第35話

文字数 3,556文字


      その三十五

 レールウェイズの「なしだ」の応援歌で味をしめたぼくはその後〈ホテル・マコンド〉のベッドサイドにあった『女をやる気にさせる百のお言葉』と『男を奮い立たせる百のお言葉』という冊子をヒントにつくった我がカーズの選手たちの応援歌をも香菜ちゃんにうたわせることにしていたのだけれど、とくに「きたへふ」の歌詞に感銘を受けたらしい川上さんは顔なじみの下着専門店の店長に、
「あそこのホテルに本があるのね――」
 と個人的に聞いていて、すると店長は、
「じゃあ、支配人に電話してみるよ」
 とすぐ調べてくれたという。
 二作の本は〈ホテル・マコンド〉の十周年記念として地元の印刷会社に注文してつくった非売品のものらしく、といってもホテルの支配人と親しい下着専門店の店長は、
「余ってるんだったら、何冊かこっちによこしなさいよ」
 と分けてもらって、気前よくどちらも三、四冊ずつ、川上さんにプレゼントしてくれたのだが、冷え症を理由に当日もトレンチコートのなかに最低限のなにかは着させてください、とお見合いの前日に陳情してきた吉野さんは、たとえ最低限の衣類をコートのしたに身につけていたとしても〈高はし〉で三成さんといよいよ向き合うとなると、
「あがってしまって、たぶんなにもしゃべれないと思うの。だから」
 と川上さんは『男を奮い立たせる百のお言葉』のほうを森鴎外の母親みたいに吉野さんに持たせていて、じっさい川上さんのこの根回しによって、真面目好色の三成さんは吉野さんの音読にあからさまに奮い立っていたのだった。
「わたしが選んだ最低限の衣類にも、三成さん、奮い立っていたんじゃない」
「ええ。あんなすごいのを身につけるんだったら、なにもつけないほうがいいって、あの香菜ちゃんですらいってるくらいの衣類ですものね」
 お見合いの翌日、われわれサイドは三成さんに、
「よかったら、どうぞ」
 と『女をやる気にさせる百のお言葉』を一冊贈っていたので、今度ふたりが会見するときは、交互に音読するような趣にきっとなるのだろうが、こちらの本にも密かに着目していたらしい三原さんはつぐみさん経由で見合いの話をきくと、すぐぼくの部屋に、
「倉間さんも一冊ずつ、持ってるんですって!」
 と昂奮した面持ちでたずねてきて、民吾氏は、
「このあいだわたしも〈ホテル・マコンド〉に行って、あの本にあるお言葉のなかで、とくに重要と思える箇所を書き抜きしてきたのです」
 とノートパソコンに保存してあったその書き抜きをぼくにみせてきた。
 民吾氏がかおるさんと遠出して調べてきたシシマイはなんでも正確には「ゼツリンシシマイ」というらしく、その地方であたらしく所帯をもつ男女や倦怠期にある夫婦などは、この「ゼツリンシシマイ」にあたまなどをあま噛みしてもらって、あちらのほうの繁栄を祈願するとのことだったが、事実上ゼツリンシシマイだけをよりどころにしているその寺の住職にいろいろと話をうかがったところ、どうも近年は、
「三万円も払って何度もあま噛みしてもらったのに、ぜんぜん絶倫にならないよ」
 というような苦情が多いみたいで、住職に、
「えっ! K市に滞在されてるのですか! でしたら〈ホテル・マコンド〉というところを、ご存じではないでしょうか?」
 うんぬんと逆に相談されるかたちになった民吾氏は、くよくよしていたその住職を、
「というとその本には、倦怠期に悩んでいる男女を絶倫へと昇華させるような、そんな具体的ななにかが記されているのですね――それでは本の内容をよく咀嚼しまして、効能がありそうな箇所が実際にありましたら、わたしが書き抜きしまして、後日お送りしますよ」
 とついつい励ましてしまったようなのだ。
 プリントアウトしたその書き抜きはすでに住職のほうに速達で送っているらしく、
「ですから、最低限の義理は果たしているのです」
 と民吾氏はぼくが二冊の本を差し出してもそれを受け取らなかったが、
「しかし、なんでまた、たいして効能があるわけでもない、そんなゼツリンシシマイなんか、調べてるんですか?」
 と紅茶を出しながらきいてみると、民吾氏は、親父にまたぞろムー原人になるよう要請されたのですが、ムー原人は去年も一昨年もやっていて、常連さんたちですら、もうその探険にはあからさまに飽きているので、スマイリイの著作から発見した“シシマイ”というキーワードをたよりに、つぎの出し物をどうするか模索しているのですよ、といっていて、民吾氏が世界中の珍獣を参考に創作したという「マーシシマイ」は、たぶんあのマーライオンを相当参考にしていたから、
「シンガポールの『マーライオン』知ってるかい。あれは、おれがかんがえたんだぜ。誰にもいうなよ」
 といつか特別におしえてくれた用七老人のことを氏に話すと、
「わたしもその方にお会いして、いろいろ助言をいただきたいですね」
 と氏もたいへん用七老人に興味を持ってくれたのだけれど、ぼくが提案した、
「そのマーシシマイを、ホテルの宣伝にもたしょうはなると思うんで、沼口探険隊に捜索させてくれませんか?」
 うんぬんについては、親父さんの承諾を得たり、三原ホテルの常連さんたちと折り合いをつけたりしてからでないと、なんともいえないみたいだったので、
「まずは姉に説明して、そして姉のほうから、親父をなんとか説得してもらいますよ。親父は、姉のいうことは、よくききますからね」
 とのことだったそのお姉さんからの吉報が届くまで、沼口探険隊サイドにはまだこの計画は話さないでおくことにした。
 今夜のぼくは副長の栗塚くんとの約束があったので、三原さんにはその理由を話して用七老人のところにおもむくのはまた後日ということにしてもらったのだけれど、水戸光子ちゃんに紹介していただいた関係で〈ぐるぐる三昧〉の成り上がり社長より仕事を依頼されている栗塚くん率いる卵新組はいよいよ今夜、
「隊士たち全員のだんだら羽織ができあがった記念も兼ねるわけですが、とにかくみんなで乗り込むつもりでいます。ですから撮影のほう、よろしくおねがいします」
 ということにどうもなっているみたいで、まあカメラマンの厚川さんには、とうぜんこのことは伝えてあるので、局長兼監督のぼくは現場に行って、
「ヨーイ、ハイ」
 と号令を発すればそれでいいのだけれど、K市内においてはほぼひとり勝ちのこの回転寿司の名物社長は、細かいことはわすれたが、とにかく、
「最近、女房のやつの行動があやしいんですわ。以前にもそういうことはあったから、今回もたぶん浮気をしてると思うんだが、とにかくそれを調査してもらって、証拠をつかんだら、女房に行動を慎むよう注意してほしいんですわ」
 というような依頼を卵新組によこしてきていて、
「女房にたいして、自由に金をつかえるようにしてやったのが、そもそものまちがいなのかもしれませんわ。急に金持ちになった人間は、あんがい、どのように金をつかったらいいかは、わかってないもんなんですわ」
 ともいっていた社長は、たしかにわれわれにもたいへんな報酬を前金で手渡してくれたわけだけれど、夜の九時ごろに、
「ヨーイ、ハイ」
 という号令ののちに、そろいのだんだら羽織を着た総勢二十三人の隊士たちが、あるじ不在の通称“ぐるぐる御殿”にずかずか乗り込むと、浮気がちのその女房はじっさいに、
「最近、歳のせいかな、肌が荒れてきちゃってさぁ」
 とあまえている優男に、
「じゃあ、これでなにかクリームでも買いなさいよ」
 とべらぼうな額の小切手を切っていることになっていたので、
「わたしは、卵新組副長の栗塚歳三だ!」
 とこのたびも名乗った栗塚くんは、
「肌が荒れているのなら、つるつるにしてやるぞ!」
 と事前に用意しておいた生たまごをボールに割ってシャカシャカよく溶いたのちにその優男の全身に、
「エイ!」
 とあびせかけていて、
「もうこれで肌はつるつるだから、この小切手は必要ないな?」
 と栗塚くんに質問された優男は素直に、
「はい……」
 とお顔等のつるつるを実感していたけれども、しばらくして優男に隊士用のおにぎりと日本酒をあてがってあげると、アルコールも入って、だんだんリラックスしてきたらしい優男は、
「その小切手をくれたら、今後この奥さんとは、関係を絶ちますけど――」
 と一種の取り引きをもちかけてきて、栗塚くんがそんな優男の度胸に感心したのか、
「ところであなたのお名前は?」
 と物静かにたずねてみると、おにぎりを一度にほおばりすぎて、それになかなかこたえられなかった優男は、
「す、すみません。これ、おいしいですね。わたしは火野きよしというものです。あっ、これもいいんですか?」
 と原田くんのからあげも分けてもらっていた。
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