第31話

文字数 3,270文字


      その三十一

 アパートのまえですみれクンとすこし立ち話をすることになったぼくは、
「いま結婚に向けて調整しててね」
 などと最近取り組んでいることなんかをざっと説明していたのだけれど、座長の美恋愛子さんが不在がちの「愛子ちゃん一座」はこのところ『むちむちしちゃう』というぼくが用七老人にアドバイスをいただきながら書いたミュージカルを若い子たちだけで連日演じていて、
「きょうは七時からの舞台にも立つんです。十日くらい連続で演じていると、やっぱり疲れてきますねぇ」
 といっていたすみれクンは母屋で軽く休憩したあと、だから例の〈三途の川〉にすぐまた向かうのだろうが、美恋愛子さんがデビュー曲の宣伝活動のためにいったん一座をはなれてからは、この『むちむちしちゃう』をずうっと公演しているので、なんとなくぼくはサウナにも宴会ホールにも行きづらくなっていて、
「夜の部、観に来れますか?」
 とすみれクンにも、またぞろきかれたのだけれど、
「う、うん……行けたら、行くよ」
 とぼくはやはりお茶を濁していたのだった。
 自分が書いたミュージカルを観て気まずくなってしまうのは、照れくさいだとかそういうこともあるだろうが、もっと具体的にいうと、このミュージカルの主人公である熱血講師「舟倉環(フナクラタマキ)」が教え子のために、
「ですからお母さま、娘さんの改善のためにも、どうかひとつ、ノーパンになってください!」
 と土下座するシーンがあるからで、ちなみに和貴子さんには、
「ノーパンになった状態というのは、宇宙のメタファーなんだ。そしてここでの宇宙とは、光=時間を意味している。つまりこのミュージカルは、時間とはなんだろう、生きているとはなんだろう、とかんがえながら書いたものなのさ」
 と言い訳をして、和貴子さんも、
「そうでしたの。だからこのまえも、和貴子の両足首を持ったまま、まるでアンドロメダ星雲のようにきらめいている光=時間を凝視してらしたのね」
 とすぐ納得してくれていたのだけれど、しかし仕事終わりに内府とこのミュージカルを鑑賞したらしい第三の愛人さんなどは、
「どうしてあの主人公は、教え子の親でもなければ、恥ずかしがりやさんでもない、上役さんの第三の愛人にまで、土下座してるんだろう?」
 と脚本にやや疑問を感じてもいたようで、推敲の段階で、
「このシーンを入れると、ちょっと公演時間が長くなりすぎちゃいますね」
「うーん、しかたないだろうな」
 と用七翁と相談したすえにこちらはバッサリ切ったのだが、主人公舟倉環は、ショッピングモールの試食コーナーで偶然お会いした千葉の土地成金の家に嫁いだ色白のご夫人にまで、じつは土下座していたのだ。
「続編を書かなければならなくなったら、謎の婦人にまで、土下座しかねないな――じゅうぶん用心しなくちゃ……」
 郵便受けにはスポーツ用品店からのダイレクトメールとリョウマくんからの手紙とオカリナ教室のチラシとお玉さんからの伝言が入っていて、お玉さんのそのメモ用紙には、
「店に来てください 玉子」
 といつものように太いサインペンで走り書きされてあったので、ともかくぼくは、
「夕方はさすがに風が冷たくなってきたな」
 と薄手の上着を羽織ったのちに古書店まで歩いて行ったのだけれど、店のまえに出してある縁台にすわって、気難しそうな青年としゃべっていたお玉さんはぼくをみると、
「ああ、やっと来たわ」
 といっていて、お玉さんが縁台から立ちあがると、気難しそうな青年はお玉さんとぼくに軽く会釈してどこかへ去って行った。
 お玉さんに、
「なにか急用ですか?」
 ときくと、
「ええ。さっきあの子が、みえたんですけど……」
 とお玉さんは『おはようキッカーズ』の九巻を探している例の男の子にたいして相当気の毒がっていて、
「探してくれたのかしら?」
 とまた涙声で問われるまで、ぼくはこの九巻のことをすっかりわすれていたから、
「後回しにすると、今度は手拭いを噛み噛みしつつ非難されるかもな……」
 と思って今度はすぐ漫画に重点を置いている知り合いの古書店に電話して問い合わせてみることにしたのだけれど、
「たしか、あったよ」
 といって、いったん電話を切った正木くんという古書店経営者は十分後くらいに、
「あるある」
 と折り返しの電話をよこしてくれて、パートで雇っているおじちゃんはキャプテン翼とおはようキッカーズの区別もつかないうんぬんとこぼしていた正木くんは、
「ねえ哲ちゃん、おれもたのみがあってさぁ、うん、いや、あのさぁ、美恋愛子のサイン色紙が欲しいんだよ」
 ともいっているのだった。
「もらえるかな?」
「いますぐかい?」
「いやいや、いますぐじゃなくてもいいよ。哲ちゃんの都合のいいときで、いいんだけどさぁ」
「それなら訳ないよ。『正木古書店様へ』って、横にも書いてもらっとくよ」
「いや、お客様にあげるものだからさぁ、できれば『ユロ様へ』って書いてもらいたいんだ」
 魚釣りを趣味としている正木くんは、三十分後くらいに三菱パジェロでこちらまでおはようキッカーズの九巻をわざわざ配達してくれて、
「これじゃ、逆にわるいなぁ」
 と礼をいうと、正木くんは、
「これから海に行くんだよ。だから、ついでだと思ってね」
 と店の端に横づけしてあったパジェロにすぐ乗り込んでいたが、あまりにも思いつめているので、男の子におにぎりをつくってあげたこともあるらしいお玉さんは、その男の子がどこに住んでいるのかもとうに知っていて、
「ああ、あそこの、飲み屋街の子だったのか。けっこうちかいな」
 と男の子の家に電話をかけたぼくは、
「――ああ、そんなに似てるんですかぁ。いえいえ、もう暗くなってきてるんで、届けますよ。なにしろ、かなり長いこと、ウチに通ってくれてたみたいですからね」
 とお母さんと話したのちに徒歩でそちらに向かうことにした。
 古書店から歩いてだいたい二十分弱くらいのところにある男の子の家は、八〇年代の半ばくらいにおこなった区画整理のあおりを受けたようにみせかけて逆に密集した感じを強めて、神楽坂なのか、あるいは古代のローマなのか、とにかくそういう雰囲気をたぶん狙ったいわゆる飲み屋街なのだけれど、区画整理後にここにのれんを出したある寿司屋は、むかし祖父が出前をたのんだところ、夜の八時ごろと予約しておいたのに当日の午前八時に特上寿司十二人前を持ってきてしまって、
「どこの古代帝国の時間にあわせてるんだ! あの区域は」
 とそれ以来倉間家はその寿司屋および飲み屋街全体を祖父の感情を考慮して敬遠するようになっていて、ちなみにぼくがこの飲み屋街に行かない理由は、こわかった少年野球の監督がここで揚げ物屋をやっていることと、小六の三学期の時点ではいちばん好きだった門沢さんがこの区域の板前と十九の夏に駆落ちしたという胸が苦しくなる伝説があるからなのだけれど、この伝説にはもうひとつ、門沢さんは竹の子族の末裔と駆落ちした、というバージョンもあるにはあって、だからこの飲み屋街のどこかは「沼口探険隊」のアジトになっている、という近ごろ出回っている情報のほうも、きっと一種の風説にすぎないのだろう。
 Kの森テレビが開局した当初はたいへん人気のあった番組『沼口探険隊』は、まことしやかにささやかれていたいわゆるやらせの有無を一隊員の内縁の妻が告発して以来スポンサーがつかなくなっていて、やらせの問題は第一回目の放送から公にしているも同然の振る舞いを隊員たちは視聴者にみせていたわけだから、もしかしたら内縁の妻の告発が響いたのではなく、かれらの探険そのものに人気急落の原因があるのかもしれなかったけれど、『沼口探険隊』という番組をおもいのほか敬愛している山城さんなどは、マミーさまや幕臣たちに、
「ねぇ、オムライスグループが、スポンサーになってあげましょうよぉ」
 とときどき陳情していて、しかしマミーさまも幕臣たちも山城さんが“巨大原人ぶうま”の存在を苦し紛れにでっちあげても、まったく興味をしめさないのだった。
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