第15話 白装束

文字数 18,455文字

 小田原に逗留して二十日ほど。その日の宴は父に任せて兵の訓練を指導していた源次郎は、豊臣本陣を目指す奇妙な一行を目撃した。西の箱根山のあたりから東海道を進んで来る一行である。
参戦する武将にしては数が少ない。せいぜいがところ百、小隊程度である。にもかかわらず、支度はきらびやかで立派なのだ。
一体何者かと思い山を下りた源次郎は、そこで思いがけない人物と遭遇した。
 先触れの歩兵が掲げた旗指物には金糸で縫い取られた『竹に雀』の紋。源次郎が実物を見るのは初めてであったが、それが上田や越後にて何度か話題に上った奥州伊達家のものであることはすぐに分かった。

 伊達といえば、北条よりも先に惣無事令を破って奥州を制圧した張本人である。秀吉は小田原攻めにあたって伊達に汚名を雪ぐ機会を与えるとして参戦を命じる朱印状を送っていたが、ついに上杉や前田率いる北方軍へ合流しないまま全ての隊が小田原に到着してしまったのだ。
 ついに参戦せずじまいの振る舞い、秀吉への対決姿勢を見せるつもりかと危惧する声も上がる中、伊達は小田原の包囲が完了した後になってのこのこと参上した。しかし、当然のことながら秀吉の意に背いた行いとして数日前まで処分を保留されたまま箱根の山中に逗留……幽閉されていたと聞いていた。北条と通じていないか調査や尋問をされていたらしい。
 小田原到着から包囲完了、妻たちの到着など慌ただしく過ぎていく日々の中、伊達の処遇を巡っては、仏を篤く信仰する上杉景勝が随分と憂慮していたのだ。秀吉の気分次第では、北条への見せしめとして小田原城の目の前で伊達を磔にするくらいの事はやりかねない。日の本じゅうの大名や女が集うこの地で刃傷沙汰を起こすことにならなければ良いが、と。
 源次郎と同い年にして奥州統一を成し遂げる力を持ちながら…いや、持っているからこそなのか不遜にして大胆な男、伊達政宗。その行動に裏や計算はあるのだろうか。
 その伊達一行が、源次郎の目の前を通り過ぎようとしていた。秀吉の一方的な命令に従わなかったのか従えなかったのか、その結果を自業自得として見るには心が引っ掛かかって仕方ない思いで源次郎は彼らを眺める。
 しかし列の中央で左右逆の真っ白な装束の上に同じく純白の陣羽織姿を晒して練り歩いている隻眼の男を見た瞬間、源次郎は思わず人ごみをかき分けて飛び出していた。
 「そなたは……!」
 「何者!」
 死に装束の男の周りを固めていた武士が刀に手をかけたが、恰好からこちらも同じ武将、しかも大将格だと気づいて手をおさめる。行列の主役は源次郎を一瞥して片方の眉尻を上げてみせた。
 「ん?……おまえ、どこかで会ったか」
 「……越後の春日山で」
 春日山、と聞いて男は『ああ』と小さく頷く。
たしかに、かつて春日山で敦盛を舞っていた少年はこの男だった。しかし、彼が奥州の主・伊達政宗だったとは。
 「おまえ、上杉のところにいた餓鬼か。その恰好、随分と出世したみたいじゃねえか」
 「が、餓鬼とは無礼な。そなたと変わらない年齢だろう」
 「はは、そうだったか。……ま、どっちでもいいや。あいにく、今はおまえに構っている暇はねえ」
 「?」
 「見てのとおり、これから関白に斬られてくる」
 「斬られる!?」
 「ああ」
 政宗は自分の指先で首筋を指した。
 「そのような重大事にどうして落ち着いていられるのだ」
 「どうして……うーん、身に覚えがありすぎて分からないな。今更じたばたしたって始まらないだろう」
 政宗は風に髪をかきわけ、軽く顔を振った。
死に装束に合わせるかのように肩下でざんばらに切られた髪が、またこの男の精悍な風貌に似合っている。隻眼を気にしているせいかどうかは分からないが、月代を剃っていなかったことで、髪をそうしても落ちぶれた風にも罪人にも見えず、むしろこれから死にゆく者の姿を絵巻から飛び出したかのように演出しているのだ。
 夜の春日山で会った時にも美しい少年だと思ったが、成長して線が太くなった政宗はますます人を惹きつける容貌を身に着けていた。京の都に掃いて捨てるほどいる、雅という名のかよわい男ではない。山にしっかりと根を張って咲き誇る桜のような男である。散って終わりではなく、花の後にも眩しい青葉を茂らせて力強くそこに在るのだ。
 「自分がしたいと思ったように動く時、最後にどんな結果となるまで想定しないで戦うのはただの考えなしだ」
 「では、此度の行いはすべて覚悟の上であったと」
 「ちょっと想定外の出来事はあったが、大体そうなるかな。惣無事令を先頭切って破ったのは俺だし、参戦して汚名を返上するよう命令されていた小田原への呼び出しにも遅れちまったからなあ。だから、斬られたらそのまま打ち捨てやすいよう、手間のいらない恰好で来た」
 秀吉の命令が発せられてから現在に至るまでの時間と今の小田原を見れば、次に奥州が同じ目に遭うことくらい想像がつくだろう。だから政宗はそれらを考えた上で奥州での抗戦よりも自ら参上することを選んだのか、源次郎は思ったことを口にしてみた。
 「……奥州に討伐の手が及ぶ前に、でござるか」
 「ほう」
 源次郎を見る政宗の眼差しがほんの少し変わった。見直した、と受け止めるのは自惚れだろうか。
 「まあ、今の奥州は疲弊しているからな。それも元はといえば俺のせいだし、俺の首ひとつで奥州の民が守られるなら安いもんだろうて」
 命あってこそ大願も成就できるもの、そう信じていた源次郎には、政宗の行動や理屈は半分くらいしか理解できなかった。残りの半分は理解不能というより想像不可能といった方が近いかもしれない。そもそも源次郎には上からの命令や規律を破るという概念がないのだから、破った結果を考える必要がないのだ。
罰せられると分かっていながら何故奥州制圧に打って出るのだ。国を制圧しても、自らが生きて治めなければ民の平穏だってどうなるか分かったものではない。
 何もかもが分からない源次郎が黙ってしまうと、政宗もそれ以上を説明する必要はないと判断したようだった。   『じゃあな』と軽く手を振って南の石垣山へと去って行く。寸聞多羅(すたもら)香とおぼしき香りが、ふいと香った。香道をたしなむ妻から、寸聞多羅は『地下人』を現す香りだと聞いたように憶えている。
 箱根に幽閉されていた日々で得た観念か、それとも皮肉か。それこそ源次郎には理解不能であったが。

 政宗は、持って生まれた強運をさらに自力で上塗りできる強かさを持っていた。
 秀吉と政宗の会談の結果がどうなったのかを源次郎が知る術もないまま…斬られたという話は聞かなかったのでとりあえず命はあるのかと想像しているうちに文月に入って。
文月五日、再三にわたる黒田官兵衛の説得が功を奏して、北条がついに小田原開城と降伏に応じたのだ。開城から一週間後の文月十一日、北条氏政は小田原の民や兵の命と引き換えに切腹して果てた。
 秀吉が思い描いていたとおりの勝利である。

 小田原陥落の報せを受けた直後に政宗に目通りした秀吉は、『特別だ』と言って政宗を許した。次はないと念を押すことも忘れない。
ここで伊達を斬れば背後にいる奥州勢力が再び息を吹き返し、混乱を収拾する時間の分だけ天下統一が遠のく。それよりは各地の武将が集うこの地で『すべて若さゆえの無謀が為した事なり』と温情を見せつけて政宗を懐柔した方が合理的に天下を収められ、関白の懐の深さを見せつける得策だと判断したのだった。
 政治的な判断の部分を主張して寛大な措置を求めたのは、徳川家康や前田利家といった太閤に影響力のある大名であった。
 しかし、政宗が彼らの良心というあてのない物に賭けて手をこまぬいていた訳ではない。小田原に遅参することが確実になった時点で、政宗は周到な根回しをしていたのだ。箱根に幽閉されている間に隠密を使って徳川や前田に事前接触を図り、少なからぬ『土産』とともに秀吉への取りなしを依頼していたのである。前田は根っからの善人だったので伊達の正直な事情説明にいたく同情したし、北条の後に手を組む相手を捜していた徳川は二十四歳という若さで奥州平定を成し遂げた伊達に今後の価値を見出し、貸しを作る道を選んだ。有力者二名の援護を得ることに成功した伊達は、だめ押しとばかりに死に装束という意表を突く出で立ちで小田原に乗り込んで来たのである。
 どの面を下げて、と詰問するはけ口をしおらしい服装で奪い、だが秀吉の意表を突くことで『この男、只者にあらず』という印象を与える。そういった心理的な駆け引きでの印象操作においては、伊達と秀吉は似た者同士であった。
しかし伊達は関白と張り合う身の程知らずではない。許されたところで秀吉の懐の深さに感謝感服の意をわざとらしくない範囲で褒め称え、早急な上洛を誓い、今後は京都に詰めて関白のため心血注いで働くと誓うことで機嫌を取っておくことを忘れない。さらに、取り成し役を買って出てくれた前田利家を通して『私は都の作法もよく知らぬ田舎侍ゆえ、千利休に茶の指南を受けたい』という申し出までしていた。
一見すると関白の器に感服した若者の殊勝な申し出ではあるが、実は風変りを好む秀吉が異なる印象を政宗に持つよう計算しての発言である。かように肝が据わった男ならば利用価値もあるだろうと思わせるために。
 「武士」として聡いと言われ続けてきた源次郎の理解をまったく超える「国主」、それが伊達政宗という男であった。


 小田原開城から三日ほど後のこと。源次郎は、石垣山から小田原城下への道を馬で駆けていた。
 「伊達の小倅め、やはり成駒であったか」
 小田原が陥落したことで真田軍も帰参の支度を始めたさなかの夕餉の席、家族が勢ぞろいしたところで昌幸は顎鬚をしごきながらつぶやいた。
 関白が入城した後に行われる祝勝の宴の後、源三郎は徳川家康と義父・本多忠勝の誘いにより稲とともに三河へ顔を出し、昌幸と源次郎は妻を連れて京都の真田屋敷へ帰参することになっている。
 「話を聞く限りでは殊勝なものよと感心すべきだが……なかなか強かな男よ」
 「どういう事でしょう?」
 そこで、源次郎は今回の顛末とその裏側を同時に知ってしまったのだ。伊達の一件に興味を持った昌幸が、表と裏それぞれの人脈を使って当たらずとも遠からずの真相を導き出し、安堵と憤りを同時に源次郎のもとに運んで来たのである。
 関白を手玉に取るとは不遜なり。
 こちらは命をかけて戦ってきたというのに。
既に関白が決めたことに異論を挟むことなどできないが、このまま黙ってもいられない。源次郎は夕餉をかき込むと、小袖に馬乗袴のまま朱槍一本を片手に館を飛び出したのだ。
 石垣山で秀吉との謁見を終えた政宗は、米沢まで政宗を迎えに行った和久宗是の屋敷で世話になっているという。
 海沿いの山麓とはいえすでに夕刻。夏至を過ぎたばかりの長い昼の名残も濃紺によって西へと追いやられた静寂の小田原を、馬がひた走る。
 「おまえ、そんなに急いでどこへ行くんだ?」
 早川を渡ったあたりで、聞き覚えのある声に誰何された。いったん行き過ぎた馬上からちらりと見えたのは、源次郎が捜していた男。
 「どうっ!」
 慌てて手綱を引き、まだたたらを踏んでいる馬から飛び降りる。伊達政宗が口笛を吹いてその身体さばきを褒めた。
 「伊達政宗、貴様!」
 「貴様、先日の」
見覚えのある従者が素早く刀を抜いたが、それより先に源次郎がずい、と突き出した槍の穂先が従者の肩をかすめて政宗の眼前にまで届いた。ぎょっとした顔で朱色の柄を横目に見た従者の奥で、政宗が軽く目を細めている。口許は「こりゃあまた…」と軽く笑っていた。
 従者の刀は、左手で抜いた源次郎の脇差に押さえ込まれている。
 「へえ、たいした腕だな。小十郎の抜刀を見切る奴なんて日ノ本でも片手くらいしかいないと思ってたんだが、おまえがその一指に入るのか」
 小十郎…片倉小十郎景綱。
 その名を聞いた瞬間、源次郎は自分でも分かるくらいに顔をこわばらせた。伊達政宗の腹心にして軍師、なおかつ傳役も務める文武両道の男。関白がぜひとも自分の家臣として引き抜きたいと破格の条件をもって接触を図ったというが、本人は政宗への忠義から頑として断ったという逸話も聞いていた。
 『怖いもの知らず』という言葉をそっくり行動に移してしまった自分に後悔したがもう遅い。どうやってこの均衡をおさめようか。
 しかし、小十郎を引かせたのは彼の主であった。
 「面白い。……小十郎、剣をおさめろ。客人を連れて帰るぞ」
 「しかし、政宗さま」
 「大丈夫だ。なあ、真田の次男坊」
 「!」
 困惑する源次郎に、伊達政宗は「どうだ?」と言わんばかりに軽く目を細めてみせた。これほど得意顔が美しく見える男は他にいるだろうかと思ってしまうような、錦絵のように完璧な表情である。今ばかりはそれが却って癪にさわるのだが。
 「真田と申しますと、信濃国の」
 片倉小十郎が目を見開く。春日山で出会っていた事を隠すように政宗は説明した。
 「この若さで武田の紋が入った朱槍を持っているのは真田の息子達くらいだと記憶している。兄貴の方は割と大人しいっていう噂が本当なら、こいつはちょっと腕が立つと評判の次男の方だろう」
 「失礼な。それではまるでそれがし考えなしのようではないか」
 「そんな物騒なものを手に一国の主をいきなり呼び捨てにしたのを、考えなしと言わなきゃ何て言うんだ?不敬者か?」
 「……!」
「まあいい。今は友軍だし、知らぬ顔でもないからな。ちょっと顔出せや」
「政宗さま、危のうござりまする」
「今の槍、おまえも見ただろう。どうやらこいつは俺に用があるみたいだ。俺達もせっかく小田原くんだりまで来たんだから、話くらいは聞いてやろうじゃないか」
 余興だ、余興。唇を尖らせる源次郎に、政宗はふたたび癪な笑みを見せてよこした。

 滞在先に戻った政宗は、家人に庭を借りると申し伝えて離れへ源次郎を案内した。小田原攻めに参加した大名のほとんどがそうであったように、和久の館も小田原攻めにあたって急ごしらえしたものであるため、敷地を隔てる塀などはない。薄い竹藪の向こうには同じような身の上の武将の屋敷から漏れる松明の明かりが透けて見えた。
 源次郎と政宗は、何を話す訳でもなく縁側に腰かけて夜空を眺めていた。信濃の山から吹き降ろす風とはまた違う性質の夜風が庭を抜けていく。海から風が吹いて来るのだ。
 潮の香りが源次郎の心を落ち着けた頃、片倉小十郎を従えて廊下を渡って来た館の主が縁側によっこいしょ、と政宗の隣に腰を下ろす。太閤と同年代の老武者、和久であった。大坂で何度か顔を見たことがあるだけだったが、彼もまた源次郎の顔を見知っているようであった。
 「おや、これは珍しい客人ですこと。政宗どのは友を作るのが早うございますなあ」
 「だ、誰が友なものか。拙者は政宗…どのに話があって」
 「話、ねえ」
 政宗が、フッと鼻で嗤う。
 「同じ事をしたのに、北条が切腹して俺は赦されたってのが気に入らなくて文句でも言いに来たか?」
 「それだけではござらん。斬られるだの覚悟だの何だのと大層な事を言っておきながら、裏で……」
 「ああ、もうばれたのか。ったく、真田の親父の耳聡さは噂以上だなあ」
 根回しをしれっと認める政宗に、源次郎は胸倉を掴みたい衝動をしきりに堪えた。暖簾に腕押し。源次郎が力むほど、政宗はそれを軽々とかわしてしまうことは目に見えていたから。
 「残念ながら、奥州の民ためにまだ死ぬ訳にはいかないんだよ。それに処分を最終的に決めたのは関白だ。俺は自分が生き残れるよう手を尽くしただけで、関白の心持次第では首桶と戒名を貰ってた可能性もあったんだぜ」
 「そ、それはそうでござるが……」
 「戦場で突撃するだけが国主じゃないんだ。生きて自らが思う世を実現するためなら狐にでもなるし、ときに薄氷の上だって渡らなきゃならない。おまえの国だって、そうやって生き延びて来たんだろうが」
 開き直りのように取ってつけたものではなく、最初からそれが当然であったと政宗は思っていたのだ。だから石垣山へ赴いた時の覚悟も嘘ではないし、様々な画策は生きる可能性を上げるための方便である。
 それら行いは、常に生き残りをかけて立ち回る父とて同じ。そう理解した源次郎は黙ってしまう。
 「……」
 理解した筈なのに言葉が出ない。心の奥に何かが引っかかっている。けれどそれが何なのか、政宗にまだ言いたい事があるのに適当な言葉が見つからない。
 果たして今の自分はどんな顔をしているのだろうか。自分でも分からないでいるうちに政宗が源次郎の手首を掴んだ。
 「まだ納得できないか。だったらいいぜ、相手になってやる」
 「しかし私闘は禁じられている。勝手に戦う訳にはいかぬ」
 「戦えないって……じゃあ、おまえ一体何しにここまで来たんだよ。『でも』『だが』『しかし』、なんて言いながらその立派な槍を見せびらかしに来たのか?」
 「いや、そうではござらぬが……」
 「関白の許可なしの成敗も立派な私闘、惣無事令違反だ。違うか?」
 「……」
 政宗の主張がいちいちもっともだと認めざるを得ず、かといって成敗にも踏み切れない。やはり自分は考えなしであったと、源次郎は顔を熱くした。
 「政宗どの、そうからかいなさるな。客人は殿下に対して実に忠義に篤く模範的、かつまっとうなお心の持ち主。天下人と渡り合う度胸の持ち主である政宗どのが手玉に取ってはお気の毒というものですぞ」
 見かねた和久が出した助け舟に、政宗は「俺はそこまで老獪じゃない」などとぶつぶつ呟いた。しかしすぐに前髪を手で払って源次郎を見る。
 「まあ、手ぶらで帰るのも何だろ。かといって真剣での斬りあいは流石にまずい。ならあれだ、『手合せ』なら文句は出まい?」
 「手合せ……」
 「おまえだって、どうせ本気で俺の首を獲るつもりじゃないだろ。せいぜいがところ、横暴で狡猾な殿様をこの手でとっちめてやりたい、ってところだ。違うか?」
 「なっ!」
 「本当の殺意ってのは、今のおまえみたいな温いものじゃない」
 いつの間にか席を外していた片倉が、稽古用の木槍と木刀を抱えて戻って来た。ほれ、と言って政宗は木槍を源次郎に放り投げ、自分は木刀を手にする。そのまま検分役よろしく縁側に正座した小十郎には絶対に手出ししないよう政宗が言い含めた。
 「和久どの、よいですな?」
 「関白殿下のお導きにて小田原で出会った東西の若武者が切磋琢磨するのは、じつに好ましいこと。もっとも、この老いぼれは最近とみに忘れっぽくなりましたゆえ、一晩眠れば前夜の出来事など夢うつつの彼方へと消え失せてしまいますけれどなあ。……さて、年寄りは夜が苦手でござるゆえ、先に休ませてもらいますよ」
 とぼけた口調の和久は、『ほほほ』と笑うと寝所へと消えていった。
 主が目を瞑ってくれると解釈したところで、政宗は庭先に出ると源次郎を促す。二人は改めて向かい合った。
 「さて、武田信玄公直伝の槍とやら、思いきり見せてもらおうじゃねえか」
 基本は八双、そこからさらに右足を半歩引いて右肘を上げる形で崩し、剣先を突きの体勢に木刀を構えた政宗が源次郎を睨む。
 八双の構えは見栄えこそ良いが左脇ががら空きになるために実用的ではなく、まして命をかけた実戦で用いるのは無謀であった。しかも政宗は非実用的な構えをさらに我流で崩している。だがその体勢が単なる無謀や粋がりでないのは政宗の眼を見ればすぐに判った。
 庭の篝火が赤く燃える下。眼帯の奥にある、見えていない筈の瞳からは炎の赤を貫く仄青い光が発せられているように見えた。眼光はまっすぐに源次郎の眼を射す。たとえば島津義弘の睨みが岩ごと粉々に砕いてしまわんばかりの迫力 だとしたら、政宗のそれは岩の一点だけを貫いてしまいそうな鋭さであった。目線を保ったまま、薄い唇からちらりと覗いた赤い舌が下唇を軽く舐める。
 さながら獲物を見つけた大蛇のようだ。源次郎の背中を汗が一筋伝って流れた。

 余談ではあるが、伊達政宗が唐の時代に武勇を振るい『独眼竜』の異名をとった隻眼の猛将・李克用になぞらえて『竜』と喩えられるようになったのは、徳川十一代将軍の治世になってからの事である。まだこの時代に政宗は竜と呼ばれてはいなかったし、源次郎もまた竜という架空の生き物を政宗と結びつけるほど詩的な感性は持ち合わせていなかった。それゆえ『大蛇』である。

 「どこからでもかかって来い。島津を唸らせた技、見せてみろよ」
 たんなる挑発に終わらない圧倒的な威圧感が政宗には備わっている。山でも大樹でもないのに、そこにいるだけで強い力を放つのだ。武田信玄や、最近では島津義弘のように。
 源次郎は木槍を慎重に握り直すと、空いている脇を狙って槍先を突き出した。
 「やあっ!」
 相手に見切られることを承知の上での試し打ちである。まず突いてみて相手がどう動くか様子を見てから本格的に槍を合わせるのだ。打ち合いの中で相手の癖を見て隙を探る。
 しかし、源次郎の一撃が向けられた先に手ごたえはなかった。まるで残像をその場に残したような素早い動きで政宗が地面を蹴り風を起こす。
 地を這う蛇は、摺り足も見事だった。
 いつの間にか間合いを詰められ、槍の長さが仇となっていたことに気付かなかった源次郎の不覚である。
様子見などと悠長な考えは、政宗の行動にはまるで感じられなかった。政宗は息をつく間も与えず一気に詰め寄り、源次郎の右手元を弾いた。棍術を応用して柄で政宗の剣を凌ぎ、力で剣をいなそうとしたが無駄である。政宗の剣の方が格段に速く槍をかわし、膝を柔軟に使った低い体勢から身体を一気にひねって源次郎の左を取って肩へ一撃を叩き込む。
 「うっ!」
 真剣なら、そのまま袈裟斬りにされていたところだった。木刀は源次郎の肩、骨の継ぎ目を正確に捉え、腕に痺れが走り、槍を取り落としてしまう。槍を探そうと視線が地面へ移った瞬間、目の前に風が走った。木刀が振り下ろされたのだ。
 源次郎がそれをかわせたのは、まさに紙一重であった。一撃をかわしたことで政宗の手元が源次郎の眼前に映る。すぐさま身をかがめてその手首を取り、懐に入り込んで体術で政宗を投げ飛ばそうと背を丸めた。しかし。
 「臨機応変だな。だが俺には通用しないぞ」
 意表を突いたと思った体術であったが、政宗の反応も素早いものだった。投げられる前に源次郎の右へ回り、同時に左右の手で源次郎の袷の襟首と右腕を同時に掴んだ。そのまま身体をひねって源次郎の足を払い、襟首の手を離すことで仰向かせて地面へ叩きつける。
 「ごほっ」
 背中をしたたか打ち付けた源次郎は激しくせき込んだ。呼吸が整わず、起き上がれない。
 「やっぱり武田信玄の弟子だっただけの事はあるな。……が、この勝負は俺の勝ちだ」
 政宗の手が源次郎の胸倉を掴んで強く引き寄せた。
 殴られる。
 だが源次郎が歯を食いしばった瞬間、政宗の手が緩んだ。
 「おまえ……」
 政宗の目が源次郎の着物の胸元を見ていた。掴まれたせいで大きく開いた胸元から晒し布が覗いている。うなじから鎖骨まで丸見えの姿、粗末な布きれ一枚だけでは女性独特の膨らみは隠しきれない。日頃は鎧や羽織で隠れてしまうのだが。
 驚くと同時に一気に気持ちが鼻白んでいく政宗の表情を、源次郎は恥ずかしさで直視できなかった。
 「なんてこった。島津義弘を唸らせた猛者は白拍子かよ」
 「……悪いか」
 「悪くはねえが、驚きだな……ふうん、そういう事なのか」
 開いたままの袷の胸元から風が入り込み、源次郎の肌が粟立った。このような距離で男に素肌を見られるのはやはり恥ずかしいし、屈辱である。
 「自警を兼ねた女武者隊は珍しくないが……将として男の世界に紛れ込むとはまた命知らずな」
 「そなたが心配する筋もなかろう」
 「それはそうだが、知っちまった以上は警告くらいしておかないとな。昔から男と肩を並べようと息巻く女武者は少なくないが、女がいざ戦場に出て敗けた時の扱いは男のそれより酷いもんだぞ?男みたいにひと思いに首を掻かれはしねえ。その前にまず何人もの男に犯され、ありとあらゆる屈辱を味わわされながら、じわじわと息がなくなっていくまで死ねないんだ」
 「犯される……」
 源次郎が反射的に脚を閉じて身を固くした。政宗の、澄んだ左の瞳がひくりと縮む。
 「おいおい。おまえ、まさか『まだ』かよ」
 「!」
 嫁入り前の…いや名目上は『一応』結婚しているが…身に何を言わせるか、源次郎は真っ赤になって顔をそむけた。政宗は拍子抜けした顔で盛大なため息をつく。
 「そんな身体なら、なおさら物も言えないくらい呆れた話だな。無謀を通り越して馬鹿としか言えないぞ」
 「だ、だから拙者はこういう出で立ちで、男として」
 「が、俺は知っちまった。そして今、こうしておまえの喉元を掴んでいる。犯すも殺すも俺次第。関白の命令に背いて俺を闇討ちしようとした不敬者を成敗したとなれば、褒められこそすれ咎められることはあるまい。さて、どうしたもんだか」
 ふいに政宗の眼が悪戯を思いついた子供のように笑った。腕力で源次郎を組み伏せ、そのまま全身でのしかかる。
 「!!」
 政宗の息が耳にかかり、ざんばらな髪が顔の上を撫でた。髷を結っていないため髷付け油の動物的な臭いはしなかったが、それだけに源次郎がこれまで知らなかった男の肌の匂いが直接鼻をつく。
 もがく中で政宗の従者に目で助けを求めたが、小十郎と呼ばれた彼は主君を諌めることもせず黙って行いを見守っている。関白と命をかけて渡り合う主のこと、このくらいの狼藉は可愛いものだとでも思っているのだろうか。あるいは、奥州では床入れ式よろしく行為を見守るのも従者の務めなのか。
 政宗の手が緩んだままの胸元に伸び、晒しの上からまだ誰も触れたことのない膨らみを探る。
 「や、やめろ!!」
 源次郎はかろうじて自由になった左足で政宗の腹を思いきり蹴り上げた。怯んだ隙に渾身の力で両肩を突き飛ばし、脇に転がり抜ける。しかし転がっていた木槍を拾おうと手を伸ばした瞬間、政宗に小袖の襟を掴まれ仰向けに転ばされた。振りだしに戻る、である。
 今度こそ身の危険を強めた源次郎は、ふと思い当たって口走っていた。
 「犯すなど、国主として品のないことを……それに、そなたには妻が居ると聞いておるが?」
 「ん?ああ、愛(めご)のことか……奥州じゃ『可愛い』ことを『めご』と呼ぶんだが、その名のとおり見目は『めごい』姫だぞ。間違えても、武者姿で槍振り回すような跳ねっ返りじゃない」
 「!」
 あからさまな当てつけに源次郎の顔が怒りで真っ赤になった。
 「妻ではない女にこんな狼藉を働いたら、その妻が悲しむとは思わないのか」
 「……おまえ、ばかか?」
 「ばか、とは失敬な」
 「戦国の世じゃ、戦で武功を上げるだけじゃなく次の世代へ子を残すことも武士の大事な役目なんだよ。気に入った女がいれば情けをかけるし、女に子ができたら親子ともども何人でも引き取ってすべて面倒みるくらいの甲斐性がなけりゃ大名なんてやってられるか」
 妻も然り。夫に甘えて蝶よ花よと暮らすのではなく、夫不在の城を守り、束ね、そして自分の子が一国を担える器になるよう教育しなければならない。それができなければ正室の交代もあり得るし、他の室が産んだ子のうち最も優れた者に後継を定めるまで。政宗の信条はじつに単純明快であり、妻の親元の思惑や力関係を一切排除した無駄のないものであった。
 それだけに、源次郎は政宗の行為が本気なのかと恐ろしくなる。
 「じゃ、じゃあ私がそなたに……その、手籠めにされた上に……」
 「おまえの器量と度胸、俺は嫌いじゃないぜ。おとなしく姫をやっていれば俺の室に入れたかもしれないのに、なあ」
 「だ、だれが貴様なんかの室に」
 「ああ。俺だって寝所で首を掻かれたくなんかない」
 政宗が、ニヤリと笑った。獲物を完全に手中におさめた笑いだった。
 「という訳で交渉決裂、いや交渉にもならなかったな。敗れたからには女武者としての覚悟をしてもらおうか」
 政宗が源次郎の腰を探り、袴の紐を引いた。互いに細身の身体で突き出た腰の骨がぶつかり合い、鎧をまとっていない腰のわずかな隙間から夜風が入り込む。手は上衣からも忍び込み、晒しの端もついに探り当てられて胸元が緩んだ。必死にもがいても、押さえつけられてしまうともう女の力でしか抵抗できない。
 ならばいっそ舌を噛み切ろうと思ったが、それは政宗の唇に阻まれた。唇を押し当ててきた政宗の舌が源次郎の口内を探り、自死する力を奪う。
 「う……」
 これまで何度か経験してきた生命の危機とはまったく異なる種類の恐怖が源次郎の全身を冷たく痺れさせた。泣いたら負けだ、『女』を認めることになってしまう。そう思いつつも、源次郎の両目からは汗と埃にまみれた涙が次々とこぼれて頬を伝い落ちた。
 そこで政宗の手がぴたりと止まる。
 「怖くなったか?」
 「……」
 半裸の姿で強がることはできなかった。こみあげてくる涙で息が詰まった源次郎の胸が大きく上下し、喉はひくひくと痙攣する。
 政宗は、ふふっ、と笑った。
 「どうやら俺の灸は結構効いたみたいだな。おまえはもっと自分を大事にしなきゃ駄目だ」
 「え?」
 「本気で豊臣と心中するつもりじゃないなら、男のなりして物騒なもの振り回すのを止めて城の奥で茶でも点ててろ、ってことだ。死より怖いものを知れば、厭でもそう思うだろ」
 「それができていれば苦労はしない」
 「……ふん、やっと本音を吐いたか」
 突然、政宗は身を上げ源次郎を解放し、さりげなく横を向いた。服を直せという気遣いに気付いた源次郎は、背を向けてその気遣いに従う。
 服を直した源次郎がその場におとなしく正座するのを待って、政宗は視線を戻した。さっきの狼藉ぶりがまるで別人であったかのように…実際、芝居であったのだろう。政宗は紳士的に手を差し伸べて源次郎を立ち上がらせ、そのまま手を取って縁側へ座らせた。
 「生まれながらにして国を背負うのも、物心つく前に親が道を均してしまうのも似たようなものだ。荷が勝ちすぎていても引っ込みがつかなくなっても後戻りはできず、ただ前へ進むしかない」
 「わ……私は、己に課せられた荷が負担だと思っていない。そうならぬよう邁進するのみ」
 「……重たい人生を歩んでいるよな、おまえも」
 政宗が目配せすると、廊下で成り行きを見守っていた小十郎がふいと立ちあがってその場を後にした。
 「真田の狸親父の噂を聞けば、おまえがそんな恰好をしているのも腑に落ちるというものだ。苦労してるじゃねえか?」
 「苦労……」
 そのような事を考えたのは初めてだった。今ひとつぴんと来ない。
 「これを苦労というのか?」
 「自分で苦労と思ってないなら、それでもいいさ。拒まず逃げず選んだのは自分だったんなら、茨の道でも進むしかないだろ。それとも表向きだけでも奥州の人質になって妻もろとも俺の国に来るか?ほとぼりが冷めたら在家出家でもして、どこかの城か庵で元の姿に戻ってひっそり暮らせばいいさ」
 「ば……ばかにするな!同情など受けるくらいなら死んでやる」
 「今さっき泣いてた奴の言葉とも思えないなあ。おまえ、気位と心構えは並みの武将以上だ。俺に剣を向けられた奴のほとんどが泣いて命乞いをしたもんだが、そうしない度胸も気に入った」

 その時、小十郎が水桶を持って戻って来た。『毒は入ってねえよ』と差し出された柄杓の中身を、源次郎は一気に飲み干す。何度も水をがぶ飲みして咽せかえった息は、そのまま自分は生きているのだという実感に繋がった。
 政宗は小十郎が連れて来た小姓から水桶を受け取ると、布を浸して身体を吹く。袷をはだけた上半身、背中から肩にかけての筋肉が月光に浮かぶ。武士として鍛え抜かれた無駄のない肉体は、女の自分がどれだけ努力しても手にできないものである。なのに所作の一つ一つが優雅で、油断すれば先ほどの狼藉すら帳消しになってしまいそうな程に美しく、眩しく見えた。
 「まあ、とりあえず命は大事にしておけ。命がなければ何もできない。戦いで死ぬのを武士の誉と呼ぶのは否定しないが、謀殺には気をつけろ」
 身体を拭きながら政宗が忠告する。
 「謀殺……先ほども寝首を掻かれると申していたが、そなたはそういった経験が……」
 「ああ。実のところ、俺が小田原に遅参したのは国元で死にかかっていたからだ」
 「えっ?」
 「実の弟や……母親と、いろいろあってな……もう過ぎた話だ、誰にも言うなよ。何事も自分が真っ先に知っていなきゃ面白くない関白の耳に入れば、せっかく収まった怒りが再燃しかねない」
 親の思惑によって運命を振り回されているのは源次郎だけではない、という事なのか。だがその場で続きを聞くことは出すぎているようで躊躇われたし、政宗も今はまだ多くを語りたくないようであった。
 「いつか機会があったら聞かせてやるよ。……おまえの迎えが来たみたいだ」
 「迎え?」
 敷地の境にある竹藪に向かって、出て来いよと政宗が促す。
 「……旦那さま……」
 顔を覗かせたのは、佐助に警護されたさちであった。眉間に皺を寄せ、着物の袖をぎゅっと握りしめて源次郎を見ている。顔は蒼白で、駆け寄る足元もふらついていた。
 「おまえの奥か。飛び出して行った旦那を追ってここまで来るなんて、いい奥じゃないか」
 「さち、このような夜更けに無理をすると体に障るぞ」
 「でも旦那さまが出ていったきり帰って来なかったので……佐助たちに捜してもらっていたら、城下で旦那さまらしき方が何者かに連れて行かれたという話を聞いたものですから」
 「そうか……心配をかけたな」
 さちを迎え入れようと源次郎が腰を上げる。その間に政宗はぴしりと襟を正すと源次郎に背を向けて手を上げた。すかさず小十郎が羽織を政宗の肩にかける。南蛮渡来とおぼしき紋様が金糸で縫いこまれた、鮮やかな藍色の羽織が政宗の出で立ちによく似合う。
 「また会おうぜ、真田。もうちょっと腕を上げておけ」
 「……ああ」
 政宗が去るのと、さちが源次郎の手を取って顔を覗き込むのはほぼ同時であった。
 「旦那さま、大事はございませぬか?ああ、ご無事でよかった……」
 「ごめん、心配かけたね。あれは小田原で出会った友軍の将だ。齢も近いということで、ちょっと手合せをしていた」
 私の負けだ、と源次郎はわざと笑い、さちを安心させようとした。
 「はしたないとは思いながら、お隣のお庭からお邪魔したのです。旦那さまが傷だらけなのを見て、よもやこのまま討たれるのではないかと心の臓が止まる思いでした」
 「そんなことはない。まだまだ世界は広いと思い知ったところだ。信玄公に認められ、ちょっと武功を立てたくらいで舞い上がっていた自分が恥ずかしくなったよ」
 源次郎は、さちの目の端に残っていた涙の跡を指で拭ってやった。
 「ごめんね、さち。無理をさせた上に心配までかけてしまった」
 「いえ、旦那さまがご無事であれば、それで良うござります」
 それにしても、と。さちがもう誰もいなくなった屋敷の縁側を振り返る。
 「あの隻眼のお侍さまは……」
 「伊達どのがどうかしたか?」
 「いえ……とても強い眼をしておられました。現を見る眼は一つでも、心の眼で無限を見ているように思えます」
 「無限を見ている、か……さちは面白い事を言うな」
 まさにその通りだと源次郎も思った。鋭い眼光と横暴な振る舞いで底知れない恐怖を相手に植え付けておきながら、しかしそれらを平然と戯れと言ってのける。源次郎の事情も、話す前に見ただけで大方を察してしまう知識や洞察力もある。そういった度量を見抜いたからこそ、秀吉も政宗を生かしておこうと考えたのかもしれなかった。
 秀吉に気に入られたことで一端の将になったつもりでいた自分など、まだまだ伊達政宗には敵わない。口惜しいが、源次郎は政宗に感服する以外なかった。
 日の本一の将になるためには、まだまだ超えなければならないものが多すぎる。具体的には何だろう。帰り道、源次郎は自らに足りないものを頭の中でいくつも数え上げていた。


 それから数日後。
 小田原城に入った秀吉が主催する宴が催された。宴で戦った三か月も、ついに大詰め…秀吉流に言うのならば千秋楽である。
 真田家の三人も、上杉や前田らとともに招かれ秀吉から労いの言葉をかけられた。酒や肴も振る舞われ、各所で日頃あまり顔を合わせることのない各地の国主らが歓談に花を咲かせている。聡い国主らは歓談の側には必ず関白の腹心が聞き耳を立てていて話の内容はすべて筒抜けであることに気付いていたため、誰もが口々に関白の偉業を褒めたたえ今後の国作りに助力を惜しまないようなことを自らの名とともに何度も強調するという、若い源次郎には違和感のある席であった。
 そんな中、ただ一人ひたすら秀吉に平伏し恐縮していたのは石田三成である。各方向からの軍が順調に勝ち進んで小田原に集結したにもかかわらず、石田が直接指揮を執った忍城だけは唯一開城に至らないまま戦の集結を迎えてしまったのだ。結果として豊臣軍が勝利したため忍城の主・成田氏長も服従を余技なくされたのだが、有能ともてはやされ太閤の左腕を自負していた石田にとって戦功を挙げられなかったことは何よりの恥であり、切腹も辞さない覚悟で庭に両膝をついていた。
 が、秀吉は『此度の大勝利の中で、そのような小さき事は取るに足らぬ』と一笑に付して石田を赦した。それだけでなく、有能な者を喪うわけにはいかぬ、今後も豊臣のために力を尽くせと命じたのだ。石田は涙を流して歓喜し、いつか必ずこの恥を雪ぎ恩を返すことを誓った。
 石田が命拾いしたのは、そういった清廉で実直な性格が常日頃から秀吉に評価されていたからというのもある。しかし、何よりも伊達政宗が先に石垣山で太閤に赦されていたことが大きい。惣無事令の違反ならびに小田原への遅参という大罪をもって謁見した伊達を赦してしまった手前、それよりはるかに小さな石田の失策を咎めることなど今更できなかったのだ。

 「真田どのには大きな恩を感じておる」
 父や兄が歓談の席に加わる姿を宴席の隅で眺めていた源次郎に話しかけて来たのは義父の大谷刑部吉継であった。盟友の石田がすっかり恐縮してしまっていたため、あえて歓談の輪に加わることもなく離れたところで雰囲気だけを味わっていたようだが、源次郎が自分と同じように一人でいるのを見て来たのだと打ち明けた。
 「そのような……私は何も」
 秀吉が聚楽第に暮らしてから源次郎は事実上大坂城内の事務方を務めていたのだが、いかんせん広すぎる城内、多忙な大谷とまともに顔を合わせる機会はほとんどないまま来てしまった。
 「我が娘は病弱ゆえ、儂はずっとあれの行く末を案じておったのだ。仏門に入れるは容易いが、自らの肩の荷を下ろしたい親の勝手な思惑だけで娘の人生を決めてしまうのはどうかと躊躇したまま時間ばかりが流れ……だから殿下より内々に縁談が持ちかけられた際も、一度はあれに翻意を促したのだ。子をなせぬ体では三年で追い返されるのが目に見えていると。だが、あれは真田どのに嫁ぐと言い張った。その意思に負けて送り出したのだが……小田原を包囲していた際の宴席での幸せそうな顔を見て、本当に安堵した」
 「さちの身の上は聞いております。ですが大谷どの、それがしはさちを三年であなたの許へ戻すような真似はいたしませぬ。さちは、それがしにも真田の家にも良く尽くしてくださり、最早それがしにとって無くてはならない存在でございます。子は授からずとも、それがしのもとで生涯を幸せに暮らせるよう守って参りますゆえ、どうか安心くだされ」
 「さち……そうか、その名で呼んでくれるか。どうかお頼み申しますぞ」
 「任せておいてくだされ、義父上」
 大谷は、窪んだ目頭にそっと袖をあてがった。秀吉の右腕として実務だけでなく軍略にも長けた将も、やはり人の親である。温かい父の許で愛情をたくさん注がれて育ったからこそ、さちのように聡明で心豊かな女性が育つのだと信繁は実感した。そして、さちがこの世に生まれてくれたからこそ、自分は女の身でありながら武士としていられるのだと。
 「源次郎、ここにいたか。……おお、これは大谷どの」
 話の輪から抜けて現れたのは父の昌幸であった。昌幸はまず大谷に一礼する。大谷も同じように礼を返した。
 「娘が世話になっておるゆえ、挨拶をしていたのでござる。源次郎どのには良くしていただいているようで、感謝してもしきれませぬぞ」
 「いやいや、安岐どのは実に良く出来た姫で、拙者の奥とも仲良くやっておりまする。この未熟な倅には勿体ないくらいでございますぞ。……ところで源次郎。おまえに引き合わせたい国主がおるのだが」
 「それがしに?」
 大谷をちらりと見ると、大谷は目を細めて頷いた。
 「武士にとって人脈は宝だ。存分に築いてくるが良かろう」
 「かたじけのうございます。では、御免」
 昌幸と源次郎は大谷に丁寧な礼をすると宴の輪をかいくぐって玉砂利を踏みしめた。途中で人垣の隙間から金屏風の方を見れば、上機嫌の秀吉の隣には茶々と竜子姫が相変わらず睨み合いながら侍っている。

 その様を背に、桜の木が立ち並ぶ庭の隅に置かれた毛氈の上でひっそりと杯を煽っている小集団の前に出た昌幸は源次郎の背中を押した。まずこちらを振り返った従者の顔を見て、源次郎は「あっ」と声を上げてしまいそうになったが、従者に目配せされて口をつぐんだ。
 片倉小十郎であった。
 「越前守どの、倅を連れてまいりましたぞ」
 「おう、安房守どの」
 政宗は見事なまでに源次郎を無視して父に軽く杯を掲げた。まず筋を通してから子に話を移す、という順序をきちんと踏んでいるのだ。父はそのまま注しつ注されつの輪に加わる。
 「そちらの若子がご子息にござりまするか」
 「いかにも。次男の源次郎信繁でござる」
 「ほう、そなたが源次郎どのか。お会いするのは初めてでござるが、先の九州討伐において島津と渡り合った武功は遠く奥州にも届いておりまするぞ」
 「……」
 「安房守どのから同い年と聞かされて興味を持ったゆえ、引き合わせていただいた。若輩者同士、これからよろしく頼みまするぞ。拙者も近々上洛するゆえ、今後もよき友でありとうござる」
 白々しい、と軽く睨みつけても、政宗にはどこ吹く風で陽気に酒をあおる。見事な役者ぶりであった。
 「ささ、源次郎どのもどうぞ」
 片倉が出された杯を受け取り、政宗が向けた片口から酌を受ける。あくまで儀礼だと自分に言い聞かせながら、源次郎も同じ仕草を政宗に返した。
 「これにて我らは盟友でござるな」
 「……ああ」
 口惜しいが、華やかな男だ。
 考えれば、政宗と昼の光の下で向き合うのは初めてである。月の似合う男だと思っていたが、容貌はけっして陽の光にも負けていない。
夜の羽織も上物であったが、藍の着物に銀鼠色の裃という地味な色合いでありながら見事な地模様が編み込まれた上に金糸で織り込まれた家紋が入っている隆とした着物をまとっている。秀吉の手前、遠慮してこの出で立ちであるのなら、日頃はどれだけ豪勢な装いをしているのだろうかと感心してしまう。だが源次郎が政宗を華やかだと思ったのは、着ているもののせいだけではないではないような気がした。
 「……どうした、俺に見とれたか?」
 酒を注ぐ際、一瞬だけ政宗が源次郎に近づいて小声で囁いた。先日の狼藉が思い出された源次郎は反射的にふいと横を向く。負けてばかりの相手に、さらに従順ではありたくない。
 「まさか。拙者は男でござる」
 「ははは、そうだったな……なら、『男』同士ここは仲良く酌み交わそうじゃないか」
 「望むところだ」
 その日、源次郎は初めて悪酔いというものを経験した。和気藹々と語れる気分にもなれないまま政宗と張り合って黙々と呑んでいるうちに深酒をしてしまい、ついに気分が悪くなって片倉に背中を支えられながら兄の元へ送り届けられた所までは覚えている。しかし、そこからどうやって床までたどり着いたのかは覚えていない。
 次に目を開けた時、源次郎が見たのは政宗ではなく見慣れた館の天井だった。政宗に無様な姿を見せてしまったのではないかと不安になったが、がんがんと頭の中を打ち付ける音に負けてふたたび眠りに落ちていく。
 さちをして『無限を見ている』と言わしめた政宗の左目が、そしてすらりとした佇まいが、敦盛の唄を背景に夢の中で何度も現れては消えていった。
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