3 まるで蝶の群れが飛び立つように

文字数 4,556文字

 以降、もはやこの患者には(ほどこ)す手がなくなったといわんばかりに、主治医も専門医もほとんど訪ねてこなくなりました。数日おきにふらりと立ち寄って、体温や血圧の記録に目を通し、励ましの文句を一つか二つ投げて去っていくだけです。
 きっともう見切りをつけたのね、とミシスは冷静に状況を観察して考えました。まぁでも、それはそうよね。こんな、無一文で身寄りのない正体不明の人間の面倒を、いつまでも見続けるわけにはいかないだろうから……。
 二人の医師の立ち話を耳にした翌朝、いつものように朝食を無理やり喉に押し込む作業を終えると、ミシスはばったりとベッドに倒れ込んで、窓の向こうの晴れ渡る青空をじっと見つめました。四角に切り取られた世界のあちら側、なにものにも区切られていない自由な空のなかを、春を謳歌する鳥たちが気持ち良さそうに飛び交っています。
「施設、孤児院」うつ伏せになって枕に顔を沈め、少女はため息をつきます。「修道院、工場……。はぁ、どんなところなんだろうな……」
 その時ドアがノックされ、最初の日に屋上で会った看護士長が部屋に入ってきました。
「調子はどう?」
「わたしは元気です」体を起こしながら少女は応じます。
「ならいいんだけど」士長は椅子に腰かけて、ミシスの瞳をじっと観察します。「ちょっと疲れてない? 大丈夫?」
 少女は軽くうなずき、そして出し抜けにたずねます。「孤児院って、どんなところですか」
「え? どうしたの、急に」
「修道院は、どんなところですか」
 真剣なまなざしで、少女は質問を続けます。士長はなにかを察し、憐れむような微笑を浮かべると、少女の隣に座り直してその肩をそっと抱き寄せました。
「ごめんね。二つとも、よく知らないの」
「じゃあ、裁縫工場は?」
 士長はやるせなさげに首を振ります。そしてなにか言いかけましたが、すぐにやめてしまいました。でも少女はすがるような目つきで、続きの言葉を待っています。
「――そうだ」とつぜん士長が顔を明るくしました。「ねぇ、まだしばらくここにいるのなら、自分で勉強でもしてみたらどう?」
「勉強?」
「最上階に書庫があるんだけど、もう行った?」
 少女は首を振ります。「そこにはなにがあるんですか」
「いろんな本が揃ってるのよ。きっとあなたの気に入る本も見つかると思うわ。それに、忘れてしまった知識を学び直す良い機会にもなるでしょう」
「本、ですか」少女はじわりと両目を見開きました。「勉強、かぁ……」
 そうつぶやいた少女の瞳の奥になにか光るものを見てとった士長は、彼女の肩を抱いたまますっくと立ち上がりました。
「ついておいで。案内してあげる」


 部屋を出て階段をのぼり、角をぐるっとまわって向かい側の病棟へ行くと、こぢんまりとした書庫がありました。その隣には読書用の机と椅子が並べられた簡素な図書区画があり、数人の老人たちがそこでくつろぎながら新聞や雑誌のページをめくっています。
 書庫に入ると、ミシスが思いだしてたずねました。
「そういえばまだ、カセドラがどうやって動くのか教えてもらっていませんでした」
「そうだったね」士長が振り返らずにこたえます。「でもまた例によって、ちょっとくわしく説明してる時間がないわ。それに私だって、聞き齧り程度の知識しかないし。でもともかく、かなり複雑な構造をしているってことはたしかだよ。あ、ところで」
 急に立ちどまって、士長が神妙な面持ちになります。そしてその表情のまま、ミシスの目を試すように見つめます。
「あなた、イーノのことは覚えてるの?」
 イーノ。
 少女はふいに考え込みます。たしかここ数日間の問診や検査の時に、何度か見聞きした単語だったはず。でも、短い期間にあまりにも大量の耳慣れない単語や文章を耳にしたため、その名もミシスの頭のなかの「なんだかよくわからないもの」というラベルを貼られた箱のなかに放り込まれたままになっていました。しかもその箱は、一気にたくさん詰め込みすぎたので、底が抜けてしまっています。
「あはは……」返答に(きゅう)する少女の姿を前にして、士長が乾いた笑みをこぼします。「なんてこと。まずは、イーノからってことね」
 彼女はそう言うと足早に書棚に向かい、やがて一冊の本を手に取ってミシスに手渡しました。それはどう見ても、子供向けの本でした。『子供のための科学入門』と表紙に書いてあるので、見まちがいようがありません。
「この世界でイーノのことを知らずに生きていくことはできないわ」士長が断言します。「それは、この世界の生命そのものと言えるものだから。この世にイーノと関係ないものはなにもないのよ」
「わたしも?」
「もちろん。あなたも、わたしも、鳥も、猫も、花も樹も石も水も星も、なにもかもよ」
「カセドラも?」
「ええ、カセドラも」
「そんなに大事なものなんだ……」
「そうだよ。だから、まずはここからね。あなたは幸運にも、ちゃんと本を読んで内容を理解する能力があるんだから、自分でどんどんいろんなことを調べて学んでみなさい」
「わかりました」ミシスは本を両手でつかみ、こくりとうなずきます。
「じゃあ私はもう行くけど」去り際に、士長が手を振りながら言いました。「ここにある本、いくらでも持っていっていいからね。どうせ誰もろくに読みやしないんだから。あとで勝手に返却してくれたらいいわ」
「ありがとう」
 一人残ったミシスは、探検するような気持ちで、ドミノのように居並ぶ書棚を一つ一つ見てまわりました。興味をかきたててくれる本は一冊や二冊に留まりませんでした。気がつくとミシスの腕のなかには、十冊を超える本がうず高く積み重なっていました。野鳥の図鑑、古代史の入門書、星空ばかりを映した写真集、背中に羽の生えた小さな妖精たちが活躍する冒険小説、などなど。
 ふらつく足取りで書庫を出て、雑誌をめくる老人たちから冷ややかな視線を浴びせられながら、ミシスは自室を目指してそろりそろりと階段をおりていきます。けれど、手や腕は震えてくるし、自分の膝から下もうまく見えないし、どこもかしこも患者や見舞い客や医療従事者でいっぱいで、すんなりと進んでいくことができません。袋か(かご)かなにか借りてくるんだったな、と後悔しはじめたその時、運悪くというか案の定というか、少女は階段の中程(なかほど)でつまづいてしまいました。
「うわっ!」
 悲鳴を上げる少女の腕のなかから、本の山が崩れ落ちます。窓から燦々と陽射しが注ぐ階段の踊り場に、まるで蝶の群れが飛び立つようにして、たくさんの本が舞い降りていきます。
 たまたま前方に人がいなかったのもさいわいして、ミシス自身はどうにか無事に踊り場へ着地することができました。そしてばつがわるそうに顔を背けて、哀れな本たちが床に叩きつけられる物音を待ち受けます。
 けれど、その音は、いくら待っても聴こえてきませんでした。
 不思議に思って少女は顔を上げます。そしてしっかりと両目を開きます。でもすぐに閉じます。また開きます。また閉じます。また開きます。
 夢じゃないことは明らかです。見まちがいじゃないことも明らかです。なのにたしかに、自分の腕から飛んでいったはずの十数冊もの本は、ただの一冊たりとも床に落ちていません。その代わり、全冊、宙に浮かんでいます。まさに羽ばたく蝶そっくりに空中に浮かび、陽光を浴びて優雅に漂っています。
「やあ」
 驚きのあまり言葉を失うミシスの眼前に、ひらりと片手を振り上げた若い男性が、廊下の角を曲がって姿を現しました。
 顔を半分覆うくらいの長い髪は森のように濃い緑色で、少し眠たげな瞳は三日月を少し膨らませたような形。背はほどほどに高く、体つきは引き締まっていますが、どことなく不健康そうな顔色をしています。見るからに仕立ての良い青紫色の上着の下に、くたびれた薄桃色のシャツを着ています。そして膝下で裾がくくられているゆったりとしたズボンを履いていて、ほっそりとした脚は格子柄の靴下に包まれています。年齢はミシスより上なのはまちがいなさそうですが、それほど遠く離れているわけでもなさそうです。
 彼はあくびをしたばかりのような気の抜けた顔でミシスの横に立つと、持ち上げていた手の指先をくいくいと動かし、まるで見えない糸で手繰(たぐ)り寄せるようにして、浮かんでいた本を一冊ずつ少女の腕のなかへ戻していきました。
「こ、これは……?」ミシスが唖然としてたずねます。
「本当になにも知らないんだな」青年は苦笑します。「顕術(けんじゅつ)だよ。初めて見る感じか?」
「けん、じゅつ?」
「だから、こういう能力さ」
 青年は再び手先を振るい、今度はミシスの腕のなかの本を何冊か浮上させ、それらを自分の一方の手のひらに積み上げました。
「すごい」少女は息を弾ませます。
「そうかな」
「わたしにもできますか?」目を輝かせて少女がたずねます。
「無理だね」青年は遠慮なくさっぱりとこたえます。
「どうして?」
「どうしてもなにも、この能力を扱えるかどうかは、純粋に生まれつきの体質によるんだ。さっきおれはきみの主治医から、きみの診断書を見せてもらった。残念ながら、顕術を発動するのにじゅうぶんな量の発顕因子(はっけんいんし)が、きみの体には宿ってないみたいだ。だがまぁ、たいがいの人が使えないもんだし、別に気にすることはないよ。それに使えたって、とくに良いことがあるわけでもないしな」
「そうですか」
 理屈がよくわからないまま、少女はしぶしぶ納得しました。でもすぐになにかが心に引っかかったのを感じ、それをつまみ出して青年に投げかけます。
「あの、今、わたしの診断書を見たって言いましたか?」
「……なぁ、おれのこと、覚えてないよな」青年は少女の質問にはこたえずに、少し眉をひそめて()き返しました。
「わたしのこと、知ってるんですか!?」
 ほとんど叫ぶように声を張り上げると、ミシスは体当たりする勢いで青年の目前へ駆け寄ります。
「お願い、なんでもいいから、わたしのこと教えてください! わたし、これまで自分がどこでどうやって生きてきたのか、この世界がどういうところなのか、なにもわからなくなったの」
 青年は空いている方の手のひらをぱっと広げ、血眼(ちまなこ)になっている少女の鼻先にそれを突き出しました。
「待ってくれ。まず、謝る」彼は軽く頭を下げます。「期待させちまって、すまん。おれもきみと出会ってから、まだ数日しか経ってないんだ。だからきみの過去については、なにも知らない」
「え? それって、どういう……」
「ミシスっていうんだってね。せめて名前だけでも思いだせてよかったな。おれはきみのことが気がかりで、今日は様子を見に来たのさ」
 少女の視界を覆っていた手のひらが下に降ろされ、それは流れるような動作で握手を求める形になりました。ミシスはその手をわけもわからず握り返しました。
「おれの名はグリュー・ケアリ。王国軍所属の科学者だ」青年は早口で自己紹介をしました。「先日までおれは、ある任務で調査小隊を指揮していた。そしてその帰り道、ここから東方の砂漠地帯を通過した」
 王国軍。調査隊。砂漠。
 それらはもちろん、少女にとってじゅうぶんに聞き覚えのある言葉でした。
「それって、まさか」
「きみを発見してここへ運んだのは、おれさ」
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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