第1話 緋色の月

文字数 7,409文字

寛永四年・仙台

 月が赤く見えるのは凶兆だといわれる。
 けれど、大八は、赤い月が好きだった。

 幕府が江戸に定まり、戦国最後の大乱となった大坂の陣からはや二十有余年。幕府を総べる徳川家の将軍は早くも三代目に代替わりしていた。百年にもわたる日ノ本全土を巻き込んだ天下獲りの大騒乱、目まぐるしく天下人が入れ替わる年月も大坂城の落城とともに収束し、争いが絶えなかった戦乱の世は人々の記憶の中ですでに昔のものとなっている。戦国の歴史に名を刻んだ武将も講談の登場人物となり、天下分け目の関ヶ原や大坂の陣の前後に生まれた者がいまや社会を支える年齢に成長していた。
 こと戦に関しては、その壮絶さ凄惨さは時の政権の書庫にでも眠っていれば良いのだろう。時代は気まぐれに天から下りる鉾の如く雲上から周到に日ノ本という国の形を整え、戦によって壊されぬよう統制し、あるいは時流に抗う民を淘汰し。そして雲の下における戦の記憶を世代の入れ代わりによって急速に風化させていく。

それを歴史の自浄作用と呼ぶのかどうかはさておいて。

 戦の爪痕などどこにもなく整然と整えられた町並みや秩序をもって働く領主や武士の姿を見て育った若い世代にとって、もはや戦国時代は昔話の世界である。ほんの三十年前まで全国でどれだけ壮絶な戦いが繰り広げられたかを語られても、実際にそれらを思い起こさせるような名残がほとんど見られない以上は今ひとつぴんと来ないのも致し方ないのかもしれなかった。
 物心ついた頃から平和な世が日常となっていた大八も例外ではない。

 片倉大八は、仙台藩主・伊達陸奥守政宗付きの小姓として、毎日をただひたすら主のために働いていた。
 宿直の勤めで月が天空を巡る景色は幾度となく見ているのだが、月が赤く見えることは稀であった。
 たとえば青を凪に例えるのなら、赤は荒ぶりを連想させる。水と焔に置き換えれば分かりやすい。珍しい現象だから、多かれ少なかれ心に何かしらの不安を抱いている人々は、燃えるような赤い月に自らの心を投影して凶兆のように扱うのかもしれない。
 それでも大八は赤い色に凪を感じたし、青に焔のような猛りを感じることもあった。朝夕の日輪が赤く染まっても、そんな感情は起こらない。あくまでも月のやわらかな光が仄赤く見える時だけ、大八の心の奥にある澱が少しだけ動くのだ。自分は、すでにこの感覚を知っている。
赤い月に懐かしさや既視感を覚えるのは、どこか遠い記憶の中で赤い月にまつわる思い出があるのかもしれないと大八はぼんやり感じていた。現世なのか、それとも仏の教えでいうところの輪廻転生の旋盤上にあるいずれかの生の上なのかは分からないけれど、きっと自分は赤い月を眺めながら、この上なく温かくて幸せな時を過ごしたことがあるのだろう。
 そして大八が思うところの『青が猛る』という感覚は、彼が仕える主人の影響が大きいかもしれない。大八は今、その主に呼ばれて仙台城の二の丸、城主の館の縁側を歩いていたのだ。
二の丸を覆う塀の上に、大八が好きな赤い月が出ていた。城から見て海の方向である。なぜかは分からないけれど懐かしい。
 「殿。お呼びと伺い参上つかまつりました」
 まだ木の香が残り漆喰の白も夜にまぶしい仙台城。大八は主の居室前で膝をついて、蝋燭の明かりが縁側に影を映す障子の向こうへ声をかけた。
 「来たか、大八。まあ入れ」
 寛いだ声が大八を招く。
 「はっ。ご無礼いたします」
 障子や襖の開け閉め作法だけは、女中も老中も変わりない。基本中の基本どおりに正座したまま両手で静かに障子を開け、まず一礼して部屋に入り、そこでまた正座して障子を閉める。そして顔を上げた時、大八はつい息を飲んでしまった。
 仙台城の主…伊達政宗は寝間着に夜着をひっかけた姿で脇息にもたれかかり、脚をだらりと前に伸ばしていた。
 ここが政宗の居室であり寝所なのだから、どのように寛いでいても誰に何を言われる筋合いはない。だが、いつものように本丸御殿の大広間、大上段で家臣を前に訓話をしたり執務を行う時の主とはまるで印象が違ったのだ。
その日の昼間だって、いつものように政宗は背筋をぴんと伸ばして次々と家臣に指示を与えていた。威風堂々という言葉が誰よりも似合うその姿は実年齢より十は若く見えると誰もが噂するくらいである。殿がお元気ならば伊達家は安泰だと家臣達も安心しきっていたのだが、今目の前にいる主は日々に疲れてやつれた、どこにでもいる初老の男であった。普段はまず見ることのない脛は枯れたように細い。身体も小さく見え、そうなると佇まいも頼りなげに思えてしまう。
 「殿、どこかお加減が宜しくないのでございますか?すぐ薬師を呼びましょうか」
 「大事ない。ただ歳をとっただけだ。老いというものは、体が拒むものばかりを押し付けてくる」
 ざまあないな、と主は喉の奥でクックッと笑った。本人は気づいていないかもしれないが、その笑い声は皺枯れて息苦しそうである。年明けにしつこい風邪をひいて寝込んでいたが、その障りがまだ残っているのだろうか。
 しかし大八が白湯か薬湯を手配しようかと上げかけた膝を、主の扇子が止めた。
 「何も要らぬ。余分な時間をかける暇があったら、俺の話につきあえ」
 「はい……」
 これがもし大八の祖父、片倉小十郎景綱だったら政宗の話を聞く交換条件として薬湯の一杯くらい無理矢理にでも飲ませていただろう。しかしそれは景綱にしかできない離れ業である。まだ従順と忠誠を区別できない大八はおとなしくその場に座った。
 政宗はもたれかかったままの脇息をずるずると動かし、体を引きずる形で文机の前に滑らせた。
 「大八。おまえも近々元服の儀を執り行うとのこと。そこで俺からも元服の祝いを授けようと思ってな」
 「何と……恐悦至極にございまする」
 国主から直に物を賜るなど、小姓の身には余りすぎる光栄であった。たとえ菓子の一つであっても主から気に入られたという名誉が己の経歴に箔をつける。
 だが政宗が申し出たものは、大八の想像をはるかに超えていた。
 「元服したらまずは藩内の代官職として民の暮らし向きを知ってもらうが、片倉家が家中となった今、いずれは城に呼び戻されて倅(伊達忠宗・仙台藩二代目藩主)か孫の側仕えにもなれるであろう。それら働きの期待として相応しい物を授けねばらなぬが、太刀や兜は皆に贈っているからありふれている。だから、おまえには俺から新しい姓と名を与えようと思う」
 「名、でございますか?」
 「重綱には既に伝えてある。片倉にとっても名誉なこと故よろしく頼むと頭を下げられたぞ」
 「そういう事でございましたら、謹んで……殿から名を賜ることができるとは、この大八、光栄の至りでございます」
 大八が畳に額をこすりつけている間に、政宗は文机に向かうと墨壺に浸した筆を半紙に滑らせた。迷いのない筆の滑りが、既に大八の名を決めていたのだと語っている。
 「書けた。おまえの名だ」
 政宗は墨の香りもあらたな半紙を大八の目の前に突き出した。しかしその瞬間、大八の顔色がさっと変わる。
 
 真田守信
 
 そこには、そう記してあった。

 「殿?」
 大八はおそるおそる顔を上げる。
 「何だ?」
 「たしかに、わたくしは片倉家の家督を継げる立場にはおりません。ですから元服の折には新たな姓名を名乗ることになるだろうと養父から聞かされておりました。その名を殿から直々に賜るのも誉。ですが『真田』姓とはいかに……」
 大八は、小姓として城への仕官が決まると同時に片倉重綱…親子二代にわたって伊達政宗の片腕を務めている『鬼小十郎』その人である…の養子となっていた。だから大八の姓名は『片倉大八』である。それまでは姉たちとともに白石城下で片倉家臣の三井家に預けられ育てられていた。ゆえに元服すれば幼名である『大八』は改名するとしても姓は片倉か三井を名乗るだろうと思っていたのだ。まったく予想すらしなかった姓を名乗れと言われては、混乱してもおかしくない。
 しかも、よりによって真田姓とは。言葉をなくした大八を前に、政宗はまるで道理を教える禅師のように説明した。
 「真田幸村……真田信繁の『信』から一文字を貰った。『幸』の字を使うのは、さすがに今はまだ時期が早いからな」
 「真田の姓に、『信』を『守』る……」
 「不服か?」
 「そのようなことは……ですが、真田信繁は先の大坂大乱で豊臣方の大将として幕府に敵対した人物。殿とも干戈を交え、江戸では禁忌とさえ言われている真田を彷彿とさせる名を私が名乗れば、殿にも将軍家からの咎があるのでは」
 「それはおまえが気にするような事ではない。それとも断るか?」
 「いえ。殿が御自ら授けてくださる名ならば、いかなる名であろうと大八は謹んで頂戴する所存でございます。ですが殿のお立場がどうなるかと」
 「ふう。おまえ、本当に片倉家の家風に染まったな。その堅苦しいところは景綱そっくりだ」
 「継父…重綱も祖父の小十郎景綱も、戦で両親を亡くしたこの大八はじめ、今や継父の室となった姉の『梅』をはじめとしたきょうだい全員を義兄たちと分け隔てなく育ててくださいました。武士として立てるよう一流の学問や武芸に触れさせてくださっただけでなく、愛情も存分に頂戴しております。さらに殿の小姓にまで取り立てていただき……この御恩は、一生をかけて返していかなければと肝に銘じております。ゆえに、殿の御身に一片の曇りがあってはならないと」
 「……まあ、な」
 ふう、と政宗がため息をついた。ついた息の終わりに軽く咳こむ。
 「ではこうしよう。『真田』の姓は俺と片倉、それからおまえが将来娶る相手との間でだけ名乗れ。公には『片倉』姓だ」
 「はっ……」
 「いずれ…そうだなあ、おまえの子か孫が元服する頃には、江戸でも堂々と真田を名乗れるようになるだろう。その時が来るまで、しっかりと真田の姓を守っておけ」
 「承知いたしました。殿は、一体どうしてそれほどまでに真田の姓をこの大八に?」
 「真田は手ごわかったぞ。我が軍と引き分けた翌日には東照大権現(家康)が自害を覚悟した程の突撃を見せてくれた。幕府が躍起になって取り締まろうと、あれは日ノ本じゅうに語り次がれるであろうな」
 だからこそ、と政宗は語気を強めた。
 「真田は、おまえが守るべき名だ」
 「……あの……」
 何をもって『だからこそ』なのか、そして真田姓を継ぐのが何故自分なのか。まったく話の見えない大八は深々と頭を下げた。
 「……私の勉強不足でございましょうが、どうしても得心のいく答えが導けませぬ」
 「ふむ。おまえ、己の出自についてはどこまで知っている?」
 「父が長い牢人生活から大坂の陣に参じる直前に私が誕生したと聞いております。父は大坂にて戦死し、義父が孤児となった我らきょうだいを保護して奥州に連れ帰って来たと」
 「では、梅やあぐり…姉達もそれ以上は語っていないか」
 「しかるべき時期に義父の口より聞くべきだと口を揃えておりました」
 「やはりそうか。その上で、重綱はその『大坂の戦』についてもおまえに通り一遍の歴史しか教えていなかっただろう」
 「しかし、それが全てであるとこの大八は認識しております。歴史は覆ることなどありませぬから」
 「では、その覆らない筈の歴史そのものが嘘であったとしたら?」
 「……」
 大八に、政宗の問いに対する答えは見つけられなかった。たとえ自宅に持ち帰って一晩考えたとしても見つからないだろう。陽が西から上ることなどないように、比較的近い過去に起こった出来事が覆ることなどないと大八は考えていた。大八にそれらの出来事を教授してくれたのは、すべて戦国の世を体験してきた者たちばかりだったからである。彼らが実際に命をかけて戦った事実に何の偽りがあるというのだろう。
 考えあぐねてしまった大八を前に、政宗は「やはりそうか」と一人納得していた。
 「小十郎の奴、やはり何も話していなかったか。周到な奴のこと、真実は俺の口から語られるべきだと考えて重綱や娘達にも口止めしたのだろうな。ならば俺から言おう。……片倉大八」
 「はっ」
 強い口調で名を呼ばれ、大八は居住まいを正した。主君が臣下の名を強調して呼ぶのは、すべからくして重大事項を告げる時。臣下は、主君の意思がどのようなものであっても動じることなく粛々と受け止めなければならない。
 「おまえの本当の名は、真田大八…またの名を、伊達大八ともいう」
 「伊達…ですか?そして真田とは……」
 「おまえは伊達家と真田家、両方の血をひく男子だ」
 「……は?」
 突飛な話に大八はぽかんと口を開けてしまった。
 「怖れながら……それは即ち、殿のご系譜のいずれかのお方と、真田家の者が私の両親だという事でありますか?」
 「系譜も何も。俺とおまえは親子。おまえは俺と真田の間に生まれた子ということだ」
 「つまり、殿が真田家の姫御と……その……?」
 「姫というか何というか……たしかに姫といえば姫だが」
 「畏れながら、それでは私の生家は松代藩の真田家だったのでございましょうか?」
 「いや。大坂に与した方の真田だ」
 政宗は当時を思い出したように軽く笑んだ。一方で大八は頭がこんがらがる。
 政宗が大八をからかっているのではない事は、その表情が物語っていた。そもそも夜中に小姓を呼びつけてまでつくような嘘ではない。
 ここで客観的に二人の会話を聞いていた者がいたとしたら、このような緊張の場面で大八がつい間の抜けた顔をしてしまったのも当然であると考えるだろう。
 事実、大八は混乱していた。主君の前でなければ頭を抱えていたかもしれない。
 あまり表だって褒めたたえてはならないご時世ではあるが、豊臣屈指の兵として知られた真田の将・左衛門佐幸村といえば、伊達家から見れば敵方…滅亡した豊臣家に最期まで尽くした武将であり、徳川家の厳しい情報統制の合間をかいくぐって奥州にまで『日本一の兵』とまで名が聞こえてくる名将である。戦国時代を締めくくった将が放った最後の輝きともいうべき突撃は、民の伝承となって間違いなく後の世に語り継がれていくであろう。
 その幸村の系譜に連なる誰かと、目の前にいる主君政宗の間に生まれたのが自分だといきなり打ち明けられたとしたら……。大八の記憶にはおぼろげにしか残っていない母親は、政宗の子を為しながら一体どのような運命を辿ったというのか。
 大八は、その場にひれ伏して主君に教えを乞うた。
 「この大八、おっしゃる意味が解りませぬ。殿と真田は敵同士で、大坂では今も語り継がれるほどの激戦を為した間柄と聞いております。よもや、真田家が徳川方に通じておったのですか」
 「通じていたら、今頃あいつは兄者を差し置いて信濃三十万石の大名にでもなっておろう」
 「では、いかなるご事情が」
 「歴史はみんな嘘って事だ。表だけは時の権力者にとって都合の良いよう編纂されているが、実情はそんなに単純なものじゃない。豊臣も徳川も、戦国時代を生きた人間はすべからく歴史に嘘をついている。俺等も例に漏れず、ということだ」
 「歴史に嘘、ですか……」
 「神も仏もない戦国の世、嘘をついたからとて罰を当てる者もおるまい」
 「はあ……」
 政宗が実父である事にも驚いたが、自らが幕府に忌まれる家の子であったとは。思考が堂々巡りに陥った大八が黙ってしまったのを見て、政宗はふっと口許を緩めた。
 「驚くのも、さもありなん」
 「はあ……」
 これで驚かない者がいたとしたらお目にかかりたいものだ。まるで理解できないという顔で考え込んだ少年を、政宗は慈しむように笑った。予想どおりの反応だ、と顔に書いてあったが、嘘と真実をごっちゃにして大八をからかっているたぐいの笑いとは違う。
 政宗は脇息を支えに立ち上がると、縁側へ続く障子を開けた。田植えの季節特有の涼やかな夜風が部屋を巡り、今は床の間を飾るだけになってしまった兜にあしらわれた三日月の前立てが、赤い月明かりを鈍く反射した。持ち主のかわりに伊達政宗の存在を誇示し続けてきた三日月である。
 仄かな明かりの下で佇む兜に向かい合った瞬間、政宗は大八が日頃目にしている奥州仙台藩の主の佇まいに変貌した。さっきまで脇息で支えるのがやっとのように見えた背筋はぴんと伸び、悠然と月を眺めているその姿に生命力が宿る。
 家臣の前で見せる姿と、寝所でのさきほどの姿。いくたびの戦いによる負担の積み重ねに老いが加わった体に緩急をつけることで、政宗は主としての風格を保っているのだと大八は理解した。
 「大八。前立ての傷が見えるか?」
 「はっ。殿が戦い抜いてこられた武勇の証がいくつもございます」
 「では、おまえの眼にはどの傷がもっとも強く見える?」
 「……」
 これまで畏れ多くてまじまじと眺める機会がなかった兜の前立てを、大八は今ばかりは穴が開くほど凝視した。ここで主が望む答えを出すのが恩義に報いることだと考えたのだ。
 前立てには、大小さまざまな傷が刻まれていた。政宗が刀を激しく振るった時についたと思われる、右側底面の傷もある。あるいは敵の攻撃をしのいだような、左上面の傷も。こびりついた血で変色してしまった部分には相手の怨念を感じてしまう。
 その中で、大八は一筋の傷に眼を奪われた。深く、ではなく強く、と言った政宗の意図が見えた気がしたのだ。
 「真ん中に一本走っている筋が気になります。深くはないのですが、この場所にあるのは一筋だけゆえ」
 「正解だ。それは真田幸村と最後に戦った時、奴がこの俺の兜を正面からかち割ろうとした傷だ」
 「お館様の兜を……」
 「真田は日の本一の兵、という童歌は本当なのさ。あいつの生きざまを守る者として、おまえは真実を知る権利がある……いや知らなければならないが、おまえの胸の内にだけ留めておけばよい」
 政宗は、障子を開けたまま脇息のもとに戻って語り始めた。
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