほど評定は簡単なものではないでしょう。けれど多くの人の声と力が集まれば……佐吉はそうやって関ヶ原に赴いたのですから」
 そうそう、と北政所は手を胸の前で合わせた。
 「源次郎。せっかく京都まで来たのでしたら、三玄院にもお参りなさいな」
 「三玄院?」
 「佐吉が眠っていますよ。あんな死に方をしたけれど、佐吉の行いをちゃんと見ていた人はいたのです。まだまだ、この世にも心があるという事ですわ」

 北政所が言う三玄院は、二条城のはるか北、嵯峨野の近くに佇む大徳寺の一角に佇んでいた。
 そこで、刑死した者に『その後』があることを源次郎は初めて知った。罪人として鳥辺野あたりにうち捨てられるのかと思っていたのだが。
 大徳寺の沢庵和尚を訪ねて三玄院に参りたい旨を申し出ると、和尚から教えを請いに通っているという青年の僧が案内を買って出てくれた。和尚も「それがよい」と勧める。
 「こちらが廟所です」
 扉が開け放たれた明るい風が入る廟所。本尊を囲んで、いくつかの位牌が並んでいた。
 「関ヶ原の戦いで死んだ豊臣方の将兵たちの位牌です。石田さまのお位牌はこちらに」

 『江東院岫因公大禅定門』

 「何とおいたわしい……」
 位牌に合掌した源次郎の口が無念に歪む。
 『岫』とはすなわち『骨』。因果の末に骨となった者は、あの世の門をくぐる前に修行を積み直すべしと源次郎は読み取った。
 「仏の世界に入ってもなお罪人でおられるとは……ご無念でありましょう」
 が、僧は「そうでもないのですよ」と静かに告げた。
 「幕府の手前、表向きはこのような戒名を用いておりますが……実はこれは『偽』の位牌であり戒名なのです」
 「偽?」
 「和尚さまの計らいで、そのように」
 僧は位牌の奥からもう一つの位牌を丁寧に取り出して見せてくれた。

 『正軸因公』

 「こちらが本当の戒名でございます」
 「ご住職は治部さまのお人柄をよくご存じだったのですね」
 『岫』の文字があったところが『正軸』となっている。正義、公正を貫いたがゆえの因果であったが、その行いはむしろ誇るべきであると源次郎は読み取った。僧は嬉しそうに頷く。
 「俗世のことをあれこれ申してはならぬ身でございますが、正しさを貫いた生き様は、やはり語り継がれるべきではないかと私は考えます。今は解ってもらえずとも、いつか遠い後の世にでも治部少輔の行いを評価してくださる方が現れれば、その時にこそ御霊も浮かばれることでしょう」
 「治部さまならば、自ら信ずる正義を貫いただけだから評価など無用だと仰りそうですけれど」
 つい口走った源次郎に、僧は目を丸くした。言い過ぎたかと源次郎が謝罪しようとした瞬間、僧はくすくすと笑いながら目尻に涙を溜めた。
 「いや、まことに。私もそう思います……真田左衛門佐さま、あなたは本当に三成をよくご存じでいらっしゃる」
 三成。治部少輔をそう呼んだ若い僧の面影が一瞬治部少輔に見えて、源次郎はつい訊ねてしまう。
 「お坊様、あなたは一体?」
 「……石田重家。それが俗世における私の名でした」
 石田三成の子息は、みな関ヶ原の戦いの後で行方知れずとなっている。身分を偽って落ち延びたとも高野山へ逃れたとも聞いていたが、たしか眼前の僧と同じ名の子も居たと、源次郎は得心した。
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