2 元気じゃないわけじゃない
文字数 5,519文字
ミシスのその後の人生にとって、最も退屈な時期として記憶される日々が始まりました。
屋上にさまよい出てカセドラを目撃した朝、看護士の女性に案内されて部屋に戻ると、まもなく別の若い女性の看護士がミシスを訪ねてきました。彼女は終始つくりものの笑みを顔面に固定したまま、ほとんど言葉も発することなく少女の体温と血圧を測り、注射器で採血をし、もうじき朝食が運ばれてくるからここから出ないように、とだけ言い残して、走るように去っていきました。
ベッドに座ってぼんやりと窓を眺めていると、廊下の向こうから食事の匂いが漂ってきて、台車に載せられた朝食が各部屋に配られていきました。急にお腹がすいてきたミシスは、それらをすべて平らげましたが、それは空腹だったからできた芸当であって、舌が喜ぶからできたことではありませんでした。味の感想を聞かれたらどうしよう、と思いながら空 になった盆を返却しにいきましたが、看護士や配膳係の誰一人として、こちらを見向きもしませんでした。ただ、同じ病棟に入院している人たち――その多くはくたびれた身なりの中年や老年の男女でした――が、ちらちらと品定めするような視線を送ってくるだけでした。ミシスは駆け足で部屋に戻りました。
屋上でミシスにお茶を振る舞ってくれた女性は、この病棟に勤める看護士長でした。彼女は食事の時間が終わると、少女の主治医となる医師をともなって部屋を訪れました。主治医は鉱夫のようにがっしりとした体格の、歳 は中年の域に差しかかったばかりという感じの男性で、真っ黒で硬そうな縮れた髪を後ろに撫でつけていました。
「看護士長から話は聞いたよ」主治医が立ったままため息混じりに言いました。「記憶がないというのは本当かね」
少女は無表情でうなずきます。
「いったいどれくらい昔からの記憶がないのだね?」
「ずっと昔からです」
「ずっと昔って、いつ?」
「いちばん最初から」
主治医は再び鼻から嘆息を吐き、かたわらに控えている看護士長と顔を見あわせて、軽く肩をすくめました。
「きみは、ここからずっと東の、砂漠が広がっている地帯で保護されたんだ」主治医が腕を組んで説明します。「そのあたりについて思い当たることはなにかないかね?」
少女は首を振ります。無表情のままで。
「春とはいえ、まだ夜はずいぶん冷え込む。砂漠の夜であったらなおさらだ。君はそんな場所で、たった一人で倒れていたんだよ。運良く発見されなかったら、命が危なかったところだ」
そう言われても、ミシスには自分がどうしてそんな場所にいたのか知る由 もないし、そしてその場所についての記憶もやはりまったく持ちあわせていないので、どうこたえていいのかわかりません。しばらく沈黙した後、顔を上げて主治医にたずねました。
「誰がわたしを見つけてくれたのですか」
「私もまだくわしくは聞かされていない。だが、王国軍の地質調査隊だかなんだかが、任務を終えて王都へ帰還する途中に、偶然きみを見つけたということだ」
これについても、少女はどう反応していいのかわかりません。それきり、放心したように黙りこくってしまいました。
主治医はかぶりを振ると、きっぱりとした口調で言いました。
「まぁ、ゆっくりやっていくしかなかろう。さっそく今日の午後から、心療科の専門医の診察が始まることになっている。根気がいる作業になるかもしれないが、これから先の自分の人生のためだと思ってがんばりなさい。なにしろ、きみはまだ若いのだから」
そしてもうこれ以上の用はないと言わんばかりに、彼は急ぎ足で部屋を出ていきました。看護士長がその背中を追う前に、さっとミシスに駆け寄って、励ますように肩を撫でました。
砂漠。一人きり。王国軍。
ミシスは耳にしたばかりのいくつかの単語を頭のなかに並べていろんな角度から検分してみましたが、そこにはなんの印象も手応えもありません。そして今いるここが砂漠だと想像してベッドに身を横たえてみましたが、やはりなにも感情が動きません。砂漠に行った記憶もありません。
そのままじっとして長いこと天井を睨んでいると、驚くべきことに、もう昼食が運ばれてきました。少しもお腹のすいていないミシスは、料理にほとんど手をつけないまま返却し、次からはうんと量を減らしてくださいと係員にお願いしました。お腹の減り具合はみんな違うはずなのに、全員一斉に決まった時間に食事を始めるのが、少し不気味なことのようにミシスには思えました。
窓辺に立って外を眺めると、春の陽気に包まれる中庭の様子が見渡せました。噴水や樹木は陽の光を浴びてきらきらと輝いています。ベンチには何人かの人が座ってくつろいでいます。自分もそこへ行ってみたいという気持ちが湧き起こってきたちょうどその時、今度は心療内科の専門医を名乗る黒髪の女性が部屋にやって来ました。
彼女はまるで誰かに髪をつかまれて引っぱりあげられているような固い一つ結びの髪型をした、吊り目気味の若い女性でした。とても背が高く、ミシスと目線を合わせるために猫背になって椅子に腰かけました。
互いに簡単な自己紹介をすると、すぐにミシスの認知能力をはかるための試験のようなものをおこなうことになりました。設問の書かれた紙と鉛筆を渡され、少女はやや緊張して机に向かいました。その内容は、基礎的な読み書きと計算の能力を測定するものが半分、そして一般的な社会常識や世界の成り立ちを問うものが半分、といった構成になっていました。
それが済むと、今度は専門医と対面形式で、たくさんの風景写真を順番に見ていく作業が始まりました。そのなかには、屋上から眺めた記憶もまだ新しい、王都ヨアネスの風景とおぼしきものもありました。ほかには、牧歌的な村、たくさんの船舶がひしめく港町、石造りの古めかしい町、花が咲き乱れる丘、深い森、大海原、砂漠、火山、水田、草原、荒れ果てた山岳地帯など、この地上のあらゆる景観が網羅されていました。
専門医が優しげな声で、遠い記憶を誘導するかのように、一枚一枚写真を掲げながら、なにか心に訴えかけてくるものはないかたずねます。
「じゃあ、ここはどう? 何か思いださない?」
「ううん」少女は即答します。「どこにも見覚えがない。でもどこも綺麗ね。ここにある全部の場所に行ってみたい」
専門医は苦笑して、ベッドや机に散らばった書類を鞄に仕舞い込みました。そして鞄の口を閉じながら、急に思いついたようにたずねました。
「ねえ、どうして名前だけは覚えていたの?」
「夢のなかで知ったの」
「夢? 眠っているときに見る夢ね? どんな夢だった?」
「さあ……」少女は壁の一点をわけもなく凝視して、ゆっくり大きく首をかしげます。「ぜんぜん、覚えてない。でも、誰かがわたしに向かって、わたしの名前を呼んだ……」
「そう」不満げに肩を落とすと、専門医は鞄を抱えて立ち上がりました。「明日も来るわね。今日の検査の結果も参考にしつつ、なにを覚えていて、なにを忘れてしまったのか、もう少しはっきりさせていきましょう」
宣言どおり、明くる日も専門医はミシスの部屋を訪問してきました――前日の倍の量はある書類の束を、鞄いっぱいに詰め込んで。そしてそれから、いつ終わるとも知れない問診や質疑応答が、まるまる二日間を費やしておこなわれました。すべての検査が終わった時には、ミシスも専門医も、頭から湯気が立ち昇りそうなくらいくたびれ果ててしまいました。
一連の検査が終了した翌日、張り詰めた数日間の反動で疲れきってしまい、少女は大半の時間をベッドでまどろんで過ごしました。日が暮れる少し前に主治医と専門医が連れだって部屋に来た時も、一瞬夢じゃないかと思ったくらいでした。
「連日、ごくろうさんだったね」主治医が唇の端を曲げて笑いました。「おかげで、あくまでおおまかにではあるが、君の現在の状況が把握できたよ」
二人の医師が説明してくれた内容は、次のようなものでした。
まず、身体は健康そのものであるものの、少女の頭からは、本人の出自や個人的な人生経験に関連する記憶が、ほぼまるごと抜け落ちてしまっている。そしてそれを思いだすための有効な手立ても、ほんのわずかな取っ掛かりも、今のところはまったく見あたらない。
さらには、自分のことだけでなく、世のなかの仕組みや情勢、歴史、いくつかの重要な一般常識についても、まるで生まれたての赤ん坊のように無知の状態である。
しかしどういうわけか、読み書き計算、会話による他者との正常な意思疎通といった基礎能力はじゅうぶんに備えており、世界の普遍的な事象に関する正確な知識もある程度は保有している。たとえば、机と椅子、猫と犬、海と砂漠、夏と冬といったものがそれぞれどういうものであるか理解し、そしてそれぞれがどう違うのか、ということを判別できる……といった次第。
ミシスは自身に関する報告に耳を傾けながら、そんな状況に陥 ってしまった人は、きっとこれから生きていくのが大変なんじゃないかな、気の毒だなと、まるで他人事 のように思っていました。
「この数日間で、王都を含めた周辺の各都市や町村に、失踪人の捜索届や尋ね人の依頼がないか、隈 なく確認してもらったんだが、きみに関係のありそうな案件は一つも見つからなかった」やや言いづらそうに、主治医が告げました。「きみには、思いだせる限りにおいて、家族も、身寄りも、知人や友人も、一人もいないそうだね」
「はい、いません」少女はこっくりとうなずきます。
「きみの年齢は、推定で14歳から16歳のあいだくらいだと思われる」主治医が言いました。
「私は15歳だと思います」専門医が少し身を乗りだして、妙に確信を込めて言います。
「……まあ、そのへんだ」主治医が続けます。「きみくらいの歳で、きみと同等の基礎能力を持っていて、社会で独立して生きている若者は、少なからずいる。しかし、自分でもわかっているだろうが、きみには知識や記憶に関して、欠落している部分があまりに多すぎる。一人で外に出すのは危険だと、我々は判断している」
少女はそれについて少し考えてみます。危険? 危険と言われても、なにが危険なのか、どんな危険が自分に降りかかるのか、うまく想像できない。……いや、そうか。そういう想像力が働かないということ自体が、じゅうぶんに危険なことだと言えるのだろう、きっと。
「……カセドラ」少女はとつぜん思いついたようにその名を口にしました。
二人の医師が目を丸くしました。
「カセドラが、どうしたの?」ちょっと怯えた様子で、専門医がたずねます。
「カセドラは、人が乗って動かしてるんですよね」
「ええそうよ」
「わたし、お城の前に立ってるカセドラを、屋上から見ました。わたしにも、一日じゅうああやって立ってるだけなら、できると思います」
主治医が思いきり吹き出し、続いて専門医も両手で口を押さえて笑いました。
「おかしいですか?」少女が首をかしげます。
「あれはね、軍人しか乗れないのだ」主治医が呆れ顔で説明します。「それに、厳しい鍛錬を重ね、いくつもの試験に合格しないと、操縦者として認めてはもらえないんだよ」
「そうですか」少女は肩を落としました。「でも、もしわたしがカセドラに乗れたら、せっかくあんなに立派な体を持ってるんだから、ああやってただ立ってないで、もっとなにか、みんなの役に立つことをしたいな」
「そいつは道理かもしれんな」主治医がぱちんと指を鳴らしました。
それから彼は用があるからと言って、再訪を約束すると早足で帰っていきました。途中まで専門医が見送りに出ました。ミシスはすかさず履物 に足を突っ込み、音を立てずに二人のあとを追いかけました。直感的に、二人の医師は自分に関してなにかしら重要な会話を交わすにちがいないと、確信したからです。
その確信は的中しました。
階段の踊り場で立ちどまった二人は、声を潜めて、なにごとかを話し合いはじめました。ミシスが身を隠した廊下の角 からは会話の内容まではよく聴こえませんでしたが、いくつかの断片的な単語は、かろうじて聴き取ることができました。
それは、「施設」、「孤児院」、「修道院」、「裁縫工場 」といった、場所を示すものばかりでした。
話が終わると主治医は去り、専門医は階段をのぼって再びミシスの部屋へ戻ってきます。
彼女が部屋に入ると、間一髪で先に戻っていた少女は、なに食わぬ顔でベッドの縁 に腰かけていました。その顔を見るなり、専門医はどことなく同情するような微笑を浮かべました。
「先生、わたし、いつまでここにいるの?」少女がぽつりとたずねます。
「心配しないで」医師は笑みを深めます。「この国は、身寄りのない人を無責任に放り出したりはしないわ。いろんな状況が整うまで、あなたはここにいていいの。王国に対する借りは、いつか大人になってから返したらいいのよ。だから早く元気になれるように、がんばっていきましょう」
そう言うと満足した顔つきになって、彼女は帰っていきました。
「わたしは別に元気じゃないわけじゃない」ミシスは足もとの床を見おろしてつぶやきました。「それに、ここにいたいとも言ってない」
人が他人の心の内を理解するのは難しいものなんだな、と少女は思いました。そしてそれに比べて、この人はこう思っているにちがいないと勝手に決めつけて接するのは、ずいぶんと簡単で楽なものなんだろうな、とも思いました。
夕食はほとんど喉を通りませんでした。浴場で時間をかけて念入りに体を綺麗にすると、その日は早くに寝てしまいました。
屋上にさまよい出てカセドラを目撃した朝、看護士の女性に案内されて部屋に戻ると、まもなく別の若い女性の看護士がミシスを訪ねてきました。彼女は終始つくりものの笑みを顔面に固定したまま、ほとんど言葉も発することなく少女の体温と血圧を測り、注射器で採血をし、もうじき朝食が運ばれてくるからここから出ないように、とだけ言い残して、走るように去っていきました。
ベッドに座ってぼんやりと窓を眺めていると、廊下の向こうから食事の匂いが漂ってきて、台車に載せられた朝食が各部屋に配られていきました。急にお腹がすいてきたミシスは、それらをすべて平らげましたが、それは空腹だったからできた芸当であって、舌が喜ぶからできたことではありませんでした。味の感想を聞かれたらどうしよう、と思いながら
屋上でミシスにお茶を振る舞ってくれた女性は、この病棟に勤める看護士長でした。彼女は食事の時間が終わると、少女の主治医となる医師をともなって部屋を訪れました。主治医は鉱夫のようにがっしりとした体格の、
「看護士長から話は聞いたよ」主治医が立ったままため息混じりに言いました。「記憶がないというのは本当かね」
少女は無表情でうなずきます。
「いったいどれくらい昔からの記憶がないのだね?」
「ずっと昔からです」
「ずっと昔って、いつ?」
「いちばん最初から」
主治医は再び鼻から嘆息を吐き、かたわらに控えている看護士長と顔を見あわせて、軽く肩をすくめました。
「きみは、ここからずっと東の、砂漠が広がっている地帯で保護されたんだ」主治医が腕を組んで説明します。「そのあたりについて思い当たることはなにかないかね?」
少女は首を振ります。無表情のままで。
「春とはいえ、まだ夜はずいぶん冷え込む。砂漠の夜であったらなおさらだ。君はそんな場所で、たった一人で倒れていたんだよ。運良く発見されなかったら、命が危なかったところだ」
そう言われても、ミシスには自分がどうしてそんな場所にいたのか知る
「誰がわたしを見つけてくれたのですか」
「私もまだくわしくは聞かされていない。だが、王国軍の地質調査隊だかなんだかが、任務を終えて王都へ帰還する途中に、偶然きみを見つけたということだ」
これについても、少女はどう反応していいのかわかりません。それきり、放心したように黙りこくってしまいました。
主治医はかぶりを振ると、きっぱりとした口調で言いました。
「まぁ、ゆっくりやっていくしかなかろう。さっそく今日の午後から、心療科の専門医の診察が始まることになっている。根気がいる作業になるかもしれないが、これから先の自分の人生のためだと思ってがんばりなさい。なにしろ、きみはまだ若いのだから」
そしてもうこれ以上の用はないと言わんばかりに、彼は急ぎ足で部屋を出ていきました。看護士長がその背中を追う前に、さっとミシスに駆け寄って、励ますように肩を撫でました。
砂漠。一人きり。王国軍。
ミシスは耳にしたばかりのいくつかの単語を頭のなかに並べていろんな角度から検分してみましたが、そこにはなんの印象も手応えもありません。そして今いるここが砂漠だと想像してベッドに身を横たえてみましたが、やはりなにも感情が動きません。砂漠に行った記憶もありません。
そのままじっとして長いこと天井を睨んでいると、驚くべきことに、もう昼食が運ばれてきました。少しもお腹のすいていないミシスは、料理にほとんど手をつけないまま返却し、次からはうんと量を減らしてくださいと係員にお願いしました。お腹の減り具合はみんな違うはずなのに、全員一斉に決まった時間に食事を始めるのが、少し不気味なことのようにミシスには思えました。
窓辺に立って外を眺めると、春の陽気に包まれる中庭の様子が見渡せました。噴水や樹木は陽の光を浴びてきらきらと輝いています。ベンチには何人かの人が座ってくつろいでいます。自分もそこへ行ってみたいという気持ちが湧き起こってきたちょうどその時、今度は心療内科の専門医を名乗る黒髪の女性が部屋にやって来ました。
彼女はまるで誰かに髪をつかまれて引っぱりあげられているような固い一つ結びの髪型をした、吊り目気味の若い女性でした。とても背が高く、ミシスと目線を合わせるために猫背になって椅子に腰かけました。
互いに簡単な自己紹介をすると、すぐにミシスの認知能力をはかるための試験のようなものをおこなうことになりました。設問の書かれた紙と鉛筆を渡され、少女はやや緊張して机に向かいました。その内容は、基礎的な読み書きと計算の能力を測定するものが半分、そして一般的な社会常識や世界の成り立ちを問うものが半分、といった構成になっていました。
それが済むと、今度は専門医と対面形式で、たくさんの風景写真を順番に見ていく作業が始まりました。そのなかには、屋上から眺めた記憶もまだ新しい、王都ヨアネスの風景とおぼしきものもありました。ほかには、牧歌的な村、たくさんの船舶がひしめく港町、石造りの古めかしい町、花が咲き乱れる丘、深い森、大海原、砂漠、火山、水田、草原、荒れ果てた山岳地帯など、この地上のあらゆる景観が網羅されていました。
専門医が優しげな声で、遠い記憶を誘導するかのように、一枚一枚写真を掲げながら、なにか心に訴えかけてくるものはないかたずねます。
「じゃあ、ここはどう? 何か思いださない?」
「ううん」少女は即答します。「どこにも見覚えがない。でもどこも綺麗ね。ここにある全部の場所に行ってみたい」
専門医は苦笑して、ベッドや机に散らばった書類を鞄に仕舞い込みました。そして鞄の口を閉じながら、急に思いついたようにたずねました。
「ねえ、どうして名前だけは覚えていたの?」
「夢のなかで知ったの」
「夢? 眠っているときに見る夢ね? どんな夢だった?」
「さあ……」少女は壁の一点をわけもなく凝視して、ゆっくり大きく首をかしげます。「ぜんぜん、覚えてない。でも、誰かがわたしに向かって、わたしの名前を呼んだ……」
「そう」不満げに肩を落とすと、専門医は鞄を抱えて立ち上がりました。「明日も来るわね。今日の検査の結果も参考にしつつ、なにを覚えていて、なにを忘れてしまったのか、もう少しはっきりさせていきましょう」
宣言どおり、明くる日も専門医はミシスの部屋を訪問してきました――前日の倍の量はある書類の束を、鞄いっぱいに詰め込んで。そしてそれから、いつ終わるとも知れない問診や質疑応答が、まるまる二日間を費やしておこなわれました。すべての検査が終わった時には、ミシスも専門医も、頭から湯気が立ち昇りそうなくらいくたびれ果ててしまいました。
一連の検査が終了した翌日、張り詰めた数日間の反動で疲れきってしまい、少女は大半の時間をベッドでまどろんで過ごしました。日が暮れる少し前に主治医と専門医が連れだって部屋に来た時も、一瞬夢じゃないかと思ったくらいでした。
「連日、ごくろうさんだったね」主治医が唇の端を曲げて笑いました。「おかげで、あくまでおおまかにではあるが、君の現在の状況が把握できたよ」
二人の医師が説明してくれた内容は、次のようなものでした。
まず、身体は健康そのものであるものの、少女の頭からは、本人の出自や個人的な人生経験に関連する記憶が、ほぼまるごと抜け落ちてしまっている。そしてそれを思いだすための有効な手立ても、ほんのわずかな取っ掛かりも、今のところはまったく見あたらない。
さらには、自分のことだけでなく、世のなかの仕組みや情勢、歴史、いくつかの重要な一般常識についても、まるで生まれたての赤ん坊のように無知の状態である。
しかしどういうわけか、読み書き計算、会話による他者との正常な意思疎通といった基礎能力はじゅうぶんに備えており、世界の普遍的な事象に関する正確な知識もある程度は保有している。たとえば、机と椅子、猫と犬、海と砂漠、夏と冬といったものがそれぞれどういうものであるか理解し、そしてそれぞれがどう違うのか、ということを判別できる……といった次第。
ミシスは自身に関する報告に耳を傾けながら、そんな状況に
「この数日間で、王都を含めた周辺の各都市や町村に、失踪人の捜索届や尋ね人の依頼がないか、
「はい、いません」少女はこっくりとうなずきます。
「きみの年齢は、推定で14歳から16歳のあいだくらいだと思われる」主治医が言いました。
「私は15歳だと思います」専門医が少し身を乗りだして、妙に確信を込めて言います。
「……まあ、そのへんだ」主治医が続けます。「きみくらいの歳で、きみと同等の基礎能力を持っていて、社会で独立して生きている若者は、少なからずいる。しかし、自分でもわかっているだろうが、きみには知識や記憶に関して、欠落している部分があまりに多すぎる。一人で外に出すのは危険だと、我々は判断している」
少女はそれについて少し考えてみます。危険? 危険と言われても、なにが危険なのか、どんな危険が自分に降りかかるのか、うまく想像できない。……いや、そうか。そういう想像力が働かないということ自体が、じゅうぶんに危険なことだと言えるのだろう、きっと。
「……カセドラ」少女はとつぜん思いついたようにその名を口にしました。
二人の医師が目を丸くしました。
「カセドラが、どうしたの?」ちょっと怯えた様子で、専門医がたずねます。
「カセドラは、人が乗って動かしてるんですよね」
「ええそうよ」
「わたし、お城の前に立ってるカセドラを、屋上から見ました。わたしにも、一日じゅうああやって立ってるだけなら、できると思います」
主治医が思いきり吹き出し、続いて専門医も両手で口を押さえて笑いました。
「おかしいですか?」少女が首をかしげます。
「あれはね、軍人しか乗れないのだ」主治医が呆れ顔で説明します。「それに、厳しい鍛錬を重ね、いくつもの試験に合格しないと、操縦者として認めてはもらえないんだよ」
「そうですか」少女は肩を落としました。「でも、もしわたしがカセドラに乗れたら、せっかくあんなに立派な体を持ってるんだから、ああやってただ立ってないで、もっとなにか、みんなの役に立つことをしたいな」
「そいつは道理かもしれんな」主治医がぱちんと指を鳴らしました。
それから彼は用があるからと言って、再訪を約束すると早足で帰っていきました。途中まで専門医が見送りに出ました。ミシスはすかさず
その確信は的中しました。
階段の踊り場で立ちどまった二人は、声を潜めて、なにごとかを話し合いはじめました。ミシスが身を隠した廊下の
それは、「施設」、「孤児院」、「修道院」、「裁縫
話が終わると主治医は去り、専門医は階段をのぼって再びミシスの部屋へ戻ってきます。
彼女が部屋に入ると、間一髪で先に戻っていた少女は、なに食わぬ顔でベッドの
「先生、わたし、いつまでここにいるの?」少女がぽつりとたずねます。
「心配しないで」医師は笑みを深めます。「この国は、身寄りのない人を無責任に放り出したりはしないわ。いろんな状況が整うまで、あなたはここにいていいの。王国に対する借りは、いつか大人になってから返したらいいのよ。だから早く元気になれるように、がんばっていきましょう」
そう言うと満足した顔つきになって、彼女は帰っていきました。
「わたしは別に元気じゃないわけじゃない」ミシスは足もとの床を見おろしてつぶやきました。「それに、ここにいたいとも言ってない」
人が他人の心の内を理解するのは難しいものなんだな、と少女は思いました。そしてそれに比べて、この人はこう思っているにちがいないと勝手に決めつけて接するのは、ずいぶんと簡単で楽なものなんだろうな、とも思いました。
夕食はほとんど喉を通りませんでした。浴場で時間をかけて念入りに体を綺麗にすると、その日は早くに寝てしまいました。
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