第25話 筑摩江や

文字数 11,630文字

 
 筑摩江や 芦間に灯す 篝火と ともに消えゆく わが身なりけり

 徳川家康に捕らえられた後、琵琶湖の対岸に佐和山城を臨む大津城にて全裸で生き晒し、地位を築いた大坂城下では板車で市中引き回しという屈辱を受けた末に六条河原で斬首された石田三成の辞世の句である。
 佐和山城があった筑摩江での逃亡の日々。戦には敗れたが、自ら貫いた信念は間違いではなかった…領民のために当たり前の事と行った治世の数々は、今も佐和山の民の暮らしを支えている。そして民は三成に感謝と尊敬の念を抱いてくれていた。逃亡生活の中で触れた民の思いに感謝を、そして自分が治世を続けられなくなった事で彼らの暮らしがこの先どうなるのか案じる気持ちを綴っているような句であった。
あの触れ合いがあったからこそ、三成は徳川家康による執拗な屈辱にも挫けなかった。さらに六条河原へ向かう板車の上にあってもなお背筋を伸ばして前を向き、干し柿の逸話まで残すほど誇り高くいられたのかもしれない。
 三成があまりに堂々と斬首されたため、民や民に紛れてこっそり見物に訪れた武士達はみな此度の対戦の義はやはり石田三成にあったのかと良心を痛めた。徳川はそれらの議論が過熱して足元を揺るがされないよう石田三成についての印象操作に余計な時間を割くことになった。
 だが、いちど点いた火というものは、上から何を被せても燻り続けるものなのである。低い熱でじわりと息をひそめ、再び燃え上がる機を伺うのだ。


 「関ヶ原には、大野修理太夫も東軍として参戦していたらしいな」
高野山の総本山からゆるゆると下り、麓の紀伊国まで続く修験道の始まり…麓から上がって来た者にとっては終着点のすぐ近くにある蓮華定院という宿坊。そろそろ終わりを告げる萩の花が風にゆらぐ様を眺めながら、真田昌幸はすっかりぬるまった白湯をすすった。
 「西軍の首級を相当挙げたらしい」
 「それは……」
 「源三郎と同じだ。敢えて敵方に肩入れすることで豊臣を生きながらえさせたと見るべきだろう。ついでに大野が討ったのは豊臣に面従腹背であった者ばかり。まこと合理的だ」
 しかし、徳川もそこまで愚かではない。昌幸はそう呟いてさらに茶を一口。
 「まさに茶番よ。徳川とてそのような思惑くらい読んでおろうに。関ヶ原の戦後処理が済めば、もう大野は用済みだ」
 「では大野さまは処刑されるのですか?」
 「いや。厄介払いされるだけだろうな。徳川からすれば大野なぞ取るに足らん小者だが、肚の中に納めてもそう簡単にこなれそうにはない。彼奴が淀君のお気に入りなのは有名な話ゆえ、斬れば豊臣だけでなく西の諸大名との間に軋轢が残る。ここはあえて駒を敵に戻して今後の悶着を封じるのが正解であろう」
 実際、昌幸が言うとおりに事は運んだ。
 石田三成率いる上方軍に勝利したとはいえ、徳川もまだ豊臣家を完全に敵に回すことはできずにいた。最大の邪魔者であった石田は排除したが、まだ毛利や島津といった大大名と徳川の間には一線が引かれたままである。
そこで、徳川は豊臣と和睦の道を選んだ。
 まず、表向きは徳川に直訴した事になっている…実際は家康暗殺未遂だったことは誰でも知っているが…大野治長に淀の伯父にあたる織田有楽を伴わせ、豊臣家に向けた『徳川家に豊臣家に対する敵意はなく、石田の蜂起によって起こった動乱を鎮めたにすぎない。石田は会津の上杉景勝と同盟関係にあり、関ヶ原での戦いは会津討伐の一環として行われたものである。しかし豊臣家もまた石田治部に徳川討伐の許可を与えた以上見て見ぬ振りはできないだろうから、ここは和睦という形で事の決着をみたい』と、いささか強引な親書を託して大坂に向かわせたのだ。大野は事実上の放免、織田有楽は放逐である。
 先に許可を与えていた会津討伐を引き合いに出され、なおかつ石田の惨敗を目の当たりにしていた豊臣としては、親書を諾とする以外に面目を保つ道はない。大罪を働いた大野を赦すという寛大さまで見せつけられては尚のこと。
 双方の利害が一致した結果、関ヶ原の戦いは石田治部少輔三成が独断で強行したことで、豊臣は断る理由がないためそれを認めるしかなかったのだという顛末が成立したのである。豊臣家存続のため、それまで忠実に働いてくれた石田を切り捨てざるを得なかった淀の苦渋が見えるようであった。
 淀は徳川の親書を受け入れ、石田の敗戦を受けて自国を安堵する書状だけを徳川から取り付けて国元へ引き揚げた毛利輝元が暮らしていた西の丸に徳川家康・秀忠親子を入城させた。事実上の開城となった大坂城にて正式に和睦が成立したのが合戦の年の暮れ。大野治長は淀に書状を渡した時点でお役御免となり、以降の和睦交渉に加えられることなく秀頼の側仕えに復帰した。
 徳川と豊臣の関係修復はこれにて完了となり、すべてを『なかった事』として、再び政治が動き始めたのである。

 大野治長は赦されたが、蓮華定院の真田昌幸・源次郎親子の方は日を追うごとに神経をすり減らされるままであった。
 海野・滋野家の時代から真田に繋がる一族が代々高野山詣での定宿としていた宿坊の境内は静かで、与えられた部屋をはじめとした待遇も武士のそれであったが、門は徳川の兵によって固く守られている。この宿坊で、上田から逃れて来た真田の者はみな蟄居…事実上の軟禁生活を強いられていた。

 関ヶ原で石田敗戦の報せを受けて急遽上田を離れた昌幸と源次郎の一行は高野山を目指していたが、甲斐国にて源三郎からの使いを持った忍衆に追いつかれた。源三郎は『徳川家康が二人の出頭を命じている。おとなしく出頭すれば裁きにかけるが、逃亡するのであれば罪人とみなし見つけ次第斬り棄て、上田の地も没収すると通告してきた』といった内容の文にて二人に出頭を促していた。犬伏での約束を果たすため、源三郎本人はもとより義父の本多忠勝も二人の助命に動いているとも。
 「高野山にて出家するつもりでありましたが、徳川内府さまが思っていたより早く動いたようですね。兄上と本多さまのご尽力を無にしてはなりますまい。ここは兄上を信じておとなしく出頭しましょう」
 源次郎に説得された昌幸は投獄覚悟でいったん京都へ入ったのだが、焼け跡も生々しい伏見城の一角にて待機させられること三日後、悲痛な面持ちで現れた本多忠勝によって間違いなく真田安房守と源次郎本人だと確認された末に改めて高野山行きを命じられた。
京や大坂には既に処刑された石田三成や小西行長といった大名たちと共に戦い捕縛された有力武将、いまだ京屋敷に蟄居したまま沙汰を待っている宇喜多秀家の家臣たち、その他敗戦によって牢人となった者達であふれかえり、彼らすべてに蟄居や投獄をさせる場所も警護の人手もなかったのだ。総大将を務めた毛利や戦のきっかけを作った上杉に近い者に至っては徳川の独断で処分する事もできず、事実上野放しである。
徳川方について武功を挙げた牢人たちも報賞や仕官を求めて滞在したままだが、数が膨大すぎるため徳川方が処理に手こずっているようで、日を追うごとに不満の声も聞こえていた。
無念と不満の声がいつ勝利の歓喜を追い越していくやも解らない状況下、徳川に刃向かった危険人物をひとまとめにしておくのは良策ではない。家康は呼びつけた真田安房守に罵詈雑言を浴びせたかったようだが、結局は断念せざるを得なかったのである。
 呼びつけておいて門前払いを喰らわせる、それもまた家康の嫌がらせだと昌幸は口惜しがったが、もはや罪人である身ではぼやきすら斬り捨ての口実となってしまう。関ヶ原において上方側にとっての武功を挙げた…東軍から見れば罪が重い者から順繰りに処罰が与えられていく中、真田親子はつき従ってきた国衆たちが先に入っていた高野山にておとなしく自分達の番を待つことになったのだ。

 伏見城に出頭する前、二人は遠回りをして六条河原に立ち寄っていた。
 石田三成が処刑されたという刑場は既に片付けられ、ともに処刑された小西行長、安国寺恵瓊、処刑は免れたが切腹を申しつけられた長束正家らと並んで晒されていたという首ももう下げられていたが、河原に染みついた血の匂いに集まって来るのであろうか、無数の烏が河原に群がり、また上空を旋回している。源次郎は刑場に向かってそっと手を合わせ、石田の…義を貫いて死んだ者達の無念に思いを馳せた。


 自分達がいつ六条河原に赴くか。一族の運命は、すべて家康の気分次第である。もしかしたら、明日の今頃は三途の川にて六文の銭を脱衣婆に支払っているかもしれない。
 辞世の句に用いる語句が脳裏をうろつく不安定な日々で源次郎と昌幸が出来るのは、おとなしく禅を組み、念仏を唱え、そして家族に宛てた遺書をしたためるくらいであった。
 真田家が守り抜いた上田の地は、兄がきっと守ってくれる。兄と本多忠勝を信じて一縷の望みを繋いではいたが、彼らとて家康が最終的に下した決断には逆らえない。
 表向きは平静を装っていたが、心は緊張に反応するのか、この頃の源次郎は胃の腑のあたりにむかむかとした苦しさを覚えて粥すら胸につかえる毎日を過ごしていた。しかし自らの不安を父に悟られてはなるまいと、一人で辛抱していたのである。

 座禅と食事、睡眠だけの生活を二十回ほど繰り返し、暦が神無月から霜月に変わろうとする頃。
 「徳川さまの命により、そなた達を移送する」
 朝の座禅を終えた一行のもとに徳川の使者が訪ねて来た。
 ついにこの日が来たか。一同の顔に緊張が走る。切腹か、斬首か。昌幸が、いつにないぎこちなさで畳に手をついた。
 「……白装束に着替えてまいりますゆえ、しばしお待ちを」
 「いや、着替える必要はない」
 縛に就こうとした二人を、使者は軽く嗤ってあしらった。まさか山を下りてすぐ処刑かと緊張が走ったが、彼はそれを一瞥して続ける。
 「真田安房守昌幸、および真田左衛門佐信繁の両名は信濃国主の任と官位を剥奪、郎党もろとも浅野紀伊守に身柄を預ける。ただちに山を下り、麓の村にて蟄居するように」
 「では!」
 「徳川さまのお慈悲に感謝するのだな」
 命は助かった。が、使いがそう告げた瞬間から二人は平民となったのだ。尊大な態度で見下す者にも平身低頭しなければならない。
 「……徳川さまの寛大なお心によっての慈悲深いお取り計らい、心より感謝いたしまする。以後は身を慎み、市井の民として静かに余生を暮らしましょう。もはや徳川さまにお言伝などお頼み出来る身分ではございませぬが、もし叶うのでしたら厚く御礼を申し上げとうございまする」
 「うむ」
 言葉に詰まる父に代わって礼を告げた源次郎がちらりと横目で見ると、畳に額を押し当てた父の肩の先に口惜しそうな顔があった。歯を食いしばり、皺の奥には光るものも見える。
 しかし源次郎はほっとした気持ちで全身から力が抜けそうであった。生きてこその世である。どのような形であろうと、命が繋がったことは後々に何らかの形で意味をなして来るだろう。
ならば感謝するべきところはしておこうではないか。頭を下げて生き延びられるのならいくらでも下げよう。どこまでもしたたかに。


 昌幸と源次郎の助命には、今後に向けた徳川の野望と大坂の思惑も絡んでいた。
 「関白の座をいつまでも空席にしておく訳にもまいりますまい」
 真田親子が高野山にて蟄居させられていた間の大坂城。
 戦後処理が淡々と進む中、関ヶ原で敵味方に分かれて戦った五奉行は事実上廃止となり、代わりに政務を行う者の人選や徳川軍に参戦した大名への恩賞、逆に石田方に与した者への処罰などが次々と決まって行く。日の本規模での大幅な人事異動であったが、一気に主導権を握った勢いで家康は淀に関白職の話を持ち出した。
 「秀頼が成人するまでは空席にしておこうと考えておりますが、まさか執権でも置くおつもりで?」
 「いやいや、執権など時代遅れ。秀頼どのはまだお若いゆえ執政を行う者は必要でしょうが、豊臣家以外の武家が執権に就いては各地の国主が疑心暗鬼にもなりましょう。さすれば公家も黙っておりますまい。ここは、秀頼どのが成年になられるまでの間として仮の関白を五摂家から立ててはいかがかと存じますが」
 「公家を関白に?」
 たしかに、戦で公家の立場が弱くなりつつある今、公家の中でも発言力が高い五摂家…藤原氏末裔一族の中から関白を立てれば公家の不満は抑えられ、相手が公家であれば武家からも文句は出ないだろう。てっきり徳川家から関白職を出したいのだと思っていた淀にとって、それは意外な提案であった。
 が、淀は家康がこのような話を切り出す際には必ず何らかの思惑がある事を知っている。
 「随分と唐突なお話ですわね。一体どなたを推挙なさりたいのです?」
 「そうですなあ……年の功で、九条家の兼孝どのなどいかがですかな」
 「九条どのの……」
 淀は大坂に入った際に学んだ莫大な資料から、その経歴を思い起こしていた。その記憶が確かなら、九条兼孝なる者は五十を目前にした准三后(公家の最高身分)であった筈だ。関白に立つには年齢も身分も申し分なく、決まってしまえば異論など出ようもない人物である。
 此度の話、家康の胸の内では既に決まっている…豊臣が異論を挟むことは得策ではないと判断した淀は、かわりに素早く胸算用をした。
 秀頼が成年となるまであと十年。
 人間五十年の時代、公卿の死期を読むなど畏れ多いが、時期的には秀頼が次の関白職に就任できる年頃に世代交代となる可能性が高い。
 いや、その前に九条より年長の家康の天命の方がもっと逼迫しているだろう。此度の戦いで旧臣を多く喪った豊臣家を背負って立つ秀頼が家康に勝てるものといったら若さしかない。ならば、今はおとなしく時間を稼いで体勢を立て直し、様子を見るのが得策かもしれなかった。
 「秀頼が幼い今は、それも仕方ありませんわね。ですが現在の関白職は亡き太閤が秀頼のために残してくださった職でもあります。関白職は、あくまで一時的に九条どのに預けるだけの事。しかるべき時が来たら秀頼に継がせると約束していただけますか?」
 肚を決めた淀は、それでも渋々といった姿勢で条件を突きつける。家康はそれを快諾した。
 「勿論にございます。秀頼どのが太閤殿下の後継であることは、今や民百姓までが広く知る事実。それを覆して日の本を敵に回すような事は、この家康には出来ませぬわ。喜んで起請文を書いておきましょうぞ」
 なら良いでしょう、と淀は起請文の前段階として念書を家康にしたためさせた。その花押を確かめながら、別の形で攻勢に出る。
 「そうそう、石田の処刑についてですが」
 「太閤が出された惣無事令に基づき、然るべき手続きは踏んだ筈でございますが、何か?」
 「いえ。市中引き回しを見た民が畏れおののいていたという噂を耳にいたしました。家康どのに逆らえばかような目に遭うのか、と。葵紋を見る民の目は、さながら……」
 そこで、淀は家康の顔をまっすぐ見た。
 「わが伯父、信長を見るようであったと」
 「ほう」
 家康の額に刻まれた皺が、一瞬深くなったように見えた。
 「せっかく日の本が安定し始めた昨今、歴史はもう二度と信長公の時代に戻ってはなりませぬ。伯父は自らに背く者をことごとく処刑し、その振る舞いからして本能寺に至るは必然とまで言われました。まして今は誰もが平和な世を望む時、家康どのも歴史の教えをお忘れなきよう」
 「ほほう、そのようなお心づかいを淀君さまからいただけるとは」
 淀の意図…これ以上の殺戮は家康に負の評価しかつかないと批判しているのは家康に伝わったようであった。そして彼はそれが淀からの単なる警告でないことも実抜いている。
 「わしの提案を受け入れるのと引き換えに、上方に与した将の助命を求めておるか。抜け目のない」
 西の丸に戻る廊下でふと立ち止まり、家康は天守閣を見上げた。
 淀が具体的に誰を助命したいのかも、家康には見当がついていた。
 「あの真田左衛門佐が淀君のお気に入りだという噂は真実であったようだな……父親もろとも、やはりもっと早くに首を刎ねておくべきであった」
 あれだけの大軍を持たせたのに。息子秀忠のしくじりは、つくづく痛かった。上田にて息子が真田を討ってくれれば、家康の天敵ともいえる真田安房守を合理的に葬り去ることが出来たのだが。
 そして石田をいたぶることに時間を割きすぎたことも今更になって悔やまれた。毛利や島津、織田の残党がまだ背後に控えている淀からあのように牽制された上で意に反する行いをすれば、西の大名たちが黙っていない。
 それでは公家の機嫌取りのために関白職を公家に戻す意味もなくなる。
 家康の本当の目的は公家を関白に据えることでも真田に意趣返しをすることでもない、さらに先にあるのだ。
 (真田の者どもめ、つくづく悪運が強いものだ)

 苦々しさに口許を歪めた家康が西の丸に戻ると、居間の庭では本多忠勝と井伊直政が真田伊豆守を伴って待ち受けていた。淀の援護射撃をするかのような頃合いである。
 「家康さま、某は本日より『真田伊豆守信之』と諱を改めまする」
 着替えと厠を済ませて居間に入った瞬間、真田伊豆守はそう言ってひれ伏した。後見役のように付いていた舅の忠勝が、新たな名を記した紙を掲げてみせる。
 「また唐突な。そのような事をわざわざ申すために来たのか?」
 「はい。某は真田の諱である『幸』を捨てまする。お望みであれば姓も変えましょう。改易と仰せならば上田の地も離れまする。ですから、何卒」
 信幸改め信之はさらに額を畳にこすりつけた。
 「殿のお慈悲をもって、父と弟の命だけは救っていただけませぬでしょうか」
 「殿、拙者からもお頼み申しまする。昌幸・信繁両名を助命し、信之が上田を治めますれば、武田信玄公の時代よりも昔から真田家を慕う上田の民も納得いたしましょう。上田から沼田にかけての土地はあらゆる作物の産地であり交通の要所でもあります、その地の安泰と民心の一致団結こそ、関東の平和に不可欠でございまする」
 大柄な忠勝の陰に隠れてしまっていた井伊直政も、盟友である忠勝を援護した。おそらく本多に頼み込まれたのだろう。
 「伊豆守信之は、殿のご慈悲をいただきますれば生涯殿に忠誠を誓うと申しておりまする。拙者もかつては殿の大恩によって救われた身ゆえ伊豆守の覚悟はよく解り申す。この者は必ずや殿のために今以上に働いてくれましょうぞ」
 本多忠勝は大きな体を折り曲げ、井伊直政も一緒に嘆願する。二人の眼は家康の返答次第では離反も辞さずと訴えていた。
 「……若い時分より儂に仕えてくれておるそなた達がそこまで言うか……」
 淀といい本多といい、そこまでして助命を乞われる真田の人望に内心では嫉妬を覚えたが、忠臣の願いを無碍にする代償がどれだけ大きいかは充分知っていた。ここで彼らの不本意とする選択をした結果本多と真田が手を組み、成り行きによってはそこに井伊も加わるとなれば、上杉もまた動き出すだろう。上杉に奥州の伊達や常陸の佐竹が賛同でもすれば、あっという間に江戸包囲網が完成してしまう。
 もはや是も非もなかった。最悪の事態を避けるためにはここで寛大な措置を取って彼らの動きを封じ、懐の深さを見せつけておかなければ。
 家康は扇子を広げて顔を二、三度仰ぎ
 「仕方ないのう」
 と言いながら決断を下した。あくまでも彼らの助命嘆願に応えてやったのだという態度も忘れない。
 「……仕方あるまい、一家に背いて秀忠を選んでくれたそなたと、徳川四天王として儂を支えてくれた忠勝、直政に免じて真田父子の罪を一等減じる」
 「では」
 「安房守は信濃国主の任を解き、左衛門佐ともども配流じゃ。高野山は女人禁制ゆえ、麓の紀州あたりに適当な村を探して妻女ともども蟄居させよ」
 東北では伊達や上杉、佐渡島なら前田、中国・四国なら毛利、九州なら島津。真田の知略を取り込もうとしかねない者が各地に存在する状況で、他所との交流もほとんどなく捨て置かれている紀伊の地ならば安全である。高野山に睨みを利かせるのは容易いし、海を使って脱走しようとしても紀伊水道あたりを支配していた長曾我部盛親も既に大名位を返上させた上で大坂にて監視下に置いてある。
 紀州に蟄居させ、あとは大坂や大和へ通じる道を封じて家族もろとも幽閉してしまえば監視も楽であろう。
 計算ずくの家康の措置は、信之にとってはこの上なく寛大なものに違いなかった。信之と本多は再びひれ伏す。
 「ありがたき幸せ。この信之、このご恩を胸に、これからもより一層徳川さまに尽くしてまいりまする」
 「拙者からも御礼申し上げまする。殿の寛大なお計らい、生涯忘れませぬ」
 「よいことよ。信濃国は伊豆守に知行を任せる。信濃の民を徳川に従わせ、そなたには存分な働きを期待しておるぞ……だが」
 「?」
 「世が落ち着いたら上田城は取り壊す。あれは元々儂の金で普請した城、どう扱おうと異論は出せるまい」
 「しかし、それでは上田の民は」
 「安房守と左衛門佐の命は、あの城と引き換えじゃ」
 「……」
 (伊豆守よ、ここは堪えるのだ)
 本多忠勝に諭され、源三郎は唇をかんでひれ伏す。
 「ははーっ!」
 家康にとっても、これが最大限の譲歩であったのだ。
 二度も辛酸を舐めた上田城をそのままにしておけば、いまだ徳川に不満を持つ者にとって希望の象徴となりかねない。何より家康にとってあの城は鬼門、目障りでしかない。
 敵となった者を無条件で助命することも出来ない状況で、上田城の取り壊しと引き換えに真田安房守を助命したとなれば、上方についた他の大名、石田三成の処罰方法に畏れや反発を抱いている各地の大名らの恐怖もいくらか和らぐだろう。徳川に相対した者の中で処罰と慈悲を使い分ければ石田の斬首がそれに値するだけの重罪であったのだと裏付け、その処罰は妥当であったのだと納得させる事にもなる。
 それに、真田安房守昌幸はもはや羽根をもがれた鳥と同じようなもの。戦では散々叩きのめされたが、結果的に勝利したのはこちらなのだから良しとしよう。家康はそうやって自分自身を納得させ、二人を退がらせたのだった。


 さて、昌幸と源次郎である。
 武士の証である刀を奪われ、家臣らとともに高野山の参道を下りきったところで視界が開けた。
 紀ノ川へ向かって開けたわずかな平地、その先に立ち並ぶ山々がどこか上田の景色を彷彿とさせる場所、それが真田親子の新しい住処であった。浄土を具現した高野山は女人禁制の山。ゆえに参道のあるこの村は僧侶に縁のある女が立ち入ることができる最後の土地、浄土と現世の境目のような位置づけにあった。弘法大師の母が我が子と逢うためこの地を九度訪れたことから九度山と名付けられた村は、またの名を「女人高野」とも呼ばれている。
 女家族と面会するために山を下りてくる僧、彼らを訪ねてくる家族達の往来も珍しい光景ではなく、徳川にとっては真田一族を女子供もろとも監視するのにうってつけの土地であった。
 「ああ、源次郎さま!」
 高野山から修験道を下りてきた終点、女人が足を踏み入れる事ができる結界ぎりぎりの場所にて、源次郎は先に集落に入っていたさちの出迎えを受けた。上杉討伐に大坂を発って以来、半年ぶりの再会である。
 「お会いしとうございました」
 さちは人目もはばからず源次郎に抱きついて無事を喜んでくれた。傍目には夫婦が涙の再会をしているように見えるだろう。
 「さち、よくぞ無事で」
 「京極竜子さまが、わたくし達の助命を嘆願してくださったのです。竜子さまの兄君は徳川方について戦ったお方、おなごに罪はないのだからと竜子さまから兄君を通じて徳川どのにお口添えをしてくださったのですわ」
 「竜子どのが……」
 「淀さまが竜子さまにお頼みくださったそうです」
 聚楽第では犬猿の仲であった相手に頭を下げてまでさちの助命に動いてくれた淀の強い気持ちに感謝し、源次郎は大坂の方角に向かって手を合わせた。
 そして、さちは七、八歳くらいの女児を連れていた。
 「して、その子は?」
 「豊臣秀次さまのご息女、きよ殿にございます。秀次さま亡き後、ご妻子の方々が連行されていく前に我が父がこっそり聚楽第から連れ出し、母が付き合いのある尼寺に匿ってもらっていたのですが……」
 「義母上がどうなされたのだ?」
 婚礼の席で一度だけ見かけた義母の姿を思い起こす。しかし、さちはそこで目に涙を溜めた。
 「母はこの子をわたくしに託し、父のもとへ逝きました」
 「!」
 関ヶ原で敗れた大谷吉継が自害したという報せはすでに受けていたが、奥方までが後を追ったと聞いてはいたたまれなかった。源次郎は痛ましさに顔をしかめ、さちの肩を抱きしめる。
 「わかった。ではこの子は私達で預かろう。父上、よろしいですね?」
 「我らはすでに国主でも武士でもないゆえ姫のような暮らしは望めぬが、それでも構わぬのなら」
 「ありがとうござりまする、義父上」
 さちは深々と礼をした。自らに話の鉢が回って来たところで、昌幸は眼をあたりに泳がせた。
 「ところで、山手は息災か。もう九度山の里におるのか?」
 「そのことにつきましては……義母上よりお文を預かっております」
 その返事で大まかな見当はついたのだろう。昌幸は『そうか』と髭をしごき、さちから受け取った文に目を通す。ふた呼吸ほど置いてから、昌幸はふうと息をついた。
 「……なるほど、すえと一緒に源三郎のもとへ赴いたか」
 「兄上の?」
 「この先、源三郎が徳川に人質を差し出す事もあり得るだろう。山手は自らがそうなる覚悟だと記してある……さすが、わが奥だ」
 「母上……」
 実際、家康の養女である小松やその子らを差し出すくらいでは人質の意味が薄くなる。昌幸の妻でもある山手なら、隠遁を命じた昌幸への牽制という意味でも人質に出る効果は大きく、源三郎に対する徳川の信頼も高まるだろう。
 「ならばわたくしが江戸に参りますと申し上げたのですが……義母上さまは、わたくしには義父上さまと源次郎さまをお助けするようにと申されて……すえは源次郎さまに代わって義母上の力になりたいと言って共に上田へ帰りました」
 「それで良い、安岐」
 「義父上さま」
 「山手の覚悟、有難く受け取ろうではないか……なに、生きておればいつかまた逢うことも出来よう」
 「……申し訳ございませぬ」
 さちが深々と頭を下げたが、昌幸はうむと頷いただけであった。山手との再会が遠のいた落胆をどうにか自分の心の中で処理しようとしていたのだろう。
 「では参りましょう。京都から一緒に来た楓さんは先に里へ入り、お二人にすぐお休みいただけるようお屋敷内を整えております」
 楓の父・高梨内記が昌幸に従っていると聞いて、さちが連れて来たのだ。娘の身を案じていた内記は心底安心し、早く屋敷へ向かおうと昌幸の腕を引いた。
 「さあ、源次郎さまも」
 「ありがとう……っ?」
 その中、源次郎は突然これまで経験したことのないような眩暈に見舞われた。花がしぼむように全身の力が抜け、今度はさちに抱きかかえられる。
 「源次郎さま、どうなされたのです?まさか戦で傷を負われておられたのですか、それとも病に……ああ、誰かお医師さまを呼んでくださいまし」

 その後、父やさちがしきりに自分の名を呼んでいたところまでは憶えている。が、次に源次郎が目を覚ましたのは、見知らぬ部屋に用意された床の中であった。まず目に入った夜具の白、遠くに聞こえる読経の声、そしてかすかな香の匂い。ここは浄土なのかと錯覚した意識を、さちの声が引き戻す。
 「ご気分はいかがですか?」
 「……私は、どうしたのだ……?」
 「九度山の入口にて倒れられたのですよ。もしや戦の間に病を得てしまわれたのではと心配いたしましたが……お医師さまのお診立てを聞いて、まこと驚きましたわ」
 「驚くとは……私はそのような重病なのか?」
 処刑を免れたと思えば病にやられるか。だが顔を強張らせた源次郎に、さちは思いやる目で微笑んだ。
 「いえ。どこも悪くはございませぬ」
 「一体どういう事だ?」

 「源次郎さま、いえ繁さま、実は……」
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