27 元気そうでなにより
文字数 3,713文字
それはまさに船そのものでした。
ただ、水上に浮かんでいるべきそれは今、あろうことか、空高くに浮かんでいます。
四人が息を止めて見守るなか、その飛行する船はじわじわと高度を下げ、広場の外れの芝生に覆われたあたりへ向かって降下していきます。
それはまさしく、船と呼ぶよりほかにない形状をした建造物でした。巨大な胴体は舳先 へ向かってゆるやかに収束するように湾曲し、魚のそれのように滑らかな流線形を描いています。船体の左右両側面からはそれぞれ三本ずつ大きなオールが突き出ていて、それらがまるで推進力や平衡感を調整するようにぎしぎしと細かく動いています。
外壁はぜんたいが鮮やかな赤紫色に塗装されていて、時折り光る稲妻を反射するその姿は、ほとんど神話的なまでに壮麗そのものです。
そして、地上近くまで降りてきて初めてわかったことですが、帆船が通常備えているべきマストのたぐいは、この宙に浮く船には一つも見あたりません。
ただ船体の屋上、つまり甲板に当たる部分に、360度を透明なガラスで覆われた箱型の操舵室が、後方の際 のあたりにひょこっと突き出ているだけです。その室内は人間が十人ほど入ることができそうな広さがあり、実際にそこで小さな人影がいくつか動いているのが、遠目からでも視認できます。一方で船の底面は、水上の帆船のように曲線を描く構造ではなく、まるでまな板のように真っ平らになっています。
それまで額 を押しつけていた窓から船が見えなくなると、四人は大急ぎでテラスの方へ移動しました。そして雨風が吹き込んでくるのもおかまいなしに窓を開け放ち、テラスの柱の影に身を潜めるようにして、目の前で繰り広げられる壮大な着陸劇を見届けました。
無数の機械や金属が奏でる絶え間ない軋みと、ごおんごおんと山彦 のように唸る駆動音を響かせながら、ついに前代未聞の空飛ぶ船は、まるで平らに置かれた布に当てられるアイロンのように垂直に、芝生の広がる地面へ降り立ちました。
「あそこ見て!」
叫びながら伸ばされたノエリィの指先は、操舵室のなかで大きく手を振っている人影に向けられます。今ではその人物の姿や表情が、かろうじて見て取れる距離にあります。それはどうやら、若い女性であるようでした。
「マノンちゃん!」
ピレシュの肩を借りて立つハスキルが、大声を上げて手を振り返しました。三人の少女たちも、少々控えめにそれに続きました。
動力を停止させた船は、まるで陸に打ち上げられた鯨のように沈黙しました。
近くで見ると、その船体は二階建てのエーレンガート家の住居どころか、学院の校舎をまるごとすっぽり収容できてしまいそうなほど巨大でした。
こちらへ向かって手を振っていた人物が、足もとの床に開いた穴に吸い込まれでもしたかのように、ふいにその姿を消しました。そのあと少し間があってから、船体の一階部分の側面に取り付けられた小さな扉が派手に押し開かれ、そこからレインコートをまとった若い女性が飛び出してきました。そしてそのまま傘も差さずに、まるで飛び跳ねる鹿のように軽快な足取りで、エーレンガート家めがけて走ってきます。
この人物こそ、当代随一の頭脳を誇るという、かのマノン・ディーダラス博士でまちがいないようです。
「先生! ハスキル先生!」
感極まる叫び声を上げながら、ついに十数年ぶりに恩師のもとへ舞い戻ったかつての生徒は、軒先で脱皮するようにレインコートを脱ぎ捨てると、頭の後ろで一つに束ねた真っ赤な髪を打ち振るようになびかせて、玄関へ駆け込んできました。そしてその長身をがばっとかがめ、まるで幼子が寝る前にお気に入りのぬいぐるみを抱きしめる時のような惜しみない抱擁を、恩師にお見舞いしました。
ハスキルに肩を貸していたピレシュは、思わず身を引いて半歩ほど後ずさりしてしまいました。ミシスとノエリィは先程からずっと目を点にしたまま、次々と巻き起こる非日常的な現象をぼんやり眺めるばかりです。
ハスキルは片手でピレシュの腕をつかんだまま、もう一方の手をマノンの背中にまわして、愛情深く何度も何度も撫でまわしました。
「大きくなったわね、マノンちゃん。こんなに立派になって……」そう言うハスキルの声は、少し震えています。
「ああ、夢みたい」マノンが恍惚とした表情を浮かべます。「この時をどれほど待ち望んできたことか。先生、本当に、お会いできて嬉しいです」
「私もよ、マノンちゃん」
二人はゆっくりと体を離し、今しばらくうっとりとしたまなざしで互いの顔を見つめ合いました。それからハスキルの足の具合について二言三言交わすと、マノンはいきなり振り返って、ピレシュの瞳をまっすぐ見つめました。
「きみがピレシュだね?」
雲の上の存在から自分の名を呼ばれた少女は、緊張を通り越して、もはや自失に近いような状態になってしまいました。かちこちにこわばった顔を、首振り人形のようにかくかくと前後に揺らすだけで、今のところは精一杯のようです。
「うんうん、先生がいつも手紙で自慢なさっているとおり、とても美人で賢そうだ。いつも先生と学院を助けてくれてありがとう。この学院を愛する卒業生の一人として、心から礼を言うよ」
マノンはそう言うとにっこり笑って、後輩に握手を求めました。ピレシュはその手をおそるおそる握ると、口をぱくぱくさせながら、やっとのことで言葉を絞り出しました。
「と、とんでもないです。あ、あの、ディーダラス博士、お会いできて、あの、本当に、光栄です」
みるみる赤くなっていくピレシュの顔を脇から愉快そうに見物していたノエリィでしたが、次の瞬間には、思いがけず自分がどぎまぎする順番が回ってきました。
出し抜けに振り向けられたマノンの顔が、ノエリィの目前に迫りました。鼻と鼻がくっつきそうなその距離から、マノンはいかにも可笑しそうに笑いかけました。
「あはは。きみがノエリィでないとしたら、いったいほかの誰がノエリィたりうるだろうか」
「はぁ……ええ?」両目をくるくるさせて、ノエリィが言葉に詰まります。
「いやぁ、こんなに似てる親子って、僕は見たことないよ。ほんとに先生と瓜二つだね」マノンはノエリィの頭を優しく撫でます。「実は昔、君とは会ったことがあるけどね。僕のこと、さすがに覚えてないだろう?」
「あ、はい、すみません。小さかったから、あんまり記憶になくて……」
「まぁ無理もないよね。だって当時、きみはまだほんの三歳だったんだもの。でも先生が毎年手紙でお話ししてくださるから、まるでずっとそばで君の成長を見守ってきたような気がするよ」
ノエリィはそれを聞いてちらりと咎 めるような視線を母に送りましたが、すぐにまたうつむきがちに客人の方を向いて、ごにょごにょと舌足らずに歓迎の意を伝えました。
一方ミシスは、決して遠慮していたわけではないのですが、少しだけ離れたところからみんなの様子を眺めていました。とはいえその目はやはり、常軌を逸した来訪者の姿に釘づけになっていました。
その身長は少女たちのなかでいちばん背の高いピレシュよりもさらに林檎一つぶんは高く、体つきは厳しい世界に身を置く大人の女性らしく見事に引き締まっています。黒い革のベストと、その下に幾何学模様の描かれた灰色のワンピースを身に着け、装飾のない真っ黒なロングブーツを履いています。叡智がこんこんと湧き出る泉のような黄金色の瞳は、猫のそれのように端がすっと上へ吊り上がっています。
しかしなにより目を引くのは、その真紅に輝く髪でした。頭上で束ねた状態でも腰の高さまで伸びているまっすぐなそれは、その土壌のすぐ下に蔵 されている超人的な頭脳の熱をまとうためにこれほど見事に赤いのではないだろうかと、ミシスは想像しました。
やがてミシスの前にも、握手を求めて赤髪の客人が進み出てきました。ミシスはぺこりと頭を下げてその手を取ると、恭しく口を開きました。
「はじめまして。先生のお宅にお世話になっている、ミシスといいます。お会いできて光栄です、マノンさん」
「ありがとう。僕もぜひ、きみに一度会ってみたいと思ってたんだ」
「え?」ミシスは首をかしげました。「わたしに、ですか?」
笑顔でうなずくと、マノンは握手を解いて一歩後ろに下がり、ミシスの全身を上から下まで眺めまわしました。
「うん、とても健康そうだ。顔色も良いし、目つきも実にしっかりしてる。ねぇ、ここでの暮らしは幸福かい?」
「ええ、それはもう」ぱっと表情を明るくして、ミシスは大いにうなずきました。
「そうだろう、そうだろう。いやぁ、よかったねぇ。あいつも一肌脱いだ甲斐があったってもんだろうさ」
「あいつ?」
自分の乗ってきた船の方を振り返り、マノンは手を挙げてなにかの合図を送りました。すると先程彼女が出てきたのとおなじ扉から、傘を差した何者かが一人、のんびりとした歩調でこちらへ向かってやって来ました。
テラスの前で傘を畳むと、その濃い緑色の髪の青年は、はにかむような微笑を浮かべました。
「グリュー!?」ミシスが仰天して叫びました。
「やあ、久しぶり。元気そうでなにより」
ただ、水上に浮かんでいるべきそれは今、あろうことか、空高くに浮かんでいます。
四人が息を止めて見守るなか、その飛行する船はじわじわと高度を下げ、広場の外れの芝生に覆われたあたりへ向かって降下していきます。
それはまさしく、船と呼ぶよりほかにない形状をした建造物でした。巨大な胴体は
外壁はぜんたいが鮮やかな赤紫色に塗装されていて、時折り光る稲妻を反射するその姿は、ほとんど神話的なまでに壮麗そのものです。
そして、地上近くまで降りてきて初めてわかったことですが、帆船が通常備えているべきマストのたぐいは、この宙に浮く船には一つも見あたりません。
ただ船体の屋上、つまり甲板に当たる部分に、360度を透明なガラスで覆われた箱型の操舵室が、後方の
それまで
無数の機械や金属が奏でる絶え間ない軋みと、ごおんごおんと
「あそこ見て!」
叫びながら伸ばされたノエリィの指先は、操舵室のなかで大きく手を振っている人影に向けられます。今ではその人物の姿や表情が、かろうじて見て取れる距離にあります。それはどうやら、若い女性であるようでした。
「マノンちゃん!」
ピレシュの肩を借りて立つハスキルが、大声を上げて手を振り返しました。三人の少女たちも、少々控えめにそれに続きました。
動力を停止させた船は、まるで陸に打ち上げられた鯨のように沈黙しました。
近くで見ると、その船体は二階建てのエーレンガート家の住居どころか、学院の校舎をまるごとすっぽり収容できてしまいそうなほど巨大でした。
こちらへ向かって手を振っていた人物が、足もとの床に開いた穴に吸い込まれでもしたかのように、ふいにその姿を消しました。そのあと少し間があってから、船体の一階部分の側面に取り付けられた小さな扉が派手に押し開かれ、そこからレインコートをまとった若い女性が飛び出してきました。そしてそのまま傘も差さずに、まるで飛び跳ねる鹿のように軽快な足取りで、エーレンガート家めがけて走ってきます。
この人物こそ、当代随一の頭脳を誇るという、かのマノン・ディーダラス博士でまちがいないようです。
「先生! ハスキル先生!」
感極まる叫び声を上げながら、ついに十数年ぶりに恩師のもとへ舞い戻ったかつての生徒は、軒先で脱皮するようにレインコートを脱ぎ捨てると、頭の後ろで一つに束ねた真っ赤な髪を打ち振るようになびかせて、玄関へ駆け込んできました。そしてその長身をがばっとかがめ、まるで幼子が寝る前にお気に入りのぬいぐるみを抱きしめる時のような惜しみない抱擁を、恩師にお見舞いしました。
ハスキルに肩を貸していたピレシュは、思わず身を引いて半歩ほど後ずさりしてしまいました。ミシスとノエリィは先程からずっと目を点にしたまま、次々と巻き起こる非日常的な現象をぼんやり眺めるばかりです。
ハスキルは片手でピレシュの腕をつかんだまま、もう一方の手をマノンの背中にまわして、愛情深く何度も何度も撫でまわしました。
「大きくなったわね、マノンちゃん。こんなに立派になって……」そう言うハスキルの声は、少し震えています。
「ああ、夢みたい」マノンが恍惚とした表情を浮かべます。「この時をどれほど待ち望んできたことか。先生、本当に、お会いできて嬉しいです」
「私もよ、マノンちゃん」
二人はゆっくりと体を離し、今しばらくうっとりとしたまなざしで互いの顔を見つめ合いました。それからハスキルの足の具合について二言三言交わすと、マノンはいきなり振り返って、ピレシュの瞳をまっすぐ見つめました。
「きみがピレシュだね?」
雲の上の存在から自分の名を呼ばれた少女は、緊張を通り越して、もはや自失に近いような状態になってしまいました。かちこちにこわばった顔を、首振り人形のようにかくかくと前後に揺らすだけで、今のところは精一杯のようです。
「うんうん、先生がいつも手紙で自慢なさっているとおり、とても美人で賢そうだ。いつも先生と学院を助けてくれてありがとう。この学院を愛する卒業生の一人として、心から礼を言うよ」
マノンはそう言うとにっこり笑って、後輩に握手を求めました。ピレシュはその手をおそるおそる握ると、口をぱくぱくさせながら、やっとのことで言葉を絞り出しました。
「と、とんでもないです。あ、あの、ディーダラス博士、お会いできて、あの、本当に、光栄です」
みるみる赤くなっていくピレシュの顔を脇から愉快そうに見物していたノエリィでしたが、次の瞬間には、思いがけず自分がどぎまぎする順番が回ってきました。
出し抜けに振り向けられたマノンの顔が、ノエリィの目前に迫りました。鼻と鼻がくっつきそうなその距離から、マノンはいかにも可笑しそうに笑いかけました。
「あはは。きみがノエリィでないとしたら、いったいほかの誰がノエリィたりうるだろうか」
「はぁ……ええ?」両目をくるくるさせて、ノエリィが言葉に詰まります。
「いやぁ、こんなに似てる親子って、僕は見たことないよ。ほんとに先生と瓜二つだね」マノンはノエリィの頭を優しく撫でます。「実は昔、君とは会ったことがあるけどね。僕のこと、さすがに覚えてないだろう?」
「あ、はい、すみません。小さかったから、あんまり記憶になくて……」
「まぁ無理もないよね。だって当時、きみはまだほんの三歳だったんだもの。でも先生が毎年手紙でお話ししてくださるから、まるでずっとそばで君の成長を見守ってきたような気がするよ」
ノエリィはそれを聞いてちらりと
一方ミシスは、決して遠慮していたわけではないのですが、少しだけ離れたところからみんなの様子を眺めていました。とはいえその目はやはり、常軌を逸した来訪者の姿に釘づけになっていました。
その身長は少女たちのなかでいちばん背の高いピレシュよりもさらに林檎一つぶんは高く、体つきは厳しい世界に身を置く大人の女性らしく見事に引き締まっています。黒い革のベストと、その下に幾何学模様の描かれた灰色のワンピースを身に着け、装飾のない真っ黒なロングブーツを履いています。叡智がこんこんと湧き出る泉のような黄金色の瞳は、猫のそれのように端がすっと上へ吊り上がっています。
しかしなにより目を引くのは、その真紅に輝く髪でした。頭上で束ねた状態でも腰の高さまで伸びているまっすぐなそれは、その土壌のすぐ下に
やがてミシスの前にも、握手を求めて赤髪の客人が進み出てきました。ミシスはぺこりと頭を下げてその手を取ると、恭しく口を開きました。
「はじめまして。先生のお宅にお世話になっている、ミシスといいます。お会いできて光栄です、マノンさん」
「ありがとう。僕もぜひ、きみに一度会ってみたいと思ってたんだ」
「え?」ミシスは首をかしげました。「わたしに、ですか?」
笑顔でうなずくと、マノンは握手を解いて一歩後ろに下がり、ミシスの全身を上から下まで眺めまわしました。
「うん、とても健康そうだ。顔色も良いし、目つきも実にしっかりしてる。ねぇ、ここでの暮らしは幸福かい?」
「ええ、それはもう」ぱっと表情を明るくして、ミシスは大いにうなずきました。
「そうだろう、そうだろう。いやぁ、よかったねぇ。あいつも一肌脱いだ甲斐があったってもんだろうさ」
「あいつ?」
自分の乗ってきた船の方を振り返り、マノンは手を挙げてなにかの合図を送りました。すると先程彼女が出てきたのとおなじ扉から、傘を差した何者かが一人、のんびりとした歩調でこちらへ向かってやって来ました。
テラスの前で傘を畳むと、その濃い緑色の髪の青年は、はにかむような微笑を浮かべました。
「グリュー!?」ミシスが仰天して叫びました。
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