第32話 神の遣いイナンナ②
文字数 3,295文字
あさひは名古屋から新幹線に乗って小田原へ。
そこから東海道線に乗り換え、駅で降りるとバスで移動する。
昼頃には栞探偵事務所の最寄りバス停まで辿り着いた。
古いビルの2階に栞探偵事務所とかっちりした書体で表記されている。
窓にはカーテンが掛けられていて中の様子はうかがえない。
あさひは横断歩道を渡ってそのビルへ。
正面入り口は閉鎖されている。
1階のテナントは廃業済みらしい。
あさひはどうにか入れない物かと扉に手をかけてみたが、立ち入り禁止の警告があるのに中に入るのはどうなのかと考え直す。
不法侵入で捕まってしまったら神柱を取り返すどころの話ではない。
作戦の建て直しと腹ごしらえを兼ねて、隣の建物の喫茶店へ入る。
昔ながらの喫茶店という雰囲気で、品の良い内装をしていた。
薄暗い店内の重厚な椅子に座ってメニューを眺める。
あさひはランチプレートとアイスカフェオレを頼む。カフェオレは死ぬほど甘くするように注文をつけた。
間もなく食事が届くと、あさひは運んできた店員へと問う。
「質問良いですか?
隣の探偵事務所ですけど、営業してます?」
その問いかけに、店員は肯定とも否定とも言えない微妙な反応を示す。
「やってるとは思いますよ。
でも最近あそこの人、店に来てないな」
「飛鳥井って人は知ってる?」
その問いには店員も大いに頷いて見せた。
「知ってます。
綺麗な人ですよね」
「その人に会いたいんだけど、あの建物何処から入ったらいいの?」
「ああ。2階のテナントは、1階駐車場側の入り口から入るんですよ。
分かりづらいですよね」
「なるほど。そういうこと。
助かりました」
あさひは店員に礼を述べて、食事を手早く済ませた。
会計を支払うと栞探偵事務所のあるビルへ。
1階は確かに駐車スペースが作られている。
しかし駐車されている車はなかった。
飛鳥井の乗っていたアウディの姿もない。
あさひは駐車場を通って玄関口を見つける。
インターホンがあったが、押さずにドアが開かないか確かめる。
鍵がかかっていて開かない。
それを確認してからようやくインターホンを押した。
「……反応なし」
しばらく待っても反応がないので、インターホンを連打。
インターホンに備えつきのカメラに向かって名前を名乗り、更には駐車場に備え付けられている監視カメラへ向かっても声を上げてみた。
しかしそれでも反応は無い。
「ちょっと! 居るんでしょ!」
今日は平日。
探偵事務所は営業しているはずだ。
あさひはめげずにインターホンを連打する。
「何やってるの?
あなた誰?」
背後から声をかけられた。
驚いてあさひが振り向くと、そこには女性が1人立っていた。
背が高く、栗色の髪を肩まで伸ばした若い女性。
前髪を左目にうっすらとかけ、メガネをかけている。
彼女は今時珍しい分厚いブックカバーを肩から提げていた。
生真面目そうな顔。
黒い瞳は垂れ気味で、細められたそれは不審者を見るかの如く、あさひへと向けられていた。
「探偵事務所に用があって来ました。
ここの人ですか?」
あさひは強気に尋ねる。
相手はそんな朝日の姿を一瞥した。
ショートカットの髪を大きなキャスケットにおさめた、幼さの残る顔立ち。
下側にだけ縁のついたメガネをかけていて、その縁の向こうにはくっきりとクマが見て取れる。
身長は低く小柄で、長袖の白いブラウスに薄手のケープを羽織っている。
背丈の割に胸は目を引くほど大きく、ブラウスは窮屈そうで、ケープで胸元を隠そうとしているようだがまるで隠れきっていない。
下はショートパンツと明るめの色のタイツ。足下はスニーカー。
総合的に見ると、地雷臭のするヤバめの女子学生、と言ったところ。
あさひの姿を見た女性は、そういえば以前にこんな格好を見たなと、展示会3日目の淵沢夕陽を思い出す。
彼女は考古学サークルに入ったばかりの大学1年生をイメージしたとか言っていた。
そんな記憶にため息をつきながら、あさひの言葉に応える。
「そうだけど、ここは個人の依頼を受けてないわ。
探偵が必要なら駅近くの探偵事務所を紹介するからそっちに行って」
回答に対してあさひは目の色を変えて女性へと詰め寄る。
「そういう話をしに来たんじゃないです!
この事務所の、飛鳥井って人に会わせてください!!」
「飛鳥井に、何か用?」
「とにかく本人に会わせてください」
あさひはその点を譲らない。
飛鳥井に会わせろの一点張りに、困り果てた相手は確認する。
「飛鳥井になにかされたの?」
「そうです。
祖父の形見を盗まれました!
隠し立てするなら警察を呼びますよ!」
「待って。
飛鳥井って飛鳥井瞳?」
「そうですよ。ほら」
あさひは飛鳥井瞳の名刺を突き出した。
相手はその名刺を近くで見て、それからうんざりした様子でため息をついた。
「これ、誰から受け取ったの?」
「何言ってるんですか?
飛鳥井に決まってます」
「飛鳥井はわたしよ」
飛鳥井は自ら名乗り出た。
そして同時に飛鳥井は、この目の前の人物が誰に騙されたのか、おおよその見当をつけた。
こんなことをしでかすのは、あの女以外に存在しない。
「は、はあ!?
あなたじゃないです。
もっと若くて、背の低い人です。髪も黒でした」
「その飛鳥井は、自分が飛鳥井瞳だって名乗ったの?」
「当然です」
「本当に?
自分の名前が飛鳥井だって言ったの?」
「そうですよ――」
確信を持って頷いたあさひだが、繰り返して尋ねられて記憶が怪しくなる。
本当に飛鳥井は自分が飛鳥井だと名乗ったか?
出会って最初のやりとりを思い出す。
「――名刺を渡されました」
「自分の名刺だって言った?」
「言ってません。
名刺だけ渡して、呼び方は好きにして良いって」
「で、あなたはなんて答えたの」
「飛鳥井さんって。
――だってそうでしょ。名刺にそう書いてあったんです」
「つまり、名刺は自分の物とは言っていないし、自分の名前は飛鳥井だとも言ってない。
呼び方は好きにして良いと言って、あなたは渡された名刺を見て飛鳥井と呼ぶと決めた。
つまりそれ以降は、あなたがそう呼ぶと決めたから、それに従っていたに過ぎない」
「そりゃそうかも知れないですけど」
あさひは頭の中を混乱させて、事象を整理していく。
飛鳥井の名刺を渡したが、自分の名刺とは言っていない。
飛鳥井と呼ぶとあさひが決めたから、相手はそれに従った。
彼女は一度も自分が飛鳥井瞳だとは言わなかった。
「でもそんなの屁理屈ですよ!」
あさひは憤慨する。
相手もそれには同意を示して、しかし強く断定的な口調で告げた。
「それでもその屁理屈で、嘘をつかずに人を騙すのがあの子のやり口なのよ。
この写真、見覚えあるでしょ」
あさひの目の前に証明写真が差し出される。
黒髪をおさげにした快活そうな雰囲気の女性。
メガネをかけていないが、彼女の姿は確かにあさひの知っている“飛鳥井”のものだった。
「この人です!
飛鳥井瞳!」
「だから飛鳥井瞳はわたし。
これは淵沢夕陽」
「ふちさわ、ゆうひ?」
全く聞いたことの無い名前が出てきて、あさひは目を白黒させる。
「ええ。淵沢夕陽。
祖父の形見を盗まれたって言ったわね。
あの子が盗む以上、普通の代物では無いはずよ」
あさひは無言のまま頷く。
イナンナの神柱。神の遣いの依り代。
歴史的価値もさることながら、それ以上の価値を秘めた品。
「あなた、名前は?」
問われて、あさひはまだ自分の名前を名乗ってないことに気がつく。
慌てて体面を繕い名を名乗る。
「小谷川あさひ。大学生です」
「小谷川さん。
あなたも淵沢夕陽の被害者ね。
こっちも取り込み中でおもてなしって訳にも行かないけど、詳しく話を聞きたいわ。
付き合って貰える?」
飛鳥井の言葉にあさひは頷く。
少しでもイナンナの神柱の、淵沢夕陽の手がかりが得られるのならばと藁にもすがる思いで飛鳥井へ同行することにした。
2人は栞探偵事務所から少し離れた場所にある駐車場へ向かうと、そこに停められていた黒色の車――アルファロメオ・MiToに乗り込んだ。
そこから東海道線に乗り換え、駅で降りるとバスで移動する。
昼頃には栞探偵事務所の最寄りバス停まで辿り着いた。
古いビルの2階に栞探偵事務所とかっちりした書体で表記されている。
窓にはカーテンが掛けられていて中の様子はうかがえない。
あさひは横断歩道を渡ってそのビルへ。
正面入り口は閉鎖されている。
1階のテナントは廃業済みらしい。
あさひはどうにか入れない物かと扉に手をかけてみたが、立ち入り禁止の警告があるのに中に入るのはどうなのかと考え直す。
不法侵入で捕まってしまったら神柱を取り返すどころの話ではない。
作戦の建て直しと腹ごしらえを兼ねて、隣の建物の喫茶店へ入る。
昔ながらの喫茶店という雰囲気で、品の良い内装をしていた。
薄暗い店内の重厚な椅子に座ってメニューを眺める。
あさひはランチプレートとアイスカフェオレを頼む。カフェオレは死ぬほど甘くするように注文をつけた。
間もなく食事が届くと、あさひは運んできた店員へと問う。
「質問良いですか?
隣の探偵事務所ですけど、営業してます?」
その問いかけに、店員は肯定とも否定とも言えない微妙な反応を示す。
「やってるとは思いますよ。
でも最近あそこの人、店に来てないな」
「飛鳥井って人は知ってる?」
その問いには店員も大いに頷いて見せた。
「知ってます。
綺麗な人ですよね」
「その人に会いたいんだけど、あの建物何処から入ったらいいの?」
「ああ。2階のテナントは、1階駐車場側の入り口から入るんですよ。
分かりづらいですよね」
「なるほど。そういうこと。
助かりました」
あさひは店員に礼を述べて、食事を手早く済ませた。
会計を支払うと栞探偵事務所のあるビルへ。
1階は確かに駐車スペースが作られている。
しかし駐車されている車はなかった。
飛鳥井の乗っていたアウディの姿もない。
あさひは駐車場を通って玄関口を見つける。
インターホンがあったが、押さずにドアが開かないか確かめる。
鍵がかかっていて開かない。
それを確認してからようやくインターホンを押した。
「……反応なし」
しばらく待っても反応がないので、インターホンを連打。
インターホンに備えつきのカメラに向かって名前を名乗り、更には駐車場に備え付けられている監視カメラへ向かっても声を上げてみた。
しかしそれでも反応は無い。
「ちょっと! 居るんでしょ!」
今日は平日。
探偵事務所は営業しているはずだ。
あさひはめげずにインターホンを連打する。
「何やってるの?
あなた誰?」
背後から声をかけられた。
驚いてあさひが振り向くと、そこには女性が1人立っていた。
背が高く、栗色の髪を肩まで伸ばした若い女性。
前髪を左目にうっすらとかけ、メガネをかけている。
彼女は今時珍しい分厚いブックカバーを肩から提げていた。
生真面目そうな顔。
黒い瞳は垂れ気味で、細められたそれは不審者を見るかの如く、あさひへと向けられていた。
「探偵事務所に用があって来ました。
ここの人ですか?」
あさひは強気に尋ねる。
相手はそんな朝日の姿を一瞥した。
ショートカットの髪を大きなキャスケットにおさめた、幼さの残る顔立ち。
下側にだけ縁のついたメガネをかけていて、その縁の向こうにはくっきりとクマが見て取れる。
身長は低く小柄で、長袖の白いブラウスに薄手のケープを羽織っている。
背丈の割に胸は目を引くほど大きく、ブラウスは窮屈そうで、ケープで胸元を隠そうとしているようだがまるで隠れきっていない。
下はショートパンツと明るめの色のタイツ。足下はスニーカー。
総合的に見ると、地雷臭のするヤバめの女子学生、と言ったところ。
あさひの姿を見た女性は、そういえば以前にこんな格好を見たなと、展示会3日目の淵沢夕陽を思い出す。
彼女は考古学サークルに入ったばかりの大学1年生をイメージしたとか言っていた。
そんな記憶にため息をつきながら、あさひの言葉に応える。
「そうだけど、ここは個人の依頼を受けてないわ。
探偵が必要なら駅近くの探偵事務所を紹介するからそっちに行って」
回答に対してあさひは目の色を変えて女性へと詰め寄る。
「そういう話をしに来たんじゃないです!
この事務所の、飛鳥井って人に会わせてください!!」
「飛鳥井に、何か用?」
「とにかく本人に会わせてください」
あさひはその点を譲らない。
飛鳥井に会わせろの一点張りに、困り果てた相手は確認する。
「飛鳥井になにかされたの?」
「そうです。
祖父の形見を盗まれました!
隠し立てするなら警察を呼びますよ!」
「待って。
飛鳥井って飛鳥井瞳?」
「そうですよ。ほら」
あさひは飛鳥井瞳の名刺を突き出した。
相手はその名刺を近くで見て、それからうんざりした様子でため息をついた。
「これ、誰から受け取ったの?」
「何言ってるんですか?
飛鳥井に決まってます」
「飛鳥井はわたしよ」
飛鳥井は自ら名乗り出た。
そして同時に飛鳥井は、この目の前の人物が誰に騙されたのか、おおよその見当をつけた。
こんなことをしでかすのは、あの女以外に存在しない。
「は、はあ!?
あなたじゃないです。
もっと若くて、背の低い人です。髪も黒でした」
「その飛鳥井は、自分が飛鳥井瞳だって名乗ったの?」
「当然です」
「本当に?
自分の名前が飛鳥井だって言ったの?」
「そうですよ――」
確信を持って頷いたあさひだが、繰り返して尋ねられて記憶が怪しくなる。
本当に飛鳥井は自分が飛鳥井だと名乗ったか?
出会って最初のやりとりを思い出す。
「――名刺を渡されました」
「自分の名刺だって言った?」
「言ってません。
名刺だけ渡して、呼び方は好きにして良いって」
「で、あなたはなんて答えたの」
「飛鳥井さんって。
――だってそうでしょ。名刺にそう書いてあったんです」
「つまり、名刺は自分の物とは言っていないし、自分の名前は飛鳥井だとも言ってない。
呼び方は好きにして良いと言って、あなたは渡された名刺を見て飛鳥井と呼ぶと決めた。
つまりそれ以降は、あなたがそう呼ぶと決めたから、それに従っていたに過ぎない」
「そりゃそうかも知れないですけど」
あさひは頭の中を混乱させて、事象を整理していく。
飛鳥井の名刺を渡したが、自分の名刺とは言っていない。
飛鳥井と呼ぶとあさひが決めたから、相手はそれに従った。
彼女は一度も自分が飛鳥井瞳だとは言わなかった。
「でもそんなの屁理屈ですよ!」
あさひは憤慨する。
相手もそれには同意を示して、しかし強く断定的な口調で告げた。
「それでもその屁理屈で、嘘をつかずに人を騙すのがあの子のやり口なのよ。
この写真、見覚えあるでしょ」
あさひの目の前に証明写真が差し出される。
黒髪をおさげにした快活そうな雰囲気の女性。
メガネをかけていないが、彼女の姿は確かにあさひの知っている“飛鳥井”のものだった。
「この人です!
飛鳥井瞳!」
「だから飛鳥井瞳はわたし。
これは淵沢夕陽」
「ふちさわ、ゆうひ?」
全く聞いたことの無い名前が出てきて、あさひは目を白黒させる。
「ええ。淵沢夕陽。
祖父の形見を盗まれたって言ったわね。
あの子が盗む以上、普通の代物では無いはずよ」
あさひは無言のまま頷く。
イナンナの神柱。神の遣いの依り代。
歴史的価値もさることながら、それ以上の価値を秘めた品。
「あなた、名前は?」
問われて、あさひはまだ自分の名前を名乗ってないことに気がつく。
慌てて体面を繕い名を名乗る。
「小谷川あさひ。大学生です」
「小谷川さん。
あなたも淵沢夕陽の被害者ね。
こっちも取り込み中でおもてなしって訳にも行かないけど、詳しく話を聞きたいわ。
付き合って貰える?」
飛鳥井の言葉にあさひは頷く。
少しでもイナンナの神柱の、淵沢夕陽の手がかりが得られるのならばと藁にもすがる思いで飛鳥井へ同行することにした。
2人は栞探偵事務所から少し離れた場所にある駐車場へ向かうと、そこに停められていた黒色の車――アルファロメオ・MiToに乗り込んだ。