28 時計は音もなく
文字数 6,494文字
「えっと、驚くことが多すぎて、どこから手をつけたらいいものやら……」
マノンとグリューを家に招き入れ、六人でお茶のテーブルを囲むことになった一行ですが、席に着くなり早速ハスキルが口火を切りました。
「まずは、あなたたちの乗ってきた、あの空飛ぶ船ね」
全員の注目を一身に浴びるマノンが、ティーカップを静かに持ち上げ、不敵な笑みを浮かべました。
「ふふん。驚いたでしょう、みんな」
「それはもう! まんまとあなたの予告どおりに、ね」
ハスキルが胸に手を当ててそう言うと、少女たちも大いに同調しました。
「いったいあれは、なんなのですか?」ピレシュが真剣なまなざしでたずねます。
「あれは、顕導力学の最新にして最高の成果の一つ、空を自在に飛行する船――その名も〈レジュイサンス〉だ」胸を張ってマノンが発表します。
「レ……レジュウ?」ノエリィが口をもごもごさせます。
「言いづらいだろ?」グリューが皮肉っぽく笑います。「だからおれたち下っ端は、単純に船とか方舟 とかって呼んでるよ」
「なんでだ。かっこいいだろう。レジュイサンス」マノンがじろりと青年を睨みます。
「そうですかねぇ」明後日 の方を向いて、グリューは顔を隠すようにカップを傾けます。
「あんなに大きくて重いものが、いったいどうやって飛ぶんですか?」窓の外の飛空船を横目で眺めながら、ミシスがたずねました。
「えっとね、ものすごく簡単に説明するとだね……」マノンが両手を上下に重ねて船の形を作ってみせます。「揚力を発生させる顕導力 装置で船体を浮かせて、空気の流れを操作するオールと推進装置を使って移動するんだよ」
「でもあれだけの重量を長時間浮かせるなんて、そんな動力をいったいどのようにして生み出すのですか?」ピレシュが身を乗り出して追求します。
「ほんと、いったいどうなってんだろうな」他人事のように言って、グリューが肩をすくめます。「おれだってまだ信じられないくらいだ。ほんの数年前まで、あんな大重量を飛ばすなんて絶対に不可能だって言われてたんだぜ。でも実現させちまったんだよなぁ、こちらにおわす御方 が」
ふんとマノンが鼻息を吹きました。
グリューが話を続けます。「あれを造るのに用いられた技術のすごさもさることながら、かかった費用もそりゃ大したもんだったよ。あれに積んである揚力装置の一基だけで、王都の一等地に家を10も20も建てられるくらいだ」
それを聞いてハスキルは人知れずごくりと喉を動かしましたが、三人の少女はその金額が具体的に想像できず、ただぽかんとするばかりです。
「ま、そんな野暮ったい話はどうでもいいよ。今はせっかくの休暇中なんだしさ。それよりハスキル先生、あの船のこと、気に入ってもらえましたか?」マノンが子供のように息を弾ませてたずねます。
「気に入るもなにも……あんな素晴らしいもの、これまで見たことも聞いたことも、想像さえしたこともないわ。本当に、心から感動させてもらいました」ハスキルが深々と息をつきます。
「うう。そう言っていただけると、がんばった甲斐があったってものです」
無邪気に喜ぶマノンの姿を、青年が興味深げに横から観察していました。それに気づいたマノンが、彼に鋭い視線を向けます。
「なんだい、助手くん。ずいぶんと愉快そうな顔をしているね」
「ええ、そりゃ面白いですよ。まさかこんなにまともに師匠のことを褒めてくれる人が、この世にいるなんてね。まさに感動的な光景ですよ」
ふうと嘆息して、マノンはすがるように恩師の手を取りました。
「そうなんですよ、先生。僕が優秀だからって、なんでもできて当然だからって、もう誰も僕のことちゃんと褒めてくれないんです」
「あらあら」ハスキルが可笑しそうに笑って、そっと手を握り返しました。「こんなにがんばってるのにね。大変なのねぇ、マノンちゃん」
「そうなんです。僕まだ22歳なんですよ。まだまだ褒められたいんだ」
「昔からマノンちゃんは、褒められて伸びる子だったものね」
「これ以上まだ伸びるんですか?」グリューが茶々を入れます。「ますます誰も近寄れなくなっちまいますよ」
「べつにいいよ。ハスキル先生さえいてくれたら。ね、先生?」
ハスキルはにっこりとほほえみました。その瞳に灯るのは、いつも娘たちに向けているのと少しもちがわない、慈愛に溢れた光でした。
「ええ、これからマノンちゃんがどんなに偉くなって、どこへ行ってどんなことをすることになっても、いつまでもあなたは私のかわいい教え子よ」
「せんせい……」マノンは本気で泣きだしそうな顔になってしまいました。
「ところで、グリューさん」ハスキルが青年に呼びかけます。「あなたはマノンちゃんとは長いの? ずいぶん気心の知れた仲みたいだけど」
「ええっと」青年は指を折って数えます。「だいたい三、四年といったところですかね。自分が師匠直属の部下になってから」
そこでマノンがグリューの肩に手を置きました。
「この助手くんはなかなか出来 が良いんですよ、先生。歳は僕とおなじなんだけど、ちゃんと従うべき人間の見極めができる賢明な子なんだ」
「そんな、おれを犬みたいに……」
ハスキルは微笑します。「あなたみたいな頼もしい人が近くにいてくれると、私も安心だわ。気取らないところも、マノンちゃんのお仲間にぴったり」
「とんでもない。おれの方こそ、毎日勉強させてもらってます」グリューが居ずまいを正して言いました。
「……それで、あのぉ」大人たちの会話をじっとして聴いていたノエリィが、律儀に挙手して発言しました。「グリューさんは、うちのミシスとは、いったいどのようなご関係で……?」
ミシスとグリューが同時に互いの顔を見あわせました。ミシスが軽くうなずくと、青年が口を開きました。
「最初にミシスを見つけて保護したのは、おれなんだ」
それを聞いたノエリィとピレシュは、さすがに仰天しました。
「そして」マノンが割って入りました。「ミシスの身許を引き受けてくれる場所を探しまわっていた助手くんが、ある日とつぜん僕に相談してきたのさ。どこかに安全で信頼できる受け入れ先がいないだろうか、ってね」
「まさか!」椅子を蹴飛ばす勢いでミシスが立ち上がりました。「じゃあマノンさんが、グリューにハスキル先生のことを紹介してくれたってことですか!?」
そういうこと、という具合にマノンがうなずきました。
「そういうこと」片目をつむって、グリューが声に出して言いました。
「……そんな! わたし、ぜんぜん知りませんでした」ミシスは迫るようにハスキルの方を振り向きます。「先生、教えてくださったらよかったのに!」
「だって、まさかマノンちゃんと再会できる日が来るなんて、夢にも思っていなかったからね。あなたにくわしい事情を話すきっかけもないまま、忙しく毎日が過ぎていっちゃってたの。でも、こうしてまたマノンちゃんと会える時が来るってわかってからは、この話をみんなの前で披露して驚かせちゃおうって、楽しみにしてたのよ」いじわるな笑みを浮かべてハスキルが白状しました。
「そんなぁ……」
釈然としない様子で立ち尽くすミシスの背中を、ノエリィがよしよしとさすりました。ゆっくりと席に戻ったミシスは、改まってマノンとグリューに頭を下げました。
「そんな経緯があったなんて、わたしちっとも知らずにいました。お二人のおかげで、わたしは今、心から幸せに暮らしています。本当に、ありがとうございました」
「どういたしまして」グリューが笑って片手を軽く振りました。
「グリュー、もう少し落ち着いたらあなたにお礼の手紙を出そうって、ずっと思ってたんだ。今日、直接お礼が言えて、ほんとに嬉しい」
「まさかまた会えるなんて、おれも思ってなかったさ」青年は指先で軽く鼻をこすります。「やっぱりあの時、思いきって師匠に相談してよかったよ。今のきみの様子を見て、すごくほっとした」
「僕もきみが幸福でいてくれて安心したよ」テーブルのうえで両手を組んで、マノンがミシスを感慨深げに見つめます。「それに、先生やみんなも、きみと一緒にいられてとても幸せそうだ。助手くんの話を信頼して、会ったこともないきみのことを一か八か先生に紹介したのは、どうやら大正解だったみたいだ。ね、みんな?」
ハスキルとノエリィの母娘、それに照れくさそうに口もとを手で隠していたピレシュも、それぞれにうなずいてこたえました。再び着席したミシスは、そのまま耳の先まで真っ赤にしてうつむいてしまいました。
「……あの」
膝に置いた手をぐっと握りしめて、決心したようにピレシュが声を発しました。そしてひたむきなまなざしを、客人たちに向けました。
「無理を承知で、お二人にお願いがあります。ほんの少しでいいので、あの船のなかを見学させていただけないでしょうか」
この唐突な申し出は、その場にいた全員にとって意外なものでしたが、当の二人の客人たちの驚きかただけは、少し目に見えて異様なものでした。
自分たちをもてなしてくれている人々の視線を一斉に浴 しながら、二人はそれまで見せたことのない険しい表情を一瞬浮かべて、互いにちらりと目配せしあいました。それからすぐに、取ってつけたような笑顔を各々作りました。
「すまない。それはできないんだ」グリューが努めて軽快に返答します。
「あれはね」マノンがなにげない口調で続きます。「まだ開発されたばかりのものだから、内部は機密情報でいっぱいなんだ」
「そうそう」グリューが補足します。「おれたち、これでも軍属だからね。いちおう、厳格な守秘義務ってやつがあるんだ」
「……そうですか」潔 く、ピレシュはすぐさま申し出を取り下げます。「わがままを言ってすみませんでした」
「いや、気にしないで。興味が湧くのもよくわかるからね。でもあの船は、今師匠が言ったとおり、できたてほやほやの新型でね。一般に向けた完成披露会も来週に予定されちゃいるんだが、いちおうまだ正式には存在自体が機密扱いの代物だからさ。……というか、そもそも、ここへこうしてあの船で立ち寄ることだって、そりゃもうめちゃくちゃに厳しい無理を押し通しての決断だったんだ」
「なぁにが無理だ」とつぜんマノンが怒気を込めて唸りました。「あの偏屈で意固地な長老たちが、とことん融通がきかないだけじゃないか。どんな問題も危険もないってどれだけ証明してみせても、なに一つすんなりと聞き入れようとしないんだから。これだから、お偉いさんやら軍人やらはいやなんだ。まったく、くだらないよ。いったい誰があの船を造ったと思ってるんだ」
「まあまあ、師匠」にわかに熱く震えだした肩に手を置いてなだめながら、青年が少女たちの方を向いて軽く頭を下げました。
「そういうわけだから、ごめん。外から見るだけにしてくれないか」
一般市民の四人は、黙ってうなずくよりほかありませんでした。
「お二人のほかに乗員はいらっしゃらないのですか?」静かに紅茶をすすって息を整えてから、ミシスがたずねました。
「警備兵が二人残ってるよ」マノンがクッキーを一口齧ってこたえます。「だから助手くんの言うとおり、見るだけにしてね。絶対に近づいちゃだめだよ」
「わかりました」
ミシスはその言葉に従いながらも、胸中では「兵」という言葉が、少し引っかかっていました。兵士を帯同するような物騒なものが、この家のすぐ目の前にあるんだ。そう思うと、なんだか急に怖くなりました。
ふと気になって、窓のずっと向こうの寮の方へ目を向けます。今は外出している寮生が多いため、そこにはほとんど生徒はいないはずですが、残っている数人は確実にあの飛空船の存在に気づいて、みんなで驚愕しつつ窓から眺めていることでしょう。晴れていたら見物に外へ出てきて、もしかしたら船に待機しているという警備兵たちと一悶着あったかもしれません。まともに外には出られないほどの雨が降っていて、都合がよかったのかもしれません。
それから直感的に、どこかからゲムじいさんもまたこの事態を見守ってくれているだろうと、ミシスは考えました。きっとあまりに異様な光景に、すっかり目を丸くしていることでしょう。
「ピレシュ、すまないね」マノンが苦笑します。「その代わりと言っちゃなんだけど、もし僕に質問したいことがあったら、なんでも訊いてよ。まだしばらくはゆっくりできそうだからさ」
「えっ」背筋をしゃんと伸ばして、ピレシュが頬を輝かせました。「よろしいのですか?」
「よかったねぇ、ピレシュ」ノエリィがくすっと笑います。
「ねえ二人とも。夕飯は食べていけないの?」ハスキルがたずねます。
客人たちは顔を見あわせ、同時に壁の時計を見あげると、やはり同時に無念そうに首を振りました。
「ほんとは一晩じゅうここでみんなと語り明かしたい。懐かしい校舎や寮だって、ゆっくり見てまわりたい。でも、どうしても今日のうちに王都に帰って報告しなくちゃいけないことがあって……」マノンが切なげに説明します。
「そっかぁ。あなたたちは本当に忙しいのね」ハスキルが心底から労うように言いました。「でも、わかったわ。それなら時間の許すかぎり、うちで存分にくつろいでいってちょうだい。私はこうして久しぶりにあなたの顔を見られただけでも、じゅうぶんに幸せだから」
「こちらの台詞です、先生」マノンは瞳をかすかに潤ませました。
この直後、新しいお湯を沸かそうと、一人で席を立ったミシスだけが、調理場の隅の静けさのなかに立って、ほんの小さな地響きのような音を耳にしていました。いえ、それはより正確に表現するなら、聴こえたというより、感じたというべきでしょう。
ふいに彼女は、窓の外へ目を向けます。
敵意をむき出しにした何者が、小石のたくさん入ったバケツをこちらへ向かって思いきりその中身をぶちまけてきたかのように、無数の雨粒が窓のガラスを猛烈に叩きました。その音の響きには、人の想いや願いなど露ほども考慮の内に入れてはくれない、大自然が本来持ってはいても普段はひた隠しにしているある種の無慈悲さのようなものが、含まれているように感じられました。
ミシスは一人離れた場所から、みんなの様子を眺めました。
ハスキルは焼きたてのパンみたいに温和な表情を浮かべて、ノエリィの話すことに耳を傾けています。
ノエリィはいつもの綿雲のような無邪気な顔で、グリューになにかをたずねています。
グリューはゆったりと椅子にもたれ、もぐもぐとケーキを頬張りながらノエリィの質問に聞き入っています。
ピレシュは純粋な輝きを両目いっぱいに湛えて、マノンの即席の講義を受けています。
マノンもまた未来の同僚候補に対して、身振りを交えつつ熱心になにかを語り聞かせています。
雨のせいで湿気はどうしようもないけれど、家のなかは暑くもなく寒くもなく、快適な温度に保たれています。
壁の時計は音もなく前へ前へと時を押し進めていきます。
ミシスの背後で火にかけられた薬缶 が、ことことと小気味のいい音を立てています。
外の雨はまだ容赦なく大地に侵攻しつづけています。通奏低音のように間断なく響く雨音が、この家と丘を全方位から取り囲んでいます。
今また、ミシスは体を一瞬だけかすかに揺らせるような地響きを感じました。
振り返って薬缶を見ます。だいぶ温まってきたようです。小さく、しゅうしゅうと音が鳴りはじめます。その音が発せられる注ぎ口を、少女はじっと見おろします。
今、また地響き。
それから一拍置いて、もう一度。
再びみんなの方に目を向けます。誰もがくつろいで、相変わらずの歓談に興じています。
自分がどうかしちゃったのかな、具合でも悪いのかな。そう思ったミシスは、身にまとう星柄の青いローブごと、自分の体をそっと抱きしめました。
次の瞬間、沸点に達した薬缶が金切り声を上げ、まるでそれを合図にしたかのように、今度はここにいる全員にはっきりと感じられる震動をともなって、どこか遠くの方で大きな爆発音が炸裂しました。
マノンとグリューを家に招き入れ、六人でお茶のテーブルを囲むことになった一行ですが、席に着くなり早速ハスキルが口火を切りました。
「まずは、あなたたちの乗ってきた、あの空飛ぶ船ね」
全員の注目を一身に浴びるマノンが、ティーカップを静かに持ち上げ、不敵な笑みを浮かべました。
「ふふん。驚いたでしょう、みんな」
「それはもう! まんまとあなたの予告どおりに、ね」
ハスキルが胸に手を当ててそう言うと、少女たちも大いに同調しました。
「いったいあれは、なんなのですか?」ピレシュが真剣なまなざしでたずねます。
「あれは、顕導力学の最新にして最高の成果の一つ、空を自在に飛行する船――その名も〈レジュイサンス〉だ」胸を張ってマノンが発表します。
「レ……レジュウ?」ノエリィが口をもごもごさせます。
「言いづらいだろ?」グリューが皮肉っぽく笑います。「だからおれたち下っ端は、単純に船とか
「なんでだ。かっこいいだろう。レジュイサンス」マノンがじろりと青年を睨みます。
「そうですかねぇ」
「あんなに大きくて重いものが、いったいどうやって飛ぶんですか?」窓の外の飛空船を横目で眺めながら、ミシスがたずねました。
「えっとね、ものすごく簡単に説明するとだね……」マノンが両手を上下に重ねて船の形を作ってみせます。「揚力を発生させる
「でもあれだけの重量を長時間浮かせるなんて、そんな動力をいったいどのようにして生み出すのですか?」ピレシュが身を乗り出して追求します。
「ほんと、いったいどうなってんだろうな」他人事のように言って、グリューが肩をすくめます。「おれだってまだ信じられないくらいだ。ほんの数年前まで、あんな大重量を飛ばすなんて絶対に不可能だって言われてたんだぜ。でも実現させちまったんだよなぁ、こちらにおわす
ふんとマノンが鼻息を吹きました。
グリューが話を続けます。「あれを造るのに用いられた技術のすごさもさることながら、かかった費用もそりゃ大したもんだったよ。あれに積んである揚力装置の一基だけで、王都の一等地に家を10も20も建てられるくらいだ」
それを聞いてハスキルは人知れずごくりと喉を動かしましたが、三人の少女はその金額が具体的に想像できず、ただぽかんとするばかりです。
「ま、そんな野暮ったい話はどうでもいいよ。今はせっかくの休暇中なんだしさ。それよりハスキル先生、あの船のこと、気に入ってもらえましたか?」マノンが子供のように息を弾ませてたずねます。
「気に入るもなにも……あんな素晴らしいもの、これまで見たことも聞いたことも、想像さえしたこともないわ。本当に、心から感動させてもらいました」ハスキルが深々と息をつきます。
「うう。そう言っていただけると、がんばった甲斐があったってものです」
無邪気に喜ぶマノンの姿を、青年が興味深げに横から観察していました。それに気づいたマノンが、彼に鋭い視線を向けます。
「なんだい、助手くん。ずいぶんと愉快そうな顔をしているね」
「ええ、そりゃ面白いですよ。まさかこんなにまともに師匠のことを褒めてくれる人が、この世にいるなんてね。まさに感動的な光景ですよ」
ふうと嘆息して、マノンはすがるように恩師の手を取りました。
「そうなんですよ、先生。僕が優秀だからって、なんでもできて当然だからって、もう誰も僕のことちゃんと褒めてくれないんです」
「あらあら」ハスキルが可笑しそうに笑って、そっと手を握り返しました。「こんなにがんばってるのにね。大変なのねぇ、マノンちゃん」
「そうなんです。僕まだ22歳なんですよ。まだまだ褒められたいんだ」
「昔からマノンちゃんは、褒められて伸びる子だったものね」
「これ以上まだ伸びるんですか?」グリューが茶々を入れます。「ますます誰も近寄れなくなっちまいますよ」
「べつにいいよ。ハスキル先生さえいてくれたら。ね、先生?」
ハスキルはにっこりとほほえみました。その瞳に灯るのは、いつも娘たちに向けているのと少しもちがわない、慈愛に溢れた光でした。
「ええ、これからマノンちゃんがどんなに偉くなって、どこへ行ってどんなことをすることになっても、いつまでもあなたは私のかわいい教え子よ」
「せんせい……」マノンは本気で泣きだしそうな顔になってしまいました。
「ところで、グリューさん」ハスキルが青年に呼びかけます。「あなたはマノンちゃんとは長いの? ずいぶん気心の知れた仲みたいだけど」
「ええっと」青年は指を折って数えます。「だいたい三、四年といったところですかね。自分が師匠直属の部下になってから」
そこでマノンがグリューの肩に手を置きました。
「この助手くんはなかなか
「そんな、おれを犬みたいに……」
ハスキルは微笑します。「あなたみたいな頼もしい人が近くにいてくれると、私も安心だわ。気取らないところも、マノンちゃんのお仲間にぴったり」
「とんでもない。おれの方こそ、毎日勉強させてもらってます」グリューが居ずまいを正して言いました。
「……それで、あのぉ」大人たちの会話をじっとして聴いていたノエリィが、律儀に挙手して発言しました。「グリューさんは、うちのミシスとは、いったいどのようなご関係で……?」
ミシスとグリューが同時に互いの顔を見あわせました。ミシスが軽くうなずくと、青年が口を開きました。
「最初にミシスを見つけて保護したのは、おれなんだ」
それを聞いたノエリィとピレシュは、さすがに仰天しました。
「そして」マノンが割って入りました。「ミシスの身許を引き受けてくれる場所を探しまわっていた助手くんが、ある日とつぜん僕に相談してきたのさ。どこかに安全で信頼できる受け入れ先がいないだろうか、ってね」
「まさか!」椅子を蹴飛ばす勢いでミシスが立ち上がりました。「じゃあマノンさんが、グリューにハスキル先生のことを紹介してくれたってことですか!?」
そういうこと、という具合にマノンがうなずきました。
「そういうこと」片目をつむって、グリューが声に出して言いました。
「……そんな! わたし、ぜんぜん知りませんでした」ミシスは迫るようにハスキルの方を振り向きます。「先生、教えてくださったらよかったのに!」
「だって、まさかマノンちゃんと再会できる日が来るなんて、夢にも思っていなかったからね。あなたにくわしい事情を話すきっかけもないまま、忙しく毎日が過ぎていっちゃってたの。でも、こうしてまたマノンちゃんと会える時が来るってわかってからは、この話をみんなの前で披露して驚かせちゃおうって、楽しみにしてたのよ」いじわるな笑みを浮かべてハスキルが白状しました。
「そんなぁ……」
釈然としない様子で立ち尽くすミシスの背中を、ノエリィがよしよしとさすりました。ゆっくりと席に戻ったミシスは、改まってマノンとグリューに頭を下げました。
「そんな経緯があったなんて、わたしちっとも知らずにいました。お二人のおかげで、わたしは今、心から幸せに暮らしています。本当に、ありがとうございました」
「どういたしまして」グリューが笑って片手を軽く振りました。
「グリュー、もう少し落ち着いたらあなたにお礼の手紙を出そうって、ずっと思ってたんだ。今日、直接お礼が言えて、ほんとに嬉しい」
「まさかまた会えるなんて、おれも思ってなかったさ」青年は指先で軽く鼻をこすります。「やっぱりあの時、思いきって師匠に相談してよかったよ。今のきみの様子を見て、すごくほっとした」
「僕もきみが幸福でいてくれて安心したよ」テーブルのうえで両手を組んで、マノンがミシスを感慨深げに見つめます。「それに、先生やみんなも、きみと一緒にいられてとても幸せそうだ。助手くんの話を信頼して、会ったこともないきみのことを一か八か先生に紹介したのは、どうやら大正解だったみたいだ。ね、みんな?」
ハスキルとノエリィの母娘、それに照れくさそうに口もとを手で隠していたピレシュも、それぞれにうなずいてこたえました。再び着席したミシスは、そのまま耳の先まで真っ赤にしてうつむいてしまいました。
「……あの」
膝に置いた手をぐっと握りしめて、決心したようにピレシュが声を発しました。そしてひたむきなまなざしを、客人たちに向けました。
「無理を承知で、お二人にお願いがあります。ほんの少しでいいので、あの船のなかを見学させていただけないでしょうか」
この唐突な申し出は、その場にいた全員にとって意外なものでしたが、当の二人の客人たちの驚きかただけは、少し目に見えて異様なものでした。
自分たちをもてなしてくれている人々の視線を一斉に
「すまない。それはできないんだ」グリューが努めて軽快に返答します。
「あれはね」マノンがなにげない口調で続きます。「まだ開発されたばかりのものだから、内部は機密情報でいっぱいなんだ」
「そうそう」グリューが補足します。「おれたち、これでも軍属だからね。いちおう、厳格な守秘義務ってやつがあるんだ」
「……そうですか」
「いや、気にしないで。興味が湧くのもよくわかるからね。でもあの船は、今師匠が言ったとおり、できたてほやほやの新型でね。一般に向けた完成披露会も来週に予定されちゃいるんだが、いちおうまだ正式には存在自体が機密扱いの代物だからさ。……というか、そもそも、ここへこうしてあの船で立ち寄ることだって、そりゃもうめちゃくちゃに厳しい無理を押し通しての決断だったんだ」
「なぁにが無理だ」とつぜんマノンが怒気を込めて唸りました。「あの偏屈で意固地な長老たちが、とことん融通がきかないだけじゃないか。どんな問題も危険もないってどれだけ証明してみせても、なに一つすんなりと聞き入れようとしないんだから。これだから、お偉いさんやら軍人やらはいやなんだ。まったく、くだらないよ。いったい誰があの船を造ったと思ってるんだ」
「まあまあ、師匠」にわかに熱く震えだした肩に手を置いてなだめながら、青年が少女たちの方を向いて軽く頭を下げました。
「そういうわけだから、ごめん。外から見るだけにしてくれないか」
一般市民の四人は、黙ってうなずくよりほかありませんでした。
「お二人のほかに乗員はいらっしゃらないのですか?」静かに紅茶をすすって息を整えてから、ミシスがたずねました。
「警備兵が二人残ってるよ」マノンがクッキーを一口齧ってこたえます。「だから助手くんの言うとおり、見るだけにしてね。絶対に近づいちゃだめだよ」
「わかりました」
ミシスはその言葉に従いながらも、胸中では「兵」という言葉が、少し引っかかっていました。兵士を帯同するような物騒なものが、この家のすぐ目の前にあるんだ。そう思うと、なんだか急に怖くなりました。
ふと気になって、窓のずっと向こうの寮の方へ目を向けます。今は外出している寮生が多いため、そこにはほとんど生徒はいないはずですが、残っている数人は確実にあの飛空船の存在に気づいて、みんなで驚愕しつつ窓から眺めていることでしょう。晴れていたら見物に外へ出てきて、もしかしたら船に待機しているという警備兵たちと一悶着あったかもしれません。まともに外には出られないほどの雨が降っていて、都合がよかったのかもしれません。
それから直感的に、どこかからゲムじいさんもまたこの事態を見守ってくれているだろうと、ミシスは考えました。きっとあまりに異様な光景に、すっかり目を丸くしていることでしょう。
「ピレシュ、すまないね」マノンが苦笑します。「その代わりと言っちゃなんだけど、もし僕に質問したいことがあったら、なんでも訊いてよ。まだしばらくはゆっくりできそうだからさ」
「えっ」背筋をしゃんと伸ばして、ピレシュが頬を輝かせました。「よろしいのですか?」
「よかったねぇ、ピレシュ」ノエリィがくすっと笑います。
「ねえ二人とも。夕飯は食べていけないの?」ハスキルがたずねます。
客人たちは顔を見あわせ、同時に壁の時計を見あげると、やはり同時に無念そうに首を振りました。
「ほんとは一晩じゅうここでみんなと語り明かしたい。懐かしい校舎や寮だって、ゆっくり見てまわりたい。でも、どうしても今日のうちに王都に帰って報告しなくちゃいけないことがあって……」マノンが切なげに説明します。
「そっかぁ。あなたたちは本当に忙しいのね」ハスキルが心底から労うように言いました。「でも、わかったわ。それなら時間の許すかぎり、うちで存分にくつろいでいってちょうだい。私はこうして久しぶりにあなたの顔を見られただけでも、じゅうぶんに幸せだから」
「こちらの台詞です、先生」マノンは瞳をかすかに潤ませました。
この直後、新しいお湯を沸かそうと、一人で席を立ったミシスだけが、調理場の隅の静けさのなかに立って、ほんの小さな地響きのような音を耳にしていました。いえ、それはより正確に表現するなら、聴こえたというより、感じたというべきでしょう。
ふいに彼女は、窓の外へ目を向けます。
敵意をむき出しにした何者が、小石のたくさん入ったバケツをこちらへ向かって思いきりその中身をぶちまけてきたかのように、無数の雨粒が窓のガラスを猛烈に叩きました。その音の響きには、人の想いや願いなど露ほども考慮の内に入れてはくれない、大自然が本来持ってはいても普段はひた隠しにしているある種の無慈悲さのようなものが、含まれているように感じられました。
ミシスは一人離れた場所から、みんなの様子を眺めました。
ハスキルは焼きたてのパンみたいに温和な表情を浮かべて、ノエリィの話すことに耳を傾けています。
ノエリィはいつもの綿雲のような無邪気な顔で、グリューになにかをたずねています。
グリューはゆったりと椅子にもたれ、もぐもぐとケーキを頬張りながらノエリィの質問に聞き入っています。
ピレシュは純粋な輝きを両目いっぱいに湛えて、マノンの即席の講義を受けています。
マノンもまた未来の同僚候補に対して、身振りを交えつつ熱心になにかを語り聞かせています。
雨のせいで湿気はどうしようもないけれど、家のなかは暑くもなく寒くもなく、快適な温度に保たれています。
壁の時計は音もなく前へ前へと時を押し進めていきます。
ミシスの背後で火にかけられた
外の雨はまだ容赦なく大地に侵攻しつづけています。通奏低音のように間断なく響く雨音が、この家と丘を全方位から取り囲んでいます。
今また、ミシスは体を一瞬だけかすかに揺らせるような地響きを感じました。
振り返って薬缶を見ます。だいぶ温まってきたようです。小さく、しゅうしゅうと音が鳴りはじめます。その音が発せられる注ぎ口を、少女はじっと見おろします。
今、また地響き。
それから一拍置いて、もう一度。
再びみんなの方に目を向けます。誰もがくつろいで、相変わらずの歓談に興じています。
自分がどうかしちゃったのかな、具合でも悪いのかな。そう思ったミシスは、身にまとう星柄の青いローブごと、自分の体をそっと抱きしめました。
次の瞬間、沸点に達した薬缶が金切り声を上げ、まるでそれを合図にしたかのように、今度はここにいる全員にはっきりと感じられる震動をともなって、どこか遠くの方で大きな爆発音が炸裂しました。
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