7 ねぇ、手を握ってもいい?

文字数 5,361文字

「どれくらいかかるのかなぁ」廊下を歩きながらノエリィが言いました。
「さぁ、どうなんだろう……」その隣でミシスが首をかしげます。
「けっこうじっくり話をするって感じだったよね。でも、このままわたしたちだけで外へ遊びにいくのは、さすがにだめだろうね」
「外へ?」びっくりしてミシスが訊き返します。「それは、ちょっと、うん。わたし、外出禁止って言われてるし、それに、出られたって、というか出てみたいけど、こんな格好だし……」
「え、べつにかまわないじゃない」ノエリィがひょいと眉を上げます。「ミシスさん、美人だし。そんなこと気にする必要ないよ」
「なっ、えっ、びじ……?」ミシスは再び赤面します。
「もし寒かったら、これ貸してあげるし」
 そう言ってノエリィは自分が羽織っていたケープを脱ぐと、まるで(すく)いあげた粉雪でも散らすような手つきで、それをミシスの肩にかけてくれました。ノエリィはケープの下には、淡い茶色のブラウスを着ていました。
「あ、ありがとう」
 ミシスは戸惑いながらも、初めて感じる質の良い衣服の肌触りに、いっとき頭がぼうっとなってしまいました。少し歩いて気を取り直すと、遠慮がちに口を開きました。
「でも、やっぱり、外に出るのはまずいと思うなぁ……」
「う~ん、そうみたいだねぇ」
「……そうだ」急にミシスは閃きました。「じゃあ、屋上へ行かない? 今日は天気も良いし、風も穏やかだし」
「それいいね、そうしよう!」ぱっと頬を輝かせてノエリィが手を叩きます。
「あの」
「ん?」
「わたしのことは、呼び捨てでいいよ」
「そう? じゃあミシスも、わたしのこと呼び捨てにしてね」
「う、うん、ノエリィ」口ごもりながら少女はそそくさとケープを脱ごうとします。「ありがとう、これ、返すね」
 ノエリィは首を振ります。「いやじゃなければ、そのまま着ててよ。わたし、この方が涼しくていい」
 二人は階段をのぼって屋上に出ました。ミシスは本を読むためにしょっちゅう来ているので慣れっこになっていましたが、こうして改めて眺めてみると、やはり見事としか言いようのない景観です。ノエリィは歓声をあげながら(ふち)のところまで駆けていき、両手で柵をつかんで王都の展望を見渡しました。
「すごいね。わたしたちが泊まってるホテルより、ずっと見晴らしがいいよ。お城もあんなにはっきり見える」
 ミシスは彼女の隣に立って、おなじ方角に目を向けます。二人の視線の遥か先に、来る日も来る日も同じ場所で剣を掲げ続ける忠実な巨兵が二体、今日も堂々たる立ち姿を見せています。
「大きな都だねぇ。ちょっとめまいがしちゃう」ノエリィが困ったように笑いました。
「ノエリィは、王都へはよく来るの?」
「ううん、まだこれで3度目くらいかな。いや4度目? よく覚えてないけど、滅多に来ることはないよ」
「普段はどこで暮らしてるの?」
「タヒナータっていう町だよ」丸眼鏡の少女は柔らかい表情を浮かべます。「わたしたちの学院も、そこにあるの。ここから東の方へ行ったところにある、古い町だよ」
「タヒナータ」ミシスはゆっくりとその名を復唱します。「どんなとこ? ここと似てる?」
「ううん」とんでもない、というふうにノエリィは強く首を振ります。「タヒナータは、もっとのんびりしてて、静かなところだよ。こことはぜんぜん、雰囲気がちがう。ていうか、ここに匹敵する町なんて、きっとどこを探してもないよ。なんてったって、ここは今では世界の中心だからね」
「へえ。ここってそんなにすごい場所なんだ」
「そうだよぉ。でも、わたしは正直言って、自分の町の方がずっと好きだな。田舎だし、古くさいとこだけど、素朴で良い町なんだよ」
 それからノエリィは、その故郷の町がどれくらいここから遠くにあるのか、列車で行くとどれくらい時間がかかるのか、といったことを、矢継(やつ)(ばや)に説明してくれました。その話に耳を傾けながら、ミシスはどうにも名づけようのない、じわりと胸が締めつけられるような不思議な気持ちを、少しだけ味わっていました。
 ……ああ、この子は、自分とおなじくらいの年月を生きてきて、そのあいだにあったいろんなことをたくさん覚えていて、生まれ育った故郷(ふるさと)があって、好きだと言える町に住んでいて、優しそうなお母さんがいて、きっと友達だっておおぜいいて、好きな時間まで明かりをつけて本を読める部屋に暮らしているんだ。
 それに比べて自分は、これまでに関わってきたはずの人たちのことも一人残らず忘れてしまって、世のなかのこともちっともわからなくなってしまって、知っている場所といえばこの気の滅入る病院だけで、持ち物といえばあの穴だらけのローブ一枚きりで……
「どうかした? 具合でも悪いの?」
 気がつくと、本気で心配そうな表情を浮かべたノエリィが、横からじっとミシスの顔を見つめていました。
「いいえ」とっさに笑顔をこしらえて、ミシスはこたえます。「なんでもないよ。ちょっと目がくらんじゃっただけ。……ねぇ、ノエリィ。あなたは、わたしのこと、お母さんから聞いた?」
「うん、少しだけだけど」問われた少女は、表情を変えず、視線も()らさず、こくりとうなずきました。「記憶が、ないんでしょう?」
 ミシスは無言で、首を少しだけ前に傾けました。
「どれくらい前からの記憶がないの?」
「遠くの知らない場所に倒れてて、軍の人に保護されてここに運ばれてきて、何日か前に目を覚まして、そこから先の記憶しかないんだ。その前のことは全部、なにからなにまで忘れちゃった」精一杯の明るい顔をつくって、ミシスは言いました。
 けれど、そうやって無理やり急造された笑顔は、それを建てた本人の努力も虚しく、抗いがたい力によってあっという間に取り壊されてしまいます。その撤去作業が完了する瞬間を見計らうようにして、ノエリィはミシスに向かってそっと語りかけました。
「ねぇ、手を握ってもいい?」
「えっ? ……うん、いいけど」
 ノエリィの小さくてふくよかな手が、指が長くて()せ気味のミシスの手を、まるで寒い冬の夜に温めるように、優しく包みました。
「大変だったんだね、ミシス」
 ミシスの方が少し背が高いので、その瞳をのぞき込もうとすると、ノエリィはちょっと見あげる姿勢になります。でもミシスにとっては、なぜだかそのまっすぐに自分を見あげる瞳が、まるでずっと高いところから自分を見守ってくれているもののように感じられました。
 そう、大変だったんだ、わたし……。
 胸の奥からとつぜん自分の本当の声が聴こえてきて、同時に鼻の奥がつんとするのを感じ、ミシスはきつく唇を噛みしめました。
「わたしには、ミシスが今どんな気持ちでいるのか想像もつかないけど、もし自分がおなじ状況になったら、きっとすごくすごく不安になると思う」
「うん」
「夜、怖くない?」
「え?」
「夜、暗くなって、眠る時、怖くない?」
「もちろん、怖い。でも、怖くない人なんているの? みんな怖いんだと思ってた」
 ミシスはその時ふと思い当たります。毎晩一人で暗闇に身を横たえるのが怖くて怖くて仕方なかったけれど、そうか、そういえばいつも寝る前に、薬を飲まされる。気持ちを落ち着ける薬だって看護士は言ってたけど、あれはきっと、眠るための薬だったんだ……。
「そうね、時々は、誰だって眠れないくらい怖い夜があると思う」
「ノエリィも?」
「うん。たまにあるよ」
「そっか……」
「ねぇミシス、あなたの目って、ものすごく綺麗だね。まるで、満月みたい」
「あ、ありがとう」言いながらミシスは、今日はたくさん褒められてなんだかこそばゆいな、と思っていました。
「あのさ、わたしを、あなたの友だちにしてくれる?」花が開くような笑顔と共に、ノエリィが言いました。
 ミシスは心のなかに甘く爽やかな風が吹き抜けていくのを感じながら、ゆっくりと大きくうなずきました。
「わたしで良ければ、喜んで」
「やったぁ! じゃあ、今日からわたしたちは、友だちだね」
 温かくまばゆいなにかがお腹の底から湧き上がってくるのを感じて、ミシスは全身をぶるぶると震わせました。
「大丈夫? 寒い?」ノエリィが心配そうにたずねます。
「ううん。違うの。なんだか、嬉しくて……」
「わたしも嬉しい。こう見えてわたし、友だち作るの上手じゃないから」
「そうなの? そんなふうには見えないけど」
「どうしてかな。ミシスとはとても自然に話せるよ。あぁ、今日は素敵な一日になったなぁ」
「わたしも」
 それから二人は並んで屋上の隅に腰をおろし、ずいぶん長いこと取りとめのない話をしました。といっても、ほとんどノエリィが一人で喋って、ミシスは相槌を打つばかりでした。それでもミシスは、心からそのひと時を楽しみました。ノエリィも夢中になって、次々といろんな話を披露しました。その大半は、ここ数日のあいだに王都で体験した出来事にまつわるものでした。どこそこの橋が綺麗だったとか、あそこの店は紅茶の品揃えが良かったとか、今朝は通りすがりの犬に吠えられて怖かったとか、今夜はお城の前でカセドラと記念撮影をするつもりだとか……。
 ハスキルが昔から贔屓(ひいき)にしている老舗の仕立て屋が王都にある、という話題になった時です。ミシスはふと思いだして、自分が発見された時に着ていたというあの服のことを話しました。するとノエリィが、ぜひそれを見てみたいと言いだしたので、二人は屋上を出てミシスの部屋に向かいました。
 無残な状態になっている青いローブをノエリィに見せると、彼女はそれをとても綺麗な色だと褒めてくれました。ミシスは、これをまた着られるようにするには仕立て屋さんにいくらぐらい払えばいいだろうかとたずねました。
「高い高い!」顔をしかめてノエリィはぶんぶんと手を振ります。「お金がもったいないよ。これくらいなら、わたしでもなんとかできそう。そうだ、これ、しばらくわたしに預けてみない? どうにか直してあげられると思うよ。けっこう得意なんだ、針仕事。ねぇ、どんなふうにしてほしい?」
 着られる状態に戻すことができるとは考えてもみなかったので、ミシスは興奮してこたえました。「ノエリィにお任せするよ。どうぞ好きなようにして。きっといつかお礼をするから」
「そんなのいいの、わたしがやりたいだけだから」
 ノエリィがそう言ったちょうどその時、看護士が二人を呼びにやって来ました。
 二人は看護士の詰所の奥にある小さな応接間に案内されました。その部屋の中央に置かれたソファに、ハスキルと主治医と専門医が並んで座っていました。うながされて、二人の少女はまるで大人たちに面談を受けるような形で、真向いのソファに腰をおろしました。
 面談のあいだ、医師たちは一言も口を開きませんでした。ただハスキルが、丁寧な調子でミシスに向かって簡潔な問いを投げかけただけでした。
 質問は三つありました。
 一つ目の質問は、「あなたは勉学に取り組む意志がありますか」。
 少女の回答は力強く明確な「はい」でした。
 二つ目の質問は、「学院を見学してからどうするか決めたいですか」。
 少女の回答は「いいえ」でした。さらに「その必要はないと思います」と付け加えました。
 三つ目の質問は、「あなたの口からあなたの率直な願望を聞かせてください」。
 少女の回答は、「ハスキル先生の学院で学びたいです」でした。
「わかりました」すべての質疑応答が終了すると、にっこり笑ってハスキルがうなずきました。「では、私の王都での用事が全部済むのが二日後なので、その翌朝いちばんに、ここへあなたを迎えに来ます。用意しておくものは、とくになにもありません。外出着は、簡単なものをこちらで用意しておきます。その日の午前中の列車で、私たちの暮らす町へ一緒に帰りましょう」
 ミシスは座ったまま黙ってうつむいて、それきり顔を上げることができませんでした。涙が次から次にこぼれて仕方なかったのです。隣に座るノエリィも、瞳を(うる)ませていました。専門医の女性の目にも、うっすらと光るものがありました。主治医は感慨深げに何度か大きくうなずきました。ハスキルは、二人の少女たちを笑顔で眺めていました。
 開かれた窓から風が吹き込んできて、真っ白なカーテンと部屋に置かれた観葉植物の大ぶりな葉が、まるで祝福の舞を踊るようにゆさゆさと揺れました。
 ミシスが落ち着くのを待って、全員でエーレンガート母娘を門まで見送りに出ました。
 これ以上は心を尽くしようがないというくらいに最大限の感謝の気持ちを、ミシスは二人に伝えました。二人はそれぞれに優しげな表情を浮かべて、両目をはらした少女の肩を撫でました。
「一緒にがんばっていきましょうね」ハスキルがにこやかに言いました。
 去り際に、ミシスはノエリィを呼びとめて、まっすぐにその瞳を見つめました。
「ノエリィ、あなたの目も、太陽みたいに綺麗だよ」
 そろって照れくさそうに微笑すると、二人は大きく手を振って別れました。ミシスは歩き去っていく小さな二つの背中を、その姿が見えなくなるまで、ずっと見送り続けました。
「良いお友だちになれそうじゃない?」病院から出るとすぐにハスキルが娘に声をかけました。
「もうなったよ」娘は得意げにこたえました。
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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