29 鐘の音
文字数 6,212文字
ノエリィが小さく悲鳴を上げ、身をかがめるような動きをしました。他のみんなも一斉に口を閉ざして、互いの顔を見あわせます。マノンとグリューがすぐさま顔つきを変えて、さっと席を立ちました。
「い、今のなに?」ノエリィが誰にともなくたずねます。
「地震かしら」ハスキルが眉をひそめます。
「それにしては短かったような……」ピレシュが首をひねります。
ミシスは火を止めて薬缶を置いたままテーブルの方へ戻りました。
直後、また立て続けに二度の爆発音と、不気味な震動が伝わってきました。
全員のあいだに鋭い緊張が走ります。
その少しあと、玄関の方からほんの小さなノックのような音が聴こえました。そしてそれと同時にゆっくりと玄関のドアのノブが回り、誰かが家のなかに侵入してきました。
「お邪魔しま~す」
甘く透きとおるような声で脳天気にそう言った新たな訪問者は、アトマ族の少女でした。
彼女はゆるやかに波打つライムグリーンの長い髪を頭の左右両脇に分けて結び、純白のサマードレスのような衣装を身に着けています。顔立ちはまさに人形のように美しく可憐で、その四肢は小枝のようにほっそりとしています。
蝶さながらにひらひらと羽を揺らせて居間に入ってきた彼女の姿に、一同の視線が集まりました。
「なんだ、レスコーリア。目が覚めたのかい」マノンが呼びかけました。
「うん。だってさっきからうるさいんだもん」
ぐっと背伸びをしてあくびを一つすると、レスコーリアと呼ばれたアトマ族の少女は気怠 そうにこたえました。
「これはまた、かわいらしいお客様ね」ハスキルが声に明るさを取り戻して言いました。「マノンちゃんたちのお連れさま?」
マノンがうなずきます。「この子の名前はレスコーリア。見てのとおりのアトマ族で、僕の十年来の相棒だよ。さぁ、みんなにご挨拶して」
空中でくるりと華麗に一回転して、レスコーリアが丁寧なお辞儀をしました。
「ご紹介にあずかったレスコーリアよ。勝手に入ってきてごめんなさい。みなさん、どうぞよろしくね。……っていうかマノン、いじわるね」
「どうしてさ?」マノンが心外そうに眉を吊りあげます。
「なんで起こしてくんなかったのよ」
「だって昼寝を邪魔したらものすごく機嫌わるくするじゃないか、きみは」
心当たりが大いにあるのか、グリューがその指摘に対して無言の同調を示します。
「ふん。ま、いいわ。あら、おいしそうなお菓子ね」テーブルの上空から色とりどりのクッキーやケーキを見渡して、空飛ぶ少女が手を叩きます。「一ついただいてもいいかしら?」
「一つと言わず、いくらでもどうぞ」ハスキルがにこやかに勧めます。
「今、お茶も淹れますね」
アトマ族の人に合うカップって、なにか代用できるものがあったかな、と考えを巡らせつつミシスが席を立ちました。
マノンが険しい表情でレスコーリアに向き直ります。
「レジュイサンスの方は?」
「兵士たちが第二種警戒態勢に入ったわ。今の物騒な音を聴いて」
うなずくと、今度は助手の青年にたずねます。
「方角は?」
すでにグリューは窓のそばに立っていました。「おそらく、北東ですね」
それを耳にした瞬間、マノンがはっと顔を上げて、さらに問いました。
「星灰宮が見えるかい、そこから」
「今、確認中……。いやしかし、ひどい雨だな」
窓のガラスをシャツの袖でこすり、そこに眉の中心を押し当てるようにして、青年は目を凝らします。その背中を、テーブルの隅に座ってクッキーにかぶりついているレスコーリア以外の全員が、じっと見つめています。
直後、今まででいちばん大きくて激しい爆発音が轟いたかと思うと、グリューが固唾を呑むようにつぶやきました。
「ビンゴ」
みんなが彼のもとへ駆け寄り、雨に煙る峰の頂点に座す星灰宮を見あげました。
「どういうこと……?」ノエリィが慄 きの息を吐きました。
星灰宮の敷地の奥まったあたりから、この土砂降りにも屈することなく、一筋の黒煙が重力に逆らって立ち昇っていました。
不吉な予感が、まるで床下からの浸水のようにじわじわと、この静かな家のなかに染み広がっていきました。
さっと身をひるがえすと、マノンがハスキルの正面に踊り出ました。
「先生、ごめんなさい。僕たち、今すぐここを離れなくちゃいけません」
「えっ」目を点にするハスキルのその頬は、うっすらと青ざめています。「離れるって、どういうこと? ねぇ、いったいなにが起こってるの?」
ミシスとノエリィとピレシュの三人は、自然とそれぞれの身を寄り添わせ、互いの腕をつかみあって沈黙しています。
ため息をつきながらマノンが首を振りました。
「僕にもわかりません。でも、なにか面倒なことがあそこで持ち上がっているのはまちがいないでしょう」
「師匠」張り詰めた声で背後からグリューが呼びかけます。
それに対してマノンは苛立たしげにうなずき、上着の内ポケットから、手のひらに収まるほどの大きさの楕円形の板切れのような物を取り出しました。そしてそれになにかの操作を加えると、板切れの表面 を耳に当てて簡潔に言葉を発しました。
「僕だ。今からそっちに戻る。発進の準備を頼む」
どうやらそれは携帯型の鉱晶伝話器のようでした。話し相手は、飛空船内に待機しているという警備兵でまちがいなさそうです。
クッキーを食べ終えてちょっとお腹の膨らんだレスコーリアが、再び宙に舞い上がって、遠慮なしにグリューの頭の上に座りました。
マノンが振り返り、その二人に目で合図をします。そして唐突に床にひざまずいて、恩師を抱擁しました。
「ハスキル先生。本当に、今日はお会いできて幸福でした。ごめんなさい、僕、行かなくちゃ」
「マノンちゃん……?」
ハスキルが震える声をもらしたその瞬間、食堂の壁に設置されている鉱晶ラジオ機器が、なんの前触れもなしに鳴りだしました。
それもやはり遠方からの音声を受信する装置の一種ですが、こちらは伝話器とちがってすでに一般に普及していました。伝話器が相互通信であるのに対し、こちらは単に受信するだけなので、製造に際して用いられる技術が比較的単純で、費用もそれほどかからないためです。
とはいえ、それは使用者が意図的に受信しようとしないかぎり、本来なら勝手に音声を発することはないもの。それがひとりでに鳴りはじめたからこそ、一挙にこの場にいる全員の背筋を冷たいものが駆け抜けたのでした。
ラジオは厳かな、ほとんど威圧的とさえ言えるほど深く重い鐘の音を、執拗に何度も何度も打ち鳴らしました。
その音は、まさにそう言っているようでした。
「なんなの……?」ノエリィがミシスとピレシュにしがみつくようにしてつぶやきました。
ふいに鐘の音がやむと、耳に痛いほどの無音を一分間ほど挟んでから、極めて静かに穏やかに、何者かが口を開きました。それはしゃがれていはいるけれど朗々としていてよく通る、成熟した男性の声でした。
「私はコランダム軍の将軍、ゼーバルト・クラナッハである。親愛なる大陸全土の住人のみなさん、とつぜんの一方的な放送を、どうかお許しいただきたい」
「ゼーバルト?」ハスキルがはっと両目を見開いて、その名を口にしました。
ゼーバルトと名乗る男は続けます。
「今、この放送を耳にしているあなたが、どのような立場にある人間であっても――そう、平民であろうと軍人であろうと、無論国王であろうとも――私がこれから話すことを、しっかりと耳を澄ませて聴き、そして心に留めてほしい。くり返すが、この放送は大陸全土へ向けて発信されている。誰一人として、無関係な者はいない」
そう語る声には、ためらいや不安定な響きが微塵も含まれていません。それがどこまでも強硬で、なにものをも切り裂く刃のように鋭い覚悟が込められたものであることが、誰の耳にも明らかでした。
エーレンガート家に集う面々が物音一つ立てずに聞き耳を立てるなか、ゼーバルトは滔々 と語りはじめました。
「先の〈巨兵大戦〉の勝者たるホルンフェルス王国が大陸の覇権を掌握して、早13年の歳月が経過した。敗戦国となった、かつては各地で栄華を誇っていた歴史ある数多の国々は、私の故郷であるコランダム公国も含め、そのすべての統治権をホルンフェルス国王一人の手に握られることとなった。戦後、王国は博愛平等の理念を掲げ、文明のさらなる発展と、この神に愛されし偉大なる大地の平和を実現していくことを、全世界に向かって誓ったはずだった」
雷雨が一向に鎮まる気配を見せないなか、グリューが数歩進み出て、ラジオの音量を最大にしました。
「しかし」ゼーバルトは鉈 を振りおろすように語気を強めました。「実際に我々が目にしているのは、博愛とは程遠い現状ばかり。科学開発の恩恵は王都の一所 ばかりに集中し、その技術や利権は独占され、資源さえもかつての敗戦国である各統治領には満足に流通、保有を許さない始末。富も繁栄も、結局は王都だけが牛耳り、他地域との経済的、文化的な格差は、もはやこれ以上開きようがないところまで来ている。これではまるで、王都のみが王国であると言っているようなものではないか。王都の外にあるのは、切って捨てるほどの価値しかない、いわば属国や植民地のようなものだと、為政者である国王自らが宣言しているようなものだ。……そして、この事態に関して深く憂慮しているのは、私だけではないと確信しているが」
ここで短い息継ぎが行われました。やや間を置いて、少し落ち着きを取り戻した調子で、話が再開されます。
「……私が生まれ育った国、コランダム公国は、豊かな森に抱かれた美しい国です。だが今や年々、その森も彼方から侵略してくる慈悲なき白砂に蝕 まれつつあります。皆さんご存知のとおり、これはアリアナイトの乱獲を原因として引き起こされる、源素イーノの調和の崩壊が原因となっています。お気づきのかたも多いと思います。ホルンフェルス王国の統治時代が始まって以来、急速な科学技術の進歩に比例して、大陸各地で劇的に砂漠化が進行しているということを」
ミシスだけでなく、その白砂の光景を目にしたことのある多くの人々の胸に、なにかぐさりと刺さるものがありました。
「この事実に心を痛めているのは私だけではないはずだ。必要性のない行き過ぎた開発のために、これ以上、母なる大地を穢 れさせてはならない。過剰に贅 を尽くした工業製品や強力な軍事兵器を際限なく生み出し、圧倒的な経済力と武力を独占することで大陸全土を支配している、まさに博愛平等の真逆の道を往 く王国の暴挙に、誰かがこのあたりで否 を叫ばなければならない」
それを聴いた瞬間、ハスキルがなにもかもを悟ったように、あぁぁぁと力なく長い息を吐いて、椅子に深く沈み込みました。そこに背後からマノンが近づいて、まるで幼児に対してするように、両腕で恩師の体を抱きしめました。ノエリィは初めて耳にする母のそんな恐ろしい声を耳にして、思わず両目に涙を滲ませました。
ゼーバルトの決意に満ちた言葉は止まりません。
「よく聴いてほしい。私は今、かつてコランダム公国の中枢が置かれていた星灰宮と呼ばれる場所から、この放送をおこなっている」
少女たち三人はこわごわと顎を上げて、彼方の山頂で黒煙を吐き出しているその現場に目をやりました。
「そして、この私の目の前に、国王の権能を委任された諮問機関〈調律師団〉の、当地を管轄してきた代表者がいる」
ミシスたちはその組織の名を耳にして、あの川沿いのレストランで見かけた尊大な中年男の姿を思いださずにはいられませんでした。もしかしてあの人のことだろうか、とミシスは想像します。たぶん、きっと、そうかもしれない。だって、ずいぶん偉そうだったもの。
「……この男が現在どのような姿でここにいるか、皆さんにお見せできないのが残念だ」
ふいに口をついて出てしまったひとりごとのようなその一言をきっかけに、それまでにはなかった異様な冷笑の気配が、ゼーバルトの声の表面に顔をのぞかせはじめました。それはまるで、長いあいだ蓄積されてきた憎悪がついにそれ自体の自由意思を持つに至り、宿主 の皮膚の外へ勝手に噴き出してきたものであるように感じられました。
ふと、ミシスの頭のなかで、あの店での騒動の時に痛烈な嫌悪感を示したピレシュの表情が、思い返されました。
気になって、隣にいる彼女の顔をちらりとうかがうと、やはり今もまた、その瞳のなかに鋭い軽蔑の影が迸っているのが見てとれました。唇はなにかに耐えるようにきつく結ばれ、その下の細い喉が一度ぐっと上下に動き、ミシスの腕に触れていた手は石のように硬く握りしめられて、熱をはらんだ拳へと変化していきました。
思わず身震いしたミシスは、自分と身を寄せあっている二人の友の体を、まるで押し寄せる大波にさらわせまいとするかのように、強く力を込めて抱き寄せました。
嘲笑を押し殺しつつ、ゼーバルトは続けます。
「この男は、いわば国王の分身の一人でありながら、十数年に渡って私腹を肥やすことにのみ専心 し、その見返りとして、いとも容易 く中央の重要機密や技術情報を我々に提供し続けてくれた、実に親切な男です。しかしその一方で、代理王権の方もしっかりと笠に着 続け、このコランダム領を実質運営する我々を存分に足蹴にもしてきた、極めて卑劣な男でもあります。まさに現国王の分身というにふさわしい、背徳ぶりと言える」
次の瞬間、演説をするゼーバルトのすぐ近くで、かすかな物音と人間のうめき声のようなものが聴こえたように思えました。しかしまたすぐに静かになりました。
「はっきり申し上げましょう。この星灰宮に駐留していた調律師団の武力は、我々の手によって完全に無力化された」
ああ、だからもう爆発音はしなくなったんだ。ミシスは麻痺しつつある脳味噌で、ぼんやりと考えました。なにもかもが、非現実的な、絵物語のなかの出来事のように感じられます。
「共にこの大地に暮らす、腐敗した権力からの脱却を志す同胞たちよ。虐げられし祖国の歴史と栄光の復興を願う友人たちよ。この私、新生コランダム軍の首長たるゼーバルト・クラナッハに続け。今こそ声を上げる時だ。そして我々と意志をおなじくする力なき者たちよ、私のもとへ集え。私が諸君らの刃となり、城となろう」
言葉にならない声で、ノエリィがミシスの耳もとでなにかをささやきました。それがどういう言葉だったのか、まったく聴き取ることはできなかったけれど、ミシスはそのままノエリィの頬に自分の頬を押し当てて、その肩をぎゅっと抱きしめました。
最後にゼーバルトが告げました。
「本日この時をもって、我々はホルンフェルス国王の支配体制から永久に離脱することを表明する。そしてここに、我らが新国家の独立を宣言するものである。私のもとにはすでに数万の兵士と、百の巨兵が集結している。誤解なきよう述べるが、これは宣戦布告ではない。我々の力は平和秩序と万人を守るためにあるのであり、傷つけるためにあるのではない。無用な争いと破壊を、我々は決して是認しない。だがもしも我々に挑戦する者、我々の自由を阻害する者があるなら、たとえそれがどのような相手であろうと、我々は徹底的にこれを打破する所存である」
「い、今のなに?」ノエリィが誰にともなくたずねます。
「地震かしら」ハスキルが眉をひそめます。
「それにしては短かったような……」ピレシュが首をひねります。
ミシスは火を止めて薬缶を置いたままテーブルの方へ戻りました。
直後、また立て続けに二度の爆発音と、不気味な震動が伝わってきました。
全員のあいだに鋭い緊張が走ります。
その少しあと、玄関の方からほんの小さなノックのような音が聴こえました。そしてそれと同時にゆっくりと玄関のドアのノブが回り、誰かが家のなかに侵入してきました。
「お邪魔しま~す」
甘く透きとおるような声で脳天気にそう言った新たな訪問者は、アトマ族の少女でした。
彼女はゆるやかに波打つライムグリーンの長い髪を頭の左右両脇に分けて結び、純白のサマードレスのような衣装を身に着けています。顔立ちはまさに人形のように美しく可憐で、その四肢は小枝のようにほっそりとしています。
蝶さながらにひらひらと羽を揺らせて居間に入ってきた彼女の姿に、一同の視線が集まりました。
「なんだ、レスコーリア。目が覚めたのかい」マノンが呼びかけました。
「うん。だってさっきからうるさいんだもん」
ぐっと背伸びをしてあくびを一つすると、レスコーリアと呼ばれたアトマ族の少女は
「これはまた、かわいらしいお客様ね」ハスキルが声に明るさを取り戻して言いました。「マノンちゃんたちのお連れさま?」
マノンがうなずきます。「この子の名前はレスコーリア。見てのとおりのアトマ族で、僕の十年来の相棒だよ。さぁ、みんなにご挨拶して」
空中でくるりと華麗に一回転して、レスコーリアが丁寧なお辞儀をしました。
「ご紹介にあずかったレスコーリアよ。勝手に入ってきてごめんなさい。みなさん、どうぞよろしくね。……っていうかマノン、いじわるね」
「どうしてさ?」マノンが心外そうに眉を吊りあげます。
「なんで起こしてくんなかったのよ」
「だって昼寝を邪魔したらものすごく機嫌わるくするじゃないか、きみは」
心当たりが大いにあるのか、グリューがその指摘に対して無言の同調を示します。
「ふん。ま、いいわ。あら、おいしそうなお菓子ね」テーブルの上空から色とりどりのクッキーやケーキを見渡して、空飛ぶ少女が手を叩きます。「一ついただいてもいいかしら?」
「一つと言わず、いくらでもどうぞ」ハスキルがにこやかに勧めます。
「今、お茶も淹れますね」
アトマ族の人に合うカップって、なにか代用できるものがあったかな、と考えを巡らせつつミシスが席を立ちました。
マノンが険しい表情でレスコーリアに向き直ります。
「レジュイサンスの方は?」
「兵士たちが第二種警戒態勢に入ったわ。今の物騒な音を聴いて」
うなずくと、今度は助手の青年にたずねます。
「方角は?」
すでにグリューは窓のそばに立っていました。「おそらく、北東ですね」
それを耳にした瞬間、マノンがはっと顔を上げて、さらに問いました。
「星灰宮が見えるかい、そこから」
「今、確認中……。いやしかし、ひどい雨だな」
窓のガラスをシャツの袖でこすり、そこに眉の中心を押し当てるようにして、青年は目を凝らします。その背中を、テーブルの隅に座ってクッキーにかぶりついているレスコーリア以外の全員が、じっと見つめています。
直後、今まででいちばん大きくて激しい爆発音が轟いたかと思うと、グリューが固唾を呑むようにつぶやきました。
「ビンゴ」
みんなが彼のもとへ駆け寄り、雨に煙る峰の頂点に座す星灰宮を見あげました。
「どういうこと……?」ノエリィが
星灰宮の敷地の奥まったあたりから、この土砂降りにも屈することなく、一筋の黒煙が重力に逆らって立ち昇っていました。
不吉な予感が、まるで床下からの浸水のようにじわじわと、この静かな家のなかに染み広がっていきました。
さっと身をひるがえすと、マノンがハスキルの正面に踊り出ました。
「先生、ごめんなさい。僕たち、今すぐここを離れなくちゃいけません」
「えっ」目を点にするハスキルのその頬は、うっすらと青ざめています。「離れるって、どういうこと? ねぇ、いったいなにが起こってるの?」
ミシスとノエリィとピレシュの三人は、自然とそれぞれの身を寄り添わせ、互いの腕をつかみあって沈黙しています。
ため息をつきながらマノンが首を振りました。
「僕にもわかりません。でも、なにか面倒なことがあそこで持ち上がっているのはまちがいないでしょう」
「師匠」張り詰めた声で背後からグリューが呼びかけます。
それに対してマノンは苛立たしげにうなずき、上着の内ポケットから、手のひらに収まるほどの大きさの楕円形の板切れのような物を取り出しました。そしてそれになにかの操作を加えると、板切れの
「僕だ。今からそっちに戻る。発進の準備を頼む」
どうやらそれは携帯型の鉱晶伝話器のようでした。話し相手は、飛空船内に待機しているという警備兵でまちがいなさそうです。
クッキーを食べ終えてちょっとお腹の膨らんだレスコーリアが、再び宙に舞い上がって、遠慮なしにグリューの頭の上に座りました。
マノンが振り返り、その二人に目で合図をします。そして唐突に床にひざまずいて、恩師を抱擁しました。
「ハスキル先生。本当に、今日はお会いできて幸福でした。ごめんなさい、僕、行かなくちゃ」
「マノンちゃん……?」
ハスキルが震える声をもらしたその瞬間、食堂の壁に設置されている鉱晶ラジオ機器が、なんの前触れもなしに鳴りだしました。
それもやはり遠方からの音声を受信する装置の一種ですが、こちらは伝話器とちがってすでに一般に普及していました。伝話器が相互通信であるのに対し、こちらは単に受信するだけなので、製造に際して用いられる技術が比較的単純で、費用もそれほどかからないためです。
とはいえ、それは使用者が意図的に受信しようとしないかぎり、本来なら勝手に音声を発することはないもの。それがひとりでに鳴りはじめたからこそ、一挙にこの場にいる全員の背筋を冷たいものが駆け抜けたのでした。
ラジオは厳かな、ほとんど威圧的とさえ言えるほど深く重い鐘の音を、執拗に何度も何度も打ち鳴らしました。
こっちを見ろ
。これから言うことをよく聴け
。その音は、まさにそう言っているようでした。
「なんなの……?」ノエリィがミシスとピレシュにしがみつくようにしてつぶやきました。
ふいに鐘の音がやむと、耳に痛いほどの無音を一分間ほど挟んでから、極めて静かに穏やかに、何者かが口を開きました。それはしゃがれていはいるけれど朗々としていてよく通る、成熟した男性の声でした。
「私はコランダム軍の将軍、ゼーバルト・クラナッハである。親愛なる大陸全土の住人のみなさん、とつぜんの一方的な放送を、どうかお許しいただきたい」
「ゼーバルト?」ハスキルがはっと両目を見開いて、その名を口にしました。
ゼーバルトと名乗る男は続けます。
「今、この放送を耳にしているあなたが、どのような立場にある人間であっても――そう、平民であろうと軍人であろうと、無論国王であろうとも――私がこれから話すことを、しっかりと耳を澄ませて聴き、そして心に留めてほしい。くり返すが、この放送は大陸全土へ向けて発信されている。誰一人として、無関係な者はいない」
そう語る声には、ためらいや不安定な響きが微塵も含まれていません。それがどこまでも強硬で、なにものをも切り裂く刃のように鋭い覚悟が込められたものであることが、誰の耳にも明らかでした。
エーレンガート家に集う面々が物音一つ立てずに聞き耳を立てるなか、ゼーバルトは
「先の〈巨兵大戦〉の勝者たるホルンフェルス王国が大陸の覇権を掌握して、早13年の歳月が経過した。敗戦国となった、かつては各地で栄華を誇っていた歴史ある数多の国々は、私の故郷であるコランダム公国も含め、そのすべての統治権をホルンフェルス国王一人の手に握られることとなった。戦後、王国は博愛平等の理念を掲げ、文明のさらなる発展と、この神に愛されし偉大なる大地の平和を実現していくことを、全世界に向かって誓ったはずだった」
雷雨が一向に鎮まる気配を見せないなか、グリューが数歩進み出て、ラジオの音量を最大にしました。
「しかし」ゼーバルトは
ここで短い息継ぎが行われました。やや間を置いて、少し落ち着きを取り戻した調子で、話が再開されます。
「……私が生まれ育った国、コランダム公国は、豊かな森に抱かれた美しい国です。だが今や年々、その森も彼方から侵略してくる慈悲なき白砂に
ミシスだけでなく、その白砂の光景を目にしたことのある多くの人々の胸に、なにかぐさりと刺さるものがありました。
「この事実に心を痛めているのは私だけではないはずだ。必要性のない行き過ぎた開発のために、これ以上、母なる大地を
それを聴いた瞬間、ハスキルがなにもかもを悟ったように、あぁぁぁと力なく長い息を吐いて、椅子に深く沈み込みました。そこに背後からマノンが近づいて、まるで幼児に対してするように、両腕で恩師の体を抱きしめました。ノエリィは初めて耳にする母のそんな恐ろしい声を耳にして、思わず両目に涙を滲ませました。
ゼーバルトの決意に満ちた言葉は止まりません。
「よく聴いてほしい。私は今、かつてコランダム公国の中枢が置かれていた星灰宮と呼ばれる場所から、この放送をおこなっている」
少女たち三人はこわごわと顎を上げて、彼方の山頂で黒煙を吐き出しているその現場に目をやりました。
「そして、この私の目の前に、国王の権能を委任された諮問機関〈調律師団〉の、当地を管轄してきた代表者がいる」
ミシスたちはその組織の名を耳にして、あの川沿いのレストランで見かけた尊大な中年男の姿を思いださずにはいられませんでした。もしかしてあの人のことだろうか、とミシスは想像します。たぶん、きっと、そうかもしれない。だって、ずいぶん偉そうだったもの。
「……この男が現在どのような姿でここにいるか、皆さんにお見せできないのが残念だ」
ふいに口をついて出てしまったひとりごとのようなその一言をきっかけに、それまでにはなかった異様な冷笑の気配が、ゼーバルトの声の表面に顔をのぞかせはじめました。それはまるで、長いあいだ蓄積されてきた憎悪がついにそれ自体の自由意思を持つに至り、
ふと、ミシスの頭のなかで、あの店での騒動の時に痛烈な嫌悪感を示したピレシュの表情が、思い返されました。
気になって、隣にいる彼女の顔をちらりとうかがうと、やはり今もまた、その瞳のなかに鋭い軽蔑の影が迸っているのが見てとれました。唇はなにかに耐えるようにきつく結ばれ、その下の細い喉が一度ぐっと上下に動き、ミシスの腕に触れていた手は石のように硬く握りしめられて、熱をはらんだ拳へと変化していきました。
思わず身震いしたミシスは、自分と身を寄せあっている二人の友の体を、まるで押し寄せる大波にさらわせまいとするかのように、強く力を込めて抱き寄せました。
嘲笑を押し殺しつつ、ゼーバルトは続けます。
「この男は、いわば国王の分身の一人でありながら、十数年に渡って私腹を肥やすことにのみ
次の瞬間、演説をするゼーバルトのすぐ近くで、かすかな物音と人間のうめき声のようなものが聴こえたように思えました。しかしまたすぐに静かになりました。
「はっきり申し上げましょう。この星灰宮に駐留していた調律師団の武力は、我々の手によって完全に無力化された」
ああ、だからもう爆発音はしなくなったんだ。ミシスは麻痺しつつある脳味噌で、ぼんやりと考えました。なにもかもが、非現実的な、絵物語のなかの出来事のように感じられます。
「共にこの大地に暮らす、腐敗した権力からの脱却を志す同胞たちよ。虐げられし祖国の歴史と栄光の復興を願う友人たちよ。この私、新生コランダム軍の首長たるゼーバルト・クラナッハに続け。今こそ声を上げる時だ。そして我々と意志をおなじくする力なき者たちよ、私のもとへ集え。私が諸君らの刃となり、城となろう」
言葉にならない声で、ノエリィがミシスの耳もとでなにかをささやきました。それがどういう言葉だったのか、まったく聴き取ることはできなかったけれど、ミシスはそのままノエリィの頬に自分の頬を押し当てて、その肩をぎゅっと抱きしめました。
最後にゼーバルトが告げました。
「本日この時をもって、我々はホルンフェルス国王の支配体制から永久に離脱することを表明する。そしてここに、我らが新国家の独立を宣言するものである。私のもとにはすでに数万の兵士と、百の巨兵が集結している。誤解なきよう述べるが、これは宣戦布告ではない。我々の力は平和秩序と万人を守るためにあるのであり、傷つけるためにあるのではない。無用な争いと破壊を、我々は決して是認しない。だがもしも我々に挑戦する者、我々の自由を阻害する者があるなら、たとえそれがどのような相手であろうと、我々は徹底的にこれを打破する所存である」
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