19 永遠に続く平穏
文字数 5,400文字
こうしてエーレンガート女学院は、新学年の初日を迎えました。
それまで閑散としていた丘が制服姿の生徒たちで溢れ返り、ミシスはすっかり面食らってしまいました。春の休暇を楽しんだ二年生と三年生たち、そして今日この日から通学を開始する新入生たちが、垣根の門を通って次々と押し寄せてきます。冬まで町の中等学院に通っていたノエリィも、ミシスと一緒に晴れて自分の苗字を冠する学院の生徒となりました。
慌ただしい朝、二人がおろしたての制服を着て、新しい文房具や教科書を詰めた鞄を手に外へ出ると、いつもどおりの春の青空がめいっぱいに広がっていました。
「なんだか、まだ実感が湧かないな……」ミシスがぼつりとつぶやきました。「こんなわたしが、こうして当たり前のように学校に通える日が来るなんて」
「どうしたの?」玄関先で振り返ったノエリィが呼びかけます。「ミシス、ちょっと顔が硬いよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫。少し緊張してるだけだから」
「気持ちはわかるよ。でもきっとすぐ慣れるって。気楽に行こ?」
「うん、そうだね」
普段と変わらない呑気な笑顔に勇気づけられて、ミシスは自分も頬と肩をゆるめました。
二人が今日から通うことになるエーレンガート女学院は、一年生から三年生までの各学年にそれぞれ20名ほどの生徒を抱える、高等教育機関としては規模の小さな学校です。そのためクラス分けはなく、一つの教室に一学年の全生徒が収まってしまいます。
ただ、20名ほどとは言っても、これまで多くの人が密集する場所に自分から混ざっていくような経験をしたことのないミシスにとっては、まるで大海に命綱なしで飛び込むような体験になる……かもしれなかったのですが、実にさいわいなことに、ノエリィという誰よりも頼もしい命綱が、その緊張で汗ばむ手をずっと握っていてくれました。
それに、入学式と始業式を兼ねた式典の会場に行ってみると、ほかの新入生たちもだいたい自分と同じような、興奮と緊張と不安の入り混じるなんとも言えない顔つきをしているのを発見して、ミシスはとてもほっとしました。心の内には、過去の記憶がないということで、自分のことを普通の人より劣った存在だと卑下する気持ちがいつも少なからずあったのですが、ここにいるみんなとは、まだこの学院での生活をなにも知らない新入生という立場を共有しているのだ、つまり同等の出発点に立っているのだ、という気づきが得られたことで、自分でも驚くほど心が軽くなったのでした。
式典は校舎裏の芝生広場で開催されました。式典と言っても、飾りつけもほとんどなく、一脚の椅子さえも用意されない、非常に手短であっさりとした挨拶の集い、とでもいうようなものでした(これは学院長が定めた方針でした)。ただ最後の締めくくりには、生徒と保護者と教師たち全員でクラッカーを鳴らして派手にお祝いするという、毎年恒例の行事があるとのことでした(これも学院長の趣向でした)。
演説に関しても、はじめに学院長先生の、次いで保護者代表の挨拶と祝辞があり、最後に生徒の代表者による宣誓があるだけで、あっという間に済んでしまうものでした。生徒代表はピレシュが務めました。
彼女はまず教師たちと保護者たちに感謝の言葉を述べてから、学ぶことの意義について語りました。
「学問が優れているのは、それが出自や境遇、持って生まれた才能の差異によらず、本人の努力する意志一つだけで、いつまでもどこまでも自由に探求していくことができるものだからです。つまり学問とは、人が望みさえすれば、命果てるその時までいくらでも収穫することのできる不朽不滅の果実だと言えるでしょう。そして学校とはまさに、溢れるほどの果実を抱える恵み深き大樹にほかなりません。ぜひとも生徒のみなさんには、この学び舎での収穫の日々を、今後の人生の礎 を築くためのかけがえのない時季 としてとらえ、大切に過ごしていって欲しいと思います。平和な時代の継続発展は、わたしたち一人一人の献身にかかっているのだという気概を持って、どうか有意義な学園生活を送ってください」
演説が終わると、感嘆のどよめきと共に大きな拍手が巻き起こりました。ミシスも胸を打たれて、心からの拍手を送りました。隣に立つノエリィは少し眠そうな顔をしていましたが、教師の列に立つハスキルのなにか言いたげな視線と目が合うと、ことさらに大きな拍手を打ちました。
一礼して生徒の列へ戻って行くピレシュの、その白金の髪をなびかせて風のように歩く姿は、誰の目にもため息が出るほど美しいものとして映りました。こっちを見てくれないかな、とミシスはちょっと期待しましたが、ピレシュはただ透明なまなざしを青空に向けるばかりでした。
さながら銃撃戦のような無数のクラッカーの音が丘じゅうに響き渡って、式典は終了しました。その後はみんなでぞろぞろと校舎の方へ移動し、それぞれの教室のなかへ入っていきました。それからすぐに担任の教師の挨拶と、生徒全員の自己紹介がありました。
一年生の担任はハスキル学院長でした。昨晩、誰が自分たちの担任になるのかと何度もノエリィは母にたずねていましたが、そのたびにはぐらかされていました。なので、してやったりの笑顔で教室に入ってくる学院長の顔を見るなり、二人の少女は口を押さえて必死に笑いをこらえました。
学院に所属する教師はハスキルを含めてわずか六名で、その六名がそれぞれに得意とする二、三種の科目を担当して全学年の生徒に教えています。院長以外の全員がタヒナータの町に居を構えている古株の教師たちで、みな一様に評判も良く、互いの親交も深かったので、毎年この学院の運営は滞りなく進んでいました。だから当然今年もそうなるだろうと、誰もが思っていました。
教室での顔あわせが済むと、その日は午前中で解散となりました。でも生徒たちの多くは教室や前庭や広場に居残り、それぞれに交流してしばしの時を過ごしました。
見たところ、目立って問題を抱えていそうな生徒も、露骨に人づきあいを拒絶するような生徒も、いないようでした。ミシス以外のほぼ全員がコランダム地方の出身で、土地柄もあるのでしょうか、みな礼儀正しくて物腰が柔らかく、心根の穏やかな生徒が多いようでした。
(むしろいちばん問題を抱えているのは、わたしね)
ミシスは密かにそんなことを思っていました。
けれど同級生たちは、まだ彼女の抱える事情など露知らず、変に構えることもなく自然に接してくれました。後日、彼女がノエリィと一緒に学院長の自宅に暮らしているということは、すぐに学院じゅうに知れ渡ることになりましたが、孤児だという(ある意味嘘である意味本当の)説明で、誰もがただちに納得しました。というのも、十数年前の戦争で孤児になった生徒は、タヒナータにかぎらず大陸じゅうにおおぜいいたからです。エーレンガート女学院の生徒のなかにも、孤児院で暮らした経験のある子が何人かいました。
これはしばらく後でミシスは知ることになったのですが、ピレシュもまた、そういった孤児の一人でした。
彼女は6歳までタヒナータの孤児院で暮らし、その後この学院の学生寮の寮母をしていた女性の養子として迎えられ、そのかたが今から5年ほど前に病気で亡くなられるとその役割を引き継ぎ、わずか13歳という若さで寮を切り盛りする立場に就いたのだといいます。そしてそれ以降の彼女の保護者の役目を担ってきたのが、ほかならぬハスキル学院長でした。
それであんなに先生を慕っているんだ、とミシスは納得しました。そうした事情についてミシスからピレシュ本人に直接たずねることも、ピレシュが改まって自分の口から打ち明けることもありませんでしたが、ミシスはピレシュが背負ってきた悲しみや孤独、そして自分を救ってくれた人々に対する敬慕と忠義の精神に、深く共感せずにはいられませんでした。
ほとんどの生徒が保護者と一緒に帰路につくと、学院は急にいつもの静けさを取り戻しました。最後まで数人の生徒たちとお喋りをしていたミシスとノエリィは、人気 のなくなった校舎をしばらく散策してまわり、やがてお腹がすいてきたので、ぶらぶらと広場を横切って家へ帰っていきました。
途中、寮の方へ目をやると、その前には荷物を運び入れるための馬車や蒸気自動車が何台か停めてあり、新しく寮生となる生徒やその関係者たちがまだ数人残って、せわしなく出入りしているのが見えました。
そのなかに混じって、髪をゆるく一つに束ねたピレシュの姿が見えました。寮を取り仕切る者として、忙しく働いているようです。
「手伝い、いらないかな」ミシスが心配そうに言います。
「かえって邪魔になるかも」ノエリィが首を振ります。
「でもピレシュ、大変じゃないかなぁ」
「そうかもだけど、ピレシュなら大丈夫だよ。見て、あの涼しげな顔」
見ると彼女はたしかになんということなさそうに、ほとんど無表情で汗一つかかず動きまわっています。剣の稽古の時と比べると、その百分の一の気迫も発揮していないようです。
「ねぇ、今度三人で町へ出かけようよ」とつぜんミシスが指を鳴らして提案しました。
「いいね、それ!」ノエリィも目を輝かせます。「ピレシュは忙しいから、早めに予定を聞いておかなきゃね」
「そうだね。あぁ、楽しみだなぁ」
二人は帰宅すると楽な格好に着替えて、焼いたマフィンにバターと野苺のジャムを塗って食べました。その後は紅茶のカップを片手に、テラスの縁に並んで座って外の景色を眺めました。
「うまくやっていけそうだね、ミシス」ノエリィがふんわりとほほえみました。
「ノエリィのおかげだよ。ノエリィはわたしの命綱だもん」
「なぁに、それ?」
「ふふ。わたし一人だったら、どうやってみんなと接したらいいか、わからなかったよ」
「そんなことないでしょ。みんなミシスに興味津々だったじゃない」
「そうかなぁ。でもわたし、どうにかみんなと仲良くなれそうで、ほっとしたよ」
「うん、わたしも。ほんと、一安心って感じ……」
夕暮れの気配が西の空に顔をのぞかせる時間まで、二人はそこで今日あったいろいろなことについて話をしました。
二人が立ち上がろうとしたちょうどその時、いつもと同じ純白の衣装を身に着けて剣を携えたピレシュが、一人で外へ出てきました。それを見つけたミシスたちは、すぐに彼女のもとへ歩み寄りました。
燃え立つような黄金の光で溢れる芝生の広場に、三人ぶんの濃く長い影が伸びました。
「なによ、あなたたち。またわたしの邪魔をしに来たわけ?」ピレシュが眉をひそめます。
「今日、すごく素敵だったよ。演説」ミシスが心を込めて称えました。
「どうもありがとう」
「うん、ほんと、素晴らしかったよねぇ」ノエリィが腕組みしてうなずきます。
「あら、あなたは眠そうな顔してたじゃない」
「え? そんなこと、ないよぉ」
「まったくあなたは、もう……」
ピレシュはめずらしく気の抜けた微笑をこぼしました。彼女にとっても、それなりに緊張した一日だったのかもしれません。柔らく解放的な雰囲気が、彼女のまわりに漂っているのが感じられました。
ふいに彼女は剣を抜こうとしていた手を止めて、ちらりとミシスの目をのぞきました。
「どうだったの、学校」
「うん、きっと楽しくやっていけそうだよ」
「あらそう」素っ気なく言って、少女は剣を抜きます。「なら、よかったわね」
その時に一瞬だけ浮かんだピレシュの穏やかな笑顔を、ミシスは生涯決して忘れることがありませんでした。
「ねえねえ、わたしには訊かないの?」ノエリィがせがむように言います。
「あなたのことは別に心配してない」ピレシュがあっさりと言いました。
「ええ~、ひど~い。差別だぁ~」
ミシスとピレシュはそろって吹き出しました。それからピレシュが慰めるように、その手でノエリィの肩をぽんぽんと叩きました。
「まぁあなたも、がんばりなさいな」
そう言うと彼女は剣を抜き、二人から少しだけ離れました。
その立ち姿が相も変わらず美しくて、ミシスとノエリィは三人で出かける計画を提案する隙を見失ってしまいました。かろうじてミシスが口にすることができたのは、たった一言だけでした。
「見てていい?」
「いいけど、もっと離れてて」
そうしてしばらく、三人の少女は言葉を発さないまま、まばゆい夕陽のなかで時を過ごしました。
日没前にミシスとノエリィが家に帰ると、ちょうどそこにお祝いのケーキが配達で届けられました。送り主はハスキル学院長でした。おなじものは寮にも届けられたということでした。そういうわけでその夜、三人の少女はそれぞれの場所でおなじケーキを食べることになったのでした。
いよいよ明日から授業が始まる。きっといろんなことがあるだろうけれど、立派に卒業できるよう、しっかりがんばっていこう。ミシスはベッドのなかで決意を新たにしました。
でもそれは、平穏無事な日々がいつまでも続くという前提があって初めて成り立つ決意であって、その時のミシスの頭のなかからは、永遠に続く平穏などこの地上には存在しないのだという事実が、完全に抜け落ちてしまっていました。
けれど、そのことを責められる人間なんて、きっとこの世に一人もいないのです。たとえそれが自分自身であっても。
それまで閑散としていた丘が制服姿の生徒たちで溢れ返り、ミシスはすっかり面食らってしまいました。春の休暇を楽しんだ二年生と三年生たち、そして今日この日から通学を開始する新入生たちが、垣根の門を通って次々と押し寄せてきます。冬まで町の中等学院に通っていたノエリィも、ミシスと一緒に晴れて自分の苗字を冠する学院の生徒となりました。
慌ただしい朝、二人がおろしたての制服を着て、新しい文房具や教科書を詰めた鞄を手に外へ出ると、いつもどおりの春の青空がめいっぱいに広がっていました。
「なんだか、まだ実感が湧かないな……」ミシスがぼつりとつぶやきました。「こんなわたしが、こうして当たり前のように学校に通える日が来るなんて」
「どうしたの?」玄関先で振り返ったノエリィが呼びかけます。「ミシス、ちょっと顔が硬いよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫。少し緊張してるだけだから」
「気持ちはわかるよ。でもきっとすぐ慣れるって。気楽に行こ?」
「うん、そうだね」
普段と変わらない呑気な笑顔に勇気づけられて、ミシスは自分も頬と肩をゆるめました。
二人が今日から通うことになるエーレンガート女学院は、一年生から三年生までの各学年にそれぞれ20名ほどの生徒を抱える、高等教育機関としては規模の小さな学校です。そのためクラス分けはなく、一つの教室に一学年の全生徒が収まってしまいます。
ただ、20名ほどとは言っても、これまで多くの人が密集する場所に自分から混ざっていくような経験をしたことのないミシスにとっては、まるで大海に命綱なしで飛び込むような体験になる……かもしれなかったのですが、実にさいわいなことに、ノエリィという誰よりも頼もしい命綱が、その緊張で汗ばむ手をずっと握っていてくれました。
それに、入学式と始業式を兼ねた式典の会場に行ってみると、ほかの新入生たちもだいたい自分と同じような、興奮と緊張と不安の入り混じるなんとも言えない顔つきをしているのを発見して、ミシスはとてもほっとしました。心の内には、過去の記憶がないということで、自分のことを普通の人より劣った存在だと卑下する気持ちがいつも少なからずあったのですが、ここにいるみんなとは、まだこの学院での生活をなにも知らない新入生という立場を共有しているのだ、つまり同等の出発点に立っているのだ、という気づきが得られたことで、自分でも驚くほど心が軽くなったのでした。
式典は校舎裏の芝生広場で開催されました。式典と言っても、飾りつけもほとんどなく、一脚の椅子さえも用意されない、非常に手短であっさりとした挨拶の集い、とでもいうようなものでした(これは学院長が定めた方針でした)。ただ最後の締めくくりには、生徒と保護者と教師たち全員でクラッカーを鳴らして派手にお祝いするという、毎年恒例の行事があるとのことでした(これも学院長の趣向でした)。
演説に関しても、はじめに学院長先生の、次いで保護者代表の挨拶と祝辞があり、最後に生徒の代表者による宣誓があるだけで、あっという間に済んでしまうものでした。生徒代表はピレシュが務めました。
彼女はまず教師たちと保護者たちに感謝の言葉を述べてから、学ぶことの意義について語りました。
「学問が優れているのは、それが出自や境遇、持って生まれた才能の差異によらず、本人の努力する意志一つだけで、いつまでもどこまでも自由に探求していくことができるものだからです。つまり学問とは、人が望みさえすれば、命果てるその時までいくらでも収穫することのできる不朽不滅の果実だと言えるでしょう。そして学校とはまさに、溢れるほどの果実を抱える恵み深き大樹にほかなりません。ぜひとも生徒のみなさんには、この学び舎での収穫の日々を、今後の人生の
演説が終わると、感嘆のどよめきと共に大きな拍手が巻き起こりました。ミシスも胸を打たれて、心からの拍手を送りました。隣に立つノエリィは少し眠そうな顔をしていましたが、教師の列に立つハスキルのなにか言いたげな視線と目が合うと、ことさらに大きな拍手を打ちました。
一礼して生徒の列へ戻って行くピレシュの、その白金の髪をなびかせて風のように歩く姿は、誰の目にもため息が出るほど美しいものとして映りました。こっちを見てくれないかな、とミシスはちょっと期待しましたが、ピレシュはただ透明なまなざしを青空に向けるばかりでした。
さながら銃撃戦のような無数のクラッカーの音が丘じゅうに響き渡って、式典は終了しました。その後はみんなでぞろぞろと校舎の方へ移動し、それぞれの教室のなかへ入っていきました。それからすぐに担任の教師の挨拶と、生徒全員の自己紹介がありました。
一年生の担任はハスキル学院長でした。昨晩、誰が自分たちの担任になるのかと何度もノエリィは母にたずねていましたが、そのたびにはぐらかされていました。なので、してやったりの笑顔で教室に入ってくる学院長の顔を見るなり、二人の少女は口を押さえて必死に笑いをこらえました。
学院に所属する教師はハスキルを含めてわずか六名で、その六名がそれぞれに得意とする二、三種の科目を担当して全学年の生徒に教えています。院長以外の全員がタヒナータの町に居を構えている古株の教師たちで、みな一様に評判も良く、互いの親交も深かったので、毎年この学院の運営は滞りなく進んでいました。だから当然今年もそうなるだろうと、誰もが思っていました。
教室での顔あわせが済むと、その日は午前中で解散となりました。でも生徒たちの多くは教室や前庭や広場に居残り、それぞれに交流してしばしの時を過ごしました。
見たところ、目立って問題を抱えていそうな生徒も、露骨に人づきあいを拒絶するような生徒も、いないようでした。ミシス以外のほぼ全員がコランダム地方の出身で、土地柄もあるのでしょうか、みな礼儀正しくて物腰が柔らかく、心根の穏やかな生徒が多いようでした。
(むしろいちばん問題を抱えているのは、わたしね)
ミシスは密かにそんなことを思っていました。
けれど同級生たちは、まだ彼女の抱える事情など露知らず、変に構えることもなく自然に接してくれました。後日、彼女がノエリィと一緒に学院長の自宅に暮らしているということは、すぐに学院じゅうに知れ渡ることになりましたが、孤児だという(ある意味嘘である意味本当の)説明で、誰もがただちに納得しました。というのも、十数年前の戦争で孤児になった生徒は、タヒナータにかぎらず大陸じゅうにおおぜいいたからです。エーレンガート女学院の生徒のなかにも、孤児院で暮らした経験のある子が何人かいました。
これはしばらく後でミシスは知ることになったのですが、ピレシュもまた、そういった孤児の一人でした。
彼女は6歳までタヒナータの孤児院で暮らし、その後この学院の学生寮の寮母をしていた女性の養子として迎えられ、そのかたが今から5年ほど前に病気で亡くなられるとその役割を引き継ぎ、わずか13歳という若さで寮を切り盛りする立場に就いたのだといいます。そしてそれ以降の彼女の保護者の役目を担ってきたのが、ほかならぬハスキル学院長でした。
それであんなに先生を慕っているんだ、とミシスは納得しました。そうした事情についてミシスからピレシュ本人に直接たずねることも、ピレシュが改まって自分の口から打ち明けることもありませんでしたが、ミシスはピレシュが背負ってきた悲しみや孤独、そして自分を救ってくれた人々に対する敬慕と忠義の精神に、深く共感せずにはいられませんでした。
ほとんどの生徒が保護者と一緒に帰路につくと、学院は急にいつもの静けさを取り戻しました。最後まで数人の生徒たちとお喋りをしていたミシスとノエリィは、
途中、寮の方へ目をやると、その前には荷物を運び入れるための馬車や蒸気自動車が何台か停めてあり、新しく寮生となる生徒やその関係者たちがまだ数人残って、せわしなく出入りしているのが見えました。
そのなかに混じって、髪をゆるく一つに束ねたピレシュの姿が見えました。寮を取り仕切る者として、忙しく働いているようです。
「手伝い、いらないかな」ミシスが心配そうに言います。
「かえって邪魔になるかも」ノエリィが首を振ります。
「でもピレシュ、大変じゃないかなぁ」
「そうかもだけど、ピレシュなら大丈夫だよ。見て、あの涼しげな顔」
見ると彼女はたしかになんということなさそうに、ほとんど無表情で汗一つかかず動きまわっています。剣の稽古の時と比べると、その百分の一の気迫も発揮していないようです。
「ねぇ、今度三人で町へ出かけようよ」とつぜんミシスが指を鳴らして提案しました。
「いいね、それ!」ノエリィも目を輝かせます。「ピレシュは忙しいから、早めに予定を聞いておかなきゃね」
「そうだね。あぁ、楽しみだなぁ」
二人は帰宅すると楽な格好に着替えて、焼いたマフィンにバターと野苺のジャムを塗って食べました。その後は紅茶のカップを片手に、テラスの縁に並んで座って外の景色を眺めました。
「うまくやっていけそうだね、ミシス」ノエリィがふんわりとほほえみました。
「ノエリィのおかげだよ。ノエリィはわたしの命綱だもん」
「なぁに、それ?」
「ふふ。わたし一人だったら、どうやってみんなと接したらいいか、わからなかったよ」
「そんなことないでしょ。みんなミシスに興味津々だったじゃない」
「そうかなぁ。でもわたし、どうにかみんなと仲良くなれそうで、ほっとしたよ」
「うん、わたしも。ほんと、一安心って感じ……」
夕暮れの気配が西の空に顔をのぞかせる時間まで、二人はそこで今日あったいろいろなことについて話をしました。
二人が立ち上がろうとしたちょうどその時、いつもと同じ純白の衣装を身に着けて剣を携えたピレシュが、一人で外へ出てきました。それを見つけたミシスたちは、すぐに彼女のもとへ歩み寄りました。
燃え立つような黄金の光で溢れる芝生の広場に、三人ぶんの濃く長い影が伸びました。
「なによ、あなたたち。またわたしの邪魔をしに来たわけ?」ピレシュが眉をひそめます。
「今日、すごく素敵だったよ。演説」ミシスが心を込めて称えました。
「どうもありがとう」
「うん、ほんと、素晴らしかったよねぇ」ノエリィが腕組みしてうなずきます。
「あら、あなたは眠そうな顔してたじゃない」
「え? そんなこと、ないよぉ」
「まったくあなたは、もう……」
ピレシュはめずらしく気の抜けた微笑をこぼしました。彼女にとっても、それなりに緊張した一日だったのかもしれません。柔らく解放的な雰囲気が、彼女のまわりに漂っているのが感じられました。
ふいに彼女は剣を抜こうとしていた手を止めて、ちらりとミシスの目をのぞきました。
「どうだったの、学校」
「うん、きっと楽しくやっていけそうだよ」
「あらそう」素っ気なく言って、少女は剣を抜きます。「なら、よかったわね」
その時に一瞬だけ浮かんだピレシュの穏やかな笑顔を、ミシスは生涯決して忘れることがありませんでした。
「ねえねえ、わたしには訊かないの?」ノエリィがせがむように言います。
「あなたのことは別に心配してない」ピレシュがあっさりと言いました。
「ええ~、ひど~い。差別だぁ~」
ミシスとピレシュはそろって吹き出しました。それからピレシュが慰めるように、その手でノエリィの肩をぽんぽんと叩きました。
「まぁあなたも、がんばりなさいな」
そう言うと彼女は剣を抜き、二人から少しだけ離れました。
その立ち姿が相も変わらず美しくて、ミシスとノエリィは三人で出かける計画を提案する隙を見失ってしまいました。かろうじてミシスが口にすることができたのは、たった一言だけでした。
「見てていい?」
「いいけど、もっと離れてて」
そうしてしばらく、三人の少女は言葉を発さないまま、まばゆい夕陽のなかで時を過ごしました。
日没前にミシスとノエリィが家に帰ると、ちょうどそこにお祝いのケーキが配達で届けられました。送り主はハスキル学院長でした。おなじものは寮にも届けられたということでした。そういうわけでその夜、三人の少女はそれぞれの場所でおなじケーキを食べることになったのでした。
いよいよ明日から授業が始まる。きっといろんなことがあるだろうけれど、立派に卒業できるよう、しっかりがんばっていこう。ミシスはベッドのなかで決意を新たにしました。
でもそれは、平穏無事な日々がいつまでも続くという前提があって初めて成り立つ決意であって、その時のミシスの頭のなかからは、永遠に続く平穏などこの地上には存在しないのだという事実が、完全に抜け落ちてしまっていました。
けれど、そのことを責められる人間なんて、きっとこの世に一人もいないのです。たとえそれが自分自身であっても。
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