第11話

文字数 3,092文字


      その十一

 軽トラの荷台にダイアンさんの自転車を乗せて家まで送ってあげたあとのぼくは、スポーツジムでまたぞろからだを動かすことになっていたのだけれど、
「みんなむちむちしてて、迷っちゃうなぁ」
 などとつぶやきつつトレッドミルをこなしたり、サウナ室に設置されてあるテレビで『ケーキ屋水戸光子ちゃん』を真剣に観たりしていると、そのうち、
「たいへんなことになってるんですよぉ」
 と山城さんが電話をかけてきた。
 パチーノくんにつかまって、きょうも二時間ほどかれの役作りの成果を観せられた山城さんは、それをなだめるために、とりあえずパチーノくんをいつも旦那あつかいしてくれるあの〈高はし〉に連れて行ったらしいのだが、大ビンのラガーを三本ほど飲んだパチーノくんは、
「なんじゃ、こりゃあ!」
 とけっきょく演技を再開してしまっているようで、
「『なんじゃ、こりゃあ!』だけでも、もう二百回ぐらいやってますよぉ」
 と山城さんは語尾を涙声にして訴えていた。
 常連客用の駐車場が〈高はし〉にはあるので、ともかくぼくは軽トラでまっすぐ料理屋へ向かったのだが、
「おう! パチーノ! 元気だったか?」
 と開きなおって槇の間に堂々とあがると、しめたことにパチーノくんは、
「あっ、監督。お先にいただいております」
 とこちらのなりきり様に逆に気圧される感じになってくれて、だからぼくは、かぶっていた白いピケ帽もとらずに、そのまま巨匠然と、
「ヨーイ、ハイ!」
 と演技するよう、かれをうながしたのだけれど、パチーノくんが汗だくになって熱演していたこの「なんじゃ、こりゃあ」は、どうもあの『太陽にほえろ!』から着想を得た(?)らしく、
「映画のスローガンは『子どもたちよ、太陽にあびろ! そして、ぶら下がれ!』だときいたんで、自分は『太陽にほえろ!』のDVDを毎日観て、予想される役柄に、自分をつくりあげていったんです、監督!」
 とパチーノくんはおなかにケチャップを付けた経緯などもあわせて、こちらに熱く説明していたのだった。
「赤がちがう」
「はっ?」
「そのケチャップの赤がちがう。明るすぎる。プロデューサー、なんとかしてくれ」
 山城さんにウインクしながらこういうと、こちらの狙いを悟ったらしいプロデューサーは、
「はい、監督」
 とわざとらしくいって、槇の間を出て行ったが、
「なんじゃ、こりゃあ!」
「もう一回」
「なんじゃ、こりゃあ!」
「ちがう」
 を五、六十回ほどくり返していると、やがて山城さんはスーパーのレジ袋をさげてもどってきて、
「いやァ、どれがいいか、わからなかったから、てきとうに買ってきましたよぉ」
 と袋から何種類ものソースを出してきた山城さんは、たとえ色がイメージに合わなくてもこういうのは日持ちしますしね、などとももぐもぐいっていたけれど、小皿に少量たらしたり味見したりしてみると、なんとなくハンバーグに合いそうな味のやつがいちばん殉教寸前の赤にちかいような気がしたので、わたくし倉間巨匠は今後はこれをおなかに塗りたくるんだ、とパチーノくんに指示し、ついでに例のニックネームのほうも、
「よし! じゃあ、きょうからおまえは『デミグラスソース』だ!」
 と定めることにしたのである。
「ええ! じ、じ、自分ッスか?」
「そうだ! きょうからおまえは、デミグラスソースだ!」
「デミグラスソース……そうか、マカロニとかジーパンとかマイコンとかプリントゴッコとか、あそこの人たちは、みんなあだ名ついてるもんな……わかりました! ありがとうございます、監督」
 撮影の日程は近々連絡する、とデミグラスソースの肩を強く抱くと、
「いえ、自分は、タクシーなんか、必要ないッス!」
 とお目目をギラギラさせた熱血刑事は全力疾走で自宅に帰ることになっていたので、先ほどまでさんざんパチーノくんに振り回されていた山城さんは、
「倉間さん、スゲェ……」
 とこれまでとはちがう感じでこちらを見ていたが、いつものペースで飲み直す趣になって、しばらくすると、
「しかし、あんなこといっちゃって、じっさいだいじょうぶなんですか?」
 という冷静な見解もプロデューサーは示してきて、たしかにこれは、みずからをさらに厳しい立場に立たせてしまったのかもしれなかった。
 デミグラスソースが通っていたアクターズ・スクールは、たとえばスクリーンには映らない下着だとかそういうものもぜんぶふくめて、
「徹底的に役になりきりなさい」
 という教育を生徒にほどこしていたみたいだから、今後のデミグラスソースはおそらくカゴメだかハインツだかのユニフォームの入手に奔走するのだろうが、仮にその作業に二、三日かかったとしても、そのあとは、あの脚力で巨匠室の襖をもぶち抜いてくる可能性が大いにあるわけで、ぼくはつくづく、
「トルコ産のもぎたてトマトを塗りたくるよう、指示すればよかったかな……」
 とも思ったけれど、様子を見に来た女将とまたぞろあっち方面の冗談をいい合っているうちに、そんな気分もどこかにふき飛んでいて、で、気がつくと、きちんと寝間着に着替えて自室で寝ていることになっていた。
 風呂に入ったあと、山城さんに電話をかけると、
「えっ! あのあと、中村さんとか佐分利さんとかと、いっしょに飲んだじゃないですか? それもおぼえてないんですか?」
 と山城さんはわらっていたが、
「笠さんが一杯機嫌で得意のマサツラを朗吟した? うーん……なんとなく、そんな気もするな……」
「『百年のまばたき』、ガボガボ飲んでましたもんねぇ」
「ああ、そうですか……」
 ということはとくにめずらしい出来事でもなくて、この酒を飲みすぎると、ぼくはたいていこんなふうに時空を超えて(?)しまうのである。
 スマイリイ・オハラ研究の第一人者である三原民吾氏によると、ぼくのこの体質も、スマイリイの著作に予言されてあるらしかったが、いくらスマイリイでもよもやぼくのことまで暗号化していないだろうし、それを発見した民吾さんの解読も、
「く、ら、ま、で三文字でしょ。で、ほら、三十三ページに『酒』と『記憶』と『失』がきちんと三つずつある。たしかに『酒』のひとつは『鮭』という漢字ですけど、でもこれは、スマイリイがよくやる、いたずらですからね」
 という感じのものだったので、さすがにぼくもこの発見には、それまでのようなすばやい反応は示さなかった。
 すばやい反応といえば、こんなふうに二日酔いぎみでいると、お隣のさおりさんは毎回すばやくぼくの面倒をみてくれることになっていて、ちなみにこのご好意を何回か受けると、なぜか手渡しで毎月入れてくるお家賃のほうは事実上相殺になってしまうのだけれど、たしか四十五か六になるさおりさんは、すくなくともこちらのアパートに住みだした二〇〇〇年ごろにはすでに亡くなったご主人の喪に服しておられて、それは十年以上経った現在でもずっと継続されている。
「お加減はいかがですか」
 とこちらにあがってきたきょうのさおりさんもやはり喪服をお召しになっていて、以前うかがった話だとちょっとアンパンマンみたいにもみえる喪服の家紋は、
「主人の名誉のために、わたしがでっち上げたんです。妻ですから」
 ということだったけれど、飲みすぎた翌日のお昼はかならず流しそうめんをつくってくれるさおりさんは今回もそのセットを持参してきてくれていて、なんでもそれは、
「主人も『二日酔いにはこれがいちばんだ。さおり、おまえはよく気がつく小股の切れ上がったいい女だな』と、生前いっておりました」
 という思い出があって、そうしているらしい。
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