第20話

文字数 3,508文字


      その二十

 お母さまに胃痛の対処法を教わって奥の部屋にさがっていった香菜ちゃんはさっそくそのヨガ体操をやっているみたいだったので、キャミワンピースを着ていたお母さまのお姿に素敵でありつづけることの限界を感じたぼくは、
「やっぱりお肌がつるつるなのは――」
 という揉み手アプローチでけっきょくパンツの有無を確認せずにはいられなかったのだが、
「そんなにつるつるかしら?」
 と手鏡でご自身のお顔に見入っていたお母さまは肝心のおパンツのほうはというと、
「何日かやってみたんですけど、なんだか落ち着かなくて」
 という理由により、現在はふつうにおはきになられてしまわれているのだそうで、
「しかし……」
 とそれをきいて、人格者としての評判に傷をつけぬままにノーパンへの再挑戦をうながさなければならないと切に感じたぼくは、
「この項を読んでください――そうです、健康にも良いって、書いてありますね。お母さま、香菜ちゃんには、まだまだ母親の助けが必要なんですよ。ですから専属講師として、お母さまにおねがいします。いつまでもお若くお元気でいただくために、ぜひともそのおパンツのほどを、どうかどうか! どうかお脱ぎになってください」
 と目頭を熱くしながら文字通り全身全霊で土下座をしていたのだけれど、お母さまに指示されたいくつかの体操をこなして応接間に入ってきた香菜ちゃんは、
「倉間さん、それほどにまでわたしのことを、心配してくれてたんですか」
 とこの光景にお目目をうるうるさせていて、だから、
「わたし、これまで自分に甘えていました。倉間さん、わたしを、もっともっと厳しく指導してください」
 とすがりついてきた香菜ちゃんを、
「わかってくれたかい」
 と人格者としてあたたかく抱擁したぼくは、もちろん再挑戦後のキャミワンピイメージはまだにじんだ目の奥にしっかり残っていたけれども、真実はノーパンそのものにたいしてであった先の土下座をこのまま正当化するために、ともかく香菜ちゃんに恥ずかしがりやさんを改善させるためのスパルタ教育を、ほどこすことにしたのだった。
「それじゃあ、紙袋に入ってる『やさしい悪魔』の衣装をまず着なさい」
「はい、先生」
 キャンディーズは昭和五十二年の『やさしい悪魔』のときにたぶんはじめてセクシーな衣装を取り入れていて、これはおそらくケタ違いの勢いだったピンク・レディーを意識してそうしたのだろうけれど、新体操の選手が着るようなもののふちに赤いふわふわが付いているこの黒い衣装に当時のファンは度肝を抜かれたらしいが、こうやって香菜ちゃんに着せてあらためて鑑賞してみると、ぼくはそれほど好んではいないようで、まあ『やさしい悪魔』の振付は、加津さんもいつかいっていたように、長い歌謡史のなかでも一、二を争う傑作だとは思うけれども、しかし衣装ということだけでいうと、昭和五十一年の紅白などで着ていた、ランちゃんがピンクでスーちゃんが水色でミキちゃんが黄色の清楚なワンピースか、あるいは古谷一行版「八つ墓村」のときに松尾嘉代が着ていたちょっと地味だけれどやたら例のあれを放出している和服がぼくはやっぱり好きなのかもしれなかった。
 肩口のあたりで人差し指をつんつんとやったり、親指と小指だけを立てたお手手を猛烈にこちらにアピールしてきたりするいわゆるデビルポーズを恥ずかしがりながらもなんとかクリアしていた香菜ちゃんは、清楚などといいつつ、
「いや、ちがう! もっと開くんだ開くんだぁ!」
 とけっきょくデビル衣装に熱狂していたぼくに指示されて中盤以降はアクロバティックなスーパーデビルポーズ(?)のほうも取らされていたのだが、
「ねえ先生、キャンディーズって、こんなでんぐり返しの姿勢のまま歌をうたってたんですか?」
「そうだとも! そしてコンサートのときには四つん這いの姿勢でうたいつづけていたのさ!」
 というスパルタ教育をさらにエスカレートさせていくと、やがて香菜ちゃんにもお母さまにもスーパーデビルノーパンキャミワンピでんぐり返し教育をほどこしてしまう危険が大いにあったので、懐中時計で大げさに時間を確認したぼくは、
「あっ、いけない、こんな時間だ」
 とバスで家に帰ることにして、バスに乗り込んでひと息ついたあとも、
「コンコン」
 とあたまにかわいくゲンコを二個お見舞いして、自身を戒めたのである。
 さっきまでぼくもすわっていたバス停のベンチでは八十過ぎくらいのおじいさんがひとりでフレンチトーストを食べていて、その食べ方は味わっているというよりも苦しげに口のなかに押し込んでいる感じだったのだけれど、コンビニのレジ袋からややあわて気味に取り出してチューチューやっていた紙パックのその飲み物はちらっとみただけなのでメーカーまではわからなかったがとにかく「飲むヨーグルト」ということになっていて、おじいさんはそれを飲んでさらに苦しそうな表情をみせていたので、もしかしたらあれは牛乳だか低脂肪乳だかとまちがえて買ってしまったのかもしれなかった。
 おじいさんは紙パックにさしたストローでチューチューやる直前までたぶんそれを牛乳か低脂肪乳だと信じていただろうから、あのちょっと酸っぱいヨーグルトを舌に感じたときには一瞬パニックになったかもしれないけれど、おじいさんは紙パックをあらためて確認することもせずに、ひきつづきそれを飲んで苦しそうにしていたので、これまでにもけっこう飲むヨーグルトを牛乳と誤認しているのかもしれない。
 バスが来ても立ちあがる気配すらみせなかったのは、この再度の誤認に自身の年齢の重さを感じていたからかもしれなくて、その後ちがう菓子パンを手にとってぼんやりしていたのは、牛乳なんかなくてもこれくらいのパンならむしゃむしゃ食べたり丸飲みしていた若いころの自分をきっと想起していたのだろうが、ぼくがそんなおじいさんやパンをみて想起したのは最終的にはやはりノーパン生活を送るお母さまやノーパン指導をせがんでくる香菜ちゃんのことで、
「パンという文字をみただけで、あんなことをかんがえるなんて、やっぱり『コンコン』だけで、済ませる問題じゃないかもしれないな……」
 とつぶやいたぼくは、そんなわけで、駅前のバス停までボタンを押さずに待って、Kの森こども電話相談室の支部に向かうことにした。
 Kの森こども電話相談室の支部にはこれまで三度ほどお世話になっていて、ちなみにその三度の相談相手はすべて真っ赤な口紅を引いた川上さんという女性だったのだけれど、山城さんがいうには受付のさいに予約をすれば、とうぜん待ち時間が長くなるケースもあるが、希望する相手とかならず相談できるらしくて、だから今回は運まかせにするのではなく、
「真っ赤な口紅の川上さんをおねがいします!」
 ときっぱり宣言するつもりでいた。
 支部に入ろうとすると、改善大学校の男の事務員さんが出入口までわざわざ出てきていた細身の相談相手さんに何度もお辞儀をしていて、こういう場所でかち合うのはあちらさんも気まずいだろうから、かれが通りすぎるまで、
「アナタ、カミヲ、シンジマスカ?」
 と歩道を行く方々にたずねてぼくだと気づかれないようにしていたのだけれど、予約をしたのちに、
「しばらくですねぇ」
 と向かい合うことになった川上さんは、ほんとうだったらきょうはもうあがりだったのにとくべつにお仕事を延長してくれたのだそうで、
「それは、すみません」
 とぼくがいうと、
「倉間さんが監督されたドキュメンタリー作品、観ましたよ」
 と川上さんは形式上いちおう手に取っているおもちゃの受話器を持ちかえながらいってきた。
 ダイアンさんのお父さんとデミグラスソースが対決したあの極め食い勝負は、その後『極め食いの五月』というタイトルでDVDとして発売されていて、ちなみにジーパンのテーマが流れるシーンは市内放送の取り引きが表沙汰になると中森市長にも迷惑がかかるので、おなじ音楽をかぶせて編集しておいたのだけれど、吉野さんの相談相手にも定期的になっているらしい川上さんは例のネコジャラシのことも魔術的なもののように捉えていたからあきらかにぼくの貫祿およびオムライスグループでの地位を買いかぶっていて、先の問題を、
「じつはパンツのことで悩んでいるんです……」
 うんぬんと相談してみると、
「だったら、これから選んであげますよ」
 と若干取り違えていたが、それでも個人的な相談としてこれを受けてくれたのだった。
「じゃあ、駅前の本屋で時間つぶしてますね」
「ちょっと引き継ぎとかあるから、十五分くらいかかるかも」
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