第5話

文字数 3,417文字


      その五

 お玉さんの素性はいまだ謎で、親父などは、
「あれは芸妓あがりだよ」
 なんて物知りぶっていっていた時期もあったけれど、祖父と何度も地方巡りをしたことがあるぼくの印象ではあのじいさまはあんがい芸者遊びには興味をもっていなくて、いちどある財産家にお招きされて旅館で芸者さんと戦友飲みなどをしたさいも、
「わしは、ちょっと休むよ」
 などとことわって、みんなからはなれた位置で腹ばいになって、ただこちらのはしゃぎぶりを観ていた。
 芸者さんとはじめて接触したあのときの記憶がその祖父の腹ばいからの視線として残っているのはなんとも不思議、というか芸者遊び自体がぼくの夢だったのだろうか、なんて一瞬疑ってしまうが、祖父はいい壺や掛軸に遭遇すると、このようにうつ伏せで鑑賞することを孫にもつねに薦めていたし、ミリ単位で民芸品等の位置を調製させられた結果、ぼくもローアングルの不思議な魅力にとりつかれてしまったので、先の記憶も、たぶんそのあたりのなにかによって、ごちゃまぜになっているのだろう。
 ぼくのお願いを、ときに目をうるませて聞いていたお玉さんの記憶も、ある意味ではごちゃまぜになっていたらしく、
「あれはなんでしたっけ? こんな時代劇みたいなやつ。ああいうふうに髪を結ってるときもあるんですよ。ああ、あのうなじ!」
 などとなにげに昂奮しだしていたぼくを、
「じつは、こんなときのために、あつらえてあるんですのよ。安二郎さん」
 とおもいっきり祖父の名で呼んだりしていたのだが、あつらえてくれてあった羽織袴はたしかにぼくの体躯におもいのほか合っていて、まあぼくも安二郎祖父さんもだいたい身長は一七二、三センチで体重もぼくのほうが若干軽い程度なわけだから、もしかしたら、もともとは祖父用にこしらえたものなのかもしれないけれど、
「まあ、立派」
 とお玉さんもほめてくれたからだけでなく、自分でも、
「けっこう男振りがあがってるかもしれないぞ」
 と三面鏡のまえで悦に入っていて、軽トラにいざ乗り込んだときにはあの女性を、
「和貴子」
 と呼び捨てにするほどにまで、押し出しのいい旦那気分になっていた。
〈たかまつ亭〉は朝飯をもとめる人たちにも対応するためだろう、午前七時から店を開けていて、混雑時を避けて九時半ごろに、
「おはようございまーす!」
 と無人だったカウンター奥に呼びかけると、
「はーい」
 と愛しの和貴子さんがやはり和服姿で注文を取りに出てきてくれたが、身なりのことをきかれたぼくがたぶんデレデレ気味で大学校なり講演なりを説明すると、和貴子さんは、
「まあ! そんな大事なプレゼントに、うちの『おにぎり6Pパック』を選んでくださったんですか! じゃあ、倉間さんのために、和貴子がにぎりますね」
 とみずからおにぎりをこしらえてくれて、舞い上がっていたぼくはそれをやがて受け取ると、
「ありがとう」
 といって、すぐ施設に向かってしまったのだけれど、かんがえてみれば講演は午後一時からなのだから、自分の昼飯用にもう一人前ほかのおにぎりなりお弁当なりを注文すれば、さらに男振りがあがったわけだったのだ。
 予定よりもだいぶ早く施設の駐車場に軽トラを停めたぼくは、先のような判断ミスを犯してしまった自身のあたまに今回もやはりゲンコをかわいく二個お見舞いしたのだが、A館のロビーで待っているあいだに、おにぎり6Pパックのほうは和貴子さんのあの白い手でにぎられたものだと思うと辛抱しきれなくてすっかり味わいつくしてしまっていたので、吉野さんへ手わたすサクラとしてのプレゼントはそんな事情で施設の食堂で購入した日替わり定食の食券で補うことにしたのだった。
 あがり症の吉野さんはこの当日も、
「ほ、ほ、ほ、本日は、お、お、お、お日柄、お日柄……」
 と序盤はやはりガチガチに緊張していたけれど、大学校の生徒さんたちや関係者の方々はそんなことや先の食券などよりも吉野さんの衣装に度肝を抜かれていた。
 吉野さんの衣装はゴージャスなウェディングドレスで、純白のすそは上手のさらに奥にまでつづいていたのだが、白いヒラヒラの付いたマイクと交換すると急に人が変わったようにしゃべりだしたこの花嫁が、
「――おお、舞子はそのようにあがり症を克服して、自分らしく輝くことになったのです!」
 と両手を広げると今度はどこからか演奏が聴こえてくることにもなっていて、冷やかな空気のなか、吉野さんはそれにあわせて熱唱しだしたのだけれど、握手をするために客席に降りてきたときも、学校関係者およびオムライス関係者に下手側にかかえられていくときも、長いすそはまだまだ上手に延々とつづいていて、ぼくの斜向かいにすわっていた男子学生のひとりなども、
「尾っぽに缶カラも付いてそうだな」
 と案の定そのすそに注目していた。
 講演終了後、
「倉間さーん」
 と声をかけてきてくれた香菜ちゃんと運動場のほうのベンチでお話していると、
「なんだリョウマ、こんなところにいたのか。みんな捜してたぞ」
 とうしろからこの施設の男の事務員さんがぼくの肩をトントンとたたいてきたが、香菜ちゃんの説明によると、なまけものさん学部妄想科の「真田くん」という二十五、六の青年は、なんでもなまけ癖を改善するためだかに司馬遼太郎の歴史小説を朝から晩まで読み込んだことが幸い(?)して、あるときから、
「お香菜さん、いつかワシが、いい国をつくってやるじゃきに」
 などと、まるで坂本龍馬みたいに振る舞うようになったのだそうで、じっさい買い物袋を下げてどこからか帰ってきたリョウマくんは、
「お香菜さん、これ見ちょくれき。なんでもチョコレート、いうんそうじゃ。メリケンには、こういう甘いお菓子がたくさんあるんじゃて。日本も早く、こうならな、いかんの……」
 と洗濯板のように大きいチョコレートをかじっていたけれど、リョウマくんはこれも乱読療法の効用だろう、ぼくとおなじような羽織袴を若干くずして着ていることにもなっていたので、さっき男の事務員さんがぼくをリョウマくんとまちがえたのは、きっとこの格好によってなのだろう。
 おこりんぼうさん学部の栗塚歳三くんに剣術を習っているというリョウマくんは、
「ああ、こちらの旦那さんが、栗塚さんが慕っているあの倉間先生ですか! はじめまして。坂本龍馬です」
 とぼくにも礼儀正しくあいさつしてくれたが、ここで臨時講師をしていた当時、休憩所の自動販売機についぶち切れてしまって、
「なんで、つぶつぶジュースのボタン押したのに、普通のオレンジジュースが出てくるんだよぉ!」
 と施設の医事課や総務課に問い合わせてしまったぼくにある種の衝撃を受けたらしい栗塚くんは、その後、
「おこりんぼうさんという特性を改善させるっていっても、なにも感情をおさえることだけがすべてじゃねぇ。あの倉間さんをみてみろ。あんなにいつも愛想よくしているのに、オレンジジュースにつぶつぶが入ってないくらいで、怒学のおれたちがどん引きするほど、お門違いの人たちに食らい付いてたじゃねぇか。やっぱり怒りっていうのは、ときにはおもてにはきだしたほうがいいんだ」
 という信念のもとに、小学生のように狂い泣きしながら無鉄砲に相手にぶつかっていくという、つぶつぶ騒動のさいに取ったぼくの戦術もすこし参考にしている感もある流儀の剣術道場を開いていて、先日もその栗塚くんは、
「しばらく、京都に行ってきます」
 とマミーさまにいいつけられた仕事に旅立つ前夜にわざわざたずねてきてくれたけれど、剣術を習っているといっても本質的にはやっぱりリョウマくんは妄想科の生徒で、香菜ちゃんにたいしても思い込みを前提とした冗談をけっきょくいってしまっていたので、恥学の香菜ちゃんは、
「ちがいます。口説かれてたんじゃありません」
 とお顔をあからめながら、先ほどまでぼくが話してあげていたキャンディーものの補充うんぬんのことを、こちらの承諾を得たのちに、リョウマくんに説明することになって、するとこの最中、チョコレートをかじるピッチをどんどん上げていたリョウマくんはやがて、
「『キャンディーズ』ちゅうと、エゲレス語じゃきのう――そすっと倉間先生は、自分の目ぇで、ランちゃんやスーちゃんという横文字のおなごたちを、見てくるちゅうがかですか!」
 と板チョコからキャンディーへとかじりつきを移行させてきた。
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