第31話 神の遣いイナンナ①

文字数 6,393文字

 あさひが飛び乗ったアウディA3は高速道路を名古屋方面へと進む。
 巡航速度に入ったところで、あさひはようやく混乱していた思考回路を落ち着かせて、運転席に座る女性を見た。

 メガネをかけた若い女性。
 黒髪で、前髪が左目にかかっている。
 スーツ姿なのを見るに、社会人らしかった。

「あの――」

 あさひが話しかけようとすると、彼女はそれを制して、胸ポケットから取り出した何かを差し出す。

「はい名刺。
 呼び方は好きにして」

 あさひは名刺を受け取る。
 栞探偵事務所。飛鳥井(あすかい)(ひとみ)
 飛鳥井とは珍しい名字だ。

「じゃあ飛鳥井さんで」

「そう呼ぶならそれで良いよ」

 肯定を返されたので、あさひはこれから彼女を飛鳥井さんと呼ぶことに決めた。
 早速いくつか聞きたいことを尋ねていく。

「それで飛鳥井さん。
 あの追っかけてきた人は何なんですか?」

「ブラックドワーフ。
 世の中に出回るべきではない代物を売買してる非合法な組織」

「それって〈ツール〉って奴ですか?」

「あら。知ってたの?
 一応機密情報ってことになってるけど」

 飛鳥井はどうしようかと悩んだものの、まあいいやと流した。
 情報を流出させたのはブラックドワーフだ。自分には責任なしと判断した。

「もしかして、飛鳥井さんは〈ピックアップ〉ですか?」

 そっちも聞いていたかと飛鳥井は頷いて説明する。

「そう。
 〈ピックアップ〉は世の中に出回ってしまった〈ツール〉を秘密裏に回収する組織。
 だから本当は、小谷川さんの持っている〈ツール〉も回収したいところだけど、今はとりあえず保留。
 特別な物みたいだから、こっちとしても調査が必要になるかな」

 あさひはその〈ツール〉がタンブラーのことなのか、イナンナのことなのか察することが出来なかった。
 どちらにしろ、祖父の形見であり、小谷川家の家宝。そして歴史的価値を持つイナンナの神柱だけは絶対に渡すつもりは無かった。

「――待って。
 どうしてボクの名前を知ってるの?」

 まだ自己紹介はしていないはずだった。
 あさひが問うと、飛鳥井は微笑んで返す。

「探偵ですから、その程度のことは調べがつきます。
 と言っても、古物商のおじさんに教えて貰っただけですけど」

「え!?
 あのジジイ、ボクには客の情報は渡せないとか言ってたのに!」

「世の中お金次第です」

 きっぱりとそう言い切られて、古物商の店主に金で個人情報を売られたと知る。
 一体いくらの値段がついたのかは、聞いてみたい気もしたが、思いのほか安かったらと思うと聞く勇気が出なかった。

 車は前を走るトラックを追従し始め、運転の手間が減った飛鳥井は視線をあさひの方へと向けた。

「可愛いね」

「え、な、なにを――」

 突然可愛いと言われて顔を真っ赤にするあさひ。
 だが飛鳥井の視線は、あさひではなく、宙を漂っているイナンナの方に向いていた。

『神の遣い、イナンナと申します』

 イナンナが優雅に一礼してみせる。
 それに飛鳥井は笑顔を向けた。

「言葉が理解できるのは凄いね。
 これは狙われる訳だ」

 飛鳥井はイナンナの姿が見え言葉が聞こえている。
 あさひはその事実にはっとして、彼女へと問いかけた。

「イナンナが見えるの?」

「はい。見えますよ。
 イナンナと言えば戦いと豊穣の神様? でも神様ではなくて神の遣いなんだ」
 
「名前はボクがつけたんです。
 豊穣の神を讃える神柱に宿っていたので」

「なるほどね。
 でも言葉が交わせるなら、もう少し詳しく調べたいな。
 ちなみに小谷川さん、その神柱を〈ピックアップ〉に預ける気はある?」

 問いかけにあさひは顔をしかめて返す。

「ありません。
 神柱は祖父の形見で人類の遺産です。誰にも渡すつもりはありません」

「分かった。
 きっとその方が良いよ。
 〈ピックアップ〉が回収すれば、保管部門へ引き渡されて永久に誰の目も届かないところで封印されるだけだし。
 その代わり、少しだけ私にイナンナのこと調べさせて」

 あさひは飛鳥井の顔を睨む。
 彼女が信頼に値する人間かどうか、まだ確かめられていない。
 あさひは確かめるように彼女へと告げる。

「ボクはまだあなたを信頼できてない。
 あなたが本当にその〈ピックアップ〉の一員で、ブラックドワーフとやらからイナンナを守ってくれる保証はあるの?」

 言葉を受けて、飛鳥井は笑顔を見せて返した。

「保証は難しいけど、約束はします。
 絶対にイナンナも神柱も、ブラックドワーフには渡さない。
 〈ピックアップ〉にも引き渡さない。
 神柱に触れるのは私1人だけ。
 安心してください。約束は守ります。
 私、嘘は嫌いなんです」

 微笑む飛鳥井の顔を見て、あさひは少しくらいなら信頼しても良いかもと思った。
 追われていたあさひを助けてくれたのは事実。
 少しだけ彼女を頼ってみようと、あさひは頷いて見せた。

「では一旦隠れ家に。
 そこならブラックドワーフも追ってこないはずです」

 車は岡崎の辺りで高速を降りて、市街地にあるウィークリーマンションに辿り着いた。
 駐車場に停めた車にカバーを掛けて隠し、2人は2階の部屋に入る。

 早速部屋の机に神柱が置かれて、飛鳥井は手にしたルーペでその表面に刻まれた文字を解析する。

「うーん。
 あからさまな偽物なら偽物と分かりはしますけど、本物かどうかの鑑定は私には出来ませんね」

「本物です。
 素材の質感と文字の切削痕を見れば分かります」

「あら?
 大学生のはずですよね?
 専門家の方?」

 飛鳥井の問いにあさひは半分だけ頷く。

「専門家では無いですけど、専門家の卵です。
 ちょうどこの分野はボクの研究分野に当たるので、真贋鑑定は間違いないです」

「それは心強いです。
 書かれている文字は分かります? 農耕関係の記述だとは思いますが」

 飛鳥井はブックカバーから取り出した辞書を頼りに文字の意味を追おうとする。
 だがそれは同じ文字だが、違う言語の辞書だった。

「その辞書使えませんよ。
 この時期のこの文字は、後の文明でも同じ文字が使い回されているので、言語を特定してからでないと翻訳は出来ません」

「あらら。
 通りで意味が追えないと思いました」

 微笑んで辞書を片付ける飛鳥井。
 あさひは彼女の古代遺物への知識について、それなりに自学自習で身につけているものの、専門的教育を受けたわけではないレベルだと見積もった。
 素人とは呼べないが、専門家には遠く及ばない程度の知識量だ。
 それでも多少なりとも知識を身につけた彼女へと、あさひは敬意を示して解説する。

「記述は豊穣の神への賛歌と、農耕の記録です。
 春には何々をするとか、そう言った作業手順書の意味合いもあります。
 ただこのあたりの文書はもっと明確な農業手順指示書が残っているので、これ自体に歴史的価値はあまりないでしょうね」

「なるほど。
 刻まれた文字自体には意味はなさそうですね。
 〈ドール〉――神の遣いですね。それが宿る物について知りたかったですけど、賛歌の方も関係は薄いですか?」

 問われたあさひは、そのままイナンナへとバトンを渡す。

「どうなの? イナンナ」

『どうかしらん?
 わたくしにも刻まれた言葉の深い意味は理解しきれていません故』

「でも儀式の時、賛歌を読んだら反応したよね?」

『いいえ。
 必要なのは祭壇と捧げ物と信仰です。
 賛歌はあさひの捧げた信仰の一部でしかありませぬ』

 あさひは「そんなんだ」と頷いて、イナンナの言葉が聞こえたかどうか飛鳥井へと視線を向ける。

「はい。聞こえました。
 イナンナさんが私たちと話せるのは、その儀式とやらと関係がありますか?」

 その質問には直接イナンナが回答する。

『もちろんでございます。
 我々神の遣いは正しく信仰を交わした者としか意志を通わせませぬ。
 あさひは巫女として、儀式によって信仰を示しました』

 それはそうだろうとあさひは頷く。
 信仰を交わさない人間と意志を疎通するのは神の意志に背くだろう。
 と、1つ気になってあさひは飛鳥井に問う。

「ところでどうして飛鳥井さんはイナンナと会話出来ているんですか?
 姿も、ボク以外は神柱に手を触れた人間にしか見えないはずです」

「その辺りもゆくゆくは調べるつもり」

 飛鳥井の言葉は、自分でもどうしてイナンナと意志が通わせられているか分からないといった風だった。

「それよりイナンナさん。
 神の遣いの役割について教えて貰える?」

『はい。
 我々は神と人々の言葉を互いに伝える役割を持ちます。
 一方、人の作りし物に加護を与え、神の力を示す役割も持ちます』

「加護を与えられた物が〈ツール〉と呼ばれている訳だ。
 ちなみにだけど、巫女の指示無く勝手に加護を与えることはある?」

『はい。ありまする。
 神の存在を示すために、信仰が余っていれば加護を与えたりもしましょう』

「なるほど。
 それで勝手に〈ツール〉が増産されていたわけだ。
 神柱からは離れられないの?」

『はい。依り代から大きく遠ざかることは出来ませぬ。
 もし依り代が無くなれば、存在は希薄となり、言葉を交わすことも、姿を見ることも出来なくなりましょう』

「依り代は大切な物なんだ」

 飛鳥井は頷いて、神柱を再び詳しく見た。
 イナンナの依り代。これを中心として、イナンナは活動し、人知れず〈ツール〉を産みだしてきた。

「依り代が壊されたら、イナンナは居なくなるってこと?」

 あさひが尋ねる。
 イナンナはかぶりを振った。

『存在は残りましょうが、存在の認知は出来なくなるでしょう。
 その状態の神の遣いは、多くの場合依り代を求めて何かに取り付き加護を与えます。
 そうして存在を残すのですが、再び神の遣いになるためには神の存在が不可欠でありまする』

「存在自体は消えないけど、認知出来なくなるんだ。
 その状態でも加護は与えられるんだね」

『ええ。依り代となる物を探して彷徨い、僅かな信仰を集めては加護を与えて廻りまする』

「へえ。
 それで唐突に〈ツール〉が産み出されたりするんですね。
 1つずっと気になっていた謎が解けました」

 飛鳥井は納得した様子で大きく頷いた。
 あさひは続いて神について尋ねる。

「神が居れば依り代が壊れた神の遣いも復活できるんだよね?」

『我々神の遣いは神々によって産み出された存在です故、神々が望むのであれば復活も可能です』

「でももうシュメール神話の神々に対する信仰はほとんどないよね」

 遠く古代オリエント文明の神殿に、神の存在が残っている可能性は極めて少ない。
 もし神殿の機能を復活させたとしても、神々と言葉を通わせるのは難しそうだ。
 そう考えてあさひは肩を落とす。

「〈ツール〉は神の遣いが産み出す。
 神の遣いは神が産み出す。
 それなら神は? 神はどうやって産み出されるの?」

 飛鳥井が問う。
 その問いはとても恐れ多いことだとあさひは止めようとするのだが、イナンナは回答した。

『わたくしを産み出した神は、信仰を司る人間の代表によってこの地上に遣わされました』

「それはつまり?」

「神官のことだと思う」

 あさひが付け加えると飛鳥井は「なるほど」と応じた。

「それって当時の王族ということですか?」

「多くの場合はそう。
 でも時期によっては軍を率いる存在と信仰を司る存在が分離していたから、必ずしもそうとは言えない」

「ああ、エンシとかルガルとか、複数の王権が存在したんですよね」

「まあ、そういうことです」

 飛鳥井の発言は完全に先の話と関係があると肯定出来る話でも無いのだが、実際にそういった称号が存在したのは事実だ。
 詳しく説明し始めたらきりが無いので、あさひはとりあえずそういうことにしておいて、話を進めることにした。

「とにかく、分かってるのはシュメール時代の神官はもう存在しないってこと。
 つまり、新しく神をこの世界に遣わせるのは不可能ってこと」

 あさひの言葉に、飛鳥井は疑問があるらしく首をかしげていた。
 何がそんなに気になるのかとあさひは目を細めてその真意を伺おうとしたのだが、飛鳥井は明るい言葉でそれを遮った。

「小谷川さん。今日は疲れたでしょう?
 休んでいて良いですよ。イナンナさんと神柱は、私が責任持って守りますから」

 言われてあさひは、重くなった身体と、痛み始める節々に気がついた。
 今日は街中を歩き回り、最後には追っ手から全力疾走で逃げた。
 走るなんて、あさひの人生においては高校の体育の授業以来のことだ。
 久々の急激な運動に対して、身体の方は悲鳴を上げていた。

「それじゃあ休ませて貰います。
 イナンナのこと、よろしくお願いします」

「ええ。そうしてください」

 促されて、あさひはシャワーを浴びた。
 着替えを持っていないので服装はそのまま。このまま隠れて生活するなら着替えも必要だ。
 シャワーを上がると部屋ではイナンナと飛鳥井が話し込んでいた。

 あさひもまだイナンナに聞いてみたい話は山ほどある。
 でも体力が限界を迎え、シャワーを浴びて体温が上がったことで、急激に眠気が押し寄せてきていた。

 あさひは明朝聞けば良いだろうと、飛鳥井に「今日はもう寝ます」と告げて、寝室に入るとベッドに倒れ込む。
 あっという間に睡魔に飲まれて、気がついたときにはカーテンから朝日が差し込んでいた。

 身体を起こしたあさひは、眠いまぶたをこすりながらゆっくりと部屋へ。
 扉を開けると、飛鳥井の姿は無かった。
 机の上にはイナンナの神柱が置かれている。

「あれ、飛鳥井さん何処行ったんだろ?」

 寝室には居なかった。
 部屋にも居ない。
 シャワーでも浴びているのかと思ったが、バスルームにも居ないしトイレにも居ない。

「イナンナ。飛鳥井さん、何処かに出かけた?」

 神柱に向かって問いかける。
 しかし反応は無い。

 あさひは首をかしげて神柱の元へ。
 手を触れてみるが、イナンナは姿を現さなかった。

「え?
 どうして?」

 イナンナが姿を見せない。
 あさひはイナンナと信仰を交わした巫女のはずだ。
 それに、そうではなかったとしても、直接神柱に触れればイナンナの姿は見えるはずだ。

 あさひはどういうことかと神柱を間近で見た。
 ルーペをかざし、刻まれた文字を確かめる。

「切削痕が新しい――。
 これ贋作だ!!」

 それはあさひが発見した本物の神柱ではなく、かつて祖父が質入れし、誰かに買い取られた贋作の神柱だった。

「嘘でしょ!?
 飛鳥井さんは!?」

 机の上に見慣れない便せんが置いてあった。
 封を切ると中には手紙と、諭吉が10枚。
 諭吉をとりあえず放置して手紙を取り出すと、そこには簡潔な文面が記されていた。

”イナンナは借りていきます。
 期限は約束しませんが、そのうち返します。
 お金を置いておくので帰りの交通費にでも使ってください”

「あ、あの野郎!!」

 あさひは部屋から飛び出し、階段を駆け下りてマンションの駐車場へ。
 ここへと乗ってきた飛鳥井の車は、影も形も無かった。

「騙された!!」

 あさひは部屋に戻り荷物をまとめる。
 神柱を失うわけには行かない。あさひにとって絶対に手放せない大切な物だ。
 取り返さなくては。

 あさひにはそのためのお金も、飛鳥井の手がかりも手元にあった。

 飛鳥井から受け取った名刺。
 栞探偵事務所。住所も電話番号も記されている。
 神奈川県なら、新幹線を使えば直ぐだ。

 それに机の上に置かれた贋作の神柱。
 間違いなく祖父が売ったものだ。これを買い取った人間の電話番号も把握している。

「絶対に逃がさない!
 飛鳥井瞳! 絶対にイナンナは返して貰うから!!」

 外に出たあさひは最寄り駅を目指す。
 目的地は栞探偵事務所。
 飛鳥井瞳が在籍している、〈ピックアップ〉という組織の事務所だ。

    ◇    ◇    ◇

ツール発見報告書
管理番号:未登録
名称:イナンナの神柱
発見者:小谷川あさひ
影響:SS
保管:C
特性:神の遣いイナンナの依り代
  
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