23 早く帰ってこないかな

文字数 4,056文字

 ヤムの月――暦の上で五番目にあたる月――も末近くになると、このあたりの気候を形容するのに、もう誰も春とか陽気とかいう言葉は使わなくなります。代わりにみんな額や首筋にうっすらと汗を浮かべて、もうじきやって来る夏の気配について噂しあうようになります。樹々はより一層その色合いを濃くし、芝生は天気の良い日中にはまぶしくて長く見ていられないほどになります。運動の授業の時には生徒たちは体操着に着替えますが、もう誰一人として長袖を着ている生徒はいません。
 春と比べると温度も目立って上がり、雨が降ることも増えてきました。ノエリィの話によると、この緩慢な雨季は翌月のエヌジの月の半ばあたりまで続くということでした。
 ミシスは、やはり気ままに自然のなかを歩きまわることのできる晴れの日の方が好みでしたが、家や教室で親しい人たちや書物と一緒に過ごす雨の日も、負けず劣らず好きでした。
「だいたい来月の前半が雨の全盛期で、それさえ終わればこのへんの夏は穏やかで過ごしやすいもんだよ」ノエリィが説明してくれました。
「そうなんだ。じゃあ冬は? 雪は降る?」ミシスがやけに楽しそうにたずねます。
「けっこう降るよ。このへん一帯、真っ白になるよ」
「ええっ、ほんと? すごい! 楽しみだな」
 二人はこの会話をしている時、翌日に迫ったハスキルの誕生会の料理や、家の飾りつけについての最後の打ち合わせをしているところでした。自宅の食堂のテーブルに向かいあって座り、雨の音を聴きながら窓の外を二人して心配そうに眺めていると、ノエリィがこの地域の気候についていろいろと教えてくれたのでした。
「明日は、せっかくだから晴れてほしいよね」ミシスがため息まじりに言いました。
「そうだね。でもこの時期の空模様は、予報もあてになんないくらいだからねぇ。ま、降っても晴れても、わたしたちで素敵な一日にしようよ」
「うん。きっとそうしようね」
 その日の夜半まで、雨は降り続けました。めずらしく雷をともなった、とても激しい雨でした。雷鳴の猛々(たけだけ)しさにミシスはすっかり肝を潰してしまい、なかなか寝つくことができませんでした。だから夜明け過ぎに目を覚まして空を見あげ、そこに雲一つない青空が広がっているのを目にすると、心の底からほっとしました。
 誕生会当日のこの日は平日で、授業も平常どおりあったので、みんないつものように支度をして家を出ました。
 玄関を先に出ていく母に、ノエリィが声をかけました。
「お母さん。今夜は早めに帰ってきてね」
「え? ……あ、そうね。うん、なるべく早く帰るわね」
 なにかを察した母はそう言うと、普段以上に明るい笑顔を浮かべて、急ぎ足で出かけていきました。
「さあ、今日は腕の見せどころだよ!」
 ノエリィが袖をまくって宣言すると、ミシスも威勢よくそれにこたえました。
 放課後になった途端、二人は毎日恒例の同級生たちとの雑談もこの日だけは早急に辞退して、一目散に家に帰りました。ほどなくして、やはりこの日だけはほかの同級生たちに寮のことをまかせたピレシュが、以前に三人で選んだプレゼントを抱えてやって来ました。
 真っ白なワンピースをピレシュが着てきたことから、ノエリィとミシスも白い服を選ぶことにしました。そういうわけで、ノエリィは白い半袖の綿のシャツ、ミシスは病院を出る時に買ってもらった白のブラウスに着替えました。三人の少女が純白の衣装を身に着けて一同に会すると、たしかにとても正装している感じが演出されました。
 料理や部屋の飾りつけを三人で手分けしておこなっていたら、玄関の呼び鈴が鳴らされました。町の有名な菓子店に注文しておいたバースデイ・ケーキの配達でした。しばらくするとまた呼び鈴が鳴りました。今度は大きな花束を抱えたゲムじいさんが玄関先に立っていました。ゲムじいさんが真っ白なシャツを着ているのを見て、少女たちは一斉に笑いだしました。
 わけもわからず困惑するじいさんに、ミシスが事情を説明しました。じいさんはなるほどと笑うと、それではよろしくお伝えくださいと言い残して去ろうとしましたが、ノエリィがその腕をつかんで離しませんでした。何度も遠慮して辞去しようとするゲムじいさんでしたが、つかんだその手をノエリィが離すことはありませんでした。
 ほとほと困り果てた末に観念したゲムじいさんは、しかし内心とても嬉しそうに、宴会の準備を手伝ってくれました。家事も手仕事もなんでも得意なじいさんが加わったことで、思ったよりもずっと早く誕生会の準備は整いました。
 居間の出入り口と天井には色とりどりの紙リボンがかけられ、テーブルのうえには五人分の皿や食器が整然と配され、その中央には花瓶に活けられた大きな花束が飾られました。料理はあとは焼くだけのものと温め直すだけのものが仕上がっています。ふかふかのチーズケーキ(ハスキルの好みの味)のかたわらには、細いキャンドルの束が物静かに待機しています。
 三人で選んだプレゼントをソファの裏に隠すと、ピレシュがエプロンを颯爽と脱いで言いました。
「完璧ね」
 一同は満足げにうなずきました。ピレシュの口からその言葉を聴くと、本当になにもかもが完璧に仕上がったのだという実感が、全員の胸の内に生まれました。
「あとは主役の帰りを待つだけだね」主役の娘が言いました。
 外はすっかり日が暮れかけて、雑木林の向こうから少しずつ宵闇が迫って来ています。
「早く帰ってこないかなぁ」ミシスは玄関のドアを何度も見やります。
 けれどそわそわして待つ四人をよそに、主役が到着しないまま、時間はじりじりと過ぎ去っていきました。
 少女たちはなにをするにも上の空で、わけもなく廊下や食堂やテラスをうろうろと歩いたり、二言三言とりとめのない会話を交わしたりしていました。ゲムじいさんはカウチに腰かけて新聞を広げたまま、まんじりともせずに黙りこくって文字を目で追っていましたが、実のところほとんど内容は頭に入ってきていない様子でした。
「もう夜になっちゃうよ」窓辺に立つミシスが不安そうな声をもらしました。「わたし、ちょっと様子を見てこようかな」
「早く帰るって言ってたし、もうそろそろだとは思うんだけど……」椅子の背もたれを抱きかかえるようにして前後逆向きに座ったノエリィが、足をぶらぶらさせながら言いました。
「ちょっとわたし行ってくる。なにか急ぎのお仕事でも残ってらっしゃるのかもしれない」ピレシュがそう言ってソファから立ち上がりました。
 それに続いてゲムじいさんがなにか言いかけた、その時です。
 待ちに待った、玄関のドアが開く音が聴こえました。
 首を長くしてその音を待ち望んでいた四人は、顔を見あわせると一団となって駆けだしました。
 そしてその先で待ち受けていた光景を目にして、四人は絶句しました。続いて三人の少女たちは、一斉に悲鳴をあげました。
 帰ってきたのはたしかにハスキルでした。でも彼女は一人ではありませんでした。その隣に、学院で歴史や語学を担当している中年の女性教師が立っていました。女性教師はハスキルの腰に手をまわして、その体を支えています。
 ハスキルは右手に松葉杖をつき、右足首に厚く包帯を巻いていました。
「どうしたの、お母さん!」ノエリィが今にも泣きだしそうな声をあげて、母のもとへ駆け寄ります。
「先生!」ほかの三人も続きます。
 するとハスキルはにこっと笑って、左手をめいっぱい開くと勢いよく前に突き出し、とびきり気丈な声で言いました。
「大丈夫! ただの捻挫だから。まったくもう、みんな揃いも揃って大袈裟なんだから……」
 付き添いの女性教師が、事情を説明してくれました。
 なんでも今日の放課後、ハスキルは階段で足を踏み外して転んでしまったのだそうです。すぐに近くにいた生徒たちによって保健室まで連れていかれましたが、正しい処置のできる教師がちょうど帰ってしまったところだったので、数人の生徒がその先生を呼び戻しに走り、なんとか丘を降りる前につかまえて引き返してもらい、それから治療がおこなわれたということでした。それで、早く帰るつもりがこんなに遅くなってしまったのでした。
 女性教師はみんなにお礼を述べられて帰っていきました。
「骨は? 先生、骨は折れていないのですか?」ピレシュが険しいまなざしで確認します。
「だからぁ、大丈夫だってば」ハスキルが苦笑します。
「足のほかは、どうもないのですか?」ミシスが眉をへの字に曲げてたずねます。
「うん、平気よ。ちょっとお尻打ったけど」
「ねえ、お母さん」ノエリィが沈んだ声をこぼします。「わたしが早く帰ってって言ったから、そのせいで転んだの?」
「ばかねぇ」娘の頭を撫でながら母は笑います。「ただ昨日の雨で階段が湿ってただけよ……あら! かわいい!」
 居間のリボンや食卓の花束を目に留めて、ハスキルは笑みを弾けさせました。
「なんて素敵なの」
 部屋を見渡して歓声をあげる今夜の主役の前に、ゲムじいさんが恭しく進み出てきました。
「肝を冷やしましたが、とりあえず大事には至らなかったようでなによりです、ハスキル先生」そして両腕を広げて宴の会場ぜんたいを示しました。「お嬢さまがたが、心を込めて準備なさいました。先生は本当に幸せ者です」
「ゲムじいさん、来てくれたのね。嬉しいわ」
「先生、お誕生日おめでとうございます」
「どうもありがとう」
 それから三人の少女も口々に大きな声で、想いの丈を込めて、祝福の言葉を捧げました。
 でも最後に、ノエリィがとつぜん怒りだしました。
「ほんとにね、おめでとうはおめでとうなんだけどね。お母さんったら、どうしてよりにもよってこんな日に怪我なんかするのよ! わたし、もう呆れちゃったんだから。こっちの身にもなってよ」
 責め立てられた母が申しわなさそうにあたふたするので、みんなは可笑しくて笑いだしてしまいました。ミシスはその時、ゲムじいさんが声を出して笑うのを初めて目にしました。
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