第16話

文字数 3,630文字


      その十六

 京子の旦那の聡さんは小さいころから近所の〈小川軒〉という理髪店で散髪をしてきたらしいのだが、そこのオヤジさんが軽度の脳梗塞を理由に昨年いっぱいで店を閉めてしまったことから聡さんは、
「駅前の〈バーバー山口〉もけっこう流行ってるんだけど、駐車場が一台分しかないんだよな……」
 などとあれこれ悩みながら、ここ数ヶ月〈小川軒〉に匹敵する理髪店を探し歩いていたのだそうで、それでけっきょく先の〈バーバー山口〉とは、
「いつものクセで黙ってすわってたら、勝手にこんな髪型にされちゃったよ」
 とイマイチかみ合わなくて、聡さんは隣町にまで探求する範囲をひろげたみたいなのだけれど、その界隈でたいへん評判がよかった〈理髪店いさり火〉に入って、
「おっ、やっぱりお客さんがいっぱい来てるな」
 と待合室の三段カラーボックスをてきとうに物色してみると、
「週刊誌とか漫画本とかも混じってたから、パパもすぐにはわからなかったみたいなんだけど、とにかくスマイリイの対談集が十二巻もきれいにならんでたんだって」
 ということに、どうもなっていたらしいのだ。
 聡さんは〈理髪店いさり火〉で〈バーバー山口〉のそれよりも、さらにハードなモヒカンカットにされたとのことだったので、おそらくもう、その店にも二度と行かないのだろうが、スマイリイの対談集をゆずってもらえるのであれば、ぼくはモヒカンにも激熱の蒸しタオルにも耐え忍ぶ所存でいて、
「たぶん、すぐには売ってくれないだろうから、とりあえず、今晩は油小路の家に泊めさせてもらうよ」
 とわれわれのあいだでいう“キャンプ”の段取りを事前にしておいたのも、つまりはそれだけ大一番とにらんでいる、ということなのである。
 T県の油小路家まではのんびり行ってもクルマで二時間くらいなので、ぼくは昼食をとってから出発することにしたのだが、電話の最後に、
「相場はいくらくらいなの?」
 ときいてきた京子は、ぼくがカセットに録音した間宮貴子の『LOVETRIP』を、
「なんてすばらしいアルバムなんだ」
 と鑑賞しながらあちらに向かっている最中にもう理髪店サイドと交渉してくれていたようで、三時過ぎに油小路屋敷の端っこに軽トラを停めると、
「お兄ちゃん、五千円で十二冊売ってくれるって」
 とすぐ助手席に乗り込んできたのだった。
「一冊五千円じゃなくてか?」
「うん。十二冊ぜんぶ」
〈理髪店いさり火〉まで、
「あっ、つぎの信号、右ね」
 と案内してくれた京子の話はやっぱりほんとうで、理髪店の奥さんは、
「これ、じつは、娘が通ってた幼稚園のバザーで、十二冊、六百円で、買ったんです」
 と逆に恐縮していたくらいだったが、本を確認したぼくは、一万円札を奥さんの手ににぎらせると、
「おつりはいいですよ」
 とまるで先代のようにきっぷのよさを前面に出していて、ちなみにこのきっぷのよさは交渉相手が富士額の女性だった場合のみ、発動するのである。
 油小路屋敷にもどると、聡さんも聡さんの親父さんも仕事から帰ってきていて、息子は下戸なのでいつもひとりで飲んでいる親父さんはぼくをみるとすぐ、
「もう、哲さんの好きな地酒、用意してあるからな」
 ともいっていたわけだが、この後、風呂に入ったのちにはじめることになった晩酌の席で親父さんはやはり例の伝統行事の話を、
「今年失敗すると三年連続だから、まちがいなく、クルミニンニクが不作になってしまうよ……」
 ともち出していて、なんでも昨年の「太巻き祭り」でも聡さんと京子が油小路家代表として出場して、やはりそのまえの年のように双方からむしゃむしゃ食べていく「シーチキン巻き合戦」にふたりは失敗したらしい。
「哲さんは熱いのが好きなんだろ? おい、ばあさん、もうちょっと、こっちの熱くつけろよ」
「あっ、梅子お母さん、これでいいですよ」
「なあ、哲さんよ、なんかいい方法ないかい?」
「シーチキンは大好物のひとつなんですよ――でも夫婦じゃなくちゃ、ダメなんでしょ?」
「そうなんだよ。長老会もかんぴょう巻きをシーチキン巻きに変えるのは承諾したんだけど、この夫婦限定っていう伝統は譲らなかったんだ」
「デミグラスソースも独身だしな……」
 二ヶ月ほどまえに、ぼくが住んでいる部屋のちょうど真上の「二〇一」に引っ越してきた本橋夫妻は、たしかふたりとも四十四だかそれくらいのはずなのに、まるで二十歳前後のカップルのように日夜ベタベタしている。
 お隣のさおりさんは大型ショッピングモール〈がぶりえる、がぶりえる!〉で本橋夫妻が試食販売されていたビーフジャーキーだかポテロングだかを両サイドからふたりでもぐもぐ食べていたのを目撃したらしく、
「――最後まで食べおわると、試食おじさんが至近距離でじろじろ観ているにもかかわらず、ふたりは粘着質な接吻もおこなっているのです。主人も生前、ウイスキーのおつまみに、よくポッキーを食べていて、お煙草のようにそれをくわえたまま『さおり、食べろ』って、求めてきましたけど、そんなときも宅はチョコのついてないほうをいつもご自分でくわえていらして、食べる割合も七対三でわたしに多く食べさせてくれました」
 と自分がご主人に溺愛されていたことを小出しにしながらこの話もしていたけれど、ビーフジャーキーこそ食べていなかったが、姪の智美にせがまれて近所の釣りぼり屋に行ったときも、たしかにこの夫妻はお互いの腰だかお尻だかを激しくさすり合いながら一本の竿を協力してかまえていて、お魚が食い付くのを待っているあいだは双方は双方の唇に猛烈に食らい付いていた。
 本橋夫妻の電話番号は携帯に登録していなかったので、この夜はとりあえず、さおりさんに言伝てをおねがいしておいたのだが、翌朝、
「もしもし、あっ、おはようございます」
 と電話をかけてきてくれたさおりさんは、
「本橋さんのご夫妻、あしたなら、ちょうどお休みで、だいじょうぶだそうです。シーチキン巻きを食べおえたら、そのまま粘着質な接吻に移行してもいいんですかって心配してましたけど、長老会はそのあたり、許可してくれるのでしょうか?」
 とすでに本橋夫妻から了解をとってくれていて、迎えに行く時間等を決めようとすると、それも「当日、始発の電車で、若いカップルのようにベタベタしながらこちらに来る」と話をつけてあったのだった。
 さおりさんにたいする感謝の意味も込めて、小股の切れ上がり具合を大げさにほめていたこの朝のぼくは、
「時間あったら、さおりさんもぜひ来てくださいよ、いやァ、しかし、切れ上がってるな切れ上がってるなぁ」
 とも勢いあまって、いってしまっていたのだけれど、さおりさんはなんでもあしたの午後は、故人との交わりがあるということらしくて、
「せっかくのお誘いなんですが……」
 と祭りの見学は意外にもあっさり辞退していた。
 今年三歳になる妹夫婦の一人息子は、きのうあげたクロスフィーバーズのおもちゃに早くも飽きていて、
「かっこいいだろ、エイ! バーディー!」
 とほんらいは備わっていない“バーディー”の機能もねつ造して無理に遊ばせようとすると、
「かっこよく、ない」
 とそのおもちゃを向こうの八畳に放り投げていたが、K市では大人気のこの戦隊ヒーローもこちらではまったく放送されていないのだから、甥の反応もまあ当然といえば当然で、そういえば吉野さんも姉は野田市に住んでいるので姪にクロスイエローの人形を手わたしてもただ呆然としていたうんぬんとこのあいだいっていた。
 太巻き祭り当日、油小路家ならびにそのほかの見物人がしばし呆然となっていたのは、ぼくが祭りよりも祭りを見物されているご婦人たちに関心をもちまくっていたからではなく、本橋夫妻が大会記録を大きく上回るタイムでおそろしく長いシーチキン巻きを食べていたからで、
「前日から断食してたのが、やっぱりよかったんですかね?」
 と聡さんが屋敷にもどったのちにきくと、
「それもあるかもしれませんが、わたくしたちは、ただひたすらお互いの唇を欲していたのです。ね、お真亜姫」
「やーん、パピパピ」
 と案の定本橋夫妻はより激しく互いの臀部をさすり合っていたのだけれど、最後の最後まで不作問題を案じていた親父さんは、
「もうすぐ合戦がはじまるというのに、あんなにネチネチ抱き合ってて、なんというバカ奴らなんだ! 哲さんよ、ホントにだいじょうぶなのかい、あれで」
 といっていたくせに、
「いやぁ、ありがと! おれは、おふたりが乳繰り合ってるのを見てて、あっ、これならば、ぜったい勝つと思ってた! クルミニンニク、たくさんそっちに送ってやっからな!」
 とけっきょくいちばんはしゃいでいることになっていて、ぼくよりも早いペースで酒を飲んでいた親父さんは、
「ばあさん、ほら」
 とパピパピのように古女房のお尻を撫でて、口紅をぬって再度あらわれた梅子お母さん以外のみんなを大いにわらわせていた。
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