第32話

文字数 2,710文字


      その三十二

 男の子の家は〈やきとり二郎〉という居酒屋をやっていたので、最初はてきとうにうろうろしていれば、家はみつけられるだろうと軽くかんがえていたのだけれど、飲み屋街は想像以上に道がせまくかつ入り組んでいて、だから、
「なんだぁ! 哲ちゃん、〈やきとり二郎〉も知らないの。世間知らずだなぁ。おれの行きつけの店のひとつだよ」
 と同級生のシッくんにばったり会わなかったら、ぼくは男の子の家にたどり着けなかったかもしれない。
 カウンターでやきとりを焼いていた旦那に、
「あの、わたくし、祖父の晩年の誇大妄想を引き継いで古書店をやっております、倉間というものなんですが――」
 と名乗ると、奥にいたお母さんは、
「ああ、すみません。ちょっと待っててくださいね」
 と階段の下から、
「タツヤ、タツヤ!」
 と男の子をすぐ呼んでくれたのだが、タッタッタッタッと勢いよく階下におりてきた男の子に、
「よく店に来てくれてたみたいだから――」
 とおはようキッカーズの九巻を手わたしたのちに、
「ウチはね、ほんとうはマンガはあつかってないんだよ。だから今度からはね」
 うんぬんと正木くんの店を紹介すると、お母さんも、
「ああ、そうだったんですか。それじゃあ、ずっと、めんどうを、かけてしまってたんですねぇ」
 とある程度、本を無料にした理由を悟ってくれたみたいで、それで、
「『ジェーン・アッシャーによく似たおかみさんがいる店はどこですか?』ってきけば、すぐあのあたりを歩いている人たちは、教えてくれますから」
 とさっき電話で豪語していたお母さんにたいしても、はじめて遭遇した二十歳のときにはあたまのなかで除夜の鐘が鳴った生ビールの定番ポスターにたいしても、期待していたほどにはグッとこなかったので、ぼくは、
「それじゃあ、わたしはこれで」
 と早々にお暇しようとしたのだけれど、事の成り行きをキョトンとした顔で見守っていたシッくんに、
「なんだ、飲まないの? たまにはちょっと飲もうよ」
 と誘ってもらってもいたし、ビールジョッキを持っているクレオパトラに扮したハイレグ美女のとなりには沼口隊長のサイン色紙と写真もなにげに飾られてあったので、
「えっ、シッくん、ホッピーが好きなの? じゃあ、おれも飲んでみようかなぁ……」
 とぼくは座敷にあがって、シッくんと飲むことにした。
 小、中といっしょに野球をやっていたシッくんは、
「最近、野球とか、ソフトボールとかは、やってないの?」
 と「とりあえずホッピー」とおかみさんにたのんだのちにきいてきたけれど、
「うん。運動はランニングだけしかやってないよ」
 とこたえたぼくは、カワを一本食べたのちに、
「シッくんは、野球やってんの? あのセンターへの大飛球を、一直線にバックしてキャッチしたプレー、すごかったよなぁ」
 とたずねることになって、するとシッくんは、カワばかりむしゃむしゃやっているぼくにレバーも食べなと注意をあたえつつ、
「うん。おれいま、Kの森リトルオカピズのコーチやってるんだよ」
 とうまそうにホッピーを飲んでいたのだけれど、
「オニオニ元気?」
 と先にもすこしあげた、こわかった監督の近況をうかがうと、そのオニオニは、
「おおシゲ、やっぱりいたか!」
 とこの店ののれんを、ちょうどくぐって来ることになっていたので、いつのまにかぼくはそのオニオニ監督に、少年野球時代のようにピッチングの指導を受けることになってしまった。
「おかみさん。おれたち庭行くから、ねぎま焼けたら、持ってきてね」
「はーい」
〈やきとり二郎〉とほかの店の高い壁と壁のあいだには、建売一軒分くらいの空き地があって、そこにはビニール製の自転車の車庫やサッポロ黒ラベルのビールケースや土になりつつある二種類のカーペットや空気のぬけたサッカーボールなんかも端のほうに転がっていたのだけれど、九月の後半になってくるとさすがに夜はちょっと肌寒いが、夏は野外で飲みたがる客もあるのか、キャンプ用だかバーベキュー用だかの小さな椅子やテーブルもいちおう用意されてあって、その小さな椅子のひとつにすわったオニオニは、
「よし、シャドーピッチングが苦手だったら、そこのカラーボールをにぎってでもいいから、とにかく投げてみろ!」
 とぼくに命じてきた。
「じゃあ、カラーボールでやります」
「はい、哲ちゃん」
「ありがとう。シッくん」
 オニオニのピッチング理論は極端といえば極端で、右利きだろうが、左利きだろうが、とにかく水島新司の漫画『ドカベン』の「岩鬼」を真似て投げるよう、指導してくるのだけれど、ご存じのようにピッチャーとしての岩鬼は、球は速いがコントロールはめちゃくちゃ悪いということになっているので、ときどき暴投でも投げないと、オニオニも岩鬼のように投げているとなかなか認めてくれなくて、だから当時の少年たちは、
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 だとかと吠えながらとんでもない方向にボールを投げて、このマン・ツー・マン指導から逃れていたわけだが、いくら、
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 と当時以上に吠えても、やはり悪球を放らないとベテラン指導者オニオニでもそのフォームが岩鬼だといまだ判定しきれないみたいで、そんなわけでぼくは、カラーボールを三塁側ベンチに相当する自転車の車庫あたりに投げ込むことによって、
「よし! いまのフォームをわすれるなよ、哲」
 とこの鬼指導からおかげさまで解放されたのである。
 カラーボールを拾いにいくと、車庫のなかでは沼口探険隊の人たちが懐中電灯で互いの顔を照らしたりしながら弱々しくやきとりを食べていて、カラーボールに気がついた隊員のひとりが、
「隊長、リンゴ、みつけましたよ」
 とそれを差し出すと、隊長は、
「バカヤロー! それは毒リンゴだ!」
 と隊員の手をぴしゃりと叩いていたけれど、
「すぐ手を洗え!」
 と隊長にいわれて、水筒の水で手を軽く洗ってしまうと、また隊員たちはしょんぼりうつむいて梅干しハイなどをチビチビ飲んだりしていて、串の中心付近にある焼き印をみて、
「あっ、当たりだ」
 と一瞬表情を明るくしていた沼口隊長も、おかみさんにその当たり串とつくねを交換してもらって、もぐもぐ食べながら車庫にもどってくると、
「このままじゃ、いけない……」
 とふたたび暗い表情で懐中電灯を点けたり消したりしていた。
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