8 人間の世界で生きるということ

文字数 1,991文字

 約束の日の朝は、見事に晴れ渡りました。
 前の日がめずらしく一日じゅう雨だったので、ミシスはほとんど胸が張り裂けんばかりに、夜遅くまで翌日の晴天を祈っていました。しかし深夜を過ぎても一向に雨脚(あまあし)が弱まる気配がないのを見て取ると、エーレンガート母娘に会った日以来飲むふりをして隠し続けていた寝る前の薬を口に投げ入れ、無理やり目を閉じて毛布に潜りました。
 起床の鐘が鳴らされると、ミシスはすぐさま飛び起きました。窓の外には、明るさを調節するつまみがあったら最大まで回されていることだろうと思わせるほどの太陽が、東の空に燦然と輝いていました。
 少女は思わず両手で拳を握りしめて快哉(かいさい)を叫ぶと、今日で見納めになる中庭の景色を、すがすがしい気持ちで見おろしました。樹々も建物もまだたっぷりと雨露をその身に貼りつけていて、それが陽光を反射して銀細工のようにまぶしくきらめいています。地面のあちこちにできた水たまりは、真っ青な空の色を鏡のように映しだしています。この今日という日だけはなんとしても晴れていてほしいと願っていたので、ミシスは天の恵みに心から感謝しました。
 やがていつもの味気ない朝食が運ばれてきましたが、それが載せられている盆には今日はとくべつに、退院を祝うメッセージ・カードが添えられていました。カードには患者の努力を(ねぎら)う言葉と、今後の人生への励ましの文句が書かれていましたが、それらは印刷されたものでした。食事が終わると、ミシスは配膳係の人や看護士の人たちにお礼を言ってまわりました。
 迎えが来るまで、もう少し。まとめるべき荷物もないし、会っておきたい入院仲間も一人もいません。屋上に駆け上がって、最初の日の朝にしたように、王都の景色をその目に収めました。王城もカセドラも、いつにも増して美しく荘厳に見えます。初めて見た時とおなじように、巨兵の掲げる剣は朝陽の下で白銀に照り映えています。
 部屋に戻ると、主治医と専門医、それに看護士長が、ドアの前に立ってミシスを待っていました。少女が三人に感謝を伝え、三人が少女に激励の言葉を送っていると、時をおなじくしてほかの看護士の女性がやって来て、少女に迎えの到着を告げました。
 ミシスは窓から身を乗り出して門の方を見ました。数日前に見た時とおなじ格好をした二人が、今回は大きな旅行鞄を引きずりながら、こちらへ向かって進んでくるのが見えます。大きく手を振るミシスの姿にノエリィがすぐに気づいて、母娘で手を振り返してくれました。
 医師たちをともなって玄関へ降りていくと、ノエリィが走ってこちらへ向かってくるところでした。
「お待たせ、ミシス!」顔を合わせるなり、ノエリィはミシスの手をつかみました。「さ、着替えよう!」
 二人は玄関脇の化粧室に飛び込みました。間に合わせで買ったものだからサイズが合うか心配だけど、と言いながらノエリィが紙袋から取り出したのは、糊のきいた真っ白なブラウスと、黒に近い青色のスラックス、そして(つや)のある茶色の革靴でした。
 ミシスはそれらを身に着けるのが、本当に嬉しくてたまりませんでした。ノエリィの見立ては完璧で、まるで実際に寸法を測って買ったもののように、どれもぴったりの大きさでした。
「すごく似合ってるよ」ノエリィが惚れぼれと言いました。
「ありがとう、とっても嬉しいよ。ハスキル先生にも早くお礼を言わなくちゃ」
 再び玄関に戻ると、ミシスがお礼を言う前に先生の方が先に歓声を上げました。「まあ。素敵よ、ミシス」
 最後に玄関を出る時、それまでお世話になった人たちが何人か、見送りに来てくれました。ミシスは丁寧にお辞儀をして返します。看護士長が一歩進み出て、ほんの少し潤んだ瞳で、少女の両手を力いっぱい握りしめました。
「おめでとう。元気でね」
 毎日暗い気持ちで眺めてきた黒い鉄の門の前まで来ると、少女はもう一度玄関の方を振り返り、まだ手を振ってくれている人たちに向けて深々と頭を下げました。
 こうしてついに、ミシスは外の世界への新しい第一歩を踏み出すことになったのです。
 新しい服と靴。雨上がりの春の朝。初めての友だちの笑顔。母のように温かな庇護者の導き。いつも見おろしてばかりだった街の地面の感触。まわりに溢れ返る喧騒。荒々しくも活気に満ちた空気。さまざまなものが混じりあった、わけのわからない匂い。
 たった一つの出逢いで、たった一歩足を踏み出すだけで、こんなにも世界は、人生は、想像も及ばなかったような変貌を遂げるんだ。門の外に広がる新しい世界に立って、ミシスはその驚きに全身を貫かれていました。
 これまでに感じたことのない、体の内側と外側が同時に焦がれるような不思議な感覚を味わいながら、人間の世界で生きるということがどういうことなのか、この数奇な運命に見舞われた少女にも、少しだけわかってきたように思えていました。
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