9 自分と世界を呪う気持ちを、遥かに凌駕するもの

文字数 5,715文字

 鉄道の駅は病院から少し離れたところにありましたが、時間に余裕があったので三人は都市の見学がてら歩いて向かうことにしました。
 なにもかも、ミシスにとっては初めて目にするものばかりでした。
 目がくらむほどの装飾に覆われた凱旋門、雲にまで届きそうな黄金の時計塔、世界じゅうのものを詰め込めそうな大型百貨店。大通りを埋め尽くす優美な馬車や自動車の列、石畳を縦横無尽に駆け巡る無数の路面列車(トラム)。とつぜん夜になったと思って空を見あげると、そこには山のように大きな銀色の飛行船が浮かんでいます。
 そしてなんといっても、至るところに溢れ返る人、人、人……。その人々がまたそれぞれに華々しく着飾っているため、どこを向いてもなにを見ても目が休まる暇がありません。
 ミシスは次々と目の前に出現するあれやこれやに気を取られて歩くのもやっとで、ほとんどずっとノエリィの腕にしがみついていました。母娘は、そんな彼女の様子をほほえましく見守っていました。
 途中、王城の前を通りました。遠くから毎日のように眺めていた城も門もカセドラも、近くで見るととてつもなく大きく見えます。首を後ろへ直角に曲げないと、頂点まで視界に収めることさえできません。門の向こうの城の前庭も、そこに町がもう一つ入ってしまいそうなくらい広大です。
 正直なところ、ミシスは初めて間近に見るカセドラの姿に、身のすくむような恐怖を覚えました。その足もとで楽しげに記念撮影をしている観光客たちの気が知れません。
 こんな巨大なものが本気でぶつかりあった戦争があったなんて、信じられない。きっと彼らが戦った跡には、瓦礫(がれき)以外なにも残らなかったろう……。ミシスはそう想像しました。
「何度見ても大きいねぇ」ノエリィが天を仰いで唸りました。
 ハスキルは無言で小さくうなずきます。それからふと、自分とおなじように顔をこわばらせているミシスの様子を横目で見やり、硬い声で言いました。
「そうね。でも、これはやっぱり、あまりにも大きすぎる。お母さんは好きになれないわ」
「そお? けっこうかっこいいと思うけどな。ミシスはどう思う?」
「……わたしも、あんまり好きじゃない、かな」
「なんだ、そっかぁ。ま、いいんだけどさ」
「これ、人が乗ってるんですよね?」ミシスがハスキルにたずねます。
「そうよ。ほら、あそこ。鎧の胸のあたり、扉みたいになってるでしょ? あのなかに人間の兵士が入ってるのよ」
「カセドラって、近くで見るとこんなに大きいんですね……」
「これは王国軍の量産機として有名な、〈アルマンド〉という名前のカセドラね。背丈はたしか、11から12エルテムくらいだったかしら。ミシスの身長が1.60エルテムだから、(ゆう)にあなたの……えっと、だいたい七倍とか、それぐらいになるわね」
「ミシス、わたしよりだいぶ背が高いよね」出し抜けにノエリィが唇を尖らせます。「いいなぁ。羨ましいなぁ。脚も長くていいなぁ……」
「も、もう行きましょう」ミシスは慌てて二人をうながしました。
 駅に着くと、昨日の長雨の影響で列車の運行に若干の遅延が出ているとのことでした。そのため三人の行動予定に、少し時間が空くことになりました。
「行ってみたい場所とかある、ミシス?」ハスキルがたずねます。
「いいえ、とくには。というか、どこになにがあるのかもわからないですし……」
「じゃあ、ちょっと早いけど、なにか食べようよ」ノエリィが提案します。
「ミシスもそれでかまわない?」
「はい、かまいません」
 三人は駅のなかにある大きな喫茶店に入りました。店内は客でごった返していて、大変な賑わいようです。旅行鞄を人々のあいだに()じ込むようにして前進し、折良(おりよ)く空いたカウンター席に三人並んで腰をおろしました。ほっと一息ついて、さっそくみんなでメニューを眺めます。
 その直後のことでした。
 なんの前触れもなく、にわかには信じがたいものが、ミシスの目に飛び込んできました。
 彼女の目と鼻の先、カウンターテーブルのうえに、人形のようなかたちをした何者かが、文字どおりに宙からひらりと飛来したのです。
 その人は、普通の人間の手のひらに載ってしまいそうなほど小さな体の持ち主で、(ひたい)からは猫の尻尾のようにくねくねと動く二本の触覚を、そして背中にはトンボのそれのように透明で細長い羽を生やしています。
 絶句して上体をのけぞらせるミシスの背中を、ノエリィがすかさず支えます。
 小さい人は、体が小さいからといって子どもなのではありません。若いおとなの人間の男性が、そのまま縮尺を小さくしたような姿かたちをしています。長い黒髪を均等に両側に分けていて、品の良い赤いベストを着ています。手にはペンとメモ帳を持っています。彼はにやりと笑って言いました。
「なんだい、お嬢さん。僕の顔になにかついてるかい」
「い、いえ、突然だったので、つい……」
「ああ、そっか。ミシスは、アトマのことも覚えてないんだね?」ノエリィが(かん)づきます。「こういう人、初めて見る感じ?」
 ミシスはこくこくとうなずきます。
 〈アトマ族〉という、人間とは異なる知的生命体がこの世界に暮らしているということは、いろんな本や新聞を読んだおかげで知ってはいました。なんでも、人間より昔からこの大地で暮らしていて、その長い歴史を通じて人間と共存してきた種族なのだといいます。彼らは一人の例外もなく自在に顕術を操ることができるけれど、必要以外にその力を使うことを好まず、自然をなによりも愛する生来の気質のため、都市部でその姿を見かけることはほとんどない、とも本には書かれていました。けれどここは大都市のなかの大都市、さらにその心臓部とも言える駅のなかです。ミシスは首をかしげずにはいられませんでした。
「へえ、僕らを見たことがないの、その歳で。よっぽど変わったところに住んでたんだね」
 ミシスは曖昧に返事をしました。
「僕のような変わり者のアトマだって、ここには少しくらいいるのさ。なにしろここはどんなことがあっても不思議じゃない、世に名だたる王都だからね。それはそうと、注文は決まったかい?」
 彼はこの店のウェイターだったのでした。三人はそれぞれに注文をしました。ハスキルはサンドイッチ、少女二人は野菜スープ付きの魚のフライを頼みました。
 注文をメモして厨房へ飛び去っていく後ろ姿を目で追いながら、ミシスは安堵の息を吐きました。
「あぁ、びっくりした……」
「ねえ、いきなりこんなこと訊くのもなんだけど」ハスキルが思案深げな面持ちでたずねます。「いったいどういった基準で、ミシスのなかに留まる記憶とそうでない記憶とが、分けられることになったのかしら? そこには、なにかこう、法則性みたいなものがあったりするのかしら?」
「法則性?」ミシスもまた眉を寄せます。「あぁ……そんなこと、今まで考えつきもしませんでした。でも、う〜ん……どうなんでしょう……」
「いや、ごめんごめん」ハスキルは申しわけなさそうに苦笑します。「せっかくの食事の時間に、考え込ませちゃって」
「とんでもない。気にかけてくださって、嬉しいです。わたしこれから、いろんな角度から自分のこと考えてみようって、改めて思いました。そうしたらいつか、なにか記憶を取り戻す手掛かりだって見つかるかもしれないし」
「そうそう!」ノエリィが力いっぱいうなずきました。「なんにせよ、

がいちばん大切なんだよ。思いだすのも大事なことだけど、これから新しい記憶をいっぱい増やしていくことの方が、もっともっと大事なんだから」
「う、うん。ありがとう、ノエリィ」少したじろぎながら、ミシスもまた大きくうなずきました。
「ふふふ。この子と一緒にいたら、あんまり深刻には生きていけないわよ、ミシス」ハスキルが微笑しました。
「それくらいの方が、わたしもちょうど良いです」ミシスも笑います。
 食後のコーヒーを飲む頃合になって、ミシスは砂糖壷とミルク差しに手を伸ばしました。するとそこへ先程のアトマ族の青年が飛んできて、顕術を使ってミルク差しを宙に浮かせ、その中身をゆっくりと真っ黒な液体のなかへ注いでくれました。
「これくらい?」
「あ、はい」
「砂糖は?」
「入れます」
「いくつ?」
「二つ」
 注文どおりに彼は顕術で壷のなかから角砂糖を二つ浮かせて、そのままカップのなかへ沈めました。ついでにスプーンも浮かせて、それも手を触れずに器用にかきまわすと、甘いミルクコーヒーを仕上げてくれました。
「さぁどうぞ、お嬢さん」彼は(うやうや)しくこうべを垂れます。「初めてアトマ族を見た記念に、とくべつサービスだ。どうか、これから余所(よそ)で僕の仲間を見かけた時には、優しくしてやっておくれ。アトマは人間を愛してる」
「ありがとう。きっとそうします」
 気の良いアトマ族の青年は羽をひるがえすと、ウィンクをして人々の頭上を飛び去っていきました。
「あんな気障(きざ)なアトマの人は初めて見たよ」ノエリィが呆れ気味につぶやきました。「さすが、王都は広いね」
 やがて三人が王都ヨアネスを離れる時刻がやって来ました。
 乗降場で待っていると、汽笛を鳴り響かせる機関車が大地の彼方から突進してきて、三人の目の前で停まりました。ミシスは列車を見た記憶も乗った記憶もなかったので、その迫力にすっかり仰天しました。停車した車両からぞろぞろと放出される人の多さにも肝を潰したし、それと入れ替わるようにして乗り込んでいく人の多さにも、やはり驚嘆しました。こんなにたくさんの人間が乗ってしまって、途中で底が抜けたりしないだろうか、ちゃんとまっすぐ走るんだろうかと、真剣に不安に思うほどでした。
 人波に押し流されるように車内へ入って個室席に着くと、ノエリィがすぐに窓を開けました。二人の少女はそこから半身を突き出して、外の風に顔をさらします。目の前にいくつものプラットホームと線路が並行して伸びています。それらの向こうには群衆で溢れる駅の出入り口、さらにその向こうには今しがた(あと)にしてきたばかりの王都の街並みがかいま見えます。
 緊張と興奮を噛みしめるミシスに、ノエリィが声をかけます。
「列車も初めて乗る感じ?」
「うん」
「わたし、列車って好きなんだ。車輪が立てる音とか汽笛の響きとか、走りながら揺れる感じとか、なんだかわくわくするの。それになんてったって、窓からの景色が素敵」
「さぁ、動きだすわよ。頭を引っ込めなさい」ハスキルが二人に呼びかけます。
 大気を裂く号令のような汽笛を轟かせて、三人を乗せた列車はエーレンガート母娘の故郷へ向けて走りだしました。はじめはゆっくり、そして徐々に速度を上げて、じわじわと王都を背後へ押しやっていきます。その喧騒が、輝きが、あっという間にに遠ざかっていきます。
 都市の郊外地域を抜け、のどかな田舎町をいくつか通過すると、いつしか窓の外の景色は白一色になってしまいました。ハスキルが説明するには、これからしばらくのあいだ、あたり一面なにもない砂漠が広がっているということでした。真っ白な砂に覆われる光景が次々と流れ去っていくのを、まるで遠い記憶を探るようにして、ミシスはじっと眺めました。けれども、やっぱり、なに一つ思いだすことができません。
 ミシスはちらりとハスキルの様子をうかがいました。でもそこには、平常どおりの穏やかな表情が浮かんでいるだけです。この砂漠のどこかでミシスが発見されたという事情は知っているはずですが、彼女は少女に対してなにもたずねたりはしません。少女もまた、自分からはなにも口には出しませんでした。
 砂ばかりでろくに目に留まるものがないからか、ずいぶん長いことその砂漠は続いたように感じられました。
 ようやく息詰まるような純白の世界が終わると、今度は対照的に、鮮やかな草原の景色が始まりました。新緑のまぶしい樹々や田園を目にして、列車の乗客たちも一斉に安堵の息をつきました。そのせいか、さっきまで夢中でお喋りをしていたノエリィは、いつしかうとうとしはじめ、そのまま寝入ってしまいました。ミシスがそっと腰を浮かせて、音を立てずに窓を閉めました。
「あなたも寝ていいのよ、ミシス」ハスキルが小声で言いました。
「いえ、とても眠ってなんかいられません」
「そう? ……ふふ、見て、この呑気な寝顔」母が両目を細めます。「この子ったら、あなたと初めて会った日から、あなたのことばっかり話すのよ。こう見えてけっこう人見知りするし、奥手な性質(たち)なんだけど……あなたとはよっぽど相性が良かったのね」
「わたしもノエリィと友達になれて、とても幸せです」
「ありがとう、ミシス。この子がここまで楽しそうにしてるのを見るのは、いつ以来かしら……」
「お礼を言うのはこちらの方です、先生。こんな、正体もなにもわからない世間知らずのわたしなんかを、受け入れてくださって。どうすればこの感謝をすっかりお伝えできるのか……」
「いい、ミシス」真正面から少女の瞳を見据えて、その細く白い手を自分の両手で握りしめながら、ハスキルは語りかけます。「あなたの正体は、

よ。そして、世間なんてものは、これからいくらでも知っていける。なにもかも、今ここから、始めていけばいいのよ」
「はい、先生」
 自分から人生をまるごと奪った運命の神様だかなんだかをずっと恨んできたけれど、今ではこの天使のような二人に引き逢わせてくれたことに対して、少女は心からの感謝の念を抱いていました。その感謝の気持ちは、自分と世界を呪う気持ちを、遥かに凌駕するものでした。
 そのうち、ハスキルも娘の隣で静かに寝息を立てはじめました。ミシスは母娘の寝顔を眺めながら、これからの人生はこの二人に捧げようと誓いを立てました。
 新天地となるタヒナータの町までは、もうしばらくかかります。車窓という額縁に飾られた移ろいゆく大地の景観を、風景画の連作を吟味する鑑賞者のように敬意を宿したまなざしで、少女はいつまでも眺め続けました。時折り思いだしたように鳴らされる汽笛の音を、新しい人生から贈られる祝砲のように感じながら。
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登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

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