第26話

文字数 3,742文字


      その二十六

 あらゆる修羅場をくぐっている守重内府でも本妻から口紅のついたワイシャツを意表をつかれたタイミングでみせられると、
「うっ!」
 と一瞬顔に出てしまうというし、発音のいい例の幕臣に、中森明菜さんの曲で、
「♪ ゲラ、ゲラ、ゲラ、ゲラ、バニラ~」
 とうたのほうの発音のよさを披露したときも、
「うっ!」
 とその威嚇に一瞬負けたという表情をたしかにみせていた。
 だからわれわれは男の事務員さんを子ども用タンスを保管してある母屋にまず招き、意表をつくかたちで、
「これに見覚えはないかな?」
 とブツをみせてかれに揺さぶりをかけることにしたのだけれど、名目上はあくまでも吉野さんのディナーショーだったので、アパートの住民なんかも一種のサクラとして、てきとうに呼んでいて、このカムフラージュは、
「こんなに大勢のファンが来てくれるなんて。わたし、なんだか二時間程度の歌謡ショーでは、申し訳ないような気がしてきました」
 と吉野さんのお目目をもうるうるさせるほどの効果があった。
 上座に用意したタンスは吉野さんの例の長い長いウェディングドレスのすそで隠すことにして、といってもディナーショーの最中お招きした客はほとんど長テーブルに出した料理や酒に集中していたので、仮にタオルケットなんかで雑に隠しておいても、とくに警戒されることもなかっただろうけれど、疑いは晴れたとすっかり思い込んでいる男の事務員さんは、となりにすわっていた山城さんにだけでなく、斜向かいのさおりさんにまで、いま交際している性格のわるそうな女性の写真をみせていたから案の定、
「わたしの主人もよく同僚にわたしの写真を自慢げにみせていたようです。そして同僚の方もわたしのことを『小股の切れ上がったいい奥さんですなぁ』とほめていました」
 とさおりさんにつかまっていて、この様子をみていたつぐみさんも、
「あの事務員さん、ホントにガードが甘いのね」
 とわらいをこらえながら、耳打ちしてきていた。
 普段は地味にしているが、白いマイクをまえにするとがらりと人が変わる吉野さんは、このたびも、
「そして舞子は、広い空に羽ばたくことになったのです!」
 とひとりで悦に入っていたわけだが、今回のディナーショーはアンコールのさいにあのウェディングドレスを脱いで、セーラー服に着替えるという演出だったので、最後の曲を終えると吉野さんは控え室あつかいにしてある古書店まですそを引きずりながらいったんさがっていくことになって、すそがスルスルスルスルすこしずつ引っ張られていくのを横目で確認しながら、ぼくたちは男の事務員さんの表情が変わる瞬間を見逃すまいと、十手片手に鬼の形相でいつしかかれを凝視していたのだけれど、最後のすそがするりと落ちて、ゴレンジャーのシールがバランスおかまいなしに貼られてある子ども用タンスがいよいよ眼前にあらわれると、男の事務員さんではなく、本橋夫妻が、
「あっ!」
 と衝撃を受けていて、本橋夫妻は例によってお互いのお尻を激しくさすり合いながら、上座のタンスに一歩一歩ちかづいてくるのだった。
「うん、やっぱりそうだ! お真亜姫。これは、ぼくのたいせつなタンスだよ!」
「ほんと? パピパピ。もっとよく確認してみて」
「わかったよ、お真亜姫。心配なんだね。よし、消しカスもある! うん、ちびちび鉛筆が詰め込まれてあるブリキ缶もある! うんうん! 凡庸パンチもある! まちがいない! これは宝箱だ! ぼくの宝箱だ!」
「パピパピ。わたしのせいで、わたしのせいでぇぇぇ!」
「いいんだよ、お真亜姫。あの荷降ろしは当然さ」
「おこってないの? パピパピ」
「ああ、一瞬たりとも、おこったことはないよ、お真亜姫」
「やーん、パピパピ」
「お真亜姫、愛しているよ」
「パピパピ。わたしもよ」
「お真亜姫」
「パピパピ」
「お真亜姫」
「パピパピィィィ」
 より激しくお尻をさわり合っていた本橋夫妻に、
「このタンスは、畑に不法投棄されてあったんですけど――」
 と事情をたずねると、夫妻はお互いをかばい合いながらこうなってしまった経緯を、
「お真亜姫」
「パピパピ」
 と要所要所で粘着質の接吻もはさんで説明してくれたのだけれど、それによると、なんでも二ヶ月ほどまえにウチのアパートに引っ越してきた本橋夫妻は、小型トラックで荷物を運んでいる道すがらで、
「そろそろお昼だね。お真亜姫がつくってくれたおいしいお弁当を、あのへんの畑にブルーシートでも敷いて食べようよ!」
「うん、パピパピ」
 となって、たまたま目についた英光ご老公の畑でピクニック気分で昼食をとることにしたらしいのだが、お真亜姫がつくったお弁当はトラックの荷台にいちばん最初にうっかり積んでしまっていたので、お真亜姫の愛情のこもったお弁当を食べるには、いったん荷物をぜんぶ降ろさなければならなかったようで、しかし、とうぜんパピパピはこんな感じなのだから、
「きみがせっかくつくってくれたんだ。こんなものは、また積み直せばいい」
 と荷物をあらかた降ろして、お弁当を取り出し、
「あーんして、パピパピ」
「あーん――うん、とってもおいしいよ、お真亜姫」
「やーん、ご飯粒つけてるパピパピィ」
 と宣言通りにシートを敷いてお弁当を味わったみたいなのだけれど、ふたたび荷物を積み込むときには疲労困憊していたり臀部もさわらなければならなかったりで、たしょう注意力が散漫になっていたのか、パピパピは長年宝箱としてもちいてきたこの子ども用タンスだけ積みわすれて、そのままトラックを発車させてしまったらしいのだ……。
「このような機会をあたえてくれた倉間さんのために、ふたたび舞子は羽ばたいてきました。アンコールはその倉間さんの好きな曲、天地小巻ちゃんの『オレンジ色の旅』をうたいま、あれ? 倉間さん、お口をあんぐりさせて、どうしたんですか? 倉間さん? 倉間さん? わたしのセーラー服にシビれて、放心状態になっちゃってるのかも……」


 翌々日われわれとともに英光邸にお詫びに行った本橋夫妻は、
「ああ、わかった、わかった。もういいから、そろそろお暇してくれ。な、たのむよ」
 とご老公にいわれるほど、お互いをかばい合いながら、くり返し謝罪していたが、事前に告げた捜査の最終報告をきいた時点でも英光ご老公は、
「あっ、はっ、はっ、はっ、はぁ」
 とかなり機嫌がよかったので、
「いちおう土下座だけはしてください。でもだいじょうぶですよ。ぼくの知り合いなんか、四十七歳のよその奥さんに、ノーパンにかんすることで本気で土下座してるんですから」
 とわざわざパピパピを励ます必要もなかったのかもしれない。
 このように問題が解決した三日後に英光ご老公から直接電話がかかってきたのは、だから「やっぱりシベリア送りだ!」とかそういうことではなく、ぼくのほうが個人的に、
「じゃあ、そのときは、ひと声かけてください」
 とお願いしていたからで、黒土と赤土がぽつんぽつんと山になっている古い耕運機がそのままの畑で落ち合ったぼくとご老公は、
「油かけると、よく燃えるだろう、倉間さん」
「そうですねぇ」
 とそれぞれ持参してきたものを景気よく燃やすことになっていたのだけれど、竹の棒で火のめんどうをみていたご老公は、ポケットから取り出したミニタオルで汗を拭いていたぼくに、
「しかし倉間さん、あなた、いい人だな」
 とぽつりといってきて、
「なんですか、ご老公、急に」
 とこたえると、ご老公は、
「だって、あんなつまらん事務員のこと、損を承知で味方してあげてたじゃないか」
 と〈カズマサ・コウノ〉の高級ステテコを火のなかに放り込んでいた。
「このワシの弱みを突ついてまでして、かばってやるほどの男でもないだろ」
「たしかによくかんがえると、そうですね……魔が差したんだな」
「やさしいんだな、あなたは。しかしなぁ倉間さん。やさしいだけじゃ、世の中渡っていけないぞ。ワシはもう八十になるが、お栄はいくつだと思う?」
「おいくつなんですか? なんかやたら艶っぽいけど」
「五十だよ。まだ五十。八十になっても、まだそういう女と乳繰り合えるのは、この英光が世間を渡り歩く術を心得てるからじゃ」
「はあ」
「倉間さんにも、これから徐々に教えてやるからな」
「ぜひお願いします」
「ところで話は変わるが、あなたが最近ナニしてるという娘さんはなんという名前だったっけ?」
「和貴子さんですか?」
「うん、そうそう、和貴子さん。あなたはとってもいい人だからね、英光、ぜったいその和貴子さんに、あなたがふりふりのパンツや黒のすごい角度のパンツを燃してたと、告げ口しない、よ! あっ、はっ、はっ、はっ、はぁ」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待ってくださいよ、ご老公! このまえ説明したじゃないですか、名前はいえないけど、ある夫人から証明書も、もらったって」
「これで、五分五分じゃな、倉間さん! 告げ口しない、よ! あっ、はっ、はっ、はっ、はぁ」
「ねえ、ご老公、お互い秘密は守り合いましょうね守り合いましょうね――どうせ弱みをにぎられているのだから、この純白のパンツとこっちの水色のはき込んでるやつはポッケにしまっとこ……」


    (第二部 了)
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