17 わたしがわたしでいるかぎり

文字数 4,973文字

 その日は二人はそのままずっと家で過ごしました。一緒に掃除をしたり洗濯物を畳んだりして忙しく働き、夕方になると食事を作ってハスキルの帰りを待ちました。
 帰宅したハスキルは、さっそくミシスのための教科書を持ってきてくれていました。その新しい本の匂いを吸い込むだけで、少女はなんだか自分が少し賢くなったような気さえしました。
「ノエリィ、あなたのぶんはいらなかったのかしら?」ハスキルが丁寧な口調で確認します。
「ええ、けっこうよ」娘も同じく丁重にこたえます。
 食卓を囲みながら、ノエリィは今日の昼間に起こった騒動の顛末(てんまつ)を語りました。
「ねぇお母さん、この子ったら、わたしたちが思っている以上にやんちゃな子なのよ」
「そう」ハスキルは愉快そうにほほえみます。「ま、少しくらい元気がありあまってるくらいの方がいいわよ。ただし、怪我にだけは気をつけること」
「はい」耳の絆創膏に触れながら、ミシスはうつむきます。
「勇敢と無謀は、似てるように見えてまったくちがうものなんだからね」
「肝に銘じます……」
「でもけっこう筋が良い感じだったよね。ピレシュも褒めてたんだよ」手に持つナイフを剣のように振りかざして、ノエリィが言います。
「ううん、たまたまだよ」ミシスは首を振ります。
「ミシスは、体を動かしてなにかするのが好きなの?」ハスキルが興味深げにたずねます。
「たしかに、剣がうまく振れたら気持ちいいだろうなぁ、とは思ったけれど、でもきっとそれはピレシュが素敵だったからちょっと真似してみたくなっただけで、わたし自身はあんまり運動に向いてないと思います。それよりは、本を読んだり、料理をしたり、散歩したりする方が、ずっと好きです」
「わたしと一緒ね」ノエリィが優雅に微笑します。
「あなたが本を読んでるとこ、ほとんど見たことないんだけど」ハスキルが棘のある声で指摘しました。
「一人でいる時に読んでるのよ」
「ふーん」
「あっ、じゃあわたしがいたら、部屋で集中して読書できない?」ミシスが疑いのない目を隣の少女に向けます。
「いいえ」ノエリィは(しと)やかに首を振りました。「それは、その、ぜんぜん、気にしなくて大丈夫よ」
 母からの冷ややかな視線を避けるように、娘はしばらくのあいだ特に意味もなくパンをちぎったりスープをかき混ぜたりしました。
「でもわたし、今日ピレシュが教えてくれたこと、これから先ずっと忘れないと思うよ」昼間のことを思い返しながら、ミシスがつぶやくように言いました。
「なんか言ってたっけ?」ノエリィが首をひねります。
「この子ったら、もう」ハスキルが呆れて吹き出し、それからミシスの方を向きました。「そんなふうに心に強く響いた言葉や教えは、大切に胸にしまっておくといいわよ。いつかここぞという時に、あなたの力になってくれるはずだから」
「はい、きっとそうします」
「わたしもそうする」ノエリィも追随します。
「そうね。あなたもまぁ、がんばりなさい」
「あれ? なんか温度差ない?」
「ふふふ……」ミシスは口を押えて笑いました。
 こうしていつものように和気あいあいと、エーレンガート家の夜は過ぎていきました。そしてあとはベッドに潜り込むだけ、という時刻になると、さっそくミシスは自分の寝床に買ったばかりの本を抱えて横になりました。その様子を二段ベッドの上から顔を半分のぞかせて観察していたノエリィが、思いだしたようにあっと声をもらしました。
「そういえば明日、ゲムじいさんが学院の備品の机を一つ持ってきてくれるってさ」
「えっ、ほんと?」ミシスは嬉しさのあまり体を跳ね起こしました。「うわぁ、嬉しいな」
「へへ。本棚とかクローゼットとかは、わたしのを自由に使っていいからね」
「うん。どうもありがとう」
 ノエリィはにこりと笑って頭を引っ込めました。それからしばらく上段からはなにか手作業をするような物音が伝わってきていましたが、それもやがてふっつりと止み、代わって穏やかな寝息が聴こえてきました。ミシスはそろそろとはしごをのぼり、ノエリィの体に毛布をかけて眼鏡を外してあげました。
 壁に掛けてあるランプを音を立てないようにつかみ取り、自分のベッドのすぐ横の窓縁に置くと、寝そべって本のページをめくりました。なにやかやとばたばたしていたので、ちゃんと読むのはこれが初めてです。
 それは、少年少女向けに書かれた鉱石の図鑑でした。さまざまな種類の鉱石についての解説文が、それらを写実的に描いた挿絵と共に列記されています。だいたい一種の鉱石について2ページが割かれているのが標準ですが、巻頭で紹介されているとある鉱石だけは、とくべつ扱いで12ページにも渡って詳細に記されていました。
 病院で読んだいろいろな書籍や雑誌のなかに、この鉱石の名前がたびたび登場することに気づいて以来、ミシスはずっと興味を引かれ続けてきました。それは〈イーノ〉や〈顕術〉、それに〈カセドラ〉などと並んで、この世界において極めて重要な存在意義を持つもののようでした。ほかの多くの一般常識と同様に、ミシスはこの鉱石に関する知識もまた、すっかり失ってしまっていたのでした。
 今度こそ忘れないようにしようと心に誓って、少女は解説を読み進めます。

「……人類の歴史を通じて、これほど重要な役割を担ってきた鉱物資源はほかにありません。それはまさに、大地から人類に与えられた至高の贈り物だと言えるでしょう」

「万象の源素〈イーノ〉そのものが結晶化したものであるといわれているこの鉱石は、大昔にはお守りや装飾品、あるいは(まじな)いや祈祷(きとう)の道具として用いられていました」

「時代が進むにつれ、人類はこの鉱石が顕術に反応する特性を持つことに気づきはじめました。近代科学が興る以前の世界において、人々は顕術のことを奇術や呪術、あるいは魔術や魔法などと、いろいろな名前で呼んでいましたが、おとぎ話に出てくる魔法使いが杖の頭に飾っていたのがこの鉱石だったという伝承は、そういったわけで道理には(かな)っていたのです」

「やがて人類は、顕術を発動する際に術者の身体から発生する〈顕導波(けんどうは)〉と呼ばれる不可視の波動こそが、この鉱石にさまざまな影響を与える正体であることを発見しました。以後、この神秘の現象を科学的に解き明かすための研究が、世界じゅうで盛んにおこなわれるようになりました」

「〈顕導式(けんどうしき)〉と呼ばれる顕象再生公式(プログラム)を基に作られた装置類に特定の顕導波を宿したこの鉱石を組み込むことで、顕術と等しい作用を人工的に発現することを可能にしたのが、現代における最先端の科学〈顕導力学〉です」

「こうして、昔話のなかで魔法の杖に飾られていたこの鉱石は、今では最新科学の恩恵の下、これまで誰も想像しなかったような数々の発明品を世に送り出し続けています。周知のとおり、〈カセドラ〉の本体を構成する主な材料として用いられていることは、その最たる例の一つでしょう……」

 ただイーノだけで構成されているという由来から「独唱する石」という意味を込められたその鉱石の名は、〈アリアナイト〉。
 暖かな青い光を放つその原石を描いた絵に長いこと見入ってから、ミシスは本を閉じてランプを消しました。夜闇のなかに身を横たえ、細く長く息を吐き、この大地の下にはなんて不思議なものが眠っているんだろうと、深く感じ入りました。
 ふと、窓の外へ目をやります。()りしも、くっきりとした満月でした。白銀の真円を戴く地上世界は、どこまでも清澄(せいちょう)な光に包まれています。
「アリアナイト……」
 ごく小さな声でその名をささやくと、脳裏にとつぜん、王都で目にしたカセドラの姿が思いだされました。あの鎧のなかに、このアリアナイトという鉱石でできた骨や体が入っているのかしら。
 続いてミシスは、病院のどこかで見かけた人体の骨格模型を連想しました。ああいう感じの、アリアナイトで作られた骨格が、あの巨体のなかに組み込まれているのかな。それにしても、あんなに大きなものを思いどおりに動かす仕組みって、いったいどうなってるんだろう。ピレシュが言ってたとおり、顕導力学って本当にすごい技術なんだ。きっとこれから先、次から次へと新発明が生まれていくんだろうな。いえ、もしかしたら、わたしたちの知らないどこかでは、とんでもないものがもういくつも生み出されていたりして……。
 まぶたを閉じても開いても、青く光る骨格を内蔵する巨兵の映像がずっと頭から消えなくて、ミシスは毛布のなかで自分の胸のあたりをそっと両手で撫でました。
 カセドラは、人が乗って動かすものだということは、何度か聞きました。でも、まだ人が乗るところも、乗っているところも、直接見たことはありません。
 自分の手のひらの下で、心臓がことんことんと脈打っているのが感じられます。
 なぜなんだろう。
 自分というものの中心を思う時、人は、頭じゃなくって、ここを指し示す。
 

に、自分の心があると。

に、自分の正体が宿っているんだと。
 じゃあ、心が、人の正体なの?
 じゃあ、心がなくなれば、この体は、ただの()れ物でしかないの?
 ……あの病院で目を覚ました最初の朝に、この目で見たカセドラ。剣を掲げてまっすぐに立つその姿は、はじめはただ大きいだけの人間の兵士にしか見えなかった。
 ミシスは両目を閉じると、あの鎧の胸の扉が開いて、そこから操縦者が出てくるところを想像しました。すると当然、想像のなかの巨兵は、その動きをぴたりと止めます。まるで死体のように動かなくなります。言葉を持たない山や丘のように、ただ(もく)してその場に置かれるだけの物体になります。
 そうして、完全な沈黙が訪れます。
 巨兵は、ただの泥人形になってしまいました。
 今やそれは、心を失ってしまったのです。
 その瞬間、奇妙に重たい汗が、ミシスの首の裏にじわりと浮かびました。そして地の底から這い出てきた見えざる何者かの冷たい手が、自分の背筋を下から上へ一撫でして去っていったような、そんな錯覚に襲われました。
 ミシスは身震いして毛布を頭からかぶり、自身の体をきつく抱きしめました。そしてもう一度心臓の上に両手を押し当てて、そこに本物の鼓動があることを、ほとんど死に物狂いでたしかめました。
「大丈夫……」少女は自分に向かってささやきかけました。「わたしの胸には、出入り口はない。誰かがそこから出たり入ったりすることはない。わたしがわたしでいるかぎり、わたしの心はずっとここにある……はず」
 どうして最後まで確信を持って言いきることができないのか、今はあえて追求しないことにします。でもそれはきっと、心があまりにも捉えがたいものだから。結局、頭ですっかり納得できるまで、その在り処も形も大きさも重さも、たしかめることのできないものだから。だから――
「そう、だから、わたしはこの体で、しっかり生きていかなくちゃ。心だってよくわからないものなのに、わたしの場合は、頭だってちょっと信用できないんだから……」
 その時ノエリィが、なにかむにゃむにゃと寝言を言いながら寝返りを打ちました。ミシスが見あげているベッドの上段の底板が、ぎしっと小さく軋みます。
 ノエリィが、そこにいる。呑気な寝息を立てて、気持ち良さそうに眠っている。そのことが、そのたしかな事実が、ミシスの心をなによりも癒し、温めてくれます。
 わたしの人生を照らしてくれた、大好きな友だちであり家族でもある、天から贈られた祝福そのもののような女の子。
 さっきまで背中に残っていた寒気は波が引くように消えていき、その代わりに今日の昼間に味わった芝生の温もりや野苺の甘い香りの記憶が次々と立ち現れ、ミシスの身と心を包んでくれました。もう怖くはありませんでした。怖いからといって薬を飲む必要は、今の彼女にはなくなったようです。
「おやすみ、ノエリィ」
 そうささやくと、眠りにつく前にもう一度だけ満月を見あげました。銀の盆のようなそれのすぐ近くを、まるでピレシュが放った剣撃のように鮮やかな流れ星が一つ、飛んでいくのが見えました。ミシスが覚えているかぎりでは、生まれて初めて目撃した流れ星でした。
 闇の手が触れた痕跡はその一条の光によって完全に(きよ)められ、少女は幸福な気持ちを抱いて眠りに落ちていきました。
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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