18 まるで青空の一部が切り取られて、そこに貼りつけられているように

文字数 4,679文字

 新学年が始まるまでの数日間を、ミシスはおもに教科書の予習に費やしました。
 すんなり頭に入ることもたくさんあったけれど、まったく理解できないこともおなじくらいたくさんありました。それらは、自分だけではどうしたって解決法の見出せない問題でした。うんうんと唸って、頭を抱えて、そのうちに、そうだ、そのために学校があって先生がたがいらっしゃるんじゃない、と思い当たりました。学校が始まったら、とことん教えてもらえばいいんだ。
 いろいろな場所で勉強をしました。部屋でも、食堂でも、テラスでも、芝生の広場でも、猫を膝に載せてベンチのうえでも。そばにノエリィがいることもあったし、いないこともありました。まだ校舎には入らなかったけれど、このあたりの土地や空気や水にはすっかり慣れました。サンダルだって足に馴染みました。
 家事は毎日率先してやりました。居候のような身を引け目に感じてのことではなく、単純に家の仕事をするのが大好きだったからです。とても助かるわ、とハスキルがいつも褒めてくれます。
 学校が始まる前日の朝、ピレシュが新しい制服を届けに家まで来てくれました。
 ピレシュと会うのは、あの剣の稽古の時以来です。なんでも、彼女はハスキル学院長の補佐役として日々数々の業務をこなしながら、その合間や夜には剣の稽古と勉学に打ち込み、さらには寮の運営全般も取り仕切っているということで、とてもじゃないけれど気軽に会いに行ったりはできなかったのです。
 その日、ピレシュはめずらしく私服を着ていました。袖の膨らんだ純白のワンピースに、黄色いリボンが巻かれたつば広の麦わら帽子をかぶっていました。
「かわいい……」胸の前で両手を握り合わせて、ミシスが吐息をつきました。
「なにが?」玄関先に立つピレシュが首をかしげます。
「今日のピレシュ」
「は?」口を半分開けて、途端にちょっと頬を赤らめます。「あ、うん……ええ、どうもありがとう」
「わざわざ届けてくれてありがとう。すごく楽しみにしてたんだ」
「あなた、怪我はもういいの?」
「怪我? あぁ、もうすっかり忘れてた。とっくに絆創膏も取れたし、ぜんぜん平気だよ」
「そう。よかったわね」
「今日はお出かけ?」
「ん。明日からに備えて、ちょっと町へ買い出しにね」
「ゲムじいさんの馬車で?」
「ううん。あれで」
 ピレシュが示したのは庭の花壇の脇のあたりで、そこには白い自転車が一台停めてありました。
「素敵だね。わたしにも乗れるかな」
「え? あなた自転車乗れないの?」
「うん、たぶん乗れないと思う。見た感じ、ちっとも乗る感覚がわからないから」
「ふぅん。まぁでも、練習すれば誰でも乗れるようになるわ。あ、でもこれは貸さないわよ。また怪我でもされたら困るもの」
「あはは。そうだね、遠慮しとくよ」
「じゃあわたし行くわ。あなたも明日の準備、しっかりやっておくのよ。ノエリィにもそう言っといて」
「うん、伝えておくね。気をつけて行ってらっしゃい」
 すいすいとペダルを漕いで走り去るその可憐な後ろ姿を、ミシスはいつものように憧れのまなざしで見送りました。
 二階にいたノエリィが降りてきて、ミシスの新しい制服に目を留めると、今すぐ着てみせてと熱烈に要求しました。食堂の掃除をしていたハスキルも(ほうき)を放り出して飛んできて、母娘二人の手によってミシスはまたたく間に服を脱がされ、ほとんど強制的に着せ替えさせられてしまいました。
 そうして真新しい濃緑の制服を身にまとったミシスは、両手を引かれて姿見(すがたみ)の前に立たされました。その初々しいいでたちを、母娘が頭から爪先まで舐めるように見まわしました。
「やばいわ」ノエリィが低い声で唸りました。「似合いすぎ」
「やばいわね」ハスキルも厳かにうなずきました。「サイズも完璧」
 ミシスは顔を火照らせて、自分でも鏡に映る我が身をじっくり眺めてみました。たしかにサイズはぴったりだし、自分でもまぁ、けっこう似合ってるかも、と思いました。ピレシュほどでは、ないにせよ……。
「……なんかものすごく、どきどきしてきた」両手で自分の頬を包んで、ミシスがうめくようにつぶやきました。
 母娘が揃ってぱちぱちと手を叩きます。
 ミシスは静かに姿勢を正して二人の方へ向き直ると、髪が床につくほど深く頭を下げて、一言一言を噛みしめながら言いました。
「ハスキル先生。ノエリィ。本当に、ありがとうございます」
 二人は右と左から挟み込むようにしてミシスを抱きしめ、口々に祝福しました。
「明日から一緒にがんばっていきましょうね」ハスキルが少女の耳もとで言いました。
「はい」ミシスはしっかりとその目を見つめ返して、うなずきました。
「わたしもがんばるよ!」ノエリィが元気よく拳を突き上げました。


 その後、用事で外出するというハスキルを見送ると、ミシスは普段着に着替え直して、ノエリィを散歩に誘いました。するとノエリィは、ちょうど自分もそう言おうと思っていたところだと笑いました。
 二人はお茶とお菓子を籠に入れて家を出ました。めずらしくノエリィが口数少なく、自分から先に立って黙々と歩きだしました。ミシスはあえて行き先を訊かずに、その背中を追いました。
 やがて少女たちは広場と草原を横断し、雑木林の少し奥まったところまで入っていきました。そこは、ミシスが初めて来る場所でした。見たところ、人が一人やっと通れるくらいの幅の、柔らかく踏み固められた道とも呼べないような小怪(こみち)が、鬱蒼とした樹々の奥へと続いているようです。ノエリィはその道を少しのためらいもなく、枝葉や(やぶ)をひょいひょいと避けながら進んでいきます。ミシスは少しそわそわしながら、あとに続きました。
 しばらくすると、まるで楽譜を読み進めるうちに意外な場面で行き当たった全休符のように、ぽっかりと開けた空間が目の前に出現しました。
 思わずミシスの口から、感嘆の息がもれました。
 そこは雑木林の真っ只中にありながら、ただただ野の草花が絨毯のように一面に広がっているだけの、いわば小さな花園のような場所でした。
 その広さは、だいたい二人の自宅の居間とおなじ程度といったところです。丘の斜面に位置しているので、地面全体がやや傾いています。この場所を発見したことを喜びでもするように、幸運な蝶や蜜蜂たちがことさら愉快そうに飛びまわっています。太陽はまるで舞台の一点だけを狙う照明さながらに、ここだけとくべつに明るく演出してくれているようです。
 ノエリィは花園の中央へ進み出ると、両手を広げて仰向けに寝そべりました。それにならってミシスも彼女の隣に身を横たえます。ちょうど二人が顔を向ける先に、あの青い峰と星灰宮の姿があります。
 青空は澄んでどこまでも高く、小鳥たちの美しい歌声があたりを満たしています。
 ノエリィが顔だけミシスの方へ向けて、にこりと笑いました。
「ここはわたしのお気にいりの場所」
「こんな場所があるなんて、思いもしなかったよ」
「知ってる人はほとんどいないと思うよ。生徒たちは林のなかに入らないように言われてるし」
「獣でも出るの?」
「ずっとここで暮らしてるけど、そんなの見たことないよ。だから安心して。時々、わたしを探してお母さんやピレシュが訪ねてくることはあるけど」
「連れてきてくれてありがとう。ほんとに気持ちいいところだね」
 二人はそのまましばらく口を閉ざして、じっと横になっていました。それぞれの口もとには、満ち足りた微笑がずっと留まっていました。
「このまま寝ちゃいそう。お茶でも飲もっか」ミシスが上体を起こしました。
「そうだね」ノエリィも肘をついて起き上がります。「……でもその前に、実はミシスに見せたいものがあるの」
 そう言うとノエリィはお茶とお菓子を入れてきた籠を開けて、底の方からリボンの掛けられた紙の小包を取り出しました。
「はい、これ。わたしからのプレゼント」ちょっと照れくさそうにうつむいて、ノエリィが小包を差し出しました。
「わぁ。わぁ~……」ミシスはたちまち舞い上がってしまいました。「ええ~、ありがとう。すごい。なんだろう。開けてもいい?」
 ノエリィはうなずきます。
 ぶるぶると震える手で、ミシスは慎重に包みを解きました。なにしろ記憶にあるかぎり、面と向かって渡された初めてのプレゼントだったのです。
 包みのなかから出てきたのは、綺麗な一枚のローブでした。襟の後ろにゆったりとしたフードがついていて、独特の深い色あいの青い生地の全面に、白い星の形の刺繍がいくつも施されています。
 それを両手で広げて、感極まりながら眺めていたら、とつぜん雷に打たれたように思いだしました。
「え……ええっ!? これって、もしかして……!」
「ふふん。すぐにわかんなかったね? そう、ミシスが見つかった時に着てたっていう、あの服だよ」
「し、し、信じられない……」ミシスは心底呆然となりました。
「けっこうかわいくできたでしょ? あちこち穴が開いてたり破れてたり、裾なんかびりびりに裂けてたりして、どう直そうか迷ったんだけど。結局ね、傷んでたとこはばっさり切り落として、穴はぜんぶ星で塞いだの」ノエリィが得意げに説明しました。
「……これ、ノエリィが一人でやったの?」
「そうだよ。わたし、針仕事は得意なんだ」
「すごい、すごいよ! あぁ、こんな嬉しいことってない。まさかこんなに素敵になるなんて……」
「実を言うと、わたしも直しながら自分でも欲しくなっちゃったくらいだよ」ノエリィはちょろっと舌を出して笑います。
「一生、大事にするね」ミシスが声を震わせました。
「一生は、言いすぎだよぉ」
「ううん、ほんとにずっと大事にする。だって、この服だけじゃなくて、このわたし自身の新しい人生だって、ノエリィがくれたんだもの」
「そんな……。それを言うなら、わたしだって――」
 ミシスは隣の少女を力いっぱい抱きしめました。本当にそうしたかったからそうしたのですが、実のところは、涙の滲んだ顔を見られるのが少し気恥ずかしかったから、というのもありました。
「ノエリィとハスキル先生がわたしを見つけてくれなかったら、今頃どんなことになってたかわからない。想像しただけで、今でも怖くてたまらなくなるの。わたし、二人に巡り逢えて、一生ぶんの幸運を使い果たしちゃったんじゃないかって、いつも思ってる……」
「そんなぁ」そと抱擁を返しながら、ノエリィが苦笑します。「じゃあこれからはもう、一つの幸運もやって来ないってこと?」
「ううん。今も幸せ。昨日も幸せだった。きっと明日も幸せで、その次の日も」
「ずっと幸せじゃない」ノエリィは可笑しそうに吹き出します。
「そうなんだ。困っちゃうよね」ミシスは鼻声でこたえます。
「……ねぇ、ミシス」
「うん」
「わたしだって、ミシスがわたしたちのところに来てくれたおかげで、本当に毎日が楽しい。お母さんやピレシュたちと暮らすのも楽しかったけど、今は比べものにならないくらい楽しい。だから、わたしの方こそありがとう。これからもよろしくね」
「こちらこそ」
 二人はゆっくりと体を離し、思いきり照れた表情をそれぞれに浮かべると、いそいそと籠の中身を地面に並べて、青空の下のお茶会を始めました。毎日たくさん話しているのに、ここでもお喋りに花が咲きっぱなしでした。結局二人は、陽が傾くまでずっとそこにいました。
 ミシスの肩には、そのあいだじゅう、生まれ変わった青いローブが羽織られたままでした。まるで青空の一部が切り取られて、そこに貼りつけられているように。
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


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◆〈□□□□〉


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