12 わたしを探してくれている人がいてもいなくても

文字数 5,685文字

 忘れがたい晩餐になりました。
 それほど手間のかからない素朴な家庭料理ばかりでしたが、なにしろ母娘がはりきってたくさん作ったので、色とりどりに盛られた皿で食卓は溢れ返りました。庭で採れた野菜はどれもみずみずしくて味が濃く、ハスキルのとっておきだという鶏肉の香草焼きは、病院で口にした鶏肉料理とは別世界の食べ物のようでした。
 食事のあいだじゅう、ノエリィはずっとお喋りに夢中で、ハスキルはワインを何杯か飲んで上機嫌になり、ミシスはまるで夢でも見ているような幸福感に包まれていました。
 たらふく食べて飲んだあと、ミシスが明日はお水だけでいいと言うと、ノエリィがぽっこりと膨れた自分のお腹をぱんと叩き、明日は明日の腹が減る、と威勢よく言いました。ミシスはそれが可笑(おか)しくて、ずいぶん長いこと笑いが止まりませんでした。
 少女たちが調理場と食卓の片づけを担当し、ハスキルがお風呂の用意をしました。病院の浴場では体を流すだけだったので、ミシスにとって浴槽に浸かるのは初めてのことでした。つやつやと白く輝く陶器の浴槽は、貝にとっての殻がこういうものなのではないかと思えるほど居心地が良く、お湯に身を沈めると心の芯までほぐれていくのが感じられました。
 なんて素敵なんだろう。外の世界の暮らしって、毎日のようにこんなにおいしいご飯や温かいお風呂を堪能できるんだ。そういった感動と感謝の気持ちが、鉄柵のなかの世界しか知らなかった少女の胸の内に、ふつふつと湧き起こりました。強制的に灯りを消されることもなく、好きなだけ太陽や雨を全身に浴びて野原を駆けまわることだってできる。自由って、こんなにも甘美なものだったのね。人生の恵みの深さは、計り知れない……。
 入浴が済むと、ノエリィが二階にある自分の部屋にミシスを案内しました。家の二階には母の寝室と娘の部屋、それに裁縫室や書庫や物置と、たっぷりの広さのベランダがありました。二人はノエリィの部屋に入って、壁掛けのランプに明かりを灯しました。
 そうか、自分とおなじくらいの年頃の女の子は、こういう部屋に住んでるんだ。
 ミシスは胸を打たれながらそう思いました。星空と樹々の模様が刺繍された純白のカーテン、愛らしい植物の小鉢で埋め尽くされた出窓、色鮮やかな小瓶の並べられた化粧台。たくさんの本や漫画が収められた書棚に、手づくりとおぼしき木製の机。年季の入った花柄の絨毯。ベッドの半分を占領するぬいぐるみたち。品の良い桃色に塗られた板張りの壁には、楽器を演奏するウサギやリスが描かれた絵画の連作が飾られています。
「今夜はベッドが用意できなかったから、ミシスがわたしのベッド使っていいよ」ノエリィが言いました。
「そんなことできない」はげしく首を振って、ミシスは拒否します。「わたしなら一階のソファを貸してもらえればじゅうぶんだよ」
「だめだめ」たしなめるように相手の鼻先で指を振ります。「まだ夜は冷えるし、一階は隙間風が入ってくるし、それに、寝てるあいだにネズミに足を(かじ)られちゃうよ」
「ネズミ……?」ミシスの頬がひきつります。
「ふふ。じゃあ、一緒に寝る?」
「えっ?」
「このベッド、けっこう余裕あるから。ミシスがいやじゃなければね。わたしの寝相は保証できないけど」
「いやじゃないよ」ミシスは少しもじもじしながら言います。「ノエリィがかまわないなら……」
「じゃ、決まりね」
 ノエリィはそう言うとクッションをぽんぽん叩いて二つ並べ、二人ぶんの枕をしつらえました。
「わたしもお風呂に入ってくるね。ミシスはここで好きにしてていいからね」
「うん、ありがとう」
 窓を開けて風を入れ、生暖かい春の夜風で髪を乾かしながら、ミシスは遠慮がちに部屋のなかを見まわしました。机の上に、例の穴だらけの青いローブと、針仕事の道具が置いてあります。その奥には、いくつかの写真立てが並んでいます。大半が、母と娘が一緒に写っている日常の情景のようです。
 そのなかでいちばん古そうな写真は、若い頃のハスキルと、彼女とおなじくらいの歳の男性が、二人で肩を寄せあって写っているものでした。男性の腕のなかに、まるで白い毛糸のかたまりのような、産まれたての赤ん坊が抱かれています。これはきっとノエリィね、とミシスはほほえみます。
 そこでふと、人の写真をじろじろ見るのはあまり趣味の良いことではないと自戒して、書棚の方へ顔を振り向けます。ぱっと目についた野の花の図鑑が、ミシスの好奇心を駆り立てます。ちょっと見せてもらうねとつぶやいて、それを手に取ると部屋の隅に置かれた揺り椅子に座り、ページをめくります。すべての花に名前がつけられています。その生態の詳細が、それぞれの品種ごとに紹介されています。
 この時ミシスは、夕食の時に母娘が唱えた食前のお祈りのことを思いだしました。二人は、そっと両手を組みあわせて、万物の源素イーノに感謝を捧げたのでした。
 〈イーノ〉。
 わたしが、その名と存在をすっかり忘れてしまっていたものの一つ。生きとし生けるものすべてに命を与え、この世界のぜんぶを創り出している唯一の力。
 きっと、この野に咲く花たちもみんな、イーノの表現する神秘の産物なんだ。
 少女のなかで唐突に、病院の屋上から眺めた街路を歩くおおぜいの人々の姿が、図鑑のなかの花々に重なって思いだされました。人間も一人一人、その体も、その体を支える空気も食物も水もすべて、この世界を循環し続ける源素が形を変えたものなんだ。
 でも、そうよ、人に一人ずつ名前が与えられるのなら、花も種類で分けたりせずに、一輪ごとに名前がつけられてしかるべきなんじゃないかしら。もちろん、本当にそんなことをしたら、きりがなくてすごく大変なことになっちゃうだろうけど。でもだったら逆に、なににも名前なんかつけなかったら、いっそ楽なのかもしれないな。互いに呼びあうことができなくなるのは、ずいぶん不便なことかもしれないけれど。いや、だけど、困るのは人間たちだけで、花や動物や自然の生き物たちは、そもそもお互いを呼びあう必要もないか。……そうか。そうなんだ。お互いを別々のものとして分けているのは、人間だけなんだ。
 じゃあもし人間がいなかったら、世界にはなんの名前も区別もなくて、いろいろな形を表現しながら巡り続けるただ一つの生命みたいなものが、あるだけなんじゃないのか。
 きっと

のことを、人間は〈イーノ〉と名づけたのね。けれどそもそも、イーノという名前さえ人間が勝手につけたもので、それそのものには本来、名前なんかないはず。なににでも名前をつけたがるのは、人間にとって仕方のないことなんだろうな。言葉でしか世界と自分を知ることのできない、人間の頭にとっては……。
 そう、こんなわけのわからないわたしという人間にだって、名前がある。
 あれ?
 どうして、わたしは名前を思いだしたんだっけ。
 一瞬、どこかから強い風が吹き込んできて、本のページを開いたまま手を止めて深く考え込んでいたミシスの背中を、さっと撫でていきました。ぞくりとして顔を上げると、窓のカーテンはまったく揺れていません。
 なんの風だろう。少女は周囲を見まわします。でも、部屋に動くものはなに一つありません。
 外から吹いてきた風じゃないのだとしたら。
 わたしの内側から吹いてきた風だとでも、いうのかしら……。
「は~、気持ちよかったぁ」ノエリィがすたすたと足音を鳴らして部屋に帰ってきました。
 驚いて我に返ったミシスは、手にしていた図鑑をばたんと閉じました。
「なに読んでたの?」
「これ、花の図鑑」ミシスはとっさに笑顔をこしらえます。「勝手に見てごめんね」
「もう、好きにしていいったら」髪をタオルで拭きながら言います。「ちょっとこっちおいでよ、ミシス」
 一緒にベッドに腰かけると、ノエリィがミシスの髪を丁寧に(くし)で梳いてくれました。
「ほんと、綺麗な髪だね。一本一本、水晶でできてるみたい」
「そうかなぁ。ありがとう」
 ノエリィの髪が乾くと、今度はミシスがそれを梳いてあげました。いつも軽く結ってある彼女の髪は、ほどいたら背中の中心に届くくらいの長さだということがわかります。パジャマを着てその髪型の姿になると、なんだか普段より少し幼く見えます。
 ぎこちなく櫛を動かすミシスの目線が、写真立ての方に向いているのにノエリィは気づきました。
「あれはね、わたしのお父さん」
「やっぱりそうなんだ」
「あの赤ん坊がわたし」
「かわいいね。目もとが今とおんなじ」
 櫛を化粧台のひきだしに仕舞うと、二人はベッドの横の開け放った窓縁(まどべり)に向かいあって座って、しばらく心地良い夜風を味わいました。秘密めいた虫たちの羽音や、森が奏でるさわさわという響きが、風に乗って運ばれてきます。
「あれを見て」
 ノエリィが遠くを指差しました。その先には、午後に駅から眺めた大きな山が、物言わぬ黒いシルエットとしてそびえています。駅からは見あげる格好になりましたが、標高の高いこの場所からは、軽く首を上げるだけで山頂まですっかり目が届きます。峰への距離もここの方がずっと近く、頂上に立つ白銀の宮殿の様子も、よりはっきりと見ることができます。
 どうやらノエリィの指は、その宮殿を示しているようでした。
「お父さんは昔、あの宮殿を守る騎士だったの」少女は静かな声音で語ります。「星の灰って書いて、〈星灰宮(せいはいきゅう)〉っていうんだよ」
 言われてみればたしかに、巨大な丸屋根を(いただ)く宮殿も、そのかたわらに従者のように立ち並ぶ尖塔群も、敷地のすべてをぐるりと囲む石壁もすべて、夜空の星屑そっくりに輝く灰白色(かいはくしょく)をまとっています。
「このあたりはね、王国の領土になる前は、コランダム公国っていうべつの国だったんだよ。あの星灰宮のある場所が、その中枢だったんだ」
「へえ。あそこが……」
「十三年前の戦争の時、コランダムは最後まで王国と戦った国の一つだったの。結局負けちゃって、王国に組み込まれてしまったんだけど」
 そうか、史上初めて大陸全土を統一したというホルンフェルス王国は、つまり、武力によってほかにもたくさんあったはずの国々を打倒して、自分のものにしてきたってことなんだ。その事実に改めて思い当たり、ミシスは急に空恐(そらおそ)ろしい気持ちになりました。
「昔、星灰宮には、公王(こうおう)さまと騎士たちが住んでたんだよ。お父さんは、その騎士の一人だったんだ。コランダムは家柄よりも個人の実力とか努力とか、そういうのを大切にする土地だから、剣術しか取り柄のなかったお父さんでも、けっこう重要な役職に就いてたんだってさ。といっても、わたしもよく知らないんだけどね。お父さんは、王国との戦争で亡くなったの」
「……そうだったんだ……」ミシスは夜空を吸い込まれるように見つめているノエリィの横顔を、胸が塞がるような心持ちで眺めました。
「うん。でもわたし、お父さんのこと、ほとんどなにも覚えてないんだ」
 明るい笑顔を装ってノエリィは言いましたが、ミシスはその顔を、どうしても直視することができませんでした。
 夜が更けるにつれて風がわずかに冷たさを増し、それと同時にフクロウの鳴き声が聴こえてきました。二人はその柔らかな音色に耳を澄ませました。
 少し経ってから、ミシスがふいに素朴な疑問を口にしました。
「戦争が終わったあとは、星灰宮には誰が住んでるの?」
「今も変わらず、昔からこのあたりを治めている貴族や政治家や騎士団の人たちがいるんだって。ただ、仕えるのが公王さまから、〈調律師団(ちょうりつしだん)〉に変わっただけ」
「調律師団?」初めて耳にする名前でした。「それはなに?」
「王様の権力を委任された、大陸のあちらこちらに派遣されてる見張りみたいな人たちのことだよ。特別諮問(しもん)機関、とかいったっけな? でも、とくに大したことをするわけでもなくて、ただ偉そうにあそこから下界を見おろしてるだけの連中だって、みんな言ってるよ」ノエリィが顔をしかめて説明しました。
「見おろしてる、か……」ミシスが虚ろな声でつぶやきました。
「ふわぁ」ぐっと背を伸ばして、ノエリィがあくびをしました。「ああ、眠くなっちゃった。長い一日だったなぁ」
「うん、そうだね。朝はまだ、わたし病院にいたんだもの。信じられない」
 どきどきしながら新しいシャツに袖を通したのが、まるで遠い過去の出来事のように思いだされて、ミシスはしばし呆然となってしまいました。
 窓を閉めて灯りを消すと、二人はベッドに並んで身を横たえました。
「ねぇ、ミシス。いろいろ、思いだせたらいいね」ノエリィが天井に目を向けたまま小声で言いました。
「うん」ミシスもまた、天井の模様を眺めるともなく眺めながらこたえます。
「きっと今、ミシスのことを探してる人がいるよね」
「どうだろう。失踪届や捜索届には、わたしみたいな人は一人もいなかったって聞いたけど」
「そんなはずないよ。そういう届けを出せないところにいるか、なにかやむをえない事情があるんだよ、きっと」
「わたしね、ノエリィ」ミシスは顔を横に向けて、隣の少女を真剣なまなざしで見つめました。「わたしを探してくれている人がいてもいなくても、どっちでもかまわないって思ってるの。もしそういう人がいたとしても、申しわけないけど、わたしはその人のこと、なにも知らないんだもの」
「会ったらなにか思いだすかもしれないよ」ノエリィもミシスを見つめ返します。
「うん、そうかも。それに実際に会うことがあったら、ちゃんと感謝の気持ちも伝えたいと思ってる。でも、でもね、わたしは、もしもこれまでのこと全部思いだせる代わりに、ノエリィとハスキル先生のことを忘れてしまうってなったら、そのどちらかを選ばなきゃいけないってなったら、二人との出逢いの方を選ぶ」
 少し間を置いてから、ノエリィは顔を窓の方へ向けると、ささやくような声で言いました。
「そんなこと聞いたら、ミシスを探してる人、泣いちゃうよ。それに、わたしも」
「ノエリィ、ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみ、ミシス」
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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