5 天使の羽根を抱きとめるように

文字数 6,024文字

 ミシスの生涯においてかけがえのない出逢いが訪れるその時までの数日間、彼女はグリューの前で誓ったとおり、書庫に通ってさまざまなことを勉強しました。とくに役立ってくれたのは、懇切丁寧な解説の書かれた子供向けの本でした。そういった本を彼女が読みふけっていると、近くを通る人たちが時々鼻で笑いましたが、ちっとも気になりませんでした。この時期、自分のなかに明確な目的意識と情熱があれば、取るに足らない些末(さまつ)なことに対しては自然と精神の優越を保てるのだということを、少女は発見しました。
 なにしろほかにやることもないし、状況もなに一つ進展しないし改善しないし、主治医も専門医も自分のことはもう手から離れたと思っているようだし……ということで、ミシスはなににも気を取られることなく、毎日朝から晩まで本を読みました。自分の部屋で、屋上の片隅で、中庭の樹の下で。
 相変わらず一日に百回くらいは、どうしてこんなに綺麗さっぱりなにもかも忘れてしまえたのよ、と自分を責めてもいましたが、同時に、読んだり書いたりする技能だけは忘れずにいたことに対して、自分で自分を褒めてあげることも、ちょっとだけ覚えました。
 そうして部屋と書庫を往復する日々をくり返していたある日、再びグリューが病室を訪ねてきました。
 ミシスはちょうど読み終えた本を籠に詰めて返却しに行こうとしていたところでした。ドアをノックした青年は、なぜかいたずらっぽい笑みを浮かべて少女に手招きをしました。
「なに? どうしたの?」
「しっ」鋭く息を吐いて、青年は人差し指を唇に当てます。「お土産があるんだ。外に出よう」
 中庭に行くと、グリューは人目につきづらい樹の(かげ)にハンカチを敷いて、そこに座るよう少女をうながしました。そして肩にかけていた大きな籠のなかから、花の絵の描かれた小さな厚紙の箱と大きな水筒、それに薄い樹脂製のマグカップを二つ取り出しました。
「かわいい箱だね」
 顔をほころばせるミシスに、グリューは紙皿と銀のフォークを手渡します。そして口笛を吹きながら箱の蓋を開けました。
「うわぁ」少女はそのなかをのぞくと、思わず歓声をあげました。「素敵ね。でもこれ、なに?」
「ケーキ」にやりと笑って青年がこたえます。「それも、おれがこの王都でいちばん美味いと思ってる店のケーキだ。そして」
 彼はカップに水筒から黒い液体を注ぎ、少女の手に渡します。
「これはおれが()れたコーヒー。だからこれはおれが王都でいちばん美味いと思ってるコーヒーだ」
「ありがとう、グリュー」少女は満面の笑顔で言いました。
 それは手のひらに載るくらいの大きさの三角柱の形をしたケーキで、土台は虹のようにたくさんの色が積み重なってできていて、たっぷりの生クリームで覆われた屋上には真っ赤な(いちご)が一つ載っていました。少女は虹の切れ端をそっと舌に載せて、どきどきしながら味わいました。
「言葉にならないよ」少女はうっとりと吐息をつきました。
「いけるだろ?」青年は得意げに微笑します。「さ、コーヒーも試してみてくれ。でも今日はミルクと砂糖は持ってきてないからな。ケーキに甘いコーヒーは、おれが許さないんだ」
 コーヒーも素晴らしい味でした。香りが芳醇で、口当たりはとろけるようで、その爽やかな酸味はケーキの甘さと見事に溶けあいました。
 かくして、秘密のお茶会が始まりました。
「ほんとにおいしい。どうもありがとう」ミシスは改めて感謝を述べました。「でも、どうしてこんなに良くしてくれるの?」
「だってきみは、体調がわるかったり、怪我してるわけでもないだろ。それなのにずっと外へ出られないなんて、窮屈だろうなって思ってさ。……そしてそれは、ある意味、おれ自身のことでもある」
 そう言うと青年は急にしょんぼり肩を落としました。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。ただ、おれの上司が、悪魔のように人使いが荒い御人(おひと)でさ……。実際、おれの毎日だって、ミシスとあんまり変わらないよ。朝から晩まで現場に缶詰め、ろくに家にも帰れやしない。だから今日はこうして、少し時間ができたから、きみを誘って憂さ晴らしでもしようと思い立ったんだ」
「それで、少しは憂さは晴れた?」
「おかげさまで。きみは?」
「今、晴れてるよ」
「なら良かった」青年は早々にケーキを平らげてうなずきました。「喜んでもらえてなによりだ」
「ねぇ、グリュー」少女は手にケーキの皿を持ったまま、樹の幹に軽く背をもたせかけました。「わたし、あれからたくさん本を読んだよ」
「ほう、偉いね。どんなことを学んだ?」
「これまでの人類の歩みとか、王国の歴史とか、いろんな地方の文化のこととか……。でもまだ基礎的な知識がちぐはぐで、読んだことを自分の頭のなかだけで結びつけようとすると、なんだかうまくいかなくて、すごくもどかしい」
「もどかしさを感じるのは、それを解消して向上したいっていう前向きな意欲がある証拠だよ。素敵なことなんだよ」
「だといいけどな」少女は胸のつかえが取れたように、小さく息をつきました。「あ、それに、イーノのことと、顕術のことも、少しは勉強したよ」
「へぇ」
 とつぜんまた(たくら)むような表情を浮かべたグリューは、指先を指揮棒のように軽く振ると、ミシスのそろそろ食べ終わりそうなケーキの屋根にかろうじてしがみついていた苺をふわりと浮かせ、そのままミシスの唇のすぐ前に移動させました。ミシスは反射的に口を開けて、それをぱくっとくわえました。そして非難がましい視線を青年に向けます。
「最後に食べようと思ってたのに」
「ごめん。ほんの出来心」
 苺もケーキも食べてしまうと、コーヒーを飲みながらミシスは話を続けました。
「こないだグリューが話してくれたように、顕術を扱う素質って、完全に遺伝によるんだよね」
「そうだよ」
「顕術とは、発動者の意図したとおりにイーノを操作して、手を触れずに物体を動かしたり、一時的に肉体の機能を増強させたり、五感や直感の精度を拡張させたりといった、さまざまな超常的な現象を発現する能力である。それは遺伝によって受け継がれる体内の発顕因子が、ある一定量を超えている者にのみ扱うことができる」
「教科書みたいだ」グリューが苦笑します。
「教科書の引用だもん」ミシスが胸を張ります。「それで、その発顕因子値のちがいによって、能力に個人差があるんだよね。たとえば苺を浮かせるのがやっとの人もいれば、大きな岩を浮かせることのできる人もいる」
「そんなすごいやつは滅多にいないがね」かたわらに生えている草を手のひらで撫でながら、グリューが言います。
「そして、近年の調査結果によると、現在地上で生きている人間で、発顕因子をまったく持たない人間は一人もいない、ということが判明している。これは本当?」
「ああ、本当だよ。もちろんきみのなかにもあるし、誰にでもある。ただ、多くの人が目に見えて力を発揮するほどの量を持ってないってだけだ」
「じゃあ、これも本当なの? ずっと昔には、人類はみんな制限なく好き放題に顕術を使えていた、っていうのは」
「たしかにそう言われてる」うつむいて草をもてあそびながら、青年はこたえます。「でもそれはあくまで伝説みたいなものさ。それにもし本当だとしても、気が遠くなるほど大昔の話だよ。たぶん」
「みんなが自由に顕術を使えたら、世のなかはいったいどんなことになっちゃうのかな。想像するだけで、なんだか面白いよね」
「どうだかねぇ。ま、ちょっと見てみたくはあるかもな」
「わたしも一度くらい使ってみたいなぁ」少女は空を見あげてつぶやきました。
 その時グリューが、小さな無音のため息をつきました。それに気づいたミシスは、ちらりと彼の横顔をのぞき込みます。風に揺れる濃緑の髪の狭間に、うっすらと疲労の色の滲む瞳がかいま見えます。
 彼はみずからその(かげ)りを吹き飛ばすように、胸を反らせて強い息を吐きました。
「別に、顕術が使えたって、そんなに得することはないよ。将来だってけっこう勝手に決まっちまうとこがあるし」
「え? どういうこと?」
今時(いまどき)はさ、生まれてすぐに発顕因子値が検査でわかるだろ。だからその数値がある程度高い子供は、だいたいみんな国が運営するとくべつな学校に入ることになる。ほぼ強制的にね」
「どうして?」
「理由はいろいろあるよ。たとえば、その超人的な能力を活かして優秀な軍人や騎士に育てるためだったり、科学の分野で実験や開発事業に従事する技能士に育てるためだったり。でも実のところ第一の目的は、早いうちから専門的な英才教育を施すことにある。顕術を扱える子供たちは幼い頃から徹底的に、自分の持って生まれた力を活用して文明社会の発展に貢献するべし、選ばれた血筋の人間として大衆の模範となり先導者になるべし――ってな精神を、骨の髄まで叩き込まれるんだ」
「じゃあ、顕術を使える子は、みんなその学校に行かなくちゃいけないのかしら」
「いや、義務ってわけじゃない。でも、非常に強く推奨される。断れるやつなんかそういない。それにさ、ぶちまけた話、そういう学校に行くと待遇はかなり良いし、将来もほぼ安泰だし、街を歩いてるだけでも一目置かれる。異性にだってもてる。そんな恵まれた条件が、生まれつきの体質だけを理由に無償で与えられるってのに、わざわざ蹴るやつなんかいないのさ。……まぁただ、一度でもその道に足を踏み入れたら、敷かれた線路をなぞるように進むだけの人生に、なってしまいがちなんだけどな……」
「グリューもそうなの?」ミシスは無邪気にたずねます。
 青年は遠くに浮かぶ雲に視線を固定して、しばらく沈黙しました。そしていきなり不敵に笑うと、子供のように瞳を輝かせました。
「おれは本当はさ、料理人になりたかったんだよ」
「今からじゃなれないの」間髪入れず、再び少女がたずねます。
「いいや、そんなことはない」自分に言い聞かせるように強い語気で、青年はこたえます。けれどすぐにまた少しうなだれます。「……だが、今おれが抜けたら、困る人たちも大勢いるしな。上司なんて、もしおれがいなくなったら、いろんな意味でどうしようもないだろうし。それに、なんだかんだ言って、自分で選んだ道だ。今の研究の仕事も、真剣に楽しんでる」
「そっか」少女は感心したようにうなずきます。「ねぇ、ところで、グリューは軍でなにを研究してるの?」
「それは――」青年はそれまで見せたことのない厳しい表情を、ほんの一瞬浮かべました。「とても一言じゃ説明できないな」
「もしかして、カセドラのこと?」
 青年は鋭い一瞥(いちべつ)を少女に投げました。そしてすぐに顔を背けました。
「なぜそう思う」
「ごめん、怒らせた? ただ、思いつきで言っただけなんだけど……」
「怒ってないよ」かぶりを振って、青年はいつもの飄々(ひょうひょう)とした顔つきに戻ります。「ま、おれの仕事のことなんかどうでもいい。というか、カセドラのことは覚えてたのか?」
「ううん。ここの屋上から、お城の前に立ってるのを見て知ったの。どんなものなのかも、まだよく知らない。看護士さんが言うには、とても複雑な造りをしているものだって……」
「仕組みはたしかにすごく奇妙で複雑だよ。でも、稼働の原理そのものは、そうややこしいもんじゃない。要は、躯体(くたい)の内部に乗り込んだ人間の意思どおりに動く巨大な泥人形、ってなもんだ」
「泥?」
「ああ。カセドラの躯体の七割くらいは、特殊な泥みたいな素材を固めたものでできてる」
「そうなんだ、知らなかった。グリューもカセドラに乗ることがある?」
「いや、おれは乗らん」青年はきっぱりと首を振ります。「あれは最初に一度誰かが乗って起動させたら、もうその人以外には動かせなくなるんだ。そしてあれは一体製造するだけでも、莫大な費用と手間がかかる。おれはそんなもん、おっかなくて乗れない。というか乗りたくない。これ以上なにかに縛られるのはごめんだ」
「へぇ、そういうものなんだ……」
「なんにせよ、民間人であるきみが気にかける必要はないよ。だってあれは、いわゆる軍事兵器のたぐいだからね」
「十数年前、この王国が大陸の覇権を賭けた戦争に勝利したのは、カセドラの開発力が抜きん出ていたからだって、本で読んだわ」
「今は平和だから、もっぱら治安維持活動とか救難活動の現場で使われてる。まぁでも、治安維持に関しちゃ、あんな化け物みたいなもんに歯向かうやつなんか誰もいないからな。だからほとんど、抑止力としてのお飾り人形みたいなもんさ。ただ朝から晩まで城の前に立たせとくだけでいいわけだ」
「ふぅん……」
「なんだ、もしかして乗ってみたいとか思ってるのか?」
「ううん、別に」
 ミシスはあっさりと否定しながら、たしかにあんな大きなものの責任を個人が持つなんて、ずいぶん面倒なことだろうな、と想像しました。
「さぁて」ふいにグリューが立ち上がりました。そして背伸びをしながら振り返り、少女にほほえみかけます。「ありがとな、ミシス。おかげで半日、くつろげた。良い骨休めになったよ」
「ほんと? 話し疲れたりしてない?」
 青年は穏やかに首を振ります。「じゃあおれは、研究所に戻るよ。でかい仕事が控えてて、さすがに全休(ぜんきゅう)は取れなかったんだ。――あ、そうだ」
「どうしたの」ミシスも立ち上がって、お尻に敷いていたハンカチを畳みます。
「最後にとっておきの報告をしなくちゃな。実は、きみの今後の身の振りかたについて、一つ話がまとまりつつあるんだ」
「えっ」少女はせっかく畳んだハンカチをくしゃっと握りしめました。
「それを話す前に、ミシス、きみは、どんな環境でも自由に選べるとしたら、いったいどんなことをやりたい?」
「わたし、もっとたくさんのことを学びたい」
 少女は即答しました。まるで、それ以外の選択肢など一切存在しないかのように。
 グリューはその決意を受けとめ、にっこりと笑いました。「ミシスならそう言うんじゃないかと思ってたよ。きみの事情を聞いて、きみを受け入れてもいいって言ってくれてる学校があるんだ」
 学校。
 少女はその言葉を、まるで天上から降ってきた天使の羽根を抱きとめるように敬虔な気持ちで、そっと胸に収めました。施設でも、孤児院でも、修道院でも工場でもなく、学校……。
「王都じゃなくて、ちょっと田舎の方になるんだけど、その学校の院長先生にちょっとした伝手(つて)があってね。きみの話をしたら、学業も生活も面倒を見てあげてもいい、って申し出てくれたんだ。もちろん、きみが望めば、という話だが」
「誰が、いったい誰が、それを望まないわけがあるの?」泣きだしそうな気持ちを抑えて、少女は声を震わせました。
「一度、会ってみないか?」
「ぜひ!」
「それも、そう言うと思ってた」青年はまた笑いました。「驚かせてわるいけど、実はもう、その先生は明日ここへ来ることになってるから。直接会って、話すといい」
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


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