31 招かれざる客
文字数 2,816文字
「さあ、僕らも出るよ!」
マノンが玄関先に掛けておいた自分のレインコートを羽織って、残った二人の少女、ミシスとノエリィに呼びかけました。
二人もまた、居間から玄関へと通じる廊下の暗がりのなかで、それぞれのレインコートを身に着けようとしているところです。
ミシスが前側のボタンをすべて留めてフードをかぶりながら顔を上げると、ノエリィはまだ最初のボタンさえ留められずにいました。まるで背後から見えない誰かに揺さぶられているみたいに、両手がぶるぶると震えていたからです。
「ノエリィ」ミシスは精一杯に落ち着いて呼びかけます。「大丈夫。大丈夫だからね」
そのままくり返し大丈夫を唱えながら、ボタンを留めるのを手伝ってあげました。見ると、震えているのは手だけではありません。全身を支える両脚もまた、ぐらぐらと頼りなさげに揺れています。唇は長いこと水に浸かっていた人のように色を失い、丸眼鏡の奥の瞳はもはや焦点を合わせるのがやっとという状態です。
当分のあいだは決してノエリィを座らせてはいけない、とミシスは判断します。この状態で一度でも腰をおろしてしまえば、きっとそれきり、立ち上がれなくなってしまうだろう……。
なんとかすべてのボタンを留めてしまうと、仕上げにフードをその頭にかぶせてあげて、しっかり両目を見つめながらその手を取りました。
「きみたち! 行けるか?」開かれた玄関のドアを手で押さえながら、マノンが振り返ります。
「はい!」ミシスがこたえて、ノエリィの手を取って歩き出します。「さあ、行こう」
「う、うん」
小さく返事をして足を一歩踏み出したノエリィでしたが、その足の運びは風に揺れる草のように不安定で、まるで綿毛の上を歩いているようです。
「ノエリィ、しっかり」
「あぁ、ミシス、わたし……わたし、走れないよ」
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから。わたしがずっとそばにいるから」
ノエリィの瞳から、涙が一筋、流れ落ちました。本当はミシスも一緒に泣きたかったけれど、思いきり歯を食いしばり、込み上がってくる奔流をそれが生まれてくる場所まで押し戻しました。
二人はたどたどしい足取りでマノンの横を通り過ぎ、玄関を出ました。
「マノンさんはどうするんですか?」ミシスがたずねます。
いまだ船体の迷彩効果を維持しているレジュイサンスに目を向けつつ、マノンが大声でこたえます。
「僕は船のそばでやつらを待つ。もし降りてきたら、なんとか話をつけてみる」
ミシスはうなずきます。そしてノエリィの腰に腕を回し、校庭の先の正門へ向けて歩きはじめます。
けれどやはり、思ったように前へ進むことができません。
「どうしよう、ミシス、わたし……」
ますますひどくなる脚の震えを抑え込むように、ノエリィは両手で自分の膝をわしづかみにします。
「走れ、走るんだ!」マノンが渾身の激励を二人の背後から飛ばします。
しかし直後、ついにノエリィは転倒してしまいました。
「あぁっ……!」
ミシスが痛恨の叫びを上げ、崩れ落ちるその体を身を挺して受けとめます。そしてとっさに上空を見あげて、雨を顔じゅうにめいっぱい受けながら、灰白色の飛空船の行方を確認しました。
丘のほぼ真上に差しかかろうとしている一つの機影が見えます。相変わらず、なにかを警戒するようなのっそりとした速度で飛んでいます。玄関のドアを閉めて駆けだし、今ではエーレンガート家の庭先まで出てきていたマノンも、おなじようにそれを睨みつけています。
すると次の瞬間、突如レジュイサンスの迷彩機能が解除されてしまいました。
「くそっ!」マノンが忌々しげに毒づき、再び上空の機体を仰ぐと、まさに神に祈るように言葉を唱えました。「行け、行け、行け……頼むから、そのまま行ってしまえ……!」
ミシスとノエリィも、互いの手をきつく握りあいながら、懇願するような視線を雨空へと送っています。
そろりそろりと進み続ける飛空船。
腹立たしいほど緩慢な速度で飛行を続けるその機体は、やがてすっかり丘の一帯を抜け、黒々とした森の広がる南方の方角へと去って――しまうものと思われたその矢先、非情にもその舳先 をぐるりと旋回させ、まるで捕食対象を発見した鯱 のように、丘の頂上めがけてまっすぐに向き直りました。
「ちくしょう!」
マノンが罵声を吐いて、拳で虚空を鋭く殴りつけました。そして泥濘 の上にしゃがみ込んでいる少女たちに向かって怒鳴ります。
「二人とも、なにしてる! 急いで!」
「でもっ……」ミシスが荒い息を歯の隙間からもらします。
「決して連中に姿を見られてはいけない。いっときだけでも、どこか……そうだ、校舎だ! 校舎に逃げ込むんだ!」
指示を受けて、ミシスは素早くそちらへ目を向けます。校舎の中央の広間に通じる裏口の大扉は開かれています。きっと、ピレシュとハスキルがそこからなかへ入ったのでしょう。
あそこまでなら、たしかにノエリィを抱えたままでも辿り着けそうだと、ミシスは目算を立てます。家に引き返すには少し離れすぎたし、もともと目指していた正門は、今や想像を絶するほど遠くに感じられます。
「ミシス!」マノンが背を丸めて叫びます。
「はい、行けます!」少女もまた全力で応じます。その腕のなかに、すっかり腰を抜かしてしまった友の体を抱えながら。「大丈夫です。行きます。行ってみせます!」
「……よし」口もとにかかる赤髪を乱暴に払いのけて、マノンはうなずきます。「校舎に入ったら、できるだけ急いで表 から出るんだよ。いいね?」
マノンと目を合わせてうなずくと、ミシスは力を振り絞ってノエリィの体を抱きかかえ、唇を真一文字に結び、鼻で荒々しく呼吸しながら、校舎を目指して歩きだしました。
かろうじて、まだ灰白色の船が上空にいるあいだに、二人は目的の扉に辿り着くことができました。そして建物に入ってすぐの、外から死角になっている物陰にばったりと倒れ込みました。
並んで壁に背をもたれ、二人とも激しく胸を上下させて息をします。どちらの全身もずぶ濡れで、どこもかしこも泥だらけです。フードをかぶっていたのに頭のてっぺんまでびしょ濡れで、乱れた髪がそれぞれの顔いっぱいに貼りついています。
「ごめんね、ミシス、わたしのせいで……」まさぐるようにミシスの手を求めながら、ノエリィが謝罪の言葉を絞り出します。
「ノエリィはわるくない!」ミシスが強く首を振って大声を上げます。「誰も、わたしたちの誰も……わるくない……」
「……ねぇ、これ、夢じゃないよね?」
「…………」
「また戦争が始まるの?」
「…………」
「ミシス、こたえて……」
「…………」
ミシスは飛びつくようにノエリィの体を抱きしめました。ノエリィがその細い両腕をミシスの背中に回し、二人はそうしてじっと抱きあったまま、無言で涙を流しました。
やがて外から大きな震動をともなう着陸音が鳴り響き、招かれざる客の到来を告げました。
マノンが玄関先に掛けておいた自分のレインコートを羽織って、残った二人の少女、ミシスとノエリィに呼びかけました。
二人もまた、居間から玄関へと通じる廊下の暗がりのなかで、それぞれのレインコートを身に着けようとしているところです。
ミシスが前側のボタンをすべて留めてフードをかぶりながら顔を上げると、ノエリィはまだ最初のボタンさえ留められずにいました。まるで背後から見えない誰かに揺さぶられているみたいに、両手がぶるぶると震えていたからです。
「ノエリィ」ミシスは精一杯に落ち着いて呼びかけます。「大丈夫。大丈夫だからね」
そのままくり返し大丈夫を唱えながら、ボタンを留めるのを手伝ってあげました。見ると、震えているのは手だけではありません。全身を支える両脚もまた、ぐらぐらと頼りなさげに揺れています。唇は長いこと水に浸かっていた人のように色を失い、丸眼鏡の奥の瞳はもはや焦点を合わせるのがやっとという状態です。
当分のあいだは決してノエリィを座らせてはいけない、とミシスは判断します。この状態で一度でも腰をおろしてしまえば、きっとそれきり、立ち上がれなくなってしまうだろう……。
なんとかすべてのボタンを留めてしまうと、仕上げにフードをその頭にかぶせてあげて、しっかり両目を見つめながらその手を取りました。
「きみたち! 行けるか?」開かれた玄関のドアを手で押さえながら、マノンが振り返ります。
「はい!」ミシスがこたえて、ノエリィの手を取って歩き出します。「さあ、行こう」
「う、うん」
小さく返事をして足を一歩踏み出したノエリィでしたが、その足の運びは風に揺れる草のように不安定で、まるで綿毛の上を歩いているようです。
「ノエリィ、しっかり」
「あぁ、ミシス、わたし……わたし、走れないよ」
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから。わたしがずっとそばにいるから」
ノエリィの瞳から、涙が一筋、流れ落ちました。本当はミシスも一緒に泣きたかったけれど、思いきり歯を食いしばり、込み上がってくる奔流をそれが生まれてくる場所まで押し戻しました。
二人はたどたどしい足取りでマノンの横を通り過ぎ、玄関を出ました。
「マノンさんはどうするんですか?」ミシスがたずねます。
いまだ船体の迷彩効果を維持しているレジュイサンスに目を向けつつ、マノンが大声でこたえます。
「僕は船のそばでやつらを待つ。もし降りてきたら、なんとか話をつけてみる」
ミシスはうなずきます。そしてノエリィの腰に腕を回し、校庭の先の正門へ向けて歩きはじめます。
けれどやはり、思ったように前へ進むことができません。
「どうしよう、ミシス、わたし……」
ますますひどくなる脚の震えを抑え込むように、ノエリィは両手で自分の膝をわしづかみにします。
「走れ、走るんだ!」マノンが渾身の激励を二人の背後から飛ばします。
しかし直後、ついにノエリィは転倒してしまいました。
「あぁっ……!」
ミシスが痛恨の叫びを上げ、崩れ落ちるその体を身を挺して受けとめます。そしてとっさに上空を見あげて、雨を顔じゅうにめいっぱい受けながら、灰白色の飛空船の行方を確認しました。
丘のほぼ真上に差しかかろうとしている一つの機影が見えます。相変わらず、なにかを警戒するようなのっそりとした速度で飛んでいます。玄関のドアを閉めて駆けだし、今ではエーレンガート家の庭先まで出てきていたマノンも、おなじようにそれを睨みつけています。
すると次の瞬間、突如レジュイサンスの迷彩機能が解除されてしまいました。
「くそっ!」マノンが忌々しげに毒づき、再び上空の機体を仰ぐと、まさに神に祈るように言葉を唱えました。「行け、行け、行け……頼むから、そのまま行ってしまえ……!」
ミシスとノエリィも、互いの手をきつく握りあいながら、懇願するような視線を雨空へと送っています。
そろりそろりと進み続ける飛空船。
腹立たしいほど緩慢な速度で飛行を続けるその機体は、やがてすっかり丘の一帯を抜け、黒々とした森の広がる南方の方角へと去って――しまうものと思われたその矢先、非情にもその
「ちくしょう!」
マノンが罵声を吐いて、拳で虚空を鋭く殴りつけました。そして
「二人とも、なにしてる! 急いで!」
「でもっ……」ミシスが荒い息を歯の隙間からもらします。
「決して連中に姿を見られてはいけない。いっときだけでも、どこか……そうだ、校舎だ! 校舎に逃げ込むんだ!」
指示を受けて、ミシスは素早くそちらへ目を向けます。校舎の中央の広間に通じる裏口の大扉は開かれています。きっと、ピレシュとハスキルがそこからなかへ入ったのでしょう。
あそこまでなら、たしかにノエリィを抱えたままでも辿り着けそうだと、ミシスは目算を立てます。家に引き返すには少し離れすぎたし、もともと目指していた正門は、今や想像を絶するほど遠くに感じられます。
「ミシス!」マノンが背を丸めて叫びます。
「はい、行けます!」少女もまた全力で応じます。その腕のなかに、すっかり腰を抜かしてしまった友の体を抱えながら。「大丈夫です。行きます。行ってみせます!」
「……よし」口もとにかかる赤髪を乱暴に払いのけて、マノンはうなずきます。「校舎に入ったら、できるだけ急いで
マノンと目を合わせてうなずくと、ミシスは力を振り絞ってノエリィの体を抱きかかえ、唇を真一文字に結び、鼻で荒々しく呼吸しながら、校舎を目指して歩きだしました。
かろうじて、まだ灰白色の船が上空にいるあいだに、二人は目的の扉に辿り着くことができました。そして建物に入ってすぐの、外から死角になっている物陰にばったりと倒れ込みました。
並んで壁に背をもたれ、二人とも激しく胸を上下させて息をします。どちらの全身もずぶ濡れで、どこもかしこも泥だらけです。フードをかぶっていたのに頭のてっぺんまでびしょ濡れで、乱れた髪がそれぞれの顔いっぱいに貼りついています。
「ごめんね、ミシス、わたしのせいで……」まさぐるようにミシスの手を求めながら、ノエリィが謝罪の言葉を絞り出します。
「ノエリィはわるくない!」ミシスが強く首を振って大声を上げます。「誰も、わたしたちの誰も……わるくない……」
「……ねぇ、これ、夢じゃないよね?」
「…………」
「また戦争が始まるの?」
「…………」
「ミシス、こたえて……」
「…………」
ミシスは飛びつくようにノエリィの体を抱きしめました。ノエリィがその細い両腕をミシスの背中に回し、二人はそうしてじっと抱きあったまま、無言で涙を流しました。
やがて外から大きな震動をともなう着陸音が鳴り響き、招かれざる客の到来を告げました。
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