14 努力次第でいくらでも埋めていけるもの

文字数 5,276文字

 翌朝、朝食の後片づけを終えた頃、玄関の呼び鈴が鳴らされました。先日会った時とおなじ格好をしたピレシュが、いつものきりっとした表情でドアの前に立っていました。今日は大きな紙封筒を小脇に抱えています。
「あれ、こんな早くにどうしたの?」出迎えたノエリィがたずねました。
「私が呼んだのよ」ハスキルが代わってこたえます。
 食卓が綺麗に拭かれ、そこにピレシュが持ってきた書類が並べられました。
「ミシス、今日はあなたの基礎知識や学習能力を測定するための、ちょっとした試験をするわ」ハスキルが説明します。
「試験、ですか?」
 病院での退屈な問診や検査が思いだされて、ミシスの表情がわずかに曇りました。それに気づいたハスキルが、背後からその両肩にぽんと手を置きました。
「心配しないで。そんなややこしいものじゃないから。すぐに終わる、簡単なものだから」
「あなたの事情について、昨日ハスキル先生から、だいたいのことはうかがいました」ピレシュが淡々と述べます。「これは少々特殊な事情を抱えるあなたが、来月から始まる新学期において、ほかの新入生たちとおなじ教室でおなじ授業を受けるための最低限の適性があるかどうか、あるいはなにか必要な能力に不備がないかどうか、たしかめるためにおこなう試験です」
「とは言っても」ハスキルが続きます。「あなたはまちがいなく合格するわ。それは私が保証する。でもね、いろいろと提出しなきゃいけない申請書類がいくつかあって、それをきちんと仕上げるための、ほんのしるしみたいなものなのよ」
「先生は今日もお忙しいから、わたしが代理の試験官を務めます。本当は、生徒が生徒を監督するっていうのは問題があるのだけど」
「ピレシュだったら問題ないわ」ハスキルがぱちっと片目をつむってみせます。
「そういうわけで」ピレシュが問題用紙の角を揃えます。「午前中に終わらせてしまいましょう」
 ハスキルとノエリィは、それぞれの用事のために席を外すことになりました。こうしてミシスは、初めてピレシュと二人きりになりました。
 二人が向かいあって座る食卓はなんだかいつもより広く大きく感じられ、食堂と居間もやたらと静まり返っているように思えます。ふいに訪れた緊張感が、ミシスの体を硬くします。
「では、よろしくお願いします」
「ええ、よろしく。まぁ、肩の力を抜いて。さっさとやってしまいましょう」
 それはやはり病院で何度もくり返した検査と、大差のないものでした。改めて設問に取り組んでみると、やっぱり自分は一般常識や各学科の基礎知識に関して、思わぬところに落とし穴をいくつも持っているんだな、と感じざるをえませんでした。記憶や知識に(かたよ)りや欠落があるのは、少しの独学を経た今でも、依然として解消されない事実のままでした。
 試験時間のあいだ、ピレシュはほとんど身動きをしませんでした。ただじっと椅子に座り、ときおり壁の時計に目をやるだけで、体をひねったり立ち上がったりもせず、試験官の役目を完全に遂行ました。そして時間が来ると、静かに口を開きました。
「そこまで」
 解答用紙を受け取ると、ピレシュはその場でそれにざっと目を通しました。
「あなた、記憶がないんですってね」用紙に目を落としたまま、ピレシュが語りかけます。「さっきも言ったけど、先生からくわしく話を聞いたわ。気をわるくしないでね。わたしは、学院の生徒全員に目を配らなくちゃいけない立場にあるから」
「いえ、そんな。気をわるくなんか、ぜんぜんしません。自分からも、ピレシュさんにはきちんとお話ししておかなくちゃって、ずっと思ってたんです」
「そう」
 簡素に返事をすると、最初とおなじように用紙の角をとんとんと揃えて、書類入れにきちんとしまいました。
「ふう。お茶でも淹れようかしらね」首を回しながらピレシュが言いました。
「あ、わたしがやります」ミシスが席を立とうとします。
「いいの、すぐ済むから」ピレシュが制して先に立ちます。
 その挙動は、勝手知ったる者のそれでした。茶葉もポットもカップも砂糖もスプーンも、まるで自分の家のようにそれらがある場所を把握しているようです。それだけで、この少女がどれほどこの家の母娘から信頼され、深いつきあいがあるのかということが、よくわかりました。
 紅茶のカップと共に、二人は元の席へ戻りました。
「あの、どうでしたか? 試験結果」
「先生がはじめにおっしゃったでしょ。最初から合格だってわかっててやってるのよ、こんなもの」
「よかったぁ」ミシスはほっと胸を撫で下ろします。
「でも安心しすぎないで」ピレシュが平然と続けます。「こう言っては無神経かもしれないけど、やはりあなたの知識には、思いがけない欠落部分がいくつか見受けられる」
「自覚しています」
「そう。殊勝なことだわ。でもね、あなたの基礎学力は、はっきり言って平均以上よ。だからそんな欠落なんて、あなたのこれからの努力次第でいくらでも埋めていけるものよ」
「ありがとうございます」戸惑い半分感激半分という気持ちで、ミシスは礼を述べます。「ハスキル先生にも、おなじことを言われました。これからいろいろ知っていけばいいんだって。わたし、みなさんのご厚意に報いるためにも、うんと勉強するつもりです」
 眉を上げてほんの一瞬柔らかい表情を見せ、ピレシュは小さくうなずきました。
「あの、ピレシュさんは――」
「ピレシュでいいわ」
「え、でも」
「あなた、自分の年齢もわからないんでしょ? もしかしたら、ノエリィやわたしより年上って可能性もあるんじゃないの」
「それは、そうかもしれないですけど……。でもピレシュさんは、ここの大先輩だし、いちばん上の学年だし……」
「ああ、もう」ピレシュはもどかしげにカップを置いて、ほんの少し声を荒げます。「この家のなかでそんなふうに改まった話しかたされると、なんだかいつもみたいにくつろげないの。だから、いいのよ、わたしには普通に話して。ほかの上級生や目上のかたに対しては丁寧にお話しすべきだけど、わたしは例外でいい。だからそんな堅苦しい話しかたは、お願いだからやめて」
「わかりまし――」
「んん?」
「わ、わかったよ。ピレシュ」
「ええ」にっこり笑って前髪を揺らせると、少女はなにごともなかったようにカップを再び口に運びます。「わかってもらえてうれしいわ。ミシス」
「あの、ピレシュは、この学院のいちばん上の学年なんだよね」
「そうよ。来年は卒業ね」
「卒業したらどうするかとか、もう考えてるの?」
「当ったり前じゃない」鼻で笑うようにピレシュは明言します。「わたしは常に10年先まで見越して生きているの」
「10年? すごいなぁ。わたしなんて、まだ数日ぶんしか生きた実感がないから、10年なんて想像もつかないよ」
「でしょうね。でもそれはあなたの過失じゃない。気に病む必要はないわ」
「うん。ありがとう」
「ともかく、人生なんて、明日にはなにがどうなるかわかったもんじゃないでしょ。だからこそ長期的な視野を持って、目標を見定めて生きるべきなの。そうすることで初めて、目の前にある今という瞬間がなにより重要なんだってことがきちんと認識されるのよ。つまり、自分が今なにをするべきか、はっきりわかるようになるってこと」
 ミシスは感心しきりで、何度もうなずきながら拝聴しました。
「今の話、きっとずっと忘れないよ」
「そうなさいな」ちょっと照れくさそうにピレシュは肩をすくめます。「それで、わたしの将来の考えね。いいわ、少しだけ話してあげる。わたしはね、科学者を目指してるの」
「へぇ……。かがくしゃ……」
「……あなた、よくわかってないわね」首をひねるのを我慢している少女に向けて、ピレシュはじろりと一瞥を投げます。
「う、うん、ごめん。科学者って、具体的には、なにをする人なんだろう?」
「〈顕導力学(けんどうりきがく)〉って、あなたわかるかしら」
 ミシスは潔く首を振ります。
「一口に科学といっても、いろいろな種類がある。顕導力学っていうのはそのなかの一種で、現代において最も重要な科学技術だといわれているわ。まだまだ発展途上の段階にある新興の分野ではあるのだけど、わたしはこの可能性に満ちた最新科学こそが、世界の平和を存続させていくための鍵になるはずだって考えてる。わたしは卒業したら王都の大学に入って、ゆくゆくは顕導力学の研究者になるつもり」
 目を輝かせて夢を語るピレシュにはちょっと申しわけないと思いながらも、ミシスにはその顕動力学というものが具体的にどういうものなのかまったく想像がつかないので、ぽかんと間の抜けた顔をさらすことしかできませんでした。その様子を薄目で冷ややかに見やると、ピレシュは咳ばらいを一つしました。
「まぁ、あなたもこれから生きていくうえで、そういうものがあるってことくらいは、知っておいて損はないわよ。どういうものなのかここで説明しだすと長くなるから、もし興味が湧いたなら自分で調べてみなさいな」
「わかった。そうするね」ミシスは苦笑を浮かべてうなずきます。それから、ふと思いついたことを、そのまま口にします。「ねえ、その顕導力学って、もしかしてカセドラと関係がある?」
 その言葉を耳にした瞬間、ピレシュの目の奥に暗い光が(ほとばし)りました。まるで、飲もうとして持ち上げたカップのなかに、ナメクジでも見つけたみたいに。
「……ええ、関係あるわ。でもわたしは率直に言って、関係なくしたい。あんな醜い大量破壊兵器と科学とを、結びつけて考えたくないの」
 ピレシュはそう言ってからすぐに、言うんじゃなかった、というような苦々しい表情を浮かべました。まるで、ナメクジに塩をかけておいて、そもそも見つけなければ無益な殺生をせずに済んだのに、と気分を害しているように。
 壁の時計が無邪気に正午の鐘を鳴らしました。
「……さて」ピレシュは空になったカップをソーサーにそっと置きました。もちろんそのなかにナメクジはいません。「ともあれ、おつかれさま。あなたの編入申請は、これで滞りなく受理されるはずよ。あとは制服と教科書を受け取れば、晴れてエーレンガート女学院の一員ね」
「ありがとう」ミシスは笑顔で一礼します。「光栄です」
「ああ、お腹すいちゃった」席を立ちながらピレシュが言いました。「それじゃ、わたしは行くわ」
「あ、カップはそのままにしといて」
「そう? じゃ、お願い」
「あの、ピレシュ……」
「なに?」
「教科書って、早めにもらえたりしない?」
「どうして?」
「少しでも、予習しておきたいの」
「良い心掛けね」ピレシュがめずらしく満面の笑顔を見せました。「もちろん、それくらいかまわないと思うわ。むしろ生徒みんなにそうあって欲しいくらいね」
「どこで受け取れるかな?」
「午後にまた先生と会う予定があるから、その時にわたしが頼んでおいてあげる。いちおうあなたも、あとで先生に直接お話ししてみて」
「わかった」
「それじゃ」
 ピレシュが去ったあと、彼女が座っていた椅子に残された空白を、ミシスはしばらく無心で眺めていました。もうそこにピレシュはいないのに、まだそこには凛とした存在感が、くっきりとした余韻として漂い残っています。
 ノエリィとはまるで性格も波長もちがう女の子だけど、心から尊敬できる立派な人だと、ミシスは確信していました。これからもっと、仲良くなっていけたらいいな……。
 そんなことを考えていると、どたばたと玄関の方から音がして、なにかの荷物を抱えたノエリィが上機嫌で帰ってきました。
「ただいまぁ。終わった?」
「うん、ついさっき」
「ミシスなら余裕だったでしょ?」
「けっこう難しかったよ」
「そう? じゃあほら、頭使ったら、甘いもの!」
 さっきから両腕で抱えている籠の中身はいったいなんなのだろうと気になっていたミシスに、ノエリィが得意げにそれを見せつけました。そこには見るからにおいしそうに照り輝く新鮮な野苺が、たくさん詰まっていました。
「ゲムじいさんが森で集めてきたんだって。ハスキル先生のところに持っていこうと考えてたら、ちょうどノエリィお嬢さんをお見かけしたんで、これはきっと神さまのお導きだと思った、なんて言うんだよぉ。まったく、大袈裟なじいさんなんだから」
 笑って話しながら、ノエリィはもういくつも野苺をぽいぽいと口に放り込んでいます。口のまわりを赤くした呑気な少女の顔を見ていると、ついついミシスの顔にも笑みが広がります。
「食べきれなかったらジャムにでもしようかな。そうだミシス、お昼はジャム作りに挑戦しない? ジャム作ったことある?」
「ううん、知らない。でもノエリィ、お願いがあるの」
「はい、なんでしょう?」
「昨日言ってたでしょ。このへんのこと、案内してくれるって」
「あ~、そうだったそうだった。じゃあ、お昼は探検ね」
「え、探検なの? 案内じゃなくて?」
 苦笑するミシスの唇の隙間に、ノエリィが無理やり野苺を一つ捩じ込みました。
 爽やかな酸味が舌の上で踊り、甘酸っぱい香りが鼻孔を抜けていきました。
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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