38 音楽が佳境に差しかかる瞬間

文字数 4,439文字

 リディアは穏やかに立ちどまると、そっと手を開いて、握っていた槍を地面に滑り落としました。
 そして背筋を伸ばして塔のようにまっすぐ立ち、ゆっくりと顎を上げて、遥か上空に浮かぶ赤いカセドラを見あげました。
 哀れなコリオランは、まるで背を摘まれて持ち上げられたネズミのように、助けを求めて必死に手足をじたばたさせています。先程までの殺気に溢れる迫力は、もうどこにもありません。
 その様子を、不気味なほど押し黙ったまま、リディアがじっと見つめています。
 あたり一帯のすべての通信器に、狂乱するレンカのわめき声が届いています。しかしそれに対してかけるべき言葉を、地上の誰一人として持ち合わせません。
 今では自軍の飛空船の操舵室に待機しているライカでさえも、自分が目撃している現象への理解がまったく追いつかず、息をするのも忘れて立ち尽くしています。
「あいつが……やってるのか?」
 かろうじて率直な疑問を口にすると、胸の奥からじわじわと湧き上がる恐怖に震えながら、碧いカセドラの姿を見あげました。首を反らしている状態のその仮面の影が作る表情は、下から見るとまるで薄ら笑いを浮かべているようで、心底ぞっとさせられました。
 出し抜けにリディアの右手が、まるで音楽を指揮するかのように悠然と振り上げられました。そしてそれがすらりと振り下ろされた途端、上空に留まっていたコリオランの巨体が、凄まじい勢いで雑木林の真っ只中に墜落しました。
「レンカ!」姉が必死に呼びかけます。
 轟音と共に大地に叩きつけられたコリオランは、樹々を薙ぎ倒して大量の土砂を巻き上げ、その半身を無残にも粉々に破壊されてしまいました。
 言葉にならない唸り声が、その操縦席の内部からかすかに伝わってきます。
「生きてるか!? おい、返事をしろ、レンカ!」
「ね、姉さん……助けて……」
「緊急発進!! すぐにコリオランの回収に向かうぞ!」
 ライカが指示を出すと、揚力装置の駆動する重低音が鳴り響き、出撃口を大きく開いたままの灰白色の飛空船が地表から浮上していきます。
 けれどリディアは、そちらの方には目もくれません。
 その目は、依然としてコリオランにのみ注がれています。今ではもうまったく動けなくなり、ぼろぼろになるまで(もてあそ)ばれて捨てられた人形のようになってしまった、コリオランにのみ……。
 降りしきる雨に平然と打たれながら、リディアは樹々をかき分けてなおもまっすぐに標的の方へと歩みを進めます。そして、うずくまる赤い巨兵の手前で立ちどまると、今度は両腕を大きく左右に広げ、それをゆっくりと宙に持ち上げました。
 それはまさに、音楽が佳境に差しかかる瞬間の指揮者の姿そのものでした。
 直後、この一帯に、まるで百もの(いかずち)が乱舞するような、ばりばりばりばりと耳をつんざくおぞましい轟音が鳴り響きました。
 その音を耳にした者はみな思わず両手で耳を塞ぎ、続いて炸裂するであろう雷光から瞳を守るために、きつくまぶたを閉じました。
 しかし、それは起こりません。
 雨雲は変わらず粛然と水滴を落とすばかりで、空のどこを見渡しても、一筋の稲光さえ確認できません。
 けれど、轟音はまだ続いています。
 誰もが困惑し、目を開けてあたりを見まわすなか――
 その異変は起こりました。
 音は、天上ではなく、地下から発せられているものでした。
 倒れ伏すコリオランの周囲の樹々が、一斉に少しずつ、空に向かって上昇していきます。
 奇妙な轟きは、地中に深く張り巡らされた無数の大樹の根が、無理やり引き抜かれることで生じているものだったのです。
 リディアの指揮に従って、二十、いや三十本ほどもあろうかという立派な樹木が、次々と天高く浮上していきます。
 やがて根の先まで大地から抜き取られ、高度にして地上からおよそ三十エルテムの位置までその身を引き上げられた樹木の大群が、両手をさっと打ち振るリディアの動作に呼応するように、地上の一点へ先端を向けてずらりと整列しました。
 その一点とは、もちろん、コリオランが倒れている地点にほかなりません。
「やめなさい、ミシス!」マノンが我に返って一喝しました。「敵はもう帰るから、みんな無事だから!」
 ほんのいっとき、ぴたりとリディアの動きが止まりました。
 それに合わせて、空中に居並ぶ樹々も、ぐらりと不安定に揺らぎます。
 その瞬間を、ライカも、そしてレンカも、見逃しませんでした。
 まるで大口(おおくち)を開けて餌を呑み込む鯨のように、コランダム軍の飛空船がリディアの脇をかすめて驀進します。
 最後の力を振り絞ってその身を跳ね上げたコリオランが、頭から船のなかへ飛び込みます。
 的の中心を狙って一斉に投げられた無数のダーツの矢のように、無数の樹々がコリオランの横たわっていた場所に降り注いだのは、そのほんの二、三秒後のことでした。
 全速力でこの場を離脱していく敵機を目で追いながら、マノンが額の汗をそっと拭いました。そのかたわらでグリューも、そしてレスコーリアも、真っ青な顔をして全身を冷や汗で濡らしています。
「師匠、やっぱりおれたち、とんでもないものを造っちまったんじゃ……」
「もう遅い」鬼気迫る声でマノンが助手をたしなめます。「きみも科学者の端くれなら、自分の関わった成果を悔いるようなことは言うな」
「……でも」
 うなだれるグリューの肩に、レスコーリアが慰めの手を添えました。
「問題はね」マノンが自分の体を両腕できつく抱きしめます。「ついに、人が乗ってしまったってことだ。心が宿ってしまったってことだ。禁忌(きんき)の存在が証明されてしまったってことだ。そしてそれをあろうことか、敵性の対象に見られてしまったってことだ。自覚はあるかい、助手くん。今、僕たちは、歴史の転換点に立ち会ったんだよ。ここはまさに、新世界の入り口だ」
「そのとおりよ。グリュー、顔を上げて」レスコーリアが羽を震わせて静かに叫びました。「後戻りはもうできないの。あたしたち全員に責任があるわ。でも、だからこそ、こうして生き残ることのできたあたしたちで、その責任を取っていくしかないのよ」
 マノンが決意を結集して作った笑顔で、その言葉に同意を示します。
「まったく、お前にゃ負けるよ……」青年は泣きだしそうな顔で苦笑しました。
「さて!」ばしっと助手の背中を叩き、マノンが威勢の良い声を発します。「敵の本陣は目と鼻の先。連中は帰還次第、将軍に報告するだろう。史上初の、顕術を操るカセドラを発見したと。いったいどれほどの追撃が来るだろうね? この燃料切れの哀れな船に向かって」
 グリューの顔が一気にまた青ざめました。
 レスコーリアは横目で外の雑木林のなかに佇むリディアを見やりました。それから片手を顎に添え、しばし考え込んでから口を開きました。
「マノン。あたしに考えがあるんだけど……」
「たぶん、僕もきみとおなじこと考えてる」
 二人は顔を見あわせてうなずきを交わしました。
 マノンはすぐにリディアの操縦席へ向けて通信を開始しました。
「ミシス、聴こえるかい?」
「…………」
「おぉい、ミシス! ミシスったら!」
「…………」
「生きてるだろ? 寝ちゃったのかい? ねぇ、返事をしておくれ!」
「…………え」
「! ミシス、僕だ、マノンだ!」
「……あ、はい」
「平気? 体はどうもない?」
「うん……えっと……わたしは、大丈夫、です……大丈夫、みたい……」
「はぁ、よかった……」
「ああっ!」
「どうしたっ!?
「ノエリィ! ノエリィは!?
「彼女なら無事だ、落ち着いて!」
「ノエリィは怪我をしてるの。早く手当てしてあげなくちゃ!」
「慌てないで、ミシス。よく聴いて。この船には医療道具が一式積んである。きみはリディアでノエリィを運んであげて。さっき確認したら、校舎の前でまた気を失ってしまったみたいだから」
「わ、わかりました!」
「よし。それからすぐに船に戻っておくれ。もうすぐ敵の増援が押し寄せてくるからね」
「でも、その船にはもう、飛ぶ力は残ってないんじゃ……」
「それはたぶん大丈夫。僕らに考えがある。信じてほしい」
「……了解しました」
 通信が終わると、マノンは早口で隣の二人に向けて告げました。
「助手くん、いつでも飛び立てるようにここに残って準備をしておいてくれ。レスコーリア、きみは僕と一緒に格納庫へ。手を貸してほしい」
 急いで操舵室を出ていこうとする二人に向けて、グリューが呼びかけます。
「でも師匠、いったいどうやって……」
「リディアのイーノを転用する。あれだけの顕術を放ったんだ。まだ躯体にたっぷりと顕導波が残っているはずだからね」
「なるほど」彼にも頭のなかで算段がついたのか、表情を少し明るくしてうなずきました。
 校舎の近くへ戻ってきたリディアのなかのミシスは、周辺の惨状を見てとことん心を痛めました。
 昨日までの、あんなに平和で幸せだった日々が、嘘みたい……。
 あぁ、なにもかも夢だったらいいのに。
 目を閉じて、ぐっすり眠って、また目を覚ましたら、
 すべてが元通りになっていたらいいのに。
 でも……
 やっぱり、夢じゃないんだ。
 これが、現実なんだ。
 ……しっかりしなくちゃ。
 ノエリィを、ハスキル先生を、みんなを、守るんだから……。
 ミシスは泥濘(ぬかる)んだ地面の上に倒れているノエリィの姿を発見しました。その寝顔を一目見ただけで、涙が込み上げてきます。けれど今はそれをどうにか呑み込んで、その身のかたわらにリディアの両膝をつくと、まるで水面に浮かぶ花びらを掬うように、両の手のひらでそっと親友の体を持ち上げました。
 そしてなるべく慎重に船に乗り込み、マノンが格納庫の床に敷いておいてくれた毛布のうえに、その身をそっと載せました。
 それからレスコーリアの案内に従って、リディアが最初に載せられていた台座のある場所まで向かい、起動前にしていたようにひざまずく姿勢をとると、そこでやっと動きを止めました。
 マノンとレスコーリアが、まるで靴屋の勤勉な小人のように、リディアのまわりでなにやら慌ただしく作業をしているのが見えます。ミシスは二人からの指示で、まだしばらくはリディアに乗っていなくてはいけないというので、そのまま操縦席に腰かけてじっとしていました。
「マノンさん、ノエリィは大丈夫?」ミシスが虚ろな声でたずねます。
「心配いらないよ。傷は浅いし、呼吸も心拍も安定してる。ただ疲れて眠ってるだけだよ」
「そっか、よかった……」一気に全身から力が抜けていくのを感じます。「ねぇ、わたし、少し眠ってもいい?」
「ああ、かまわないよ。疲れたろう、ゆっくりお休み。あとでベッドに運んであげるから」
 そうして、ミシスは両目を閉じました。
 柔らかな青い光に抱かれて、静かに、深く、眠りへと落ちていきます。
 意識が消失する間際、マノンの快哉の叫びが、遠くから響いてくる幻聴のように、少女の耳に届きました。
「……やった! いける、飛べるぞ!」
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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