第9話

文字数 3,323文字


      その九

 そのすみれクンは、
「ごめんくださーい。ごめんなさい」
 と翌日、風呂敷包みをもってまたぞろたずねてきたので、どうぞどうぞとあがってもらったぼくは、
「ゆうべ宴会ホールで飲んでたんだよ」
 とお茶を淹れながら律儀に報告したのだけれど、第二部の劇に出演していなかったきのうのすみれクンはやはり昼間の舞台のみのいわゆる早番だったみたいで、
「だから夜は、これの準備をしてたんです」
 とすみれクンは風呂敷に包まれていた重箱をコタツテーブルのうえに慎重に置くのだった。
「いやァ、またいただいちゃって……きょうはなんだろ」
「お赤飯です」
「ええ! お赤飯!」
 常日頃、
「まだ男を知らないんです」
 とわれわれに明言しているすみれクンがいきなり赤飯をこしらえてきたので、妹がらみのかつての経験で赤飯のひどく入り組んだ意味を知っているこんにちのぼくは、
「じゃじゃじゃ、とうとう、あのう、男を、あれかい?」
 とつい早合点してしまったのだが、こしらえたいきさつをきいてみると、どうやらただ単に炊き込みご飯練習の一環として、たまたま赤飯をつくっただけらしくて、
「あした教室で、ご飯ものの発表会があるんです」
 とすみれクンは、ぼくの質問に「いいえ。現在も知らないままです」とこたえたのちにつけ加えていた。
 ヴァボリー夫人のお料理教室うんぬんでわれわれに相談してきたとき、中森市長などは最初、
「タッパーとか、スポンジとか、そういうのを、売りつけられないように、じゅうぶん、注意しなくてはいけない!」
 とすみれクンに呼びかけていたが、その後、教室の世界にくわしいナルシス輝男先生に調べてもらうと、
「ヴァボリー夫人は、なにかを売りつけたり、高い授業料を取ったりすることは、いっさいないようですよ」
 とのことだったし、それに幕臣のひとりがテレビを買い換えるさい、量販店の連中に丸め込まれないようにヴァボリー夫人の旦那に同行してもらったことがあって、すくなくとも旦那のほうの人柄はオムライス本部からも保証されていたので、香港ルートや奴らのアジトまで懸念していたわれわれも、そのうち、
「うん、じゃあ、ちょっと習ってみればいいじゃん」
 とけっきょくすみれクンに許可をあたえていたのだった。
 お料理の講習はこの界隈にある〈天動学園〉という私立の小学校の家庭科室でいつもおこなわれているらしく、だからたとえ発表会であっても、酒類だけは固く禁じられているようだったが、酒好きのぼくにたいし、
「そういうわけなんで、飲みながらっていうわけにはいかないんですけど……」
 と恐縮していたすみれクンは要はその発表会にだれか来てほしいみたいで、むちむちしたからだをもじもじさせながら、
「みんな、旦那さんとか、彼氏さんとかを、呼ぶんですけど――わたし、弟とかもいなくて、きょうだいはお姉ちゃんが二人いるだけだし……」
 と前置きすると、ぼく自身の生活に比較的時間の余裕があることを、まだ若いゆえに大胆に指摘していた。
「ふーん、試食するだけでいいのか――なんだか、ありがたい役目だな」
 お酒が好きといっても昼間に飲むのはむしろ嫌いなので、先のように気にしていたすみれクンにはその習性もいちおう告げておいたのだがところで、旦那と別居していま実家に帰ってきているすみれクンのお姉ちゃんはここのところ昼間から酒を飲んでは家族にからんでいるらしく、
「お酒を飲んでないときでも、すごくキイキイしてて『ジュニぶら』に掛けてあるわたしの服を、いきなり放り投げちゃったりしてるんです」
 とすみれクンはお姉ちゃんの投法を真似つつ訴えていた。
 そういえば妹も、あれは何年前だったか、嫁ぎ先の油小路家全域に啖呵を切って実家にもどってきたことがあったけれど、ナマハゲだかカッパだかにお尻を甘噛みさせるのを拒否したらグズ嫁あつかいされたうんぬんというその確執の元となった風習は、どうもよくうかがってみると、その地域にとっては豊作不作を左右するもっともたいせつな伝統行事の一つとのことだったので、新種のにんにくをもって復権した旧家の気持ちを考慮してあげることにした倉間家は、あちらとの縁を結んでくれた藤原かおるさんになかに入ってもらって、その後どうにか「京子の噛み噛みの乱」問題に折り合いをおかげさまでつけることができて、しかしすみれクンのお姉ちゃんの場合は旦那との不仲が原因で現在キイキイになっておられるのだから、そのような体験のあるこのぼくをもってしてもなかなか解決策を見出せなくて、策を思いつくまでのあいだ、
「で、現在はキイキ、キイキイなのかい? それともキキイキ、キイキイなのかい?」
 とだからぼくはすみれクンにキイキイ方面の確認を取っていたのだけれど、キイキ、キキキキの実演もしていたすみれクンはとくにそちらの解決を望んでいるわけではなく、これにかこつけて実家を出たいとじつはかんがえているようで、一時間ほどここで遊んでいたすみれクンは、
「真上の二階の部屋は? ああ、もう入っちゃったんですか……倉間さんのところのアパート、どこか空いたら、わたしに安く貸してくださいね。じゃあ、いってきまーす」
 とやがて遅番の舞台に出るために〈三途の川〉へ向かって行ったのだった。
 まえにもいったかもしれないが「藤原かおるさん」というのは、つぐみさんの実のお姉さんで、兄貴と同い年のつぐみさんとはたしか二つちがいだったから、かおるさんも今年四十一くらいになるはずだけれど、妹のときも、
「一時、没落しかけた旧家だけど、まだまだ財産はあるし、それにいまのお祖父さんも息子も金銭的にはとっても堅い人だから、クルミニンニクで儲けたお金もしっかり貯蓄してるわよ」
 と奔走してくれたが、かおるさんはこのほかにも数えきれないほどの縁組を世話していて、名前は出せないが対立する二大旧家間の縁組という偉業を成し遂げたときなどは、
「うちのほうもひとつ……」
 と内乱中の五大名家から米俵や酒樽を連日いただいたという。
 天性の冷飯愛好家といわれているこのぼくにたいしてすらも、
「哲山くん、あなたも三十六になるんだから、いつまでものらくらしてないで、そろそろお嫁さんもらったら? こういう色の白い子がいいんでしょ。ほら」
 などと会うたびに縁談をもちかけてきて、たしかにその色の白い子は、かおるさんが推奨する子だけあって、こちらの心のエロエロな面およびスケベ魂の深層部に、
「んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん、まいったな……」
 としみこんでくるような娘さんだったけれども、後日談をつぐみさん経由できいてみると、どうもその色の白い子は、千葉のほうでボウリング場だとかを複数経営している土地成り金の家にかたづいてしまったみたいで、
「ちょっと、もったいなかったんじゃない、哲山くん」
 と義姉にいわれて、そのときはおもわずコクリとうなずいてしまったわけだが、こんにちのぼくには和貴子さんという、もうキャンディーズとか天地小巻ちゃん級の女神があるので、この色の白い子もそれから秋田に買い付けに行ったさいにお話したつるつるお肌のあの後家さんも、心のエロエロな面周辺にわずかに留まっているにすぎないのである。
 翌日お料理教室の発表会に出向くと、先の中枢を四十前後の松尾嘉代以上に刺激してくる女性がすみれクンと同テーブルだったので、もしかしたら和貴子さんにたいする想いも拳をあんなに強くにぎるほど確固としたものではないのかもしれなかったが、みんなに「ダイアンさん」と呼ばれていたこの女性がつくっていたご飯ものは、キャンディーズチャーハンと名付けられていて、
「キャンディーズチャーハンの『キャンディーズ』っていうのは、やっぱりあの、ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃんの――」
 とぼくが見た目はただのチャーハンだったので、面食らってこうたずねてみると、
「ええ。あのお三方にちなんだ材料が、じつはしっかり入ってるんです」
 とダイアンさんは、ぼくとおなじように『春一番』の例のひじ鉄を首をかわいくかしげながら決めてきた。
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