第2話

文字数 3,082文字


      その二

 そんなわけで、この守重内府に吉野さんのことで便宜をはかってもらおうと思って電話してみると、ちょうど内府は今晩〈三途の川〉の宴会ホールでK市の市長と酒を飲むことになっていて、
「中森市長にあの話法を習えばいいよ。あはは、あはは!」
 と吉野さんもその飲み会に加わるよう誘ってくれたのだが、五十を二つ三つ過ぎているのに愛人さんをいまでも数人囲っている内府は、吉野さんの特徴を、
「小柄で体型は細身ですね。はい、おとなしいですよ。容姿ですか? そうですね――」
 とざっと説明すると、
「マミーさまの屋敷に居候してる娘じゃなかったら、おれが個別に指導してあげるんだけどな」
 などと、ときどきぼくに説いてくれる異性にたいする心構えをかいま見せていて、いまゴルフショップをうろうろしているらしい内府は、
「アーノルド・パーマー=傘のマーク。傘=雨。雨=飴、なめるあの飴。飴=キャンディーズ。キャンデーズ=七〇年代アイドル。七〇年代アイドル=天地小巻ちゃん……よし! このポロシャツだ!」
 だとかとひとり言をいったあと、
「倉間くんも、どうだい。市長とも、しばらく会ってないだろ?」
 とぼくのこともやはり誘ってくれたのだけれど、先のように茶封筒を受け取ったからにはなるべく早くマミー邸に出向いて依頼された仕事の詰めた協議やファミスタ接待などをすませてしまいたかったし、それに再選後の中森市長はKの森テレビの『どこまでも生討論』でしょっちゅう議題にあがるほどいわゆるスキャンダルを連発していて、
「今月も、わたしは、苦難に、耐えなければならない……」
 うんぬんと後半愚痴っぽくなる傾向があるので、今回のお誘いはやんわり辞退したのであった。
 吉野さんはこのまえぼくが自負心およびスケベ根性によって、ついしゃべってしまった話をおぼえていて、先の吉報を告げるより先に、
「スマイリイ・オハラ先生の著書に講演について論じているものはないんですか?」
 とコタツのうえに乗ったままきいてきたのだけれど、すくなくともぼくが現在保管しているスマイリイの著作にはそのようなものはなかったし、またスマイリイは重要なことはすべて暗号としてしか作品に組み込まないことになっているので、仮にそういう本を残していたとしても、解読に時間をとられてマミーさまが指定した日時には到底間に合わないだろう。
 谷崎潤一郎とも親交があったといわれているスマイリイ・オハラが世に出したテキストはすべて私家版で、なかには生原稿のみ、あるいはチラシの裏に書いた草稿のみという論文もあるのだが、研究者たちのあいだではそういう原稿の下書きやメモ程度のものでもかなりの値段で取り引きされていて、だからぼくもスマイリイの著作は店には置かないで、すべて実家の書庫に秘蔵してある。
 昭和三〇年代に書いたとおもわれるスマイリイの随筆にはキャンディーズの出現とその解散方法などが予言されていて、もちろんこれは暗号として組み込まれているものなので世間的にはほとんど知られていないわけだが、天地小巻ちゃんの楽曲に日々親しんでいるぼくと守重内府はこの随筆あるいはほかの作品に小巻ちゃん復活の方法なりヒントなりが暗号として組み込まれているのでは、と密かに期待していて、そもそも内府とこれだけ近しい間柄になったのも、おもえばこのことがきっかけだったのだ。
 スマイリイにこだわっている吉野さんの自転車を軽トラックに乗せてすみやかに〈三途の川〉まで送ってあげたあとのぼくは、いつも軽トラを駐車させてある実家にまっすぐ帰って、今度は今朝方夕飯のおかずを具体的にリクエストしていた義姉のつぐみさんに、
「朝からリクエストしておいて、まことに勝手なんですが……」
 とあやまりに行くことにしたのだけれど、マミーさまの屋敷におうかがいするということはどんな時間帯であってもなにかしらごちそうになることを意味する、ということは義姉も知っていて、一度だけマミー邸のオムライスを食べたことがあるつぐみさんは、
「すごいボリュームだもんね」
 と干してあった洗濯物を長廊下に低く速く放り投げていた。
 非常に太りやすい体質でありながらとくに酒が入ると大いに食を謳歌してしまうたちのぼくは、たいてい朝は五キロから十キロほどのジョギングをおこなっているのだが、マミー邸でファミスタをした翌日などは、接待中まるで戦国武将のようにオムライスをかっこんでいるので、普段より長い距離を走らなければ自身に課した上限体重を維持できない。
「湯漬けみたいに食べると、空元気が出てくるからな」
 ところで、つぐみさんの手料理をひんぱんに母屋で味わえるようになったのは、このごろ毎晩のように親父が夜遊びをしているからなのだが、祖父の他界とお袋の長期入院によっていわば解き放たれることになったこの道楽の種子が眠っていたそれまでは、たとえばお夜食にハンバーガーなどを食べていたりすると、
「そんなものばかり、むしゃむしゃ食って」
 とお説教をぶってくることもしばしばあったので、ぼくはこの難をのがれるために一時期はテーブルの下で音をたてずにラーメンを食べるという技の習得にもストイックに取り組んでいたのだった。
 つぐみさんがお嫁さんとしてこの倉間家に入ったばかりのころはぼくもまだ母屋のほうに住んでいたので、当時からなにかとつぐみさんの連携プレー(香辛料のパスなど)にはたすけていただいているのだが、こちらは連日勉強会とやらで遅くなる兄貴のやつも、近年は親父のように実弟をみつけるとなにかと苦言してくることになっていて、ちなみにそんなときぼくは入院しているお袋のことを話題に出して問題の矛先をなんとか変えているのだけれども、大好物の高級カニ缶をその場で実弟に拝借されてもぜんぜん気づかないほど兄貴を困惑させているその矛先のお袋は、もうかれこれ一年ちかくもぐずぐず昏睡状態のまま入院していることになるわけで、実弟は先日も耳もとで、
「そろそろ起きろよ!」
 とカニ缶のお礼をいうのも飽きたので怒鳴ってみたのだが、お礼にたいしては一瞬うなずいたようにもみえたお袋は、
「ウー」
 としかし、ただひと唸りしただけだった。
 兄貴夫婦には子どもがふたりあって、上の男の子は早いものでこのあいだ生まれたと思っていたらいつのまにかもう小学二年生になっているのだが、五月に入って新しいクラスの子とも打ち解けてきたのか、デンくんというきいたこともない友だちの家にさっき遊びに行ったとのことで、母屋では幼稚園年長の下の女の子だけが、なぜか好んでいる親父の部屋で、ひじ掛け座椅子にひじをついてすわりながらテレビを観ていた。
「あれっ、智美、それ、クロスフィーバーズか?」
「うん。再放送のやつ」
 Kの森テレビで放映されている『クロスフィーバーズ』という戦隊ヒーローものの番組のスポンサーにオムライスグループはなっていて、まあこれはわがグループがジュニア用のぶら下がり健康器を販売しているからなのだろうが、大人用の「すたいりすたいり」の売れ行きはイマイチだとしても、ぶら下がるほう、通称「ジュニぶら」は、このK市においては入園入学のさいの贈り物などとしてたいへん親しまれていて……しかしこの「ジュニぶら」は運動用というよりも、すくなくとも倉間家では(実質どの家庭でも)、ほとんど洋服掛けとしてもちいられているみたいである。
「あんな暇あったら、巨大ロボのところまで飛んでいけばいいのに。なぁ智美」
「そうじゃないよ。クロスフィーバーズは飛べないんだもん」
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