序 ある大樹の語る物語

文字数 4,137文字

 あてもなくさまよう孤独な旅の道すがら、思いもかけず楽園のような土地へ足を踏み入れることになった。深い森を踏破した先に天啓のごとく現れたそれは、春の最初の日の朝陽(あさひ)を一身に浴する優美な丘だった。
 丘の頂上には一本の立派な大樹が、まるでこの地を見守る(あるじ)のように鎮座していた。たくさんの蝶や小鳥たちが群がるその幹に、私もしばしの憩いを求めて背中を預けさせてもらうことにした。
 眠りへの誘惑は耐えがたかった。母のように慈悲深い大樹の温もりに包まれて、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
 ……どうかあなたの腕のなかで、この宿命づけられた愚かな旅の辛苦を、いっときだけでも忘れさせてほしい。
 これまでに負ってきた傷と、これから負っていくはずの傷を、ここで(いく)ばくかでも、癒してほしい……。
 そう祈りながら、
 甘美なまどろみと共に、
 夢うつつの境地へ心を浸すさなか、
 大樹が静かに私の耳もとへ語りかけてきた。
 ――これはあなたが生まれるよりずっとずっと昔のこと、と大樹は始めた。この大地に生きた一人の少女と、その少女と宿命的な縁によって結ばれた、哀しくも美しい聖なる泥人形を巡る物語。
 苦悩の多き、迷える地上の旅人よ。子守唄の代わりに、心を込めて、この物語をあなたに贈りましょう。
 どこからでも始められるし、どこででも終わりにできるのが物語というものの常ではありますけれど、今まさに夢のなかへ沈んでいこうとするあなたにふさわしい場面を選んで、始めることにしましょう。
 それは気が遠くなるほど遠い過去の時代の、ある日の夜更けの一幕。
 季節は、(おり)しもあなたが享受しているのとおなじ、春のはじめの頃。
 この物語の主人公である少女もまた、深い眠りのなかで、夢を見ています…………




 夢のなかで少女は、もう一人の別の少女に手を引かれ、二人で橋を渡っているところです。
 それは胸が痛くなるくらいにまっすぐで、世界の(はし)から端までを結ぶほど長く、新雪のように純白の石でできた橋です。
 二人はもうずいぶんと長いこと、その橋を歩いてきました。
 時刻は黄昏(たそがれ)どき。二人を取り巻く世界は、生き物の存在をゆるさないように思えるほど荘厳で峻烈な、赤みがかった黄金の光で溢れ返っています。橋の上には二人ぶんの濃く長い影が前から後ろへ伸びています。風はいじわるなくらい容赦なく二人に吹きつけ、びゅうびゅうと不気味な音を立てています。気をつけていなければ、体ごとどこかへ飛ばされてしまいそうです。
 先導する少女が迷いなく前を見すえて歩くのに対し、手を引かれる少女は何度もためらいがちに足を止めては後ろを、つまり自分たちがやって来た方を振り返って、名残惜しそうに視線を送っています。
 けれどもう、橋の始まりは見えません。来た道は水平線の一点に吸い込まれて、消えてしまっています。
 振り返りながら歩く少女の表情は、少しずつ緊張の色を帯びてきました。手を引かれてなかば無理やりに歩みを進めながら、ときどき体をひねって欄干(らんかん)から橋の下をのぞき込んでみます。でもそこには小麦畑のように一面が黄色に染まった雲海が、どこまでも広がっているだけです。激しい風に押し流されてはいても、その雲の絨毯の表面には一つの隙間も見あたらず、地表らしきものはまったく確認できません。きっと雲の下には大地があるはずですが、少女のいるところからは、そこがどんな場所なのか想像さえつきません。
 この橋はどこへ通じているんだろう。
 ここはいったいどれくらい地上から離れているんだろう。
 わたしはどこへ連れていかれるんだろう。
 そもそもこの子は誰なんだろう。
 どうしてわたしを引っぱっていくんだろう。
 そしてどうしてわたしは、この子を拒むことができないんだろう……。
 いくつもの疑問が、少女の胸に去来します。どこかに助けを求めたいけれど、どこに、誰に、どうやって助けを求めたらいいのか、ぜんぜんわかりません。
 すがるような思いで空を見あげます。ほんのちょっと手を伸ばせばそのまま(すく)いとってしまえそうなほど濃密な星空が、すぐ頭上まで迫ってきています。でもそれはあまりに圧倒的に近すぎて、むしろ足がすくむほどの恐ろしさを感じさせます。
 少女はあきらめて、振り返ることも、空を仰ぐこともやめて、自分の進む方向に目をやりました。
 前を行く少女の揺れる髪の先に、橋の到達点が見えます。
 それは今はまだ水平線とおなじ高さに収斂(しゅうれん)するほど遠くにあるけれど、このまま歩き続ければそのうち必ずそこに辿り着くという事実は、橋を渡るという行為の結果として、あるいは避けがたい運命の帰結として、自明なことでした。
「わたし、ずっとここにいたい」
 それは自分でも気づかないうちに、後ろを行く少女の唇からこぼれ出た言葉でした。
 それを聴いた前を行く少女は、ここで初めて、足を止めました。急に止まったので、後ろの少女の胸が、前の少女の背中に、勢いよくぶつかりました。
 前の少女は振り返り、儚げな微笑を浮かべて、()いている方の手をゆっくりと持ち上げると、その手のひらで後ろの少女の頬にそっと触れました。
 その指先が、一筋の涙を受けとめました。
 最初の一滴がこぼれると、もう涙は留まることがありませんでした。
 すぐに手のひらだけでは涙を受けきれなくなり、前の少女は後ろの少女の両脇に腕を回して、その体をきつく抱きしめました。
「大丈夫」前の少女が、泣きじゃくる少女の耳もとでささやきます。
 大丈夫じゃない、と後ろの少女は思います。
 ずっとここにいたい、だなんて、ずっとここにいることはできないんだと切実に悟っている人間の口からしか、出てこない言葉。それくらいは自分でもわかる。
 ……でも、そもそも、ここって、どこなんだろう。
 それさえわからないのに、ここにいたいと願うなんて、考えてみたらとてもおかしな話だ。
 自分でも、自分がよくわからない。
 ただわかるのは、この橋を渡りきってしまったら、もうそこは

ではなくなるということだけ。
 なぜだかわからないけれど、それはどうしようもなく、わたしを不安な気持ちにさせる。本当に、なぜだか、わからないんだけれど……。
 前の少女は少し体を離して、後ろの少女の濡れそぼった顔を優しく両手で包み、その双眸(そうぼう)をじっと見つめました。
 二人はそのまましばらくのあいだ、猛る風と鮮烈な光の(ふところ)に抱かれながら、互いを見つめあっていました。どちらの瞳も、海の底のように、あるいは透明な夜のように、どこまでも深い青を(たた)えていました。
「きっとまた会えるよ」前の少女が言いました。
「本当?」涙をこらえながら、後ろの少女がたずねます。
「本当よ」うなずいてほほえみながら、前の少女がこたえます。「それどころか、わたしたちが離ればなれになることなんか、絶対にないのよ。いつまでも、わたしとあなたは一緒にいる」
 その言葉の意味がすっかり理解できたわけではなかったけれど、それを口にする少女が嘘をついていないことだけはたしかなことに感じられて、とめどなく流れ続けていた涙が、静かにその氾濫を止めました。
 二人は笑顔を交わし、頬を寄せあって強く抱きしめあい、前へ向かって歩みを再開しました。
 やがてその足は、橋を渡りきるでしょう。行為の結果として。あるいは運命の帰結として。
 そしてその約束の地点で、一つの世界は別の世界へと転換を遂げることになるでしょう。それが二人の選んだ道であり、二人をここまで導いた世界の意志でもあるから。
 橋の終わるところで、二人は同時に立ちどまりました。
 ずっと繋いでいた手を離し、二人はもう一度向きあいました。
 二人はここで決定的に、送る側と、送られる側とに、別れることになりました。
 前を行っていた少女が、今では後ろに回っています。
 後ろにいた少女が、今では前に回っています。
「最後まで来ちゃった」送り出される少女が言いました。
「最後は新しい最初よ」送り出す少女が言いました。
「そうなるといいな」
「ねえ、ミシス」急に真剣な表情を浮かべて、送り出す少女が呼びかけました。「あなたは、その世界で、その体で、いったいなにをするの?」
 ミシスと呼ばれた少女が、なにかこたえようと口を開きかけたその瞬間、たずねた側の少女が、返答を受け取るのを待つことなく、目前の少女の胸の中心に手のひらを当てて、背後に広がる別の世界へと押し出しました。
 まばたき一つする間もなく、それまでの世界は巨大な渦に一瞬で吸い込まれて消失してしまい、あっという間に自分が今までとは異なる空間に移動したことを、送り出された少女は自覚します。
 そこは、深い水のなかのような場所。無数の泡がどこからともなく生まれては、狂ったようにうねる巨大な潮流に押し流されて消えていきます。呼吸ができないことへの恐怖で頭が錯乱しかけますが、どういうわけか少しも息が苦しくならないことに、少女はすぐに気がつきます。
 ここは水のなかじゃない。ミシスと呼ばれた少女は思います。
 水のように見えるけれど、それは水のような形象をとっているにすぎない。
 その正体はたぶん、

そのもの。きっとここは、どこかからどこかへと移ろっていく流れという現象の概念そのものが、かりそめのかたちをとって具現化した場所なんだ。言うなれば運命の流動体のなかに、自分は取り込まれてしまったんだ。彼女はそれを直感的に、体感的に、理解します。
 ミシスと呼ばれた少女はそれきり、なにかを考えることも思うことも今はやめておこう、と決心します。頭と心を空っぽにして、この抗いようのない流れに身を委ね、自分という存在のすべてを、どこかへ運ばれていくままに漂わせよう。
 全身の力を抜いて目を閉じると、まぶたの裏側に、あの橋の終着点で見た、自分を送り出した少女の笑顔が、ぼんやりとした静止画のように浮かび上がって、ゆっくりと消えていきました。
 そしてそれは、もう二度と、戻ってはきませんでした。




 …………夢の終わりに、少女は耳の奥に残るかすかな残響を無心でなぞり、言葉にならない声で、そっとささやきました。

 わたしは、
 この世界で、
 この体で、
 いったいなにをしようとしているんだろう?
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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