10 今は猫の話をしてるんじゃない

文字数 3,842文字

 大きな峡谷を慎重に越え、緑の濃い樹々が生い茂る自然豊かな地帯に入ると、ほどなく列車は三人の目的地に到着しました。
 古風な石造りのタヒナータ駅に降り立つと、王都ヨアネスとはまるで空気の質が違っていることに、ミシスは爽やかな感銘を受けました。風の匂いも、光の加減も、人々の物腰や話し声も、なにもかもが柔らかく感じられます。
 町の中心に位置する駅を玄関から出ると、まず出迎えてくれるのは真正面の彼方にそびえる青く雄大な山。その中腹あたりから広がる黒々とした森林は、まるで絨毯のように途切れることなく町のそばまで迫ってきています。
 すべてを取り囲む樹々が音を吸ってしまうからか、あるいは古びた石造の建物群が大気を鎮めるからか、町ぜんたいが落ち着いた静けさのなかにあります。その静けさは、大都市で目を回しっぱなしだったミシスにとって、この上なく心地良いものでした。
 駅の玄関にかかる門には、「森と石の古都タヒナータへようこそ」と書かれた看板が掛けられていました。エーレンガート母娘に導かれて、ミシスはそこをわくわくしながら通り抜けました。
 時刻はちょうど昼と夕方の境目を過ぎたあたり。太陽は西に傾き、駅の玄関先から円環状に伸びる湾曲した石畳の舗道に、街灯や街路樹のくっきりとした影が落ちています。舗道の脇には馬車や蒸気自動車がちらほら停まっていて、のんびりと乗客を待っています。
「ようこそ、ミシス」太陽の下で両腕をめいっぱい広げて、ノエリィが告げます。「ここがわたしたちの暮らす町、タヒナータだよ」
 ミシスはとびきりの笑顔を浮かべると、まるで体内に残っていた王都の空気とこの町の空気とを入れ替えるように、思いきり胸を反らせて深呼吸しました。空を見あげる姿勢になった少女の瞳に、峰の頂に鎮座する銀色の宮殿が映ります。いくつもの尖塔と石壁(せきへき)に囲まれた壮麗なその建造物は、新しい住人を歓迎するかのようにきらきらと輝いています。
「どう、気に入りそう?」ノエリィがたずねます。
「想像してたより、ずっとずっと素敵な町……」ミシスはうっとりとうなずきました。
「よかったぁ。ねえ、ところでお母さん。やっぱりここの空気って、おいしいね」
「そうね、普段は気にもしないけどね。なんだかとてもほっとするわ」ハスキルが娘に同意しました。
「ハスキル先生」
 とつぜん三人から少し離れたところから女性の声がしました。みんなで一斉に振り返って見ると、そこには質素な造りの一頭立ての馬車が停まっていました。そのかたわらに立っていた一人の美しい少女が、ほほえみながら(なめ)らかな足取りで三人の方へ歩いてきました。
「お待ちしていました。お帰りなさい」軽く頭を下げて彼女は言いました。
「ただいま、ピレシュ。待たせちゃったわね」ハスキルが気心の通じあう調子でこたえます。
 ピレシュと呼ばれた少女の姿に、ミシスはたちまち見惚れてしまいました。水鳥を思わせる姿勢の良い長身、しなやかで隙のない身のこなし。髪は腰まで伸びる艶やかな白金色で、一文字に切り揃えられた前髪のすぐ下には、深い知性と聡明さを宿した切れ長の瞳が(あら)わになっています。町を包む森とおなじ濃緑色のワンピースを身にまとい、ほっそりとしたガラス細工のような両手の指を体の前で(から)ませています。
 初めてその姿を見た時には、ミシスの目には彼女が大人の女性のように見えましたが、こちらに近づいてくるにつれてその想定年齢は徐々に下がり、やがてまだ成人していない少女であることがはっきりとわかりました。ミシスやノエリィより少し年上くらい、といったあたりでしょう。
「王都は雨がひどかったそうで」ピレシュが言いました。
「一晩じゅう降ってたの」ノエリィがこたえます。「こっちは降らなかった?」
「一滴も」簡潔に一度だけ首を振ります。「あなたもお帰り、ノエリィ」
「うん、ただいま」
 そこでようやく、ピレシュの視線がミシスに向けられました。そして確認を取るようにハスキルの表情をうかがいます。
「こちらのかたは?」
「この子はね、ミシスっていうの」ノエリィがミシスの肩に腕を回しました。「今回の旅行で出逢った、新しいお友達なんだ」
「……はぁ?」ピレシュの凛々しい眉がきゅっと寄せられて、山のようなかたちになります。
「そして、なんとね……」腰を落として不敵な笑みを浮かべ、ノエリィが()らすように下からピレシュの顔をのぞき込みます。
「……なに?」少し眉根を寄せて、ピレシュは首を反らせます。
「これから、わたしたちの学院の一員になるんだよ!」
 炸裂する花火のように両手を広げたノエリィの笑顔を、ピレシュは目を点にして凝視します。そして今度は先程よりも標高の高い山を眉のあいだにこしらえて、ハスキルの方に向き直りました。
「あの、事情がまったく呑み込めないのですが」
 その時、ピレシュが最初に立っていた先の馬車の馬が鋭く鼻を鳴らして、(ひづめ)を二、三度ぱかぱかと地面にこすりつけました。その手綱を引く御者台の初老の男性が、頭の上の鳥打帽(とりうちぼう)をひょいと持ち上げてハスキルたちに挨拶を送りました。
「そうね、帰りながら話しましょうか」ハスキルが手を振りながら言いました。


 四人を乗せた馬車は、古めかしい町の通りをすいすいと渡っていきます。花々や風船で飾られた繁華街を抜け、たくさんの水車の並ぶ大きな川を越え、いつしか町を背にして土の踏み固められた田舎道を進みます。そして木漏れ日のきらめく坂道を、ゆるやかにのぼっていきます。
 道を前から来るものも、後ろから来るものもなく、聴こえてくるのは鳥の(さえず)りと森のざわめき、そして蹄の立てる軽快な足音だけ。かぐわしい風の吹き抜ける森のトンネルの情景を、ミシスは夢の世界に紛れ込んだような気持ちで荷台から眺めました。
「つまり」ピレシュが咳ばらいを一つして口を開きました。「今回の王都滞在中に、先生はかつての教え子のかたからの紹介で、こちらのミシスさんの境遇を知ることになった、と」
「そう」ぱたぱたとハンカチで顔を扇ぎながらハスキルがこたえます。
「それで、ほとんど即決で、その身許を引き受ける申し出をした、と」
 ハスキルはにこやかにうなずきます。
「そして……」ピレシュはじろりとミシスの方へ一瞥をくれます。「こちらのミシスさんも、それを即決で受け入れた、と」
 ミシスもハスキルにならって、笑顔でうなずきます。
「もちろん、すぐにあなたには連絡しておこうって考えたのよ。でもね、いきなり連れ帰って驚かせるのも面白いかもなって、思いついちゃったの」ハスキルがいたずらっぽく笑います。
「ええ、ぞんぶんに驚きました」ピレシュはにこりともせずに言います。「あのですねぇ、先生……」
「なぁに?」
「わたしは、心から先生をお慕いしています。全幅(ぜんぷく)の信頼をもって、尊敬してもいます」
「あら、ありがとう。そんなにはっきり言われると照れるわねぇ」
「ですが、先生」両手のひらを自分の膝に打ちつけて、ピレシュが声が荒げました。「猫を拾ってくるのとは、わけがちがうんですよ」
「うちの学院にはね」ノエリィが呑気な調子で割って入ります。「たくさんの猫がいるんだよ。みんな、お母さんがどこかから拾ってきた子たちなの。どの子もかわいいんだよ。ミシスは、猫好き?」
「えっ、うん、好き……だと思う」
「今は猫の話をしてるんじゃないの」ピレシュがノエリィを睨みつけます。
「猫の話を始めたのはピレシュじゃない」ノエリィが心外そうに口を尖らせます。
 ミシスは呆気にとられつつ、睨みあう二人の顔を交互に見やります。
 そこでとつぜん、ハスキルが大声で笑いだしました。つられて娘も笑い、それを見たミシスも吹き出し、ピレシュがただ一人がっくりと肩を落として、恐ろしく深いため息をつきました。
「その……なんだか、すみません。改めまして、わたしの名前はミシスといいます。不束者(ふつつかもの)ですが、どうぞよろしくお願いします」
 そう言うとミシスは、打ちひしがれる少女に向けて右手を差し出しました。ピレシュはその手に一瞬だけ冷ややかな視線を浴びせましたが、すぐに背筋を伸ばして表情を整えると、丁寧な握手を返しました。
「……よろしく、ミシスさん。私は、ピレシュ・ペパーズ。エーレンガート女学院の生徒代表と寮母を務めています」
 ぽかんと口を開けて、ミシスは今しがた耳にした言葉を頭のなかで何度かなぞりました。そしてなんだか急に、ばつのわるい気持ちになってしまいました。
「そんなに偉いかただったとは露知らず、ちゃんとした自己紹介が遅れてしまって、大変失礼しました……」
「別に偉かないわ」素っ気なくピレシュが言います。
「あの、ピレシュさん。これからいろいろとご迷惑をおかけするかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「ええ、それはもうさっき聞きました」
「そうでした、ごめんなさい。それで、あの、わたしのことは、呼び捨てでかまいませんので」
「わかったわ、ミシス」
 食べ終えたバナナの皮をぽいと投げ捨てでもするように、ピレシュはきっぱりと注文どおりの呼びかたで応じました。
「あっ」再びとつぜんノエリィが、丘の斜面の下の方を指差して声を上げました。「ほら見て、ミシス。向こうに牛がいるよ。ミシスは牛、好き?」
「うん、牛も好きだよ」
 観念したようにまぶたを閉じるピレシュの膝を、ハスキルが慰めるようにぽんぽんと叩きました。
 馬車はやがて坂道をのぼりきり、エーレンガート女学院の門の前で停まりました。
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

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