第7話 牝鹿像奪還作戦
文字数 9,322文字
港の入場門管理記録に、早朝4時過ぎ、トラックの通過情報が残っていた。
映像を取り寄せて確かめてみると、それは葛原精機から持ち出されたのと同型のトラックだった。
ナンバーは変更してあったが、守屋は港に牝鹿像があると判断して、その旨オーナーへと伝える。
「即時回収せよとの命令だ。
緊急オーダー適用。火気の使用許可が下りた」
守屋は共用スペースに設置されていた金庫を開ける。
中には社印や権利関係の書類。だが金庫は2重底になっていて、分厚い鉛版を外すと別の箱が取り出される。
「わあ。本物ですか?」
箱から出てきたのはオートマチック拳銃。3丁あるが全て別の型で、守屋が飛鳥井と仁木へと手渡し、続いて弾倉を配る。
その様子を夕陽はわくわくして眺めていたのだが、拳銃は3丁しか無い。
当然、夕陽の分は無かった。
「私の分は何処です?」
「ない。
素人が持っても自分か味方を撃って終わりだ」
「私だけ丸腰です」
「ついてこなくて良い」
「そう言わずに。絶対お役に立ちますよ」
「遊びじゃ無いんだ」
「分かってます。
その上で、お役に立つと約束しています」
守屋は大きくため息をつくと、共用スペースに乱雑に置かれていた荷物の中から、小さな箱を引っ張り出した。
新品同然のそれを夕陽は受け取って、早速中身を確認。
それは実銃にはほど遠い、ガスガンであった。
「わあ。おもちゃですけどこれはこれでありですね」
夕陽はガスガンを気に入ったようで、子供みたいに無邪気に笑う。
小型で夕陽の手にも収まるサイズの、比較的軽いモデルの銃だった。
各位準備を済ませ、夕陽も一応ガスとBB弾の充填を済ませた銃をカバンにしまい込む。
夕方を過ぎ、既に日は落ちていた。
夕闇の中を4人が乗ったプリウスは進み、目的の港にたどり着く。
港関係者には事前連絡済み。オーナー側から手を回して貰っていて、調査許可も得ている。
港の中へと車で乗り入れ、〈管理局〉の所有する倉庫前へと駐車。
4人は外に出て調査を開始する。
例のトラックが外に出た記録は無い。牝鹿像がまだ残っているかは分からないが、少なくともトラックは存在しているはずだ。
「倉庫の使用状況についての資料だ。
これを参考に捜索を。仁木は船舶用クレーンを見張っててくれ。
中身の分からない物体を積み込もうとする奴がいたら直ぐに港管理業者へ連絡して作業を中断させろ」
「了解」
仁木がクレーンの監視へと向かう。
守屋と飛鳥井はそれぞれ分かれて捜索するつもりだった。
だが夕陽は3人を呼び止めた。
「ちょっと待ってください」
「何だ」守屋は作業中断させられたことに不快感をあらわにぶっきらぼうに返す。
「あ、声は小さめでお願いします」
夕陽はそう言うと、資料を軽く眺めながら告げた。
「多分、いるとしたらここですよ」
示したのは資料――ではなく、背後にある倉庫だった。
それは〈管理局〉が所有しているもので、倉庫としては小さいがトラック程度なら十分に収まる。
「一応理由をきこうか」
「安全だからです。
オーナーから連絡して貰えば、栞探偵事務所に対する捜査も中断されるし、こうやって港も好きなように調べ回れる。
〈管理局〉は警察権に対する干渉が出来るんですよね?
当然、国家機密を保管する可能性があるこの倉庫に対しても、警察は捜査できません。
それが分かっていればこの倉庫を選ぶ理由は十二分にあると思います」
「GTCやらなんかが〈管理局〉の倉庫を把握していると?」
「スーパービジョンでしょうね。
GTCは〈ツール〉の売買や貸し出しを行う、つまり営利目的の団体です。
今回の牝鹿像に関していえば、輸送困難なのですから売買は成立しないと思います。
だとすれば研究目的のスーパービジョンが一番怪しいです。
倉庫の情報をどうやって仕入れたのかは分かりません。ですが、〈ストレージ〉から〈ツール〉を盗んだりしているなら、内部情報を少なからず知っていると推測は出来ます」
守屋は「いいたいことは分かった」と頷いて見せる。
それからスマートフォンを取り出して、〈管理局〉の情報について調べる。
「倉庫に保管されている〈ツール〉はなし。
現在は空の状態だ」
「つまりろくな警備もしていない状態。更にいえばトラック1台隠されても誰も気がつかない状態ですね。
こっそり調べてみる価値はあると思いませんか?
どうせ他の倉庫で何も見つからなかったら、ここも調べることになるのでしょう?」
守屋は怪訝そうな顔をしながらも、飛鳥井へと視線を向けて偵察を指示する。
それを受けて飛鳥井は倉庫の裏手へと回る。
〈ツール〉の一時保管にも用いられる倉庫なので、外から内側を直接確認する方法は無い。
裏手につくとそちらの通用口を確認。
〈管理局〉が設置した鍵とは別に、南京錠がかけられていた。
「こちら飛鳥井。
裏口の鍵が増えてる。この倉庫怪しいわよ」
連絡を受けて守屋はため息をつきつつも、仁木へとクレーンの監視を取り止めさせて、倉庫正面に張り付かせる。
夕陽には裏手へ回って飛鳥井と合流するように指示した。
「割り振り大丈夫ですか?
こういう場合、女性2人で組ませます?」
「安心しろ。
飛鳥井は男2人より強い。あいつの近くが一番安全だ」
「そう言われてみるとそうかも知れません。
では私は飛鳥井さんのサポートを担当しますね」
これから何が行われるのか本当に分かっているのか不明なほどに、夕陽は脳天気に微笑むと、軽い足取りで裏口へと向かっていった。
「あいつは大丈夫なんだろうな」
「ヒトミちゃんが守るだろ。
それより正面どうするんだ? 重機持ってくるか? それとも爆破して吹っ飛ばすか?」
「どっちも遠慮したい。通用口から入る。
正面は車止め設置してトラックが通れないようにしてくれ」
「了解。ちょっくら車止め借用してくる」
仁木が作業に向かうと、守屋は電話をかける。
相手は直ぐに出て端的に行動方針を伝えた。
――死者は出すな。〈ツール〉は無傷で確保しろ。
分かりやすく明確だ。守屋は通話を終了すると、正面通用口の電子錠に向き直り、解錠の準備を進めた。
◇ ◇ ◇
『正面シャッター前は塞いだ。
もうトラックは外に出られない。こっちは通用口から入る』
守屋からの連絡を受けて、飛鳥井は頷いた。
「淵沢さん、これを」
「わあ、これずっと欲しかったんです」
無線イヤホンを受け取って、夕陽は早速右耳に装着した。
栞探偵事務所の面々とはこれで連絡が取れる。
「それで、どうやって鍵を開けるんですか?」
「簡単よ。これを使うわ」
飛鳥井は肩から提げていたブックカバーから分厚い本を取り出す。
外国の本らしく表題は英語。
一見して普通の本であった。だがわざわざ飛鳥井が常に持ち歩いているのだから、普通の本であるわけが無い。
「やっぱり〈ツール〉ですよね。
それで、どんな力があるんですか?」
「〈鉄の書〉。
背表紙がもの凄く固いのよ」
「え? ごめんなさい、ちょっと理解できなかったです」
「背表紙がもの凄く固いの」
言うが早いか、飛鳥井は容赦なく本の背表紙で南京錠を叩きつけた。
鈍い音がして変形した南京錠。それは強引に外される。
「……この〈ツール〉使う必要ありますか?
消防用斧で代用ききますよね?」
「斧を持ち歩いていたら警察に捕まるでしょ」
「本なら捕まらないと?
でも使いづらくないですか?」
「わたしはそう感じたことは無いわ」
わあ、この人本物だ。
夕陽は思った言葉を口に出さずに呑み込んで、飛鳥井の指示に従い後に続く。
倉庫の事務用スペース。人は居ない。
先に進むと倉庫区画へと通じる扉。
横開きで、飛鳥井は注意を払って音を立てないように少しだけ開く。
「倉庫の内部確認。トラックは見える。幌がかかっててナンバーが見えない」
『通用口解錠成功。
こっちも中に入った。倉庫中に人は居るか?』
「少し時間ちょうだい」
声を潜めてやりとりしながら、飛鳥井は扉の隙間へと内視鏡のように先端が曲がる小型カメラを差し込み、その映像を端末で確認する。
倉庫内を見渡すと中央には牝鹿の像。間違いなく、葛原精機から盗まれた代物だ。
像の近くに置かれた机。その周囲に2人の男。彼らは休憩中らしく、カードをやりとりしている。
「倉庫中央に牝鹿像発見。
そこから3メートル倉庫奥側に机。男が2人」
『了解。
銃は見えるか?』
「こちらからは見えない。机の上が死角になっている」
『武装してるとみて行動する。
増援依頼中。〈ストレージ〉から応援が来る』
会話を聞いていた夕陽は、飛鳥井の袖を軽く引いて1つ助言する。
「2人しか居ないのは変です。
あの石像を運び出すのには2人だと手が足りません。
外に出ているとすれば、直ぐに戻ってきますよ」
「確かにそうね。
――恐らく敵の一部は外出中。このまま待機してると戻ってきた奴らに見つかるわよ」
『了解。迅速に倉庫を制圧して牝鹿像を確保する。
死者は出すな。牝鹿像にも傷はつけるな』
「難しいこと言ってくれるわね。でも了解」
通信を聞いていた夕陽は、本当に突入するんですかと首をかしげる。
だって、牝鹿像は接近する物に対して作用する。
銃弾は減速するだろうし、近づこうとして走ったとしても押し返されるはずだ。
牝鹿像により近い位置に居る男達に、攻撃する手段も接近する手段も無いはずだ。
『こちら準備良し。
3で突入する。――1、2、3!!』
「待った方が――」
夕陽が制止をかけるが間に合わなかった。正面側では守屋と仁木が扉を開けて中へ。
飛鳥井も同時に扉を開き、銃を構えて踏み出そうとした。
「飛鳥井さんストップ!」
「何!? ――まずい」
夕陽は抱きつくようにして飛鳥井の突入を止める。
男の1人がこちらに気がつき、机の上に置いてあった銃を手にした。
咄嗟に飛鳥井は男の足下を狙って発砲。すぐさま後ろに退く。
「何してるのよ!」
「危ないですよ!
向こうは牝鹿像の近くに居るんです。こっちの攻撃は通らないし、近づけません!」
『銃弾が失速する! 届かないぞ!』
守屋から報告。
彼らは攻撃が通らないことを知って、とって返したようだ。
飛鳥井も状況を理解して分厚い壁の裏へと隠れながら小型カメラで倉庫内を再度確認する。
「もっと早く言わないと意味ないわよ」
「遅かったのは謝ります。
でも当然皆さん気がついていると思ってました」
夕陽は手にしたガスガンを扉の縁へと向けて構える。
トリガーには指をかけず、右手の人差し指は伸ばしたまま。
扉から少しだけ出して、銃口を牝鹿像へと向けると、向こうから放たれた銃弾が金属製の扉を叩いた。
飛鳥井は「危ないから下がってて」と夕陽を下がらせて、先ほどの言葉に対して弁明する。
「……それに関してはそうあるべきだったわ。〈ツール〉の存在を考慮していなかった。
――こちら飛鳥井。相手が1人牝鹿像を背にしてこっちを警戒してる。多分そっち側も見られてる。
完全に膠着状態よ」
「味方に連絡したでしょうね。
銃以外の武器は無いんですか?」
「有るにはあるけど」
飛鳥井はカバンから缶を取り出す。
夕陽にはそれが何なのか最初は分からなかったが、側面に英語で表記されている内容を読むに、暴徒鎮圧用の催涙ガスらしい。
「ガスマスク持ってきてないから、こっちもガスの中に入れなくなるわ」
「結構きついんですか?」
問いかけに飛鳥井は無言のまま頷いた。
「なら向こうが勝手に出てきてくれますよ。
それに牝鹿像は速度を完全に0にはしないみたいです。
像の真上から落ちるように投げられれば良い具合に効くと思います」
「そうは言っても手首だけじゃ真上まで飛ばせない。
一旦姿をさらす必要があるわ」
「分かりました。私が気を引きます」
「危ないわよ」
「大丈夫です。私を信じてください」
夕陽は自分の胸を右手の人差し指で示して、1つ微笑むと倉庫内へと突入する。
同時に壁沿いに真っ直ぐ走った。牝鹿像には近づかず、一定の距離を保って移動すれば減速しない。
だがそんな夕陽へと向けて男の構えた銃口が火を噴き、拳銃弾が襲いかかる。
「わっ! 本当に撃ってきた!」
夕陽は床を強く蹴って跳躍。銃弾は背後を通過した。
床を転がった夕陽はぴったり倉庫の柱の裏で止まり、身体をその背後に隠す。再び発砲音が響いたが、柱は鉄鋼製。拳銃弾程度では貫通できない。
その瞬間には飛鳥井が姿を現し、振りかぶって催涙ガスを投擲していた。
大きな仰角をつけて投げられたそれは、牝鹿像の真上に到達すると自由落下を開始する。
牝鹿像の頭に命中した缶が炸裂し、空中から催涙ガスが散布された。
吹き出した白色のガスはあっという間に牝鹿像周辺へと展開されて滞留する。
「催涙ガス投擲成功。
突入するわ」
飛鳥井が倉庫内に入る。
男達の姿はガスに阻まれて見えない。
だが咳き込む音が響き、それを頼りに飛鳥井は接近。
「いらっしゃい」
ガスの中から顔を押さえて飛び出してきた男の顔面を〈鉄の書〉で殴りつける。
鼻血を出して昏倒した男を容赦なく床に組み伏せ、結束バンドで両手を拘束する。
『1人確保』
「こっちも確保」
見張りについていた男は両方とも拘束された。
催涙ガスを吸い込んでいて、激しくむせ込み、目は真っ赤に充血している。
2人とも両手両足を縛られた状態で、倉庫の端へと運び出された。
夕陽はそんな彼らを見届けて、ようやく催涙ガスが晴れて姿を現した牝鹿像へと銃口を向けた。
トリガーを引くとBB弾が発射される。
それは牝鹿像へと近づく途中で失速し、床を転がった。
「間違いなく〈ツール〉ですね」
牝鹿像の能力を確認。
まだ男達の仲間が残っているが、仕事はほぼ完了と呼んで良い状態だった。
もし相手が奪還しに来ても、牝鹿像を背にして粘ればいい。相手が催涙ガスでも使ってこない限りは牝鹿像に近い側が有利。
それにしばらくすれば〈ストレージ〉から増援が来る。
守屋が牝鹿像の検証を開始。
夕陽はそこから離れて、捕らえられた男達の元へ向かう。
催涙ガスの影響は大きく、まだまともに呼吸すら出来ないような状況だった。
「この人達、どうするんですか?」
「〈ストレージ〉に引き渡す。
痛めつけるなよ」
遠くから守屋が釘を刺すと、夕陽は「そんなつもりはないです」と答えて、彼らの元でしゃがみ込んだ。
「お話聞かせて貰っても良いですか?」
2人はむせ込みながら顔を逸らす。
夕陽は構うこと無く笑顔を向けて問いかけた。
「スーパービジョンはどうしてあの像が〈ツール〉だと知ったんです?」
問いかけには回答が返ってこない。
「スーパービジョンであることは否定しないんですね」
試すように言葉を口にしたが、やはり男達は黙秘を貫いた。
「あんな物何に使うつもりです?
運ぶのも大変ですし、有効活用できる代物では無いと思います。
もしあれから〈ツール〉の能力だけ取り出せれば話は別かも知れないですけど」
やはり男達は何も答えない。
夕陽はガスガンのハンマーを起こした。
銃口を先ほど守屋と仁木の方へと向いていた男の頭部へと向ける。
トリガーには指をかけずに伸ばしたまま。その状態で告げた。
「見てください。
この銃、本物じゃ無いんです。驚きました?」
男は真っ赤な目で銃口を見つめた。
真っ直ぐに銃口を見れば、それが偽物であることは簡単に見破ることが出来る。
男は偽物の銃に対して興味を持たず再び目を逸らした。
その反応を見て、夕陽は微笑むと立ち上がる。
これ以上の質問は無意味だ。彼らからは必要な情報を聞き出せない。
所詮はスーパービジョンの下っ端に過ぎない。
「何か分かった?」飛鳥井が問う。
「はい。
あの人達、私の知りたいことは知らないみたいです」
◇ ◇ ◇
倉庫の出入り口を封鎖して、〈ストレージ〉が到着するのを待つ。
その間に牝鹿像の調査が行われた。
〈ツール〉としての特性を、一時保管可能となるレベルまでは調べておかなければいけない。
守屋と仁木が像の近くで手を動かして、牝鹿像へと拳を突き出すと大きく減速されることを確かめる。
押し返されるような、謎の力。
だがゆっくり動かせば謎の力もほとんど働かない。牝鹿像には問題なく触れることが出来る。
牝鹿像へ向けて勢いよく走ってみても同様で、身体は急激に重くなり前進する力を奪われるが、前のめりになって倒れ込むようにすれば像まで到達できる。
それにゆっくり歩いて向かえば、身体は重く感じるもののそのまま進み続けることが出来た。
夕陽はそんな2人へと向けて、手にした懐中電灯をつけたり消したりする。
その光に守屋が気づき、何のつもりかと視線を向ける。
視線が向いたのを見て、夕陽は大きく息を吸うと「ドレミファソラシド」の音階を刻む。
「何のつもりだ?」
「なんて聞こえました?」
守屋の問いに対して夕陽は問い返す。守屋はうんざりした様子で淡々と答えた。
「ドレミファソラシドと聞こえた」
「そうじゃなくて、音階はどうでした?」
音階? と首をかしげたのだが、守屋は夕陽の試したいことに気がついた。
音は波長によって高低が決まる。
波長は音速割る周波数。音速が遅くなれば、波長は小さく。音は高くなるはずだ。
「ずっと同じ音を頼む」
「はい。私、肺活量には自信がありますよ」
そう言って夕陽は再び大きく息を吸い込むと、ゆっくり息を吐きながら“C4のド”の音を奏でる。
守屋はその音を聞きながら、牝鹿像の元から夕陽の方向へと近づいた。
「変わらないな。
飛鳥井、少しだけ明かりを消してくれ」
飛鳥井が倉庫の明かりを消すと、守屋は夕陽へと目線で指示を出す。
言葉にされなくてもやるべきことを理解した夕陽は、手にした懐中電灯を牝鹿像へと向けて、数回明滅を繰り返した。
「光速にも異常なし。
速度に対して反力を生じてるわけでは無い」
光は真空中では約30万キロメートル毎秒。それが大気中であっても十分速いことは間違いない。
だが光の元となる光子の質量は0。
同じように音速も速度こそ十分に速いが、空気振動であるが故に運動エネルギーは少ない。
「銃弾は減速しましたよね。
となると運動エネルギーでしょうか。
同じくらいの形状の、重さの違う2つの物体を同じ速度で投げてみれば確認できると思います。
真空中で質量の分かった物体を究めて正確な速度で射出すれば、どのくらいのエネルギー減衰があるかも数式化できますね」
「そこまでやる必要はない」
守屋はかぶりを振って、調査はこれまでと切り上げた。
その時倉庫正面のシャッターが叩かれる。
守屋達は身構えたが、その後響いた声によって警戒を解除した。
「〈ストレージ〉の者だ。
栞探偵事務所の確保した品の回収に来た」
「早い対応助かった。
シャッターを開ける」
守屋が内側からシャッターを操作して開く。
やって来た〈ストレージ〉のメンバーは4名。彼らはシャッター前に並べられていた車止めを撤去して、手早く牝鹿像の搬出準備を進める。
「近づこうとする物体の運動エネルギーを減衰する。
車両で運び出すつもりではないですよね?」
守屋は〈ストレージ〉のリーダーと会話をかわす。
彼は大きく頷いて返した。
「船の準備が出来ている。
一度海上から簡易保管所へ搬送するつもりだ」
「それなら問題ないだろう。
捕らえたスーパービジョンの2名も回収頼みたい」
「彼らがスーパービジョンだと言ったのか?」
「いいや、推論に過ぎない。
彼らは黙秘を貫いてる。聞き込みはそっちで好きなように」
「了解。任された」
牝鹿像はリフトで運び出されて、そのまま〈管理局〉の用意した船舶へと乗せられる。
一緒に男2人も連れて行かれ、〈ストレージ〉は船を出した。
「何処へ運ぶんです?」
「さあ。行き先は分からない。
いくつかある簡易保管所のうち、海沿い近くにある場所だろう」
守屋は夕陽の問いかけに返答すると次の指示を飛ばす。
「銃弾を回収して事務所に戻る」
指示を受けてそれぞれが銃弾の回収へ向かう。
夕陽も自分に向けて撃たれた2発の銃弾と、飛鳥井が牝鹿像へ向けて撃った銃弾を床から拾い上げ、それから扉にめり込んだ銃弾を回収する飛鳥井の元へ赴いた。
飛鳥井はその馬鹿力で扉から銃弾を引き抜くと、確保時に不用意に突入した夕陽を咎める。
「淵沢さん。
次から危ない真似は無しよ。相手が銃を構えてるところに飛び出していくなんて危険極まりないわ」
「でも当たらなかったです」
「結果論よ」
「そうですけど。――いえ、ごめんなさい。次から気をつけますね」
夕陽ははにかんだように笑うと、飛鳥井が差し出したビニール袋へと拾ってきた銃弾を入れた。
「――あれ?」
違和感を感じた飛鳥井が首をかしげる。
それに夕陽が「どうしました?」と問いかけると同時、守屋が撤収を呼びかけた。
飛鳥井は違和感について考えるのを止めて、回収した銃弾を守屋へと手渡す。
それから4人は倉庫を後にして車で事務所へと戻った。
守屋からオーナーへと、牝鹿像の発見と〈ストレージ〉への引き渡し。盗難犯2名の確保が報告され、後の処理はオーナー側で行う旨が伝えられた。
「ちなみに残業代って出ますか」
夕陽が帰り支度をしながら問いかける。
時計の針は8時を回っていた。定時を過ぎて勤務するのは初めてなので当然の疑問だった。
飛鳥井はその問いに対して小さく笑った。
「出るわよ。
それに危険手当も。お小遣いみたいなものだけどね」
「わあ、危険手当! 給与明細には何という名目で記載されるのか、今から楽しみです!」
飛鳥井は「なら教えないでおく」と返して、帰宅する夕陽を見送った。
飛鳥井は事務室の窓から夕陽がバス停に向かう姿を確かめて、それから倉庫で感じた違和感について確認すべく、守屋へと問いかける。
「守屋さん。さっき預けた銃弾、見せて貰っても良い?」
「それは今じゃないとダメか?」
守屋はオーナーへの詳細報告のための資料作りと、かかってきた電話に対する応対とで忙しそうにしていた。
飛鳥井はため息一つついてかぶりを振る。
「少し気になっただけですので、全く急ぎではありません。
それより〈ストレージ〉へ提出する資料作成なら手伝いますよ」
「最初から頼むつもりだ。
明朝までには欲しい」
「了解。直ぐ取りかかります」
飛鳥井は自分の席に戻り、〈ツール〉に関する調査記録についてまとめ始める。
オーナー、〈ストレージ〉、〈管理局〉、それに葛原精機。
報告書を出さなくてはいけない対象が多すぎる。
特に葛原精機に対する調査報告書は、なんと説明するのか考えておかなければいけない。
発見した牝鹿像が〈ツール〉である以上、返却することは出来ないのだから。
◇ ◇ ◇
ツール発見報告書
管理番号:KK00286
名称:葛原精機牝鹿像
発見者:守屋清美
影響:S
保管:A(恒久保管所までの輸送困難)
特性:接近する物体の運動エネルギーに対して減衰作用
映像を取り寄せて確かめてみると、それは葛原精機から持ち出されたのと同型のトラックだった。
ナンバーは変更してあったが、守屋は港に牝鹿像があると判断して、その旨オーナーへと伝える。
「即時回収せよとの命令だ。
緊急オーダー適用。火気の使用許可が下りた」
守屋は共用スペースに設置されていた金庫を開ける。
中には社印や権利関係の書類。だが金庫は2重底になっていて、分厚い鉛版を外すと別の箱が取り出される。
「わあ。本物ですか?」
箱から出てきたのはオートマチック拳銃。3丁あるが全て別の型で、守屋が飛鳥井と仁木へと手渡し、続いて弾倉を配る。
その様子を夕陽はわくわくして眺めていたのだが、拳銃は3丁しか無い。
当然、夕陽の分は無かった。
「私の分は何処です?」
「ない。
素人が持っても自分か味方を撃って終わりだ」
「私だけ丸腰です」
「ついてこなくて良い」
「そう言わずに。絶対お役に立ちますよ」
「遊びじゃ無いんだ」
「分かってます。
その上で、お役に立つと約束しています」
守屋は大きくため息をつくと、共用スペースに乱雑に置かれていた荷物の中から、小さな箱を引っ張り出した。
新品同然のそれを夕陽は受け取って、早速中身を確認。
それは実銃にはほど遠い、ガスガンであった。
「わあ。おもちゃですけどこれはこれでありですね」
夕陽はガスガンを気に入ったようで、子供みたいに無邪気に笑う。
小型で夕陽の手にも収まるサイズの、比較的軽いモデルの銃だった。
各位準備を済ませ、夕陽も一応ガスとBB弾の充填を済ませた銃をカバンにしまい込む。
夕方を過ぎ、既に日は落ちていた。
夕闇の中を4人が乗ったプリウスは進み、目的の港にたどり着く。
港関係者には事前連絡済み。オーナー側から手を回して貰っていて、調査許可も得ている。
港の中へと車で乗り入れ、〈管理局〉の所有する倉庫前へと駐車。
4人は外に出て調査を開始する。
例のトラックが外に出た記録は無い。牝鹿像がまだ残っているかは分からないが、少なくともトラックは存在しているはずだ。
「倉庫の使用状況についての資料だ。
これを参考に捜索を。仁木は船舶用クレーンを見張っててくれ。
中身の分からない物体を積み込もうとする奴がいたら直ぐに港管理業者へ連絡して作業を中断させろ」
「了解」
仁木がクレーンの監視へと向かう。
守屋と飛鳥井はそれぞれ分かれて捜索するつもりだった。
だが夕陽は3人を呼び止めた。
「ちょっと待ってください」
「何だ」守屋は作業中断させられたことに不快感をあらわにぶっきらぼうに返す。
「あ、声は小さめでお願いします」
夕陽はそう言うと、資料を軽く眺めながら告げた。
「多分、いるとしたらここですよ」
示したのは資料――ではなく、背後にある倉庫だった。
それは〈管理局〉が所有しているもので、倉庫としては小さいがトラック程度なら十分に収まる。
「一応理由をきこうか」
「安全だからです。
オーナーから連絡して貰えば、栞探偵事務所に対する捜査も中断されるし、こうやって港も好きなように調べ回れる。
〈管理局〉は警察権に対する干渉が出来るんですよね?
当然、国家機密を保管する可能性があるこの倉庫に対しても、警察は捜査できません。
それが分かっていればこの倉庫を選ぶ理由は十二分にあると思います」
「GTCやらなんかが〈管理局〉の倉庫を把握していると?」
「スーパービジョンでしょうね。
GTCは〈ツール〉の売買や貸し出しを行う、つまり営利目的の団体です。
今回の牝鹿像に関していえば、輸送困難なのですから売買は成立しないと思います。
だとすれば研究目的のスーパービジョンが一番怪しいです。
倉庫の情報をどうやって仕入れたのかは分かりません。ですが、〈ストレージ〉から〈ツール〉を盗んだりしているなら、内部情報を少なからず知っていると推測は出来ます」
守屋は「いいたいことは分かった」と頷いて見せる。
それからスマートフォンを取り出して、〈管理局〉の情報について調べる。
「倉庫に保管されている〈ツール〉はなし。
現在は空の状態だ」
「つまりろくな警備もしていない状態。更にいえばトラック1台隠されても誰も気がつかない状態ですね。
こっそり調べてみる価値はあると思いませんか?
どうせ他の倉庫で何も見つからなかったら、ここも調べることになるのでしょう?」
守屋は怪訝そうな顔をしながらも、飛鳥井へと視線を向けて偵察を指示する。
それを受けて飛鳥井は倉庫の裏手へと回る。
〈ツール〉の一時保管にも用いられる倉庫なので、外から内側を直接確認する方法は無い。
裏手につくとそちらの通用口を確認。
〈管理局〉が設置した鍵とは別に、南京錠がかけられていた。
「こちら飛鳥井。
裏口の鍵が増えてる。この倉庫怪しいわよ」
連絡を受けて守屋はため息をつきつつも、仁木へとクレーンの監視を取り止めさせて、倉庫正面に張り付かせる。
夕陽には裏手へ回って飛鳥井と合流するように指示した。
「割り振り大丈夫ですか?
こういう場合、女性2人で組ませます?」
「安心しろ。
飛鳥井は男2人より強い。あいつの近くが一番安全だ」
「そう言われてみるとそうかも知れません。
では私は飛鳥井さんのサポートを担当しますね」
これから何が行われるのか本当に分かっているのか不明なほどに、夕陽は脳天気に微笑むと、軽い足取りで裏口へと向かっていった。
「あいつは大丈夫なんだろうな」
「ヒトミちゃんが守るだろ。
それより正面どうするんだ? 重機持ってくるか? それとも爆破して吹っ飛ばすか?」
「どっちも遠慮したい。通用口から入る。
正面は車止め設置してトラックが通れないようにしてくれ」
「了解。ちょっくら車止め借用してくる」
仁木が作業に向かうと、守屋は電話をかける。
相手は直ぐに出て端的に行動方針を伝えた。
――死者は出すな。〈ツール〉は無傷で確保しろ。
分かりやすく明確だ。守屋は通話を終了すると、正面通用口の電子錠に向き直り、解錠の準備を進めた。
◇ ◇ ◇
『正面シャッター前は塞いだ。
もうトラックは外に出られない。こっちは通用口から入る』
守屋からの連絡を受けて、飛鳥井は頷いた。
「淵沢さん、これを」
「わあ、これずっと欲しかったんです」
無線イヤホンを受け取って、夕陽は早速右耳に装着した。
栞探偵事務所の面々とはこれで連絡が取れる。
「それで、どうやって鍵を開けるんですか?」
「簡単よ。これを使うわ」
飛鳥井は肩から提げていたブックカバーから分厚い本を取り出す。
外国の本らしく表題は英語。
一見して普通の本であった。だがわざわざ飛鳥井が常に持ち歩いているのだから、普通の本であるわけが無い。
「やっぱり〈ツール〉ですよね。
それで、どんな力があるんですか?」
「〈鉄の書〉。
背表紙がもの凄く固いのよ」
「え? ごめんなさい、ちょっと理解できなかったです」
「背表紙がもの凄く固いの」
言うが早いか、飛鳥井は容赦なく本の背表紙で南京錠を叩きつけた。
鈍い音がして変形した南京錠。それは強引に外される。
「……この〈ツール〉使う必要ありますか?
消防用斧で代用ききますよね?」
「斧を持ち歩いていたら警察に捕まるでしょ」
「本なら捕まらないと?
でも使いづらくないですか?」
「わたしはそう感じたことは無いわ」
わあ、この人本物だ。
夕陽は思った言葉を口に出さずに呑み込んで、飛鳥井の指示に従い後に続く。
倉庫の事務用スペース。人は居ない。
先に進むと倉庫区画へと通じる扉。
横開きで、飛鳥井は注意を払って音を立てないように少しだけ開く。
「倉庫の内部確認。トラックは見える。幌がかかっててナンバーが見えない」
『通用口解錠成功。
こっちも中に入った。倉庫中に人は居るか?』
「少し時間ちょうだい」
声を潜めてやりとりしながら、飛鳥井は扉の隙間へと内視鏡のように先端が曲がる小型カメラを差し込み、その映像を端末で確認する。
倉庫内を見渡すと中央には牝鹿の像。間違いなく、葛原精機から盗まれた代物だ。
像の近くに置かれた机。その周囲に2人の男。彼らは休憩中らしく、カードをやりとりしている。
「倉庫中央に牝鹿像発見。
そこから3メートル倉庫奥側に机。男が2人」
『了解。
銃は見えるか?』
「こちらからは見えない。机の上が死角になっている」
『武装してるとみて行動する。
増援依頼中。〈ストレージ〉から応援が来る』
会話を聞いていた夕陽は、飛鳥井の袖を軽く引いて1つ助言する。
「2人しか居ないのは変です。
あの石像を運び出すのには2人だと手が足りません。
外に出ているとすれば、直ぐに戻ってきますよ」
「確かにそうね。
――恐らく敵の一部は外出中。このまま待機してると戻ってきた奴らに見つかるわよ」
『了解。迅速に倉庫を制圧して牝鹿像を確保する。
死者は出すな。牝鹿像にも傷はつけるな』
「難しいこと言ってくれるわね。でも了解」
通信を聞いていた夕陽は、本当に突入するんですかと首をかしげる。
だって、牝鹿像は接近する物に対して作用する。
銃弾は減速するだろうし、近づこうとして走ったとしても押し返されるはずだ。
牝鹿像により近い位置に居る男達に、攻撃する手段も接近する手段も無いはずだ。
『こちら準備良し。
3で突入する。――1、2、3!!』
「待った方が――」
夕陽が制止をかけるが間に合わなかった。正面側では守屋と仁木が扉を開けて中へ。
飛鳥井も同時に扉を開き、銃を構えて踏み出そうとした。
「飛鳥井さんストップ!」
「何!? ――まずい」
夕陽は抱きつくようにして飛鳥井の突入を止める。
男の1人がこちらに気がつき、机の上に置いてあった銃を手にした。
咄嗟に飛鳥井は男の足下を狙って発砲。すぐさま後ろに退く。
「何してるのよ!」
「危ないですよ!
向こうは牝鹿像の近くに居るんです。こっちの攻撃は通らないし、近づけません!」
『銃弾が失速する! 届かないぞ!』
守屋から報告。
彼らは攻撃が通らないことを知って、とって返したようだ。
飛鳥井も状況を理解して分厚い壁の裏へと隠れながら小型カメラで倉庫内を再度確認する。
「もっと早く言わないと意味ないわよ」
「遅かったのは謝ります。
でも当然皆さん気がついていると思ってました」
夕陽は手にしたガスガンを扉の縁へと向けて構える。
トリガーには指をかけず、右手の人差し指は伸ばしたまま。
扉から少しだけ出して、銃口を牝鹿像へと向けると、向こうから放たれた銃弾が金属製の扉を叩いた。
飛鳥井は「危ないから下がってて」と夕陽を下がらせて、先ほどの言葉に対して弁明する。
「……それに関してはそうあるべきだったわ。〈ツール〉の存在を考慮していなかった。
――こちら飛鳥井。相手が1人牝鹿像を背にしてこっちを警戒してる。多分そっち側も見られてる。
完全に膠着状態よ」
「味方に連絡したでしょうね。
銃以外の武器は無いんですか?」
「有るにはあるけど」
飛鳥井はカバンから缶を取り出す。
夕陽にはそれが何なのか最初は分からなかったが、側面に英語で表記されている内容を読むに、暴徒鎮圧用の催涙ガスらしい。
「ガスマスク持ってきてないから、こっちもガスの中に入れなくなるわ」
「結構きついんですか?」
問いかけに飛鳥井は無言のまま頷いた。
「なら向こうが勝手に出てきてくれますよ。
それに牝鹿像は速度を完全に0にはしないみたいです。
像の真上から落ちるように投げられれば良い具合に効くと思います」
「そうは言っても手首だけじゃ真上まで飛ばせない。
一旦姿をさらす必要があるわ」
「分かりました。私が気を引きます」
「危ないわよ」
「大丈夫です。私を信じてください」
夕陽は自分の胸を右手の人差し指で示して、1つ微笑むと倉庫内へと突入する。
同時に壁沿いに真っ直ぐ走った。牝鹿像には近づかず、一定の距離を保って移動すれば減速しない。
だがそんな夕陽へと向けて男の構えた銃口が火を噴き、拳銃弾が襲いかかる。
「わっ! 本当に撃ってきた!」
夕陽は床を強く蹴って跳躍。銃弾は背後を通過した。
床を転がった夕陽はぴったり倉庫の柱の裏で止まり、身体をその背後に隠す。再び発砲音が響いたが、柱は鉄鋼製。拳銃弾程度では貫通できない。
その瞬間には飛鳥井が姿を現し、振りかぶって催涙ガスを投擲していた。
大きな仰角をつけて投げられたそれは、牝鹿像の真上に到達すると自由落下を開始する。
牝鹿像の頭に命中した缶が炸裂し、空中から催涙ガスが散布された。
吹き出した白色のガスはあっという間に牝鹿像周辺へと展開されて滞留する。
「催涙ガス投擲成功。
突入するわ」
飛鳥井が倉庫内に入る。
男達の姿はガスに阻まれて見えない。
だが咳き込む音が響き、それを頼りに飛鳥井は接近。
「いらっしゃい」
ガスの中から顔を押さえて飛び出してきた男の顔面を〈鉄の書〉で殴りつける。
鼻血を出して昏倒した男を容赦なく床に組み伏せ、結束バンドで両手を拘束する。
『1人確保』
「こっちも確保」
見張りについていた男は両方とも拘束された。
催涙ガスを吸い込んでいて、激しくむせ込み、目は真っ赤に充血している。
2人とも両手両足を縛られた状態で、倉庫の端へと運び出された。
夕陽はそんな彼らを見届けて、ようやく催涙ガスが晴れて姿を現した牝鹿像へと銃口を向けた。
トリガーを引くとBB弾が発射される。
それは牝鹿像へと近づく途中で失速し、床を転がった。
「間違いなく〈ツール〉ですね」
牝鹿像の能力を確認。
まだ男達の仲間が残っているが、仕事はほぼ完了と呼んで良い状態だった。
もし相手が奪還しに来ても、牝鹿像を背にして粘ればいい。相手が催涙ガスでも使ってこない限りは牝鹿像に近い側が有利。
それにしばらくすれば〈ストレージ〉から増援が来る。
守屋が牝鹿像の検証を開始。
夕陽はそこから離れて、捕らえられた男達の元へ向かう。
催涙ガスの影響は大きく、まだまともに呼吸すら出来ないような状況だった。
「この人達、どうするんですか?」
「〈ストレージ〉に引き渡す。
痛めつけるなよ」
遠くから守屋が釘を刺すと、夕陽は「そんなつもりはないです」と答えて、彼らの元でしゃがみ込んだ。
「お話聞かせて貰っても良いですか?」
2人はむせ込みながら顔を逸らす。
夕陽は構うこと無く笑顔を向けて問いかけた。
「スーパービジョンはどうしてあの像が〈ツール〉だと知ったんです?」
問いかけには回答が返ってこない。
「スーパービジョンであることは否定しないんですね」
試すように言葉を口にしたが、やはり男達は黙秘を貫いた。
「あんな物何に使うつもりです?
運ぶのも大変ですし、有効活用できる代物では無いと思います。
もしあれから〈ツール〉の能力だけ取り出せれば話は別かも知れないですけど」
やはり男達は何も答えない。
夕陽はガスガンのハンマーを起こした。
銃口を先ほど守屋と仁木の方へと向いていた男の頭部へと向ける。
トリガーには指をかけずに伸ばしたまま。その状態で告げた。
「見てください。
この銃、本物じゃ無いんです。驚きました?」
男は真っ赤な目で銃口を見つめた。
真っ直ぐに銃口を見れば、それが偽物であることは簡単に見破ることが出来る。
男は偽物の銃に対して興味を持たず再び目を逸らした。
その反応を見て、夕陽は微笑むと立ち上がる。
これ以上の質問は無意味だ。彼らからは必要な情報を聞き出せない。
所詮はスーパービジョンの下っ端に過ぎない。
「何か分かった?」飛鳥井が問う。
「はい。
あの人達、私の知りたいことは知らないみたいです」
◇ ◇ ◇
倉庫の出入り口を封鎖して、〈ストレージ〉が到着するのを待つ。
その間に牝鹿像の調査が行われた。
〈ツール〉としての特性を、一時保管可能となるレベルまでは調べておかなければいけない。
守屋と仁木が像の近くで手を動かして、牝鹿像へと拳を突き出すと大きく減速されることを確かめる。
押し返されるような、謎の力。
だがゆっくり動かせば謎の力もほとんど働かない。牝鹿像には問題なく触れることが出来る。
牝鹿像へ向けて勢いよく走ってみても同様で、身体は急激に重くなり前進する力を奪われるが、前のめりになって倒れ込むようにすれば像まで到達できる。
それにゆっくり歩いて向かえば、身体は重く感じるもののそのまま進み続けることが出来た。
夕陽はそんな2人へと向けて、手にした懐中電灯をつけたり消したりする。
その光に守屋が気づき、何のつもりかと視線を向ける。
視線が向いたのを見て、夕陽は大きく息を吸うと「ドレミファソラシド」の音階を刻む。
「何のつもりだ?」
「なんて聞こえました?」
守屋の問いに対して夕陽は問い返す。守屋はうんざりした様子で淡々と答えた。
「ドレミファソラシドと聞こえた」
「そうじゃなくて、音階はどうでした?」
音階? と首をかしげたのだが、守屋は夕陽の試したいことに気がついた。
音は波長によって高低が決まる。
波長は音速割る周波数。音速が遅くなれば、波長は小さく。音は高くなるはずだ。
「ずっと同じ音を頼む」
「はい。私、肺活量には自信がありますよ」
そう言って夕陽は再び大きく息を吸い込むと、ゆっくり息を吐きながら“C4のド”の音を奏でる。
守屋はその音を聞きながら、牝鹿像の元から夕陽の方向へと近づいた。
「変わらないな。
飛鳥井、少しだけ明かりを消してくれ」
飛鳥井が倉庫の明かりを消すと、守屋は夕陽へと目線で指示を出す。
言葉にされなくてもやるべきことを理解した夕陽は、手にした懐中電灯を牝鹿像へと向けて、数回明滅を繰り返した。
「光速にも異常なし。
速度に対して反力を生じてるわけでは無い」
光は真空中では約30万キロメートル毎秒。それが大気中であっても十分速いことは間違いない。
だが光の元となる光子の質量は0。
同じように音速も速度こそ十分に速いが、空気振動であるが故に運動エネルギーは少ない。
「銃弾は減速しましたよね。
となると運動エネルギーでしょうか。
同じくらいの形状の、重さの違う2つの物体を同じ速度で投げてみれば確認できると思います。
真空中で質量の分かった物体を究めて正確な速度で射出すれば、どのくらいのエネルギー減衰があるかも数式化できますね」
「そこまでやる必要はない」
守屋はかぶりを振って、調査はこれまでと切り上げた。
その時倉庫正面のシャッターが叩かれる。
守屋達は身構えたが、その後響いた声によって警戒を解除した。
「〈ストレージ〉の者だ。
栞探偵事務所の確保した品の回収に来た」
「早い対応助かった。
シャッターを開ける」
守屋が内側からシャッターを操作して開く。
やって来た〈ストレージ〉のメンバーは4名。彼らはシャッター前に並べられていた車止めを撤去して、手早く牝鹿像の搬出準備を進める。
「近づこうとする物体の運動エネルギーを減衰する。
車両で運び出すつもりではないですよね?」
守屋は〈ストレージ〉のリーダーと会話をかわす。
彼は大きく頷いて返した。
「船の準備が出来ている。
一度海上から簡易保管所へ搬送するつもりだ」
「それなら問題ないだろう。
捕らえたスーパービジョンの2名も回収頼みたい」
「彼らがスーパービジョンだと言ったのか?」
「いいや、推論に過ぎない。
彼らは黙秘を貫いてる。聞き込みはそっちで好きなように」
「了解。任された」
牝鹿像はリフトで運び出されて、そのまま〈管理局〉の用意した船舶へと乗せられる。
一緒に男2人も連れて行かれ、〈ストレージ〉は船を出した。
「何処へ運ぶんです?」
「さあ。行き先は分からない。
いくつかある簡易保管所のうち、海沿い近くにある場所だろう」
守屋は夕陽の問いかけに返答すると次の指示を飛ばす。
「銃弾を回収して事務所に戻る」
指示を受けてそれぞれが銃弾の回収へ向かう。
夕陽も自分に向けて撃たれた2発の銃弾と、飛鳥井が牝鹿像へ向けて撃った銃弾を床から拾い上げ、それから扉にめり込んだ銃弾を回収する飛鳥井の元へ赴いた。
飛鳥井はその馬鹿力で扉から銃弾を引き抜くと、確保時に不用意に突入した夕陽を咎める。
「淵沢さん。
次から危ない真似は無しよ。相手が銃を構えてるところに飛び出していくなんて危険極まりないわ」
「でも当たらなかったです」
「結果論よ」
「そうですけど。――いえ、ごめんなさい。次から気をつけますね」
夕陽ははにかんだように笑うと、飛鳥井が差し出したビニール袋へと拾ってきた銃弾を入れた。
「――あれ?」
違和感を感じた飛鳥井が首をかしげる。
それに夕陽が「どうしました?」と問いかけると同時、守屋が撤収を呼びかけた。
飛鳥井は違和感について考えるのを止めて、回収した銃弾を守屋へと手渡す。
それから4人は倉庫を後にして車で事務所へと戻った。
守屋からオーナーへと、牝鹿像の発見と〈ストレージ〉への引き渡し。盗難犯2名の確保が報告され、後の処理はオーナー側で行う旨が伝えられた。
「ちなみに残業代って出ますか」
夕陽が帰り支度をしながら問いかける。
時計の針は8時を回っていた。定時を過ぎて勤務するのは初めてなので当然の疑問だった。
飛鳥井はその問いに対して小さく笑った。
「出るわよ。
それに危険手当も。お小遣いみたいなものだけどね」
「わあ、危険手当! 給与明細には何という名目で記載されるのか、今から楽しみです!」
飛鳥井は「なら教えないでおく」と返して、帰宅する夕陽を見送った。
飛鳥井は事務室の窓から夕陽がバス停に向かう姿を確かめて、それから倉庫で感じた違和感について確認すべく、守屋へと問いかける。
「守屋さん。さっき預けた銃弾、見せて貰っても良い?」
「それは今じゃないとダメか?」
守屋はオーナーへの詳細報告のための資料作りと、かかってきた電話に対する応対とで忙しそうにしていた。
飛鳥井はため息一つついてかぶりを振る。
「少し気になっただけですので、全く急ぎではありません。
それより〈ストレージ〉へ提出する資料作成なら手伝いますよ」
「最初から頼むつもりだ。
明朝までには欲しい」
「了解。直ぐ取りかかります」
飛鳥井は自分の席に戻り、〈ツール〉に関する調査記録についてまとめ始める。
オーナー、〈ストレージ〉、〈管理局〉、それに葛原精機。
報告書を出さなくてはいけない対象が多すぎる。
特に葛原精機に対する調査報告書は、なんと説明するのか考えておかなければいけない。
発見した牝鹿像が〈ツール〉である以上、返却することは出来ないのだから。
◇ ◇ ◇
ツール発見報告書
管理番号:KK00286
名称:葛原精機牝鹿像
発見者:守屋清美
影響:S
保管:A(恒久保管所までの輸送困難)
特性:接近する物体の運動エネルギーに対して減衰作用