第41話 青の焔

文字数 36,783文字

【五月七日・天王寺決戦】

 三日。
 家康はそう言い切った。
 大坂城を落とすまでの時間である。
 「長期戦になれば不利になるのは、過去の戦から明らかであろう。真田に考える時間を与えるな。数でたたき伏せろ」
 総大将は秀忠なのだが、家康にとってはこれまでの人生の総ざらえというべき大一番。どうしても前に出ずにはいられない。
 思えば、家康が死を強く意識した戦には、いつも真田安房守がいた。
 此度の戦は、豊臣を滅ぼして終わりではない。
 事実上豊臣方の総大将である真田左衛門佐を倒さなければ、かの一族は何度でも自分の首を獲りに来るだろう。手足や牙をもがれようとも、命がある限り。
 肉親の説得や破格の待遇での調略も一蹴するほど、彼の者は誰よりも打倒徳川の念が強い。
 (真田め、紀州で始末しておくべきだったか……)
 今川義元下での人質時代、駿府で読んだ吾妻鑑。力なき者に温情をかけたばかりに、後年になって一族もろとも滅ぼされた平家一族の物語が老いた家康の頭をよぎる。
 父の意気込みに圧された秀忠は早々に決定権を明け渡し、ただ黙って話を聞いている。
 「秀忠は予定どおり八尾から岡山へ進め。我が隊は南下して道明寺から大坂入りする」
 「伊達が露払いをした地から、でございますか。よもや昨日の激戦地から乗り込むとは思っておりますまい。盲点を突きますな」
 「挟み撃ちと言え、秀忠」
 家康は机を平手でばしんと叩いて強引に軍議をお開きにした。
 「参るぞ。奴らの首を六条河原に…いや、大坂城の門前に並べるのじゃ」

- 茶臼山 -

 「『あちら』の返書と、これを預かって参った」
 茶臼山の真田本陣に帰参した朝は、源次郎に預かり物を手渡した。
 「槍……」
 包みを解かずとも、その長さで源次郎には判った。
 武田の朱槍である。
 第二次上田合戦直後、高野山に逃亡するため上田に残してきた自分の槍だという事も。
 何故この槍が政宗を介して自分の手に戻って来たのか。政宗からの文に眼を通した源次郎は得心した。
 「成程。兄上と三十郎が梵天に託したか……」
 昌幸が死んだ際、九度山での真田父子の暮らしを知る国衆が上田へ戻っている。兄や三十郎、義兄の茂誠なら『真田源次郎幸村』の子の父親についておおよその察しはついているだろうとは思っていたが、その上でこうして朱槍を自分の手に託してくれたことは純粋に嬉しかった。
 包みを解き、源次郎は改めて懐かしい朱鎧を眺めやった。
 刀や槍がかすめた跡がところどころに見て取れる鎧。上田の城を、土地を、徳川から守る時に振った跡だ。
 自分の全てが、この槍から始まっている。
 真田の猩々緋とはまた異なる武田の朱。
 幼き日に憧れた武田騎馬軍団の中でも精鋭が纏う色であり、毎日稽古に通った躑躅ケ崎館の初夏の色。
 手を伸ばしても届かぬ昔の景色が、これまでの人生…たとえば昨秋に見た九度山の紅葉と同じ鮮やかさで自らの時間軸の中に在る。それが緋あるいは朱という色の力なのだろうか。
 そして赤は、政宗率いる伊達軍の黒藍色と対をなす。
 朱色の槍は源次郎を高揚させたが、黒藍色の男からの文は内容とは裏腹に源次郎の心にひとつの『解』をもたらすものであった。
 政宗からの文で、自分が敢えて死地に赴く理由がはっきりと形をとって現れたような気持ちになったのだ。
 戦うこと、死ぬことに本来理由などない。
 源次郎の中でも、何故自分はここまで徳川を討つことに固執するのか幾度も葛藤した。父の無念を晴らすだけでは説明しきれない何に自分は突き動かされてここまで来たのか。
 自らの行いに理由を求めてしまうのは、後世おそらく悪と見做されるであろう自分の選択が間違っていなかったのだというお墨付きを得たかった…いや、自らの手際ひとつで命を投げ打った兵卒達の数を思えば、それこそ驕りなのではないかと迷い続けていたのだが。
 (私が生きてきた意味、そして六文の銭を遣おうとしている意味……政宗どのの思い描く先の世に触れて、ようやく胸の中の霧が晴れました)
 「政宗どの。あなたの願いは聞き届けられませぬ」
 今更ながら、信玄が教えてくれた『まいった』の一言で全てが平和に終わる世ではもはやない。いちど胸に抱きしめた文を蝋燭で焼くと、源次郎は朱槍を取る。
 「徳川の分隊は生駒山の東を藤井寺に向けて南下中だ。今頃は後藤どのの隊と衝突しているだろう。朝どの、そして作兵衛の隊はこのまま茶臼山を守備、我らは天王寺にて遊撃体勢を取る。勝永どのの許に編入された長曾我部隊と連携を忘れるな」
 「はっ!」
 昌幸から託された妖刀村正、武田信玄・勝頼父子の魂が宿る朱槍、そして九度山の民の思いがこもった馬上筒。
 自らが頂点に立つことで泰平の世を実現させんとした武田信玄、勝頼父子。
 自らの故郷を守れればそれで十分だった筈の昌幸。
 自らの信念を貫き主への忠義を通しきった石田治部と、石田への友情に殉じた大谷刑部。
 そして、それら戦にて散っていった幾万もの名も知らぬ仲間達の無念。
 ひとつひとつの出来事、関わってきた全ての者達の想いが三つの武具に宿っているような神妙な気持ちであった。
 その上で。天下が決する戦の先を早くも見ている政宗の思いが源次郎の背中を押す。
 過去のため、未来のため。
 何を引き換えにしても徳川は討つ。討たなければならないのだ。

 最後の軍議を終え、戦の手筈を確認した後に各自持ち場へ解散となってから。城より伝令が現れた。
 「左衛門佐さま。秀頼さまがご出陣なさるとの触れが参りました」
 「殿が?」
 落ち延びの説得は失敗したのだろうか。それはつまり。
 (秀頼さまは自らのお姿で士気を鼓舞なさるおつもりだ……戦況を見通されたか)
 もはや繕いきれるものではないのだが。源次郎は秀頼宛に進言の文をしたためると大助を呼んだ。
 「大助。今から大坂城へ向かい、殿の護衛につけ。私が家康をし損じた際は、すぐさま殿を連れて岸和田へ逃げろ」
 「父上、まさか突撃を……」
 「殿のご出陣がお姿だけで終わるよう全力を尽くす」
 「……わかりました」
 昨日の戦で顔見知りの死体をいくつも目の当たりにした大助は、秀頼をそうさせまいと自分の隊に伝令を出し、支度に取りかかる。
 「大助さんといえば、鉄砲術の手ほどきを乞われた十蔵が『雑賀衆でも十分やっていける』と感心していたぞ。頼もしい限りじゃないか」
 父親似かな。忙しく駆け回る大助を見た朝が呟く。
 「大助がそこまで熱心に鉄砲術を学んでいたとは」
 「自分の周りにいる者を守りたいんだそうだ」
 「……」
 そういえば、大助は自分が政宗と初めて出逢った頃の齢であった。
 身の回りにあるすべてのものを感受する年頃。大助は昨日の一騎打ちをどう捉えたのだろう。
 いつの間にか自らの意思で立ち回れるようになっていた大助に、両親の意図は伝わっただろうか。
 「では父上、行って参ります」
 「待て」
 黄母衣をまとった大助に、源次郎は腰に帯びた馬上筒を手渡した。
 「これで秀頼さまをお守りいたせ。おまえならば出来る」
 「ですがこれは祖父上の」
 「大丈夫。もう一挺ある」
 朝が、大助に渡したものと同じ馬上筒の包みを解いて源次郎に手渡した様を見た大助は得心した。
 「ありがとうございます!」
 打倒徳川。祖父の思いがこめられた馬上筒を大助は神妙な面持ちで受け取る。が、腰に装着する様は実に手慣れたものであった。


 同刻・大坂城。
 「ひ、秀頼さま?」
 屋敷から広間に渡ってきた秀頼を見た城の者のどよめきが淀の部屋にまで伝わってきた。
 「……参りますよ」
 侍女達を送り出した淀はすぐさま大蔵卿局を連れて廊下を渡る。
 果たして、そこには淀が察した通りの凜々しい若武者が佇んでいた。
 身動きすらままならぬ大柄な殿が、一夜にして白甲冑が似合う細身の若殿に変貌していたのだ。大蔵卿局などは腰を抜かし、大野兄弟も開いた口が塞がらないままである。
 「母上。今まで隠しておりましたこと、申し訳ありせぬ」
 淀の姿を見た秀頼は、まず詫びた。
 「これより城門前に出陣いたします」
 「殿、今からでも翻意を。せめて安全な城内にて指揮を執られては」
 着物の裾にしがみついて引き留める大蔵卿局を「よいのです」と引き離させ、淀は秀頼の姿をまじまじと見つめた。
 いつか秀頼が元服した日のためにと秀吉が誂えていた甲冑をまとい、五三桐が背に縫い止められた陣羽織を羽織る秀頼の面差しは、淀の記憶の中にある浅井長政に、気迫を感じる佇まいは伯父である織田信長にも似ているようであった。
 淀の悲願……織田と浅井の血をひく者を天下人に据える。
 淀の胸が言いようのない熱で一杯になった。自らの人生をかけて守り抜いた宿願が今この瞬間に叶ったように思えたのだ。国が認めるか否かだけが天下人の定義ではない。
 「……秀頼。母の眼は節穴ではありませぬよ」
 淀は秀頼の両頬を手で包み込んだ。
 「!」
 「あなたの意図するところを知ればこそ、黙って見守っておりました。城の者すべてを欺いていた年月は、さぞ苦しかったでしょう。ですがかように立派な姿を見られたわたくしは幸せ者です。そなたの武者姿、そしてその心根。きっと亡き殿下も喜んでおられるでしょう」
 そこで淀は大野修理に目配せした。修理の命で、馬廻衆が錦の包みを運んで来る。秀吉が用いていた千成瓢箪の馬印であった。
 「この馬印は、殿下が幾万もの豊なる臣を率いた証。豊臣の名に恥じぬよう、そして殿下やあなたを信じて戦ってくれる者達に報いるよう、あなたも千成瓢箪のもとで戦い抜きなさい」
 淀自らの手によって、馬印が秀頼の手に渡る。大野修理と主馬、そして長年にわたって務めてきた影武者の使命を全うするべく色形の似た鎧をまとった木下秀規が一斉にひれ伏した。
 「存分に、そして武運を」
 「はい!行ってまいります、母上」
 家臣団を引き連れた秀頼を見送った後、自室に戻った淀は大蔵卿局に茶の支度を所望した。

 つかの間一人になり、淀は着物の袖でそっと目頭を押さえる。
 「秀頼……もっと沢山話したい事がありましたのに……」


 大坂城巽門前に五三桐の幟旗と千成瓢箪が高々と掲げられた様は、徳川方にとっても動揺をもって伝えられた。
 「ついに出て来たか。まったくもって忌々しい」
 あくまで徳川には屈しないとの意思表示に、天王寺の豊臣方から上がる鬨が空気をうねらせる。
 大波のように聞こえてくるそれを、徳川方の兵はカチャカチャという音をもって聞いていた。震えによって甲冑が当たる音である。
 「殿!!」
 徳川兵を畏怖させる鬨の声の大元…豊臣本陣に駆けつけたのは大助であった。
 「殿自らご出陣の報せを受け、父より殿の護衛を命じられました」
 「左衛門佐が……かたじけない」
 本物の戦場を眼前に見据えて…事実上の初陣を前に緊張を隠せなかった秀頼は、見知った顔に安堵する。
 「父は茶臼山から出陣いたします。家康の本陣は茶臼山にほど近い岡山、秀忠はその北東にと本陣を二手に分けております。城と徳川の間には前田、藤堂、本多、井伊といった精鋭が前を固めておりますが、こちらは毛利さまと共闘にて敢えて乱戦に持ち込み、父はその中を強行突破し……」
 父はまず家康を討つ、と大助は言い切った。
 「西には伊達が居たであろう。奴が左衛門佐の背後を取ったらどうなる。北東の秀忠の動きも危険だ」
 「その前に家康を討てば良いだけの事と申しておりました」
 「……そうか」
 秀頼は何かを考えついたように腰を浮かしたが、それだけで周囲が進撃開始かと勇む様を見て考え直し、ふたたび腰を下ろした。
 「では参るぞ。この鬨の勢いのまま、徳川を迎え撃つ」


 大坂城に轟いた法螺と太鼓の音が鬨に同調し、それらが巨大な気迫となって一旦遠ざかった頃を見計らって。
 「侍女達は全員退出させました」
 早朝から登城して兵糧の支度を手伝っていたさちと桐、決戦に備えて武装していた甲斐に先導されて屋敷の広間に現れた千姫に、まず淀はそう告げた。侍女達の控え室で既に話を聞いていた侍女三人は「やはり」といった顔で神妙に顔を伏せる。
 「それでは義母上さまのお世話をする者が……ああ、わたくしでよろしければ」
 千姫は困惑しつつも健気に申し出たが、それは淀が拒否した。
 「いえ。あなたにして欲しい事は他にあります」
 淀は、墨も乾いた奉書紙を…昨夜から用意していた事は想像にかたくない文を千に手渡した。
 文の宛先は、片桐且元。
 「且元を通じて徳川に講和を申し入れます。その使者を頼みたいのです」
 「片桐さまに……」
 酷い経緯で大坂城を追い出してしまったことは千も話に聞いている。それが淀や秀頼の本意ではなかった事も。
 「今更許してもらえるとは思えませぬが、信雄叔父上も有楽斎どのも出陣していない此度であれば接触できましょう。これまでの事を率直に詫びて、何としても取り次ぎを頼まねばなりませぬ」
 「それをわたくしに為せと」
 「他の者では問答無用で斬られてしまいます。徳川に話を聞いてもらえるのは、あなたを置いて他には居りません」
 「ですが、今は秀頼さまがご出陣を……」
 「秀頼を死なせぬための交渉です。これも夫を守る妻の務めと心得なさい」
 そして淀は甲斐と桐に千と共に行くよう命じた。
 「甲斐、そして桐、そなた達が千を守りなさい。出来ますね?」
 「はい」
 甲斐の顔はきりりと引き締まったが、桐の顔には不安がありありと見て取れる。
 「ご安心くださいまし。わたくし、こう見えても里にて石田治部さまや真田安房守さまの軍勢相手に野戦を戦った事もございますのよ。父上から『おまえが男であれば小田原城の家老にもなれたであろうに』と嘆かれるほどに」
 言葉通り、胴巻きに鉢金、腕には薙刀、腰には刀といった武装が板についている甲斐は二人を安心させるように微笑んだ。
 さちも桐の両肩を抱いて勇気づける。
 「桐、あなたは千姫さまの支えとおなりなさい。心を強く持って」
 「母上さまは?」
 「わたくしは真田左衛門佐の妻。みすみす人質になりに参る訳にはいきませぬ。けれど大丈夫、すぐにまた会えます」
 「……はい」
 桐は気丈にも千の支度を手伝うと言って退がった。残るは大蔵卿局とさちである。
 「さち、あなたももう良いですわ。退出なさい」
 しかし、さちは首を横に振った。
 「いいえ。わたくしはお上さまと一緒に居させてください」
 「?」
 「……幼少のみぎりより存じ上げている御方が何を考えていらっしゃるか、それが分からぬわたくしではございませぬ」
 「さち……」
 さちは淀の手をとった。血の気はとうに引き、かすかに震えてすらいる手を温めるように両手で包む。
 「だんなさまは秀頼さまへの忠義を貫く所存。ならばわたくしはお上さまへの……怖れながら友情を貫きとうございます」
 「怖れるなんて……あなたは、わたくしにとって心許せる数少ない友なのですよ」
 「嬉しゅうございます。それに、まだ諦めるのは早いですわ。だって源次郎さまはまだ諦めておりませぬ。今この時も家康、秀忠の首を狙って豊臣勝利への希望を繋いでおります。ですからわたくし達は……」
 「……」
 何と言葉を繋ごうか一瞬迷ったが、さちは顔を上げてにっこりと笑った。
 「お城にて昔話などしながら、吉報をお待ち申し上げようではございませぬか」
 「お上さま……いえ、姫さま」
 淀の背後に控えていた大蔵卿局が口を挟む。
 「わたくしもご一緒いたしますわ。わたくしは意気地なしですが、武家の女として最低限の意地は持ち合わせているつもりです。姫さまをお育て申し上げたわたくしが、姫さまを置いて逃げるなんて出来ませぬ」
 こちらはまだ声が震えていたが、淀を「お上さま」ではなく「姫様」と呼んだところに愛情を感じて淀は観念した。
 「仕方ありませんね。では三人で茶でも飲みながらお話ししましょうか。そう……小谷城のあたりから。幼い妹達には話せなかった、わたくしの胸の内などを聞いてくださいな」

- 同刻 茶臼山・天王山 -

 数万の兵が集ういくつもの陣の先に『厭離穢土 欣求浄土』の旗印、さらに先には巨大な扇…家康の馬印が見える。

 「真田の六文銭といい、どちらも極楽へ渡りたいと願う……終着点は同じなのだがな」
 頭上にはためく六文銭の幟を見やりながら、源次郎はぽつりと呟いた。
 「幾千幾万もの者を賽の河原に送っておきながら自らは極楽浄土を望むとは傲慢と嗤われても返す言葉がない。その傲慢同士がどこまでも対峙する……それは徳川も同じ未来を描いていたからこそなのやもしれぬ」
 「?」
 側に控えていた佐助たち忍隊が首を傾げる。
 「真田安房守は徳川の敵であり続けた。似ている者は反目しあい、またこの世に同じ主義主張を掲げる総大将は二人と要らぬという事なのだと改めて思うのだ。……文言を唱える者、そして川の渡し賃を身につける者。浄土へ渡るはさてどちらか、それとも何れも地獄へ墜ちるか」
 「縁起でもない事を仰らないでください。我らは源次郎さまに生きていただくためなら命も惜しまぬ覚悟。源次郎さまは新しい世に必要なお方です」
 「ありがとう……今の発言は忘れてくれ、戯言だ」
 それにしても、と源次郎は佐助達の出で立ちを改めて見やった。
 「皆、赤がよう似合っているな」
 朝と一緒に鉄砲隊の指揮に回る十蔵と、秀頼が大坂を脱出する際に備えて船を守っている甚八以外の者…佐助、小助、望月、海野、才蔵、そして又兵衛とともに蓮乗寺から来た清海、伊三、鎌之助も加わっている。
 みな、急ごしらえではあるが背に六文銭を縫い取った赤い陣羽織を羽織っていた。
 「忍は表に出てはならぬ存在と心得ておりました。その我々が左衛門佐さまと同じ猩々緋を纏えるとは畏れ多くも光栄にございます」
 「そなた達は此度の作戦の要となる。危険な役目ではあるが、武士であるそなた達ならば果たしてくれると信じている」
 「武士、でございますか?」
 「ああ。役割こそ異なっていたが、そなた達も戦に欠かせぬ武士であり大事な仲間だ。これまで、いかなる時も私について来てくれた事、礼を言う」
 武士と言い切った源次郎に、彼らは一瞬絶句した。言葉に代わり、嬉し涙が彼らの頬を伝う。
 「ありがたきお言葉。……武士になるという若い頃の夢が今この瞬間に叶い、身が引き締まる思いです。必ずや信に応えて見せましょうぞ」
 長い間忘れられずにいた夢が現実となった彼らの顔には誇らしさと高揚があった。
 「左衛門佐さま、城の巽門に千成瓢箪が上がりました」
 物見台の兵が告げる。
 「そろそろ戦が始まる。参るぞ」
 「はっ」
 源次郎は馬にまたがり、作兵衛に持たせていた武田の朱槍を受け取る。
 「作兵衛も、これまでよく仕えてくれた。そちらも重要な役目である、奮迅を期待しているぞ」
 「勿体ない。俺…いえ私達のような田舎侍がかような大戦の場に立てるなど、まるで夢のようです。かくなる上は後の世に語り継がれるよう、すえに胸を張れる兄であるべく奮闘する所存」
 「ありがとう」
 一段高くなった目線から見下ろすと、西の地に紺紫に満月の幟が見えた。

 決戦の端緒は茶臼山の東、毛利勝永の攻撃によって切られた。
 毛利隊の先鋒が、本陣のある庚申堂からまっすぐ東へ進み、徳川秀忠の本陣を守っていた前田利常隊に矢と鉄砲を射かける。
 「真田が大御所さまの、そして毛利が上様の本陣を狙うか。いや、これは陽動か」
 冬の戦にて真田丸の手痛い洗礼を受けた前田利常は迷った。
 まず小競り合いにて挑発し、敵をおびき出すのが真田の常套手段と心得ている。
 同じ策に二度も乗る阿呆が居るものか。
 「陣形を崩すな。挑発に乗ってはならぬ」
 とりあえず様子を見なければならない。真田丸にて慎重という言葉をたたき込まれた筈なのだから。

 前田利常隊より西方、毛利勝永の陣により近い地に陣を構えていた藤堂高虎は、前田隊が交戦開始との報を受けて物見台に立っていた。
 「ふむ。前田は冬の戦をしかと学んでおるようだな」
 齢七十。いまや家康に並ぶ年長者となった老兵は、現役の頃からほとんど衰えていない眼力で前田の旗印の動きを見やる。
 「伝令!我が軍の側面より奇襲あり」
 「後方だと?挟み撃ちで各個撃破を狙うか」
 来たか。藤堂の顔に緊張が走る。
 「真田左衛門佐らしき者が指揮を執っている模様。赤い鹿角兜に六文銭の陣羽織が確認できます」
 「真田隊の奇襲により我が軍が分断されました。後方の隊は混乱しております」
 毛利と前田が正面きって戦っている以上は正攻法で来ることはないと踏んでいたが。次々と飛び込んでくる伝令に藤堂は兜の緒を締め直して声を張り上げる。
 「井伊と細川の陣に伝令を出せ!左衛門佐は大御所さまの本陣を狙うつもりだ。共闘し、挟撃して打ち破れ」
 「御意」
 しかし一刻も経たずに戻って来た伝令は、実に意外な報告を奏上した。
 「井伊隊と細川隊も真田隊と衝突したとの由」
 「真田だと?」
 「そちらにも鹿角の兜に六文銭の陣羽織が現れたと。西方向を向いて交戦中」
 「ううむ……」
 藤堂は顎髭を何度もしゃくった。豊臣の陣地内であれば、たしかに駆けるのは造作もない距離である。
 「この藤堂の後方を自在に駆けておるか……武田二十四将の魂を受け継ぐ者らしき勇猛ぶりよ」
 口惜しい、という思いが胸をよぎり、藤堂は老いた自分にもなおそのような感情を抱くだけの野心があったのかと自嘲した。
 「殿?」
 控えている藤堂高吉が訝しむ。織田の重臣・丹羽長秀の子から藤堂家に養嗣子として迎えられた高吉は、その後高虎に嫡男が誕生してもなお息子として、そして高虎の腹心として重用されていた。
 「いや、儂にも青臭い頃があったと思い出したのじゃ。生家が没落したゆえ浅井家の足軽から始まった儂の侍人生、運良く生き延びて国主にもなれたが……その頃は武田の騎馬軍団に憧れていたのじゃ」
 「武田の……」
 「儂の初陣でもあった姉川の戦にて浅井長政公を破った徳川を、三年後の三方ヶ原にて散々な目に遭わせたのが武田の騎馬軍団じゃ。同じ年に長政公が織田に討たれて牢人となった儂は武田への仕官を志したが、つても何もない半農の足軽ではどうにもならなくてな……それでもいつかあの軍団に自分も連なりたいと地道に戦功を積み重ねておったのだが、儂が出世する前に武田は滅んでしまった……そして儂は浅井や武田を滅ぼした徳川の将として、武田二十四将の子と戦っておる」
 「殿に、そのような昔がおありだったのですか」
 「皮肉なものじゃ。生まれながらにして二十四将のすぐ近くにあり、その教えを浴びる程に受け継いでいる真田の赤揃えは羨ましく、また妬ましくもある」
 もはや詮無き事だが、と呟きながら心を決めた高虎は口の端を軽く持ち上げた。
 「高吉」
 「はい」
 「そなたはすぐに後方の軍をまとめて大御所さまの守りを固めろ。我らは前進して真田の『本隊』を止める。決して真田を大御所さまの陣に近寄らせるな」
 「しかし、真田は後方より我らを襲撃しているとの由」
 「あれは陽動じゃ。我らの目を後方に逸らしておいて、左衛門佐は毛利と戦っておる前田隊との合間を突破するつもりであろう。早う行け、今は様子見に徹している時ではない」
 「承知しました」
 「落ち着いて各個撃破していけば破れぬ数ではないのだ。数で勝るのだから、王道を貫けば奇襲など雲霞のようなもの。浮き足立った方が敗けと心得よ」
 「はっ」

 「藤堂高虎。やはり気づいたか」
 分断した隊が前後に分かれて進軍を始めたとの報告を受けた鹿角兜は呟いた。そして、指南書の頁をめくるかのように流暢な行動に移る。
 「よし、前田を後方から一気に追い立てる。藤堂が到着するまでが勝負だ。挟撃されぬよう気をつけろ」
 鹿角兜が馬上筒を空に向けて一発放つと、同行の兵達が一斉に鬨の声を張り上げた。
 赤揃えが前田隊の後方に迫り、ことさら力強い蹄の音をもって迫る。
 「さ、真田左衛門佐だ!挟まれた!!」
 冬の戦で手痛い目に遭っていた前田の隊は、間近に迫る赤揃えによって恐怖に突き落とされた。
 (真田と毛利。突破の機があるとするなら……)
 想定外の事態に弱い前田利常は、二つの敵を秤にかけた。そして。
 「全軍、前進せよ。毛利を打ち破って血路を拓け!」
 (かかった)
 前田隊が自分達に背を向けた…大坂城の方へ逃れ始めた様を見た鹿角筒の将は、さらに前田隊を追い立てた。毛利隊は前田隊の前進に押されるように、少しずつ茶臼山の方角へと後退していく。
 「よし、前田隊、そのまま突破だ!」
 「前田め、真田に臆したか。突破したところで敵の陣中に単独で出てしまっては命取りぞ。……藤堂隊、急ぎ真田を挟み討て」
 藤堂高虎は隊を全速で前進させる。狙うは真田左衛門佐のみ。
 しかし、茶臼山沿いに構えられた建物が目前に迫ったところで、真田の赤揃えはふいと姿を消した。

 冬の戦の後、豊臣方は茶臼山から岡山にかけて家来衆の住居建設とともに惣構に見立てたなだらかな丘を築いていた。
 そこはただ土を高く盛っただけではない。遠目にはそうと分かり難いほど緩やかに、空堀の如く細く長い、そして曲りくねった窪地が丘の下に存在している。
 斜面ぎりぎりまで小屋を建ててあり、しかも屋根や垣根の高さを惣構の上と下でほぼ揃えてあった。遠目には平坦に見えるように。
 そうとは見えぬ惣構に填まって…誘導されてしまった事に藤堂が気づいたのは、馬の足取りが重たくなってからであった。
 「む……この地形は」
 気づいた瞬間、行く手に迫る小屋の壁が紙のように破られ、そこから槍を手にした赤揃え軍団が前田・藤堂隊に向かって一斉に襲いかかる。
 「一気に討ち取れ!」
 「おう!」
 槍兵を率いているのは掘田作兵衛。
 「おのれ、応戦せよ」
 擂鉢の底のような地形に、入り組んだ小屋の通路。縦横無尽に出現する豊臣兵を振り払っているうちに小屋のあちこちから火の手が上がり、視界が煙で遮られる。
 そうなると、もやは恐慌状態である。炎を怖れる兵も、怯えた馬も言うことをきかなくなる。
 藤堂は仕方なく脱出を優先するよう指示を出し、自身も眼前に突きつけられる槍を長年の勘だけでかわしながら煙の流れを辿って風上を目指して進む。
 ようやく視界が開けた先に見えたのは遙か後方になってしまった徳川の馬印。前田利常の旗印とも離れてしまい、敵兵の姿はない。
 藤堂は文字通り「煙に巻かれた」のだ。
 「武藤喜兵衛……真田安房守が上田にて用いた策か。やはり気に入らぬ者よ」
 ややあってから集ってきた自軍の再編成を指示し、狙撃されにくい森の中へいったん身を潜めて戦況を見やれば、井伊の赤揃えは六文銭の赤揃えに側面から波状攻撃を仕掛けられている最中であった。
 「あちらは上杉謙信公の車懸かりか。成程、此度の戦は戦国の総ざらえであるな」
 現在京都の留守居役に回っている上杉景勝は、そういえば関ヶ原では真田安房守と同じく石田治部少補方であった。


 岡山の徳川秀忠本陣。
 前線とは川で隔てられた陣幕の中央に構えられた床机に座した徳川秀忠は、藤堂隊や井伊隊の戦況報告を受けながら苛々と采配を弄んでいた。
 短期決戦と家康が宣言したにもかかわらず、届くのは苦戦の報ばかり。
 秀忠の脳裏に、上田での手痛い戦が蘇った。
 「佐渡よ」
 軍師として陣屋に控えていた本多正信を呼びつける。
 「どういたしましたか?」
 「父上は、いつも事を急がぬ御仁であった。それが此度の戦ばかりは短気決戦を決断されておられる。だが、それで良いのだろうか。今からでも睨み合いに持ち込むべきと私から進言するべきか」
 「物事には阿吽ともいうべき『機』があるのです。大御所さまは長年の戦で身につけて来られた『機』を読む眼にて緩急を使い分けておられる……関ヶ原まででしたら、この佐渡はそう申しましたでしょうな」
 「今は違うのか?」
 「今は……ご自身がここまで踏み固めて来られたものの行く末を、その眼で確かめたいのでございましょう」
 時間がない。そう言いたいのだと秀忠は理解した。
 しかし今の戦況は明らかに浮き足立っているのではないか。
 「性急と拙速の違いくらい私でも解るぞ。今の戦況は性急に傾いてはいまいか」
 「いえいえ、十分に時をかけましたとも。十五年という時を」
 「……」
 秀忠にとっては耳の痛い話であった。十五年前、関ヶ原に自分が遅参しなければ、石田治部だけでなく一気に大坂まで殲滅できたかもしれない。たった数日を逃したばかりに、再度の戦となるまで父は十五年の歳月を待ったというのか。
 あの時と同じ真田に苦しめられている今の戦況と相まって、秀忠は黙ってしまう。
 そんな中、一筋の銃弾が陣幕の葵紋を貫いて秀忠の馬印を揺らめかせた。
 「奇襲か?」
 「上様、どうか陣屋の中へ」
 慌てて外に出ようとする秀忠を衛兵が止め、周囲を守るように陣屋に押し込む。その合間にも銃声が轟き、護衛の一人が声もなくその場に崩れ落ちた。
 人垣の隙間からちらりと見えた赤を秀忠は見逃さなかった。
 「真田だ!真田がすぐそこまで来ておる!」
 「真田、ですと?」
 覚束ない足取りの本多正信は杖を頼りに腰を曲げて陣屋に上がりながら周囲を見渡す。
 緩慢とした仕草を見届けるまでもなく、秀頼は衛兵に命じていた。
 「陣替えじゃ。騎馬兵は前に出て真田を止めろ」
 「上様、それはいささかご軽率では……」
 「何を言うか。私が討たれれば戦が終わってしまうのだぞ」
 しかし陣屋を出た途端に再びどこからか銃弾が飛来し、今度は秀忠の馬印に風穴が空いた。
 「ひっ!」
 「殿!」
 すぐさま鉄の盾に囲まれた秀忠の頭上を連続した銃声と振動が飛び交う。実際は十も数えない程の時間であったのかもしれないが、秀忠にとってそれは一生続くのではないかと思わせるほど長く感じられた。
 音が止み、秀忠がおそるおそる顔を出すと、その場には選りすぐりの精鋭たちが倒れていた。
 穴だらけとなり半分落ちた陣幕の向こうには、悠然と去っていく騎馬集団。
 「赤揃え……真田め、我らの尻をはたきに来たか」
 秀忠の奥歯がぎりぎりと鳴った。
 このまま真田に敗れ、逃げ続けるままの将軍でいたくない。挑発と分かっていてもなお、秀忠の負けん気に火がついた。
 「すぐに隊を再編成しろ。奴らの狙いは父上じゃ。ならば我々は父上が討たれる前に秀頼の首を獲って戦を終わらせようぞ」
 これは関ヶ原での失態を返上する好機と捉えるべきだ。父を囮にするようなものであるが、真田が岡山付近をうろついているのならば、さらに後方に居る家康まではまだ距離も突破すべき兵の数もある。十分持ちこたえられるだろう。

 「将軍を一撃で仕留めれば終いなんだが」
 赤い陣羽織…実際には外套を羽織った朝が、秀忠の馬印を背にしながら十蔵に向かって苦笑いする。十蔵は真田隊と同じ赤揃えの鎧姿であった。
 「そいつは真田親子の仕事だ。でなければ、戦の後の世に真田の存在を認めさせる『材料』がない」
 「豊臣の先頭に立って奮戦しただけでは駄目なのですか」
 「徳川派の大名を全滅に追い込む訳ではないからな。明らかな戦功をもって実力を裏付け、大名の心を豊臣に引き戻す必要がある……まあ、これは源次郎さんたっての願いだからな」
 「さて、我々は茶臼山の惣構に移動だ。源次郎さん達の兵を援護するぞ。それに、源次郎さんが言うとおりなら『あちら』の援護もしなければならぬ」


- 大坂城 -

 ほんの数騎の騎馬兵の出陣に、秀頼本陣からどよめきが起こった。
 上り梯子の甲冑に、六文銭を染め抜いた鹿茶色の陣羽織。背には六文銭の旗を背負った揃いの出で立ちの老兵達である。
 みな「もしや真田安房守が?」と口走り、中には拳を掲げて喝采を送る者もいた。
 「あれは誰であるか」
 目をこらした大助が「内記さま方だ……」と呟く。
 「左衛門佐が授けた策か?」
 「いえ、聞いてはおりませぬ」
 「ならば彼らの忠義か……考えたな」
 うむ。秀頼は何かを決めたように小さく頷いた。
 「大助」
 「はっ」
 大助が頭を下げるのと同時に、秀頼は床机から立ち上がった。
 「出るぞ。左衛門佐が家康を狙うのであれば、私は秀忠を狙う」
 「殿、そのようなご無理は!!」
 馬廻衆全員が狼狽える。
 「左衛門佐が家康を討ったとしても、秀忠に討たれてしまえば意味がないのだ。左衛門佐が私を勝たせようとしてくれるように、私も左衛門佐には生きてもらいたい。でなければ新たな世は創れぬ」
 「なりませぬ!総大将が直々に戦場に出れば敵に侮られますし、何より殿の御身を危険に晒すなど……なれば拙者が影武者として秀忠を討ちに参りますれば」
 大野主馬が止めたが、秀頼は頑として譲らない。
 「左衛門佐が家康を討ちに突撃するのであれば、こちらは秀忠へ向かって同時攻撃を行った方が敵の意表を突けるであろう。総大将として座する者が必要だと申すのなら、この床机は木下に預ける」
 秀頼は潔く陣羽織を脱ぐと木下に羽織らせた。
 「我が父秀吉も、自ら先陣を切って明智光秀を討った事をきっかけに関白の地位を手にした。その治世が成功であったかどうかの答えはこの戦が意味しておると認識しているが、私は勝利してもなお民がついて来てくれる主でありたいのだ。大助、ついて来てくれるか」
 「……はい」
 父の思いを考えれば、ここは止めるべきなのかもしれない。しかし、主君の強い意志も尊重したい。
 ならば。大助は秀頼を守ることに徹することを決断した。
 「あの、殿」
 馬を駆りながら、大助はわずかに心に残っていた疑問を口にする。
 「千姫さまはいかがなさるのですか……」
 「千ならば心配は要らぬ」
 秀頼は言い切った。
 「千については、今頃母上が身の安全を図っておろう」
 それが最も良いのだ。その言葉は、秀頼が自分自身に言い聞かせているようでもあった。


- 天王寺・片桐且元の陣 -

 前田・井伊・藤堂の隊よりもやや東、かつての真田丸跡の近くにひっそりと構えられた片桐且元の陣。
 板挟まれるかのような微妙な地に布陣を進言したのは、織田信雄と有楽斎であった。
 「徳川が力攻めで大坂を陥としにかかれば、恐れをなした淀君が講和を申し入れるやもしれぬ。その時の『窓口』が必要であろう」
 豊臣が和睦を申し入れて来た際には気まずい再会をなし、どこまでも抵抗を続けた場合には本丸突入の斬り込み隊長として先陣を切らなければならない立ち位置である。
 (結局、利用されてしまった……)
 『人が良い』は褒め言葉でない事を、片桐は還暦を迎える齢になって知った。
 穏便、調和、誠実といった美徳とされる言葉の意味を、自分はどこではき違えたのだろうか。
 誰に対しても、何に対しても是としか答えずにいれば周囲は穏便でいられるが、実はそう答える度に自分の存在が軽くなっていたのだ。
 石田治部のような清廉すぎる生き方は真似できずとも、常日頃から周囲との衝突を恐れずに思うところを口に出して生きられたなら。
 名ばかりの『重臣』、誰にとっても都合の良い立ち位置に自分が置かれる失望を味わう事などなかったかもしれない。

 ほんの一刻前まで、片桐は此度の戦でどう振る舞うか考えあぐねていた。
 騙される形で出奔してしまい、このまま織田や徳川に利用されるだけで終わって良いのか。
 真田左衛門佐に倣い、生まれ変わった気持ちでもう一度、今度こそ自らの意見をきちんと口にする心意気で豊臣家に仕えることは出来ないだろうか。
 迷いを抱えつつ真田左衛門佐に内応の書状をしたためようとしていた矢先に、千姫が現れたのである。
 その手に淀からの文が携えて。

 「……お上さま、何と勿体ないお言葉……」
 誠実で率直な気持ちが綴られた文面に眼を通した瞬間、片桐はこれまでのわだかまりが大きく融けていくのを感じた。
 緊張が高まる中で判断が鈍った結果、片桐に心ない態度をとってしまった謝罪、そして徳川との和睦交渉の橋渡し役の依頼。
 「あなたが城を出た後、殿もお上さまも悔やんでおいででしたわ。自分達があなたを追い詰めてしまったのだと」
 「千姫さま、拙者は……拙者は……」
 文を握りしめて涙する片桐の手を、千は「よいのですよ」とった。
 「義母上さまは、あなたを信頼してわたくしを送り出してくださったのです。もし許してくださるのでしたら、父上の陣へわたくしを案内して下さい」
 「許すも許さぬもありますものか。姫さまの御身は、この片桐が命に代えても上様の許へお送りいたします」
 千を託した時点で淀の信頼を疑う余地などなかった。これが自分に出来る最後の奉公となっても構わない。片桐は自ら護衛となって秀忠の陣を目指した。

 最初に置いていた本陣から奈良街道を越えた北、川の中州へ移動した秀忠の陣。今ではわずかに土が盛られただけの平地となっているのが見える。
 「父上!」
 どこから敵の銃弾が飛んで来るか分からない緊張の中に、突如として女の声が届く。よく通る高い声を、当初秀忠は妻の江かと思った。
 「江か?何故ここに江がおるのだ」
 「奥方さまではございませぬ。千姫さまにございます」
 本多正純が報告に現れる。
 「千だと?」
 「相違ございませぬ。葵紋入りの短刀をお持ちですし、何より」
 畏れながら奥方さまに瓜二つだと本多は耳打ちした。短刀は取り上げるよう命じた上で通すと、たしかにそこに居たのは幼女の手を握った千であった。
 「父上、お久しゅうございます」
 「千よ。かように危険な戦場をくぐり抜けて来たというのか」
 「片桐さまが護衛してくださいました」
 千を案内してきた片桐は、秀忠に膝をついて大きく息を吸う。
 「上様。ここは豊臣の和睦交渉を進めるべきではないかと存じます」
 秀忠の眉がひくりとつり上がっただけで怖気づきそうになる心を抑えながら、片桐は人生で初めて自分の意見を上申した。
 「姫さまは、そのために大坂城から私の陣においでになったのです」
 「片桐どのの言うとおりですわ。豊臣の義母上は徳川との和睦を望んでおられます」
 「……して、和睦の案内人が片桐という訳か」
 秀忠は片桐に向かって顎で陣の外を示した。
 「寝返った者の分際で私に意見するな。そなたは大坂城の道案内だけしておれば良いのじゃ」
 「お言葉ですが」
 今度こそと意気込む片桐も譲らない。
 「先の戦で大御所さまがご提示なされた講和の申し入れを、大坂は受け入れておりました。此度は上様が広いお心を見せる番ではございませぬか?」
 「片桐。よもや其方、豊臣と内通しておるのではないか?」
 「織田の叔父上さま、それは違います。義母上は兵の犠牲をお厭いになり、わたくしを和睦の使者として遣わされたのです。片桐どのを頼ったのはわたくしの意思ですわ」
 「……」
 娘と家臣という肩書きを取ってしまえば、秀忠にとっては二人とも大坂方の肩を持つ鬱陶しい存在でしかなかった。つい先程も銃撃で恐怖を味わったばかりなのだ。
 「もうよい。片桐、そなたが関ヶ原における小早川になるつもりがないのであれば、即刻陣を撤収して京都へ戻り蟄居しておれ」
 「父上。片桐どのをそのように軽々しく扱うのでしたら、わたくしは大坂城へ戻ります。人の心が分からぬ方を父と呼びとうございませぬ」
 千は着物の裾をさばき、慌てふためく馬廻衆を振り切るように陣の外へ出た。秀忠は千を呼び止めはしたが、誰が自分を討ちに来るか分からぬ恐怖から自分で止めには出られない。
 ところが、千も外で間っている筈の甲斐が見当たらずに困惑した。
 「甲斐?甲斐はどうしたのです?」
 「共にいらした侍女でしたら、姫さまが上様にお目通りなさっている間に立ち去りましたが」
 「そんな……まさか」
 手を握ったままの桐を千が見れば、桐は眼に涙を溜めて俯くだけであった。
 「姫さま。お上さまも甲斐さまも、姫さまのために……」
 「桐、おまえは知っていたのですか?」
 「直接聞いてはおりませぬ。皆さんのお話から察しただけですが……甲斐さまが立ち去られた事ではっきりしました」
 淀は、はじめから千を大坂城から脱出させるつもりだったのだ。
 「まさか和睦交渉も」
 「それは本当に望んでいらっしゃると思います。殿様のお命もかかっておりますゆえ」
 「……」
 真っ白な手が震えている。桐は小さな両手でそれを支えるように握りしめた。
 「姫さま、どうかお上さまのお心を受け取って差し上げてください。姫さまの身に万一があれば、殿様も悲しみます」
 「……何てことを……わたくしは、そのような事は望んでいないのに……」
 「姫さま……」
 泣き伏す千姫の手に涙の滴がこぼれ落ちた。それは桐のものだった。
 「わたしも……母さまのお気持ちを思い、黙って姫さまについて参りました……」
 「桐……あなたの母君も……」
 淀の親友である、桐の母。彼女もまだ大坂城に残っていた。
 「お上さまには母さまがついて居ります。姫さま、参りましょう」
 「……ならば、今一度」
 千は果敢にも秀忠の許へとって返し、机を叩き壊す剣幕で和睦に応じるよう詰め寄った。
 「わたくしを守ってくれた大切な侍女は大坂城へ帰ってしまいました。父上が和睦に応じてくださらないのならば、これよりわたくしが直接おじい様の許へ参ります」
 「戦場を駆けるというのか。それは無謀であるぞ」
 「無謀でも何でも、自らの務めは果たさなければなりませぬ。馬をお借りします」
 「……わかった。父上に伝令を出す」
 従者の手から手綱をひったくった千姫に、ついに秀忠が折れた。
 「では今ここで、わたくしの目の前で書状をしたため、伝令をお命じください。全てを見届けるまでここを離れませぬ」
 「おまえは父を信じておらぬのか?」
 「徳川が豊臣に行った所業の数々を存じておりますれば」
 「……」
 肚の据わり具合は織田信長の血筋だろうか。応じなければ本当に駆けていってしまいそうな千の勢いに圧された秀忠は、首を縦に振らざるを得なかった。
 「代わりと申しては何だが、片桐はすぐさま撤退だ。陣に残っている兵は前田に預ける」
 「承知いたしました」
 千の熱意に安心した片桐は、それが最善であると身を引く。
 一刻ほどして伝令が放たれ、千はそれを見届けたところで京都に移ることに同意した。
 「ときに姫さま。そちらの童はどこの……」
 護衛の旗本が桐の身元を誰何する。
 真田左衛門佐の娘と知られれば人質として利用されてしまう。千は桐の手をぎゅっと握りしめ、咄嗟に口走っていた。
 「親を亡くし、下働きとして城に上がっていた童です。気に入ったので養女にしました」
 「それは存じ上げませんでした。いつの間に」
 「たった今ですわ。もうわたくしの娘です、無礼はなりませぬよ」
 「し、失礼いたしました」

 奈良街道の坂道をだいぶ上がったところで、桐はふと足を止めて振り返った。
 大坂城は、いまだ戦の成り行きを静かに見守っているように見える。
 城下の天王寺は敵味方入り乱れた混戦。蹄の音や雄叫び、馬の嘶きが風に乗って聞こえて来る戦場の中に赤を探して桐はしばらく目を凝らしたが、騎馬が目まぐるしく駆ける戦場で桐が探すものは見つけられずじまいであった。
 「桐、参りますよ」
 「はい」
 千姫に手を引かれた桐は、そっと胸に…懐に忍ばせた国松の守り札に手をやった。

- 真田幸村・出陣 -

 千姫が大坂城を出たという斥候からの報告を、源次郎は想定の通りだと受け止めた。
 「桐さまも同行なさっているご様子でした」
 「お上さまらしい。戦況を分かっておいでなのだ……無論、秀頼さまがどうなさるかも」
 「それは一体?」
 本陣にてともに策を練っていた大谷吉治が訊ねる。
 「秀頼さまがご出陣なさったのは士気を高揚させるためだけではない。自ら打って出るためだ」
 「そんな!」
 「誰かに手柄を立てさせて主の座を保ったところで、誰もついて来ないことを秀頼さまはよく分かっていらっしゃる。武士の矜持、そして彼らをまとめるためには自分が何をするべきかをご存じだ」
 秀頼が討つ相手は秀忠だ、源次郎はそう断言した。大助を向かわせたのは、秀頼を止めるのではなく共に戦わせるためでもあると。
 「殿のご深慮には、まこと恐れ入る次第」
 大谷は舌を巻く。
 「こちらの先鋒はどうなっている?」
 「多少の遅れはありましたが手筈どおりに動いております。前田・藤堂隊は岡山にかけての惣構にて足止め、井伊隊は赤い陣羽織の誘導に乗って毛利本隊側へ戦場を移動しております」
 地図の上に置かれた碁石を報告どおりに動かすと、そこに一本の道筋が拓けた。たどり着く先は徳川家康の本陣。
 ここに、すべてが整った。
 源次郎がおもむろに立ち上がると、若き日に真田の郷にて得た初めての家来…三十年以上にわたり苦楽をともに過ごしてきた仲間達もそれに従った。
 「出陣だ」
 「はっ」
 六文の銭を掲げた赤揃えは、鬨も上げず一斉に進撃を開始する。馬の蹄の音すら彼らの後をついて回るほど迅速に。


 道が拓けたとはいえども徳川家康の包囲網は厚い。
 茶臼山から家康本陣へ駆ける最中に構えられている信濃真田家の陣からも、すぐさま出陣の法螺が聞こえてきた。
 療養中の兄・源三郎の名代で出陣しているのは二人の息子、源次郎にとっては甥にあたる真田信吉・信政の二人。軍師として源次郎の幼馴染みであった矢沢三十郎頼康と義兄の小山田茂誠がつき従っている。
 いかに親族とて…親族だからこそ止めなければならないのは必然だった。
 「では私はこれにて」
 まず離脱したのは海野であった。百ほどの兵を引き連れ、「真田左衛門佐」として別動に入る。
 双方が衝突しようとしたその時、毛利勝永が本陣を置く庚申堂から数騎の騎馬が現れて戦場へ散開していった。彼らが背に掲げていたのは白地に黒く染め抜いた六文銭の旗印。
 「殿、真田の旗にございます」
 「信玄公の時代に父上が用いていたものであるな……内記達か」
 城で彼らが話していた策とはこの事であったのかと源次郎は納得した。
 真田安房守昌幸は死んだという話は既に徳川の知るところではあったが、ことのほか昌幸を恐れていた家康ならば『昌幸死す』の報すら真田の策略かもしれないと疑っている事だろう。
 老兵達は「真田安房守」として戦場に出ることでそこを突いたのだ。昌幸と苦楽を共にした国衆…いや、仲間達が昌幸の代わりに戦場に立ち、徳川と戦っている。
 案の定、真田安房守の予期せぬ登場に真田信吉隊が怯んだ。源次郎は後を彼らに任せて進む。後は三十郎達がどうにかしてくれるだろう。
 (結局、私はどこまでも父上に助けられていたのだな)
 ならばこそ、為さねばならぬ。
 家康の首を持ち帰るために、馬を止める訳にはいかない。
 信濃国真田の陣をやり過ごした後も、小笠原や仙石、松平家門衆といった徳川の精鋭が源次郎達の側面から突っ込んで来る。そのたびに赤い陣羽織と白地の六文銭が一人ずつ離脱していった。
 「左衛門佐さま、お伴つかまつりますぞ」
 残された手勢が半分を切った頃、『真田安房守』の一人が源次郎に追いついた。上り梯子の甲冑をまとった高梨内記であった。

- 伊達政宗の陣 -

 「戒名を寄越した……」
 政宗は、ぽつりと呟いた。

 道明寺から北上し、茶臼山のほぼ正面に移った伊達政宗の陣。
 真田左衛門佐が南の岡山へ向けて出陣の報を受けた政宗は、呆然とその報告を受けた。
 「戒名?」
 「狙いの者は自分が討つから、俺は俺の思い描く世を築いてくれ、と……」
 今朝方届いた左衛門佐からの文の事か、と小十郎が思い至る前に、政宗は「自分のせいだ」と俯く。
 「あいつが家康を討つことに拘ったのは父親の仇討ちだけではない。俺が描いていた日ノ本の未来像を知ってしまったから……」
 自分が源次郎に聞かせた「合議による政治体制の確立」という理想のために、源次郎は家康を討つつもりだ。自らつけた戒名を託してまで。
 「ともに戦えるのであれば、と願ったのだが」
 「殿……」
 控えていた小十郎重綱が政宗の心中を察する。
 小十郎しか知らない事実として、政宗は豊臣に内応するつもりであったのだ。左衛門佐には自分と合流するよう打診してある。
 真田左衛門佐と合流したらすぐさま兵を反転させて徳川方を動揺のうちに倒し、政宗と左衛門佐がともに家康を討つつもりだった。
 家康さえ討てば、残党が引き返す前に上杉景勝が江戸を制圧してくれる。
 そのような筋書きを記して朱槍と文を託したのだが、それは甘えであったと政宗は痛感した。
 「賛同すなわち共闘と安易に思っていたのは俺の責だ。畜生」
 政宗の籠手が佩楯を大きく鳴らす。近習らが驚いて肩当てを撥ねさせる様を眼で宥めた小十郎は、政宗の側に膝をつく。
 「畏れながら、殿……あのお方がかように仰せなのであれば、殿はご自身の本懐を遂げるべきであると小十郎は考えます」
 「あいつを追うことか?」
 「いいえ。あの方が望むようになさることを……殿は陸奥国の命運を背負い、いくつもの戦と犠牲の上に国主の座に立っておられるのです。それが殿とあの方との決定的な違いだという事をご自覚なさいませ」
 そのとき、伝令が立て続けに駆け込んで来た。
 「大御所様より伝令!紀州街道側に展開する軍にて大坂城に総攻撃をかけよとの命にございます!」
 「総攻撃だと?」
 「城には千姫さまもおられた筈だが」
 「秀頼公の馬印はいまだ巽門に在りますゆえ、豊臣家の者はいまだ城内に留まっているのでしょう。戦場を大坂城に移すことで秀頼公の動きを封じ、突入の混乱に乗じて千姫様の救出を目論んでいるのではないかと」
 「そうか……」
 崩れそうになる膝に力をこめ、肩を幾度か上下させて心を落ち着けた政宗は、すぐに心を切り替えた。
 「総攻撃の指揮は成実に任せる。それに先んじて、重綱は黒脛巾とともに大坂城へ先行せよ。他の連中の手に落ちる前に『頼む』」
 自らが背負う国や兵もまた守らなければならない中、政宗が下せる決断はそれしかなかった。ぎりぎりまで源次郎を…源次郎が家康を討ち取ったという報せを待ちたかった。
 「承知しました」
 出陣の号令が行き交い慌ただしくなった伊達本陣から、小十郎はわずかな手勢を率いて戦場を駆けた。


 堀のない大坂城を囲むのは、ただの土塀である。
 紙のように薄く脆いそれら塀ごしに徳川軍の突撃を確認した大野修理は、巽門前にて身じろぎひとつせず床机に腰を据えたままの総大将に進言した。
 「いかな左衛門佐と毛利でも、さすがにこの数は抑えきれぬか。木下どの、門を閉じますぞ」
 「しかし殿はまだ……」
 「今この場の総大将はあなたです。影武者とはいえ、あなたの首を獲れば徳川は勝鬨をあげるでしょう。さすれば殿が戻る場所もなくなってしまいます」
 「……いかにも。だが城下で戦っておる兵たちの士気はどうする」
 「千成瓢箪は掲げておきます。城壁の内側に俵を積み、その上に」
 つまり、外からはいまだ豊臣秀頼健在なりと見えるであろう。
 「我々は体勢を立て直しながら左衛門佐どのからの吉報を待ちましょう」
 「殿と左衛門佐どのを信じること、であるな?」
 最早それしかないのかという意に対し、大野は無念そうに俯くしかなかった。

 庭の梔子(くちなし)の花が開き始めた本丸御殿にも、風に乗って外の喧噪が伝わってくる。
 それは実際に「音」としてではなく、外の緊迫した空気が御殿の住人にも感じ取れる程迫っているからなのかもしれないが。
 「お上さま、どうか場所替えを」
 こんなに広かったのかと思う程がらんとした廊下を小走りに渡って来た大野修理と秀頼の影武者・木下は、悔しさを滲ませながら進言した。
 「巽門を閉じましたが、別の門が破られ徳川兵が突入して来るのは時間の問題です。お上さまが囚われてしまえば大坂方の…殿の戦いにも影響が出ますゆえ、ここはどうか」
 「お上さま、参りましょう」
 「ええ」
 まるで昼餉のための場所替えでも促すかのように、さちが立ち上がる。淀も大蔵卿局も黙って庭に降りた。
 博労淵の門に近く、兵糧を守るため壁も頑丈に造られている籾倉が最善ではないかと判断した大野の先導により、秀頼の影武者を務める木下とともに城内を渡る。
 豊臣の権勢を天下に誇った広大な城内は敵の侵入を阻んでくれるが、いざ逃れるとなるとちょっとした逃避行となる。既に城内の人質達は解放していたので、人気のない場内となると通り慣れた筈の道でも随分と長く感じられた。
 「さあ、こちらへ。我が弟が敵を迎え撃つために出陣いたしましたゆえ、しばらく様子をみましょう」
 それまでは自分がここを守ると行って、大野と木下は銅の扉を開く。
 大蔵卿局はこのような粗末な場所に淀を閉じ込めるなどと嘆いたが、淀が落ち着いているので共に中に入り、さちが続こうとした時。
 「お上さま、ここまででござる」
 突如として…まるでこの場に現れることを予期していたかのように声が響き、蔵の入り口に長い影が差した。
 「お上さま!」
 咄嗟に庇ったのはさちであった。木でできた棍棒がさちの頭を直撃し、さちがその場に崩れる。殴りかかった男は大野修理が斬り捨てた。
 「この者は厨の……」
 見知った顔だと大蔵卿局が証言する。
 「この城もいよいよ終わりなので奉公先を変えるだけでさあ。条件の良い引き抜き話があったもので」
 倒れた台所衆の死体を足でよけながら蔵の入り口に立ったのは、太閤が大坂城を普請した頃から台所頭を務める大角与左衛門と彼が率いる台所衆だった。
 「与左衛門!引き抜きとは……まさか」
 「さっき天守に火を放ってきた。外の敵を抑えても、いずれこの城は中から灰となる……拙者の手柄を横取りして成り上がった太閤への恨みは、この場にいる全員の首を儂の手土産とすることで晴らしてくれよう」
 与左衛門は古い刀を手にしていた。秀吉がまだ木下藤吉郎を名乗っていた頃からともに戦ってきた、いわば同僚であったというのは大野修理の記憶である。
 大野と木下が抜刀し、与左衛門と対峙する。彼らの背中ごしに淀が諭した。
 「そなたがもし殿下への恨みつらみを晴らすつもりであれば、これまでに幾度も機はあったでしょう。……徳川に心を煽られましたね」
 「!!」
 「わたくしの身柄を大御所の陣へ運んだところで、出世どころかそなたの手柄にすらなりますまい。その場で口を封じられてお終い、それがそなたの器です」
 甘言あれば簡単に心を揺るがせる。ゆえに天下人にはなれなかったのだと、淀は敢えて痛いところを突く。
 「どのみち、そなたに未来などありませぬ。剣を収めてどこぞへ逃れるのであれば、わたくしは何も見なかった事にしますが如何に?」
 「命乞いなど見苦しいだけですぜ。徳川と和睦するつもりなら、おとなしく降るのが兵のため」
 覚悟、と台所衆が一斉に襲いかかる。
 「お上さま、どうか中へ」
 大野と木下が応戦するが、台所衆が手にしている棍棒が刃を飲み込んで動きを封じられる。脇差しを抜いて間合いを詰めた隙に二人の間を駆け抜けた与左衛門が淀を組み敷こうと飛びかかった瞬間。
 「!!」
 ドスンという鈍い音の後、与左衛門は前のめりに倒れた。本懐を遂げる目前、薄笑いを浮かべたまま事切れた背には苦無が突き刺さっている。
 「何者!」
 忍の得物を投げた者の代わりに…おそらくそれを命じたであろう武士が庭に現れた。色めき立った台所衆を鬼の形相で斬り捨てて。
 「間に合ったようで何よりです」
 さながら味方のような口ぶりだが、誰もその男に見覚えがない。
 「そなたは?」
 「豊臣方ではありませぬが、敵でもありませぬ。さるお方の命により、皆様方を落ち延びさせるために参上つかまつりました」
 秀頼よりやや年長に見える青年武士はその場に膝をつく。
 「淀君さま、そしてお連れの皆様とお見受けいたします。我が主は皆様に落ち延びるお気持ちがあるのならば力を貸すようにと仰せです」
 「落ち延びとは」
 「明石掃部どのを博労淵に配しておられるのは、そのためでございましょう。ですがもう博労淵側の門前に松平家門衆が迫っており、そちらからの脱出は難しくなっております。彼らの友軍である我々の隊に紛れて脱出していただくのが最良かと」
 「お上さま……」
 信じて良いものか、大蔵卿局は淀の顔を見る。淀は「そうですか」と応えて男の前に立った。
 「では、その方にお伝えください。『お気持ちは有り難く頂きました』と」
 「城に残りまするか」
 「今もまだ諦めずに戦ってくれている者が居る以上、希望は消えておりませぬ。もし潰えたとしても、彼らの一生、そしてわたくしが人生の大半をかけて守ってきたものを失ってまで生きる理由など一体どこにありましょう。ですが……もし恩義をお借りするとしたら」
 淀は気を失ったままのさちの身を抱き起こした。
 「この者達を外へ連れ出してください。この者の子は既に逃がしましたが、夫は今も家康めがけて戦を挑んでいます。一家揃って豊臣に尽くしてくれた忠義に報いたいのです」
 「それで宜しいのですか?」
 「ええ」
 「……わかりました。甚だ残念ですが、この女性の身柄は必ずや保護いたしましょう」
 「頼みます」
 大蔵卿局も淀に促されたが、本人がそれを頑として拒否した。
 「い、厭でございます。わたくしがお茶々さまを見捨てるなどできませぬ」
 「大蔵卿、もう良いのですよ。お行きなさい」
 「いいえ。お茶々さまのお側に居る事こそがわたくしの人生なのです」
 もはや肚をくくっていた大蔵卿局に、淀は観念して首を横に振った。
 「ではその者だけを頼みます」
 「はっ」
 男はさちの身体を肩に抱えると「失礼」と言って城の庭から去った。「子は逃がした」という言葉にかすかな安堵を見せた男の顔色を淀は見抜いたが、敢えて深入りはしない。
 「さて、修理」
 淀は懐から一枚の紙を取り出した。かつて源次郎に見せた浅井長政の肖像画。その側に短剣を置く。
 「もしや、お上さまは初めから落ち延びるおつもりは……」
 「あの者に申した通りですわ。左衛門佐を信じて、ぎりぎりまで待ちます。けれど徳川の手におちるくらいなら、その時は……」

 秀忠の陣めがけて馬を走らせていた秀頼は、猫間川を越えた高台から敵の旗に囲まれた大坂城を見て奥歯を噛みしめた。
 降伏を促す最後通牒がわりの砲撃が始まっている。
 今頃は左衛門佐も家康めがけて出陣しているだろう。大坂城が徳川の手に落ちる前に秀忠を討ち、戦を終わらせなければ。
 「殿、ご無事でしたか」
 街道に現れたのは女武者姿の甲斐だった。
 淀が最も信頼を寄せている侍女の一人がこの場に居る、それだけで秀頼には淀のした事が理解できた。
 やはり母は千を逃がしてくれていた。
 「甲斐よ、大義であった」
 「あの……桐は?」
 大助が小声で訊ねる。
 「桐さまは千姫さまとご一緒です。姫さまならば、必ずや桐さまを守ってくださいましょう」
 殿はと訊ねられ、秀頼は頭を振った。
 「見てのとおり、私も城から閉め出されてしまった。徳川の突入も始まっておるゆえ、戦を終わらせなければ母上を助けに入ることは叶わぬ」
 「そんな……」
 「甲斐、そなたは博労淵へ参れ。今頃は修理が母上を落ち延びさせる算段を整えているだろう。その手助けをしてほしい」
 「殿、どうかご無理をなさいませぬよう」
 「無理をせねば勝てぬ戦だ。母上は解ってくれている」
 秀頼の覚悟を目の当たりにした甲斐は、小さく頷いた。
 「承知いたしました。殿、どうかご武運を」

 しかし、甲斐が淀と合流することはなかった。
 博労淵のすぐ側まで迫っていた伊達家中の隊と鉢合わせた事で、自害する間もなく囚われてしまったのだ。
 真田家と伊達家の縁を知らぬ甲斐にとって伊達軍は憎むべき敵であったが、結果としてこれが甲斐の命を救ったのである。

- 徳川家康本陣 -

 「藤堂には真田安房守の市街戦、井伊には上杉の車懸かりの陣……」
 伝令が届くたびに地図に碁石を並べながら、家康はうわごとのように唱えていた。
 策を練っている訳ではなく、手先を動かしていないと気持ちが紛れないだけなのだ。
 戦況を把握する軍師達が慌ただしく各所へ伝令を放っているが、家康の耳には届いていない。
 「大御所さま!真田左衛門佐の隊がこちらへ」
 「真田だと!?」
 家康は床机から転がり落ちそうになった。
 「これだけの隊を突破して来たというのか。ええい、秀忠は何をしておったのじゃ」
 「上様は真田の急襲により大坂城へ向けて位置替えをなさったとの報告が今……」
 「啄木鳥戦法……」
 家康がまた呟いた。本多正純が家康の呟きを…本陣に走る不安を打ち消すように叫ぶ。
 「単騎駆けか?」
 「大将率いる本隊は二百ほど。その他、行く手を阻む徳川方を遊撃隊が側方から攪乱している模様です。最終的には全軍が合流して混戦に持ち込むつもりかと」
 「鉄砲隊はどうした」
 「真田の遊撃隊におびき出されたところを蹴散らされました」
 「ええい、使えぬ者どもが!」
 「……武田の騎馬隊じゃ」
 苛立つ本多の言葉を家康が繋いだ。
 戦国の乱世を総括するかのように、源次郎は敢えて旧き時代の戦法を用いているのだ。
 昌幸が遺してくれた戦の記録をもとに、過去の存在となった者達の戦を家康に見せつける事で家康が心に押し込めていた恐怖を掘り起こさせる。心理的な効果を狙った源次郎の策であった。
 徳川の兵を突破し、真正面から向かってくる赤揃え。
 しかし旧きに拘ってはいない。
 ひときわ大きな馬印めがけて源次郎が馬上筒を放った。その音が赤揃えの士気を鼓舞し、戦場に躑躅が咲き乱れる。
 「ああ……」
 床机の上の家康が持つ采配がかさかさと震えていた。
 躑躅はまっすぐ自分目指して迫って来る。三方ヶ原で武田軍に惨敗を喫して以来、最も恐ろしく忘れがたい記憶が昨日の事のように蘇り、年老いた家康から思考を奪う。
 「亡霊じゃ。奴は亡霊を引き連れておる」
 長きにわたった戦国の世の亡霊じゃ。
 ふらふらと後ろによろめいた家康は、柱のようなものにぶつかって仰向けに転んだ。その上に覆い被さってきたのは金色の扇…自らの馬印だった。
 馬印には焼け焦げた穴が開いている。
 「ああ……儂はここまでか」
 尻餅をついたまま脇差を探り当てた家康は、震える手で脇差しの切先を自らに向ける。
 「大御所さま、なりませぬ!!」
 本多正純らが総出で家康の手から脇差を取り上げ、そのまま脇を抱えて本陣放棄を決めた。
 「もう駄目じゃ。武田、真田、石田……皆が儂の首を獲りに来ておる」
 「お気を確かに。誰か籠を持て。大御所さまを」
 家康が退却しようとも秀忠が居る。時間さえ稼げば総攻撃の成果も現れるだろう。それまで家康が生き永えてくれれば徳川の勝利なのだ。
 「おい、そこの」
 本多は近侍を呼び止め、何やら耳打ちした。彼は「承知」と駆けていく。

 「左衛門佐さま、家康が陣払いを」
 家康の陣からぞろぞろと後退していく将兵達。中には果敢にも真田軍に向かって家康脱出の刻を稼ぐ葵紋の隊もいる。
 「露払いは私がします。どうか存分に」
 大谷吉治が彼らを迎え撃つために隊列を離れた。
 これで、残された手勢は百足らず。けれど源次郎にとってはそれで十分だった。
 佐助と小助、それに内記がまだ側に居る。

 籠の中でつかのま失神していた家康は、外の「安房守だ!」の声に飛び起きた。
 「い、今、安房守と聞こえたが?」
 「真田安房守にございます。左衛門佐とともに本陣を急襲しました」
 「安房守……死んでおらなんだか」
 やはり、とうわごとのように呟きながら狭い籠を大きく揺らし、家康は脇差しを探す。しかし目当てのものは本多によって取り上げられていた。
 「佐渡よ、介錯せい。真田に討たれるくらいなら儂は」
 「なりませぬ」
 「しかし真田が」
 「目の前に居るのであれば好都合。今度こそ大御所さまの目の前で首を撥ねてご覧に入れましょう」
 「……あやつらは殺しても死なぬぞ……」
 がくがくと震える家康をよそに、本多は担ぎ手を急がせる。
 「大御所さま!ご無事でございますか」
 藤堂高虎の隊であった。惣構から脱出してきたらしい。
 「ここは拙者が引き受けます。どうかお逃げくだされ」
 「左近衛(高虎)どの、かたじけない」
 しかし、まっすぐ向かってくる藤堂隊とぶつかる寸前に源次郎は兵を二分した。そのまま藤堂をやり過ごし、家康の一団に襲いかかる。
 「何と!」
 つまり自分には目もくれないという事か。歴戦を戦い抜いた藤堂の矜持が怒りに変わった。
 「小癪な!表裏比興まで父親譲りか」
 藤堂隊が反転した時になって、ようやく真田隊の殿が藤堂高虎を迎え撃った。しかしそれも時間稼ぎにすぎない。
 黒地に三つの餅が迫る中、源次郎と内記がついに家康が乗った籠を捉えた。
 まず内記扮する安房守が長槍にて担ぎ手を一薙ぎした。籠が地に落ちたところで源次郎は籠に向けて馬上筒を放つ。
 弾はたしかに籠を貫通した。もう一撃と源次郎が火蓋を切り、内記は籠の屋根から槍を突き立てようとした時。
 「うおっ!!」
 唸るような声とともに内記が仰向けに落馬した。藤堂隊から銃撃されたのだ。落馬した安房守に家康の近侍達が群がる。
 (内記!!)
 だが源次郎に迷っている時間はない。
 源次郎は一気に籠に駆け寄り、籠の屋根から朱槍を突き入れた。間髪入れずに腰の村正を抜き、側面から突き刺す。
 どちらも手応えはあった。天井から長槍、側面に村正が刺さった状態の籠にとどめを差すべく馬上筒を撃ち込もうとした時。
 「!!」
 源次郎の右手に銃弾が命中した。続く一撃が兜の鹿角飾りを撃ち抜き、源次郎は馬上筒をとり落とした。その一瞬に、敵の槍が源次郎の脚、佩楯から覗いたわずかな隙間を貫く。
 「左衛門佐さま!」
 落馬した源次郎を佐助と小助が助け上げ、芦の茂みへと引きずった。大将首を獲りに迫った藤堂隊は、松平隊を振り切った大谷吉治隊が押し留める。
 「左衛門佐さま、お退りください!まだ秀忠の首が残っております」
 吉治が叫ぶ。右脚から鮮血が滲む生温かさをものともせず、源次郎はふらふらと立ち上がった。
 「源次郎さま、その傷では無理です」
 「痛うない、まだ戦える」
 家康の籠は朱槍を突き立てたまま後退していく。この手で家康の首を獲るまではと意思の力で馬にまたがろうと手綱を取ったところで。
 「……御免」
 ずれた兜の隙間に刀の柄を撃ち込んで源次郎を気絶させたのは、赤い陣羽織をまとった小助であった。佐助の腕の中へ倒れ込んだ源次郎から手早く兜を奪って。
 「佐助、左衛門佐さまを頼む」
 鹿角の兜を頭に載せた小助は源次郎が乗っていた馬にまたがり、大谷の援護へ駆けていく。真田隊に覇気が戻り、気迫で藤堂隊が押され始める。
 しかしそれも僅かな時間稼ぎであった。松平衆も駆けつけ、すぐにその場は大混乱に陥る。
 「……大谷どの、小助、すまない」
 佐助は自らの馬に源次郎を馬に乗せてその場から逃れた。
 ただ一目散に、後ろを振り返らずに。

- 秀頼と大助 -

 天王寺から大坂城一帯に、突如として鬨が上がった。
 その大元は、法螺の音とともに駆ける徳川の兵である。
 「大坂城は徳川軍が制圧したり!中納言豊臣秀頼とその一族郎党は自害!戦は終わったぞ!!」
 風に乗って聴こえてきた声に、秀頼の顔色が変わった。
 「まさか母上と木下が?」
 大助はいえ、と首を横に振る。
 「まだ城に徳川の旗が立っておりませぬ。流言をもって機運を上げ、戦運びに勢いをつけようという算段でしょう。一気に畳みかけるつもりかと」
 「そうだな。私はまだ生きておる。私を信じて送り出してくれた母上もそうであろう。参るぞ」
 「お伴いたします」
 南へ馬を駆る中、大坂城周辺の者にしか分からない…戦場からほど遠い道にて、わずか数名の伴を連れた一人の将とすれ違った。
 武装を解き、結った白髪もほつれたその男は肩を落とし、さながら囚われ人のようにぼんやりとした佇まいでただただ歩を進めている。
 「且元?」
 追い抜きざまに気づいた秀頼が馬を止めると、且元はゆるゆると顔を上げた。そして眼前に居るのが紛うことなき元主君だと気づいた瞬間、転がるようにひれ伏す。
 「殿……申し訳ございませぬ」
 自分の傳役だった程の男が、今は背を丸めて泣きじゃくっている。
 おそらくは、豊臣から離れて縋った徳川は新たな居場所たり得なかったのだろう。さりとて、悔やんでももう戻れない。
 この者の人生が栄盛と呼べるのかどうかは秀頼には図りかねるが、枯衰は等しく降りかかっているようであった。
 「ここで殿にお目見えしたのも私の罰でございましょう。どうかお斬りくだされ」
 且元は懇願しながら籠手の襟元を緩め、首筋を差し出す。しかし秀頼は抜刀しなかった。
 「……もう、よい」
 秀頼はただ一言だけそう告げると、馬の腹を蹴った。
 「お許しになるのですか?」
 「そこまで考えておらぬ。今ここで且元を斬ったところで大勢が変わる訳ではないからだ。感情のままに人を殺めては父の晩年と同じである。それは私が求める王道ではない」
 大助は「成程」と感服したが、ひれ伏したまま秀頼を見送る「殿!」と叫ぶ声と慟哭は、しばらくの間二人の耳にまとわりついて離れなかった。

 加藤清正や福島正則らとともに『賤ヶ岳の七本槍』と称えられ、豊臣秀吉の隆盛を支えた片桐且元は、この後一月も経たぬうちにひっそりとこの世を去っている。
 戦の最中、秀忠の逆鱗に触れて京都にて蟄居中の出来事。
 その死因については様々な憶測が流れたが、何故か噂の域を出ることはなかった…大っぴらに噂する事を、誰もが憚ったのである。

 真田左衛門佐が家康本陣に向けて突撃を敢行していた頃。家康の馬印が倒れたとの報せを受けた秀忠は恐怖にすくみ上がった。
 「大坂城への突撃命令を下した直後、真田の急襲に遭い……」
 「して父上の安否は」
 「陣を下げたとの確認は取れておりますが、その後はいまだ……本多正純さまもいらっしゃいますし、藤堂さまも茶臼山から取って返したとの報がございます。真田は寡兵ゆえ大事には至らぬかと」
 「その真田が曲者なのだ」
 陣幕を張る暇もないほどに…総大将は簡単に陣替えをするものではない、大々的に張っては却って大将の動揺が味方に伝わってしまうとして金扇の馬印と幕一枚に留めた簡素な陣。
 苛立った秀忠は顔を真っ赤にして鉄扇を机に何度もたたきつけた。
 「先程、秀頼自害の報が届いたではないか」
 「あれは流言、大御所さまの戦術でございましょう」
 正純の父にして秀忠軍師の本多正信が「機運を上げるのもまた勝ち戦への布石」と頷く。
 「すべて見えぬまま、という訳か」
 「一旦後退し、大御所さまと合流いたしますか?」
 「真田が父上を追いつめたのならば、私が駆けつけるのは危険だ。揃って首を掻かれる」
 「……」
 自分が置かれている状況はきちんと把握している。というよりは、自らの危険について鼻が利くあたりは家康そっくりだ。本多佐渡守はそう思ったが口にはしない。
 「では当初の計画どおり、秀頼を討ち取りに参られますか」
 「戦況はどうなっておる」
 「いまだ井伊隊と藤堂隊、前田隊は茶臼山と岡山の包囲網を破っておりませぬ。西の松平家門衆と伊達政宗隊も、時間的にまだ彼らを追い詰めるには至っておらぬでしょうな」
 「では早う突破させよ。周囲の陣も総出で城を陥とせ。一番駆けには格段の褒美をとらせると伝えよ」
 こういうところが真田と徳川の差だ。守るべきもののために自ら危険を冒すか、危ない橋を誰かに渡らせたところで手柄だけを総取りするか。
 (人望と権力はいつも相反するか……目的は同じだが、過程の方向性がまるで違う)
 しかし、その末が徳川の栄華なのだ。経緯はどうあれ大将首の行方が戦を左右し、従う者の命運を左右する。
 何も今に始まった事ではない。既に悟った佐渡守は皺枯れた声で陣の守りを徹底させるよう指示を出そうとした時。
 「敵襲!」
 物見役の悲鳴のような報告に秀忠は飛び上がり、鉄兜を頭で抑えた。
 「な、何騎だ?」
 「二騎にございます」
 「たった二騎?斥候ではないのか」
 「いえ、武装しており……!!」
 葵紋を貫いた銃声が物見役に全てを語らせなかった。
 「またか!」
 「用心せよ、敵は馬上筒を持っておる」
 秀忠が身をすくめている間に銃声を背負った蹄の音が近づく。
 銃弾が金扇を倒し、秀忠背後の陣幕を一刀のもとに破った長身の武将が秀忠の前に踊り出た。
 「征夷大将軍、徳川秀忠公とお見受けする」
 よく通る声に五七桐の陣羽織。かつて大坂城で見かけた際に比べると随分と痩身になってはいたが、その顔に秀忠は見覚えがある。
 「その姿……秀頼は城に籠もっていたのではなかったのか。おのれ、我々を謀っていたか」
 「謀ったのはどちらであるか。私は紛れもなく豊臣中納言秀頼だ」
 護衛がわらわらと集い、秀忠の盾となる。騎馬兵もすわ一大事と集う。
 だが秀頼に続いた大助は怯むことなく馬上から秀忠の兜を撃ち抜き、さらに秀忠近侍に銃弾を撃ち込む。
 嘶いた馬に振り落とされた兵を踏みしだいて、秀頼が将軍に迫った。
 「此度の戦、総大将として互いの首をかけて私と一騎打ち願いたい」
 「ひっ!寄るな、猿の童めが」
 ずいと迫る秀頼の堂々とした振る舞いに対して将軍秀忠は及び腰に口先だけの罵倒。長身と小柄という見た目も際立ち、取り巻く者は出で立ちの違いに己のつくべき相手は正しかったのかと心の奥で戸惑う。
 しかも秀頼は暴言に対しても冷静だった。
 「右大臣を猿と侮るは、征夷大将軍を任じられた朝廷を侮蔑すると同じ。その自覚は如何に」
 「さ、猿と交わす言葉などない」
 「相手がどのような位であろうと、真向かった以上は礼を尽くして相対するが武士の心得と学んでおります。では武士の頭領たる将軍が相手を猿と侮り、しかしながら一騎打ちには応じない。その真意たるや何処に?」
 「ええい……」
 大勢の者が取り囲む中での論破。士気だけでなく秀忠の…幕府の評価がどんどん下がっていく。
 「ええい、貸せ!」
 どうにかして詭弁を終わらせなければ。見かねた本多佐渡守が兵から槍をひったくると秀頼に向けて突き出す。大助が咄嗟に自分の槍を佐渡守の足元に投げたためたため、よろめいた佐渡守の槍は空を切る。
 しかし老兵の渾身に触発された徳川兵達が一斉に秀頼めがけて突進した。秀頼は馬を目一杯跳躍させ、ひらりと彼らの頭上を飛び越える。
 そこからは立ち回りであった。秀頼と大助はただ槍を、刀を振るい、迫り来る兵を倒していく。
 その間に、人垣に護られる形で遠ざかる秀忠。人のうねりをかきわけて追おうと足掻く二人との距離はどんどん開き、若い二人の体力にも限界が近づく。
 「大助、すまぬ」
 頬に負ったかすり傷から血を滴らせ、秀頼が詫びた。
 「何を仰いますか。諦めの悪さは真田の伝統、この程度で諦めては祖父上にも父上にも合わせる顔がありませぬ」
 口とは裏腹に、大助の秀頼への叱咤も口だけになりそうな風向きであった。今日の夕刻には祖父に叱られているのだろうかという思いが大助の頭をよぎる。
 しかしその時、まだ祖父には会わせぬとばかりの大筒が徳川兵達に命中した。
 「大助さま!」
 雑賀衆の十蔵だった。十蔵の仲間による狙撃により秀頼周囲の敵がばたばたと倒れていく。仕損じた兵は大助が馬上筒で仕留めた。
 「数が多すぎる。一旦お下がりください。じき徳川の援軍も駆けつけます」
 「しかし」
 「殿がいらしてこその豊臣でございます、我が父の帰陣を待って体制を立て直しましょう」
 渋る秀頼を強引に追い立て、大助は秀頼の馬の手綱を引く。
 しかし、父が居た筈の茶臼山の本陣は徳川隊によってとうに破られていた。
 「左衛門佐は無事だろうか……」
 十蔵の手引きにより茶臼山からやや道明寺に寄った山林の中にある廃寺…雑賀衆が大坂での根城にしていた場所に身を潜めて身体を休めていた秀頼は、既に城の方へと移っていった戦線を気にかける。
 「……今は無事を祈りましょう」
 大助は馬上筒を見つめて応えた。
 寺の土間では十蔵の仲間達が火縄銃の手入れや弾薬の補給に励んでいた。
 それを見やりながら大小さまざまな傷の手当てを受けている間にも大坂城内から上がった黒煙は広がり、隙間から炎が見え始めている。
 豊臣の勝利が遠のく中。いよいよとなったら抱え上げてでも連れ出せと命じておいた大野修理は母を落ち延びさせてくれただろうか。
 そんな中、ふいに外がざわめいたかと思うと一人の壮年男性が帰参してきた。大助はよく知った顔である。
 「朝どの?」
 「大助さん、無事だったか。十蔵、よくやった」
 「はっ」
 大助から朝と呼ばれた男は、山猫のように隙のない所作で腰を下ろし、鷹のような眼で秀頼と向かい合った。
 「あんたが豊臣の殿様か」
 相手が権力者であろうと口調を代えない男だったが、秀頼をもってしても無礼者と呼べるような器でない事はすぐに判る貫禄。秀頼は丁寧に「いかにも」と助けてもらった礼を述べた。
 「その様子だと、将軍は仕損じたようだな」
 「面目ござらぬ」
 「仕方ないさ。生き残るのが総大将の務めだ」
 それよりも、と朝は大坂城の主に報告した。
 「城下で乱暴働きが始まった。今、天王寺は大騒ぎだ」
 「乱暴……撫で切りか」
 「そんな生易しいものなら良いんだが」
 朝と十蔵が眉をひそめた顔を見合わせた。その顔で秀頼にもおおよその察しがつく。
 「民を巻き込まぬのが武士の戦ではないのか」
 「生業としての武士ならば確かにそうなんだが……将軍家から要請された数を揃えるため、手のつけられない荒くれ者を無理矢理編入させた徳川方の大名は少なくない」
 「では」
 「大将首はそうそう獲れなくても、首級を多く集めればそれなりの手柄にはなる。首の数とそこらに落ちている陣傘の数を合わせて足軽に見せかけ……そういう事です」
 十蔵の補足に、歳若い秀頼と大助は拳を震わせた。
 「非道な!」
 「殿様が雇い入れた牢人衆は『武士』だが、あちらは武士道が通じるような輩じゃないんですよ。大坂を潰すために手段を選んでいない徳川も奴らの行いは黙認するでしょうな」
 「何と……」
 秀頼は口を真一文字に結ぶと刀を腰に差し、陣羽織の紐を結わえると立ち上がる。
 「大助、出られるか」
 「殿、まさか」
 「私は大坂城の主である以前に大坂の領主だ。我らが起こした戦のせいで領民が巻き添えになっているのならば捨て置く訳には参らぬ。左衛門佐が戻るまで、私は城下に赴いて民を救い、非道の輩を成敗する」
 秀頼の決意は固かった。大助は「お伴します」と馬上筒を腰に帯びて立ち上がる。
 「お殿様、よく言った」
 二人のやり取りを黙って聞いていた朝は、改めて秀頼の前に膝をついた。
 「あんたは太閤とは比べものにならない本物の『人たらし』だ。源次郎さんや牢人衆が命を預ける理由が今分かったよ」
 「?」
 「総大将がたった二人で秀忠に挑み、さらに狼藉者と戦うなど青臭いと言えなくはないが、老獪よりはよっぽど心地よい。気に入った、我々も力となろう」
 「朝、と申したか。そなたは……」
 「勝利へ導く八咫烏、そう自負する連中の頭領さ。太閤とは昔いろいろあったが、あんたを見ていたら過ぎた事に拘る気も失せた。源次郎さんの主なら俺達の主、それでいい……なあ、みんな」
 「応」
 烏の如く庭に潜んでいた雑賀衆がどこからともなく声を上げる。姿は見えない彼らに、秀頼は頭を下げた。
 「かたじけない」
 「上様、こちらをお持ちください」
 十蔵が手入れを終えた馬上筒を大助に渡す。そして二人は馬にまたがった。雑賀衆は秀頼に同行する部隊と民の逃げ道を作る部隊、陣を護る部隊がそれぞれ持ち場につく。
 「では後ほどここで落ち合おう。左衛門佐と合流した後、捲土重来を期して秀忠を討つ」
 「承知。真田の忍衆が報せを持って来たら、ここの守りに狼煙を上げさせる」
 「頼む」
 左衛門佐の帰還。それはつまり家康を討ち取ったという事に他ならない。今はその報せを信じよう。
 秀頼、大助、そして朝と十蔵は連れ立って城下へ身を投じていった。

 彼らの姿を豊臣兵が見たのは、それが最後である。

- 天守炎上 -

 真田左衛門佐幸村、討死。

 煙が広がる大坂城内を、豊臣兵が何度も叫びながら駆け回る。
 報告すべき主の所在は分からずとも、そうしていればきっと伝わると信じて。

 はたして、その報せは、籾蔵に隠れていた淀達に届いていた。
 「左衛門佐どのが……」
 大野修理は顔面蒼白となり、大蔵卿局は怯えきった顔を着物の袂で隠す。
 その中で淀は「ありがとう」と天王寺口の方角を見やり、そして周囲の者たちを見回した。
 「もはや、ここまでのようですね」
 砲撃の轟音と振動が迫り来る中、淀は最後まで傍に居てくれた大蔵卿局と大野修理母子に感謝の言葉を述べ、木下秀規を労った。
 「まだ諦めますな。殿はご健在でしょう」
 「あの子は信じた家臣達のために戦場へ出ました。わたくし達に出来るのは、存分にその決意を貫いてもらうこと……左衛門佐という支えを失った今、これ以上の枷までつけてはなりませぬ」
 覚悟を決めた淀には、最早何も言うべき事はなかった。
 「……お伴いたします」
 修理は居住まいを正して頭を下げる。大蔵卿局と木下もそれに倣った。
 「殿からは、何としてもお上さまを落ち延びさせるよう厳命されておりました。ですが……畏れながら、お上さまがこうなさる事を、この修理は予期しておりました」
 「あの子にはわたくし達の事情など知る由もありませぬものね」
 わたくしは、と淀は窓から天守閣を見上げた。
 「秀頼が生まれた時、わが命に代えても守ると誓った城を守れなかった……。わたくしは自分との戦いに敗れたのです。その責を秀頼には負わせませぬ」

 大蔵卿局と木下が煙にまみれた厨に赴いている間。
 「大野、もそっと近う」
 淀は大野修理と向かい合った。
 「修理、いえ治長……幼少より、あなたが傍に居てくれたことが何度わたくしの救いとなった事か」
 「勿体ないお言葉。この治長、そのお言葉だけで充分にございますれば」
 「……最期に、ひとつお願いして良いですか?」
 「何なりと」
 「わずかな間で構いませぬ」
 淀は大野の胸にすがりついた。
 「そなたの心に早くから気づいておきながら応えてあげられなかった事、すまなく思っています」
 「そのような……殿下、秀頼さま、そしてお上さまをお支えできた事が、この治長の生涯の誇りにございます」
 「ありがとう……」
 綻びの目立つ修理の服に躊躇いなく顔を埋めた淀を、修理はぎこちなく受け止める。
 「今になって、賤ヶ岳での柴田の父上と母上の心持ちがようやく解ったような気がします」
 「畏れながら……勿体なく、有り難く……」
 数奇な話ではあるが、淀が大野家の主家である秀吉の室に入った事で大野は生涯にわたって淀の側に居られたのだ。織田や浅井が存続していたら、もっと早く別々の道を歩む事になっただろう。
 それが自分達の運命だったのだ。共に在れた、それだけが奇跡だと思える程に。

 それから一刻と少し後。
 淀と大蔵卿局は鴆毒の杯を呷り、それを見届けた大野治長は木下に自らの介錯をさせ腹を切った。
 木下は三人の亡骸が徳川の手に渡らないよう蔵に油をまいて火を放ち、淀の隣で『豊臣秀頼』として自害した。
 城に侵入した徳川兵が本丸までたどり着いた時、既に彼らの亡骸は燃えさかる炎の中。

 浪速の…豊臣一族による数十年の栄華は、夢のまた夢として幕を下ろしたのである。

- 大坂・某神社 -

 淀の最期を、源次郎はまだ知らない。
 終わりかけの躑躅を引き継いで咲く皐月の緋色が源次郎の赤を隠してくれている。
 「繁さま、手当を」
 「ありがとう、佐助」
 家康を襲撃した後、気絶したままの源次郎を乗せた佐助はひたすら馬で駆けてあの場から逃れた。茶臼山の本陣は既に突破されていたので、この静かな神社へと逃れてきたのだ。
 ほどなく意識を取り戻した源次郎は甲冑を解き、佐助が井戸から汲んできた水に引きちぎった衣の袖を浸してまず顔を拭いた。
 冷えた水に生を感じる。意識が戻るまで生と死の狭間、平の場に身を置いていたことがまるで夢のようだったが、布についた返り血があれは夢ではなかったのだと思い知らせる。
 ふと右手に痛みが走り、源次郎は右手を見やった。撃たれた時の傷である。手甲のおかげで吹き飛びはしなかったが、まだ指が思うように動かない。
 「大丈夫です、あの攻撃で家康が生きている訳がありませぬ」
 佐助が源次郎の傷に携帯用の薬草を貼って布を巻いていく。槍で刺された脚は袴の上からきつく止血されていたが、佐助から貰った薬草を自分の手で貼る時にはさすがに痛みに顔を歪めた。
 それら痛みによって、籠に槍を差した時の感覚が思い出される。
 「私は……やり遂げられたのだろうか」
 「無論にございます。昌幸さまのご無念を立派に晴らしましたよ」
 「父上の、か……」
 「大谷さまと小助は徳川本陣からの追手に突破されなかった…敵を足止めしてくれたようですし、毛利さまと大野主馬さまが家康の追捕に向かわれた模様です。源次郎さまはこのまま皆の帰還を待ちましょう」
 家康の命と引き換えにしたのは自分の右手や脚だけではなかった。自分の突撃に従ってくれた者達……内記は討ち取られ、身代わりとして敵陣に残った小助をはじめとした仲間の安否は知れない。
 「手当をしたらすぐに戦場に戻る」
 脚は動かずとも馬は操れるし、右手が駄目でも左手がある。だが佐助は鎧を取ろうとした源次郎を制した。
 「なりませぬ」
 「皆がまだ戦っているのだ、私だけが休んでなどいられるものか」
 「あれを……」
 佐助は源次郎を支えて神社の木立の合間へ連れて行った。そこから見える天王寺、そして大坂城は、今朝までのものではなかった。
 「城が燃えている……」
 「一見すると大坂の敗北に見えますが、家康を討ち取った上でこちらの殿様がご健在であれば豊臣の勝利にございます」
 「秀頼さまが?」
 「ここへ来る途中、朝どのの仲間に会いました。殿様と大助さまは大坂城から秀忠公を討ち取りに向かわれ、十蔵どのがその援護に回っていると」
 「城にはおられないのだな?」
 「はい」
 佐助は源次郎の鎧と陣羽織を抱えながら源次郎の背を支えた。
 「ですから源次郎さまには生き残って殿様のご帰還をお待ちしていただかなければ」
 「……」
 「参りましょう。もう少し行った山間に朝どのが根城を確保してくれているそうですので、そちらを頼ります。仲間の安否も含めて、雑賀衆から情報を得られるでしょう。今しばらく辛抱してください」
 劣勢の大坂方も、家康の首を獲った上で豊臣秀頼と真田左衛門佐が健在と知れれば風向きは確実に変わる。その時点で毛利や明石、大野兄弟といった主力が健在であれば彼らを中心として隊を再編し、秀忠を討ちに行けると佐助は源次郎を説得した。
 「そうであるな……わかった」
 ならば後は秀頼と大助に託すのみ。風向きが変わったと知れば政宗も最善を尽くしてくれる。
 一旦は退いて状況を見極め、策を講じよう。淀とさち、桐が無事に落ち延びたかも確かめなければ。
 気をとり直した源次郎が歩を進めた時。

 負傷した脚での歩みを神社の脇道を駆ける数名の武士に気取られてしまった。源次郎と目が合った彼らは口々に「居たぞ」と声をかけ合うと、小高い神社の石垣をするすると上がって来る。
 「赤揃えに六文銭の羽織。真田左衛門佐どのに相違ありませぬな?」
 「……いかにも」
 「おい、何をしている」
 不穏な気配を感じたのか、徳川方の旗指物を背負った兵も数名駆けつける。最初に現れた兵が抜刀した。
 ここまでか。
 切っ先をまっすぐ天に向けた刀を身体の右側に寄せる構え。つられるように源次郎は脇差しを、佐助は刀を抜いて身構えた。

 瞬間、源次郎の視界の隅に青い光が走った。
 銅で張られた大坂城天守の屋根に火が移り、燃え上がったのだ。青い炎が雲にも届く勢いで立ち上る。

 青の焔。

 戦国という幻のような時代を生きた数多の者たちがみた夢を、魂を、積み重ねられた骸をすべて焚き上げる浄化の炎のようであり、戦の世に終わりを告げる狼煙のようだと源次郎はちらと思った。
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