第11話 薩摩の釣野伏

文字数 20,307文字

天正十五年 -九州遠征-

 天正十五年。
 年が明けて間もなく京都に真田家の屋敷が完成し、両親が上田から上洛した。秀吉の命で伏見の宇治川沿いに新たな城を普請し、さらに宇治川沿いにわずか西へ行った場所にある淀城の改築工事を命じられた昌幸はこの地で暮らすことになる。
 母の身の回りを世話する侍女の一人として楓が同行し、佐助達も日頃は真田屋敷の下働きという名目で暮らしつつ上田に残った源三郎や国衆との連絡役をこなしているが、昌幸の命で京や大坂の内情を探るために出浦は一人で畿内を回っているようであった。
 「これほど広大な城を普請するのは初めてだ。しかも金子も技術も上田とは比べものにならぬくらい豊富に集まっておる。これは腕が鳴るわい」
 真新しい居間で図面を広げた昌幸は、久方ぶりに興奮している。しかし石落としのための余裕や鉄砲狭間がないと指摘を始めて、源次郎は不安になった。
 「……父上、殿下は華やかなものを好まれます。上田城のような実用本位の城ではお喜びいただけませんよ?」
 「戦えぬ城など城ではないわ。大坂の城も見せてもらったが、まったく無防備にもほどがある。わしが手入れしたいくらいだ」
 「これからの世、城は守るためではなく民に権勢を示すために在るべきだと殿下はお考えです。どうかお忘れなきよう」
 「殿は大名となったのですから、これからは公家とおつきあいする機会もございましょう。さすれば雅も求められます。知将としての殿の名声に雅を加える良い機会とお考えになってはいかがですの?」
 「母上のおっしゃる通りです。時勢に乗るのは父上の得意とするところではございませぬか」
 「うむ、まあ、そうではあるが……そこまで言うなら頑張ってみるか」
 四十を過ぎてから己の価値観をひっくり返すのは、なかなか大変なものである。しかし、そこで新たな流れを吸収できなければ時代にとり残されてしまう。京都や大坂の景色を見て時代の変化を感じ取っていた昌幸も、とりあえずは新たな流れとそれに乗る機を見極める気になったようであった。
 「二条御所の隣にも関白殿下のお住まいが完成間近と聞きました。殿下がこちらにお移りあそばされれば、源次郎も京都住まいとなるのでしょうか」
 山手はまた親子で暮らせる日を心待ちにしている様子である。実際、源次郎も秀吉が京都住まいとなった日には真田屋敷から通うつもりであった。馬廻衆としての不規則な勤務は相変わらずだが、城の宿直舎で周囲の武士に女とばれないよう気を遣いながらの生活にも限界がある。
 しかし、親子といえども職を持てばそう簡単には一緒に暮らせなくなるのが宮仕えの宿命というべきだろうか。


 「殿下が九州へ出陣なさる。源次郎も出陣の支度をせよ」

 大坂城で勤めに励んでいた源次郎の前に現れた石田三成は、開口一番そう告げた。
 「九州……いよいよ直々にご出陣でございますか」
 天下統一の仕上げにかかっている秀吉は、前年から九州を支配下に収めるべく黒田官兵衛に命じて動き始めていた。
 九州は、本州と海峡ひとつ隔てた広大な島である。日ノ本に属しながらも中央の争いとは別に覇権争いが繰り広げられていた土地は、秀吉が畿内を平定している間に北九州のキリシタン大名・大友宗麟と南は薩摩を本拠とする島津義久の二大勢力が睨みあう構図となっていた。
 そんな中、中国地方を治める毛利の庇護下で名目上でだけ細々と生きながらえていた室町幕府の征夷大将軍・足利義昭は突如として島津に『九州守』の官位を授けた。
 その背景には、毛利元就の代から自然神としての日輪と一向宗を信仰しキリシタンを異質なものと受け入れなかった毛利家の存在があった。恩を売っている形の将軍に進言して島津を服従させ、毛利と島津で大友を牽制するのが目的である。勢力争いに宗教が絡むと紛争がみるみる拗れていくのはいつの時代も同じなのだろう。
 ともあれ将軍の命令を勅命として受けて勢いづいた島津は九州を統一するべく北上を開始し、二年のうちに筑前の一部と大友領を除いた九州のほとんどを制圧するに至っていた。大友に残された領土は伊予灘に面した豊後府内のごく狭い土地のみ。周囲を島津領となった険しい山にぐるりと囲まれ、背後は海。身動きが取れなくなった大友宗麟はついに秀吉の傘下に降るかわりに救済を求めたのだった。それが天正十三年のことである。
 秀吉は、関白の名のもとに大友と島津の両者の間に立って調停を促した。
 まずは九州においての私闘を禁じる「九州停戦令」を関白の名のもとに発令する。大友はすぐに応じたが、島津側から停戦に応じる使者が大坂に到着したのがひと月以上も後のこと。しかも『薩摩はかつて織田信長が出した停戦命令に従って停戦していたが、大友が先に約を違えたため交戦に至った』という申し開きの文まで携えていたのだ。これは大友も同じ主張を展開しており、もはやどちらが先に手を出したか出さないかという子供の喧嘩と変わらない状態であった。
 そこで、次に豊臣方は喧嘩両成敗として島津が大友から奪った九州の領地のほとんどを大友に返還するようにと促した。しかし島津はそれも拒絶した。
 「島津が戦ば進めておれるのは、高千穂におわす天照大神の意思じゃけん。神が進めと申しておるうちは、その手ば止めることなぞ出来んばい」
 秀吉が敬愛する竹中半兵衛とともに『二兵衛』として知られ、半兵衛と兵法について議論を交わす親友でもあった知将・黒田官兵衛が停戦令の執行および調停役としての任を受けて交渉に赴いた九州南端、常に煙を上げる巨大な桜島を海の向こうに見渡す島津の本城・内城において。公家よろしく御座所に腰を下ろした島津義久は、こうして対話をするのも鬱陶しいという態度を露わにして御簾ごしに言い放った。
 「神意ですと?」
 「おう、神じゃ。太閤を任ずる朝廷が崇めたてまつる神じゃ」
 「!」
 日頃は冷静な黒田も、この発言にはさすがに気色ばむ。だが島津はまるで意に介していない。
 「オイは朝廷から正式に任ぜられた征夷大将軍から九州統一ば任せられちょるけん。天子の次に偉いお方の命令に従っとる、それを神意と言わずして何とすっとね」
 将軍をさしおいて朝廷を牛耳る豊臣を意識した発言に凍りついた空気の中、島津義久はさらに言い放った。
 「おはん(おまえ)の主に伝えよ。島津はあくまで天皇と将軍を日ノ本の頂点とみなす。関白の命令など聞く耳持たんばい」
 「島津どの!それは関白殿下への宣戦布告と同義ですぞ。大坂から西の大名はすでに豊臣に服従しております故、戦となれば島津どのに勝ち目はありませぬ。ここは殿下の意に従い、平穏に事を進めるべきではないかと」
 「薩摩の意地は誇りと同類よ。島津は源氏の頃からの名門じゃけん、どこの馬の骨ともつかん奴に指図される筋合いなどありゃせんと。世渡りも綱渡りも上手い猿なら猿らしく、そこらの山のてっぺんで躍っておればよいものを」
 さすがの黒田官兵衛もこの言いっぷりには慄き、大坂へ取って返すと島津の発言をありのまま報告するしかなかった。とりなすための脚色や注釈も出来ないほど、島津の意思と秀吉への嫌悪は強かったのだ。
 あくまで秀吉を天下人と認めない島津の発言に激昂した秀吉は、すぐさま大友の先導で四国から九州に六千の兵を送り込んだのだった。大友の配下で、後に『東の本多・西の立花』と呼ばれた猛将立花宗茂も、このとき豊臣の家臣として島津討伐の先鋒となっている。
 しかし島津の抵抗は、さすが豊臣に楯突くだけのことはあった。地の利も島津に有利である。
 半年にもわたる戦いで島津は半年で豊臣六千の戦力のうち二千を削り、さらに戸次川の渡河を強行した仙石秀久の軍が川を渡りきったところで伏兵を急襲させて大損害を与えた。
 四国から水軍を率いて上陸した長曾我部元親の嫡男・信親など豊臣が頼みとしている武将も戦死し、年内には屈服させられるだろうという秀吉の目論みは見事に外れたのである。島津軍はさほど南下しないまま大友領のすぐ南、日向や豊後に陣を構えて越年する構えを見せた。決して屈しないという
意思表示である。
 屈しないだけの意思と、それに見合う力を見せつけられた秀吉はいよいよ本気になり、九州平定は越年となる気配が濃厚となった秋の終わりから、秀吉は摂津尼崎に物資や馬、兵を集めにかかっていた。

 そして天正十五年、秀吉は正月の宴で大坂に集まった武将にその場で命を下し、その月のうちに軍を送り込んだ。さらに弥生の頃には自らも先頭に立って九州に上陸した。総勢二十万もの大軍である。
 豊臣軍は秀吉の弟豊臣秀長が総大将を務め、甥の秀勝に毛利吉成や福島正則、前田利家の嫡男利長などが続く錚々たる顔ぶれだった。石田三成や大谷吉継も兵糧奉行として従軍している。源次郎も与えられた兵数百とともに前田利長率いる十番隊の末席に加わり、佐助ら忍連中は既に内密に九州へ入っていた。
 留守となる間の畿内には前田利家を置き、徳川や北条を牽制することも忘れない。
 後光を模したようにも見える黄金の『一ノ谷馬蘭後立』の兜を身に着けた秀吉を先頭にした大軍は織田信雄や勅使(天皇の使者)らが見送りに立つ中で悠々と大坂を出て山陽を西進し、九州の目と鼻の先にある赤間関(下関)にて秀吉の本隊と総大将の秀長の軍とに分かれた。秀長隊は既に毛利輝元らが戦を進めている東の日向地方を後詰する形で南下、秀吉の本隊は筑前や豊後から島津の城を落としつつ九州の西を縦走、最終的には島津の本拠である薩摩にて合流する算段である。
 この時、島津義久、義弘兄弟はいったん豊後から撤退して戦力を日向から薩摩にかけて集結させていた。各地に有力武将と兵を配置しておくことは忘れていないが、広大な九州の地をどう攻めてくるか分からない圧倒的な兵力を前に個別の戦をしていてはいたずらに消耗するだけである。むしろ守りを固めながら豊臣軍をじわじわと消耗させ、最終的に東か西のどちらを決戦の地に選ぶかを見極めたいという義久の考えである。日向灘や四国沖の外海から長曾我部や毛利といった有力水軍を使っての上陸にも警戒しなければならない。
 しかし、島津の予想は最初から覆されたのだった。秀吉のことを成り上がり者と蔑んだ結果、その軍事力を甘く見ていたのである。
 秀吉は船で小倉に到着するとそのまま一気に四里ほど離れた周防灘沿いの豊前まで進軍し、上陸からわずか三日後にはさらにそこから八里ほど内陸に入った山間部にある島津方の秋月家が守備する筑前古処山(こしょさん)城と岩石(がんじゃく)城を同時攻撃にかかった。岩石城は力押しでわずか一日で落城した。
 「このくらい、信長公の仇討の頃を思えば何でもないわい」
 秀吉は平然と言い放つ。
 もう一つの古処山城を攻めるにあたっても、その容貌と機転から信長に『猿』と言わしめた秀吉の頭脳は衰えていなかった。山間の要塞であった岩石城と違い、古処山の周囲にはいくつかの集落が点在している。秀吉はまず夜を待ち、集落に暮らす住人をすべて駆り出した。そして彼らに松明を一本ずつ持たせたのである。
 ただでさえ周囲の変化に敏感になる夜の闇の向こうで。山の頂にある城の本丸をぐるりと取り囲む炎は城の者を恐怖に突き落とした、秋月も眠れぬ夜を過ごしたと思われる。
 しかしそれだけではない。
夜が明けてみると、驚くべきことに古処山城に守りを集中させるべく放棄しておいたぼろぼろの益富城が、一夜にして白壁も眩しい城へと改修されていたのだ。豊臣の軍勢の迫力とその実行力に、九州の一豪族であった秋月は震撼し戦意を大きく削がれたのだった。
 実のところ、これはまだ若かりし頃の秀吉が墨俣に『はりぼて』の一夜城を築いた頃の応用である。秋月が放棄した半廃城の表面、古処山城から見える方角の壁すべてに奉書紙を貼らせ、遠目にはいかにも一夜で改修を終えたかのように見せかけたのだ。
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。秀吉は半兵衛が遺した教えの上に少しの「はったり」を加えて成り上がってきた男である。常識や王道に囚われていた武士の頭に、農民上がりの悪戯心が勝ったのだ。翌日のうちに古処山城は開城し、守っていた秋月種実は子とともに剃髪して秀吉に降伏した。
 九州の入口、筑前の守護だった秋月があっさり降伏したことで、九州西部を守っていた武将は積み上げた将棋の駒が崩れるように戦意を喪失して次々と豊臣に降っていた。筑後、豊後、備前、そして島原。それでも勇気を振り絞って交戦の構えを見せた武将もいたが、みな圧倒的な数の豊臣軍の前にあえなく敗れ去った。威圧するようにずんずんと進む豊臣隊の前にした武将には、島津側の説得工作も無意味であった。
 行く先々の武将が次から次へと道を譲る中、秀吉は西方の安泰を確かめるように備後熊本、八代を目指したが、前田の隊は西の勝利を確信した秀吉の命ですぐさま阿蘇山の麓を東の日向国へと進み、日向灘沿いを南下して秀長の援護に回った。源次郎の隊も一緒である。
 秀長率いる日向攻略軍は、足がかりとなる日向松尾城を四日で攻め落としてそのまま南下、山田有信が守る高城城を攻略していた。山田は島津の中でも有数の猛将で粘り強く抵抗した。秀長は高城を包囲し、兵糧攻めの作戦を取った。長期戦を睨んで、高城城へ至る街道を塞ぐ形で『根白坂砦』を建造している。
高城城を見渡せる砦で敵方の開城を待つ間に、前田隊は高城城の包囲に加わった。
 「城を一つ落とすたびに殿下は本願寺の僧をはじめとした講和の使者を島津に送っているようだが、島津の意思は変わらないそうだ。まっこと残念なり」
 春の嵐になりそうな暴風雨の夜。分隊ごとに設けられた天幕の中央で、前田利長は采配を手にしきりとため息をついていた。父の利家が若い頃、あの信長ですら眉をひそめる程の行き過ぎた粗暴ぶりから放逐され、一兵卒から地道に武功を立てて再仕官が叶うまでの苦労をつぶさに見ているゆえ何事も穏便に済ますのが一番だという考えが身に着いてしまっている彼には、島津の反骨精神がどうしても理解できなかったのだ。
 「今の世、意地だけで戦はできぬ。島津は勇敢で薩摩の民の信頼も篤いといわれるだけに、ここで滅ぼされずに日ノ本の力となってくれれば心強いのだが」
 意地が力の前に敗れ去る様は、源次郎には武田の滅亡を思い起こさせた。すでに九州の西はあの頃の武田と同じように鱗を剥がされた状態となっている。しかし大局を知らない一般兵は今もなお島津を信じて戦っているのだ。このまま島津が征伐されれば、彼らもかつての源次郎のように絶望することだろう。そう考えると胸が潰れる思いである。
 攻勢でありながら重苦しい空気が流れる十番隊の中、次の進軍予定地である南の都於郡(とのこおり)城に出ていた斥候が戻って来た。島津一族が居る筈の城である。
 「都於郡では出陣の準備が進められているようです。島津義久・家久の姿はありましたが、島津義弘はおりませぬ。義弘の隊もそっくり消えておりました」
 「何と!いつの間に」
 「こちらへ進軍しているのであれば、我ら斥候隊にも動きが見えましょう。しかし都於郡から根白坂までの道のりのどこにも進軍する兵はおりません」
 「では、まさか八代へ向かう太閤のもとへ」
 島津の領土内であれば、都於郡からまっすぐ西へ向かって霧島山の北から八代へ出る道がある。高城へ移動していないとなれば、島津義弘はそちらの道を選んだ可能性があった。
 島津兄弟の次男・義弘は、一族きっての武闘派で剣豪としても知られる戦国屈指の猛者であった。先の九州内での争いにおいては、大友領をほぼ一人で切り取ったとまで言われている。秀吉の九州征伐が長引いたのも、義弘の奮戦によるところが大きかった。
 利長は腰を上げた。いかな秀吉といえど、これまで先鋒が散々苦しめられてきた島津の急襲を受ければ打撃は避けられない。
 「すぐ八代へ向かうよう秀長さまに進言する。殿下をお護りせねば」
 島津領を通って八代へ至る道は、安全な分いくらか大回りになる。一方、こちらは根白坂砦から国見連山の合間を抜けてまっすぐ西を目指せば充分彼らの到着に間に合う。上手くすれば道中で迎え撃つことも可能だった。
 重苦しい休息の時から一変、慌ただしく出陣の用意が命じられた十番隊の兵はみな一斉に腰を上げて兵や馬の調達に走り出した。源次郎もその命令に従うべく朱槍を取る。だがその時。
 「源次郎さま」
 闇の向こう、風に木々の葉が揺れるざわめきの中から佐助の声がした。堀の淵に茂る木の上からである。
 「佐助?」
 源次郎は利長に一礼するとその場を外して駆け寄る。全身ずぶ濡れの佐助は木から飛び降りると、短い髪の先からしたたる雫が目や口に入るのにも構わず報告した。
 「島津義弘は都於郡の兵に先駆けてひそかに出立しました。奴らは小隊に分かれながら西進して都於郡城の北にある掃部岳に入り、嵐に紛れながら今度は森の奥を北へ移動してます」
 「北?西ではないのか」
 「いえ、北です。あえて我らの目につきにくい山道を選び、掃部岳の北にある三財川を渡りました。八代へ向かうのなら、そのまま川沿いを西へ進んで国境の尾股峠を目指す筈ですが、仲間の報告では川をいったん下る道を選んだとか。現在は掃部岳の中腹を尾鈴山方面へ進んでいる模様です。地の利以上に彼らの機動力は目を見張りますゆえ、注意が必要です」
 「なるほど、山中から沢を伝って一気に高城城の援護に入る算段か。さらに考えるなら、南から出陣してくる隊はこちらの注意を引きつける遊撃隊の可能性もあるな」
 「それと……」
 東九州を攻略している部隊の末席に、見覚えある武士が居たことを佐助は報告した。かつて前田慶次と上杉景勝が挟み撃ちにして越中から追い出した佐々成政だというのだ。
 「この戦を率いる利長さまは佐々の顔をご存じなくとも無理はないな」
 「前田さまを陥れる偽の報告をさせた可能性もございます」
 「私怨のために味方を危険に晒すつもりか。太閤殿下の戦を汚す行い、捨て置けないな」
 しかし、まだ自分の推測に確信は持てない。源次郎は前田利長に「私の兵が見かけたという話ですが」と事の次第を報告し、仔細が分かり次第利長に報告できるように兵のうち精鋭の十数名だけを連れて斥候役に出る許可を貰った。残りは万が一のための戦力として一旦利長に預けて。
 利長は豊臣秀長につき従って八代へ進軍することになっていたが、軍議の結果それは予定どおり行われることとなった。砦の守備に兵の半数を残しておく算段である。
 そして源次郎は利長隊とともに出立した後こっそり離脱し、佐助の証言どおりに根白坂砦を北上すると山間の渓谷へ入った。馬は目立つので途中の集落に預けて来ている。ここで待っていれば、遠からず島津の軍と遭遇するだろう。佐助と穴山小助が源次郎の側につき、残りの者は山中へ偵察に向かった。
 山を削って流れる川は、長い年月を経て周囲との空間に白壁の崖を築いている。人の侵入をほとんど許さない険しさは、日の本草創期に太古の神々がこの日向一帯に暮らしたという神話と関係があるのかもしれないと思わずにはいられなかった。
 もっとも、今の川は嵐で荒れ狂う流れに姿を変えつつある。
 「佐助、本当にこの場所に島津が潜んでいると思うか」
 川沿いで唯一人が川へ降りられそうな、崖の低い場所近くに身を伏せて。源次郎は小声で佐助に訊ねた。
 「源次郎さまには見えないかもしれないですが、この佐助には分かります。気配を隠し、山に紛れてじわじわと人の気配が動いている。林が動くように、です」
 「徐かなること林の如く、か……」
 武田の進軍と似ているのだろうか、と源次郎は思いを馳せた。もう少し早く…せめて父の世代に生まれて加わってみたかった戦いである。
 「私もいつか信玄公のような強者になれるだろうか」
 「源次郎さまなら、きっとなれると思いますよ。我らはみな源次郎さまに感服しております。いずれ、もっと多くの者もそうなるかと……っ!」
 佐助が突然正面の藪に向かって苦無と彼らが呼んでいる短剣を投げつけた。藪のやわらかい蔓草の群れを突き抜けた先で、鉄がカキンと音をたてて弾かれる。同時に藪を切り裂いて現れた人影が一足跳びで源次郎へ斬りかかる。
 「ちゃぁっ!」
 「!!」
 源次郎は咄嗟に被っていた編み笠を顎から引きちぎって投げる。スパッという音とともに風が笠を横切り、その奥から刀を手にした武士の顔が現れた。源次郎はそのわずかな時間に蓑を外し、刀を抜いて構える。
 しかし敵は一人ではなかった。正面の相手に気を取られている間に、左右から伏兵が飛び出して来て三角の陣形を取って源次郎の左右後方を奪った。
 「これぞ島津の釣り野伏よ。山ん中の戦ば、ワシらに分があるとね」
 「島津……」
 佐助が素早く指笛を鳴らす。森を伝わる特有の音色は、すぐさま仲間に伝わるだろう。
 あとは源次郎がこの場をどう切り抜けるかである。
 「さあて、どう出るね?」
 源次郎の正面に立った初老の武士は彫りの深い大きな眼でこちらを睨んでいる。
 見た目はまったく異なるが、居るだけで周囲を威圧するその雰囲気はまるで在りし日の武田信玄のようだと源次郎は思った。白髪の老兵は年齢を感じさせない姿勢の良さでその場に佇んでいる。鍛え抜かれてがっしりとした身体は鎧を纏うことでさらに大きく見え、深く刻まれた皺の奥にある目は闇の中で獲物を狙って光る動物のような目だった。そして、『丸に十文字』の紋を掲げた兜の前立て。
 島津義弘だ。初対面だったが、そう直感した。義久でも家久でもない。義弘は島津の三将の中でもっとも勇猛であり、その戦う様はしばしば鬼に例えられると聞いていたが、目の前の武将はまさしく鬼のような体格であり形相だった。
 目の前の鬼は自分の正体を見破られて名乗る手間が省けたと思っているのか、源次郎の籠手にあしらわれた六文銭に視線を向けた。
 「ほう。三途の川の渡し賃持参で来るとは、よか覚悟じゃ」
 「六文銭は戦に赴く我が家の覚悟の証。なれど、このような場所で使うつもりはござらん」
 「ハハハ。このワシを前にしてそげな大口を叩けるとは、たいした度胸じゃ」
 その時、佐助が猿のように身軽な身のこなしで木々を伝って後方の敵の背後を取った。
 「源次郎さま」
 「ああ」
 佐助は忍びならではの素早さで後方二名に鎖鎌を投げつけた。吐いた糸を自在に操る蜘蛛のように空を舞った鎖は二人の刀を絡め取って動きを封じる。
 その間に源次郎は真正面に向かって地面を蹴った。朱槍の穂先をまっすぐ義弘に向けて。
 「おお、なかなか速かとね」
 ガチン。源次郎の槍は義弘の剣に弾かれた。力をこめた一撃をいなされたが、そこで前のめりに転んでしまえば相手に背を見せてしまう。そうならないよう源次郎は左足を横に伸ばして堪えた。
 「よか動きじゃ」
 義弘は源次郎が一刀に臥されなかったことを愉しむような声をあげた。反対に、源次郎はこの局面をどう乗り越えようかを必死に考える。
 「はっ!」
 分がない戦いから主を守るため、佐助は煙玉を地面に投げつけた。その隙に姿を消そうとしたのだ。
 しかし、佐助に手を引かれた源次郎の目の前に突如として刀が迫る。
 「!!」
 「目眩ましなどただの児戯、ワシには通用せんと」
 「ちっ」
 佐助が短刀で剣を振り払おうとするが、力が圧倒的に違った。真剣の重さに勢いを加えて力に変えた敵の剣に対し、忍びの剣は速さだけを求めている。佐助は逆に弾き飛ばされ、雨に濡れた地面を滑ってそのまま崖下へと姿を消した。
 「佐助!」
 「甘か!」
 二刀目が源次郎に迫る。闇を切り裂く、という形容を初めて目の当たりにした思いだった。しかし斬られるわけにはいかない。
 (お館様!)
 かつて信玄に打ち負かされた時に感じたものと同じ種類の恐怖が、今は源次郎の力となった。生命の瀬戸際に立たされても従容としてそれを受け入れず、全力で抗うのだ。
 源次郎は槍を両手正面で構えると、長い柄で義弘の剣を受けた。右、左、そして右と、島津独特の剣技が雨のように降り注ぐ。山道の濡れた土で足が滑り、踏ん張った体勢のまま源次郎は後方へ押された。細い槍の柄が義弘の力に圧倒されてびりびりと痺れる。しかし信玄から賜った槍がそう容易く折れることはないと信じて、源次郎は腕にありったけの力をこめた。そして力が拮抗している箇所から少しずつ槍を滑らせると、一気に義弘の剣をひっくり返す。
 「おっ」
 現代で言うなら梃(てこ)の原理の応用であった。刀の長さを利用して、振り切られるぎりぎりのところまで支点を手前に引っ張れば、相手より少ない力でも弾くことのできる地点が見つかる。源次郎が武田の許で修行していた頃、早くからこのことに気付いて身に着けていたのだ。
 「おまはん、なかなかやりよるのう」
 後方へよろめいた義弘はかろうじて転倒を逃れると、素早く次の打ち込みに入ろうとする。だがその時にはもう源次郎は森の中へ駆けだしていた。
 「島津どの!勝負はいったん預けまする」
 無論、佐助を助けるためである。刀を取られた兵が源次郎を追いかけようとするのを義弘は止めた。
 「追わんでヨカ。いずれまた見える者よ……それより先を急ぐど」
 「はっ」
 家臣が刀から鎖を外している間、義弘は腕組みをしながら源次郎が消えた森の奥をじっと見据えていた。
 「追い詰められとったとはいえ、このオイの剣を弾くとは。あのもんが神々住まうこの山々を抜けられた日には、ぜひ指しで交えてみたいものじゃ」


 その翌日の夕刻。島津義久・家久の軍は慌ただしく都於郡城から出陣するとその夜のうちに根白坂砦を急襲した。のちに『根白坂の戦い』と呼ばれる激戦である。
 砦の守備隊は堀や塀を用いて応戦し、戦いは激しいものとなった。砦を守る豊臣軍、手勢が分かれたとはいえ数万のもとへ三万五千の薩摩兵が突撃したのである。島津にしてみれば、ここで豊臣を叩いて兵力を削ろうという大勝負であった。それゆえ兵の士気も高い。普段は静かな農地を煙や血の匂い、刀の音が駆け抜け、砦の堀は血に染まって川へと流れていく。
 彼らがそちらで戦っている間に、山間を進軍していた島津義弘の隊は高城城の北へ集結した。しかし、そこには前田利長の軍がすでに防衛線を築いていた。源次郎の言葉を信じた利長は、秀長の隊から分かれてこの地に伏せていたのだ。
高城城を包囲する軍を、さらに包囲する島津軍。それを阻む前田利長隊。両者は激しくぶつかり合い、戦いは乱戦の形相をみせた。 
 夜の闇にまぎれての戦い、地の利もある島津義弘はまさに一騎当千の活躍をみせ、敵将の馬を奪うと軽々と駆って敵陣へと斬りこんだ。それには前田利長も慄くしかなき、彼が通った跡には兵が避けた道が出来たくらいである。功名心にかられた一部の腕自慢が、無残を通り越して見事としか言いようのないほどの斬り口で真っ二つにされている様も見られた。
 北と南で島津の活躍を目の当たりにして、籠城していた高城城の山田有信も味方の到着に気力で応える形で攻撃を開始した。前後からの攻撃により、根白坂砦の豊臣軍は一時混乱に陥った。

 その機を狙ったかのように。
 「大将!根城坂砦が島津の手に落ちました」
 悲鳴にも似た伝令が走る。
 「砦を守備していた佐々成政が寝返った模様」
 「……源次郎が言った通りであったか。佐々め、越中での敗北を余程根に持っていたらしい」
 しかし前田利長は落ち着き払っていた。
 「既に手はずは整っている筈。一日持ちこたえよ」
 利長の言葉どおり、その日のうちに八代に向かっていた豊臣秀長の軍から取って返した藤堂高虎の部隊が前田隊のもとに到着した。山間で島津義弘に遭遇した際、佐助が鳴らした指笛の伝令が間に合ったのだ。そして佐々が寝返った根白坂砦は同じく秀長に従っている四番隊体長・宇喜多秀家率いる兵が背後から包囲した。
 豊臣を挟み撃ちにしたつもりの島津が、ふたたび豊臣に挟まれる形となったのである。今度は島津が混乱に陥り、武闘派の藤堂や宇喜多の奮戦によって島津忠隣や猿渡信光など残り少なくなった有力武将を次々と失った。佐々は混戦の中でいち早く逃亡している。
 挟み撃ちに挟み撃ちで応じる。碁盤のように目まぐるしく変わる戦況では、数で劣る島津軍にもはや勝機はない。義久、家久はついに撤退命令を下し、戦いは豊臣の勝利に終わったのであった。
 根白坂攻略の失敗を知った島津義弘も、すぐさま退却命令を下した。高城城を強固に守り抜いた山田有信は、主の援護に恩義を感じて最期まで徹底抗戦の構えを見せていたが、これ以上有力な武将を失う訳にはいかない島津義久の説得により、ついに高城城を豊臣に明け渡すことになる。
 源次郎の斥候が功を奏した豊臣は、辛くも勝利を拾ったのであった。


 根白坂にて、前田に対する意趣返しに挑んだ佐々成政であるが。
「根白坂での寝返りは策であった。敵を欺くにはまず味方からと一芝居打ったが、調略した筈の島津の将に裏切られた」と言い訳しながら豊臣方に逃げ帰ったものの、戦後は中央に戻されることなく肥前国に置かれた。
 しかし、その年のうちに肥前で起こった一揆を制圧できなかったという理由で翌年切腹させられている。
早く中央へ戻りたいと功績を焦るあまり中央の指示を無視して強引な年貢の取り立てを推し進めた因果だとされているが、石田三成が肥前まで赴き、わざわざ民の前で「他国の主はここまで非道な取り立てはせぬ。まごうことなき悪政なり」と佐々を非難したことが一揆のきっかけになったという噂もまことしやかに囁かれている。
織田の後継をめぐって秀吉と対立した柴田方に居った者はかく為りえるぞ、という秀吉の見せしめであったのではないかという恐怖が大名たちの間に根強く残ることとなった。


 一方、源次郎は。
 佐助を捜すうちに方向感覚を失った状態で、たった一人森の中を彷徨っていた。濁流の川を流されたのなら下流へ向かえばいずれ平地に出る、そう考えて下流を目指したのだが、険しい自然が邪魔をして川沿いをまっすぐ進むことはできない。強風で水音を聞きわけることもできず、道を逸れるたびに川の存在を探して山道を上ったり下ったりしているうちにとうとう自分も森の中を迷ってしまったのだ。
 島津義弘と遭遇したとき佐助が鳴らした指笛を聴いた連絡役は確実に役目を果たしているはずだから、高城城や根白坂では戦が始まっていてもおかしくない。もしかしたらすでに決着もついているかもしれない。だが源次郎のいる場所からは火縄の音も鬨の声も聞こえて来なかった。佐助を諦めて戦に馳せ参じるのが役目だとは分かっていたが、上田にいた頃から自分に従ってくれた者を切り捨てることがどうしてもできなかった。それ以前に、戻ろうとしても鬱蒼とした森が行く手を阻んで体力を削り、山の頂に出て方角を確かめることもままならなない。
 すでに二晩ほど寝ずに時間だけが過ぎていた。携帯していた兵糧は尽き、疲労で身体から力が抜けていきそうになるのを気力だけで支えている。雨は義弘と一戦交えた翌朝には上がったが、島津の軍がまだこの山に伏せている可能性を考えると狼煙を上げることもできなかった。
 (私は……このまま迷って死ぬのだろうか)
 岩肌から沁み出る湧水を見つけた源次郎はがぶがぶと水を飲みながら思った。上田の山中を気ままに駆けていた頃には感じなかった不安である。
 (いや、死んではならない。私はまだ何も成し遂げていない……将として立つことも、武士としての役割を果たすことも…お館様から教えられたことも)
 折れればそのまま朽ちてしまいそうな心をどうにか振るい立たせ、源次郎はまた歩き出す。
ふと、森の中に生える奇妙な植物の頂点に育った藁の塊のような物体が目に入った。巨大な松かさのようにでこぼことした太い幹の上部に鳥の羽のような形状をした葉が茂っている、上田では見たことのない木であった。藁の塊状の物体の中には真っ赤に熟した実が蓄えられている。
空腹に耐えかねた源次郎は、生命の恵みとばかりにその実を指でつまんで口に入れようとした。
 その時
 「その実ば、食っちゃいかんと」
 いつの間に近づいて来たのか、大きな声が源次郎の手を止めた。
 「蘇鉄(そてつ)地獄は九州の常識じゃ。飢えに耐えかねてその実ば食って命を落としたもんは、大昔から数知れず。侍がそげなもんで死んだとなりゃあ恥じゃけん」
 源次郎の前に立ったのは島津義弘だった。鎧や籠手に真新しい太刀傷を帯び、袷も袴も汗や土埃で真っ黒である。ところどころに返り血を浴びた痕跡も見られた。明らかに戦帰りである。
 「島津……義弘……どの?」
 「おう。こげんな山中で遭うとは奇遇じゃのう」
 なるほど。源次郎は納得すると同時に不覚だったと反省した。それが島津の得意とはいえ、気配を消して近づかれた挙句に背後を取られるのは二回目だ。
 「島津どのはお一人でござるか?」
 「……口惜しいが、島津の野戦術も豊臣の数には敵わんかったね。おまはんとこの家来の報告が速かったのか、高城城周辺にも根白坂にも援軍がやって来たとよ。ワシについて来てくれたもんも、たくさん死んだと」
 「では豊臣の……」
 戦には勝利したのか。源次郎は安堵する。
 「おまはんは、こげな山ん中でずっと迷っとったようじゃのう」
 「面目のうございます。家来を捜すうちに、道を見失いました」
 「家臣のために勝負を投げ出す心根は褒めてやろう。が、武士としてはいかがなものかと思わんでもない。主のために己が身を投げ打ったもんに報いるのは、やはり戦で勝つことではなかとね?」
 「その通りです。しかし、あの者は私が初めて持った家来であり仲間でござりますゆえ」
 「友と家来のけじめもつけられん将が、仲間のために死にかけるか。青いのう、まっこと青い」
 ふふ、と義弘が笑った。嘲笑ではなく共感に近いように解釈できたと思うのは都合がよすぎるだろうか。
 義弘は残り少ない干し飯と干し肉を取り出し、源次郎に半分分け与えた。敵と味方。奇妙な食事である。
 「……まあ良か。兵を死なせた挙句敗けたもんが言う筋合いもなかね。腹がくちたら槍ば取れ」
 「?」
 「撤退ばする前に、おまはんと一手交えてみたかと思って遠回りしていたね。こいでワシの首ばおまはんの手土産になるんなら、それもまた宿命じゃ。が、逆も然り」
 「……」
 主観的にも客観的にも、源次郎に『断る』という選択肢はなかった。逃げられる状況ではなかったし、何より島津義弘は自分と剣を交えるためだけにここまで来たのだ。手合せに応じるのは侍の作法であり礼儀でもある。命を懸けているのならなおさらだった。
 島津義弘の出現で、疲れ切っていた源次郎の身体は持ち主の意思に応えるように残っていた力のすべてを振り絞ってくれた。源次郎は槍を取ると義弘に一礼する。二人はそのまま浜辺の広い場所へ移動して向かい合った。
 「若もんよ、名乗るがよか」
 「……それがし、豊臣軍十番隊が武士、信州上田の真田源次郎信繁と申す」
 「信州とは、また偉う遠いとっから来たもんじゃ。が、手心は加えんぞ。そげな細っこい身体でワシの太刀ばまともに受けたらまっ二つじゃけん。覚悟はよかとね?」
 「何の。拙者の槍は武田信玄公直伝、そう容易く折れはせぬ」
 源次郎がかざした朱槍を見て、島津は顔という盤の上で亥の刻と丑の刻の方向にそれぞれ長く伸びた真っ白な眉の下の目を丸くした。
 「武田っとこの……ほう、そげな豪傑がまだ居ったとね。面白か」
 島津義弘は、手にした刀の先を右肩の上あたりでまっすぐ上に突き立てるように構えてニヤリと笑った。直立不動、右半開の構え。源次郎はこれまで学んだ剣術の基本『上段』とは異なる構えに困惑する。
 「わが藩には『ちゅうい』っちゅう、面白か剣ば使うもんがおってな。ワシも学ばしてもらったとね。上段と中段の良かところを取り入れた構え、どちらにも動けて非常に無駄のない、力を活かすにはうってつけの剣じゃ」
 余談ではあるが、ここで義弘が言う『ちゅうい』とは島津家の家臣・東郷重位(ちゅうい)のことである。彼が薩摩土着の兵法と京都の天真正自顕流を織り交ぜて編み出した独自の剣技を島津は彼の名から『ちゅうい』と呼び、関ヶ原など大きな合戦の中で洗練されながら薩摩藩秘伝の剣術『示現流』へと発展させていくのである。
 相手を伺うため源次郎は槍の穂先を地面すれすれの高さに下げ、右足を一歩後ろに下げた。得物の位置で言うなら下段である。足軽合戦と違い、一対一での勝負の場合の槍は正面から突くよりも下から突き上げる『朔』の方が効率的なのだ。
 「昔ながらの基本に忠実な構えをしよるね。懐かしか」
 義弘は摺り足で間合いを詰めると、一気に刀を振り下ろした。しかし一撃で完全に振り下ろすことはせず、相手の肩口あたりでいったん剣を振り上げては下ろす。鉄の鎧を少しずつ打ち砕くように。
 (まるで雷だ)
 義弘の『ちゅうい』は、脇をかすめるだけでびりびりと痺れるほどの圧力をもって何度も振り下ろされた。槍だけでなく、それを持つ源次郎の腕まで砕かれてしまうのではないかと思うほどに。
 振り下ろされる剣の鼓動を掴んだところで、源次郎が槍を振り上げてみる。穂先はかわされるのも計算の上で、長い槍の勢いを使って柄の部分を義弘の額に打ち込んでみた。長い槍は、振り回すだけで威力が倍増する。穂先で突くことに拘らず、柄の部分を棍棒と同じように使えば戦い方は無限に広がるのだ。
しかし義弘はそれまで半開に構えていた刀を顔の正面で横向きに動かし、左手で刀身を支える体勢で源次郎の槍を受けた。力押しでは分がないと知っている源次郎が素早く槍を引いた次の瞬間には、義弘も右半開の体勢を取っている。今度は中段から胴を突いてみたが、刀を振り下ろす速さが壁となって阻まれた。
「よか動きとね。しかし『ちゅうい』には通用せんど」
 『ちゅうい』を義弘が採用したのは、ただ目新しくて面白いだけではないことが理解できた。攻撃だけでなく守備も自在なのである。源次郎が知る剣術とはまったく異質なものであり、新しい剣技をいち早く自分のものにできる義弘の技量もまた並大抵ではなかった。
 「おまはんのような若者がワシと互角に渡り合うとは、時代も変わったものじゃのう。まさに虎を相手にしているが如く荒ぶるわい」
 義弘は心底楽しそうであった。老兵でありながら息も切れていない。源次郎も必死に食らいついた。
 「信玄公の教えは、この腕と心にしっかり刻みこまれておりますれば……敗ける訳には参りませぬ」
 「『ちゅうい』の本領は袈裟斬りね。右半開から一気に振り下ろし、左半開にて終える。まっこと美しき技じゃ。……『ちゅうい』の技ば受け止めたのは、おまはんで二人目になるのう」
 一人目はワシね、と義弘は歯をむいて笑った。
 「が、見切るだけでは勝てんど。どう捌くね」
 いちど動きが途切れるたびに、源次郎の肩が大きく息をする。斬り結べる力はもうほとんど残されていない。
 こういう時こそすべての感覚を集中させなければ。源次郎は大きく息を吐き、もう一度朔に構えた。義弘が刀を振り下ろす瞬間の動きを見極め、今度は槍の穂先で刀身を軽く弾くとそのまま槍先で細かい螺旋を描いて刀を絡めた。
 「おう」
 義弘は力押しで槍を振りほどこうとする。右腕と朱槍が義弘の力に耐えてくれることを信じて、源次郎は左手を槍から離した。
 「何と、捨て身か」
 刀を絡め取った槍を右手で必死に押さえこみ、自身は膝を折って身体ごと義弘の懐へ飛び込んだ。そして左手の肘を義弘の右肩へ食い込ませ、刀を持つ手が緩んだところで一気に槍を短く持ち直して石突きの部分で義弘の顎を突く。
 「がはっ!」
 大きく仰け反った義弘は後ろによろめき、ついに片方の膝をついた。源次郎はその鼻先に槍の穂先を突き付ける。
 「ふう……参ったでごわす」
 義弘は潔く敗けを認め、頭を下げた後で立ち上がり一礼をした。
「先にワシの剣ば受けた時に感じた才覚は本物じゃったのう。心と技が研ぎ澄まされちょる。おまはん、これからもっと強う武士になるど……さ、傷ば診してみい」
 「!」
 「戦ば終われば、敵も味方も関係なくみな怪我人じゃけん。はよ手当せんと、血が足りなくなって気い失うけん」
 源次郎が袷の袂を少しだけめくって腕を差し出すと、島津はグイッと袖を肩口までたくし上げた。まず湧水で血を洗い流し、「ちっと沁みるでよ」と忠告してから焼酎を口に含んで傷口に吹き付ける。
 「!」
 「こげな傷じゃ命まで取られんと。我慢せい」
薩摩の酒は火のように強い。その独特な匂いの後、傷が焼けるように痛む。源次郎が歯を食いしばって痛みに耐えるのを時折ちらりと見ながらも、島津は容赦なく何度か焼酎で傷口を殺菌してから揉んだ薬草をあてがった。
 「これで良か」
 最後に包帯の上からぽん、と軽く叩いて手当終了である。
 「それにしても細い腕じゃのう。こげな腕でようワシの剣ば受けおったか、はっはっはっ!」
 「恐縮でございます」
 「いやいや、『柔よく剛を制す』との喩えの通りじゃ。大風にしなる竹の如く、ちゃんと力を逃がす術を身に着けておるから出来るもんじゃ。織田どんやワシらのような大柄な兵が腕力で戦ばする時代から、確実に時代は変わっちょる。近頃の将を小柄になっただの政争ばかりに現を抜かして軟弱になりおったなどと言う輩もおるが、志ある者はちゃんと育っておる。しかもワシらより真面目でよう学んでおるのう」
 戦場では鬼となる義弘も、戦が終われば謙虚で礼節のある武士であった。医術の心得もあるらしく、怪我の手当も手慣れたものである。彼が実は医学をはじめさまざまな学問に通じていたということを、源次郎は後に知った。
 「おまはんは、日の本一の兵になるつもりかね」
 「日の本一とは」
 「ずばり、天下じゃ。あの関白猿も、あと十年もすれば鬼籍に入るじゃろう。さすればふたたび世は荒れる。その時どうするね?」
 「……天下は私の分ではございませぬ。ただし、武士としての心根は日ノ本一でありたいと願っております。この命を懸けても良いと思える主を見つけ、その方のために戦う所存でありますれば」
 「なるほど。天下を支えるには強き柱が不可欠、日ノ本一の柱になるか」
 「我が師、信玄公にはそのように教えられました。ですが島津どののように強い方とまみえる度に己の弱さを痛感しております。まだまだ柱はおろか鎹(かすがい)にすらなれませぬ」
 「ははは、日ノ本一とは腕力だけで成るものではなかとね。いかにたくさんの兵が己について来てくれるか、そして己がいかに信念を持って生き抜けるか。肩書や評価など、それら全部をひっくるめた上で後の世に誰かがつけるものじゃ」
 「たしかにそうでござりますな。私が思う真の名誉というものは、生きている間は手に入らないように思います」
 「ワシも同感じゃ。若者よ、手に入るよう気張るがよか」
 「はい」
 源次郎の顔に笑みが戻ったところで、森の奥から人の足音と木々のざわめきが近づいて来た。
 「源次郎さま、捜しましたぜ……貴様は!」
 佐助であった。彼の仲間の姿もある。彼らは傷ついた主と島津の姿を見て一斉に武器を手に取ったが、それを源次郎が止めた。
 「これは手合せの結果だ。島津どのに手出しをするな」
 「しかし、九州平定令にてこの地での私闘は禁じられておりますぞ」
 秀吉が発令した九州平定令は、何も大友と島津の間だけの話ではない。すべからく私闘を禁じている以上、たとえ豊臣方であっても令を破れば処罰の対象となる。
 しかしその懸念は、義弘の一言によって振り払われた。
 「これは私闘ではなか、敗残兵狩りじゃ。すでに勝負はついておる」
 「島津どの?」
 「おまはんらの主が勝ちじゃ。真田どん、ワシの首ば獲るがよか」
 「!」
 「ワシの切り札『ちゅうい』を破ったのじゃ、おまはんにはこうする資格がありもす」
 「源次郎さま」
 佐助が自分の刀を差し出す。潔くその場に胡坐をかいて首を垂れた島津義弘を前に、源次郎は大きく迷った。戦をしている敵同士ならば討つのが当然であるが、これは戦以前に一対一の手合せである。
 (だめだ)
 ここで義弘の首を取ることは自分の信念に反するとしか思えなかった。人の命を奪ってこそ武士であるという考えが今の世にはまかり通っているが、武功より信念を重んじるのもまた武士なのではないかという疑問が頭から払拭できない。武田滅亡の際に父がとった行動を嫌悪した自分の、あの頃の思いは忘れられなかった。
 「……佐助」
 「はっ」
 「戦況はどうなった」
 「豊臣の大勝です。島津軍は都於郡城へ退却、豊臣軍は追撃を開始しています」
 「そうか……」
 源次郎は初めて主命に背く決心を固めた。ここで島津を見逃しても、戦局が大きく覆されることはないだろう。
武田信玄から教わった生き様や信念は、その後の世になって作られた規律や命令では縛れない。今は島津義弘に敬意を払い、自らの信念を通したかった。
「では、ここでの事は他言無用とする。それがしは敗走する島津軍を追っていたが何の収穫もなかった、それでよい」
 「それでは源次郎さまが関白殿下から罰せられますぞ」
 「この場には我らと島津どのしかおらぬ。ならばおまえ達が口を閉ざしていれば良いだけのことであろう」
 「そうですが……いや、そうでありますな」
 目の前にある大手柄をみすみす逃そうとする源次郎を人が良すぎるという顔で見た佐助だが、そんな源次郎だからこそ従いたいと願ったのだと思い出してそれ以上は何も言わなかった。他の仲間も同様である。
 源次郎は改めて義弘に向き合うと、刀を納めて一礼した。島津も同じ所作を返す。
 「島津どの。お手合わせ、感謝いたしまする」
 「恩に着るぞ、真田どん」
 立ち上がった義弘は、源次郎に背を向けた。
 「島津どの、これからはいかに」
 「すでに勝負あったが、もうちっと粘らねば若い薩摩隼人の気は収まらんね。戦ば起こすと決めた時から、薩摩隼人は二つの道しか選べんものじゃ。勝つか敗けるか……敗けは、生涯に一度きりじゃ」
 「!」
 「この戦、ワシらが古き栄光に拘りすぎたのが敗因じゃ。老兵は若もんに次の道ば示して去るのが定めね」
 静かに去っていく島津義弘の背中を、信繁は一礼して見送った。敵とはいえ、その潔さは敬服に値する。
 「信玄どんは、まっことよか遺産を遺したものじゃな」
 武士として生きることを決めた瞬間から、散り際のことまで考えなければならない。あくまで戦い抜くことを選んだ島津義弘の決意は、源次郎には武田家のそれと重なって見えた。
 服従を繰り返して何が何でも生き延びる父のような生き方と、意地を押し通すために命をかける…戦場に死に場所を求める島津や武田のような生き方。これから先、自分はどちらを選ぶことになるのだろう。
 正しいかそうでないかは別として、より共感できるのは後者であったけれど。

 根白坂の戦いから十日足らずのうちに九州南端の薩摩まで追い詰められた島津は豊臣に降伏し、和睦をもって豊臣の九州征伐は完了した。
討伐のきっかけを作った大友宗麟は、島津の降伏直前に病によりこの世を去っていた。己が生涯の事業と定めたキリシタン王国建設が叶うどころか九州を完全に日の本に…反キリシタン寄りであった豊臣秀吉のもとに平定させてしまったのだから皮肉な巡り合わせではある。
そして豊臣に敗れたことで処断を覚悟していた島津義久、義弘兄弟は、その剛腕ぶりを惜しむ石田三成の太閤への取り成しによって当主義久は剃髪して退位、跡を継いで当主となった義弘は子を人質として大坂に差し出すかわりに薩摩大隅を安堵され存続を許されたのだった。
意地を美徳とする彼らが敵から慈悲を受けることは屈辱である。温情に縋って生きるくらいなら切腹すると言って聞かなかった義弘を義久が必死に止めたという話を、源次郎は後になって聞いた。
島津が生き残って薩摩を守ることこそ民のためである、それに人望のある義弘が切腹すれば彼を慕う配下の兵がどれだけ殉死するか分からぬと。

 もっとも、島津を生き永らえさせた石田の取り成しもただの温情ではなく、すでに九州を拠点として大陸への進出を構想していた秀吉の思惑を踏まえて九州の地固めを図ったと考える方がより正しいのかもしれない。九州の民や兵からの人望が篤い島津を処断すれば、朝鮮へ出兵しても足元がおぼつかないどころか民から反旗を翻される可能性が高い。逆に島津を赦すことで九州の民に豊臣の器の大きさを印象づければ、朝鮮出兵の際の支援取り付けも容易くなると石田は秀吉を説得したのだった。
屈辱に暴力で報いる暴君も、計算高い忠臣の手腕によっては慈悲深き神君になれてしまうものである。ともあれ島津家は秀吉によって赦され、島津は豊臣に服従した。逆に関ヶ原の戦いの直前に島津を怒らせた徳川家はその後も島津を完全には従属させることができず、はるか後の幕末まで薩摩の反骨精神の的となる羽目に陥るのだ。
 そして、もっと個人的な話になるが。根白坂にて島津義弘を救ったことは、後の『真田幸村』にも大きな転機をもたらすことになる。
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