第17話 淵沢夕陽
文字数 10,056文字
淵沢夕陽が姿を現した。
その事実に堤は戸惑う。
確かに殺せと命令したはずだ。
命令を破っていたのなら、守屋は死んでいるはず。
命令を守っていたのなら、夕陽は死んでいるはず。
あり得ない2つの事象が同時に存在している。
堤はゆっくりと振り返り、斜め後方の夕陽の姿を見た。
間違いなく淵沢夕陽だ。面識もある。それに彼女の果てしない脳天気そうな笑みは、見間違うはずがない。
「動かないでくださいね。堤さん。
〈ツール〉を回収し、誰の手にも触れないようにするのが責務。そうおっしゃっていましたが、あれは嘘でしたね。
スーパービジョンへ〈ツール〉を横流ししていたわけですから。
なるほど。そうなると守屋さんは嘘をついていなかった訳だ。
発見した〈ツール〉は全て〈ストレージ〉へ引き渡している。――堤さんも表では〈ストレージ〉ですから、嘘ではありません」
夕陽は「私はそういう騙しかた好きですよ」と守屋へ向けて笑みを向ける
守屋はまるで何が起こっているのか分からないまま夕陽の笑顔を見た。
いつも通り大きな瞳を輝かせてバカみたいに笑っている夕陽。
確かに殺したはずだった。
銃弾は脳天に命中。距離も近く、威力も十分だったはずだ。
彼女は頭を射貫かれてその場に倒れ、血を溢れさせた。
死亡確認はしなかった。
だがそれは、どう見ても死んでいるから省略したに過ぎない。確かめるに値するような状態ではなかった。
確実に死んでいたのだから。
死の偽装? 双子? 影武者? どの案も可能性は低い。
あの時撃ったのは間違いなく夕陽。
そして目の前に姿を現したのも、間違いなく夕陽。
夕陽は守屋と堤が考えていることなどまるで知った風ではなく、いつも通りの天真爛漫な明るい口調で語り始める。
「やけに”水牛の像”にご執心なのも納得できました。
〈ストレージ〉としてではなく、スーパービジョンとして、あの像がどうしても欲しかったと言うわけですね。
そこで質問ですけれど、どうして”水牛の像”に執着したんですか?
像を手にすると見える、人形のような存在の正体は何です?」
堤に対する問いかけ。
だが堤は質問に答えない。
彼は守屋が命令によって動けないのを確かめると、手にしていた銃を夕陽へと向けた。
「その銃はおもちゃだったはずだ」
「あら?
質問しているのは私のつもりでしたけれど違いましたか?」
「質問には答えない。
しかし君は、どこまでも躾がなっていないようだ」
「〈ツール〉の横流ししていた人に言われても心に響いてきませんね」
小馬鹿にしたように夕陽が笑うと、堤は照準を彼女の頭へと定める。
相対距離5メートル。
普段銃は持たない堤だが、〈ストレージ〉である以上訓練は受けている。外すような距離ではない。
それでも夕陽は笑顔を絶やさない。
「おもちゃだと知っているなら、銃を向ける必要はないのでは?」
「そうはいかない。
なにしろおもちゃかも知れないが、違う可能性もある」
口ではそう言うが、堤の目からも夕陽の持つ銃がモデルガンであることは明らかだった。
銃口の形状を正面から見れば、本物かどうか見定めるのは容易いことだ。
堤は続ける。
「君は人へと銃口を向けて、引き金に指をかけることの重大さに気がついていないようだ」
「同じことを堤さんもしていますよ」
夕陽の言葉など堤には届かない。
彼は引き金に指をかけると、穏やかさなど一切ない、冷淡な声色で告げた。
「残念だ。こんなことは本意じゃない」
「だったら撃たなければ良いだけの話ですよ。
それともやっぱり嘘をついているんですか?」
試すような言葉。
更に夕陽は口角を上げて、挑発するように笑って見せた。
それを見て、堤は激高して指に力を込める。
「バカ女め」
銃声が1つ、建設途中の倉庫に響いた。
乾いた音は反響し雨音の中へと溶けていくが、それが消えてなくなるより先に、叫び声が上がった。
「がぁああああっ!!
な――何故だ!? 何が起きている!!??」
焼けるように痛む左肩を押さえる堤。
押さえた傷口からは血が溢れ、堤の手を真っ赤に染める。
手を染めた血を見て堤はようやく事態を把握する。
夕陽に撃たれたのだ。
夕陽は冷ややかな笑みを浮かべて呟く。
「心は正直ですね。
やっぱり嘘だったじゃないですか」
よろめく堤へと、夕陽は銃口を向けたまま近づいていく。
構えられたモデルガンからは、硝煙が微かに揺らめく。
肩を撃たれた堤は狼狽し、手にしていた拳銃を夕陽へ向けて投げつけた。
「おっと。
危ないですよ!」
夕陽は拳銃を避けると非難の声を上げる。
当然、堤が聞く耳持つはずがなく、彼は肩を押さえたまま逃げ去った。
「あっ、逃げた!
追わないと――の前に」
夕陽は一旦堤を無視。
投げつけられた守屋の拳銃を拾い上げてカバンにしまうと、立ち尽くす守屋の元へと向かった。
夕陽が「先にこちらですね」と微笑むと、守屋は口を開き矢継ぎ早に問う。
「何故生きている。
何故ガスガンが銃弾を放った。
何故お前は無傷なんだ」
質問に対して夕陽は首をかしげて見せた。
「それ、いま聞く必要あることですか?
〈契約の指輪〉をなんとかするのが先決だと思います。
それともこの倉庫の妖精さんになります? 私はそれでも良いですよ。たまに差し入れ持ってきますね」
「差し入れは良い。
堤をなんとかしないとどうにもならない」
守屋は質問に答えない夕陽に対して苛立ちを見せる。
それに構うことなく、夕陽はマイペースのまま守屋の左手を掴んで眼前まで引き寄せる。
「やっぱり〈ツール〉でしたね。
簡単に特性を説明してください」
「何故お前に――」
「守屋さんの身体、押しても良いですよ?
命がかかっているなら話す気にもなりますよね?」
からかうように笑う夕陽。
守屋はしかめっ面を浮かべ、早口で指輪について説明を始めた。
「2つで1組の〈ツール〉。
身につけた者の間で2つ契約を交わす。
どちらかが死ぬまで契約は有効で、契約を破るか指輪を外すと死ぬ」
「契約内容は?」
「堤の命令に従うこと。
堤の不利益になる情報を漏洩させないこと」
「なるほど。2つの契約であれば一方的な内容が2つでも構わないと。
守屋さんにとってはただただ都合の悪い品物ですね」
「分かっただろ。
お前にはどうにも出来ない」
「そうですか?
以前、きちんとお伝えしたはずですよ。
私、こう見えて結構役に立つんです」
夕陽はにかっと笑って、それから守屋の左手を掴んでいた自身の左手に力を込める。
守屋があっけにとられているうちに右手で〈契約の指輪〉を掴み、強引に守屋の指から引き抜いた。
守屋が手を伸ばした頃には、夕陽は後ろに飛び退いて距離をとっていた。
右手の指先で〈契約の指輪〉を持って誇らしげにしている。
「バカ! お前、何をしてくれたんだ!?」
「何って、指輪を外しました」
「それを外したら命が――」
守屋はそこまで口にして、自分の身体に異常がないのを確かめる。
以前の〈契約の指輪〉の持ち主は、指輪を外すと同時に身体が溶けるようにしてあっという間に命を落とした。
だが今のところ守屋の身体にそう言った症状は出ない。
夕陽はそんな守屋へと笑みを見せて言う。
「指輪を外したのは私ですから」
「バカな、そんな訳あるか。
そんな簡単な代物じゃない」
「ではもう一度はめてみます?」
夕陽が〈契約の指輪〉を守屋へと差し出す。
守屋はそれを受け取ってもう1度指にはめようなどとは思わなかったが、夕陽が一体どんな細工をしたのか気になって指輪へと手を伸ばす。
しかし守屋の手が〈契約の指輪〉へ触れる寸前、夕陽は指輪を引っ込めて、守屋の手首を掴むと自分の方へと引き寄せた。
一歩前に出る守屋。
夕陽へ対して苦言を呈すも、やはり身体に異常はない。
「ほら。契約は無効です。
私、役に立つでしょう?」
守屋は夕陽から拳銃を受け取りホルスターへとしまう。
それから真っ直ぐに、夕陽の大きな瞳を見て問いかけた。
「お前は一体何者なんだ」
「その話は後です。
それに、折角助けてあげたのに感謝の言葉がまだです」
守屋は慌てて礼を言おうとするのだが、夕陽は遮った。
「さあ、堤さんを追いかけましょう!
”水牛の像”について問い詰めないといけません!」
守屋と夕陽は急いで堤が出て行った倉庫の通用口へと向かう。
車のエンジン音。
黒のBMWが雨水を跳ねながら倉庫の敷地から飛び出していった。
「遅かったか」
「いえ。迎えが来ました」
ちょうど建設中倉庫の敷地内へ、真っ赤なランサーエボリューションが突っ込んできた。
車が2人の目の前で停止すると、助手席の飛鳥井が「早く乗って」と声をかける。
急ぎ車内に乗り込む守屋と夕陽。
「お前が呼んだのか?」守屋が夕陽へと問う。
「はい。必要かと思いまして」
夕陽は平然と答えた。
飛鳥井と仁木は詳細は知らないものの、逃げていったBMWの存在は把握していた。
直ぐにエンジンを唸らせ車を加速させながら、仁木は指示を仰ぐ。
「BMW追いかけりゃいいんだな」
「Mバッジですよ? 追いつけます?」
夕陽が運転席側に顔を出して尋ねる。
それに対して仁木は歯を見せてニッと笑うと、自慢げに言った。
「問題ない。
こいつは公道最速の車だ。
それに、ドライバーの腕が違うぜ!」
ランサーエボリューションは泥道だろうが構わず急加速して狭い道へと飛び出した。
堤のBMWのテールランプが雨の向こう、かなり先に見える。
「大通りに出られたら厄介だわ」
「分かってる!」
仁木はアクセルを踏み込み、ギアチェンジを繰り返し、車体を自分の身体の一部のように操り路地を抜ける。
畑の広がる市道に出てからもアクセル全開で爆走。
あっという間に先を進んでいたBMWに追いついた。
「追いついたぜ。横に並ぶか?」
仁木が次の判断を求める。
飛鳥井も拳銃を手に、指示があればタイヤを撃ち抜くと示す。
だが守屋が答えるより先に、夕陽が口を開いた。
「進路塞げます?」
「追突されるぞ」仁木が返す。
「絶対減速するので大丈夫です。
この路面状況でFRですから恐らくスリップします」
「なんで――いや了解。任せとけって」
仁木は夕陽の言葉に対して深く考えず再加速。BMWの横に並び、あっという間に追い抜いた。
ランサーエボリューションがBMWの前に躍り出る。
夕陽は名刺入れを手にすると、そこから1枚名刺を取り出した。
瞬間、BMWが急減速。
同時にスリップして畑の用水路に突っ込む。
浅い用水路に落ちたBMWはエンジンから煙を吹き出し完全に停止した。
「何をした?」
守屋が怪訝そうに夕陽を見る。
だが夕陽はそれを取り合わない。
「尋問が先です」
そのまま彼女は車外に出て、BMWのドアを開けようとする。
だが変形したらしく力尽くでは開かない。
彼女に変わって飛鳥井が消防用ハンドアクスでドアを切断。そのままエアバッグを引き裂き、運転手を外へと引き釣り出した。
「〈ストレージ〉の堤さん?
どういうこと?」
逃亡者の姿を見て飛鳥井が守屋へと問う。
「後で話す」
しかめっ面のまま回答をはぐらかす守屋。そのまま堤を見下ろした。
堤は憔悴しきったやつれた顔をしていた。倉庫での勝ち誇っていた表情はどこかへ行ってしまったらしい。
堤にとっても謎ばかりだろう。
死んだはずの夕陽に肩を撃たれ、こうして無防備な状態で車外に引き釣り出されている。
どうしてこの状況になったのか。説明できる人間は、淵沢夕陽だけだ。
「尋問、任せて貰って良いですか?」
夕陽が立候補すると、守屋は彼女を一瞥する。
何を考えて居るのか分からない、おかしな言動と行動を繰り返す脳天気なバカ女。
これまで守屋は夕陽をそう認識していた。
だが今となっては違う。
ふざけているように見えるのは、彼女がそう見えるように振る舞っているから。
脳天気かも知れない。だが決してバカではない。
何を考えて居るかは分からない。
分からないが、確かなこともある。
淵沢夕陽を突き動かしているのは、『自分自身が何者なのか知りたい』。
そんな単純なことで、だが彼女にとっては大切なことで、そのためならば彼女は危険を顧みず行動する。
たとえ自分が死ぬことになろうとも。
情報を得られる可能性があれば、銃口の先にすら身を晒す。
淵沢夕陽はそういう人間だ。
「任せる」
完全に一任する守屋。
夕陽ならば自身が知りたい情報は必ず引き出すだろうという期待と、堤とは口をききたくないという拒絶からの判断だった。
それに夕陽は笑顔で礼を言って、仁木へと1つ告げる。
「少しの間だけ、堤さんを喋らせないでください」
「おうよ」
粘着テープが堤の口に容赦なく貼り付けられる。
彼は抵抗する力もなく、為す術もなく口を塞がれ、そして怯える瞳で夕陽の姿を見た。
「これなんだか分かりますよね?」
夕陽は〈契約の指輪〉を見せて尋ねる。
堤は目を大きく見開き困惑して指輪を見やる。それから守屋の姿を見た。
守屋は生きている。
〈契約の指輪〉が外されたはずがない。
だが確かに、守屋の左手には指輪は存在しなかった。
「どんな契約にも解除方法は存在するものですよ」
言って夕陽は、〈契約の指輪〉を自分の左手薬指にはめる。
それからゆっくりと、言葉をしっかりと発音するようにして告げた。
「私が望む契約は2つ。
1つ。栞探偵事務所に対して危害を加えるような行動は慎むこと。
1つ。私に対して決して嘘をつかないこと。
よろしいですね?」
堤は首を縦に振ることはなかった。
それでも夕陽は一方的に契約を交わしたのでよしとすると、仁木へと堤の拘束を解くように言う。
粘着テープが剥がされ、痛みに堪える堤。
夕陽はそんな彼の間近へ寄って、右手を突き出す。
人差し指を1本だけぴんと立てたその手を見せて、堤へと笑顔で問いかける。
「どうしても私が確認したいのは1つだけです」
1つ。と口にしたタイミングで、ぴんと立てていた人差し指を揺らす。
堤はその問いかけを待つように、怯えた瞳で夕陽の顔を見ていた。
「何だと思います?」
夕陽が問いかける。
堤は困惑し、視線を逸らし、それから逃げられないかと後ずさる。しかし逃げ場などない。
車もお釈迦になっているし、素手の殴り合いでは決して勝てない飛鳥井が直ぐ側に控えている。
堤は観念して夕陽の顔を真っ直ぐ見ると、震えながら言葉を紡いだ。
「”水牛の像”については、何も――何も知らない。本当だ。
ただ回収するよう、指示を受けただけだ」
夕陽は堤の答えに一瞬ぽかんとした表情を見せた。
それからはもう堤に対して興味を失ったようで、突き出していた右手を引っ込めると、控えめな笑みを浮かべた。
「残念です。
では後の質問は答えたくなければ答えなくても良いです。
GTC鴻巣さんの話にあった、精霊だとか人形のような存在については何か知っていますか?」
「知らない。実物を見たことも、情報もない」
「スーパービジョンの目的は?
〈ツール〉を集めて何をするつもりですか?」
問いかけに堤は口をつぐむ。
沈黙を見て、夕陽は次の問いを口にする。
「堤さんへ指示を出したのは誰ですか?」
またしても堤は答えない。
だがそれは夕陽も予想済みだったようで、残念がることもなく、きっぱりと尋問を打ち切った。
「そうですか。ではもう良いです。
本日の”出来事”について忘れてくれさえすれば、後は好きにして構いません。
スマホは持ってますよね? タクシーでもJAFでも救急車でも呼んで、どうぞお帰りください」
夕陽は仁木と飛鳥井に、もうこの場に堤をとどめておく必要はないと目配せした。
夕陽自身もランサーエボリューションへと歩き始める。
そんな彼女へと飛鳥井が駆け寄り、並んで歩きながら問いかける。
「指示役の名前は知ってるはずよ。
拷問しなくていいの?」
「はい。知りたかった情報は持っていないようなので。
ですが知ってる人とは繋がりがありそうです。
痛めつけるより泳がせた方が得られる物が多いと思います」
夕陽の判断をきいて、飛鳥井も一理あると頷いた。
夕陽は笑みを見せて続ける。
「それに拷問すれば恨みを買います。そこまでしたくはありません。
――拷問すれば吐かせる自信はありますけどね! やったことないですけど」
「そうね。
拷問なんてしないで済むならそれに超したことはないわ」
堤をその場に残し、4人はランサーエボリューションに乗って、GTCが拠点にしていた倉庫へと戻る。
そこで警察の目を盗んで社有車のプリウスを回収し、事務所へと帰還した。
事務所に戻ると彼らはすっかり雨に濡れてしまった服を着替える。
夕陽は着替え終わると、事務所を出て守屋の部屋へと向かった。
ノックして「私です」と告げると、守屋は扉を開けた。
「何か用か?」
Tシャツにズボンというラフな格好で出迎えた守屋。
夕陽は笑顔を向けて答える。
「所長さんが私に何か用があるのではないかと思って」
夕陽の笑顔を見て、守屋は顔をしかめた。
それからまだ乾ききっていない髪を手でくしゃくしゃといじって、不承不承ながらも口を開く。
「助けてくれてありがとう」
口にした以上の価値はない棒読みの言葉。
だが夕陽はその言葉にぱっと笑顔を輝かせて、胸を張って見せた。
「こちらこそ。お役に立てて良かったです。
中へ入れて頂いても?」
「玄関までだ」
言って守屋が扉を大きく開ける。
夕陽が部屋へと入ると扉は閉じられた。
夕陽はその場から室内を眺める。
事務所用の建物だけあって酷く殺風景だ。
それでも人が1人住む分には文句のない居住空間だった。
お風呂がないのが夕陽にとって絶対に妥協できないポイントではあったが、守屋はそのあたり銭湯で構わないと割り切っているのだろう。
部屋を眺め回す夕陽。
その視界を遮るように守屋は正面に立ち、尋ねる。
「お前は何者なんだ」
様々な意味を含む問いかけ。
今日だけでも夕陽を中心として起こりえない現象が起こった。
その問いに対して夕陽は曖昧な笑みを浮かべる。
珍しくしゅんとした、暴力的な明るさのない控えめな笑み。
「私も、それを知りたいんです」
真っ直ぐな答え。
その答えは半年前。採用面接の場でもなされた。
夕陽が行動を起こす原動力。
それは『自分は何者なのか』という根源的な悩みだ。
守屋は答えを出せない。
淵沢夕陽は何者なのか。
その問いに答えを出せる人間は居ない。
行政にも明らかに出来なかった。
本人ですら、10歳以前の記憶が存在しない。
夕陽は嘘が嫌いだ。
嘘をつかないという彼女の言葉を信じるのならば、記憶がないというのも事実であるはずだ。
守屋はそんな彼女を見据えて、これまで言いたかったが我慢してきた問いを重ねていく。
「いろいろ聞きたいことがある。
確かに殺したにも関わらず生きていること。
不発の銃と実弾が出たモデルガンについて。
〈契約の指輪〉を外した方法。
”水牛の像”の行方。
精霊について。
それ以外にもいくつか腑に落ちない点がある」
並べられた問いに夕陽はうんうんと頷いた。
だが彼女が口を開くより先に、守屋は拳銃を引き抜いた。
右手で持った拳銃は構えられることはなく、ただその存在だけが夕陽の目の前に示される。
「だがまず1つだけ答えろ。
あの時、間違いなくこの銃でお前を撃った」
「今生きている理由ですか?」
「違う」
夕陽が問いかけを予想して返したのだが、守屋は明確に否定した。
予想通りではないと知り、夕陽はだとしたらどんな質問なのかとわくわくした様子で次の言葉を待つ。
「お前は撃たれた。
なのにどうして、撃った人間と平気で一緒に居られる」
守屋が他の全ての疑問をおいてでも知りたかったこと。
その質問を受けて、夕陽はクスクスと笑い、やがて我慢できなくなったのか大きく声を出して笑った。
「何がおかしい」
不機嫌を隠さず告げる守屋。
だが夕陽は笑い止まない。
声を上げて笑い、やがて笑いすぎて涙目になりながら言葉をひねり出す。
「所長さん。その質問は、ずるいですよ!」
そんな風に返されて守屋は納得いかない。
何がずるいというのか。
たった1つ。他の質問への回答を先送りにして、まず一番に聞きたかったことだ。
あの時、守屋は夕陽を撃った。
確実に殺すために脳天を撃ち抜いた。
なのに彼女は守屋に対して一片の恨みも抱かない。
いつものように笑顔を向け――それどころか、いつも以上に上機嫌に、大きな瞳をキラキラと輝かせて接している。
「説明しろ。なにがそんなにおかしい」
笑い続ける夕陽へと守屋は業を煮やして命令する。
夕陽はようやく笑いが収まってきたが、それでもニヤニヤとしながら、溢れ出た涙を拭って答える。
「所長さんたっての質問ですから答えますけど、本当にその質問で良いですか?」
「構わない。答えろ」
厳格に命じられて、夕陽は微笑みながらも、しっかりとした口調で告げる。
「所長さんは私を撃った。
だから私に嫌われたり恨まれたり、避けられたりしてもおかしくないと思った訳ですよね。
でも私にはそんな気は全くありません。
その理由を答えたら良いですか?」
「そうだ」
守屋が頷いて見せると、夕陽も「分かりました」と頷いて見せて、背筋を伸ばし、真っ直ぐに守屋の顔へと視線を向けた。
それからいつもと違う、落ち着いた声で告げる。
「所長さんが私を撃ったからです」
それが答えだと、一瞬守屋には分からなかった。
だが夕陽がそれ以上何も言わずに微笑むのを見て、答えがたったそれだけだったと知る。
「待て。説明になってない」
「ええ。だから本当にその質問で良いかと尋ねました。
でも今ので全てです。
所長さんは私を撃った。だから私に拒絶されないか心配している。
所長さんが私を撃った。だから私は所長さんを信頼している。
この2つは矛盾しません。
嘘じゃないですよ?
私、嘘は嫌いなんです」
ニコッと笑う夕陽。
守屋は理解が追いつかない。
撃たれたから信頼している。
とんでもない妄言だ。照準は頭に合わせていた。確実に殺すつもりで撃った。
そんな相手をどうして信頼できるのか。
守屋が戸惑っていると、やはり夕陽は笑顔を向けて、ポケットから何かを取り出すと差し出した。
守屋は銃を持っていない方の手でそれを受け取る。
「返しておきます。
もう必要になることはないでしょうけど」
守屋が手を広げると、そこにあったのは〈契約の指輪〉だった。
夕陽は1度身につけたがそれを難なく外している。
驚きもしない。既に1度やったことだ。
「〈ツール〉を無力化したのか?」
問いかけられた夕陽は、笑顔のまま首を横に振った。
「答えませんよ。
今日の分はさっきの質問でお終いです。
もし私について知りたいことがあるのでしたら、どうぞ調べてみてください。
そして分かったことを是非教えてください。
所長さん、以前は凄腕の探偵だったとお聞きしています。
私の正体について、私の知らないことを突き止められるかも知れません。
何もかも調べ尽くしてしまって構いませんからね」
夕陽はそう言って微笑み、「今日はこれで失礼します」と一方的に別れを告げて守屋の部屋を後にした。
残された守屋は、手のひらの上で転がる〈契約の指輪〉を見る。
外されるはずのない〈ツール〉が外された。
それだけではない。
今日だけでも淵沢夕陽を中心に、起こり得ないことが立て続けに起こっている。
心当たりがないわけではない。
通常の物理法則を超越し、不可能を可能にしてしまう物体を守屋は知っている。
〈ツール〉だ。
淵沢夕陽は、〈管理局〉も感知しないような、効力不明、特性不明の不思議な〈ツール〉を所有している。
そしてそれを利用して、自分は何者なのかを突き止めようとしている。
「淵沢夕陽」
彼女の名前を1人、小さく呟く守屋。
〈契約の指輪〉の呪縛から、堤の支配から、守屋は解放された。
やりたくもないスーパービジョンの下請けなどやらなくていい。
これからは好きなことを出来る。
そして守屋には、新しく興味を惹かれる対象が出来た。
本当のことを知りたい。そういう彼女に触発されて、守屋自身も、本当のことを追い求めたくなった。
「――少し、調べてみるか」
夕陽と初めて会った就職面接からおよそ半年。
真面目に調査すれば、これまで見落としていた点に気がつくかも知れない。
守屋は自室の書類棚に雑にしまわれた、淵沢夕陽の入社前身辺調査資料を引っ張り出した。
◇ ◇ ◇
ツール発見報告書
管理番号:未登録
名称:契約の指輪
発見者:堤悟
影響:A
保管:D
特性:2つで1組。
身につけた者同士で交わされた2つの約束が、
どちらかが死ぬまで遵守される。
その事実に堤は戸惑う。
確かに殺せと命令したはずだ。
命令を破っていたのなら、守屋は死んでいるはず。
命令を守っていたのなら、夕陽は死んでいるはず。
あり得ない2つの事象が同時に存在している。
堤はゆっくりと振り返り、斜め後方の夕陽の姿を見た。
間違いなく淵沢夕陽だ。面識もある。それに彼女の果てしない脳天気そうな笑みは、見間違うはずがない。
「動かないでくださいね。堤さん。
〈ツール〉を回収し、誰の手にも触れないようにするのが責務。そうおっしゃっていましたが、あれは嘘でしたね。
スーパービジョンへ〈ツール〉を横流ししていたわけですから。
なるほど。そうなると守屋さんは嘘をついていなかった訳だ。
発見した〈ツール〉は全て〈ストレージ〉へ引き渡している。――堤さんも表では〈ストレージ〉ですから、嘘ではありません」
夕陽は「私はそういう騙しかた好きですよ」と守屋へ向けて笑みを向ける
守屋はまるで何が起こっているのか分からないまま夕陽の笑顔を見た。
いつも通り大きな瞳を輝かせてバカみたいに笑っている夕陽。
確かに殺したはずだった。
銃弾は脳天に命中。距離も近く、威力も十分だったはずだ。
彼女は頭を射貫かれてその場に倒れ、血を溢れさせた。
死亡確認はしなかった。
だがそれは、どう見ても死んでいるから省略したに過ぎない。確かめるに値するような状態ではなかった。
確実に死んでいたのだから。
死の偽装? 双子? 影武者? どの案も可能性は低い。
あの時撃ったのは間違いなく夕陽。
そして目の前に姿を現したのも、間違いなく夕陽。
夕陽は守屋と堤が考えていることなどまるで知った風ではなく、いつも通りの天真爛漫な明るい口調で語り始める。
「やけに”水牛の像”にご執心なのも納得できました。
〈ストレージ〉としてではなく、スーパービジョンとして、あの像がどうしても欲しかったと言うわけですね。
そこで質問ですけれど、どうして”水牛の像”に執着したんですか?
像を手にすると見える、人形のような存在の正体は何です?」
堤に対する問いかけ。
だが堤は質問に答えない。
彼は守屋が命令によって動けないのを確かめると、手にしていた銃を夕陽へと向けた。
「その銃はおもちゃだったはずだ」
「あら?
質問しているのは私のつもりでしたけれど違いましたか?」
「質問には答えない。
しかし君は、どこまでも躾がなっていないようだ」
「〈ツール〉の横流ししていた人に言われても心に響いてきませんね」
小馬鹿にしたように夕陽が笑うと、堤は照準を彼女の頭へと定める。
相対距離5メートル。
普段銃は持たない堤だが、〈ストレージ〉である以上訓練は受けている。外すような距離ではない。
それでも夕陽は笑顔を絶やさない。
「おもちゃだと知っているなら、銃を向ける必要はないのでは?」
「そうはいかない。
なにしろおもちゃかも知れないが、違う可能性もある」
口ではそう言うが、堤の目からも夕陽の持つ銃がモデルガンであることは明らかだった。
銃口の形状を正面から見れば、本物かどうか見定めるのは容易いことだ。
堤は続ける。
「君は人へと銃口を向けて、引き金に指をかけることの重大さに気がついていないようだ」
「同じことを堤さんもしていますよ」
夕陽の言葉など堤には届かない。
彼は引き金に指をかけると、穏やかさなど一切ない、冷淡な声色で告げた。
「残念だ。こんなことは本意じゃない」
「だったら撃たなければ良いだけの話ですよ。
それともやっぱり嘘をついているんですか?」
試すような言葉。
更に夕陽は口角を上げて、挑発するように笑って見せた。
それを見て、堤は激高して指に力を込める。
「バカ女め」
銃声が1つ、建設途中の倉庫に響いた。
乾いた音は反響し雨音の中へと溶けていくが、それが消えてなくなるより先に、叫び声が上がった。
「がぁああああっ!!
な――何故だ!? 何が起きている!!??」
焼けるように痛む左肩を押さえる堤。
押さえた傷口からは血が溢れ、堤の手を真っ赤に染める。
手を染めた血を見て堤はようやく事態を把握する。
夕陽に撃たれたのだ。
夕陽は冷ややかな笑みを浮かべて呟く。
「心は正直ですね。
やっぱり嘘だったじゃないですか」
よろめく堤へと、夕陽は銃口を向けたまま近づいていく。
構えられたモデルガンからは、硝煙が微かに揺らめく。
肩を撃たれた堤は狼狽し、手にしていた拳銃を夕陽へ向けて投げつけた。
「おっと。
危ないですよ!」
夕陽は拳銃を避けると非難の声を上げる。
当然、堤が聞く耳持つはずがなく、彼は肩を押さえたまま逃げ去った。
「あっ、逃げた!
追わないと――の前に」
夕陽は一旦堤を無視。
投げつけられた守屋の拳銃を拾い上げてカバンにしまうと、立ち尽くす守屋の元へと向かった。
夕陽が「先にこちらですね」と微笑むと、守屋は口を開き矢継ぎ早に問う。
「何故生きている。
何故ガスガンが銃弾を放った。
何故お前は無傷なんだ」
質問に対して夕陽は首をかしげて見せた。
「それ、いま聞く必要あることですか?
〈契約の指輪〉をなんとかするのが先決だと思います。
それともこの倉庫の妖精さんになります? 私はそれでも良いですよ。たまに差し入れ持ってきますね」
「差し入れは良い。
堤をなんとかしないとどうにもならない」
守屋は質問に答えない夕陽に対して苛立ちを見せる。
それに構うことなく、夕陽はマイペースのまま守屋の左手を掴んで眼前まで引き寄せる。
「やっぱり〈ツール〉でしたね。
簡単に特性を説明してください」
「何故お前に――」
「守屋さんの身体、押しても良いですよ?
命がかかっているなら話す気にもなりますよね?」
からかうように笑う夕陽。
守屋はしかめっ面を浮かべ、早口で指輪について説明を始めた。
「2つで1組の〈ツール〉。
身につけた者の間で2つ契約を交わす。
どちらかが死ぬまで契約は有効で、契約を破るか指輪を外すと死ぬ」
「契約内容は?」
「堤の命令に従うこと。
堤の不利益になる情報を漏洩させないこと」
「なるほど。2つの契約であれば一方的な内容が2つでも構わないと。
守屋さんにとってはただただ都合の悪い品物ですね」
「分かっただろ。
お前にはどうにも出来ない」
「そうですか?
以前、きちんとお伝えしたはずですよ。
私、こう見えて結構役に立つんです」
夕陽はにかっと笑って、それから守屋の左手を掴んでいた自身の左手に力を込める。
守屋があっけにとられているうちに右手で〈契約の指輪〉を掴み、強引に守屋の指から引き抜いた。
守屋が手を伸ばした頃には、夕陽は後ろに飛び退いて距離をとっていた。
右手の指先で〈契約の指輪〉を持って誇らしげにしている。
「バカ! お前、何をしてくれたんだ!?」
「何って、指輪を外しました」
「それを外したら命が――」
守屋はそこまで口にして、自分の身体に異常がないのを確かめる。
以前の〈契約の指輪〉の持ち主は、指輪を外すと同時に身体が溶けるようにしてあっという間に命を落とした。
だが今のところ守屋の身体にそう言った症状は出ない。
夕陽はそんな守屋へと笑みを見せて言う。
「指輪を外したのは私ですから」
「バカな、そんな訳あるか。
そんな簡単な代物じゃない」
「ではもう一度はめてみます?」
夕陽が〈契約の指輪〉を守屋へと差し出す。
守屋はそれを受け取ってもう1度指にはめようなどとは思わなかったが、夕陽が一体どんな細工をしたのか気になって指輪へと手を伸ばす。
しかし守屋の手が〈契約の指輪〉へ触れる寸前、夕陽は指輪を引っ込めて、守屋の手首を掴むと自分の方へと引き寄せた。
一歩前に出る守屋。
夕陽へ対して苦言を呈すも、やはり身体に異常はない。
「ほら。契約は無効です。
私、役に立つでしょう?」
守屋は夕陽から拳銃を受け取りホルスターへとしまう。
それから真っ直ぐに、夕陽の大きな瞳を見て問いかけた。
「お前は一体何者なんだ」
「その話は後です。
それに、折角助けてあげたのに感謝の言葉がまだです」
守屋は慌てて礼を言おうとするのだが、夕陽は遮った。
「さあ、堤さんを追いかけましょう!
”水牛の像”について問い詰めないといけません!」
守屋と夕陽は急いで堤が出て行った倉庫の通用口へと向かう。
車のエンジン音。
黒のBMWが雨水を跳ねながら倉庫の敷地から飛び出していった。
「遅かったか」
「いえ。迎えが来ました」
ちょうど建設中倉庫の敷地内へ、真っ赤なランサーエボリューションが突っ込んできた。
車が2人の目の前で停止すると、助手席の飛鳥井が「早く乗って」と声をかける。
急ぎ車内に乗り込む守屋と夕陽。
「お前が呼んだのか?」守屋が夕陽へと問う。
「はい。必要かと思いまして」
夕陽は平然と答えた。
飛鳥井と仁木は詳細は知らないものの、逃げていったBMWの存在は把握していた。
直ぐにエンジンを唸らせ車を加速させながら、仁木は指示を仰ぐ。
「BMW追いかけりゃいいんだな」
「Mバッジですよ? 追いつけます?」
夕陽が運転席側に顔を出して尋ねる。
それに対して仁木は歯を見せてニッと笑うと、自慢げに言った。
「問題ない。
こいつは公道最速の車だ。
それに、ドライバーの腕が違うぜ!」
ランサーエボリューションは泥道だろうが構わず急加速して狭い道へと飛び出した。
堤のBMWのテールランプが雨の向こう、かなり先に見える。
「大通りに出られたら厄介だわ」
「分かってる!」
仁木はアクセルを踏み込み、ギアチェンジを繰り返し、車体を自分の身体の一部のように操り路地を抜ける。
畑の広がる市道に出てからもアクセル全開で爆走。
あっという間に先を進んでいたBMWに追いついた。
「追いついたぜ。横に並ぶか?」
仁木が次の判断を求める。
飛鳥井も拳銃を手に、指示があればタイヤを撃ち抜くと示す。
だが守屋が答えるより先に、夕陽が口を開いた。
「進路塞げます?」
「追突されるぞ」仁木が返す。
「絶対減速するので大丈夫です。
この路面状況でFRですから恐らくスリップします」
「なんで――いや了解。任せとけって」
仁木は夕陽の言葉に対して深く考えず再加速。BMWの横に並び、あっという間に追い抜いた。
ランサーエボリューションがBMWの前に躍り出る。
夕陽は名刺入れを手にすると、そこから1枚名刺を取り出した。
瞬間、BMWが急減速。
同時にスリップして畑の用水路に突っ込む。
浅い用水路に落ちたBMWはエンジンから煙を吹き出し完全に停止した。
「何をした?」
守屋が怪訝そうに夕陽を見る。
だが夕陽はそれを取り合わない。
「尋問が先です」
そのまま彼女は車外に出て、BMWのドアを開けようとする。
だが変形したらしく力尽くでは開かない。
彼女に変わって飛鳥井が消防用ハンドアクスでドアを切断。そのままエアバッグを引き裂き、運転手を外へと引き釣り出した。
「〈ストレージ〉の堤さん?
どういうこと?」
逃亡者の姿を見て飛鳥井が守屋へと問う。
「後で話す」
しかめっ面のまま回答をはぐらかす守屋。そのまま堤を見下ろした。
堤は憔悴しきったやつれた顔をしていた。倉庫での勝ち誇っていた表情はどこかへ行ってしまったらしい。
堤にとっても謎ばかりだろう。
死んだはずの夕陽に肩を撃たれ、こうして無防備な状態で車外に引き釣り出されている。
どうしてこの状況になったのか。説明できる人間は、淵沢夕陽だけだ。
「尋問、任せて貰って良いですか?」
夕陽が立候補すると、守屋は彼女を一瞥する。
何を考えて居るのか分からない、おかしな言動と行動を繰り返す脳天気なバカ女。
これまで守屋は夕陽をそう認識していた。
だが今となっては違う。
ふざけているように見えるのは、彼女がそう見えるように振る舞っているから。
脳天気かも知れない。だが決してバカではない。
何を考えて居るかは分からない。
分からないが、確かなこともある。
淵沢夕陽を突き動かしているのは、『自分自身が何者なのか知りたい』。
そんな単純なことで、だが彼女にとっては大切なことで、そのためならば彼女は危険を顧みず行動する。
たとえ自分が死ぬことになろうとも。
情報を得られる可能性があれば、銃口の先にすら身を晒す。
淵沢夕陽はそういう人間だ。
「任せる」
完全に一任する守屋。
夕陽ならば自身が知りたい情報は必ず引き出すだろうという期待と、堤とは口をききたくないという拒絶からの判断だった。
それに夕陽は笑顔で礼を言って、仁木へと1つ告げる。
「少しの間だけ、堤さんを喋らせないでください」
「おうよ」
粘着テープが堤の口に容赦なく貼り付けられる。
彼は抵抗する力もなく、為す術もなく口を塞がれ、そして怯える瞳で夕陽の姿を見た。
「これなんだか分かりますよね?」
夕陽は〈契約の指輪〉を見せて尋ねる。
堤は目を大きく見開き困惑して指輪を見やる。それから守屋の姿を見た。
守屋は生きている。
〈契約の指輪〉が外されたはずがない。
だが確かに、守屋の左手には指輪は存在しなかった。
「どんな契約にも解除方法は存在するものですよ」
言って夕陽は、〈契約の指輪〉を自分の左手薬指にはめる。
それからゆっくりと、言葉をしっかりと発音するようにして告げた。
「私が望む契約は2つ。
1つ。栞探偵事務所に対して危害を加えるような行動は慎むこと。
1つ。私に対して決して嘘をつかないこと。
よろしいですね?」
堤は首を縦に振ることはなかった。
それでも夕陽は一方的に契約を交わしたのでよしとすると、仁木へと堤の拘束を解くように言う。
粘着テープが剥がされ、痛みに堪える堤。
夕陽はそんな彼の間近へ寄って、右手を突き出す。
人差し指を1本だけぴんと立てたその手を見せて、堤へと笑顔で問いかける。
「どうしても私が確認したいのは1つだけです」
1つ。と口にしたタイミングで、ぴんと立てていた人差し指を揺らす。
堤はその問いかけを待つように、怯えた瞳で夕陽の顔を見ていた。
「何だと思います?」
夕陽が問いかける。
堤は困惑し、視線を逸らし、それから逃げられないかと後ずさる。しかし逃げ場などない。
車もお釈迦になっているし、素手の殴り合いでは決して勝てない飛鳥井が直ぐ側に控えている。
堤は観念して夕陽の顔を真っ直ぐ見ると、震えながら言葉を紡いだ。
「”水牛の像”については、何も――何も知らない。本当だ。
ただ回収するよう、指示を受けただけだ」
夕陽は堤の答えに一瞬ぽかんとした表情を見せた。
それからはもう堤に対して興味を失ったようで、突き出していた右手を引っ込めると、控えめな笑みを浮かべた。
「残念です。
では後の質問は答えたくなければ答えなくても良いです。
GTC鴻巣さんの話にあった、精霊だとか人形のような存在については何か知っていますか?」
「知らない。実物を見たことも、情報もない」
「スーパービジョンの目的は?
〈ツール〉を集めて何をするつもりですか?」
問いかけに堤は口をつぐむ。
沈黙を見て、夕陽は次の問いを口にする。
「堤さんへ指示を出したのは誰ですか?」
またしても堤は答えない。
だがそれは夕陽も予想済みだったようで、残念がることもなく、きっぱりと尋問を打ち切った。
「そうですか。ではもう良いです。
本日の”出来事”について忘れてくれさえすれば、後は好きにして構いません。
スマホは持ってますよね? タクシーでもJAFでも救急車でも呼んで、どうぞお帰りください」
夕陽は仁木と飛鳥井に、もうこの場に堤をとどめておく必要はないと目配せした。
夕陽自身もランサーエボリューションへと歩き始める。
そんな彼女へと飛鳥井が駆け寄り、並んで歩きながら問いかける。
「指示役の名前は知ってるはずよ。
拷問しなくていいの?」
「はい。知りたかった情報は持っていないようなので。
ですが知ってる人とは繋がりがありそうです。
痛めつけるより泳がせた方が得られる物が多いと思います」
夕陽の判断をきいて、飛鳥井も一理あると頷いた。
夕陽は笑みを見せて続ける。
「それに拷問すれば恨みを買います。そこまでしたくはありません。
――拷問すれば吐かせる自信はありますけどね! やったことないですけど」
「そうね。
拷問なんてしないで済むならそれに超したことはないわ」
堤をその場に残し、4人はランサーエボリューションに乗って、GTCが拠点にしていた倉庫へと戻る。
そこで警察の目を盗んで社有車のプリウスを回収し、事務所へと帰還した。
事務所に戻ると彼らはすっかり雨に濡れてしまった服を着替える。
夕陽は着替え終わると、事務所を出て守屋の部屋へと向かった。
ノックして「私です」と告げると、守屋は扉を開けた。
「何か用か?」
Tシャツにズボンというラフな格好で出迎えた守屋。
夕陽は笑顔を向けて答える。
「所長さんが私に何か用があるのではないかと思って」
夕陽の笑顔を見て、守屋は顔をしかめた。
それからまだ乾ききっていない髪を手でくしゃくしゃといじって、不承不承ながらも口を開く。
「助けてくれてありがとう」
口にした以上の価値はない棒読みの言葉。
だが夕陽はその言葉にぱっと笑顔を輝かせて、胸を張って見せた。
「こちらこそ。お役に立てて良かったです。
中へ入れて頂いても?」
「玄関までだ」
言って守屋が扉を大きく開ける。
夕陽が部屋へと入ると扉は閉じられた。
夕陽はその場から室内を眺める。
事務所用の建物だけあって酷く殺風景だ。
それでも人が1人住む分には文句のない居住空間だった。
お風呂がないのが夕陽にとって絶対に妥協できないポイントではあったが、守屋はそのあたり銭湯で構わないと割り切っているのだろう。
部屋を眺め回す夕陽。
その視界を遮るように守屋は正面に立ち、尋ねる。
「お前は何者なんだ」
様々な意味を含む問いかけ。
今日だけでも夕陽を中心として起こりえない現象が起こった。
その問いに対して夕陽は曖昧な笑みを浮かべる。
珍しくしゅんとした、暴力的な明るさのない控えめな笑み。
「私も、それを知りたいんです」
真っ直ぐな答え。
その答えは半年前。採用面接の場でもなされた。
夕陽が行動を起こす原動力。
それは『自分は何者なのか』という根源的な悩みだ。
守屋は答えを出せない。
淵沢夕陽は何者なのか。
その問いに答えを出せる人間は居ない。
行政にも明らかに出来なかった。
本人ですら、10歳以前の記憶が存在しない。
夕陽は嘘が嫌いだ。
嘘をつかないという彼女の言葉を信じるのならば、記憶がないというのも事実であるはずだ。
守屋はそんな彼女を見据えて、これまで言いたかったが我慢してきた問いを重ねていく。
「いろいろ聞きたいことがある。
確かに殺したにも関わらず生きていること。
不発の銃と実弾が出たモデルガンについて。
〈契約の指輪〉を外した方法。
”水牛の像”の行方。
精霊について。
それ以外にもいくつか腑に落ちない点がある」
並べられた問いに夕陽はうんうんと頷いた。
だが彼女が口を開くより先に、守屋は拳銃を引き抜いた。
右手で持った拳銃は構えられることはなく、ただその存在だけが夕陽の目の前に示される。
「だがまず1つだけ答えろ。
あの時、間違いなくこの銃でお前を撃った」
「今生きている理由ですか?」
「違う」
夕陽が問いかけを予想して返したのだが、守屋は明確に否定した。
予想通りではないと知り、夕陽はだとしたらどんな質問なのかとわくわくした様子で次の言葉を待つ。
「お前は撃たれた。
なのにどうして、撃った人間と平気で一緒に居られる」
守屋が他の全ての疑問をおいてでも知りたかったこと。
その質問を受けて、夕陽はクスクスと笑い、やがて我慢できなくなったのか大きく声を出して笑った。
「何がおかしい」
不機嫌を隠さず告げる守屋。
だが夕陽は笑い止まない。
声を上げて笑い、やがて笑いすぎて涙目になりながら言葉をひねり出す。
「所長さん。その質問は、ずるいですよ!」
そんな風に返されて守屋は納得いかない。
何がずるいというのか。
たった1つ。他の質問への回答を先送りにして、まず一番に聞きたかったことだ。
あの時、守屋は夕陽を撃った。
確実に殺すために脳天を撃ち抜いた。
なのに彼女は守屋に対して一片の恨みも抱かない。
いつものように笑顔を向け――それどころか、いつも以上に上機嫌に、大きな瞳をキラキラと輝かせて接している。
「説明しろ。なにがそんなにおかしい」
笑い続ける夕陽へと守屋は業を煮やして命令する。
夕陽はようやく笑いが収まってきたが、それでもニヤニヤとしながら、溢れ出た涙を拭って答える。
「所長さんたっての質問ですから答えますけど、本当にその質問で良いですか?」
「構わない。答えろ」
厳格に命じられて、夕陽は微笑みながらも、しっかりとした口調で告げる。
「所長さんは私を撃った。
だから私に嫌われたり恨まれたり、避けられたりしてもおかしくないと思った訳ですよね。
でも私にはそんな気は全くありません。
その理由を答えたら良いですか?」
「そうだ」
守屋が頷いて見せると、夕陽も「分かりました」と頷いて見せて、背筋を伸ばし、真っ直ぐに守屋の顔へと視線を向けた。
それからいつもと違う、落ち着いた声で告げる。
「所長さんが私を撃ったからです」
それが答えだと、一瞬守屋には分からなかった。
だが夕陽がそれ以上何も言わずに微笑むのを見て、答えがたったそれだけだったと知る。
「待て。説明になってない」
「ええ。だから本当にその質問で良いかと尋ねました。
でも今ので全てです。
所長さんは私を撃った。だから私に拒絶されないか心配している。
所長さんが私を撃った。だから私は所長さんを信頼している。
この2つは矛盾しません。
嘘じゃないですよ?
私、嘘は嫌いなんです」
ニコッと笑う夕陽。
守屋は理解が追いつかない。
撃たれたから信頼している。
とんでもない妄言だ。照準は頭に合わせていた。確実に殺すつもりで撃った。
そんな相手をどうして信頼できるのか。
守屋が戸惑っていると、やはり夕陽は笑顔を向けて、ポケットから何かを取り出すと差し出した。
守屋は銃を持っていない方の手でそれを受け取る。
「返しておきます。
もう必要になることはないでしょうけど」
守屋が手を広げると、そこにあったのは〈契約の指輪〉だった。
夕陽は1度身につけたがそれを難なく外している。
驚きもしない。既に1度やったことだ。
「〈ツール〉を無力化したのか?」
問いかけられた夕陽は、笑顔のまま首を横に振った。
「答えませんよ。
今日の分はさっきの質問でお終いです。
もし私について知りたいことがあるのでしたら、どうぞ調べてみてください。
そして分かったことを是非教えてください。
所長さん、以前は凄腕の探偵だったとお聞きしています。
私の正体について、私の知らないことを突き止められるかも知れません。
何もかも調べ尽くしてしまって構いませんからね」
夕陽はそう言って微笑み、「今日はこれで失礼します」と一方的に別れを告げて守屋の部屋を後にした。
残された守屋は、手のひらの上で転がる〈契約の指輪〉を見る。
外されるはずのない〈ツール〉が外された。
それだけではない。
今日だけでも淵沢夕陽を中心に、起こり得ないことが立て続けに起こっている。
心当たりがないわけではない。
通常の物理法則を超越し、不可能を可能にしてしまう物体を守屋は知っている。
〈ツール〉だ。
淵沢夕陽は、〈管理局〉も感知しないような、効力不明、特性不明の不思議な〈ツール〉を所有している。
そしてそれを利用して、自分は何者なのかを突き止めようとしている。
「淵沢夕陽」
彼女の名前を1人、小さく呟く守屋。
〈契約の指輪〉の呪縛から、堤の支配から、守屋は解放された。
やりたくもないスーパービジョンの下請けなどやらなくていい。
これからは好きなことを出来る。
そして守屋には、新しく興味を惹かれる対象が出来た。
本当のことを知りたい。そういう彼女に触発されて、守屋自身も、本当のことを追い求めたくなった。
「――少し、調べてみるか」
夕陽と初めて会った就職面接からおよそ半年。
真面目に調査すれば、これまで見落としていた点に気がつくかも知れない。
守屋は自室の書類棚に雑にしまわれた、淵沢夕陽の入社前身辺調査資料を引っ張り出した。
◇ ◇ ◇
ツール発見報告書
管理番号:未登録
名称:契約の指輪
発見者:堤悟
影響:A
保管:D
特性:2つで1組。
身につけた者同士で交わされた2つの約束が、
どちらかが死ぬまで遵守される。